山邊通信
(2003年1〜3月)

2002年

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明治46年  2003.03.09

なんだかシリーズのようだけれども、今日はちょっとした笑い話。

我が故郷の市歌は、森林太郎(鴎外)の作詞だそうだ。「詩」作品としては、鴎外最後のものだという話もある。ところが、そんな大家の作でありながら、小中9年間の義務教育を市立学校で過ごした割には記憶に薄い。まだしも県歌の方なら、歌詞はともかく今でもメロディーくらいはイントロから口ずさめるので、しばしば聞いた記憶があるのに不思議である。

どんなものだったかな?と思い立ち、探してみた。公的なものだから、市のHPをめぐればどこかにあるだろうと行ってみた。ところが、なかなか見つからない。やっと見つけたそれは、ずいぶんわかり難い場所にあり、難儀しながらも探し当てた。しかし、こんな所にあったらTOPページの検索が役にたたんのではないか。

http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/admin/info/sisei/pdf/shisyou.pdf

何はともあれ、PDF化されているのは便利である。せっかくだから、印刷してみようとプリントアウトしてみた。市章は、なんとも懐かしい。体操服や帽子や名札や、学校に関わるありとあらゆるものに、このマークの中央に校名の入ったものがついていた。市の木と花は聞いたことがあったけれど、鳥まで決まっていたのかと感心していると、制定が平成3年7月1日と新しい。なるほど、知るはずがない。他のはいつ頃なのかと視線を移して、ん?何が「ん?」かは、アクセスしてご確認を。この市政概要は、平成14年度版だそうなので、まもなく差し替えられるだろう。思わず「ぷぷっ」とやった我が微苦笑を追経験してみたいのなら今のうちかもしれない。

歌詞を印刷してみて、1番の冒頭部だけは、かろうじて記憶にあった。中学時代ブラスバンド部にいたので、市の音楽祭に動員された時に無理矢理聞かされた。おそらく、フィナーレの市歌斉唱のために練習させられて来たのだろう。よその学校の合唱部の一団だけが声を張り上げて歌っていたっけ、と。教育の場で積極的に教えられた記憶がないのは、2番の歌詞に原因があるのだろう。勢力拡大期に浜松城を根拠地にした徳川家康を讃えたものだろうが、これは当時の世相からして仕方がないだろうなあと思わずにはいられない。

さて、市歌1番歌詞冒頭部に意識されているのは、萬葉集の次の作品。

引馬野に にほふ榛原 入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに(巻一、五七)
(引馬野に色づいた榛の原よ。その中でみんな入り乱れて衣を染めなさい。旅の記念に)

付された題詞・左注によれば、大宝二(702)年持統上皇の三河行幸に従駕した宮廷歌人、長忌寸意吉麻呂の作。「にほふ」の語は、古代では視覚表現語彙なので、紅葉した葉を歌ったものであると思われる。ただし、当時の染色法では、榛の木からは実や樹皮を染料としたらしく、これは紅葉の景の中に分け入る大宮人の様を象徴的に詠み上げたものだろう。『続日本紀』の記録によれば、この行幸自体が当年10月中旬のことであり、現行太陽暦に換算すれば11月下旬の時期となる。榛原の紅葉すら事実としては微妙で、「このように盛りの時を歌(言葉)に呼びこむことが風流のわざであると同時に、行幸先の土地を持ち上げることにつながったのである。」(『萬葉集全注』伊藤博担当)と、完全な実景としてではなく羈旅歌の作法としての文脈から読み解く立場もある。

