ハングル工房 綾瀬 - 僕の朝鮮文学ノート 9904

Hangeul-Lab Ayase, Tokyo

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990413-1: 中西伊之助の短編 『不逞鮮人』

中西伊之助は、日本のプロレタリア文学運動の中では多少 知られた人物で、朝鮮・満州を渡り歩いた人だ。最近 表題の作品を読む機会があった。

1922年 雑誌『改造』9月号に発表。概要は以下の通り:
主人公 碓井栄策は「世界主義者」である。同じ運動家である朝鮮人の友人には朝鮮の婚約者がいたが、その女性は 1919の 3.1運動の中で死亡した。この女性の父親は現在、朝鮮西北部のSという土地、つまり「不逞鮮人」の巣窟に頭目として蟄居する。
栄策はこの「不逞鮮人」たちと「心から語ってみたい」という動機から、朝鮮人通訳を連れて出る。小説は、汽車がS駅に停車する場面からはじまる。
話者・栄策は、心細さを感じている。小さなS駅の駅長との日本語での会話、その駅長と朝鮮人通訳とのある緊張関係、これからKという村まで行くと聞いて引き止める駅長、通訳と共に歩く間の話者の孤立感、渡し舟の朝鮮人船頭のボイコット、村の中で奇異な服装をした話者自身の自覚、たちまち襲われるのではないかという不安、目的の家に到達し、通訳が主人との間に話を通してくる間の限りない不安・・・といった心理の連続。
無事主人と会い、主人が日本語を話すことによって得られる・ある種の解放感、つたない日本語の主人を相手に、互いの手探りがはじまる。ある段階で、主人は栄策に見せるものがあると言う; 大切に保管された、1919の 3.1運動の中で刀剣で刺された娘(話者の友人の、死んだ婚約者)の血まみれのチョゴリ。傷は数カ所、致命傷はこれと、具体的な指摘が出る。
夕食には、主人の親族が集まる。朝鮮語で親族に説明する主人。
その夜は、その家で眠る。夜の間に、何者かが栄策らの荷物を調べに来る。栄策は、それが主人自身であることに気がつく。瞬間、錯綜した心理で庭に飛び出し、逃げ口を探す; ない。何か咆哮のような声が聞こえる; 錯乱直前の話者。通訳は、あれは梟の声だと言う。
翌朝、朝食の席には、主人公らの帰りの昼食らしい包みが用意されている。夜間の主人の行動は、栄策らが武器を持っていないことの確認であったことが、栄策の内省として確認される。

一見して、作品は「心理劇」の一種だと思った。
朝鮮人それも「不逞鮮人」の巣窟に単身乗り込む日本人運動家の悲壮感。自分(ら)は朝鮮人の味方なのだとわかってもらいたいらしい、日本人運動家によくある心理。その一方では S駅での心細さに駅長に声をかけ、駅長から引き止められることによって・さらに悲壮な覚悟で目的地にむかう導入部。その心理の悲壮さに比例して、その世界に入れば「いつ(日本人だから)襲われるかわからない」不安、そして「日本語」に出会うことで得たある種の安堵と、そこで出会う血まみれのチョゴリや、一転して朝鮮人の家らしい夕食のもてなし方など − 僕にはとても親しみの持てる心理の描写が連続していた。

いくつも面がある、と思った。
1つは、「プロレタリア文学」で多少は有名な作家のデビュー期に近い作品が、意外なほど心理劇だということ; つまり、小林多喜二のような政治路線の鮮明なもの(んーと、例えば『蟹工船』)と比べると、おどろくほど「文学少女(少年)」的な心理の揺れを描写していること。中西の作品がみんなこんなものなら、「こりゃ、いわゆるプロレタリア文学とは異質じゃないの?」と言いたくなったこと。

