山邊通信
(〜2002年12月)
守歳 2002.12.31
一年の最後の夜を除夜・除夕と言い、この夜眠らないで行く年を送ることを守歳と言う。歳の最後の夜(旧暦では12月30日、「三十日」を訓読みして「みそか」ゆえに年の暮れは「おほみそか」)今宵を不眠で越すという習慣は、古くは除夜に行われた追儺とセットになったものだった。一年の厄を祓い悪鬼を追いやっても、眠りの内にまた体内に入り込まれてしまう。それを避けるために、人々は夜を徹して夜明けを待ったという。「除夜」とは、この悪厄・悪鬼を「除く夜」の意である。日本では、追儺は春分の前日の行事へと移行し、さらに守歳徹宵の習慣の方は新暦移行後それとは完全分離して大晦日→初詣→初日の出のパターンで残った。身中に入り込もうとする悪厄を避けるために徹夜するという習俗は、奈良町(奈良市猿沢の池南方の旧市街)に庚申信仰とセットになって残っていたりもする。
というわけで、いつもとたいして変わらないのだけれど、今夜は守歳である。欧米のカウントダウン文化の影響か、それとも発想までデジタル化したためか、昨今は、深夜0時を廻ると「あけおめメール」が飛び交い、新年の挨拶が始まるけれども、夜を徹して守歳を行うのなら、新年は夜明けと共にやってくるはずである。唐代の詩にこうある。
除夜作
旅館寒燈獨不眠 客心何事轉愴然
故郷今夜思千里 愁鬢明朝又一年
除夜宿石頭驛
旅館誰相問 寒燈獨可親
一年將盡夜 萬里未歸人
寥落悲前事 支離笑此身
愁顔與衰鬢 明日又逢春
前者は、盛唐の詩人高適の作、名詩選などには必ずと言っていいほど採られている名作。後者は、やや下って中唐の詩人戴叔倫の作。「明朝又一年(朝が来れば、また一つ年をとる)」、「明日又逢春(明日になれば、また春がやってくる)」の句に、新年の訪れがいつととらえられていたのかが読みとれる。
夜が明けるまで、あと数時間、とらえどころの無いような一年だったが、古式にならってもう少し、行く年につき合って名残を惜しんでやろう。
歳送り 2002.12.30
いつもなら、歳末風景を見に、どこかの街歩きへと出かけるのだが、今年はそんな気も起こらない。いろいろやり残したこともあって、それが心に引っかかっているせいもあるのだけれど、だいたいが、そのやり残し自体に手が着かない。どうやら、前向きな精神のエネルギーが失われているような気がする。一向にエンジンがかからないのだ。ずっと、そんな一年だった。そんなわけで、なかなか日記の更新も進まず、着々と更新されていく友人知人達のHPを眺めては、ただただ感嘆の念を覚えるのみの日々が続いた。それでもこりずに訪問して下さっているみなさんには申し訳ないばかりだった。
今現在は、この症状のおかげで年賀状に手が着かない。いちおう印刷はしたのだが。これまた申し訳ないが、今年も正真正銘の元旦賀状になりそうだ。本来そう言うものだから、これはこれでいいだろう。今後とも、ずっとこれで押し通してやる。
それでも歳末らしく、掃除くらいはしようとあれこれ片づけ始めては見たけれど、教育関係の職にいると、年度が終わってみないと整理できない、もの・こと、ばかりで、うっかり捨てられないようなものばかりだ。我が性格だと、危なくて3月まで大掃除は無理である。
そうこうするうちに、忘れていたようなものがひょっこりと出てきたりもする。Win95対応のソフト(CD−ROMやらFDやら)などが後生大事に取ってあった。もういいや、と全部捨てる。なんとHDドライブが全部とってある。最初に買ったのは緑電子の40MBだ。これは相当高かった。たしか9万円近くした。今から考えるとアホみたいな話だ。捨てようと思ったが、年内の不燃物収集はもう終わったそうだ。内部データを完全にぶっ壊す必要もあるから、これは年度末になりそうだ。うへ、モデムも全部ある。つい1ヶ月前までお世話になっていたのが、なんだか遠い昔のような感じだ。もう、あの「ぴ〜〜、ひょろひょろひょろ、ぐぁ〜〜」とも永遠にお別れか。
などと、やはり来し方を振り返りつつ、除夕まであと一夜を過ごしている。なんだか力が入らないが、こんな歳末もまあいいか。
休日の移動 2002.10.14
体育の日が10月第2日曜となったおかげで、今日も休日となった。ちなみにたまたま旧暦9月9日と一致して重陽節でもある。ありがたいことに我が勤務先は、明日がお誕生日だそうで、世間様より一日連休が長い。非常勤先も、今週は「報恩講」とか「神嘗祭」でお休みとなり、嵐の前の一服の感。まさに、神様仏様に感謝の一週間である。たまった仕事を片づけよう。
「なんたらマンデー」で連休を増やそうと、祝日を◎月第×月曜に移動する処置とか言うけれど、結局それで動いたのは「成人の日」、「海の日」、「敬老の日」、「体育の日」の4祝日。これらの祝日には、共通点がある。すべて日本国憲法施行後に登場した新祝日で、旧憲法下の祝日との継続性及び関連性を持たない日ばかりだ。旧憲法下の祝祭日は、すべて天皇家および神道系の行事と結びついているので、それを継承している祝日は動かしようがないと言うことなんだろう。それにしても徹底している。
※紀元節→建国記念の日、春季皇霊祭→春分の日、秋季皇霊祭→秋分の日、新嘗祭→勤労感謝の日
GWはもう定着してしまっているので、憲法記念日と子供の日は動かすということになると一騒ぎどころでは済まないだろう。たしかに、「成人の日」や「敬老の日」、「海の日」なんて休日は日付けにこだわる必要はない。しかし、体育の日は東京オリンピック開会式という歴史的日付を記念して制定されたはずだ。その歴史的意義を考慮しても敢えて、と言うのならば、建前上「新憲法公布を記念」しているはずの文化の日も動かして良いはずだろう。しかし、それは絶対に無さそうだ。この日は、じつは明治節である。しかも、昭和23年に新憲法下の休日改正でそのまま切り替わった。我々はいまだに3代前の天皇の誕生日に付き合わされているわけである。憲法公布日に意図的作為が囁かれているけれど、占領軍にばれなかったのだろうか?それとも黙認?このあたり、占領下昭和20〜22年にあった3回の明治節がどう扱われていたのかを調べれば、わかるような気はする。興味はあるので今度調べてみようと思う。
で、「改革!」なんて言いながら、時におそろしく先祖返り的な発想を垣間見せる、現総理大臣が「秋休み創設」なんて言い出した。そこで、ついつい妄想をふくらませたくもなる。これはひょっとして神嘗祭の復活じゃないのだろうか?伊勢の内宮外宮で神嘗祭の中核行事が行われるのが10月15〜17日の3日間。これに前後の土日を絡めれば、5〜7日程度の連休がたちまちできあがる。出来すぎた話だが、ちょうど政府が言っているのと一致する。そうなったら、体育の日はそこへ吸収されてしまうような小細工をするんだろう。
しかし連立与党は法華衆、そう簡単に同意するのだろうか。あ、いや、妄想である。
秋祭り 2002.10.12
いつもの散歩道にある神社に御神燈が立っていた。今日が宵宮、明日が年に一度の例大祭なのだそうだ。故郷の秋祭りは毎年9月の14・15日だったから、ほぼ1ヶ月違いだなあと思ってみたけれど、我が里は、盆を新暦7月にやっているような土地柄だから秋祭りも単純に新暦移行してしまったのだろう。逆に大和盆地は、新暦で1ヶ月繰り下げる処置で調整しただけのことで、おそらく元はほぼ同時期だったことになる。
日本中の村社、郷社、氏神さんで、この時期に秋祭りが行われるのは、稲の初穂を神様に供えるためのようするに収穫祭。しかし、長細い日本列島、稲の初穂の時期も地域によってはずれるだろうに、この時期に集中するのはなぜなのか。それは、本家総元締めの伊勢神宮神嘗祭が10月中旬に執り行われるのに倣っているらしい。ちなみに、この神嘗祭当日は、国家神道時代の明治6年から昭和22年まで休日であった(お伊勢さんの伝統を奉じる週1回の出稼ぎ作文指導先は、現代でもお休みである。おかげで1回得した)。
伊勢神宮と言うところはややこしいところで、外宮と内宮がある。神嘗祭も両宮で行われ、古式に則れば旧暦9月16日に外宮、17日に内宮が祀られることになっていた。明治政府は、明治6年に新暦を採用、当初はこの神嘗祭もそのまま新暦に移行し、内宮祭祀の日(=宮中で天皇が遥拝する日)9月17日を休日に定めたと記録にある。これは明治11年まで続いたらしいが、品種改良の進んだ昨今の早生ならいざ知らず、いくら何でも初穂には早過ぎる。やはり無理を悟って明治12年から月遅れ方式に改め、10月17日に固定されたようだ。伊勢神宮と明治政府も揺れていたのだった。我が故郷と現居住地やまのべとの秋祭りのズレは、この辺りの影響を受けているのだろう。