市歌は、歌句冒頭の地名「引馬野」を、浜松一帯の旧名「曳馬野」とみて、これを浜松市曳馬町にあてる説に拠ったものだろう。しかし、行幸先は当時の行政区分で言えば東海道近国最東国となる三河国までであり、遠江国(ここからは東国)行幸の根拠がないとし、愛知県宝飯郡御津町御馬に比定する説もある。両説相譲らず、決着を見ないのが現状と言うところか。作品解釈を中心とした文学研究の立場に立つ私自身は、歌の解釈に関わらない限りこういう地名比定論争は無意味だと考える。故郷には冷たいようだが、実はどちらであろうと根拠は薄く決定など出来ないと考えるし、現時点ではあまり関心もない。ちなみに、「曳馬野」説は、御当地出身、県居翁賀茂真淵が唱えた説である。市歌1番歌詞終末部の「翁」とは、もちろんこの真淵のことである。もっとも、鴎外作詞の時点では、愛知県説はまだ世に問われていなかったはずなので、対立する説の片方を依頼によって強引に採用したわけではなさそうだ。

さて、あの森鴎外が作詞し、「七つの子」や「赤い靴」の本居長世が作曲した市歌、制作者だけ見れば市としては誇るべき曲なのだろうが、その歌詞が含む前時代性ゆえに、我が世代はほとんど教えられることはなかった。市の公式HPでの、この扱われ方をみると、これは推測に過ぎないがおそらく今もそう変わりない待遇を受けているものと思われる。御多分に漏れず、故郷の周辺も平成の大合併に向けて騒がしい状況が続いているらしい。その過程で自治体名称としての浜松市の名も消える方向とか。めでたく政令指定都市誕生の暁には新市歌が制定されるのであろう。その際には、このまま歴史の彼方へと追いやられ、ひっそりと「お蔵入り」になるのかと思うと、この曲がちょっとかわいそうな気もするのである。


昭和78年  2003.03.07

明日は、家内のお誕生日だ。重ねた春秋の数をあえて語りたくはないのだろうが、しっかりと覚えてはいた。子供達が、またケーキが食べられると喜んでいる横から、同居している岳父が禁句を口に出す。「お前いくつになったんや?」「自分の娘の年齢くらい覚えといてよ」と言われてとっさに出たのが「お前が生まれたんが昭和3*年で、今年が昭和78年やから、、、」

驚いた。岳父はいまだに昭和で年数を数えていたのだった。しかも、しばらくそらで計算するでも無しにすぐに言葉に出た。「いやもう平成はわからんから、この方がいろいろと数えやすい」とのこと。平成を迎えるとすぐに定年退職して現役から退いた人だから、もっぱら書類を記入する時に使う「今年が何年で、、、」という思考は不要だったからかも知れないが、やはり筋金入りの戦前生まれは何かが違うような気がする。

我が家は、息子が昭和最後の12月生まれなので、この子の場合は平成の年数と満年齢が一致する。私は1960生まれなので西暦で数えた方が何事も計算しやすい。20世紀最後の年に生まれた下の娘も、やはり西暦で歳を数えるだろう。みんな勝手に年齢を測る物差しを持っていて、まことにまとまりの悪い一家である。

翁、心地悪しく苦しき時も、この子を見れば、苦しきこともやみぬ。腹立たしきこともなぐさみにけり。(竹取物語)

かぐや姫を育て始めて、翁の暮らし向きは「ようよう豊かに」なっていった。しかし、何にもまして、病苦や心労がこの子を見ることだけで癒されたと、時を千年ほど遡る物語は言う。子を持ち育てることからもたらされる幸福感がこう表現されているのであった。かつて、我が妻もこうして岳父の心を癒したのだろうかと、無心に夕食を頬張る下の娘を見てたしかにそう思う。ただし、この子が家内の齢を迎える年まで生きていると言い切る自信はないなあ、と思いをめぐらせて初めて自分に残された時間などというものを意識したような気もした。思えば、竹取物語も「残された時間」の切なさで最後を盛り上げる話であった。


紅梅・白梅  2003.02.28

成績処理を済ませて、結果を提出しに勤務先へ出向いた。一覧表を渡して、書類を受け取って帰るだけなので、ドライブついでに妻子連れである。余裕があると、いつも見ているけれど、気にもとめていなかったことに目が向く。

