(三枝寿勝の 「韓国文学を味わう」 第 I 章)


第 I 章 近代文学とその表記



 現在朝鮮半島が2つの国に分断されているのはご存知のとおりで、地域を表す学術用語では“朝鮮”が使われています。ですから、“韓国文学”の代わりに“朝鮮文学”という言い方を主に使いますが、南の韓国の時には特に“韓国文学”という言い方も使うことがあるということをまずご理解ください。
 今回お話しするのは、ここ100年ぐらいの南北両方の文学についてですが、前半の6回では文学の背景に流れるさまざまな話題について、そして後半の4回では時代を映し出していた作家とその作品を中心に紹介していきたいと思います。北については、私の知っている範囲で取り上げることにします。

近代文学と近代史

近代の概念と文学

 ところで、“朝鮮の近代文学”と言った時に、この地域の近代文学という明確な概念があるかと言うと、その規定はなかなか難しいと思います。つまり、近代文学というのは“近代の”文学ということになるはずですが、「この地域で近代とはいつを指すのか」という問題にぶつかります。
 もし日本で言うような近代化と言う言葉をあてはめるとしたら、朝鮮では近代化はなかったという見方もあるわけで、朝鮮の“近代”を規定するというのはやはりなかなか難しいことだと思います。形式的なことを別にすれば、実際には1894年以降1945年まで外国に振り回される歴史の連続であったわけですが、反面、そういう強制的な過程を通して外国との交流が一気に進みました。西洋の文物・文明を取り入れることが自主的かつ自然に行われたわけではないのに、社会的な生活はどんどん移り変わっていったのですから、こういう経過を近代化と言って良いかというと、やはり問題は残ると思います。
 また「植民地という条件のもとで、本当に民族の文学は成立するかどうか」ということに対して今でも異議があり、特に韓国ではいろいろな研究の仕方があって、「植民地時代の朝鮮では本来の文学はなかった」という意見ももちろんあります。ですから、近代という言葉は使いますが、一応以上のような問題点もあるということもふまえてお聞き願いたいと思います。それでは、文学史年表 (資料編参照) を見ながら、近代文学を味わう上で重要だと思われる朝鮮の近代史を概観しましょう。

朝鮮王朝の終焉

 日本の奈良時代の頃、朝鮮半島は百済、新羅、そして高句麗と3国に分かれていた時代がありました。それが統一されて新羅、高麗となった後、李朝、すなわち朝鮮王朝ですが、それが1392年から500年ほど続きました。日本が開国して西洋の文物を取り入れて近代化の道を歩んだのと同様に、19世紀末から朝鮮も新しい時代に入っていくのですが、朝鮮王朝末期には旧時代の矛盾の蓄積からいろいろな問題が生まれていました。
 そして、1894年の〈東学の乱〉 (東学農民戦争、あるいは甲午農民戦争とも言う) をきっかけに、日清戦争が起こります。東学党はその頃の新しい宗教団体の名前ですが、東学の乱は、初めはそれとは関係のない朝鮮半島の一番南西の全羅道で起こった民乱、つまり一揆がそもそもの始まりです。日本で言えば年貢やその地方の政治に対する不満が原因で、そういったものに対する訴えから始まるのですが、それが東学党と結び付いてひとつの大きな事件になったのです。民衆が立ち上がった東学の乱は、新しい革命運動と言っても不思議ではないくらいのものでしたが、朝鮮王朝は乱を抑えるために清朝に応援を求め、それに対抗して日本も出兵したため、国内の内戦が中国と日本の国際戦争に発展してしまったのです。結局朝鮮にとっては、これから以後外国によって支配されるきっかけを作ってしまったことになり、逆に日本にとっては、1895年に戦争に勝って朝鮮を植民地にするひとつのきっかけを得たことになります。