肝心の稲穂の状態はと田圃を見ると、既に刈り入れの始まっている田もあり、これからの田もあり。初穂だから、これでいいんだろう。見ると田の外側一列だけを手作業で刈り取って、その空いた地肌に溝を掘り込んである。何の作業かと思い、いつも話しかけてくれるおじさんに尋ねたら、「ああやって水抜きして、田圃の地肌を固めるんや」とのこと。作業はコンバインでやるので、地盤が緩いと機械が立ち往生してしまうからなんだそうだ。稲藁も野菜の収穫作業などに使う分以外はもう用途がないので、刈り取り・脱穀作業もやってしまう機械が、細かく刻んで田に撒いている。棚を組んで干すのも、一部の収穫だけだそうだ。
栗のイガイガを見たいという下娘の要望に従って坂を上ってみたが、こちらは、もう既に収穫終了後で跡形もなかった。柿は色づいてきたが早生物以外は今少し。八朔は、まだ娘が「あおいのみかん」という状態だった。稲穂の上を赤トンボが舞っていた。秋はまだこれからだ。
歳月 2002.10.05
もうこの歳になると嬉しくも何ともないのだが、一応、誕生日を迎えた。天寿を全うできるのなら、そろそろ折り返しだ。四十路もまだ入り口って感じだったのが、これでとうとうどっぷり足を踏み入れてしまった感がある。喜んでいるのは、これをダシにケーキが食べられる子供達だけであった。
そう言えば、「今日は何の日」なんてサイトがあったなあ、と思いだして検索してみると、あるはあるは。同じ誕生日の有名人やら、歴史上の事件やら、誕生年の社会情勢やら、ざくざくある。女優の黒木瞳は同年の同じ誕生日だった。老けませんな、彼女。近頃は、たいていの日が何かの記念日になっているので、何か無いかと思って調べたら、やっぱりあった。1894年に日本初の時刻表が出版された日なので時刻表記念日なのだそうだ。
日本人初のヒマラヤ登頂成功の日、土曜日の歩行者天国が初めて実施された日、山口百恵が最後のマイクを置いて舞台から去った日、太陽暦換算で大伴家持(萬葉集最終編者)が世を去った日、そして高村智恵子が夫光太郎に永遠の別れを告げ花に埋もれた日。
ああ、そうだったのか、と確認しつつ見ていくと、日付からの検索で最近の新聞記事も引っかかってきた。「横田めぐみ 生年月日 1964年10月5日」。東京オリンピックまであと5日。同じ日に生まれて「聖子」と名付けられた女性は、オリンピック選手になって、今、国会議員をしている。
浦島太郎と千尋 2002.09.28
ああ、夏休みが終わってしまった。だからといって、毎日遊んで暮らしていたわけではなかったけれど、それが終わった途端、土曜日、時には続く日曜日もつぶれるような日程が始まり、これからずっと続いていく。この激しいギャップ、自由時間の減少と言うよりも、身心を休める日もとれないのがつらい。ここのところ、自分としては大きな病気をやってるのがいつも秋なので、注意して生活しよう。
で、夏休みにも何回かあったのだけれど、この土曜日を使ってキャンパス見学会があった。入試広報委員という名の営業マンは、他の教員がのんびり休養していても、これには出て行かなければならない。これのおかげで我等入試広報委員の夏休みは、他の教員より5日分ほど少ないのである。しかも、受験者数や入学者数が少ないと「何やってるんだ」と経営者からはリストラ圧力がかかる。自分達はのんきでいい先生様達からも、ありがたい御意見・御指導・御鞭撻があったりもする。兎角この世は住み難い。
さて、そのキャンパス見学会でも、ちょっと楽しいことはある。学科企画で実施される受験生相手の模擬講義、30分程度の短時間ながら、普段は覗けない他の教員の講義が聴ける。いや本当に聴きたければ、頼み込んで押しかければ良いのだろうけれど、お互いやりにくいだろうなという遠慮もあるし、だいいち勤務日はそんな時間がない。
今回は、源氏物語が専門のA先生。どんなネタを披露するのかと思ったら、『千と千尋の神隠し』のパンフレットを持ってやって来た。いつものように、私が司会役になって学科の紹介説明などを済ませてから、講義が始まる。題して「異境訪問譚として見た『千と千尋の神隠し』」。たぶん、その枠組みで作ってるんだろうなということくらいは気がついていたけれど、さすがは源氏の専門家、細部にわたる観察で、織りなされたテクストの綾を解きほぐしていく。面白かったので紹介しておく。
異郷訪問譚というのは、神話学や民俗学、説話研究で使われる説話や伝承の分類用語で、分かり易く言えば浦島太郎の竜宮城や海幸山幸神話の海宮訪問、舌切り雀の雀のお宿が「異郷」になる。現実社会とは隔離された世界が存在して、そこでは時間の流れや様々な現象が通常と異なっている。そこへふとしたはずみで迷い込んだ者は、そこでの体験からなにがしかの「タカラ」を得て帰る。帰還後の展開はそれぞれの説話伝承によって異なるが、これがだいたいの大枠であり、『千と千尋』もその類型上にある。
まずは、時間の流れ。車で乗り付けたテーマパークの残骸とおぼしき中国風城門の入り口。お父さんの腕時計は10時を指している。ところが、その城門(これが異郷への第一境界)を通り過ぎただけなのに、最初に見かける時計台は10時40分。第二の境界である川を渡って迷い込む食堂街。食事に熱中する両親から離れて迷い出る千尋の影は正午頃のそれ。不用意に踏み越えた第三の境界である橋の上でハクと出会うシーンから日没へ、急速に影が伸びて日が暮れていく。時の推移の描き方が、外の世界とはまるで違ったものであり、これが「異郷」の特徴である、と。たしかに、3泊4日の物語が終わって帰ってくると、車の周囲は草ボウボウ、落ち葉や埃に車は埋もれていた。浦島太郎の竜宮城での3日が現世の300年だったことを思い出す。
時の流れの異常さは、月の描写にも現れていて、なるほど1日目の月は三日月、2晩目のは満月、3日目の月は十日の月、これが現実世界の時間の流れを反映しているのなら、3泊4日後の経験を終えて、千尋は1ヶ月と1週間後の現実世界に戻ってきたことになる。映画では、その後の話は巧妙にカットされていたけれど、車の周辺状況からみて多分そう言うことになるだろう。
油屋周辺の描写も、「異郷」の象徴としての「四方四季」の景が随所に見られ、そこが現実の時間を超越した空間であることを示している。「四方四季」とは、一度に四季の景物が楽しめるという趣向で屏風画や障壁画で使用される手法だけれども、それが物語の中での描写として使われるのは、現実を超越した「異郷」の設定に他ならない。たとえば、人間の臭いがすると見つかりそうになった千尋がハクに連れられて庭の片隅に隠れるシーン、紫陽花の花の向こうに椿の花、縁側の方向には紅梅の花。うむ、確かに。
最後に、戻ってきた時の城門が、入る時には「いかにも安っぽい粗末なモルタル造り」だったはずが堅固な岩の城壁に。車止めの置き石にあった神様の顔が消失してのっぺりした岩に。これは、「異郷」への入り口があの時限りのもので(モルタル造りは臨時性の象徴)、今はもう閉ざされてしまったことを意味する。これも異郷訪問譚の特徴である。うん、トトロの穴もいつも開いてるわけじゃなかった。そして、千尋の髪に残った銭婆に貰った髪止めがきらりと光って、あの日々が確かに存在したことを示して終わる。千尋が得た「タカラ」は、やや現代化されて「生きる力」だった。
他にも、帰ろうとする千尋に課される最後の課題「決して振り返っちゃいけないよ」は「見るなのタブー」、鶴の恩返しになんかに出てくる。夜の世界が神々の来訪で賑わうのは夜が神の世界とされていた古信仰、異常成長をした幼児のキャラクターなど数え上げたらきりがないほど説話伝承や神話の引用が随所に見られ、この物語は丹念な取材調査と構想とで練り上げられているものである。と。
同じような年頃のお子さんを持つとはいえ、さすがにジブリ作品を見続けてきたA先生の解析はお見事だった。さて、この見事に織りなされたテクストで作者が提示したかったものは何なのか?さらには、何が読みとれるのか?どうぞ、この続きは我らが勤務校へ入学してA先生の講義で聴いて下さいな。とは言っても、こんなとこ受験生が読んでるんだろうか?