我が勤務先では、学舎前庭部分に萬葉植物園がある。萬葉歌に登場する草木を植え、その根本に出典となる歌を記したボードが設置してある。ささやかながら、ほっとできる場所であり、用事を済ませる間、連れてきた娘をそこで遊ばせておくように伝えてから仕事を済ませた。

さあ帰ろうと車を出そうとして気がついた。日当たりの良い場所にあるせいか、梅花がほぼ満開である。晴れた空に紅の花弁が映えて綺麗だなあと眺め仰ぎ、一方でその根元の歌ボードを見て、あれれ、これはいけないと思ったのだった。

我が園に梅の花散る ひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも (巻五、八二二) 大伴旅人
(我らの園に梅花がしきりに散っている。ふりあおぐ天のかなたから、雪が流れてくるのか)

散り過ぎる梅花を雪にたとえるのは、中国六朝文学の影響を受けた表現手法で、いわゆる「見立の芸」と呼ばれるもの。さてさて、そうであるのならば、雪と見紛うほどの花弁は、白梅のものであろうというのが通説である。これは、いかん。私が設置したわけではないが、もう何年も勤めていたのに気がつかずに放置してあった。在学生、卒業生諸君、これは間違いである。

萬葉歌に現れる梅花は、どうやらすべて白梅であるらしい。表現例が現れるのも、奈良朝以降であることから、遣唐使による輸入植物であったのではないかと推測されている。であるのならば、文藝の世界を反映して、落花如雪に見合う白梅中心に植樹栽培されたのも自然な流れだろうか。紅梅が文人の関心の前面に押し出されてくるのは、もっと後の平安朝に入ってから。清少納言『枕草子』に「木の花は濃きも薄も紅梅」と記されるあたりからのようである。

上記、旅人の作は天平2(730)年正月13日、後に「梅花の宴」と称される宴席での作。太陽暦換算では2月4日、九州大宰府での作とは言え、雪と見紛うほどに梅花が散るにはまだ早い。実景ではなく、漢詩世界からの連想による作であるかと思われる。大唐では、玄宗皇帝による開元の治が実を結び始めた繁栄の時期。玄宗即位の年に生を受け、その治世と共に育った詩人杜甫が、科挙及第を夢見て長い旅の生活に踏み出したのもこの年のことだった。


立春  2003.02.04

今年の旧暦元日は2月1日、まことに覚えやすい。旧暦でも年が明け、そして立春を迎えた。やっと、厄明けである。命は落とさずに済んだが、前後あわせて足かけ3年実に嫌な年月であった。迷信とは言え、先人が教えるのは、人生の節目・曲がり角・折り返し、そんな時期には慎重に事を運べということであろう。節分には、豆を撒いて厄払い。これで、本当におさらばしたい。

旧正月が週末と重なったので、どこか春節を祝っていそうなエスニックタウンに出かけてみたかったのだけれど、あいにく、毎年2月1日は入学試験日。また、次のお楽しみとなった。八つ当たりかもしれないが、インフルエンザも流行っているのに、やっぱり、こんな時期に入試シーズンが来るのは間違っているように思う。

風交じり 雪は降りつつ しかすがに 霞たなびき 春さりにけり(巻十、一八三六)
(雪を交えてまだ冷たい風の中が吹いている。そうであっても、霞がたなびくのは春がやってきたしるしなのだなあ)

萬葉集の巻十は季節分類のある歌巻である。その春雑歌の部の中に「詠雪」と題する歌が11首も並んでいる。その内のひとつ。こんな寒い時期がなんで春?というのは現代の感覚。中国の暦法が導入されて以来、立春もしくは正月元日の到来をもって春とする。これが古代人の意識。雪が積もろうが、吹雪こうが、無理矢理にでも春の兆しを感じ取る。それが旧暦社会のお約束だったようである。


