(三枝寿勝の 「韓国文学を味わう」 第 IV 章)
第 IV 章 近代史を生きた李光洙
波乱の生涯
今回は、近代の文学史の中で活躍した李光洙(イ・グヮンス/1892〜1950 肖像1 )と彼の作品を取り上げ、近代文学史における彼の業績とその位置づけ、文筆活動と政治・思想とのかかわりなどを見ていきたいと思います。 まず、近代文学者の中で一番問題となる彼の生涯を簡単に振り返ります。略年譜をご覧ください (資料20)。李光洙は1892年に生まれていますが、1950年に朝鮮戦争が起きて、北側の軍隊がソウルに入って来た時に拉致されその後行方不明になっているので、没年は明らかではありません。しかし、北の発表によると、没年は一応1950年となっています。
孤児としての苦労
1892年、李光洙は平安北道定州で生まれています。1392年にできた李王朝が500年目の崩壊寸前に彼が生まれているということは、何か暗示的な感じもします。ロシア人との混血だという話もありましたが、風貌が東洋人ばなれしていることから起こった話でしょう。ただ朝鮮人の場合、どこで生まれたか、故郷はどこかということは、作品の内容やその人の考え方・行動に非常に関係があるようです。平安道は中国を通して西洋の文物を早くから受け入れたほうです。ですから、彼が生まれたのは定州の田舎ではありますが、朝鮮では早くから開化したところの出身であるということになります。1910年、20年頃に文学で活躍した人物には、彼以外にも平安道出身の人がたくさんいます。
そして、1894年に全羅道で起きた東学の乱とか日清戦争が彼の幼少時の時代的な背景でした。1902年、数え年の11歳で両親をコレラで失い孤児になってしまいます。実際には祖父がいたのですが頼りにはならず、親戚を渡り歩くという苦労をしています。妹も2人いましたがばらばらになり、一番下の妹は3歳ぐらいで栄養失調で死んでしまいます。こうして、李光洙は孤児として自分の人生を1人で作り上げていくことになります。
天道教・キリスト教との出合いと日本への留学
1904年にはまだ禁制だった東学党、のちの天道教の責任者に出会い、書記として文書を伝達したりする役割を果たします。彼はいろいろな宗教を遍歴するのですが、天道教が最初のものです。その後ソウルに行き、天道教と関係がある一進会の日本語の塾の教師をします。教えた内容の程度は定かではありませんが、ともかく12歳ぐらいで教師とはすごいことでしょう。そして、1905年にこの天道教の派遣で日本への1回目の留学をします。日本語学校を経て、1907年、明治学院の3年生に編入します。ミッションスクールですから英語で授業を受け、彼は英語も修得します。ここでキリスト教と出合うわけで、トルストイにも傾倒します。
1909年、18歳で校内の雑誌『白金学報』に日本語の短編作品「愛か」を発表しますが、これが彼の最初の作品です。内容は、孤児として寂しい思いをしている学生が先輩である男性を慕うけれども受け入れてくれないので鉄道自殺をする、という同性愛のからんだ小説ですが、なかなか見事な文体で、「文吉は操を渋谷に訪ふた。無限の喜と楽と望とは彼の胸に漲るのであつた。途中、一二人の友人を訪問したのは、只此が口実を作る為である。夜は更け、道は濘んで居るが、それにも頓着せず文吉は操を訪問したのである。」というのが書き出しです。最後は主人公が死ぬところで、「あゝ此が最後である。少き脳に抱いて居た理想は今何処ぞ、(中略)熱き涙は止めどなく流れるのであった。」となっています。「愛か」を読むと、彼がどういう気持ちで留学していたかということもうかがえるところがあります。
もうひとつ、同じ年に『富の日本』という雑誌に、李宝鏡(イ・ボギョン)という幼名で書いた短い文が掲載されています。明治学院を卒業する前に書いたようで、これも日本語で書かれています。
1910年卒業後、故郷に帰り、のちに民族運動で中心的な役割を果たした五山学校 注(6) の教員となります 肖像3。1910年は日韓併合の年ですが、彼はほとんど無給の状態で、数学、国語、朝鮮語などを1人で教えるほどのすさまじさでした。この頃から文筆活動も活発になります。