帰国報告 2002.09.12
恒例のフィールドワーク韓国、1週間の旅を終えて昨日帰ってきた。旅行前に仕事が片づくことなど今までに一度もなく、例によって先送りしたあれこれが心のどこかに引っかかり、さらには夏を覆った鬱気分のせいでなんだか気合いも入らず準備不足感が払底できないままで、すっきりとはしない気持ちでの出発となった。加えて、出発の前日になってやってくれました、我が息子。雑務に一区切りつけようと大学で書類書きなどをして、最低限のことだけは終えほっとしているところへ自宅から電話。長男がサッカーの練習中に骨折したから帰ってきてくれと。帰ってみるとあわれなギブス姿の息子が。やり残したいくつかの仕事と共に旅行中の心配ネタがまた増えた。
往路はいつも通り下関経由で関釜フェリーを利用して渡韓した。5月から就航している韓国船籍の新造船「星希(ソンヒ)号」に乗れたらいいなと思いつつ、 関釜フェリー公式HPで配船表を調べてみると、運良く当たっていた。ところが出発の直前になって、台風15号が九州北部をかすめて朝鮮半島上陸、大暴れしながら縦断、北上して行った。これで関釜フェリーは欠航し、どうなることかと思ったが、行ってみれば予定通り。この様子は、いずれ「はまゆうページ」に追加する予定。
ウソン情報大の皆さんには、今回も大変お世話になった。台風の影響で国鉄京釜線が被害を受け一部単線化している情報やその後の運行状況など、直前まで心配をして下さってサポートをしていただいた。宿も決めずに外国へ出発するという無謀なフィールドワークが続けられるのも、このサポート体制の存在ならではと思う。伏して感謝申し上げたい。
韓国は、景気回復と同時にジリジリと物価が上がっている感じ。特にソウルでその感が強い。学生達も、ソウルに入ってから急にお金が無くなっていくと口々に言う。そして、デフレの日本とは勢いの違いを感じた。今回の見聞は、いずれ点描形式ででも報告したい。
旅支度 2002.09.02
気持ちがなかなか前向きにならないので、韓国フィールドワークの準備も先送り状態だったけれど、あと数日ともなれば、さすがにやらざるを得なくなってくる。いつもながらに、あまり使いたくはない奈良県唯一のTIS店舗で日韓共同切符を手配、例によって「手書きなので出直せ」と言われたのが、もう10日以上も前。しかし一向に連絡がない。こちらから問い合わせて、ようやく「ああ、出来てます」だった。学生の分のフリープラン保険の申込書も、約束したのにとうとう送ってこなかった。日韓切符が買えるのは県内ではここだけなので仕方がないが、こんな店に儲けさせるのも腹が立つので利ザヤの大きい旅行保険なんかよそで入ってやる。しかし、カッカとも来ないのは、ここの国鉄時代そのまんまに馴れたのか、まだ続く無気力のせいか?たまには鬱にも良い面がある。
JCBプラザで手配した、帰りの航空券はどうなったのだろう?ほぼ同時間帯のアシアナと日航で希望を出しておいたら、日航がOKなのに、それより20分ほど早いアシアナはウェイトがかかってしまった。わずかな差だが、帰りのリムジンバスに乗れるかどうか微妙な時間帯になってくる。大きな荷物を持って、夜の通勤電車に乗るのは避けたいのだけれど。しかし、いつもなら逆の結果が出るのになぜだろう?ま、OKが出てるから良いか。言われて気がついたが、帰国日は11日、そう9.11の1周年記念日。日本人には神経質な人が多いのかもしれない。そう言えば、例の騒動があった去年から牛はおろか肉そのものをほとんど食っていないと言う友人が居る。
現地は、台風15号で大変なことになっている。よりによって、利用する予定になっている京釜線の架橋が流されたらしい。一部が単線運行になっているとのこと。この時期に訪韓すると、水害の跡に遭遇することが非常に多い。政府やマスコミのお偉いさん方は、みんな「過去の歴史」は得意なはずだが、こうした方面は学ばないのだろうか?古代に、土木技術を教えてくれた割には治水の下手な国である。
伝統 2002.08.10
中国の中医も韓国の韓医も、大学に学部があって、西洋医学とは別の養成機関と資格が用意されているのに、日本だけは自文化の培った伝統医学を壊滅的な状況にしてしまったらしい。これは、ひょっとすると廃仏毀釈以上の文化破壊のような気もする。今日の医療の問題点を見ると、伝統医術の担い手の側にも、ある程度の問題はあったのかもしれない。けれども、国家によって医術としての正統性を剥奪されながらも、依然、大衆の支持はあったからこそ今もその命脈は保たれているのだろう。また、それにつけこんだ怪しげな連中もはびこるようになる。そういう側面が、あやしいもの好きを惹き付けたりもするんだろうな。
で、いつもながらに煙をくゆらせながら、この灸を使った治療法、いったいいつからあるのだろうと思い、調べてみると、既に紀元前200年前後の馬王堆漢墓等からの出土医書にも出てくるのだそうな。戦国時代中期(中華のですよ)の『孟子』にも、それと読める記述があるのだとか。渡来系文化人の活動を調べるために、いつかなんかで役に立つだろうと思って集めていた、中国古典医書やら、その研究書やら本草書やらが、ひょんな事で役立ちそうだ。勉強のしがいが出てきた。9月には、韓国で『東医寶鑑』あたりの伝統医学書を集めてこよう。
立秋 2002.08.08
今年は旧暦6月晦と重なった。『伊勢物語』の第四五段に、自分の知らぬ内にある娘に恋心を抱かれた男が、その恋煩いを見舞ってやってくれるように頼まれ、それ故に末期の局面に立ち会ってしまい服喪に巻き込まれる話がある。古代社会では、人の死(ケガレ)に立ち会ったものは喪に服さねばならないという信仰があったようだ。お人好しな男が、所在ない様子で喪に付き合う情景を描写して「時は水無月のつごもり、いと暑きころほひに、宵はあそびをりて、夜ふけてやや涼しき風ふきけり」と記されている。
日中は今日も35度を超し、昼から出かけた勤務先で車を降りた瞬間は、肌がジリジリと焼けるような感覚もした。でも、たしかに昨夜は窓を開けていれば、エアコン無しで眠れる夜だった。ここ数年の、猛暑は日本列島の亜熱帯化を感じさせるけれども、少なくとも、やまのべでは秋の気配を多少は感じられる夜だったようにように思う。最低気温が数度違った大阪はまた違ったようであったけれども。
しかし、水無月とはよく言ったもので、例年水不足に備えて節水の呼びかけのあるこの時期、今年の大和盆地は久方ぶりに渇水状況が深刻化しつつある。子供達が楽しみにしていた、県営プールも軒並み閉場が続き、家の中で暇をもてあましている。
ところで、先日、『萬葉集』に夏の歌は少ないと書いたが、数少ない水無月の歌を眺めていると、やっぱりこんな歌があった。
水無月の地さへ裂けて照る日にも 我が袖乾めや 君に逢はずして(巻十、一九九五)
「照りつける水無月の日でさえも、あなたに逢えず流す涙で濡れた我が袖は乾かすことが出来ないであろう」というオーバーな恋歌だけれども、今も昔もこの時期の暑さは強烈だった証だろう。ただし、ひょっとすると「地さへ裂けて」は、稲作農耕の日程の中で、田の水を一旦抜いて乾し上げ、しっかりと根を張らせる時期が6月中にあることを歌っている可能性もある。
菅の根の根もころごろに照る日にも 乾めや我が袖 妹に逢はずして(巻十二、二八五七)
この類歌の存在が、そうした解釈につながりそうな気もするのだけれど、稲ではなく「菅」の根(常套句なんだけれど)であるところがちょっと弱いかなあ、などと思いつつ過ごしている夏越しの夜である。残念ながら、今夜は熱帯夜に逆戻りのようでエアコンが要る。
足三里 2002.08.01
同僚に、とかくあやしげなことどもに異常な関心と執着を見せる人物が居る。ちなみに、彼はアップル社の生産品の愛好者であり、道具以上の執着も見せている(ように見える)。『電脳なをさん』を地でいくような御仁だ。マック・ユーザーが、みんなあんなだとは言わないが、アップル社の製品は、ああいう種族を引き寄せる魔力は持っているように見受けられる。ま、それはどうでもいい。
ある日、彼とその周辺がたむろする一角へ入っていくと、何やら焦げ臭い。何事かと思えば、皆でうれしそうに灸(関西では「やいと」と称する)をすえているのであった。「どう、やってみない?」彼らから勧誘されると、何かイケナイ秘め事に巻き込まれそうな響きがある。たゆたう煙の向こうに、にこやかな笑顔、いよいよあやしいが、灸くらいなら一度やってみようと初体験。本当に初体験だった。