学恩  2003.01.30

大学院入試の面接は、今は国の重文指定を受けている本館の中の小さな部屋が会場だった。ワックスオイルの染み込んだ古い板張りの床を踏みしめて入っていくと、面接担当の先生が二人座っておられた。部屋の真ん中には大きなストーブと、その上でちんちんと湯気をふいている丸い薬缶とがあり、そのすぐ横に、これまたまるで薬缶のような丸い顔とが並んでいた。M先生だった。

ペーパー試験は済んでいたので、卒論の話をした以外には学問的な内容の質問もほとんどなく、ただ次のようなことを言い含めるように告げられた。「君はK先生の指導を受けたいそうだが、実は先生はあと1年で定年を迎えられる。ただ、非常勤ではまだこの先も御出講頂くことになっている。それでも良いのかな」おおむね、そんな内容だったように記憶している。「はい。構いません」とにかく、学界最高峰とされるK先生の指導を僅かな期間でも受けたかったし、修士課程の2年をここでやって、それから先のことはまた考えたらいい、そう思っていた私には、答えは一つしかなかった。明確に答えたつもりだった。それでも、あまり好感触とは思えなかったので、やっぱりだめかなあと落胆し、4月からの生活のことを考えながら帰りの電車に乗った。

この年の受験者は7名。国文学専攻としての募集定員を超えてはいたが、モノになるかどうかは修士の2年間で見ればよいと、M先生の判断は全員合格だった。研究科全体の定員との兼ね合いで、そのあたりは融通がきいたらしい。ただし、後から聞いた話では、どうやら私の処遇だけは問題になったらしい。2年目には宙に浮くのが確実な学生を入学させるのはいかがなものか?と。それでも、M先生は「本人が来たいと言うなら、入れてやれば良いではないか」と仰ってくださったそうだ。その御陰で私は入学を許された。当時、研究科内には学外受験者は絞り込んでおかないと後の面倒が大変、という考えの先生も居たようだ。しかし、その筆頭たる某教授は、入試の時期長期出張中で不在だった。運にも恵まれていた。

2年目になって、K先生は規程通り定年となり、大学院非常勤講師へと待遇が変更された。そして、これと同時に私の指導教授が居なくなってしまった。後に指導教授となってくださるA先生も、この年から着任してはいたけれど、手続き上の問題で大学院担当は次年度からとされており、予定通りのこととは言え私の身は完全に宙に浮いたのだった。

そんな時に「入れたのは、わしやからな」そう言って、また私の身柄を引き取ってくれたのがM先生だった。今風に言えば「1年間限定のレンタル移籍」その間にチャンスをやるから精進せよ、ということだろう。これで、2度も恩を受ける結果となった。

いちばん苦手な近世文学のゼミの片隅に身を縮めて参加するのは、正直言って辛いものがあったが、まったく異質な学問にふれたのも今となっては良かったのかも知れないと感じている。しかし、当時も今も、M先生が何を仰っていたのか、まったくわからなかったし、頭の中にも何も残ってはいない。ただ、先生の指向していることだけは、ぼんやりと理解できた。せいぜい、その程度が限界である。恩を受けていながら、結局、先生の学問から継承できたものは皆無であると言わざるを得ない。弟子とは言えぬ関係だけれど、「不肖」の冠詞は間違いなくいただけるであろう。

先生からチャンスをいただいてから、ちょうど20年が経つ。自分が「モノになった」のかどうか、いまだに判然としない内に先生は逝ってしまわれた。そして、ここ数年の自分は何をしてきたのだろう。お別れの列に連なってそんなことばかりを考えていた。出棺の時刻になって、山科の空には風花が舞った。先生らしい演出だ。「ありがとうございました」思わず空を見上げて一言お礼申し上げた。そこにはあの日の薬缶の湯気のような、うっすらとした雲だけが空に浮かんでいた。