もう1つは、今も昔も変わらない、朝鮮人を相手にするときの、日本人側の特殊な心理状態という問題。
この作品当時、朝鮮は現実に日本の植民地だった。
「世界主義者」(この表現は、「共産主義」とか「無政府主義」とかいう言葉の、単なる置き換えだと思う。検閲による伏字を避ける意味もあるだろうし、当時の社会主義路線が階級闘争優先で「民族」問題を過小評価していたこともある)には、まあ「民族」問題はタブーだったか、あるいは問題外の小さな問題だったはずではある。しかしその「小さな」問題で、作家の心理はけっこう激しく動いている。その動きかたは、いま現在の時点で比べてみると、1945年以後に「朝鮮」を扱った作家たちのそれと、「ほとんど寸部のちがいもない」くらいよく似ている。
例えば、中野好夫。この人はイギリス文学の専門家であり、イギリスの植民地であったアイルランド独立運動の闘志スウィフト(『ガリバー旅行記』の)に関する評論集もある; だから、中野好夫の「朝鮮」論はその延長上にあることを(僕は)期待するのだが、しかし、彼の書いた朝鮮論はぜんぜんつまらない; 朝鮮が相手になると、中野好夫は・なぜか・突然、「朝鮮に対する永遠の謝罪論」ぎりぎりのところで、おそろしくナイーブな(つまり、幼稚な)議論しか出なくなる。
中西伊之助のこの作品は、それほどひどくない。むしろ、日本の自然主義の流れの中の内面描写のような、揺れ動く作家の心理を表現していて、とてもおもしろい。ただ − ただ、『改造』1922の作品初出の末尾には たった 20文字くらいの余計な1句がついていて、
− すべては、自分達民族の負ふべき罪だ。
なんて書いてある。しらけてしまう。これでは、この作品 1922 当時から綿々と流れる「永遠の、朝鮮に対する謝罪論」と、ちっとも変わらないではないか; 言い換えると、日本文学は 1922のこの作品以来「何ひとつ進歩していない」ことになるし、もう1度 言い換えて「日本型、対朝鮮 永遠の謝罪論」の原形を作ったのは中西伊之助なのか、ということにさえなってしまいそうだと、思った。

幸か不幸かわからないが、中西のこの作品は 1948年に単行本『北鮮の一夜』(人民戦線社)の表題作として収録されているそうだ。この単行本では、表題作がこの作品、つまり「不逞鮮人」という題が変更されている。それと同時に「− すべては、自分達民族の負ふべき罪だ」なんていう余計な1句も削除されているそうである。

作家はこの作品以外にも、いくつか「朝鮮」を扱った作品を書いている。それらには、小林多喜二に対比すべきかどうかは知らないが、それなりに政治的主張が含まれているそうだ。
作家は、1946には日本共産党員として国会議員、その後に脱党。この時期は在日朝鮮人運動も日本共産党も大きな変動期にあたるので、多少 慎重に調べてみないと何とも言えない面がある。


990425-a (990605 追記修正): 趙世熙 短編集『小人が打ち上げた小さなボール』

初版は 1978年、表題作『小人が打ち上げた小さなボール nan-jang-i-ga sso-a-ol-lin jag-eun kong』を含む連作短編集。作者名は趙世熙 jo-se-heui、カナで書けば「チョー・セヒ」。
手許の本は 1997.05.30 第4版、「文学と知性社 mun-hak-kwa ji-seong-sa」、ISBN 89-320-0914-7、Seoul, Korea。僕の手許には2冊ほど余りがあるので、読みたい方はメールで要求されたい。

作品のあらすじ:
貧民街の各戸に、仮設建造物の撤去命令が来る。街は騒然となる。
父さんは、騒然たるその一角でしきりに本を読んでいる。父さんが本を読んでいる姿を見るのは初めてだ。
撤去期限がやってくる。僕らは、貧しい中で最後の晩餐を開始する。僕らがいつも望んでやまなかった「肉」の出る食卓。その間にも、重機を使った撤去作業は近づいてくる。
幼いころ、末の妹がわがままを振りまわしたこと − おいしいものが食べたいと −。僕ら(二人の兄)は成長しつつ、夢に反して、望まない「あの」工場で働かなければならないという現実と、その工場での労働運動の敗北の経過。それに先立つ幼い時代の、隣家の少女との幼い恋の思い出と、その少女がやがてどうなっていったかという経緯。
撤去命令の出たバラックの住民には、代替「アパート」への入居権が与えられている。が、それへの入居は、現実には不可能なものだった。跳梁するブローカーたち。
末の妹は、その時点で冒険を開始した。「最後の晩餐」にも、彼女は戻ってこなかった。彼女は、ブローカーたちの一人と、ある期間 行動をともにする。彼女の冒険の仕上げは、そのブローカーの金庫から、アパート入居権に関する文書を取り返すこと・・・
この先を「ここに書くべきではないだろう」というのも、当時 (僕が)書いた書評と正確に同じだ。読者には、自力で読んでほしい。もし原文が苦しければ、次のところに訳書がある(ただし、数年前の映画化で話題になったので、そのときに品切れになったそうだ。従って、映画好きの人のところに蔵書があるはず):
http://www.hyogo-iic.ne.jp/~rokko/mukuge/book/book.html むくげの会の出版物