シベリア放浪、第1次世界大戦の勃発、そして2度目の日本留学
しかし、五山学校の設立者が政治的な事件で捕まったあと、もともとから学校の公式的なキリスト教的運営方針に馴染まなかった彼は、これを契機に放浪の旅に飛び出してしまいます。当てはなかったようですが、まず上海に行き、そこからアメリカに渡る予定で、いったんシベリアに渡ります。しかし、アメリカへはなかなか渡れず、バイカル湖の近くのチタにしばらく滞在します。最近になって李光洙が1914年に沿海州の朝鮮人の新聞『勧業新聞』とチタの『大韓人正教報』に書いた文章が発見されました。
その後資金もなく、また第1次世界大戦が勃発したために、一度は五山学校に戻るのですがうまくいかず、『東亜日報』の経営者であった金性洙(キム・ソンス/1891〜1955)の後援で、1915年再び日本に渡ります。そして、早稲田大学高等予科を経て哲学科に入学しましたが、三・一独立運動の直前に上海に逃げたので卒業はしていません。
彼はこの頃から啓蒙的・政治的な文章をたくさん書くようになります。彼の一番の業績と言われる作品は、1917年に朝鮮総督府機関誌『毎日申報』に連載した「無情」ですが、これは日本留学中に書かれているわけです。総督府の機関誌に「無情」を発表したことは、自分たちの民族を裏切ったことにもなり得るという問題を含んでいました。しかし「無情」は人気を集め、続いて小説「開拓者」を連載(1917〜18)、その後彼の初期の有名な小説を次々と発表しています。
彼は「無情」を連載中に結核にかかり、その時に病院で知り会ったのが、のちに韓国で初めて医者になった女性で、その頃同じく日本に留学して医学の勉強をしていた許英肅(ホ・ヨンスク/1897〜1975)でした。実は、李光洙は五山学校時代に正式な結婚を別にしていたので、2人は北京に駆け落ちをすることになります。
上海臨時政府への亡命
1918年に第1次世界大戦の終結を北京で迎えたあと、再び東京に来ます。彼はソウルでの三・一独立運動の下準備にも加わったようですが、東京に戻ってから、1919年2月に〈朝鮮青年独立団宣言〉という独立宣言書を起草して上海に亡命しました。1919年3月1日の独立運動のあと、上海にできた臨時政府の中心人物で内務総長となったのはアメリカからかけつけた安昌浩(アン・チャンホ/1878〜1938) 注(7) で、李光洙はこの人の下で独立運動の機関誌『独立新聞』 注(8) の編集に携わることになります 肖像4。
ここまでは華々しい生涯です。しかしこのあと、許英肅の仲介で1921年突然ソウルへ帰ります。背景は非常に複雑ですが、他の運動家は投獄されていたにもかかわらず彼は不起訴釈放となったため、総督府と何か取引をしたのではないかという憶測を生みます。実際彼が総督府と関係があったのは確かで、その証拠はいくつか残っています。しかし、だからと言って彼が民族を売って日本に寝返ったということは言えないと思います。
民族改造運動と仏教への傾倒
帰国後、彼の朝鮮での文筆活動が本格的に始まり、1922年から『東亜日報』を中心に小説や論説を発表します。同年に発表した「少年に」と、あとで詳述する「民族改造論」は大変な物議をかもし、現在でも問題になるものです。「民族改造論」は、「われわれ民族が将来独立をするためには民族性を変えなければいけない」という内容で、論理としては間違ってはいないとも言えましたが、独立運動が盛んだった当時としては、自分たちの民族を変えるという考え方は大きな反発を買いました。
そして、文筆活動の一方で、自分が言った民族改造の運動を推めるために安昌浩の提唱した興士団運動の一環として、1922年〈修養同盟会(のちに修養同友会、同友会となる)〉 注(9) という団体を発足させ、機関誌『東光』を発行するなどその事業にも尽くします 肖像5。しかしこんなおだやかな修養団体でさえ日本の植民地時代の末期には問題となり、あとで逮捕される原因となります。
彼はこの後も論説や小説を発表し続けますが、許英肅と出会った頃から患っていた結核に苦しめられ、執筆活動は結核との闘いでもありました。しかし、彼の執念はすさまじく、なぜこれほどまでに書くということに執着したのか不思議に思われるほどです。多分、小説を発表することで読む人に何かを伝えると同時に、彼自身の心の内に書かずにはいられない内面的な切迫感もあったと思います。