使われていたのは、「せんねん灸オフ」という製品。丸い円盤の中央に通気穴が開いていてその上にモグサの紙巻きが取り付けてある。直接肌を焼かずに済む、どこかで見たことはある現代的な構造のそれだった。「肩の凝りがちょっと」と言うと親指と人差し指のラインが交わるあたり(「合谷」と言うツボらしい)に取り付けられた。円盤裏がシールになっているので簡単に貼りついたのであった。点火してしばらく待つと、通気穴のある辺りの一点にツーンと熱さというか痛さというか、強烈な刺激がやってくる。耐えられないほどのものではなかったので箱を見ると、製品には何段階かの強さのレベルがあって、下から2番目のものだった。中国旅行時に、何度か鍼マッサージは試したことがあるけれど、その時同行した同僚が翌日に響くほど反応したのに、私は何の効果も感じなかった。だから、あまり期待はしていなかったのだが、しかし、我が身体、灸には反応が良いというか何というか、腕と肩が本当に気持ちよいほど軽くなった。やらなかった左腕が重く感じられるほどだった。こいつはいいやと左にも、、、効いた。
そして、このあやしげな集いの経験が忘れられずに、とうとう、自分でも買ってきた。中に添付資料として身体の各部のツボと効能との関連が簡単に記された説明用紙が入っている。ツボ表示用写真が、なんで水着のお姉ちゃんなんだろう?と思いつつも、くたびれたオッサンよりは良いから文句は言わず、しげしげと眺める。これによると、あちらこちらの症状に対応する「足三里」というツボがあるらしい。「疲れてくると目がかすみ視力が落ちる」「食物の消化が悪くて腹が張っている」「クーラーにあたりすぎて身体がだるい」「食欲がない」ここのところの夏ばて気味な、そしてやる気の起こらない我が身そのものではないか。
とりあえずやってみようと、子供達が面白がって眺める中、足三里と説明されているツボに灸をすえてみた。直後は膝から下が軽快になって気持ちがよい。それだけだったが、二日ほど続けると、なんだか本当に食欲がわいてきた。ここ一週間の昼食など、毎日蕎麦か素麺で済ませていたのが、お代わりまでしてしまった。現時点で灸の効果かどうか?久しぶりに日記を更新する気になっているのも、確かである。
ゆとり教育 2002.06.28
息子の通う中学校で保護者説明会なるものがあるというので出かけてきた。平日の夕刻とあって、お母さんばかりに混じってお父さんはたった二人であった。女ばかりの中にポツンと居ることには慣れているので別に何でもないことのだが、体育館でパイプ椅子に座って先生の話を聞くなんて久しぶりだ。通常、逆の立場に立つ方が多いので、たまにはこちら側に来て自らの鑑とするのもよい。しかし、校長の挨拶と概略は内容が無い割には長かった。20分、講義で話しているとあっという間だが、実はあんなに長かったのか。
前半は、新学習指導要領実施に伴い、完全週休二日制移行と通知票に記載する評定値を絶対評価に変更することの説明。商売柄、知っていることばかりだったので新味は感じなかったが、「総合学習」と「選択科目」の現場運用がかなり大幅に学校裁量に任されている理由はよく分かった。息子の中学校では、「総合学習」については、「従来の取り組みを踏襲して特に授業時数を設定することはしない」と説明された。「従来の取り組み」ってなんだろう?と思っていると「社会見学(1年)→職業体験(2年)→修学旅行(3年)と続く一連の取り組みの中で培われる何たらかたら」だそうだ。よくわからんが、つまり「総合学習」は、各種学校行事を通して行うってことだな。で、その分の授業時数は「ゆとり教育」への転換で不安視される基礎学力の充実用にあてる、のだそうな。ところが、帰宅して息子の時間割を見ると「総合学習」なるコマが一つある。実際に何をやってるのか聞くと「その時によって違うけど、数学とか理科とか、予定より遅れてる授業やってる」らしい。行事でつぶれた時数の穴埋め用になっているようだ。な〜んだ、文科省の御役人様の言う「生きる力の養成」など、現場では既に骨抜きである。
通知票の評定値も、奈良県の教育委員会が「公立高校の入学選抜方式は向こう3年間現状維持」を決めたため、従来通りの相対評価も並行して継続しなければならない。そちらは将来の進路選択の参考用にと三者懇談の場で別表にてお渡し下さるようで、先生方にとっては手間が増えただけ。お気の毒としか言いようがない。それでも、成績の話となるとお母さん達の反応も過敏で「相対評価なら、上から順番で着くけれど、絶対評価になると先生によって評価基準が違うとか到達度に差が出るとか、そう言う問題はないのか?」と突っ込みがいく。教師に対する不信感の表明とも取れる質問に、多少苦笑しながらも「評価基準は教科会議で合議の上決められますから」と説明があったが、もう一点についてはなんとなく曖昧なまま。教師の技量に対する相互批判が実に困難なことは私らの世界も同じなので答えるのが難しいのはよく分かっているけれど。
後半は2年生の親だけ残って「職業体験」の説明会。注意事項がいろいろあったのだけれど、体験先の確保は家庭に任せるって、困ったな。学校からは、事前に依頼も要請もなく、自分達で探して受け入れ承諾を取ってこいと。できるだけトラブルを避けるためにも保護者の知り合いに頼めと。体験先は原則としてこの校区内もしくは市内、この田舎では、私のような地縁血縁のない渡来系住民には難儀なことだ。コンビニ・ファーストフード等の業務がマニュアル化されている事業所は避けよ。はいはい、なるほどね。危険な作業を伴うもの、それから警察と消防は無理。当たり前だし、こっちが心配だ。それでも、過去に駐在所に現れて「どうしてもやりたいから、何とかしてくれ」と言った生徒がいたそうな。
これのための事前指導として、進路選択適性検査「パスカル」とやらがあったらしい。アンケートに答えていく方式で個々の適性をはかるらしいが、息子の適性は「情報技術関連」に最適だと。これからの世の中、それも良いかも知れないと思える結果だった。
ハレとケ 2002.06.25
主として民俗学で使われる概念に「ハレ(=非日常、特別な時間帯)」と「ケ(=日常)」がある。これに日常生活の活力が衰退方向に向かう「ケガレ」を加えて、様々な文化事象や行動様式を説明していく。たしか柳田国男を出発点とする考え方だったように思う。ほんの2週間前まで、日本中がやや長い「ハレ」の時間帯にあった。たぶんオフサイドの原理も認定方法もわかっていないような学生達から「明日の講義は休みにならないのですか?」というメールが多数届いたのも先週月曜日、日本代表がトルコに敗れ「ハレ」の日々が終わる前日だった。
日本社会にとって、我らが代表チームが活躍中が「ハレ」の期間であったように、サッカーの世界でもW杯期間中は「ハレ」の日々に当たるのだと思われる。対する「ケ」の日々は?と言えばレギュラーシーズンに行われるリーグ戦がそれに当たるのだろう。もっとも、選手達にとっては、練習の日々こそが「ケ」であって、週末毎のゲームは「ハレ」舞台、我々にしても「ケ」の日々を通り越して減衰した活力を補うために設定された「ハレ」の日が、サッカーを観戦に行くその日でもある。あれ?そうすると「ハレ」と「ケ」ってのは、相対的価値概念で絶対的なものじゃなかったのか?生半可なことを言うと民俗学の皆さんに「だから文献屋は!」と怒られそうだからやめておこう。
古代では、この「ハレ」の行事に関わって、何かを「見る」ことが非常に重要視された。代表的な例で言えば「花見」「国見」等があげられる。なにゆえ「見る」ことにこだわったのか?それはその行為に「タマフリ(魂振)」的意義があるからだという。古代の人々は、自らの活力が衰えると、生命力溢れるものを見ることによってその漲る力を我が体内に取り込もうとした。すなわち、「花見」とは満開の花を見ることによって、目を通して自分の体内にそのエネルギーを注入しようとした行事なのだ、と説明されている。
ええ大人が、他人のそれも見も知らぬ国々からやって来た異形の外国人同士の球蹴りを見て興奮する。なるほど、長引く不景気にリストラの嵐、日々の活力の減衰に悩まされていた人々にとっては、魂を奮い立たせる格好の「見る」対象である。しかも、今回はわが体内に流れる血と、遠い昔にどこかでつながっているかも知れない同族の息子達も参加しているのである。若い衆のみならず、オッサン・オバハン巻き込んで日本国中血湧き肉躍るのも宜なるかな。
