ハングル工房 綾瀬 - 僕の朝鮮文学ノート 9812

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981209-1: 風刺文学論 − 「風刺」という言葉

まず「風刺」という言葉それ自体を語りたい。
この言葉には「一般的に」誤解がある。漢字の「意味」から類推すると「風の中に流れる」ような「ちくり」とした言い方や、多少辛辣な表現、そういう表現を取る文学(その他)作品のことだと、まあ受け取れる。

もちろん、日本語という「直接表現をきらう文化」の中では、多少「辛辣」というだけで相当な衝撃力があるし、世間での皮肉や差別の表現自体が 必ずそういう陰湿な形態を取る。いわゆる政治への風刺、現代社会への風刺というのは その裏返しであって、新聞政治欄の風刺マンガとか、かつての4コマ・マンガや投書欄の川柳が、この(悪く言えば)陰湿な「風刺」に属するけれど。こういう「風刺」には、ある種の悲しさがある; もの言えばくちびる寒くなる日本語文化の中で、直接もの言えぬ「庶民」の、「せめてもの慰め」という面を持つ、極めて湿度の高いユーモア、悲しさ。

このサイトの読者は日本以外の文化に関心のある人だと、僕は事前に決めてある。それも その世界は朝鮮・韓国なので、読者の多くは金芝河の名前くらいは知っているだろうと想定している。
その読者は、不思議に思ったことはないだろうか? − 金芝河の『五賊』は、日本で言う「風刺」作品なのだろうか? 「もの言えぬ庶民の悲しいなぐさめ」程度のものだろうか?

イギリスの有名な作品で『ガリバー旅行記』というフィクションがある。作者はスウィフト。日本では子供の童話になっているので、たいていの日本人は絵本で作品を知っている。これを本当に「童話」だと思っている方には申し訳ないが、これは(元は)童話ではなく、しいて言えば寓話かSFと呼ぶほうが正確だと思う。
例えば、「寓話」である『イソップ』が日本では「童話」に化けていることや、かなり残酷な話が多かった初期の『グリム童話集』が、時代を下るにつれて甘い幼稚なお伽噺集に化けてしまったことなどとよく似た現象なのだが、少なくとも日本ではガリバーは「童話」になった(なお、こういう変形を、比較文学では「創造的裏切り」と呼び、それが必ずしも悪いことであるとは限らない。似たような話で、金素月の「七五調」の日本からの「影響」問題をちょっと書いたので、よろしければ こちら をどうぞ)。

『ガリバー旅行記』は、原作は童話ではない。百歩ゆずってもそれはSFであり滑稽話であり、ドンキホーテ的に本気で「現代」イギリス王朝に対して、ちょうど金芝河の『五賊』のように挑戦する作品である。極端な言い方をつい今 思いついたばかりだが、金芝河の『五賊』の基本モチーフ(の少なくとも一部)は『ガリバー旅行記』にあるのではないかとさえ、僕は考えてみる。
「ガリバー」に深入りするのはやめよう。手許にある本では、中野好夫『スウィフト考』岩波新書(青版)718、第1刷は 1969年 に詳しい話がある。

「ガリバー」には深入りしないが、上の中野好夫の『スウィフト考』の最終章に「Reductio ad absurdum − 風刺文学の方法論として −」というわけのわからん題の文章がある。文学研究者の常で、中野は研究対象であるスウィフトの文体をまねしたつもりか、やはりわけのわからん議論で2ページほど費やした後に、本題を切り出す: 話題になる作品は、正確には政治文書という外形をもったスウィフトの作品、表題は中野訳で『貧乏人の子沢山がその両親たち、並に国家にとり重き負担となることを防止し、むしろ彼等をして社会のための有用物たらしめんとする愚案一つ』
原文(原題)が "A Modest Proposal to ..." ではじまるので、俗に「Modest Proposal」で通っている、政治的プロパガンダないしアジびらを装った作品である。
仕方がない。引用しよう。中野による作品要約の一部:
まずアイルランド総人口を150万人と踏み、うちほぼ20万組の夫婦は、まだ細君たちが出産能力を保っていると考えてよい。ところがこの20万組のうち、甘く踏んでまず3万組ぐらいは、産児に対する扶養能力を備えていると見ていいが、あとの17万組となると、まことに心細い。そこで、妊娠にはむろん流産もあれば早産もあり、また生まれてもすぐ死ぬ子供もあるにはあるが、それらを差引いても、まず毎年12万人ほどは、両親に扶養能力の欠けた貧困児がふえると見なければならぬ。これが現在アイルランドにとっての最大社会問題だというのである。(上掲書 p.203)
ここから水野の要約:
この乞食同然の子供たちの扶養費は国家負担であり、一方その子供の商品価値は 12才でも何ポンドにしかならない。これでは逆ザヤで、国の負担は増すばかりである。
これに代るべき愚案 Modest Proposalが1つある。生後1年ほどの子供一体は、それ自体で富裕な家庭における招待客のパーティをまかなう程度の食材となる。貧困児 何人のうち何人は種族保存に残すとして、残り何人は満1才で総額いくらの商品となる。この、1才までの養育費はいくら、その時点で販売価格はいくら、年間何体をアメリカに輸出するとしてこれこれの計算になり総額いくら、結果として貧民の救済、人口問題の解決、祖国経済の改善、国民の食生活の改善と、いいことづくめの結果が待っていると、論文はるる説明する。

