(三枝寿勝の 「韓国文学を味わう」 第 II 章)


第 II 章 文学作品の伝来と受容


金時習の『金鰲新話』に見る伝来と受容

 ここでは、朝鮮と日本の間における文学作品の伝来と受容について、お話します。
 まず、近代文学以前になりますが、李朝時代の作品が朝鮮では消滅してしまったのに、なぜか日本に伝わって江戸時代に本が出された例で、金時習(キム・シスプ/1435〜93 肖像)が書いた漢文の物語『金鰲新話(クモシナ)』を取り上げます。この作品は日本で何回か出されたあとに、近代になってから逆輸入されて朝鮮で再び発刊されているのです。
 金時習は、ハングルを作った李朝第4代の王・世宗(セジョン)が在位していた時に神童として有名で、特別な待遇を受けて勉強をした人です。ところが、7代目の王・世祖(セジョ)が、6代目の王だった甥の端宗を非常に残虐なクーデターで退位させて王位に就いたあとで殺したので、彼は王室に仕えることを潔しとせず、世の中に対しての不満を抱きながら放浪の生活をし、ある時は僧侶になり、また還俗をしてというように、結局は奇人、つまり変わった人物として一生を終わります。そして、現在の慶州の南山に当たる金鰲山にこもっていた時に書いたと言われる伝奇的な作品が『金鰲新話』です。
 これは、「牡丹灯篭」のもとになった怪談話が入っている、中国の唐代の『剪燈新話』を真似した作品ということで知られていました。それを読んだ学者が簡単な批評を書いたりしたものが残っていますから、全く隠されていたわけではなくて、ある程度読まれていたらしいのですが、その後、この作品がどこへ行ったか分からなくなっていたのです。

和刻本『金鰲新話』の逆輸入

 ところが、江戸時代には和刻本として日本で出されていて、刊行の年代と実物が分かっているものを挙げると、1653年、1660年、そして後者と同じ版が1673年にも出ており、すべて木版本です (資料8)
 1660年に出た本の表紙には『道春訓點 金鰲新話(きんごうしんわ)』とあります。道春は林羅山のことで、つまり林羅山が訓点を付けた本というわけです。林羅山は怪談物に非常に興味があったようで、ほかにも彼自身の編纂で怪談物を集めた『怪談全書』を出しています。これが出たのは1667年ですから、そのもとになったのはおそらく『剪燈新話』のような中国のものと、それからこの『金鰲新話』だと思います。『怪談全書』のあとにも上田秋成の『雨月物語』(1776)が出されていますので、『剪燈新話』と同じように、朝鮮の『金鰲新話』も明らかに日本に受け入れられ、江戸時代の怪奇物語の流行に一役果たしていたはずです。
 その後、明治17年(1884)に再度発行されたのですが、それには、いろいろな人の評論が加えてあります。また1926年には、朝鮮総督府の機関誌『朝鮮』に『金鰲新話』の日本語訳が5回にわたって連載されました。 朝鮮では、独立宣言文を起草した民間の学者・崔南善(チェ・ナムソン/1890〜1957 肖像)が1921年に雑誌『啓明』の附録として、漢文だけの『金鰲新話』に簡単な解説を付けて出しています。こうしてこの作品が再び朝鮮で知られるようになりました。