しかし、あまりに過剰なエネルギー摂取は、やはり疲れる。エネルギーを取り込むその行為そのものも、かなり体力を消耗するものなのである。ようするに何が言いたいのかというと、ぼちぼち「ケ」の日々が恋しいのである。はやくJリーグ再開しないかなあ。
鯖街道 2002.06.22
マイコプラズマ感染症によるしつこい咳と思われるものが発現したのが、先月、山背古道を歩いて帰宅した直後からだった。咳は就寝時以外は思い出したように出る程度まで鎮まってきた。息子の方は、血液検査の結果、「の疑い」が取れ、「間違いなくそうでしょう」との診断が下っている。診療科は違うけれども別件でかかっている他の医師に訊ねてみると「成人の場合は免疫力があれば、いずれ症状は消えるはずなので、悪化しなければそのままでいい」のだそうな。問題は、免疫力の弱い子供と老人が注意するべき感染症だとのこと。抗生物質の濫用を避けようとする私担当の研修医さんの判断も間違ってはいなかったわけである。それにしても、喉のイガイガ感は依然消えず、しつこい野郎だと呪詛の言葉は絶えていない。
あれから1ヶ月、またもや例の仕事の期日が巡ってきた。今回は、若狭から京都への道「鯖街道」がテーマ。上代文学専攻の私には、ほとんど縁もゆかりもない道なので、誰かに頼もうかとも思ったが、大人はみんな忙しい昨今のこと、こんな安いギャラでは誰も引き受けてはくれそうにない。ボラバイトと割り切って出かけることにする。土曜日だっちゅうのに、朝7時50分に難波OCAT集合はかなりつらい。これも他に引き受け手がない理由。なんで、そんなの続けてるのか?逆の意味で「金のための仕事」がしたくないからだろうな。
バスで3時間近く、若狭湾に面した小浜からスタートする。商店街にの路面に御影石の起点レリーフが埋め込まれていた。これを確認してから、若狭一宮へ向かう。商店街には、お約束のように鯖の浜焼きを売る店が出ている。一人だったら買ってかぶりつくのだろうが、団体引率の身で我慢する。うまそうだった。
「一宮」という社格システムは、まじめに勉強したことがないのでよく分からないけれども、平安末から鎌倉期にかけて、各国毎にどこがそうであってという制定が進んだらしい。つまり、何となく決まっていったと言うことだろうか。若狭国一宮は、上宮と下宮があり、今回の実質的スタートとなったのは、遠敷(おにゅう)にある下宮の方、境内に千年杉と称する巨大な神木があった。前に立つだけで圧倒される。延喜式内社なので、本当に樹齢千年かもしれない。到着してから、東大寺二月堂のお水取り行事と関係のある地だったと思い出したが、うっかり予習し忘れていた。古代の日本海交流と江戸期の西廻り航路開設までの繁栄の話をしておいた。教育活動ではないので良いでしょう。
熊川宿は、行政による整備が始まっていて、街並みの半分は映画のセットのようになっていた。電柱は地中に埋められ路面は砂利を敷き詰めてプレスをかけたような透水性舗装。各戸の前を流れる、その名も前川も風情があって、なかなかいい感じだった。街の中程に「義民松木長操」を祀る松木神社なるものがある。江戸期に高率の徴税に苦しんだ周囲の郡郷とともに決起した、一揆の頭目だった人物だそうで、不覚にも知らなかった。9年間屈服せず、税率を元に戻したがその代償として磔刑になったとのこと。それを明治になってから神として祀っているそうだ。東京で見た、吉田松陰神社もそうだけれど、現実にこの世に生きていた人物を神格化するその現象に少々関心がある。故郷にも、賀茂真淵神社がある。これなど、神官が神になってしまった例だ。日本一初詣客の集まる明治神宮もその例である。どうも、ある時期の日本社会の精神構造と関連があるような気がしているのだが、そうした研究はあるのだろうか。
水坂峠が分水嶺のようで、猿や蛇と遭遇しながらこれを越えると川の流れが逆になった。それまで降っていた雨も、からりと晴れ上がり国境を感じる。朽木宿に着くと、予定の時間を大幅にオーバー。夜7時から、長男のサッカー部の保護者会があるのに間に合いそうもない。あきらめて会長さんに電話しておいた。
帰りのバスの中で、W杯のスペイン−韓国戦をラジオで聞いた。PK戦までもつれ込む好勝負で韓国の勝ち、、、かと思っていたが、帰宅して、TVで観ていた長男から「2点もとったチームが、0点のチームに負けたで」との感想を聞く。後のニュースで見ると、例によって誤審と露骨なホーム寄りの判定があったらしい。現役プレーヤーである長男には、「快挙!」よりも釈然としない思いが強いようだ。世の中、たしかに実力だけで勝負はつかない。この事実を変な形で教育することになったのが少し悲しい。私をよく知る人には意外だろうが、米国戦以来、じつは我が家では韓国代表チームは応援されていない。あることで、彼ら代表チームのあまりに異質な精神状態を見てしまったせいかも知れない。韓国文化は好きだけれど、サッカーだけは脳の別部分が働いているようだ。それに、すべてを認めてしまうことが愛情とも言えないだろう。
端午節 2002.06.15
本日は、旧暦5月5日端午の節句。伝説では、憂国の詩人屈原が絶望の末汨羅の淵に身を投げた日でもある。端午の節句に粽を食べるのは、石を抱いた屈原の遺体を飢えた魚が損なわないようにと、粽を投げ込んだとに由来すると言う。1500年ほど前の一人の詩人の死が、新暦化されたとは言え(しかも「子供の日」と姿を変え)東方海中小国の年中行事に影響を与え続けているのも面白い話だと思う。その日の明け方まで、道頓堀では、数百人があんな汚いどぶ川へ飛び込み続けるとは、よほど溜まっていたものがあったのだろうなあ。ノリ出したら何でもやっちゃう大阪人には、やはり完全同化できない自分を感じる。
先月からの風邪をこじらせたか、いまだに咳が止まらない(と思っていた)。それどころか、同じ部屋で寝起きしている長男まで同じような咳をし始めたので、何か変なものをうつしたのではないかと心配になって、病院へ連れて行き受診させてみた。身長はすでに追い越され、最近親を見下げるような視線が気になっていても、行ったのは小児科である。周囲に乳幼児だらけの中、すでに鼻の下にうっすらと髭のようなものの気配を見せる息子と待合室にいるのは、はなはだ不調和な気もしたが、患者が14歳だったか15歳の誕生日を迎えるまでは小児科の担当になるそうだ。
聴診・触診の後、私とまったく同じ経過で3週間もしつこい咳が続くので、と説明すると「あ、うつったんでしょうね」と血液検査とレントゲン撮影の指示書が出た。「おい、血ぃ〜抜かれるで」と脅しても、なんだか面白がっている。どんな環境でも「何か面白いこと無いか?」と変な好奇心を発揮するのは父親譲りかと思っていたが、なんと自分の採血の一部始終を興味深そうにじっと眺めている。あれは私には出来ない。針が自分の身体に入る瞬間なんて、見ていたら全身の力が抜けてしまって立てなくなりそうな気がするので、いつも目を背けている。感想は「ああ、面白かった」我が子ながら、変な奴だ。
結局「マイコプラズマ感染(の疑い)による気管支炎」との診断。近頃、流行気味らしい。私は、同じ病院の総合内科を受診して咳止めしかもらってなかったのに、長男へは抗生物質らしきものが処方された。帰宅してから例によって、インターネット検索すると、まさにそれ用の薬である。私自身は「肺炎ではないからご心配なく」程度だった。思えば、長男を診た小児科の先生は、もう風格のあるまさにお医者様然とした方だった。、私を診たのはどうみても新人さん。聞けば、ここの病院では、総合内科の診察室の1つを研修医担当にしてあり、やまのべ市内受診者をそれに充てるらしい。彼ら研修医は、勉強のためにと普通より長く経過観察をする事例もあり(博論のデータ集めやってる人もいるそうで)、交通費のかかる遠方の患者は気の毒だから、との理由らしい。
ついでに「マイコプラズマ」なるものも検索すると、予後良好とはいえ「しつこく頑固な咳」が特徴のようで、もうしばらくは我慢しなければならないようだ。身体の方は無理をしない程度なら動くので、かえって変な病気ではないかと気になっていたが、それも特徴的症状らしい。初期診断も普通の風邪と同じようなものなので極めて難しいと。私の場合は、ひょっとしたら肺炎かな?程度の風邪症状だったのでそれでも良かったが、はっきり症状部位のわかる場合は、いきなり専門科へ行くのも手、などという裏技を、ここの元勤務者でもあるカミさんから後で教えられたのであった。自分も新人教師の頃はかなり生徒に迷惑かけたろうし、今も初担当の講義は実験的要素が強いから、この程度なら、医学の発展とその基礎たる人材育成に寄与するのも構わないと思うけど。あ、別に誤診だと言っているわけではないので念のため。