神々の戦い  2003.01.19

試験監督といえども、ずっと受験生を見張っているわけではなく、本人確認、欠席者調査や実施本部との連絡など、様々やることがある。それでも、長い科目で80分、短い科目で60分もあると、空白の時間帯が必ず生ずる。寝るわけにもいかず、だからといって本を持ち込んで読むような行為は、業務専念規定に反するので禁止されている。まして、パソコンを持ち込んで仕事するなどもってのほかである。それでも、毎年「昨年度及び過去の注意すべき事例」としてパソコン、パコパコ試験官への苦情が出ているのは、広い日本、どこかで必ずわかってない方がやらかすからだろう。しかしながら、この時間帯は欠席調査などの業務ですら気晴らしになるくらい辛い。必死の受験生を前にしてなんだが、おそろしく退屈で窒息しそうな魔の時間が、のんべんだらりんと待ち受けている。さすがに椅子が用意されるようになって座ることは可能になったが、以前は、試験場チーフになると壇上の教卓前でずっと仁王立ちであった。講義ならまだ喋れるけれども、じっと黙ったままである。これはまるで拷問のように辛かった。

そこで、退屈しのぎに自分で仕事を作り出す。教室巡回である。これとて、あまり頻繁にやると「気が散る!」「靴音がうるさい!」と苦情が出るので、我慢の限界点にやる。決して無意味ではなく、違反行為防止と受験番号等の記入漏れチェックが目的である。机上には、マークシート記入用鉛筆、プラスチック製の消しゴム、鉛筆削り、メモ用シャープペン(大学入試センターによれば、これは鉛筆ではないそうだ)、時計以外のものは置いてはいけない決まりになっている。必要に応じて要望すれば認められるのがハンカチとティッシュペーパーくらいで、お守りすら置いてはいけない。ティッシュは袋から出させて紙だけ置いておくようにとの指示までマニュアルにはある。そういう状況では「ごめんね。気持ちはわかるけど、、、」そう言ってしまってもらうしかない。

今日も、それをやっていて、ふと気がついた。みんな似たような鉛筆を持っている。「学業成就」「合格祈願」他にもなにやら標語が書いてあったりする。そして見覚えのある神紋、そう天神様の梅鉢紋。さらによく見ると、似てはいるが一様ではない。この辺りだと最も近いのが道明寺天満宮、天神祭の大阪天満宮もあれば、京都は北野天満宮の梅星紋、おおっと太宰府天満宮まである。それぞれの天神様で入手してきたのであろう、ありがたい鉛筆達だった。しかし、みんなが持ってたら、これ同じ御霊を祀るとは言え、身内の抗争めいたものを感じないわけではない。高野山系の学文路(かむろ)大師さんのも発見。なるほど空海さんか。おや、こっちには、知恵の文殊院様も。神仏入り乱れて、さながら神々の戦いが繰り広げられているのであった。さて、もっとも御利益があったのは、、、?

全教科が終わって帰っていく受験生達も、決して足取りが軽いわけではない。センター入試は、これから始まる入試シーズンの幕開けでしかないからだ。袖振り合うも多生の縁、ここで受験したことが良き思い出になるように、みんな、身体に気をつけて頑張っておくれ。さて、我々にも、ぞっとするような、週末毎の3月まで続く入試地獄が待っている。勤め始めた頃の、のんびりとした2月中旬からの春休みがとても懐かしい。身体壊さんように、ぼちぼちと乗り切っていこう。


ルール  2003.01.18

2年ぶりにセンター入試の監督(試験室チーフ)を担当している。勤務先が参加校になってから5年目。全体運営も慣れたものになっては来たが、ぼちぼちボロも出る時期である。しかし、打ち合わせ会議での入試広報室長の「受験生は自分が出来ないのをすぐに会場のせいにする傾向があるので細心の注意をお願いします」には笑った。たしかに気も遣うし土日をつぶした仕事は辛いけれど、試験場の中にはいつも様々なミニドラマがあって、それはそれで面白い。