1932年には〈尹奉吉(ユン・ボンギル)上海爆弾事件〉に関連し、彼が信奉していた安昌浩が捕えられます。また長男が1934年に急死。自身も仲間と共に〈修養同友会事件〉(1937)の裁判にかけられ、最終的には全員無罪となりますが、1938年には安昌浩が保釈後病死するなど、1930年代後半には李光洙は個人的に苦しい時期が続きます。それと共にこの頃から仏教に傾倒していき、作品も仏教的な内容になっていきます。
親日、逮捕、拉致
文学史や朝鮮の歴史から見ると、1940年代は創氏改名が施行され、朝鮮人の日本人化が進められていった時期です。李光洙は結局率先してこれに応じて、1940年に“香山光郎”と創氏改名をし、日本の戦争政策に合うような活動をしていきます。例えば、日本の政策に合う小説を書き、全国を回って若者を戦争に駆り出す講演会に応じます。民族運動家から日本の軍国主義に協力する人間となるわけです。この流れは私にとってはある程度一貫性を以てとらえることができるように見えますが、表面的に見ると、李光洙という人間をどう解釈したら良いかが非常に謎になります。内面的に、彼はいったい何を考えていたのかが見えにくかったということもあります。実際には、1944年から日本が戦争に負けるまで、ソウルの東方の思陵という田舎にこもってしまいましたから、彼自身やはり日本の政策に協力するという生活に耐えられないところがあったのだと思います。
そして彼は解放後も執筆活動を続けますが、日本に協力した人間ということで、1949年、前年に成立した〈反民族行為処罰法〉により逮捕されます。結局は無事釈放されましたが、1950年の朝鮮戦争勃発直後に北に拉致されたあと、米軍に追われて後退する軍隊と共に行進の途中で凍傷にかかり江界道人民病院で死亡したということで、平壌にある墓には命日が1950年10月25日となっているそうです。
表面的に簡単に一生を追ってみてもいろいろな問題を含んでいる人物で、凄まじい一人生だと思います。彼の人生のさまざまな出来事は、すべて朝鮮の近代史にかかわっているのです。東学の乱、日韓合併、臨時政府の樹立までは民族運動の一端を担っていた人間が、中国との全面的な戦争となったあとの同友会事件で捕まってから今度は日本に協力するというすごい展開をして、解放後は民族反逆者とされ、朝鮮戦争では北に連行される、と全部関係があるわけです。
朝鮮初の本格的長編小説「無情」
李光洙の残したさまざまな作品 〜「民族改造論」ほか〜
それでは、彼の出発点とも言うべき「無情」を紹介する前に、彼がこういう人生の中で残した作品はいったいどんなものだったのかということを少しお話したいと思います。
彼は五山学校にいた時も文筆活動をしていますが、早稲田大学留学時代にはかなり活発な執筆活動を行っています。その留学中の1917年から『毎日申報』に「無情」の連載を始めたわけです (資料21)。その後、独立宣言書を起草したり臨時政府の機関誌『独立新聞』の編集に携わったりしたあと、上海の臨時政府を抜け出して帰国した翌年の1922年、大変な物議をかもすことになった「民族改造論」を雑誌『開闢(かいびゃく)』に連載します。
この「民族改造論」は、その頃大はやりだったダーウィンの進化論と関係があり、またフランスの医学者・社会学者で心理学者でもあったル・ボンの影響も受けているようです。ル・ボンは、今はほとんど忘れられた人ですが、植民地政策などの学者の中では結構影響があったという話もあります。この人の本は最近『群衆心理』だけが講談社の学術文庫に再び入っていますが、日本では早くから『群衆心理』と『民族発展の心理』の翻訳が出ていて、当時かなりよく読まれており、李光洙が早稲田にいた頃にはこの2冊の合本が出版されているので彼も読んでいたと思います。その中には、「民族性は絶対に変わらないから、劣等な民族は絶対に優秀な民族には変われない」と書いてあります。