背景を説明しよう。
アイルランドは、当時イギリスの植民地だった。スウィフト自身は宗主国側に生まれたが、一連の『ガリバー旅行記』など王室批判を重ねつつ、アイルランドにいた。そこで目にしたものは、植民地の悲惨な現実だった。政治文書の影のライターとして「活躍」したスウィフトの、最高傑作とも言えるのがこの Modest Proposalである。

これを、我々は「風刺」と呼ぶのだろうか? 英語では satire という。もちろん、satireがいつもこういう逆説の説法とは限らないが、この作品が究極の技法を示しているから、中野好夫もその技法をこの章の題名に掲げたわけだ。
細かいことを言えば、「アメリカ」のその時代は安定しつつあって、文学でいえば地下の黒魔術とか特殊なお料理の悪魔趣味が出てきた時代に当たる、のかもしれない。

この作品は、はじめ夏目漱石が紹介したという。中野好夫の上の文章も、漱石の後を追う形で展開される。それを「風刺」と訳したのは漱石だったのだろうか?

朝鮮近代「風刺」作家として、今でももてはやされることのある 蔡万植 chae-man-sik。この作家の作品を評する言葉として、韓国でも好んで外来語 sae-tha-i-eo [satire] が使われた時代がある。おそらく「風刺」という穏やかな漢字語では「何かちがう」という印象があったのだと思う。
金芝河には、Modest Proposal型の逆説表現はない。蔡万植には、ある; それも、実に多い。

なお、スウィフトの『ガリバー旅行記』は中野好夫のライフ・ワークの訳文で岩波文庫になっている。『A Modest Proposal to ..』は短編、別の訳者で『桶物語』だったか『奴婢訓』だったかの末尾に収録されていた。(どれも今 手許にないので、わかる方は教えてください)
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「風刺」作家たちは、一般に作家自身の心理に屈折した面がある。『ガリバー旅行記』自体、王室への激しい揶揄を投げるあたりからそれが見られ、王宮の火事を小便で消すのは、有名なスカトロジーの片鱗。巨人国では、王女の巨大な毛穴に堆積したアカに吐き気を起こし、支離滅裂なラピュタつまり飛ぶ島、「死なない人」の逆説、巨人国で「祖国」の現実を説明すればするほど「君の国はバカげた国だ」と言われて失望し、馬の国を理想化して、「祖国」に帰らずにすませようと抵抗する姿が痛ましい; そしてガリバーは激しい対人嫌悪を持って帰国した。(余談だけど、TVでやっていたイギリスの「ガリバー」の映画は、これをだいたい正確に表現していた。ただし、帰国後に狂人とみなされ、裁判劇と小人国実在の証拠が出てきて映画は終る)

この・何かしら屈折した心理は、金芝河にも蔡万植にもある。特に蔡万植の場合、彼の作品を誠実に調べようとすればするほど、その支離滅裂・皮肉と揶揄と逆説と自棄的な放言に出会って、読者は苦労させられる。金芝河の『五賊』も、それを「文学作品」として味わおうなどと考える甘い読者には、まず耐えられないだろう。
勧めないけれど、それが好きなら、あなたもどうぞ。

いずれにしても、「風刺」は「文学」の主流ではない。しかし「文学」が窒息している時代には、「風刺」がその脱出口となることもある。ただ、その「窒息した」状況を見つづけることはつらい。植民地期から解放直後までの蔡万植と、朴政権下のある時代の金芝河は、どちらも、観察者にとっても「つらい」時期にいる。そして、スウィフトという人は生涯をつらい立場ですごした人らしい。