日本の植民地時代

 1904〜05年の日露戦争で再び日本が勝ち、朝鮮半島に対して、1905年に〈第2次日韓協約〉を締結します。これは、保護条約ということで形式的には朝鮮の政府が残っていましたが、朝鮮王朝の外交権や警察権が日本の保護のもとに置かれることになりました。日露戦争は、日本が朝鮮を植民地にするという足固めを行ったことになります。そして1910年の〈日韓併合〉で朝鮮は完全に日本の植民地となり、それまであった政府も完全になくなってしまい、日本の総督府の支配下に置かれました。ですから、形式的にも完全に植民地になったのは1910年から1945年までで、日本の統治が36年間続いたわけです。
 植民地時代には、もちろん独立運動の動きが引き続きます。第1次世界大戦の終わった翌1919年、アメリカのウィルソン大統領が民族自決を宣言したことがきっかけになって独立への気運が高まりますが、実際には日本に対してそれほど強力な独立の闘争というものではなくて、非常に穏やかなものでしたが、それに対する日本の対応はかなり残虐なものでした。
 この1919年というと、1917年に起きたロシア革命の影響があって、共産主義または社会主義の思想が世界に広がり、それが世界各地での革命運動に影響を与えると同時に、植民地では植民地の解放運動に影響を与えています。朝鮮の場合でも共産主義運動、または社会主義運動が起き、中でも〈三・一独立運動〉は挙族的な民族運動としての性格が強かったにせよ、以後の独立運動にとっては大きな意義がありました。
 この運動が文学にどういう影響があったかというと、それまでの植民地政策が少し緩和されて、朝鮮国内の出版というものがある程度許されることになりました。現在韓国で発行されている『東亜日報』や『朝鮮日報』は、この結果できた新聞が今も続いているものです。それから、文学作品を発表するための雑誌や単行本などの出版も大幅に可能になりました。
 1930年代から日本は大陸に進出して、泥沼のような戦争の時代に入っていきます。そのための影響として朝鮮人の日本人化が進められ、1940年には朝鮮人に日本式の名前の制度を強要しました。〈創氏改名〉 注(1) と言われるものです。戸籍の制度を日本式にするぐらい大したことがないように思われるかもしれませんが、創氏改名は本来の姓名を奪われると受け取られて、そうなれば、朝鮮人にとって姓名を変えるということは人間扱いされないということですから大変なことだということになりました。それを強制的にやったということで、今でも大きな問題として残っており、逆に言えば、それだけ日本の統治が強力になったということです。朝鮮人が日本人と同じような行動を要求され、戦争に行くこともそうですが、文学のうえでは、彼らが朝鮮人らしいものを書くことが難しくなりました。

南北の分断

 1945年、第2次世界大戦で日本が無条件降伏したので、本来ならばここで日本から解放されて独立することになります。しかし、ヤルタ会談の結果、朝鮮は無条件に独立を認められるのではなくて複雑な状況に置かれるわけです。もちろん独立に向けて新しい政府を作るという運動もありましたが、この時にできた〈38度線〉が南北を分断し、これが現在まで続いてしまったのです。北はソ連の後押しによる金日成 (キム・イルソン/1912〜94) の政権、南はアメリカの後押しによる李承晩 (イ・スンマン/1875〜1965) の政権による政治が行われます。朝鮮国内や海外で行われたそれまでの独立運動といったものがほとんど無視されるほど、政治的な混乱が激しくなります。1948年まで、特に首都ソウルのあった南側ではほとんど内乱状態に陥ります。
 1948年にはこの分断が固定化され、南北ともに政府を樹立します。こうなると、それぞれの国でその国家政策に反する者は排除されますので、南で許されない者は北に、北で許されない者は南に、そしてどちらにもいられない者は日本に亡命、またはどちらかで粛清される、ということがこの時代から始まるわけです。
 そして、この状況が極限状態にまで進んだのが1950年の〈朝鮮戦争〉です。ちょうど6月25日に始まりましたので、韓国ではこれを〈六・二五〉と言っていますし、北では祖国を守るという意味で〈祖国防衛戦争〉という言い方をしています。日本では〈朝鮮動乱〉または〈朝鮮戦争〉と言っています。ともかく1950年で分断は完全に決定的になりました。この戦争は1953年に終わります。なぜ1953年に終わったかというと、それまでソ連を中心にした共産圏の重要人物であったスターリンが死んで、その頃から世界の国際関係が変わったからです。ですから、南北の対立関係から言えば、現在でも1953年の休戦状態が続いていて、38度線の板門店での会談は、休戦会談の持続なわけです。