『剪燈新話』と『金鰲新話』をもとにした浅井了意の『伽婢子』

 怪奇小説の由来をたどりますと、まず中国の『剪燈新話』(1421)が挙げられますが、この『剪燈新話』の注釈本として朝鮮で『剪燈新話句解』が出されています。この本の本文には、朝鮮人が付けた簡単な注が付いています。この本は朝鮮では木版本としてたくさん出ており、これも日本に伝わって和刻本、つまり日本の本として返り点を付けたものが江戸時代に出版されています。
 ところで日本でたくさんある怪談物を集めた本のひとつに、1666年に出された浅井了意の『伽婢子(とぎぼうこ)』という本があり、その中に従来『剪燈新話』に倣ったと言われていた話がいくつかあるのです。しかし『剪燈新話』と『金鰲新話』、それから『伽婢子』を比べてみると、実は浅井了意が明らかに『金鰲新話』のほうをもとにして作っているということが分かる話があるようです。
 『金鰲新話』にはもともと12話あったと言われているのですが、現在残っているのはたった5話だけです。その5話というのは、「萬福寺樗蒲記」「南炎部州志」「李生窺牆傳」「龍宮赴宴録」「酔遊浮碧記」です。『金鰲新話』のもとになったと思われる『剪燈新話』と浅井了意の『伽婢子』を比べると、『金鰲新話』は中国の『剪燈新話』をそのまま模倣したわけではなくてその中のいろいろな話を混ぜて創作しているので、この2つにつながりがあることは確かでも、どの話と対応するかと言うことはそう簡単ではないわけです。ところが浅井了意の『伽婢子』には、『金鰲新話』の話を単に翻訳したという感じの話があるのです。『伽婢子』の「歌を媒として契る」と「龍宮の上棟」の2話は『剪燈新話』を下敷きにしたのではなくて、それぞれ『金鰲新話』の中の「李生窺牆傳」と「龍宮赴宴録」を、ただ場所と登場人物の名前を日本のものに書き換えただけになっているということが分かるのです。つまり、浅井了意の木版本では、筋や登場人物などの構成は全部『金鰲新話』と同じにして固有名詞などに日本名を使っているだけなので、ほとんど翻訳物です。その一方で、「金閣寺の幽霊に契る」と「地獄を見て蘇る」の2話は、今度は『剪燈新話』の「滕穆酔遊聚景園記」と「令孤生溟遊録」からの翻訳になっているようです (資料9)

■「萬福寺樗蒲記」のあら筋(『金鰲新話』より)

 では、金時習の書いた『金鰲新話』から「萬福寺樗蒲記」を例として紹介し、『剪燈新話』と比べてみましょう。
 新羅の時代、全羅道南原の萬福寺に梁生という男が住んでいました。梁生は1人で萬福寺に住んでいたのですが、ある日寂しくなり、樗蒲(ユッ)という儲けの道具を持ってそのお寺の仏様のところへ行き、「賭けをしよう。もし自分が勝ったら、自分に伴侶を世話してくれ」と頼みます。梁生は賭けに勝ち、仏様に約束を守ってくれるように言うと、若い女の人が現れて、梁生はその女性と因縁を結ぶことになります。
 梁生は、その女性に連れられ、開寧洞で一緒に3日過ごします。ところが3日経った時に、その女性は「ここでの3日は俗世での3年に当たります。これでいよいよお別れの時が来ました」と言い、女性を4人呼んで別れの宴を開いて、お互いに歌を詠んで別れます。そして別れに際して、女性は梁生に「実は私はこの世の者ではないのですが、両親があるお寺に供養をしに来ますから、両親と挨拶をして欲しい」と頼みます。梁生は銀の器を渡され、女の言うとおりにそれを持ってお寺のところに立っていると、この女の両親がやって来ます。両親は、自分の娘を葬った時に埋めた物を持って歩いているのを見て、もしかしたら墓をあばいて盗んだのではないかと疑って、梁生に尋ねます。梁生はこれまでのいきさつを説明しますが、最初は信じてもらえず、それならばと梁生をそこに待たせて、自分たちは供養の場所に行きます。
 梁生が待っていると女が現れて「一緒に両親のところへ行きましょう」と供養をしているところに行くことになります。ところが、梁生には女の姿は見えるのですが、家族の誰にも見えないので信用してもらえないわけです。そこで食事を出すと、誰にも女の姿は見えないのですが、はしを動かしたり話し声が聞こえるということで、両親は梁生の話が本当だということが分かります。そして、死んだ娘に渡すはずだった財産などを全部あげるから、これからも娘のことを忘れないでくださいと両親は梁生に頼んで帰ります。その後も梁生が1人で暮らしていると、ある日、天から「私は男に生まれ変わりました」という女の声が聞こえます。梁生は独身のまま山にこもって、それからは誰にも会わずに行方知れずになった、というお話です。
 ここに出てくる樗蒲というのはサイコロの代わりに使う朝鮮の遊び道具です。断面が半円形の短い4本の棒で、これを投げて、仰向けになっている棒とうつ伏せになっている棒の数で目の数を決めるものです。朝鮮では今も使われていて朝鮮語では“ユッ”と呼んでいます (資料12参照)。主人公の梁生が仏様と勝負した時にこれを持って行き、その樗蒲の場面から始まるので「萬福寺樗蒲記」という題名が付いているわけです。