ただし。1つだけ。
「風刺」作家のその努力を評価することと、その作家の「文学的」な成果とは別である。スウィフトは、結局「童話」作家にされてしまった。ようやく高校の教科書にまで載った蔡万植には、しかし「文学の香り高い」作品はない。金芝河については、既に書いた(こちら をどうぞ)。


981210-1: 李清俊 『西便制』

1970年代に書きはじめ、80年代にわたって書かれた中堅作家 李清俊による連作短編集。
へたに「解説」するのはヤボというもので、93年になって映画化され、それが予期しないほど成功し、原作の作家の名前も突然、日本でさえ有名になった。

映画の話題は多いのでその方面にまかせるとしても、この映画の成功は李清俊氏ご自身にとっても意外だったと思われる。
もともと、既に中堅を越えて「重鎮」になりつつあった李清俊にとって、この映画化が作家としてのキャリアにかかわるものではなかったはずだ。だから、映画の筋立てが原作と大きくちがっていても、不満はあっても放置したのだと思われる。ところが映画が予想もしない大ヒットになってから、原作者にもいろいろな問い合わせが来て難渋する。その反省として、『西便制』に続いて映画化された、同じ原作者と映画監督による『祝祭』では、原作それ自体に並行してシナリオが書かれた、つまり作家がはっきり映画に干渉できる体制になっていたようだ。

(このあたりの事情は、ソウルのミョンドンの食い物屋で、作家ご自身にインタビューしてわかったことだ。映画『西便制』の成功でアメリカでは原作の翻訳が出たのだが、その訳者との手紙のやりとりや、日本語訳では訳者の根本さんが李清俊邸を訪ね数時間に渡って質疑応答をした話とか、周辺の事情が興味深かった。李清俊氏は「なかなか来訪者に合わない」ことで有名だそうだが、このインタビューは、なんと、先生がおカネ払って 我々に食わせてくれる場となった; パソ通で数年間「朝鮮文学」を話題にしてきたことの大変なご利益、成果ではあった)

作品名をはじめて聞く方のために、「解説」しておこう:
時代は韓国が朴政権になる前か、あるいは解放後のある時期。南道パンソリの流派である「西便制」の流れを汲む乞食男が、父を失った母子家庭の畑に現れる。風の間を流れる男の唱 chang の声に、寡婦は唱和し、やがて彼女は「血まみれの肉塊」つまり主人公となる女の子を産むと同時に他界する。男は、残った少年と、生まれたばかりの少女を連れて旅に出る。流浪の旅芸人一家。後に盲目となる主人公少女と、義理の父を憎みつつ成長してゆく(小説の)話者。話者は「父」のもとを脱出するが、しかし十数年に渡って「妹」の消息を求めて歩きつづける。この経緯が5本の連作で次々に展開されてゆく。
時間的には、妹を追って歩くころは朴政権の中期にあたり、開発の進んだ田舎の姿の中に、幻想的なまでの「昔ながらの」文化状況が描写されて行く。

李清俊作品の常で、文章的には多少冗長、それも漢字語に頼らない語り口で、語学「初心者」を自称する人に「難しい、難しい、この作家だけがこんなに難しいのか」と問い詰められて困ったことがある。要するに、漢字語による天下国家社会の正義を振り回すのではない「普通の」小説作品なのだが、政治運動的な傾向をはっきり嫌うこの作家の場合、70年代に既に中堅であることも手伝って「李清俊一流の語り口調」があるのは事実だ。
言い換えれば、確かに、文章的に難しい。それは、映画の字幕でようやくあらすじが追える段階の語学では、「作品全体ほとんどの単語を辞書ひきまくる」覚悟をしないと読めないかも、しれない。

だから「原作」は難しい。一方、原作は・ある読者にとって、限りなくインスピレーションを刺激する作品だったらしい。70年代にこの作品を読み、90年代になって突然、思い出したように映画を作った監督がそうだった。作家と監督の間に面識はなかったという。ただ、1説によると ある作品の進行がうまく行かないとき、そのつなぎに作ったのがこの「西便制」なのだともいう。そして、予期せぬ大当たり。

