(三枝寿勝の 「韓国文学を味わう」 第 VI 章)


第 VI 章 『三国志演義』『水滸伝』愛好の伝統と大河小説


大河小説の始まり――洪命憙の『林巨正』

 第6回のテーマは、『水滸伝』、『三国志演義』愛好の伝統と大河小説ですが、とても膨大なので洪命憙(ホン・ミョンヒ/1888〜1968)の書いた物語『林巨正』(イム・コクチョン、またはリム・コクチョン)を中心に話します。
 これは、林巨正(?〜1562)という実在の人物を主人公にしており、1928年に、『朝鮮日報』に「林巨正傳」として連載されたのが始まりです。番号が重複したり抜けていたりしているために実際の回数はよく分からないのですが、中断をしながら延々と10何年かにわたって『朝鮮日報』に1,000回以上の連載を続け、1940年に朝鮮日報社から出た雑誌『朝光(チョグァン)』に続きを1回だけ掲載したあと、未完のまま終わっています。これが洪命憙の『林巨正』の最初の形ですが、とても長い小説です。

実在の人物を主人公にした未完の物語

洪命憙(ホン・ミョンヒ/1888〜1968)、1930年代前半
出典:姜玲珠「碧初 洪命憙 3」『歴史批評 25号』歴史批評社、1994(夏号)
 
 まず『林巨正』の内容と主な登場人物について資料を見ていただきたいと思います(資料27)。物語の内容を大きく分けると、鳳丹篇、皮匠篇、両班篇は林巨正が生まれる前の話です。林巨正は黄海道で大暴れをした有名な盗賊で、『李朝実録』にも出てきますし、同じ李朝時代に李nq(イ・イク/1681〜1763)が書いた『星湖nq説』を始め、いろいろな書物や随筆の中に林巨正に関する断片的な記事が残っています。洪命憙はそれらを下地にして小説を書いたのですが、後半の義兄弟篇と火賊篇が物語の中心となっています。
 義兄弟篇では、盗賊の巣窟にやって来る頭目たちがどういういきさつで山に入ったかということが、銘々伝の形で書かれています。書き方は銘々伝なのですが、そこに朝鮮の民話や伝説、それから記録された話、また洪命憙が聞いたなぞなぞなどをふんだんに使ってそれぞれの話を作り上げています。
 義兄弟篇最初の登場人物のパク・ユボクは、父の仇を打ったあと盗賊・呉の家に逃げ込んでそこで殺されそうになるのですが、手裏剣の名手だったので逆襲をして相手をやっつけ、仲直りをして盗賊の養子になってしまいます。また、クァク・オジュは盗賊の呉に襲われるのですが、逆にやり込めて怪我をさせてしまいます。すると呉の養子になったパク・ユボクが仕返しに来てクァク・オジュと戦うのですが、結局勝負がつかず、仲直りをして義兄弟になってしまうといういずれもとぼけたユーモアを感じさせます。
 彼らは全員が朝鮮戦争でも有名な九月山の青石谷(チョンソクコル)に集まって、ここを本拠地として官軍と戦うという話になるわけです。この盗賊の住み家で参謀の役を果たすのが下級役人出身の徐霖(ソ・リム)です。徐霖はもともと衙前(がぜん)、つまり官庁に使われていた下級役人だったので、ただ1人読み書きができるわけです。ですから、さまざまなことについての計画を立てるのが徐霖で、彼も実在の人物です。しかし、この徐霖が裏切ったせいで林巨正の一味は全員捕まって処分されるというのが歴史上にあった実際の話です。
 そして、いよいよ官軍と戦うというところが火賊篇です。どうして山賊を火賊と言うのか分からないのですが、おそらくこれは夜たいまつをつけて襲うので、“たいまつ賊”、または“火賊”という言葉ができたとも言われています。火賊篇を事実に即して書くとすれば、林巨正一味が官庁の軍隊と戦って最後は敗れて滅びていくことになるはずなのですが、洪命憙が書いたものは、最後は守勢に立って追われていくところで終わっています。

両班出身の民族運動家による唯一の小説

1958年平壌付近のある湖でボート遊びをする洪命憙(左)と金日成
出典:姜玲珠「洪命憙研究 7」『歴史批評39号』歴史批評社、1997(冬号)
 