『金鰲新話』と『剪燈新話』の関係

 「萬福寺樗蒲記」では死んだ人との宴が描かれていますが、これを『剪燈新話』の中の話と比べると、滕穆という人が聚景園で酔って遊ぶという「滕穆酔遊聚景園記」が似ています。また、冒頭で仏様に主人公が願いを聞いてくださいと訴えるのは『剪燈新話』のほかの話にありますし、女が、実は私は死んだのだけれどもこういうわけで死にましたということを男に話す場面や、最後に生まれ変わるところも別の話に出てきます。それからあの世に既に帰ってしまった女性が忘れられなくなった主人公が一生独身で暮らして行方知れずになったというくだりも「緑衣人伝」にあったりするなど、『剪燈新話』のさまざまな作品から材料を借りてきているのです。
 「萬福寺樗蒲記」では、女の霊と主人公の梁生が手を取って外を歩くのですが、こういう場面は「牡丹灯篭」のもとになった『剪燈新話』の「牡丹灯記」にも出てきます。面白いのは「牡丹灯記」では、霊と手をつないで歩いているうちに霊に体を乗っ取られて魂が抜き取られるという不吉な感じですが、「萬福寺樗蒲記」ではそうではなくて、非常に睦まじい感じの描写がされているのです。
 『剪燈新話』の書き方と「萬福寺樗蒲記」だけを比べてみると『剪燈新話』はお化けの話ということで少しうす気味の悪い感じはしますが、「萬福寺樗蒲記」は気味の悪い不吉な感じがしないのです。金時習がなぜこのような書き方をしたのかはよく分からないのですが、幽霊の女性と主人公との会話にしても、一緒に手をつないで歩くという描写にしてもほほえましく感じられます。また『金鰲新話』の中の物語は、場所が全部当時の朝鮮の地名で、固有名詞が全部朝鮮のものになっています。このことは、朝鮮の古代小説の舞台がほとんど中国であることと比べても非常に独特なのですが、描き方もやや柔らかみ、温かみがあるような気がします。『金鰲新話』は漢文ですし、たった5話しか残っていないのではっきりとは言えませんが、少なくとも『剪燈新話』とは違った雰囲気を持っているのではないかというのが私の感想です。


『金色夜叉』を翻案した新小説『長恨夢』

 このようにして、文学作品が伝わる時にはいろいろな条件が作用して少しづつ変形していくわけですが、次に、作品が伝わる時に少し変形したり受け入れ方に制約があった例をさらに2つ紹介したいと思います。まず、日本から朝鮮に伝わった例です。
 つい最近少なくとも70年代までは、これを知らない朝鮮人はいないというぐらい有名な話がありました。それは『長恨夢(チャンハンモン)』と『春香伝(チュニャンジョン)』の2つなのですが、『長恨夢』は前回話した新小説と言われるもので、最初は『毎日申報』に連載されました。1913年に趙重恒(チョ・ジュンハン/1863〜1944)が書いたのですが、1913年というのは既に日本の植民地にされたあとです。この新聞の読者が多かったかどうかはよく分からないのですが、この小説そのものの読者はとても多かったようです。おそらく新小説を読む時には、新しい風習なり文物なりの知識を得るとか、挿絵がモダンであるとか、そういった目新しさがあったのではないかと思います (資料10)