軍事独裁政権への抵抗

 北の場合、これ以後は政権の単一化の動きで現在まできているのですが、南では政治的な変動が非常に大きかったと思います。南で1960年4月19日に起こった学生デモの結果、それまで続いていた李承晩の独裁政権が終わり、李承晩は政治から手を引いてアメリカに亡命せざるを得なくなります。そのため、韓国ではそれまでの反共体制が少し緩んで、民主的な政権の可能性が出てきます。南北を統一しようという動きが起きますが、これは政権担当者にとって危険な行動ですので、すぐに抑えられ、翌1961年5月16日に朴正煕 (パク・チョンヒ/1917〜79) 少将の軍事クーデターが起こります。この軍事クーデターから1980年代の後半まで、韓国では実質的な軍事独裁政権が続くと言って良いでしょう。途中選挙をして政権の移行を行っていますが、実際には軍事クーデターを行った当事者の支配下にある政権が続いたということになります。
 つまり韓国は、1961年以降軍事独裁政権下での暗い時代になるのですが、実際の人々の生活を見たり、または文学作品などを読むと、その暗さが少し違って見えるわけです。それはやはり民族性と言っても良いものだと思うのですが、軍事独裁政権に対する反政府運動が日本では考えられないほど激く、また一方では、抑える側の抑え方が、やはり日本では考えられないほど荒々しいわりには抜け穴だらけというところがあり、両方の駆け引きが文学作品や政治の中にいろいろ現れているという気がします。いずれにしても1961年以後は独裁政権に対する抵抗の時代だと言えると思います。

民主化への道

 一番抵抗が激しくなるのが1980年の〈光州事件〉です。韓国での政治的な大きな事件は、民主化を要求する動きを抑圧あるいは弾圧する政府に対する反抗がきっかけになるのですが、光州事件は、朴大統領がその前年に暗殺されたことが原因で起こるわけです。それをきっかけにして、これまでの政治を変えようという動きが起こります。全羅道の光州では、戒厳令下でもデモや集会が一向に収まらず、それに対して危機を感じた軍隊が民衆を抑圧したわけです。
 おそらく光州事件からあとは、1945年以後の韓国の歴史の中でも一番荒っぽい政治の時期だったと思います。ところが文学作品や出版されているものから見ると、80年代以降が、韓国において共産圏の出版物が一番自由に出版され読み得たという奇妙な時代になっています。現在その痕跡はほとんどありませんが、共産主義関係、または日本で出ていた昔の政治関係の本、ソ連や中国に関するもの、特に北のものがどんどん出版されました。政治的にはとても荒っぽい時代でしたが、経済的には非常に発展しましたし、あらゆる出版物が制限なしに読めた時代だと言えます。このように韓国では非常に矛盾したことが起こっていたわけで、そういう矛盾をどれだけ理解できるかということが、韓国を理解するということにつながるのかもしれないと思います。
 以上のように、大きな目立つ事件だけを追っていっても、1945年からほぼ5年、10年単位で事件が起こっていて、すさまじい国だという気はします。しかしながら、ここで取り上げてきたのは単に朝鮮半島での植民地時代以後の大きな事件ということだけではなくて、それらが文学史のうえでもいろいろな転換期になっているのです。文学作品の変わり方を見ると、事件の前後で文学の在り方が変わっているのではないかと言えるような気がします。10回の講座の中で、そういったことも感じていただければ幸いです。

前近代の文学

漢文では少ない小説作品

 では日清戦争前、近代以前の文学がどのようなものであったかということをまずお話したいと思います。
 日本の江戸時代には、木版での絵入りの物語がたくさんありました。朝鮮の場合、李朝時代までは、知識を担当する階級は “両班” 注(2) と言われました。これは朝鮮語では“ヤンバン”と読みます。両班の定義はあいまいですが、大ざっぱに言えば国の文化や政治を担当する上層知識階級と言えます。要するに、李朝時代の学問や文学・文化を担当する中心は、この階級だったわけです。ですからその時代に物語が書かれたとすれば、両班たちが使った漢文で書かれていたはずです (資料1) 。ところが、朝鮮は日本と違って『源氏物語』のような古典文学が非常に少なく、ほとんどないと見ても結構です。中心は朱子学の学問的なことに関する著述です。つまり、私たちが現在小説と呼んでいる物語を書いたりすることは、こういう貴族がすべきではないことになっていたわけです。