 実は、1948年に洪命憙は北に行ってしまったので、この『林巨正』は南では長い間禁書になっていました。今は自由に読んで良いように思われるかもしれませんが、洪命憙は北で優遇されて副首相まで出世しましたので、公には韓国では現在でも禁書が完全に解かれていないはずです。
 また洪命憙は、「無情」の作者・李光洙、独立宣言書を書いた崔南善と並んで“朝鮮の3人の天才”と言われていました。北で李光洙の最後を看取ったのは洪命憙だという話もあり、個人的には、この3人はお互いに通じ合っていたところがあったようです。
 近代文学の流れから言うと、洪命憙の『林巨正』は大変特殊な存在です。何故かと言うと、近代の朝鮮文学の担い手と言われている小説家の中に、両班階層の出の人はいないはずなのですが、この洪命憙だけは忠清北道の両班の家の出身です。両班の家としては家柄も大きく、父親の洪範植(ホン・ボムシク)は1910年、日韓併合の時に自決をしたということで有名です。ですから洪命憙は一生の間、自分の父親が日本の併合に抗議して死んでしまったことが心の中に残っていたはずです。
 彼は一般には民族運動家としてよく知られており、『林巨正』という小説も運動の不可能な状況のもとで自分の気持ちを伝えるために書いたのだと思われます。いずれにしても、両班の精神を受け継ぎ、その思想を持って小説を書いた人は他にいませんので、洪命憙は例外的な存在になります。

『三国志』『水滸誌』愛好の伝統と両班の精神

 朝鮮の場合、普通によく読まれている物語に『三国志演義』と『水滸伝』があります。朝鮮ではそれぞれ『三国志演義』は『三国志』、『水滸伝』は『水滸誌』という題名になりますが、その2つは朝鮮人だったら誰でも読んでいると言われてきたものです。おそらく『林巨正』という物語は、読者にとっては『水滸誌』や『三国志』と非常に近いところにあると感じられたのではないかと思います。この『三国志』や『水滸誌』を愛好する伝統は、近代文学の流れの下層にあるものだと思われます。
 そして、洪命憙が『三国志』や『水滸誌』に類するような小説を唯一書いたことは、やはり彼が両班出身であったことと関係があるかもしれません。つまり彼が書いた『林巨正』は普通の小説とは異なった悠々とした書きっぷりで、人生の悩みというような神経質なものはほとんど出てきません。殺す、殺され合いをしながらお互いに冗談を言い合って、結局仲間になったり親子になったりしています。これは、非常に大らかと言えば大らかですし、あほらしいと言えばあほらしいのですが、そういうものが流れているということは、いわゆる近代文学の精神におさまらない、つまり両班の気質を持った者が書いたことと関係があるのかもしれません。
 また、この物語は悠々と延々と流れ、最後は完結されないままになっているわけです。解放後、洪命憙の弟子に当たる人たちや後輩が物語を完結させてくださいと言ったのですが、完結させていません。それは、おそらく彼には完結させたくなかった理由があると思われます。ひとつは、植民地時代末期には独立運動家になぞられる主人公たちが敗れていくところまで書きたくないということがあったのでしょう。そして解放後にも完結させようとしなかったのは、おそらく“書く”ことの中に、植民地時代を耐える彼の民族的なある考えや生き方が反映されていて、解放後はもうそれは必要なくなったということではないかと推測されるわけです。事実、火賊篇に入るとほとんど実録の記事に沿っています。そういうことから言うと、一番面白いのは民話や伝説やなぞなぞ、それから彼が聞いた話などをふんだんに盛り込んでいる義兄弟篇ではないかと思います。

