明治学院在学中の李光洙

出典:『富の日本 1巻2号』富の日本社、1910. 3


資料20
李光洙(イ・グヮンス/1892〜1950)

1913年と直筆サイン 著者蔵

春園 李光洙(1892〜1950)略年譜
1892 平安北道定州に生まれる。幼名は寳鏡
1902 11歳、父母コレラで病死。2人の妹と共に孤児となる
1904 東学党の書記となり天道教と出合う。ソウルに行き日本語教師。翌年天道教の派遣で日本に留学
1907 明治学院普通部3学年に編入。キリスト教と出合う
1909 日本語短編「愛か」を『白金学報』に発表
1910 明治学院卒業。故郷・定州で五山学校教員となる
1913 心身共に疲労困憊し、世界旅行を試みいったん上海に行く
1914 アメリカに渡る目的でシベリアに行くが、第1次世界大戦勃発で帰国
1915 再度渡日。早稲田大学高等予科編入
1917 朝鮮総督府機関誌『毎日申報』に長編「無情」を連載、続いて「開拓者」連載(11.10〜1918. 3. 15)
1918 『青春』に、「尹光浩」、「宿命論的人生観より自力論的人生観に」、「子女中心論」を発表。許英肅と北京に駆け落ち(10)
1919 「朝鮮青年独立団宣言」(二・八独立宣言書)起草し上海に亡命。臨時政府に加わり、機関誌『独立新聞』編集
1921 許英粛の仲介で突然朝鮮に帰国、不起訴釈放
1922 〈修養同盟会(のちに修養同友会)〉発足。『東亜日報』に論説・小説執筆。『開闢』に「少年に」、「民族改造論」を発表
1923 『開闢』に「爭闘の世界から扶助の世界へ」、『開闢』に 「先導者」を連載(3. 27〜7. 17中断)。『朝鮮の現在と将来』を出版
1924 『東亜日報』に「金十字架」(3. 22〜5. 11中断)、「再生」(11. 9〜1925. 3. 11、1925. 7. 1〜9.28)を連載、「民族的經綸」を発表
1925 脊椎カリエス手術。『東亜日報』に「一説春香伝」を連載(9. 30〜1926. 1. 3)
1926 東亜日報編集局長就任。『東亜日報』に「麻衣太子」を連載(5. 10〜1927. 1. 9)
1928 『東亜日報』に「端宗哀史」を連載(11. 31〜1929.5. 11、1929. 8. 20〜12. 11)
1929 腎臓結核で腎臓摘出。
1930 『東亜日報』に「革命家の妻」(1. 1〜2. 4)、「愛の多角形」(3. 27〜10. 31)、「サンボンイ一家の家」(11. 29〜1931. 4. 24)を連載
1931 『東亜日報』に「李舜臣伝」(6. 26〜1932. 4. 3)を連載
1932 臨時政府の中心人物の島山 安昌浩、上海より護送されてくる。『東亜日報』に「土」(4. 12〜1933. 7. 10)を連載
1933 東亜日報社を辞任し、朝鮮日報社に移る。『朝鮮日報』に「有情」(10. 1〜12. 31)を連載
1934 長男(3歳)急死。朝鮮日報社辞任。金剛山巡礼、仏教への傾斜強まる
『朝鮮日報』に「彼女の一生」(2. 18〜1935. 9. 26)を連載
1935 島山 安昌浩仮釈放。朝鮮日報社に再入社
『朝鮮日報』に「異次頓の死」(9. 30〜1936. 4. 12)を連載
1936 『朝鮮日報』に「愛欲の彼岸」(5. 1〜12. 21)、「彼の自叙伝」(12. 22〜1937. 5. 1)を連載
1937 安昌浩と共に修養同友会盟員逮捕。李光洙は半年で病気保釈
1938 修養同友会盟員42名送検。安昌浩病死
書き下ろし小説『愛』
1939 『文章』に「無明」発表。書き下ろし小説『世祖大王』
1940 香山光郎と創氏改名。修養同友会事件二審有罪判決
日本語翻訳作品集『嘉實』、『有情』、『愛(前編)』
1941 修養同友会事件高等法院全員無罪。
『新時代』に朝鮮語で「彼らの愛」(3回中断)、「春の歌」(10回中断)を発表。『同胞に寄す』(文集)、『内鮮一体随想録』、小説「行者」(以上日本語による作品)。日本語翻訳作品集『愛(後編)』
1942 『毎日新報』に「元暁大師」(3. 1〜10. 31)を連載
1944 ソウル東方の思陵に翌年8.1 5解放まで隠遁
1946 從弟・李學洙の居る近くの奉先寺に入る
1947 『島山 安昌浩』『夢』『私・少年編』、金九の自伝原稿をもとに『白凡逸志』を執筆
1948 『石枕』、『私・二十の峠』、『私の告白』
1949 反民族行為処罰法により収監(2)、不起訴で釈放(8. 29)。
「愛の東明王」
1950 「ソウル」(未完)。朝鮮戦争勃発(6. 25)、北に拉致され死亡