ところが、李光洙はル・ボンを一生懸命読んで一部を朝鮮語に翻訳するぐらいに感銘したようですが、その“変わらない”ことを“変える”というように彼独特の強引な解釈で論理をすり替えていくわけです。「民族改造論」は非常に問題はありましたが、「約束を守り、経済的なものを重要視し、そして誠実に働くという道徳性がわれわれ民族にはないではないか。こういうものがない限り、独立後、絶対に事業を起こすことはできないし、教育も研究も、また政治もできない。だから、もし独立をするのであれば、それに向けての人物を養成しなければいけない」と、朝鮮民族が優秀な民族になり得ること、これを目指して努力しなければならないことが述べられています。そうして、将来の独立に備えようということを言っているわけです。
そのあとに 『東亜日報』の主筆だった頃に書かれた「再生」(1924 )という小説がありますが、この作品は、男性主人公と共に民族運動に加わったことのある女性がその主人公を裏切った果てに悲惨な最後を遂げるという筋で、民族の現状に対する作者の怨念とも言える複雑な心境をうかがわせる迫力のある内容です。
また、1932年に発表された「土」は、この頃、東亜日報が行っていた民衆運動〈ヴ・ナロード運動〉に応じた作品として有名です。1933年には「有情」を発表します。彼が香山光郎の名前で書いた作品は大体日本語で書いたものが多く、同じような内容でも朝鮮語で書いたものは少し内容が違っていて、そして完結していないものが多いような気がします。
解放後には、安昌浩の伝記『島山 安昌浩』(1947)や『私の告白』(1948)、『私』(1947〜48)を発表しています。『私の告白』には日本に協力したことのざんげが書かれているのかと周囲では期待したわけですが、全くそういう内容ではなく、期待がはずれたらしいです。
日本語に翻訳されたものでは、昭和3年から4年(1928〜29)にかけて『朝鮮思想通信』に「無情」が掲載されました。『朝鮮思想通信』は朝鮮に居た日本人向けに出されていた新聞で、その当時の朝鮮語の新聞や雑誌の記事を日本語に翻訳して掲載していたものです。また、1940年頃に『同胞に寄す』、『有情』と『愛』(上・下)、それから短編集『嘉実』が出ています。
■「無情」のあら筋
それでは「無情」について見ていきましょう。登場人物は李亨植(イ・ヒョンシク)、朴英采(パク・ヨンチェ)、金善馨(キム・ソニョン)、ピョンウクが中心人物で、あとは申友善(シン・ウソン)が出てきます。おおまかに言いますと、李亨植という李光洙によく似た男性が主人公で、その主人公をめぐる朴英采と金善馨という女性の三角関係です。この図式は実は彼の小説の決まったパターンになり、このあと書かれた恋愛小説ではたいていこのような形になります。ただし「無情」は、1人の男性に2人の女性という三角関係の恋愛小説ではありません。あら筋は次のようなものです。
孤児であった李亨植は、亡くなった父の友人・朴進士の家に引き取られ育てられていました。朴進士は新文明の運動家で、自分の家を学校にして生徒を集め教育事業を行っていましたが、資金難から経営難に陥ります。そのことを知った弟子が資金を得ようと強盗殺人を犯したため、共犯として朴進士とその2人の息子が捕まります。これは五山学校での経験が背景になっているようで、「無情」では学校経営が難しくなって弟子が強盗をしますが、五山学校の経営者が実際に民族運動で捕まったことに対応するかもしれません。
朴進士の一家は崩壊し、娘の英采は亡くなった母親の実家に、亨植は放浪に出ます。その後京城学校の英語教師となった李亨植は、金持ちで開化した、つまり非常に西洋思想にかぶれた金長老の娘・金善馨のアメリカ留学を助けるため英語の家庭教師となります。その家庭教師としての最初の日、亨植の家に妓生(キーセン)となった英采が訪ねて来るわけです。
2人は7年ぶりかの再会になるのですが、英采がどのようにして妓生となったかが小説の中に出てきます。英采は一家が崩壊したあと親戚でも冷たくあしらわれ、家出をして平壌の牢獄にいる父親に会いに行くのですが、親兄弟を助ける資金を得るため自分の身を売って妓生となったことを知った父親は自決してしまいます。つまり、娘が妓生に身を落としたために家が汚れ、両班(ヤンバン)としての誇りを傷つけたということで自決をしてしまうわけです。ですから、英采は妓生の身分のままで孤児になってしまったのです。その後、亨植が京城で教師をしていることを知って、英采が訪ねてきたわけです。