■『長恨夢』のあら筋

 この物語は、主人公がお正月に、先ほどの「萬福寺樗蒲記」で出てきたのと同じ樗蒲を投げて遊んでいるという場面から始まるのです。主人公は孤児の李守一(イ・スイル)と沈順愛(シム・スネ)で、話はこの2人の恋愛物語です。孤児となった李守一は沈順愛の家で育てられ、将来結婚を考えているような仲だったわけです。ところが、お正月に2人で樗蒲を投げて遊んでいると、そこに銀行の経営者である大金持ちの息子・金重培(キム・ジュンベ)がやって来て、沈順愛はそちらのほうに心をひかれ、両親も金重培と結婚させることに決めます。自分の婚約相手だと思っていた人に裏切られた李守一は、沈順愛に復讐を誓い、そのために高利貸しになるというストーリーです。
 もうお分かりだと思いますが、これは日本の『金色夜叉』とほとんど同じです。
 その後、李守一と別れた沈順愛はそれを後悔し、婚家を飛び出して自殺を図りますが死ぬことはできません。結局守一の親友に救われ、1人で暮らしていきます。一方、順愛への恨みから高利貸しになった守一は、あまりにも仕事のやり方がひどいので、ある日暴漢に襲われて大けがをします。そして静養している時に、偶然に若い男女が心中するところを助け、そのことから自分が持っていたむごい心が和らぎ、順愛を許そうか許すまいかと悩み始めます。『金色夜叉』はこのあたりで未完で終わっているわけですが、『長恨夢』はさらに話が進行して完結しています。結局、守一は友人の仲介で後悔している順愛を許し、最後に2人は結婚してハッピーエンドとなります。

細部を変えた設定

 実は『金色夜叉』の構想の中にはその結末もあったのですが、尾崎紅葉はなかなか決心がつかなくてそこまでは書けなかったようです。しかし、朝鮮のほうではそこまで書いているわけです。この物語は朝鮮ではとても人気がありました。「長恨夢」は1913年5月から10月まで新聞に連載されているのですが、連載の途中で既に舞台公演が始まり、その後映画化もされるなど非常に流行します。「長恨夢歌」という歌もつくられました。「大同江の岸辺 浮碧樓の下を 散歩する 李守一と 沈順愛の 二人なり 手を握り情を論ずるも今日かぎり 歩みを進め散歩するも今日かぎり」と少し古めかしいのでそういう訳をつけましたが、これはまさに「熱海の海岸散歩する貫一お宮の二人づれ」そのもので、同じメロディーで歌われます。まさに日本の歌そのままで、中身が韓国のものに変わったというだけです。さわりの部分を弁士が語ったのを録音したSPレコードも1929年に出ています。
 『長恨夢』では、もとになった『金色夜叉』と比べるといくつか設定が変えてあります。『長恨夢』でも裏切られたと感じた李守一が沈順愛を蹴る場面は『金色夜叉』と全く同じですが、違いは、場所が海岸でなくて平壌郊外の大同江の川岸ということです (資料11)。また『金色夜叉』では「今月今夜のこの月を」というのは1月17日ですが、『長恨夢』では、平壌は熱海と違って1月では寒すぎるので陰暦3月14日に変えていたり、細かい設定をいろいろ変えてあるのです。しかし、この話が有名になり得たのには、もっと大きな別の条件があったと考えられます。