ハングルで書かれた《古代小説》

 それではほかに文学に当たるようなものがなかったのかと言うと、こうした知識人からは見下されていたにせよ、朝鮮語、すなわちハングル 注(3) で書かれた読み物がありました。
 韓国ではハングル、北朝鮮では朝鮮文字と言っていますが、ハングルという言葉は日本の植民地時代、民族運動の一環として1920年代に作られました。“ハン”は“大きい”、“グル”は“文字”という意味で、“偉大なる文字”ということです。1443年にできた時には“訓民正音”という難しい名前でした。一般に発布されたのは1446年ですが、朝鮮語に使われる音のことをよく調べて作られており、平仮名やアルファベットとは違う人工的な文字です。
 ハングルは15世紀半ばにできているわけですから、その後相当普及しても良いはずなのに、できた当時、ハングルで書かれた仏教や儒教の対訳本 (資料2) や翻訳本はたくさん出ているのですが、公式の文書や政府の公文書がハングルで書かれるということもなく、全面的に採用されたのは、植民地から解放された1945年以後です。
 20世紀以前にハングルで書かれた読み物は支配階級が読むものではなくて、ほとんど漢文も読めない女子供が読むものということになっていたようで、非常に蔑視されていました。このような物語は一体どのようなものだったのかと言えば、日本で考えるような文学ではなく、量から言えばとても薄っぺらなものが多くてかなり粗っぽい内容でした。この中でも『春香伝 (チュニャンジョン) 』は大変有名ですが、それにしてもストーリーは大ざっぱで、書いてあることがちぐはぐなくだりがあったり悲しい場面で冗談などを言ってみたり、あまり上品ではない話とか脱線が多く見られます。ですから、そういう意味では文学作品として見るよりも、お話・物語に近いのではないかと思います。
 このような物語は、植民地時代以後も1970年ぐらいまでずっと読み続けられていて出版もされているのですが、文学としてあまり評価されていないものです。しかし、そういった読み物は何百種類と数え切れないほどたくさんあって、近代文学の歴史とは別に続いており、それだけ需要があったということです。現在韓国ではこういう物も含めて、古い時代の物を《古代小説》 注(4) または《古小説》と呼んでいます。つまり『源氏物語』などに当たる物はなかったけれども、『御伽草子』に当たるような物語はたくさんあったということです (資料3)
 それ以外にも日本の明治時代の頃には、短いコント・笑い話を集めた物や、江戸時代にいろいろな物語を瓦版にして出していたのと同じように、三面記事として話題になることを物語の形で出したりしたものもありました。それらの中で文学として話題となったのが《新小説》と言われるものでした。

近代文学の芽生えと表記の変遷

時代の過渡期の産物《新小説》

 新小説というのは近代文学への移行期の1910年前後、つまり日本に植民地化される前後に出た一連の作品を指しています。すなわち、1906年の李人稙 (イ・インジク/1862〜1916 肖像) 「血の涙」、1908年の安國善 (アン・グクソン/1854〜1928) 『禽獣会議録』、同年の李人稙「銀世界」、「雉岳山」、それから具然學 (ク・ヨナク/生没年不明) 『雪中梅』などです。最後のものは日本に同じ題名の政治小説があると思われるでしょうが、実は明治時代に書かれた日本の『雪中梅』の焼き直しです。ですから、これは翻案小説と言うことができます。1910年には李海朝 (イ・ヘジョ/1869〜1927 肖像) の『自由の鐘』が出されています。
 南北の文学の本では、この時代に出た一連の作品を新小説と呼ぶのが普通ですが、最近の韓国ではそれは良くないというので《開化期小説》という言い方も出ています。この新小説という言葉は、作品の中身に対する特別の定義があってできたのではなく一番最初に出された「血の涙」の広告に新小説と書いてあったというだけの理由で使われるようになったのですが (資料4) 新しい時代に合わせて新しい思想や風物を材料にした読み物をまとめて指しているということです。これらの作品は日本の明治時代の政治小説に当たると見られていますが、性格はかなり異なっています。性格としては、当時の朝鮮の新聞に載った論説的な寓話のほうが日本の政治小説に近いです。
 また、これらの小説の書き方は先ほどお話した古い時代の物語の本とほぼ同じようなスタイルです。中身は勧善懲悪であったり、短いものであるのに波乱万丈のストーリーだったりします。また『自由の鐘』は有名な作品ですが、ストーリーが全然なく、登場人物がすべて女性で、新しい時代には教育はどうすべきで男女同権はどうすべきである、とお互いに演説をするだけに終始し、小説というよりも登場人物の演説集になっています。この意味では論説文と見たほうが良いのかもしれません。