そういうわけで、旧暦端午節(今なら子供の日)を親子で病院で過ごした1日である。
日本事情 2002.05.24
健康診断が終わった途端、身体への気遣いに関して少々気が抜けたのか、風邪をひいた。前回日記に書いた、京都の低温にやられた翌日、3万歩近くを歩いたのがやはりこたえた。月曜夜から咳が出て、火曜・水曜はへろへろながらも出勤したけれど、結局それでダウン。この2日は全休する羽目になった。高熱はないけれど、喉の痛み、咳き、日に2〜3回の周期で微熱程度まで上がる体温。いかん、数年前にやった肺炎の時と同じだ。一昨日など、咳のしすぎで肩と首がかちこちに凝って、首が回らなくなった。おとなしくして寝ていたが、37度少々の微熱くらいだと、不思議なことに身体は元気になってくる。今日当たりは、首も楽になったので、落ち着いていられなくなって出欠表の整理を始めた。
今年から、出欠表を自己制作のものに変え、学籍番号と氏名の下に「今日の一言」コーナーを作った。「本日の講義に関して、何でもいいからコメントを寄せてくれ」という欄だ。はじめは、マイナス評価にへこんだりしていたが、続けていると予想外の反応があったりして面白くなってきた。はじめの頃多かった、講義方法や内容に関する文句も数回でほとんど無くなり、プラス評価や質問的な書き込みに変化してきて、自分がスロースターターなのも自覚できた。ただ、最初の1回は登録前のショッピング中だし、概説的なことは出来ても試験やレポートに関わるような事項までは踏み込めないから仕方がないとは思うけど、来年からは改善の余地がある。
今年は、いよいよ色物系の比率が増え、「日本事情」なんていう講義までやっている。いったい、私は何の先生なんだろう?この講義、本来は日本語教員養成用のものだった。数年前のカリキュラム改正の時に、長老派から「こんな講義は国文には要らないから廃止しろ」と言う意見も出た代物。その時、留学生対象講義としても必要だからと言う理由で真っ向から反論したのが私だった。去年の留守中、それを担当してくれていた非常勤の先生が急に辞めてしまって宙に浮いたこの講義、きっとその責任を取れと言う意味で私に廻ってきたのだろう。何しろ、私の出ていない会議で「これは、あいつしかできない!」と満場一致で決まったそうだ。
さて、困った。古典文学、それももっとも古い時代を専攻する私が、「現代日本の社会や文化に関わることなら何でもあり」という、まことにつかみ所のない内容で講義しなければならず、それも通年モノだ。しかたがないので、前任者の講義概要を盗み見て、シラバスにおける今年の講義予定もそれをなぞっておいた。
とりあえず、連休前は『となりのトトロ』ネタを使って切り抜けた。話の締めは、昭和30年代が今の日本の骨格を作る時代だ、と。さて、いつまでも遊んでいるわけにはいかないので、5月からは新聞講読を始めている。『新聞学』だの『新聞記者入門』だの、その手のものを連休中に読みまくって、なんとか付け焼き刃を施し苦闘中。文章表現ネタの「5W1H」だの「逆ピラミッド構造文」なども駆使して自転車操業を続けている。正直言ってつらい。けれども、ひょっとして1年やり遂げたら、新しい持ちゴマに出来るかも知れないなという手応えは少々感じてきた。むかし、ちょっとだけ新聞記者にあこがれた時代もあった。それに、教育のプロなんだから、守備範囲は広い方が良いだろう。
自宅にある同じ日の新聞を持ってこさせて読み比べ、その紙面構成の共通性や見出しの立て方の違いなどを比較したのが前回。今日、整理していたのが、この講義の「今日の一言」。
ある学生は、新聞をコンビニに見立てた。各紙で記事の配列や配置がほとんど同じなのはまるでコンビニ各社の店舗のようだというのである。なるほど。でも、棚にある商品や飲み物の種類が違っているように、細かく見ていると各紙毎の顔が見えてきて面白いと。そうそう、各地方版まで含めると、お弁当の付け合わせやラーメンの種類の違いなんかと同じなんだよ。
ある学生の率直な感想。「わたし新聞は@@新聞が好きです。◎◎新聞は暑苦しくて好きになれません。特に1面のコラムを読むとそう思います」すばらしい印象批評だ。さすが文学部日本語日本文学科の学生だ!とほめてやりたいが、対象の客観化も教えないとなあ。
高麗寺 2002.05.18
H交通社主催、I市民生協会員様対象のミニツアー「古道を歩く」、今回は山背古道だった。今週初めの暑さ続きにこりて、金曜日の京都出稼ぎは半袖で出かけたのだけれど、その日に限って低温、多少風邪気味になってしまった。しかしながら、なんとか睡眠時間は確保して、当日に臨んだ。
バスでやって来る御一行様との合流地へはJR線でしか行けない。ところが、この春の改正から、不採算のローカル線はかなり間引運転が始まり、土曜日曜には朝夕の運行まで少ない。結局、1時間前に着いておかないと、次の便では間に合わないことがわかり、早めに出かけた。降り立ったのは、JR奈良線上狛駅、待合室で引率予習用の資料でも読もうかと思っていたが、無人化されて寂しいだけじゃなく、待合室はゴミだらけで荒れ放題、おまけに椅子の辺りに吐瀉物が。とても待合いなどに使える状態ではなかった。この先、駅舎の無人化もどんどん進むそうだ。
たしかに国営時代の一部国鉄職員の態度はひどかった。対人サービスの意識などかけらもなかった。しかし、列車の運行と施設・設備の維持にかける情熱はすばらしかった。民営化と合理化の行き着く先で何が切り捨てられていくのか、こうやって地方在住者は見せつけられる。ブロードバンドだなんだと言っても、独占民間企業のNTT様は、我が家の周辺のような不採算地域への設備投資など予定もたててないそうだ。今度は、郵政民営化だって?何でも満たされてる都会の論理でそうするのはいいけど、JRやNTTのようにたちの悪い独占的疑似民間企業作るのだけはやめてくれ。
ぽっかりと空いた1時間をどうしようか?ふと駅前に目をやると、「高麗寺→0.6km」の表示がある。今日のコースには入っていなかったけれど、周辺遺跡として相楽高麗寺跡があったことを思い出した。往復30分もあれば行って戻れるなと計算し、行ってみることにした。
線路と平行の道を歩き、やがて踏切を越えるとその先は墓地、そこを抜けると急に視界が開け、野中の一本道と言った風情の道がまっすぐのびている。その先に一群の立木が見える。そこが高麗寺跡だった。周囲には何もなく、史蹟そのものもただそれを示す標柱以外は何もない。中程に、誰が詠んだのかあまり上手いとは思えない歌の刻まれた碑(各自写真の文字を読んでください)、その向こうに塔の心礎だけが残っていた。心礎の手前に見える穴は舎利容器の収納用に穿たれたもので、珍しい形式だとのこと。古代には、この辺りに山背国府があり、それに隣接した大規模な寺院として栄えていたそうだ。古代をやっていると、こういう想像力を要する遺跡とつきあうことが多い。例によって例のごとき遺跡であった。
伝えられるように、高句麗系の渡来氏族である高麗(狛)氏の根拠地であるとすれば、古代豪族のおさえていた大和川水系ではなく、淀川水系から大和への中継点であるこの地に目を付けたのはさすがと言える。奈良から出た線路が、木津駅で関西本線と奈良線とに分岐するように、古東海道もそこから東へと向かったらしい。北西へは古山陰道、そして泉川(木津川の古名)を渡り北へと古北陸道が続いていた。その分岐点に加えて、泉川を通じた淀川水系との水運が加わり交通の要衝だったのがこの地である。飛鳥京から平城京への遷都後は、その重要度がさらに増し、繁栄もひときわだったのであろう。奈良時代は、北陸方面に旅立つ人をこの対岸の泉川のほとりまで見送り、そこで別れの宴を催すのがならいだったらしい。大伴家持の歌などにその様子が残されている。
旧名「泉川」は、国道24号線が木津川を渡る鉄橋「泉大橋」の名に残る。そして、鉄橋近くにはこの地に初めて橋を架けた行基に縁の泉橋寺も現存する。心惹かれたが、時間が足りないのでそちらは断念した。
山背古道ミニツアーの方は、1日で13kmを踏破して終了した。疲れた。本格的に喉も痛み出した。募集は絶好調で、9月までの前期分は予約満席キャンセル待ちだという。しかし、こんなインチキな講師で良いのだろうか?