儒教社会に受容されるためのさまざまな工夫

 『長恨夢』の登場人物を『金色夜叉』と比べてみると、間貫一は李守一、鴫澤宮は沈順愛、お金持ちの富山唯継は金重培、それから友達が出てきますが、鰐淵直行が金正淵、荒尾譲介が白楽観となっています。白楽観が主人公の沈順愛を助けて世話をする役になるのですが、彼の名前は楽観的の楽観となりますので、とても豪快で性格が剛胆だということになります。女の人が、もともとは自分のいいなずけ同様だった男性を捨てて他の人と結婚してしまうというスートーリーはほとんど『金色夜叉』と対応しているのですが、後悔してそこを飛び出してしまい、最後はもとのいいなずけと結婚して幸せになるという結末が全く違います。そして、ここに問題があります。
 儒教社会である韓国で、普通の家庭人が結婚後に逃げ出して他の人と結婚するということは絶対許されないことで、これはあり得ないストーリーです。主人公が『春香伝』の春香のように妓生(キーセン)だったり、酒場の女性だったら問題にならないのですが、普通の家の女性だったら絶対許されないことです。現在でも良く思われません。ですから、このような小説は今で言ったらポルノ小説以上に社会問題になったはずだと思うのですが、1913年に非難もされずに受け入れられているわけです。私も初めは変だと思いました。
 そこでよく読んでみると、この物語は非常に奇妙なのです。主人公の女性は、結婚したその日からほとんど別居状態のようなもので、実際には夫婦関係が一切ないということになっているのです。これはとても不自然な設定ですが、そういうストーリーに仕立てなければいけなかったということは、やはり朝鮮社会の現実を考慮したからでしょう。
 『長恨夢』は一見すると日本の『金色夜叉』をただ単に翻訳しただけに思えます。しかし、それだけでは今言ったような問題点がいろいろ出てくるので不自然ではありながら、朝鮮で受け入れられるような工夫がいろいろなところに凝らされていたということが言えるのではないでしょうか。このように、朝鮮社会で抵抗のない設定をしているおかげで、主人公の悲しい運命に読者が心おきなく同情し共感し得たのだと思います。それと同時に、当時としては非常にモダンで新しい主題の作品であったということも言えそうです。
 樗蒲(ユッ)に触れたついでに述べますが、韓国にも日本の花札やマージャンのようなものがあって、それぞれ伝来の仕方も遊び方も多少違います (資料12)。身近な遊び道具ひとつ取ってもその国なりの受容の形がわけで、『金色夜叉』と『長恨夢』にも同じことが言えるのではないかと思います。


日本に伝来した『春香伝』と翻訳の問題点

 それでは、今度は逆に朝鮮の物語が日本に輸入された例ということで『春香伝』を取り上げます。最初に『金鰲新話』に触れましたが、あれは影響を受けたということではなくて、ただ単にそれを使って日本の怪談物語を作った、あるいは翻案したということでしたが、『春香伝』のほうは、近代における翻訳のあり方という点で問題を投げかけてくれます。李夢龍(イ・モンニョン)と春香(チュニャン)の恋愛物語である『春香伝』は『長恨夢』と共に朝鮮ではとても有名な話ですが、もともとは18世紀頃からあった語り物がいろいろな本になって定着したと考えられています。

■『春香伝』のあら筋

 舞台は全羅南道の南原で、李夢龍は郡守の息子です。相手の春香は、もともと妓生であった人の娘という設定です。しかし、本によっては春香自身が妓生であったりなかったりしており、日本で岩波文庫に訳されている『春香伝』は、妓生であった母親と両班貴族であった男の間に生まれた子供なので、春香は妓生ではないということにしてあります。
 昔の両班の家では、男の子は1日中漢文を読んで勉強しなければいけなかったわけです。ところが16歳の李夢龍は遊び心がついて勉強せず、端午の日に遊びに出た広寒楼で春香と出会って恋愛をすることになります。しかし父親は中央から来た官吏なので、また都へ戻らなければならず、李夢龍も家族と一緒にソウルに帰ることになり、李夢龍と春香は別れることになります。
 残された春香には、新しく来た郡守に仕えよという命令が来るのですが、「自分は李夢龍と言い交わした仲なので他の人に仕えるわけにはいかない」と拒否したために郡守を怒らせ、拷問にかけられ牢に入れられてしまいます。一方、都に帰った李夢龍は一生懸命勉強して科挙に合格します。そして日本で言うと水戸黄門のような暗行御史という隠密の役を帯び、地方視察で南原に来て、悪い郡守を懲らしめて春香を助け出し、一緒になるというのがあら筋です。