この2日間だけは、公務員と同じで業務内容に関する守秘義務があるので余り詳しくは書けないけれど、運営サイドにも「うむむ、、」と頭を悩ます事柄が時々ある。外国語(実質的には英語ですな)の試験開始前には、服装チェックの必要があるので、さりげなく受験生を見て回っている。何を見ているかというと外国語による文章のプリントされた上着等は着装禁止となっているからだ。ただし運営マニュアルによると「ワンポイント程度なら構わない」とある。今日は、胸に英語2単語が崩れた字体で大きくプリントされたトレーナー姿の受験生が居た。いちおうサブ・チーフと相談。「ま、模様ですな。あれは」で落着。服装違反となったら、着替えるか裏返して着るかの指示を出さねばならない。同じように、歴史地理の試験では地図などのプリント柄もダメ。ちょっと前に流行った地図柄のバッグなども、試験場には持ち込めない。

受験番号の書き忘れなどを発見しても、個別に注意を与えてはいけないのは、じつに心苦しい。マニュアルによれば、その場合はあくまで全体に注意を促すことしかできないのだ。じつは、一度あった。欠席調査をしていて、受験番号を記入していない受験生を発見したことが。試験終了10分前には、その旨の通知と受験番号確認の促しをアナウンスするので、その時にはしつこく3回ほど注意したのだけれど、とうとう終了までその本人は気がつかなかった。しかも、回収後になって、どうやら「あっ!」と気づいたらしい。「どうなるんでしょうか?」泣きそうな顔で質問にきた。こんな時、私達に許されている答えは「大学入試センターに直接問い合わせて下さい」しかない。結果的にどうなるかというと、集まった解答用紙、欠席者の受験番号等を照らし合わせて大学入試センターが判断するそうだけれど、どうなるのかは知らされていない。そして、その後、その受験生の試験結果がどうなったのかを知るよしもない。

答えをすべてマークし切れていない受験生を目の当たりにして、「鉛筆を置いて下さい」と言わねばならないのも気持ちとしては辛い。この言葉をどのタイミングで言うのかは、試験場の判断になっている。どれくらいの差かというと30秒あるかないかなのだけれど。つまり、チャイムが鳴り始めると同時か鳴り終わる直前か。視力に恵まれているのと、高い壇上から見ているので、受験生がどれくらい書き終わっているのかはだいたい判る。チャイムが鳴った。最後の追い込みで必死にマークする受験生。我が勤務先のチャイムはメロディーがある。その間、あと数個、フルスピードでマークする姿が見えている。ギリギリのタイミングですこし柔らかに「鉛筆を置いて下さい」。それでもマークしようとする受験生。あと2、3個残っているなと思いながらも、辛い気持ちで2度目の「鉛筆を置いて下さい!」これはピシャリと。

こういう事例は、何年やっても、あまり後味の良いものではない。明日もまだ続く受験生達の戦い、管理すると言うよりも出来る限りサポートするという気持ちで、あと一日おつき合いしようと思う。


瑞兆   2003.01.02

年が明けてからの2日間、本格的な冬日が続いた。そして、しばし時雨れた。友人の日記によれば、東京は雪になったという。しかしながら、古来年初の雪は豊年を知らせる瑞兆である。

萬葉集の掉尾を飾るこの歌も、そうした思いをこめたものである。どうやら、この歌の詠まれた天平宝字三年(759)は、元日と立春の重なった歳旦立春(19年に1回)であったらしい。有名な歌なので、解説は省略。

さて、明日から短い帰省の予定である。昨年、一昨年とも雪にたたられているので本当は今降られると困る。しかし、これが多くの友人知人の良き一年の瑞兆であるのならそれもよい。天よ、願わくば五日の夜には自宅へ帰着させたまえ。

本年もどうかよろしく。


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