ハングル工房 綾瀬 - 僕の朝鮮文学ノート 9907

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990712: 金台俊 『朝鮮小説史』

著者の名前「金台俊」は kim-thae-jun、つまり「台」の字は「臺 tae(dae)」の略字ではなく、本来の別字。
金台俊『朝鮮小説史』 安宇植 訳、平凡社 東洋文庫 270、1975初版、手許の本は 1995年4刷、ISBN4-582-80270-2
日本語に翻訳された朝鮮文学史としては稀少な例の1つ。ただし 原文は 1939年、初版は1933年、ソウル(当時は京城)学芸社「朝鮮文庫」ということなので、「現代」は朝鮮プロレタリア文学運動あたりで終了する。
朝鮮文学のうち(詩、詞を除く)散文作品を通史として扱い、始点は三国時代から、高麗、李朝の漢文作品と訓民正音、以下 近代の黎明期として李朝期の実学や、「春香伝」を含むハングルの版本、そして開化期、3.1運動以後の植民地下近代文学で「現代」に至る。

原書の時代を再度 考えていただきたい。1939年とは、朝鮮プロレタリア文学運動が既に崩壊し、朝鮮語による図書出版が可能であった最後の時期にあたる。2年後には日米戦争が始まり、そのころには朝鮮語の完全禁止と創氏改名、朝鮮学徒兵の志願制度が動いている。つまり、原書はかなり「きわどい」時期に出版されたものだ。
事実、著者はその後 満州に脱出している。訳書には、著者のその間の手記『延安行』が付録として収録されている。

そういう背景を別にしても、この本の内容は、少なくとも「現代」以前の朝鮮文学史をきわめて穏当に説明したものだ。この本で展開される朝鮮文学史像は、現代の韓国のそれと大きく異なるものではない。朝鮮語を習って多少とも「文学」に興味を持った人には、手に入りやすい通史としてお勧めしてよいと思っている。

唯一「注意書き」が必要なのは、この本の「現代」部分かもしれない。これには、2重の裏返しがある;
第1に、この本の「現代」への関心は(直前に崩壊した)朝鮮プロレタリア文学に収束する。この点、現代の韓国では(1980年代後半まで)忌避される方向ではあった。だから、「韓国の」伝統的な文学論とこの本は、その意味で対立する。
第2に、ところが; この本の最終的な関心であるその 30年代プロレタリア文学は、90年代の韓国では復権する方向にある。もちろん、李箕永などの作家は今も韓国で復権できないままだけれど、しかし 植民地下の文学(作家)作品が大きく解放される方向にある韓国の現代の(研究、評価の)傾向は、単に読者である僕に言わせれば、金台俊『朝鮮小説史』と矛盾しない方向にあるように思われる。

もう1点、奇妙な(?)一致を見せるのが、この本の「近代」という用語の使い方と、1973年の 金允植・kim-hyeon共著『韓国文学史』の「近代」の開始点の関係だ。
この2つの文学史は、李朝期の英祖・正祖(まとめると 1727-1800)時代を、ともに「近代」の起点とみなす。金台俊は何のことわりもなくそこから「近代」の章を開始する。一方 金允植らは腕に ちからコブ作って、長い序章の末に そこから文学史を開始する。
おそらく、金允植らの「近代文学の始点」論は、金台俊のそれにヒントを得たのではないかというのが、僕のひそかな想像であったりはする。

なお、おことわりしておきたい:
言葉が悪くて申し訳ないが、安易な左翼風の気持ちでこの文学史をお読みになっても、失望するだろう。この本の関心は、あくまで文学にある。露骨に政治的な意図からこの本を読んでも、無意味でしかない。
戦闘的な民族文学論をふりまわす人も、おそらくこの本には失望するだろう。この本の著者が「左翼」であり「民族主義者」であることは事実だが、この本はあくまで冷静な文学史論であって、この本にアジテーションやプロパガンダが書かれているわけではない。
また、朝鮮趣味、特に文学趣味のお好きな方にも、この本はつまらないだろう。「文学史」という問題は、決して自己陶酔的な文学趣味に一致するとは思われないし、まして エキゾチシズムの極限みたいな朝鮮道楽とは縁がない。

文学史というのは、「人間精神の最も熾烈な作業の場」(金允植・kim-hyeon)である文学の姿を時代順に述べるものだが、そのとき具体的な「朝鮮」文学では、ハングルが生まれる以前の漢文による創作をどう解するか、ハングルができてからも・あいかわらず漢文で書かれた創作をどうするか、近代初期の遅れた開化とそれに伴う日本からの翻案ものの氾濫、1919年の3・1運動以後の「文化政策」と、文芸至上主義とプロレタリア文学の対立、朝鮮語抹殺政策の中でのハングルの意味と、しかし現実に日本語で書かれた作品たちへの評価・・・ そういうすべての現象に目をくばった後に、「文学史」は著者の世界観を表現するものであり、逆に文学史とは「文学作品を時代順に解説するものではない」ことを、読者は理解されるかどうか。

もし、「文学史とは著者の世界観を表現するものである」という表現を理解されるなら、読者は、例えば 金台俊の『朝鮮小説史』を(ある意味で)「おもしろい」と感じることができると思う。

いずれにしても、金台俊の『朝鮮小説史』は、今では「稀少な」、入手できる数少ない文学史の1つではある。資料的な意味で、この本は書店で買えるうちに買っておいて損はないと思いますね。


(このファイル終り)