恐怖の健康診断 2002.05.15
年に一回、職場には定期健康診断というイベントがある。我が勤務先では、5月の第2水曜日がそれにあてられている。毎年この時期になると、にわか健康オタクがあらわれたり、まことしやかな健康法が話題になったりする。これに備えて、納豆ばかり食べ続けてきた者、米飯の代わりにひじきを食べ続けてきたという者、バナナばっかり食べていたという者、様々いる。しかし、訊いてみると、たいてい2週間前からとか連休の頃からとか、そういう答えが返ってくる。そんなので効果あるのか?変な結果が出ると怖いから受けるのやめるという不可解な行動をとる者もいる。信じている、もしくは実行している健康法も、聞いてみると怪しげな眉唾モノのオンパレードで、とても研究者や科学者の口から発せられているとは思えない言説が横行している。圧巻は、もう何年も朝1杯の尿を飲み続けるT氏であろう。
そうはいいながら、自分も春先から毎日ブルーベリージャムを食べて視力検査に備え、この1ヶ月ほどは米飯の量を半減させてウェイトコントールに励んできた。2月末に歯の治療を終えて以来、急激に体重が増え、今まで体験したことの無いゾーンに突入しかけていた危機感もあったからだ。食事の量が増えたわけではないので、咀嚼が良くなったせいであろう。逆に胃腸への負担は減っているはずなので健康度が増したせいとも言えるのではあるが。
ムネオ疑惑が持ち上がって以降、その渦中の佐藤某が私と似ているなどという妄説を振りまく輩も現れ、それも多分に不愉快だ。「あんなロシアオタクの肥満体と一緒にするな!」と怒っていたら、息子に「デブでオタクなら、そのまんまやんけ」とまで言われ、いよいよ情けない気分にもなった。
私の場合、血液検査の中性脂肪(トリグリセライド)の値がいつも高く、その注意書きが同封されるおかげで検査結果の通知封筒がいつも厚い。澱粉の取りすぎに注意しろと、毎年叱られている。しかもHDL(善玉コレステロール)低値ときた。うどん、蕎麦、丼物、スパゲティ、焼きそば、ソーメン、お好み焼き、そういえば和洋を問わず穀類・粉物なら何でも好きだ。そのうえ、関西へ来てから、うどん+寿司・カレーなどを代表とする、麺類&米飯類の澱粉合わせ技の快楽を知ってしまった。最初は違和感のあった焼きそばをおかずにご飯を食べるなどという超不健康な食べ合わせも、近頃はそうでなければ物足らず、お好み焼き定食(お好み焼きをおかずにご飯を食べる)という奇怪な食事にさえ何の抵抗も感じなくなってしまっていたのもよろしくなかったかも知れない。
ともあれ、1ヶ月の精進の甲斐あって、体重は2kgほど落ち、いつもの定期健康診断時の範囲に収まってきた。前日、23時をもってすべての飲食を絶ち、朝は水を1杯だけ飲みお楽しみの珈琲も我慢して出勤し検査に臨んだ。ブルーベリーの甲斐あってか、いまだに視力は右1.5/左1.2を維持、その他異常なし。とは言え、結果が帰ってこないと分からない、血液と尿の検査結果が気になる。
体重はいつもより少ないくらいだった。どうだ、頬がややすっきりしただろう。帰宅してそう自慢していると、例の佐藤某逮捕のニュース。彼も、先日見物してきた小菅の住人となるのか。ところで、久しぶりにブラウン管で見た御仁もなんだか痩せているではないか。「しかし、どこが似ているのかね?さっぱりわからん」と再び反撃していると、義母までニヤニヤ笑ってこちらを見ていた。
田の神様 2002.05.12
いつまでたっても怠け癖が抜けない。今週は、木曜日に勤務先との往復、いったん自宅へ戻ってから、再度学園本部往復と1日大阪2往復なんてのがあった。これがきつかった。やっと1週間を終え、週末になると身体バラバラ、しかも微熱に頭痛、それが目にくるタイプで数分間ディスプレイを見ているだけで頭痛がする。これは、天が我に休めと言っているのだ。寝よう。その結果、休養に1日、回復にもう1日を要する事態となった。月曜を研修日に空けておいて良かった。これがないと、講義の準備もままならない。
夕方になって、やっと気力が戻ってきたので、ちょっとした用を済ませに隣村へ出かける。1週間ぶりに来てみると、仕事に追われへたばっている内に田畑の様子が変わっていた。あちこちの田が掘り返され、そしてそこかしこに苗代が作られている。立夏も過ぎたのだから当たり前である。田植えの準備が始まっていたのだった。連休あたりから、雨模様になると蛙の鳴き声も聞こえていたっけ。
節分の柊と鰯の頭もそうだったけれど、このあたりの旧家は、古い習俗を様々な局面に残している。あちこちの苗代を見るとその片隅に必ずお花と松の枝とを添えて田の神様が祀られているのだった。近隣の神社からいただいたお札も見える。手に取って覗いてみるわけにはいかないけれど、どうやら「龍」の字が見えるようだ。おそらく水神様を祀るのであろう。まだ苗代田以外には水は張られていないけれども、やがてこの辺り一面の田が水を得てあたり一面が湖水のようになる。「水利権」という言葉が現実に実効性を持って生きているような土地である。かつては、農業用水の確保は重大事だったに違いない。特に何の花というのは決まっているようではないけれど、必ず松の枝とセットになっている。神の依り代として常緑のめでたさが尊ばれたのだろうか。
所用を済ませての帰り道、やまのべの道の辺の農家の軒先に、「いちごあります」の文字が。立ち寄ってみると、1パック¥100円だとのこと。ど〜れ、と眺めていると、いっしょに連れていた下の娘が「いちご、いちご」と、ろくに喋れもしない口で大騒ぎ。甘い甘いお父さんは、その安さにつられて、つい3パックも買ってしまった。粒は不揃いながら形の良いのが詰まっていて本当に¥100円、田舎に住んでるアドバンテージが実感できる瞬間である。これだけ買っても、500円玉におつりが200円返ってきた。露地物なら今から旬の苺だけれど、このあたりは、ほとんどハウスの夜間電照まで使った早生物が中心なので、もう集荷もほとんど終盤なのだそうだ。たくさん買ったつもりだったのが、帰宅と同時にお兄ちゃんとお姉ちゃんが1人1パック抱え込んで食べてしまった。
夕暮れの道、良い香りが漂っているなと思い、その方向に寄り道したら、ミカン畑で、真っ白で小さな花が一面に咲き誇っていた。そういえば、やまのべの道周辺では、古墳がミカン山や柿山になって再利用されている。ここでの暮らし、あらためて周りを良く見まわしてみるとなかなかいい。
環濠集落 2002.05.06
連休中は、ずっと子守のような生活だった。長男は朝早くからサッカー三昧だから良いとしても、娘二人が問題だ。少子化の影響で近所の同級生と遊ぶにも、この田舎では最短でも送り迎えの必要な距離だ。そのうえ、めぼしいお友達は、みんなどこかへ出かけてしまっているらしい。だからといってどこへ出かけても混雑する。上の娘は、田舎育ちのせいで人混みでは頭が痛くなるし(これはお父さんもそうだったよ)、都会へ出ると必ず調子を崩す。それならと、むしろ自転車で近所をうろうろした。
最近の有機農業再評価のせいか、たった二枚だけれどめずらしく一面レンゲの田圃を発見。ほれっと放つと、まるでトトロの姉妹のようにはしゃぎまわって喜んでくれた。久方ぶりに一緒に足を踏み入れてみると、草と土の匂い、かゆくなる手足、飛び交う蜜蜂と蝶々、やっぱりやまのべ暮らしも悪くはないなと思い直した。
我が家は、減反地を埋め立てて造成した「新興住宅地」なのだが、自治会は古くからある本村の付属組織のようになっている。その本村へ入ってみると、一軒の軒先に「北垣内月当番」の札が下がっていた。西日本を中心に、よく見る「垣内」の名称、地名としては残っていないけれども、集落内の区画名称としては生きていたことを知った。この名があるということは、この地方ではそこが環濠集落としての歴史を持つことを意味する。よく見ると、たしかに村の周囲を水路が流れ、おおむね石垣で固めてある。
環濠集落とは、古代〜中世に発達した集落の形態だそうで、つまりは略奪集団からの自己防衛のために集落の周囲を壕堀で囲ったものを言うらしい。映画『七人の侍』の舞台となった村のようなもの。あの堀は急作りだったけれど、もっと本格的につくってあるものを言う。そして、その集落を「垣内」と称するのだそうだ。やまのべで有名なのは、わが本村よりもむしろ隣村の方で、なぜなら、標高100mの現在確認されているもっとも高地に存在する環濠集落の跡だからだ(と村の入り口にある解説板に書いてある)。古い方で有名なのは、吉野ヶ里遺跡だったっけ。それならと、隣村まで足を伸ばしてみた。いつもは娘ではなく愛犬を連れ行く道だ。