資料28
解放後初めて南で出た『林巨正』の6巻本表紙

洪命憙『林巨正 義兄弟編一』乙酉文化社、1948
 
資料29
洪碧初の名で検閲を通過して出された『林巨正』の9巻本表紙

洪碧初(洪命憙)『林巨正 鳳丹編(大河歴史小説1)』サゲジョル、1985
 

南北でさまざまに出版された単行本

 今お話してきたように『林巨正』は新聞に延々と連載され未完のまま終わっているのですが、南北で何度か単行本が出版されています。
 単行本として最初に出たのが4巻本(1939〜40)です。それが解放後の1948年に南で、ほとんど同じ内容のものが6巻で出ました(資料28)。そしてこれをもとにして、北では『リム・コクチョン』という名前で1954年から55年に6巻本が出ました。さらに、それが4巻本の簡略本(?〜1985)や『青石谷の大将リム・コクチョン』(1985)という子供向けの簡単な1巻本として出されていますから、北では合計3回出ています。面白いことに、1985年には南北で『林巨正』の本が出ているのです。韓国では、1980年代の学生運動や民主化運動の一番盛んな時に反体制の勢いに乗って、禁書にされている中でも一番の大作を出すという画期的なものでした。
 実は、それまでに出た本には、物語の前半部分である鳳丹篇、皮匠篇、両班篇は収録されておらず、義兄弟篇と火賊篇だけだったので、全体の3分の2しか読めなかったのです。それも補ったのが1985年に南で出た『林巨正』9巻本なのですが、もっと丁寧にもとの新聞などを対照して完璧にしたものが1991年に出版された『林巨正』10巻本で、これがほとんど決定版となります。また、北の本に基づいた『イム・コクチョン』6巻本と、子供向けにまとめた『イム・コクチョンと7人の兄弟たち』簡略3巻本などが、いずれも1990年に南で出ています。このように、洪命憙の『林巨正』はもともと未完の物語であるにもかかわらず、人気のある本として南北でさまざまな出版のされ方をしているのです。
 本来禁書であった『林巨正』がなぜ南で1985年に出版できたかと言うと、作者の名前を“洪命憙”とはせず、号で“碧初(ピョクチョ)”としたので、検閲官が最初は分からなくて通してしまったと言われています(資料29)。あとで気がついて禁止にしたのですが、その時には既にベストセラーになっていたということです。おかげで出版社はお金に余裕ができたので、非常に丁寧に調査・対照をして現在の10巻本を出したわけです。しかも、本の最後に難しい単語の解説まで付いており、現在でもよく売れています。
 韓国では『林巨正』はとても人気があるので、漫画もたくさん出ています。その内の一部が『李朝水滸伝』という題などで日本語に訳されて出ているのを書店で見た覚えがあります。それから、パンソリで唱劇になったものを観たこともあります。映画では、以前に韓国で朴哲洙監督の『ヘロー 林巨正』(1987)を見たことがあります。これは偽物の林巨正しか登場しないスマートな作品でした。また、韓国のテレビ局のひとつであるソウル放送(SBS)では1996年11月から翌年4月まで44回にわたって連続ドラマの『林巨正』を放映しました。これは表題に“洪命憙原作”と明記しているのですが、つい最近まで韓国で禁止されていたわけですから、政府が禁止している作家のドラマをNHKで堂々と放映するようなもので、日本では考えられないことだと思います。実は北ではすでに1987〜88年に映画化されており、SBSのドラマはこの北の映画も参考にしていると思われるところがかなりあります。義兄弟篇から始まる北の映画との大きな違いは、南のものは10巻本に基づいて鳳丹篇から始まること、最後に林巨正が矢で射殺されるまでを扱っていることなどです。


各ジャンルにおける大河小説

 洪命憙の『林巨正』のようにとても長い物語で、また『水滸誌』や『三国志』をふまえた武侠小説が好まれるというこの流れは、現在もあるのではないかと考えます。『林巨正』を大河小説の始まりとするならば、その伝統は最近まで引き継がれてきたと言えます。
金来成(キム・ネソン/1909〜58)
出典:金容誠『韓國現代文學史探訪』国民書館、1973
 
李箕永(イ・ギヨン/1895〜1984)
出典:李箕永(李殷直訳)『故郷』朝鮮文化社、1960
 

■金来成(キム・ネソン)の『青春劇場』(5部作)

 今の韓国で覚えている人はほとんどいないと思いますが、まず、韓国で解放後の1949年から新聞連載が始まった活劇小説で、金来成(キム・ネソン/1909〜58)の『青春劇場』(1953〜55)が挙げられます。金来成は朝鮮で唯一の探偵小説、今で言えば推理小説の作家であり、江戸川乱歩に師事したということで最初に書いた探偵小説は日本語でした。しかし、解放後は探偵小説ではなくて純文学を目指し、結局大衆文学の作家になっていきます。『青春劇場』は、植民地時代の朝鮮、日本、中国を舞台とする活劇物で、私が読んだ韓国の小説の中では唯一簡単ですが暗号が出てきます。しかもこれには印刷間違いがあって、そのままでは誤字が一字入っている暗号でした。