余談だけれど・・・

70年代の終りころ、日本にはじめてこの作品が紹介されたときのことを、今も覚えている。この作品の名前は、日本では新聞記事で伝えられた; その記事によれば、作品の題名は 『せむしが蹴り上げた小さな毬(まり)』だった。
「せむし」は「小人(こびと) nan-jang-i」の、「蹴り上げた」は「打ち上げた sso-a-ol-lin」の、それぞれ誤訳だった。「毬(まり)」は ball なので誤訳とまでは言えないが、作品名を伝えるだけでも4語のうち2語まで誤訳では救われない・・・現地の特派員が作品を自分で読んでいないことが明白だった。

作品(表題作)の主人公一家は、「小人 nan-jang-i(身体的な障害者である小人)」を父とする家庭であり、その小人を父とする3兄妹が順次 話者として登場する。朴政権後期の貧民街。小人である父は、過去のある時期に「せむし kop-chu」と共に、サーカスというビジネスを計画したことがある − 「せむし」と「小人」の混同はここから起こるが、しかし作品を読まず勝手に想像で記事を送った新聞特派員の不誠実は、僕は今でも許せない。

小人である父は、近所の学生から本を借りて読みふけっていた。貧民街という現実の中で、父さんは「僕ら」を育て、現実の生活つまり日々の労働の中で夢を育てた − 数万年後の世界にむけて、小人である父さんは、夢または空想のボールを宇宙ロケットに乗せて打ち上げる。作品表題の意味は、そこにある。

「せむしが蹴り上げた小さな毬」と勝手に創作した人の頭の中には、ご当人を含めて「どうせ原文を読む日本人なんかいないだろう」という「みくびり」、尊大と傲慢さがある。そういう特派員こそ、文学作品どころか、現地の情報つまり新聞の記事さえ正確に読み取れていないものだ。日本の新聞に出る「韓国情報」の品質を象徴するような、小さな事件だった。


990425-2: 趙世熙 短編集『小人が打ち上げた小さなボール』 (2)

作品への周辺情報をいくつか。

韓国の現代の 30才前後で、高校生の頃この作品を読んで強い記憶に残ったという人は多い。つまり、作品は 1980年代からの高校生、大学生の間でかなり読まれている。笑い話だが、映画『西便制』の成功で一躍有名になった原作の作家 李清俊が、文学に特に関心のあるわけではない「もと高校生」と対話する場面で、「もと高校生」が目の前の李清俊を 『小人・・・』の作者 趙世熙と混同するという場面に 出会ったことがある。

韓国の 80年代の学生運動の中では、今もときどき思い出話に出る話題として、禁書または禁書に近い本の名前が、ある種の暗号のように「頭文字」で表現されていたそうだ。その中の1つに "Nan-Sso-Gong" つまり "Nan-jang-i-ga Sso-a-ol-lin jag-eun Kong(Gong)"がある。

明治の開化期(?)の日本の文学青年の間には 「君はゴルケを読んだか」というのがあったそうだ(ゴルケとはゴーリキーのこと。念のため、ロシアの作家の名前)。

ある本を読んだことがある、そのこと自体が 初対面の二人にとって重要な共通体験であるという、そういうことがある。この作品は、韓国で 80年代の学生運動にかかわった人たちの間で、そういう本の1つになっている。それだけは、興味のない人も知っておいて損はないと思う。

(このファイル終り)