確かに、この映画の衝撃力は、大きかったらしい。当時の韓国の様子は知らないが、この衝撃が日本にも伝わり、朝鮮・韓国フリークの間で話題になっていた。中には少女趣味と自己陶酔をフルに動員して「韓国のハン(恨)の世界」にひたる人がいた。そこまで少女趣味でなくとも、例えば外大の朝鮮語学科を卒業して一通り朝鮮語は理解し、パンソリについても知識は持っているが・特に興味をもってこなかった、そういう人が、この映画をみて「ふーん、面白いなあ、韓国のパンソリを見る(聞く)会を作りたい」と言っているのにも、出会ったりした。映画『西便制』の影響は、大きい。

ただ、「その」時期は、僕自身が「朝鮮・韓国」から多少疎遠だった時期にあたる。だから、僕は「西便制騒ぎ」を知らなかった。だから僕は、映画の原作が李清俊だと流れ聞いても、「あの」李清俊だと気がつくまで時間がかかった。原作を読んでみた印象は上の通りで、一方映画の興奮はもう通り過ぎていた。かくして、僕は映画を見ていない。

伝え聞く映画の内容、特に「男」と「少女」と「話者」の血縁関係が映画では反転していたり、「幸福な旅芸人一家」の時代があったりするらしいことに、僕には強い違和感があった。それは、ソウルでの李清俊インタビューにも反映していて、僕は、作家が映画にどのくらい不満を感じているか・さえ質問していない; ただ、その不満を前提にして、『祝祭』ではシナリオが作家の了解のもとに作られつつあることに満足したものだ。


981213-1: 宋柄洙 song-byeong-su 『残骸 jan-hae』

「朝鮮」趣味とは離れて、「飛行機」の好きな方はご存じだと思うが、第2次大戦期のアメリカの「名機」に「P-51 ムスタング」というのがある。Mustangがムスタングだったりマスタングだったりする(自動車の名車は「マスタング」らしい)のは深入りしないけど、この戦闘機は「ゼロ戦」の好敵手というより、ゼロ戦を前世紀の遺物として淘汰した、当時の一連のアメリカ戦闘機の中の、最終的な機種でもある。

余談で映画の話をすれば、『ライト・スタッフ Right Stuff』を覚えていらっしゃるだろうか? この映画に本当に顔を出したことでも有名な、欧州戦線での英雄チャック・イェーガー。この人は P-51に乗って、フランス降伏後のドイツ戦線の撃墜王であり、みずから撃墜された後は再び戦線に復帰するモサであり、その後の朝鮮戦線ではジェット機で参戦している。そのまたさらに余談をすれば、その戦後には、X-1に乗って初めて音速を越えたパイロットであり、また大西洋を横断する途中での空中給油を受ける最初のパイロットでもあった。その彼がもう引退の時期を迎え、Experimentalつまり趣味の実験小型機の世界で「ちょっと変った」前翼機に乗って趣味の実験機フェスティバルに参加する − といった経緯は、映画『Right Stuff』に彼が実名で登場する背景になっていた。

話を戻そう。
イェーガーがジェット機で朝鮮戦線に参戦したころ、小説の記述を信じるなら、韓国空軍の韓国人パイロットの教育は完了していた。つまり、1950+年の段階でアメリカ指揮下の韓国空軍は P-51を保有し、そのパイロットには韓国人を擁していた; 時間的な経過を考えれば、教育期間は解放直後に開始されていなければならないが、それも今は不問に付そう。

kim-jin-ho(金鎮鎬)中尉は、P-51に乗って出撃する。コクピットでの僚機との交信には英語が混じって、時代が「現代」であることを生々しく伝える。(短編には、その本来の性格から、冗長さは許されない; 最小限の説明と描写で、作家は本題に切り込んで行く。機上のわずかな交信だけで、背景を読者に理解させる。こういう緊迫した表現技法は、解放前の作品には少ない)

輸送部隊を発見して攻撃にかかる; ミグが現れる。地上からはサーチライト。プロペラ機でジェットに勝ち目はないので、急降下へ; 中尉の機体は、サーチライトの乱舞する中で、対空砲の犠牲となる。
中尉は落下傘で脱出する。
冬である(従って、1950年の秋以降、または1951年あるいは 1952のその時期)。

落下傘で降りた地点は、当然ながら「敵地」。パイロットは、自分の落下傘を処置した後に、ただひたすら「南へ」移動しようと努力する。その過程では、「北」の地上軍が、落下した機体のパイロットの捜索つまり捕獲行動に出る。雪の降る山中を、パイロットは追跡を避けつつ、あくまでも「南」への脱出を試みる。接近する(北の)人民軍兵士たち。それをやりすごすパイロット。あえて「南」への足跡を消そうと迂回する努力を辞さないパイロット。