朝鮮人との共訳が多い日本の『春香伝』

 朝鮮の『春香伝』の本は実に多種多様で、木版本の他に筆写本もあったり、長さもいろいろでした。物語の木版本はほとんど完板か京板が中心になっているようですが、筆写本と岩波文庫のもとになった完板本は比較的長いものです。20世紀になっても木版本で出版されており、題名が『獄中花』(1912)と変えられて新小説と同じような表紙で出たものや (資料13)、朝鮮語の横に日本語の翻訳が付いた『日鮮文春香傳』(初版1917)、漢文で書かれた『原本春香傳』(1918)などとにかくさまざまですが、大筋はみな同じ恋愛物語で、いずれも先ほどのような筋に先ほどのような冗談をたくさん織り込んだものがもともとの『春香伝』です。
 この『春香伝』は日本でも何回か翻訳されており、一番古いものは桃水野史(半井桃水)の「鶏林情話 春香傳」で、明治15年(1882)大阪の『朝日新聞』に23回連載されました。朝鮮では『春香伝』のように有名な話でも本を出すたびに勝手にどんどん内容を変えてしまい、日本のように全く同じものを出すということがあまりないようです。そのため、日本語に翻訳されたものはそれぞれについてどれが原本かよく分からないことがありますが、この『朝日新聞』に連載されたもとの本は、ある人の調べによれば“京板30張本”という木版本に一番近いということです (資料14)
 半井桃水は樋口一葉の先生であったと言われている人です。もともとが対馬の出で朝鮮語もできたので、この翻訳を発表した頃は『朝日新聞』の通信員として釜山に在住しており、この連載前後、『朝日新聞』には半井桃水の書いた当時の朝鮮の政治に関する記事が見られます。また、だいぶあとのことですが、彼が日本に帰ってから新聞に連載した『胡砂吹く風』(明治24〜25/1891〜92)は朝鮮を舞台にした政治小説で、この前半には彼の翻訳した『春香伝』と類似した設定がかなり見られるそうです。
 半井桃水のあとにもいろいろな人が翻訳しており、原本にどの本を使ったかということも問題にはなるのですが、それよりも日本人と朝鮮人の共同訳が多いということが目につきます。訳した人の1人である高橋亨は、朝鮮文学の研究者として1945年以後は天理大学で教えていた人ですから、この人はもちろん朝鮮語ができました。しかし、1921年に今村鞆が書いた『通俗朝鮮文庫』の場合は、洪錫謨(ホン・ソンモ/生没年不明)との共訳になっています。それから1924年の『女性改造』に「春香伝」を紹介した呂圭亨(ヨ・ギュヒョン/1849〜1922)と中西伊之助も共訳です。あるいは、村山知義やその他の人の場合でも、朝鮮人の誰々の世話になったと書いてあります (資料15)
 このように日本人の翻訳と言われているものは、高橋亨を除いてはおそらく自分で読んだのではなくて、朝鮮人にある程度訳してもらった拙い日本語を日本人がきれいな日本語に直すという大変初歩的な翻訳方法をとっていたのではないかという気がします。現在でも朝鮮文学の翻訳では、本になった時には有名な文学者や日本文学の作家が代表者の名前になりますが、その前に下訳をしたものがあって、それを日本の小説家が見事な翻訳にするということになっているものがあるようです。その点ではほとんど昔と変化がないともいえます。
 それからもうひとつ読んで気がつくことですが、例えば1922年の麻生磯次の訳ではもともとの『春香伝』とはだいぶ趣が違っており、恋愛の悩みに焦点が置かれているような気がします。「自分は今勉強をしなければいけない身なのに、春香に惚れてしまって、一体私はどうしたら良いのだろう」というとても深刻な恋愛物語になっており、日本文学としてみれば多分そのほうが良いのでしょうが、もともとの『春香伝』とは雰囲気がかなり違うようです。