■李箕永(イ・ギヨン)の『豆満江』(3部作)

 文学として『林巨正』と同じぐらいの本格的な完成度を持ったものは、李箕永(イ・ギヨン/1895〜1984)の『豆満江(トゥマンガン)』(1954〜61)ではないかと思います。これは3部作で、韓国で現在出ている本は300ページを超す本で5巻になっており、かなり長い大河小説です。日本では、1960年頃に第1部と第2部が日本語に翻訳されたことがあって、合わせて6冊出ています。
 李箕永は、前回紹介した『あなたの沈黙』を書いた韓龍雲や『林巨正』を書いた洪命憙と同じ忠清道の出身です。李箕永も北に行った人で、北の文学者として出世をし最高の地位を占めたプロレタリア文学の一番の代表者です。また洪命憙と同じように粛清されずに無事に最期を全うした人です。北のような厳しいところで最後まで無事に命を終えることができたということは、もしかするとあまり思想的なところで鋭いことを言わずに、わりと柔軟で穏やかに処世を尽くした人かもしれません。
 北に行ってからの彼の作品では『豆満江』が一番の大作になっていますが、解放前のプロレタリア文学の小説の中では『故郷(上・下)』(1936、37)という長編が代表作となっています。李箕永の代表作は、どれも自分の生まれた忠清道を舞台にした農民の姿や生活を描いています。『豆満江』では、祖父から父親、そしてその子供へと受け継がれていく農民の闘いを描いており、最後は武装闘争に組み込まれていくことになるのです。これは金日成のパルチザン闘争を意味していますが、この部分は少し公式的という気もします。しかし、始めの方は意識的にアナクロニズムで書いてあるとはいえ、時代の移り変わりがとても自然に描かれています。

朴景利(パク・キョンニ/1927〜 )
出典:チョン・ヒョンギ編『恨と生』ソル、1994
 
黄皙暎(ファン・ソギョン/1943〜 )
出典:黄皙暎『審判の家』悦話堂、1977
 

■朴景利(パク・キョンニ)の『土地』(5部作16巻)

 次は日本でも有名な朴景利(パク・キョンニ/1927〜 )の『土地』(1969〜94)です。朴景利という女性は、金芝河のお嫁さんのお母さん、つまり義母に当たる人です。この『土地』が5部作で16巻ということは、外国人としてはとても読む勇気はなくなるような長さで、しかも中身がとても複雑です。ストーリーの軸を言いますと、満州を舞台に、崔参判(チェ・サンパン)という人の家の没落の過程と、没落していった家の女の人が復讐を目指して家を再び興すということです。第5部が最近完結し、解放を迎えるところでちょうど終わります。いわゆる歴史小説ですが、意外に恋愛の話がたくさん入っているという感じがしました。

■黄皙暎(ファン・ソギョン)の『張吉山』(10冊)

 黄皙暎(ファン・ソギョン/1943〜 )の有名な『張吉山(チャン・ギルサン)』は、1974年から1984年まで10年かけて『韓国日報』に連載されたものです。これも現在一部日本で翻訳が出ているようです。張吉山も実在の人物で、林巨正と同様に『星湖nq説』などに記録が残っています。物語は、芸人出身の張吉山が盗賊になって政府の軍隊と戦いながら、最後追い詰められたところで出直しをするために、新しい天地を探して姿を消すという話です。『張吉山』は間違いなく『林巨正』を意識して書かれています。連載が始まった1974年には『林巨正』は読んではいけない本で、持っているだけでも危なかったのです。『林巨正』を持っている人が原本を焼いたりしたという話も聞いていますから、それを意識して、当時は読めない『林巨正』に当たるものを書いたのは確かです。
 張吉山の出身は芸人ですが、盗賊になって戦い、頭目たちがそれぞれ一芸に秀でていることは同じです。大きく違うのは、『林巨正』には悠々とした流れの物語で、その中で理念的なものや社会を改革するという話はほとんど出てきませんが、『張吉山』は明らかにこれは革命とは言いませんが、反体制の理念があちらこちらに出ている小説です。この中には『林巨正』と同じように、朝鮮のいろいろな風習や歌などを非常によく生かしてあるところが良いと思います。しかし将来も『張吉山』が読まれるとすれば、やはり理念のところは引っかかるのではないかと思います。
金周榮(キム・ジュヨン/1939〜 )
出典:金周榮『夏の狩り』栄豊文化社、1976
 