注(6) 五山学校

出典:宋俊『南新義州柳洞朴時逢方―詩人白石一代記2』チナ、1994
平安北道出身の商人李昇薫(イ・スンフン/1862 ~1930)が、平壌で大成学校の校長だった安昌浩の演説に感動して、1907年に出身地・定州の五山に設立した学校。1909年にキリスト教に基づく教育方針を採用するが、終始民族精神を基盤とすることには変わりなかった。文学者・李光洙、廉想渉、金億も教鞭を執った。李昇薫は民族運動団体〈新民会〉の運動や三・一独立宣言書署名など積極的に民族運動にかかわり、そのため再三投獄され、1919年には校舎を焼かれるなど多くの苦難を被った。現在のソウルにある五山高等学校は、朝鮮戦争後韓国に避難した関係者によって再建されたものである。

五山学校教師時代の李光洙、1913年

著者蔵


注(7) 安昌浩(アン・チャンホ/1878〜1938)、臨時政府の内務総長時(41歳)

出典:朱耀翰編『安島山全書』三中堂、1963

独立運動家・教育家。号は島山。平安南道生まれ。韓末に愛国啓蒙運動に従事したあと渡米したが、1905年保護条約締結を知り帰国。新民会を組織し民衆運動を行うかたわら平壌に大成学校を設立。その後、中国を経て再びアメリカに亡命、興士団を組織。1919年、上海臨時政府では内務総長を務める。以後米中を往来しながら独立運動を行うが、1932年逮捕されて朝鮮に連行。服役仮釈放中に同友会事件で再度逮捕され収監中に病気悪化、保釈後死亡。


注(8) 『独立新聞』
上海臨時政府の機関紙は最初『我等の消息』という名で謄写版で出されていたが、1919年8月21日より『独立』が活版で発行され、その後1919年10月15日付けの22号より『独立新聞』と改称し、さらに1924年1月より題名がハングルで表記された。初期の編集の中心人物は李光洙と朱耀翰で、特に李光洙は記名・無記名の論説、随筆、詩を多数執筆した。彼はこの他に臨時政府の事業として資料編纂委員会の仕事も担当していた。


上海に亡命していた頃の李光洙、1919年

出典:朱耀翰ほか編『李光洙全集 別巻』三中堂、1971


注(9) 修養同友会
安昌浩が米国で組織した興士団の精神に基づく団体。1922年ソウルでは李光洙が修養同盟会を、平壌では作家・金東仁の兄である金東元(キム・ドンウォン/1884〜?)らが同友クラブを組織し、1926年に合同して修養同友会となり、1929年には同友会と改称した。会の趣旨は将来の独立のため人格修養、知識・経済力などの実力養成であった。1937年に会の印刷物が問題となり、一斉逮捕と弾圧を受けた。裁判は1941年の最終審で全員無罪となったが、その過程で2人が獄死、李光洙が親日に追い込まれ、安昌浩が病死するなど犠牲が大きかった。


修養同友会事件当時の李光洙、1937年

出典:朱耀翰ほか編『李光洙全集 別巻』三中堂、1971


資料21
春園(李光洙)「無情」連載第1回


出典:『毎日申報(1917. 1. 1)』毎日申報社


資料22
『無情』初版本の本文第1頁


出典:李光洙『無情』新文館、1918


資料23
北における李光洙作品の出版と評価

 北朝鮮で1991年に出版された『現代朝鮮文学選集』の第8巻は李光洙の巻で、「開拓者」と「少年の悲哀」、「幼き友へ」が収録されています。いずれも「無情」と同じ1917年に発表されたもので、どれも作者の恋愛観が強く出ている作品です。作品としては「無情」のほうがずっと良いと思われるし、どうして北ではそぐわないように思われる「開拓者」などにしたのか、またそもそもなぜ北で李光洙の作品が出版できたのか不思議でした。どうやらそこには上層部の意向が反映していたようです。
 金正日、現在は北での最高指導者ですが、彼の『主体文学論』(1992)には、「開拓者」を始めとしとして1910年代の李光洙の作品には当時の社会悪に対する不満がある程度書かれていて評価でき、肯定的に評価しても良く、また父親の金日成も満州で青年運動をしていた頃に「開拓者」を読んでいたこと、そして「革命家の妻」(1930)を書いてから作者自身が「変節したことが暴露された」と金日成が述べたことが書かれています。
 また、北で出ている文学辞典『文芸常識』(1994)や金日成大学で使っている教科書『近代現代文学史』(1991)でも「無情」と「開拓者」の果たした役割が評価されています。ただ、民族の現状を打開する策として教育や文明しか考えられなかったのが李光洙の限界で、「民族改造論」以後は変節して日本に同調するようになったと述べてあります。