伝わりにくい朝鮮人独特のユーモア

 では、朝鮮人が楽しんでいる『春香伝』はどんな形かというと、例えばそのひとつに、筋は同じですが全部で5時間もかかるパンソリという語り物があります。パンソリというのは物語に筋を付けて歌うので、とても長くなります。読めば30秒のものが4分も5分もかかることになるわけで、その形式は日本の能や狂言に近いかも知れません。しかし、詳細は次回に譲りますが、パンソリにはふざけたせりふや設定が多いのです。
 例えば李夢龍が公園で春香に出会う場面では、お付きの者が貴族である李夢龍に冗談を言ってからかってはいけないはずなのに、「何も見えませんね。どうも両班の目とわれわれ庶民の目とは違うのではないですか。何が見えますか」と李夢龍をからかってとぼけるのですが、そのやりとりが延々と続いたりします。しかも会ったばかりの2人がその日のうちに寝床でいちゃついて、それが延々と続くわけです。従来韓国でも、その部分だけは印刷されなかったことがあるというぐらいの場面です。
 それから春香が捕まって拷問される場面でも、春香がひとつ打たれるたびにひとつ歌を歌い、10打たれるまで歌い続けるのです。こんなことはあり得ないのに、それを聞いている観客はみんな涙を流すというわけです。ほかにも不自然なことはたくさんあって、特に、悲しいはずの場面にそういう冗談やふざけたものが延々と入れられているのです。このように朝鮮での『春香伝』は、日本文学から見ると、とにかくめちゃくちゃふざけているように見えるのです。悲しい場面とふざけた場面が混在しながら感動的である、というのがパンソリの不思議な魅力とでも言えましょうか。
 ところが日本の翻訳では、これが全部真面目一色に変わってしまいます。一例を挙げると、村山知義は中国や朝鮮に非常に関心の深かった人ですが、彼は『春香伝』には社会的な意義があると考え、その社会背景を生かそうと2人の身分の違いに力を入れます。もともとの『春香伝』の持っていた、あの日本人には理解のできないような、悲しいものと真面目なもの、そしてふざけたものが混在している形は受け入れ難いと感じたわけです。ですから日本文学的に整える時に、完全な翻訳をするというよりは翻案してしまったというのは仕方のないことだと思います。私もそうでしたが、朝鮮人が書いている物語の独特なユーモアがなかなか理解できなかったのです。
 夏目漱石がイギリスのユーモアについて書いていましたが、男女が共に集まるサロンのようなものがあるとユーモアが洗練されるのですが、男性同士、女性同士だけの社交場ではユーモアが洗練されないらしいです。朝鮮の場合も、昔の社交場は男性だけの話の場でしょうから、そういうものが洗練されなかったのだと思います。特に漢文で書かれた野談といわれる物語の中にはとても人前では口にできない内容のものが多いのですが、おそらくこうした男性だけの社交界を背景にしているからでしょう。その他に、朝鮮はつい最近まで農村中心の社会であったことも無視できないでしょう。日本人が見て、『春香伝』や古い朝鮮の物語に出てくるユーモアが少しも面白く感じられず洗練されていないように思われるということは、これはおそらく朝鮮社会がつい最近まで農村を中心にした社会で、その社交の場でのユーモアの伝統という性格を帯びていたからではないかという気がします。そして、まさにそういうものを引き継いだのが『春香伝』のユーモアなのです。なかなかこうした独特の性格をもったユーモアを伝えるということは難しくて、『春香伝』の翻訳に見られた問題点や傾向は現在でも失くなってはいません。さらにここには、日本人の朝鮮語や朝鮮文化に対する姿勢がこの難しさをより大きくしているように感じます。