 

■金周榮(キム・ジュヨン)の『客主』(10冊)と『禾尺』(5冊)

 それから金周榮(キム・ジュヨン/1939〜 )の『客主(ケクチュ)』(1979〜84)と『禾尺(ファチョク)』(1991)が挙げられます。
 客主というのは褓負商や旅人たちが泊まる宿のことで、褓負商とは荷担ぎをして全国を回りながら売り歩く商人のことです。ですから、客主は宿でもあり、いわゆる卸商の役割もしていました。朝鮮は近代に至るまで車がありませんでしたから、すべての物は馬や牛に積んで歩くか人間が担ぐしかなかったので、歩く人間の役割が非常に大きかったわけです。褓負商は荷担ぎ商として全国を歩き回るのですが、逆に言うと情報収集などの役割を担っていますから、団結するとひとつの団体としての活躍をするわけです。そのため韓末には、大院君が自分の反対勢力・独立協会を弾圧することに褓負商を使っています。
 『張吉山』の場合は芸人が盗賊になり、『客主』の場合は褓負商や商人たちが、やはり同じように盗賊になるという話です。ですから、この2つは明らかに『林巨正』の系統の中で書かれた小説になります。
 一方『禾尺』は白丁(ペクチョン)注(11) を主人公にしていますが、白丁といってもこの小説は高麗時代の話で、いわゆる皮革や屠殺をする人々でなく北方の辺境出身の最下層民を扱っており、最後は中心人物のほとんどが殺されてしまうという陰惨な感じの小説です。
注(11) 白丁(ペクチョン)
戸籍から除外された賤民で、屠殺や行李柳細工をする人々を指す。語源や起源には不明な点が多いが、白丁の語は元来一般の民の意味。高麗時代は北方民族出身の流浪民である楊水尺(ヤンスチョク)とか禾尺(ファチョク)と言われる人々がいたが、李朝時代には彼らに対する規制が厳しくなり、その結果彼らは屠殺業や行李細工、または流浪芸人となっていった。世宗時代に彼らを平民に編入して新白丁と呼んだが、その後彼らを指すのに単に白丁と呼ぶようになったと言われる。近代になって衡平社が結成され、彼らの差別に対する運動が起こされた。

趙廷来(チョ・ジョンネ/1942〜 )、1989年
出典:『作家世界 26号』図書出版世界社、1995(秋号)

■趙廷来(チョ・ジョンネ)の『太白山脈』(10冊)

 趙廷来(チョ・ジョンネ/1942〜 )の『太白山脈』(1983〜89)は現代の物語で、1948年の軍隊の反乱〈麗水・順天反乱事件〉から朝鮮戦争が始まる頃のパルチザンを主人公にしています。こういったテーマは韓国では長い間タブーになっていたものですが、80年代になって初めて表に出るようになりました。パルチザンだった人間の手記が出たり、それまで読んではいけなかった本もどんどん読めるようになり、『太白山脈』のような小説が書かれたわけです。この中では友人同士がお互いに敵味方になり、それぞれの悩みも描かれており、過去の歴史を扱っているわりに、登場人物の思考や感覚が現代的だという感じがします。
朴泰遠(パク・テウォン/1909〜86)、日本留学当時 著者蔵

■朴泰遠(パク・テウォン)の『甲午農民戦争』(3部作)