しかし、亨植の態度がそれほど温かいものでないことを感じた英采は失望して帰りますが、その後京城学校の学監と校主の息子に襲われてしまいます。そのことを察した亨植が現場に駆けつけるのですが既に遅く、襲われた英采は身をはかなんで、平壌にある父の墓に参拝したあと自殺する決心で京城を発ちます。亨植も英采のあとを追って平壌に行きますが、彼女の行方は知れませんでした。
実は、幼い時から2人はほとんど暗黙のうちにいいなずけという思いでいたのでした。ところが、李亨植のほうは美人の女性の家庭教師をしたその日に英采がやって来たので、少し冷たかったわけです。英采のあとを追って平壌に行って探したけれども見つからなかったということで、李亨植は、どこかで自殺したのだと考えて戻ってきます。
平壌から戻ると、学校では亨植が妓生に溺れているという噂で学生たちからも嘲笑するようなあしらいを受けます。怒った亨植は辞職を覚悟して学校を飛び出してしまうのですが、家庭教師をしていた金善馨とはついに婚約が成立し、共にアメリカ留学のため列車に乗って京城駅を発つことになります。アメリカに渡るためには、横浜に行ってそこから船に乗らなければいけないということで、日本に渡るために釜山までは列車で行くわけです。その同じ列車で、亨植は死んだと思っていた英采に出会います。
英采は自殺しようと平壌に向かった列車の中で、日本留学から夏休みで帰省する学生・ピョンウクと出会い、彼女から生きることを諭されたのでした。そして、ピョンウクの故郷・黄州(平壌とソウルの間にある場所)の田舎で夏を過ごして、共に東京に向かうところだったわけです。亨植と金善馨、死んだと思っていた英采、英采を助けたピョンウクの4人が、偶然同じ列車に乗り合わせていたのです。
列車が釜山のずっと北の三浪津にさしかかったところで洪水のため不通になり、復旧するまで列車を降りて近くの旅館で休むことになるのですが、洪水の被害の悲惨さを目にした4人は、被災者救援のための義援金募金を駅の待合室で行うことに決めます。妓生もいますし、音楽学校に通うピョンウクはバイオリンが弾けたので、4人で歌を歌ったりしてお金を集めるわけです。そして義援金募集のための即席の音楽会を終えたあと、彼らはまた旅館に集まり、自分達の将来、朝鮮の将来を語り合うというのがあら筋です。
古典文学と同様な「無情」の読まれ方
では、ここでこの作品の最後の場面を少し抜粋してみます。義援金募金をしたあと旅館に帰って来て、なぜ同胞がこんなに悲惨になっているのだろうかと4人で話しているところです。それは教育がないからだ、科学がないからだということになり、李亨植が3人の女性を前にして演説のように語りかける場面です。
「さうです。教育で實行で彼等を教へてやるのです、導いてやるのです。併し、それを誰がするのです?」彼はかういつて吃と唇を結んだ。と一種の冷気が3人の背筋を走つた。
「それを誰がするのです?」彼は再びそれを繰り返して、3人を均等に見まはした。彼女等はこれまでにない名状し難い感動に打たれてしまつた。そして、またもや冷気のやうなものが、彼女等の身肉を掠め去つた。
「それを誰がするのです?」彼は三たびそれを繰り返した。
「私達がしますわ!」三人の答へは期せずして一致した。彼等は眼の前に一瞬間炬火のやうな光がひらめいたのを等しく認めた。そして急に大地震が襲って来て、地球全體がめりめりと震動するやうにも感じられるのだった。彼は暫く考へ込んでゐたが「さうです、全くその通りです、私達がせずに誰がしませう、私達が勉強に行く意義はつまりそこにあるのです、私達の旅費も學費も誰が出してくれると思ひます? 朝鮮そのものが出してくれるのですよ、あちらへ行って實力を養ひ、知識を求め文明の確信を掴んで来いと……、さうして新しい文明の上に、力強い生活の基礎を築いてくれと……、
かういふ意味で出してくれるのだと私は思ひます」