雪が降っている。
この作品の基本的なそれは、そこにある。
人民軍の捜索を避け、迂回し、足跡を消し、ただ「南へ、南へ」移動し続ける中尉。彼はそして、山中に異物を発見する。被弾した飛行機のようだった: その機体番号は、おお、彼自身の P-51 のそれだった。

作品は、このパイロットのその後を説明しない。ただ、短編の冒頭での被弾と、捜索を避けつつ迂回しての「南」への脱出行動、雪の中での人民軍との遭遇と、そして発見する「自分自身の」機体。作品はそこで終る。

「降り続ける雪」が、この作品の核または背景である。
「サランのお客様...」とはまた異なる、朝鮮近代文学のある局面を示してくれる作品だった。「雪・が印象的だ」と、言語専攻の友人は言った。僕自身も、その彼のせりふに刺激された面がある。

1964年「東仁文学賞」受賞作。作家は 1932年生まれだから、作品当時 32才。作品の時代を仮に 1952としても当時 20才なので、作家の体験そのものではないだろう。


981215-1: 『春香伝 chun-hyang-jeon』(1)

この作品を扱うのはためらっていた。
あまりにも有名、あまりにも大作(もっとも、長いわけではない)、あまりにも美化されていて、あまりにも俗説が多くて、そしてあまりにも地口と通俗と諧謔に満ちていて、時には「性典」とみなされるくらい伝説に満ちていて、そして「文学史」を語る本には「絶対に、必ず触れられる」、日本で言えば「忠臣蔵」か「太閤記」か、あるいは「番町皿屋敷」かといった超・大衆作品であって、解放後には南北で複数の映画にもなっていたりする; しかも「戦前」の日本では日本語で映画や演劇になっていたりして、話題は多いし、扱いにくいです。こういう大物は。もちろん、本来はパンソリのシナリオであり、そのパンソリの演題としても究極の作品であり、映画『西便制』にも登場したらしい。

まず、読者は既にこの作品の名前をご存知か、または映画の1つも見たことがあると仮定しよう。作品名さえはじめての方は、すみませんがその方面の本を1冊お読みください。

パンソリのシナリオであったそれは、木版小説本として現在も残存している。その種類は多く、今でもその研究が学者の論文になる。その多数の木版本の中でも有名なのは「完版本」と呼ばれ、これが一番 量的にも長い。「小説」としても内容的に最も充実していて、文学作品として扱うときは必ずこれが話題になる。
この他の版本は、乱暴なことを言えばみな亜流にすぎず、「完版本」の次に名前が上がる「京版本」は単にあらすじを書いてあるにすぎない。この他いくつかバリエーションがあるが、フィクション(小説)としての完成度において、遠く「完版本」に及ばない。漢文の版本も当然あるが、やはりあらすじ概略にすぎず、かえって登場人物の人脈家系を勝手に決めたりして、興をそがれることがある。

この作品をどう扱おうか ...
まず、次のメニューが考えられそうだ: ぶっちゃけた話をすると、僕自身の関心は最後の点にある; つまり、『春香伝』を代表とする開化期以前の木版本は、朝鮮では「古代小説」なんていう(すごく)へんな名前で呼ばれてきたのだが(だって、変でしょ; 「小説」という概念は「近代」のものである。「古代」に「小説:フィクション」の概念は希薄だし、まして言われている作品たちは「古代」ではない前近代、いわゆる「近世」のものなのだ。ただし、『源氏物語』は「古代小説」ではないかと言われれば困るが、しかし日本では『源氏』を「古代小説」とは呼ばない)、1970年代になって強力な異議を唱える人たちがいた − あれは「古代」ではない、「近代」の始点そのものなのだと。

僕が『春香伝』にこだわる理由は、その点にある。
だから、僕のホームページのこの議論は、その「近代文学」の始点の議論を中心に展開されることも考えられるのだが ... しかし困った。

実は、「文学ノート全体目次」には、今日時点では「近代以前の朝鮮文学」と「近代文学の開始時期論争」が別に立ててある。もちろん、これは『春香伝』を念頭において、作品はやはり「近代以前」で扱うつもりだった; しかし、この作品を扱うとき「近代文学の開始時期論争」は避けられないので、その議論は「近代文学」の先頭でするつもりだったのだ。

さて、どうしようかしら。
今夜のところは、この記事は「近代文学の開始時期」にほうり込んでおきますか。


(このファイル終り)