 『甲午農民戦争』(1977、80、86)は北に渡った朴泰遠(パク・テウォン/1909〜86)の作で、サンミンという主人公を中心にして、日清戦争のきっかけとなった1894年の甲午農民戦争を扱った小説です。『甲午農民戦争』は全部で3部作ですが、韓国ではその前篇に当る作品も含めて8冊になっています。
 朴泰遠は、朝鮮の近代文学ではモダニストの作家として有名な人です。モダニストの作家がなぜ歴史小説かということですが、実は朴泰遠はもともと漢文の造詣が深く、『水滸伝』や『三国志演義』の翻訳もしています。解放後から既に甲午農民戦争についての小説を新聞に連載し、その後北に行ってこれを書いていますから、『甲午農民戦争』は長い間温めていた小説だったということです。

■《四一五作家集団》の叢書『不滅の歴史』

 北の叢書『不滅の歴史』(1973〜86)は1人の作家が書いたものではなく、《四一五作家集団》と言われている作家たちが討論をしながら書いたものです。“四一五”は金日成の誕生日である4月15日を意味しています。15の小説があって、1973年に出た「一九三二年」という小説が最初です。金日成将軍を中心としたパルチザン闘争を扱った一連の小説を、扱われる年代順に分担して書いたもので、つまり金日成を主人公とする作品、いわゆる主体文学 注(12) になります。現在は著者の名前が全部明らかになっていますが、初めて出版された時には確か著者の名前はなかったような気がします。
注(12) 主体文学
主体思想、すなわち歴史的な現実に対応した革命思想に基づいた文学。具体的には金日成の抗日闘争とその過程で彼によって作られた作品を基盤にして、1970年代から1980年代にかけて提唱された文学を指す。叢書『不滅の歴史』や金日成原作の「血の海」、「花を売る娘」の再創作などがそこに属す。主体文学を提唱する過程で、植民地時代のプロレタリア文学は軽視されてきたが、1990年代になって過去の文学の伝統が再評価されるように変わってきている。
三枝壽勝(左)と金允植(キム・ユンシク、右)
2000年11月、東京大学
 
 この叢書が面白いのは、東洋文学の伝統の典型である『水滸伝』、朝鮮で言えば『林巨正』の伝統を引いているからです。北の文学について金允植(キム・ユンシク)が1996年に出した『北朝鮮文学論』の中から『不滅の歴史』に関するところを見てみると、彼が挙げている例は「春雷」という作品ですが、その中に、パルチザン闘争で金日成将軍がある村に行って、そこに隠れて工作活動をする場面が出てきます。村の人間がやって来た時に、お互い道を譲らないので金日成が相手に折れて、相手が背負っていた荷物を自分が担いで歩いて仲良くなり、そして情報を得るというところが出てくるわけです。金日成がその荷物を担いだということで、こんな力持ちはほかの村にはいないということになりますが、まさに武侠小説の神業的な才能を持った人間として金日成が描かれているのです。金允植の本によれば、「……[「春雷」の例で]この作品の進行の中では武侠誌的性格が完全に濃くただよっていて興味をそそっており、そのため[金日成]将軍の知恵や人間性の密度が薄くなり、一種の神出鬼没の英雄性が流れている」となっています。つまり、北でもみんなに読んでもらうための本となると、やはり皆が好む『三国志演義』や『水滸伝』と同じスタイルの小説を書くことが要請されているということが分かるわけです。

大河小説に反映されたリアリズムの流行

 『林巨正』の中にも民族意識というものをいろいろ読み取ることができるのは確かですが、それでもその中にやはり武侠的なもの、つまり『水滸伝』的なものを使ったというところが朝鮮の伝統だと思います。そういう意味では、先ほど紹介した大河小説の中で、黄皙暎の『張吉山』と金周榮の『客主』は『林巨正』同様武侠の要素を持った小説と言うことができると思います。

 それ以外の大河小説を武侠小説と言うのは難しいでしょうが、いずれにせよ、なぜこんなに多くの大河小説が書かれたのかという疑問が起こります。読まれようが読まれまいが朴景利が延々と『土地』を書いてきたということ、それから趙廷来が『太白山脈』を書いていることに関して、韓国の人が近代以後の歴史を文学の立場から見直そうということを痛切に感じていたということがありそうな気がします。その背景には、やはり韓国で流行していたリアリズムも関係があるのではないかと思います。韓国ではリアリズムということで、歴史を忠実に映し出しとらえることが重要視されていましたので、そういうことが関係したのではないかと思います。また70年代から80年代にかけてさまざまなタブーが打ち破られたこととも関係あるのではないかと考えられます。