と、このような調子です。訳文は昔『朝鮮思想通信』に載ったものです。われわれがこれから留学するお金は、朝鮮のわれわれの同胞がわれわれに出してくれたお金である。だからわれわれが朝鮮の人たちを教育事業に導き、携わらなければいけない、ということを言うわけです。この場面が「無情」で大変有名なところです。感動的であることは事実ですが、この作品が新聞に連載された時から人気を呼び、1918年に初めて本になってからも版を重ね (資料22)、当時としては大ベストセラーになった理由は何だったのかというと、必ずしもこうした民族の将来のことが情熱的に語られていることだけではなかったようです。
その理由は、実は、登場人物の中で一番不幸な英采の存在にあったということらしいのです。つまり、これが『春香伝』や古典文学の伝統なのです。英采の悲しい運命の物語として見ると「無情」は意外と古めかしい古典と通じているのです。日本の植民地時代の1939年に映画化されますが、中身は“英采物語”という感じになっています。ですから、朝鮮人にとっての「無情」はかわいそうな英采がどうなるかという話で引きつけられたということで、やはり先日話したような古典小説などと同じ気持ちで読んでいたということが言えるわけです。
作者の人生に重ねられた同胞の想い
それでは、作家のほうはどうしてあれだけの情熱をかけて「無情」を書かなければいけなかったのでしょうか。
ひとつは、彼が孤児となったあと「無情」を書いているその時点までどれだけ苦労をしたかということを彼自身が振り返り、今後自分がどうするかをまとめる意味があったと思います。ですから「無情」の中に出てくる李亨植という主人公は、もちろん作者自身と重なります。そして、読んでいる人が非常にかわいそうだと同情していた妓生になった朴英采も、やはり作家である李光洙と重なります。李光洙は最初、朴英采という女性の話を書いていたようです。ところが新聞社から話があって、それで少し付け加えるために自分をモデルにした主人公を登場させて「無情」にしたらしいので、最初はやはり自分の生涯を振り返ってその悲しく辛かった生涯を朴英采という女性に託して書いていたようです。つまり李亨植も朴英采も彼自身の過去の姿を現していて、最後はアメリカまたは日本に留学することになり、朝鮮の未来を自分で背負っていくという形で孤児であった自分がこれからの生きる道を見い出して活躍するところで終わっているわけです。個人的に見ればそういう内容を託した小説なのです。
そこへもうひとつ、最後の有名な場面に、「われわれは朝鮮をどうするのだ」、つまり「われわれ民族はこれからどうするのだ」という思想を重ね合わせています。ですから「無情」は非常によくできた構成を持っていると思います。つまり作者個人にとっても、それからその当時読んでいる同胞たちにとっても、われわれ同胞はどうするかということが感動的な言葉で折り込まれていることになります。しかし実際には「無情」が発表された1917年は植民地になってから既に7年経っていますから、そう簡単に「われわれ自身が、われわれの未来を」というわけにはいかない時代だったことは確かで、作品上の話としてとどまらざるを得なかったのです。
近代文学における李光洙の存在意義
作品に体現される精神の複雑性
私は、李光洙の「無情」が読めると、先ほど話した日本に協力した部分も含め、彼のいろいろなところが見えてくると思います。それほど重要な作品だと思います。李光洙の作品は、ほとんどが大衆文学のように思われていて興味を持たない人も多いわけですが、そうした意味で読めばさまざまな面が見えてきます。
彼が「無情」以後に書いた文章はすべて同じような内容に沿っています。つまりどの小説も、恋愛小説のように見えても歴史小説に見えても、全部彼自身のその時々の個人的な問題と、民族はどうするのかということをいつも重ね合わせて読めるようになっていると思います。例を挙げると、登場人物の年齢が執筆している時の作者の年齢と全く同じになっていたり、それから歴史上の事物を登場させる場合も、本当は歴史的には違っていたりするのですが、それは作者にとって一番重要なものだったから使われていると分かります。もちろんそう読まない人もいますが、私は、彼がいつも自分と民族という2つを重なり合わせていると思います。