環濠だった場所は今ではほとんど埋め立てられて、一部は児童公園になっている。そこで娘達を遊ばせている間に、わずかな環濠の名残の姿をデジカメに収めた。冬の間は干上がっていた壕堀が、農繁期を前にしてたっぷりと水をたたえている。昔の姿を忍ぶなら、今が良い季節かも知れない。
やまのべの道ハイキングのみなさんは、みんなここだけを眺めて帰って行かれるけれど、本当に興味と関心を抱かれる方は、集落の中のつくりも見ておかれると良いだろう。道は細く、しかも真っ直ぐ見通せないようにと短い距離で直角の曲がり角がいくつも入り組むようになっている。しかも、似たような曲がり角そして突き当たりの塀という風景がいくつもあるがために、自分が集落内のどこにいるのか分からなくなる。おそらく馬で攻め込まれた際の防御を想定してのものだろう。私は、こんな中へ軽自動車で入るのも嫌だけれど、そこは地元のみなさん、素晴らしいテクニックで3ナンバーが出入りしている。まさしく、勝手知ったる者のみの世界がそこにある。
やまのべの道は、この集落のすぐ下を通過していく。大和盆地の東縁、かなり高いところを行く道筋になる。なんでそうなのかは、次回のお話。
国民の休日 2002.05.04
まったく、なんて休日だ。留学生になんと説明すればいいのだ。な〜んてのは建前で、やっぱり休みになるのはうれしい。非常勤先などは、4月30日は創立記念日、5月1、2日は「休業日」と銘打って9連休にしてしまった。たしかに連休の中休みで気もそぞろな学生諸君の様子を見ていると、この時期の講義は学習効果もあまりなさそうで、その方が良いように思う。
我が故郷は、恒例浜松祭の真っ最中。小学校時代は、まだ中日の4日は半ドン扱いだったけれど、その後、市の決定により全市立学校が休日に、最近では6日も休養にあてるためにと休日化されているそうだ。素晴らしい。浜松市民は、やはりこの祭のために、残る360日あまりの退屈な日々を、死んだように息をひそめて生きているのだろう。
長女は今日で9歳になった。生まれてきた年のGWも、もう初夏になったかと思うくらいに暑かった。この子は、夜中にいったん休憩して母親を眠らせ、主治医と看護スタッフを休ませた。そして夜明けと同時に活動再開、世に出てきたのは昼前の11時、これまた母親と出産スタッフを昼食休憩の時間に間に合わせた。初対面を終えた後の私も、なんとも言えぬ安堵感に包まれて、その年初めてのざる蕎麦を食べに出かけたことを思い出す。生まれ方からして、周囲への気遣いのある子だった。
生まれた時からそうだったように、今も周囲の雰囲気をよみ、一人で気を遣いなにがしかを抱え込む癖がある。次女が生まれて、真ん中のお姉さんになって、いよいよその傾向に拍車がかかったようにも見える。家族の中の異変にも、もっとも敏感に反応するのがこの子だ。そのあたり、父からみていると、時折、不憫にさえ思うこともある。ただ、こうした性格が優しさの発露につながってくれれば言うことはない。もう少し我を張ってくれてもいいけれど、優しさが取り柄になるのはとても良いことだ。きっと、神様はそのそのご褒美にこのお誕生日を選んでくれたのかも知れない。現行憲法の停廃が無い限り、これからも一生の間、お休みになってお祝いしてもらえるんだろうから。
春霞 2002.05.03
平安朝に入ると、額田王の萬葉歌が本歌取りされて、次のような歌になる。
三輪山をしかも隠すか春霞 人に知られぬ花や咲くらむ(古今集、巻二春下、九四)
作者は、紀貫之。萬葉歌の本歌取りというところから、若年期の作ではないかと推測されている。さすれば、「人に知られぬ花」に、まだ見ぬ理想の女性への思いなんていうのを考えるのは品のない解釈か?やめとこ、王朝和歌というと、苦手な人の顔が思い浮かんだりする。なぜだか、昔から近世文学と王朝和歌やってる人は苦手なタイプが多い。理由も分からず、不思議なんだが、8割くらいの確立でそうなんだから仕方がない。あ、2割はいい人もいるってことで(私にとっては、だけど)。もっとも、萬葉集やってる人には、ほとんど友達がいないので、もっと相性が悪いのかも知れない。とほほ。
さて、今回は帰省が無くなり、だからといってまだ小3では参加するような部活もなく、妹の世話をさせられて暇をもてあましている様子の娘を連れて散歩に出た。一昨日と同じ場所に、今日は自転車で行ってみようと思い立ったのだった。行ってみると、まさに三輪山が紀貫之の詠うような感じだった。空には雲があるわけでなく、見えてはいるけれど、ぼんやりと霞む山の姿がそこにある。右の画像のビニールハウスの向こう、左から巻向山、三輪山、さらに霞んで竜門岳という並びになる。ちょっと前なら黄砂だったけれど、ここのところの不順な天候と気温の高さで、春霞そのものだろう。
手前の草むらは石上神宮方面から流れてくる布留川の土手、ここからもう少し南流して1.5kmほどの所で、大和川へと合流していく。古代から近世まで、この川筋は物資の大量輸送路として活躍したらしい。トラック輸送のない時代、物資の大量輸送は主として水運が担ったのだった。ここから遡上していけば、やがて上ツ道(上街道)と交差する。そこには、丹波市の地名が残り、かつての市の賑わいの名残として今も恵比須さんが合祀されるその名も市坐神社がある。一方、南西方向の合流点から大和川を遡上すれば、三輪山の麓でやはり上ツ道と交差する。こちらには海柘榴市の地名が残り、やはり恵比須さんを祀る社がある。海柘榴市の名は、すでに萬葉集にも歌垣の場としてあらわれる。人の集散する場に恋が生まれるのは、今も昔も変わらない。
三輪山をしかも隠すか 2002.05.01
『萬葉集』巻一、一八番歌に額田王の次の一首が収載されている。
三輪山をしかも隠すか 雲だにも心あらなも隠さふべしや
(ああ、三輪の山、この山を何でそんなにも隠すのか。せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。隠したりしてよいものか。)
左注に引用される山上憶良『類聚歌林』(散逸書)によれば、「都を近江に遷す時に天皇が詠んだ歌」だと言う。さらに『日本書紀』を引用して、その近江遷都とは、天智天皇6(667)年3月19日のことであると。
額田王の作品には、左注に『類聚歌林』を引用して、作者を天皇とする異同注記が目立つ。これは、額田王が天皇になり代わって歌を作り、時にはその立場になり代わって詠唱する、代作歌人としての性格を持っていたことから生じたものらしい。彼女の歌声は、彼女のものでありながら、天皇の声として人々に受け止められた。そうした立場を、私たち研究者は「代作歌人」と称している。
また、どうやら引用される『類聚歌林』も、編者の山上憶良が皇太子に仕えていた時代の成書で、作歌教科書として編纂されたものと推定され、そうした書物では作者注記が天皇中心にならざるを得ないための現象とも考えられている。古代の公の場における歌のあり方を示す、一例としてよく講義ネタにしている。
さて、この歌の前には長歌があり、「三輪の山が奈良山の向こうに隠れてしまうまで、何度も何度も振り返り惜しみつつ行きたいのに、雲が隠してしまってよいものか」と詠っている。それをさらに、短歌のスタイルでまとめあげたのが、この一首となる。三輪山は大和の国魂を体現する神聖な山であり、その山に守られた大和の地を今一行は捨て置いて、新たな宮都の営まれる近江の地へと去りゆこうとしている。一首は慣れ親しんだ父祖の地への惜別の情と、土地の神への鎮魂とを歌としてなしたものと理解される。
三輪山を毎日眺めて暮らしていると、たしかに「雲が三輪山を隠す」という現象を目にすることがある。今日も、まさにそんな状態だった。いつもなら、ビニールハウスの向こう側、ちょうど中央正面あたりに三輪山のなだらかな円錐形の山容が見えているはずである。今日は、麓まですっぽりと雲に覆われていた。出勤前に、いつもの道を通りかかって、この状態を目にして、ふと先の一首を思い出し、デジタルカメラに収めたのだった。
職場に着いてから、さて、この歌の作歌年次はと調べてみると、前述の通り。じゃあ、今日の旧暦上の暦日はと調べてみると、あれれ、まさに3月19日。ちょうどこの時期の、こんなぐずつく天候の中での遷都だったのかと、納得がいったのであった。
こんな悪天候の中での遷都、しかも人々の思いは、必ずしもこの為政者の決断を支持しているわけではなかったようだ。『日本書紀』は、当時の人々の不平不満、そこからくる不穏な状況を「世相風刺の歌が流行し、日毎夜毎に失火が相継いだ」と記述している。やがて、近江大津京は、天智天皇の死からそれに続く壬申の乱の混乱の中で灰燼に帰す。わずか4年半後のことである。柿本人麻呂がその廃墟を訪れ、今度は滅びた都へ鎮魂の歌を手向けるのはさらに十数年後のことである。