例えば1942年の「元暁大師」は、朝鮮ではとても有名な新羅の僧の伝記で、これは非常に民族的な精神を持ったものだと言われているのですが、戦時中の1942年に総督府の機関誌である『毎日新報』(申報より改題)に連載したものですから、民族的な精神を主張し得る作品であるわけはないのです。ところが現在の韓国の人は、みんなこれを民族的な精神を強く表現した作品として読んでいるのが普通です。おそらく李光洙が完全に読み切れていないのではないかと思います。その当時、李光洙がいくら民族的なものを書こうとしても許されるはずがないのですから、「元暁大師」は逆に丁寧に読めばどこかで日本の支配者に許される書き方をしてあるわけで、その複雑さがなかなか読み取れないのだと思います。しかもこの時は、彼が日本に協力する行動をしていたといわれている時期です。
それでも、この「元暁大師」が民族精神を表現した感動的な作品であることも確かなのです。つまり、政治的にどうであるかということと、作者がどれだけ深く悩んだかということはそれぞれ別個に現れてくるわけで、李光洙はその点でも大きな人間だと思います。確かに彼が民族のために親日的行動をしたというと反発を感じると思いますが、彼個人としてその思いがいろいろあって、日本に順応したのも「自分の同胞たちを救うために、自分が犠牲になれば他の人は助かる」と実際にそう思っていたふしがあるのです。それは政治的に見ればとんでもない考えで、空想的でしかないのですが、彼自身は「自分が犠牲になって、みんなから嫌われよう」と思っていたようです。その点では考えが甘かったと言えるかもしれませんが、李光洙自身としては真剣な思いをしていたわけです。
現在の韓国では、そういう政治的に間違ったところも含めて、当時の事柄をわりと客観的に見るようになっています。彼の生涯を扱ったテレビドラマも作られましたが、いろいろと考えて作られています。韓国の若い人たちの李光洙に対する評価も、そのうちに変わってくるのではないかと思います。
「無情」は近代文学の出発点
結局、李光洙の業績として何が残るかとということが問題になるわけですが、これは軽々しく言えないところがあります。文学の業績としては、やはり「無情」は朝鮮の近代文学の出発点となっています。彼のあとに出てくる近代文学は李光洙を基準として書いています。李光洙は攻撃の的になることが多かったのですが、みんな李光洙を軸にしながら文学作品を書いていきました。つまり、李光洙のような作品を書かない人間も含めてということです。ですから文学に残した業績は大きいと思います。李光洙の作品そのものはそう簡単に読み切れない内容をたくさん持っており、前回3回までに話したような背景についてある程度分からないと、作品が非常につまらないものになります。日本の文学の基準からいうと、李光洙の作品は大衆作家の大衆文学であって、文学的な水準としては低いものだったと言えるかもしれません。ところが、朝鮮の文学作品として見る時には多くの問題を含んでいると考えられます。ただ、彼の作品にはまだまだいろいろと政治的なものがあり、完全な解読と言える研究があまりされていないのではないかという気がします。
もちろん政治的なことはいろいろありますが、李光洙を慕う人は多く、北でも最後まで“先生”と尊敬されたことも確かです (資料23)。彼が民族反逆者と言われている時でも、独立運動家の伝記を書いてくれということで安昌浩についての本を書いたりしていますから、解放後も彼を支持する人はたくさんいたということです。意外かもしれませんが、独立運動家として有名な金九(キム・グ/1876〜1949)の自伝『白凡逸志』(1947)は実は李光洙の筆になるものです。本人の書いたかなり古めかしい原文を一部省略しながら李光洙が現代語に書き直したものが、これまで韓国で国民の必読書とされてきたのです。もちろん大部分の読者は李光洙の手が加わっているとは知らなかったのです。こうして50年も読まれてきた本も、ようやく近年になって原本に基づいた『白凡逸志』が出版されることになりました。