■李人稙 (イ・インジク) の「血の涙」

 ここで「血の涙」を紹介しておきましょう。このストーリーも単純です。物語は日清戦争が起こっている時の平壌を舞台に始まります。
 主人公は玉蓮 (オンニョン) という幼い女の子です。玉蓮と両親が、日本軍や清の軍隊に巻き込まれないように山中に避難する混乱の中で、玉蓮は両親とはぐれてしまいます。結局日本軍の親切な軍医に助けられて、軍医の奥さんのいる大阪に送られ、そこで育てられることになります。ところが、その軍医は日清戦争で戦死します。そして大阪にいる奥さんに再婚話が起こると、玉蓮が邪魔になり、冷たくされた玉蓮は家出をします。
 1回目の家出は失敗して、警官に連れ戻されます。2回目の家出では、東海道線に乗り、茨木のあたりまで来ます。朝鮮の物語の中に日本の地名が出てくるのは、この時代からです。そこで偶然、朝鮮語のできる男の人に出会います。彼はアメリカに留学するために朝鮮から来たところでしたが、玉蓮はその男性と一緒に横浜からアメリカに渡り、男の人は大学に、玉蓮は中学校に通って勉強することになります。
 一方、玉蓮の父親はどうなったかというと、自分の娘も妻も死んだと思い、母親の実家にだけ話をして、アメリカに留学して勉強をし直すということでアメリカに来ていたわけです。そこへ、娘の玉蓮が卒業する時に新聞に出たので、父親は偶然、自分の娘がアメリカに来ているということが分かり、そこでめでたく再会を果たします。そして朝鮮にいる母親とも連絡がつき、玉蓮は助けてくれた男の人と結婚を約束され朝鮮に帰ることになるという結末です。
 ストーリーとすれば非常にたわいのない話で、不自然なこともあります。ただ、当時朝鮮は日本よりも外国との交流が抑えられていたという事情を考えれば、船に乗って日本に渡り、汽車に乗ったり、アメリカに留学をしたりということ自体が、目新しい材料だと思います。つまり新小説は、新しい時代の新しい文物を取り入れて話を作ったわけですが、書き方としては非常に古めかしい感じで、おそらく枠組みが古くて、中に新しいものを取り込もうとした過渡期の産物というものではないかと考えます。新小説と呼ばれるものはそれほどたくさんあるわけではなく、作品それぞれの性格もかなり異なっており、1920年頃になると消えていきます。

「血の涙」における表記の試み

 ところでこの新小説と言われるものの中身を見ますと、例えば「血の涙」は、初めて新聞に掲載された時には漢字混じりの縦書きハングルで書かれているのに (資料5) 、そのあとに出た単行本は全文ハングルのみで書かれています (資料6) 。本文の中に漢字がなくてハングルだけで書かれているということは、日本語で言えば平仮名だけで書いてあることになります。平仮名だけで書くと、ちょうど平安時代の物語を読むことと同じで非常に読みにくいはずですが、ハングルで書く時は文節ごとに1字分ずつ空けているのが工夫だと思います。つまり、日本の小学校初級の教科書と同じようにして分かち書きをするわけです。助詞が付いたところで1字空けるというように文節で分けて、漢字は一切使わずに書いていくのです。
 ところが日本では、現在平仮名だけで書いている小説はありません。実は朝鮮語も日本語も、どちらも同じように中国の文化圏ですから漢字を使うわけで、漢字と平仮名を一緒に使うようにハングルと漢字を一緒に使っても構わないのです。しかし、新小説と言われているものはハングルだけで書かれているのです。
 先にも述べたように「血の涙」の著者である李人稙は、1906年、『萬歳報』という新聞に初めて掲載した時には、漢字とハングルを混ぜた書き方を採用していました。しかも朝鮮語の文章としては珍しいことに、漢字の横に小さなハングルでルビが振ってあるのです。これは、現在韓国では一切見られない珍しい試みです。ルビとは、その漢字の読み方です。日本語の漢字の読み方には訓と音とがあります。しかし、朝鮮の漢字には、現在でも原則として訓はなく、音しかありません。ところが、彼の採用したこのルビには音と訓と両方あるのです。つまり、李人稙は、漢字とハングルとを混ぜて書くということに加え、朝鮮では従来なかった漢字の訓読みを試み、かつ、漢字に音と訓の両方のルビを振るという3つのことを試みていたわけです。彼は政府の派遣で日本の新聞社で働いた経験があったので、そういう日本的な試みをしたのかもしれません。ところが、1年後に出た単行本では、ルビ、または漢字の試みは完全に失くなっているのです。そして、新小説以後現在に至るまで、小説は原則としてハングルだけで書くという伝統がほとんど完全に定着しています。

横書きハングルの定着

 なぜ漢字ハングル混じりの小説ではだめでハングル専用なのかということは朝鮮人に聞いてもよく分からないのですが、現在韓国で出ている小説を見ますと、韓国の小説家で漢字混じりで小説を書いている人は1人もいません。また、昔は漢字混じりで書かれていた作品でも、新しく出す本は全部ハングルだけになっています。今でも漢字混じりで書いているのはカナダに移住した朴常隆 (パク・サンニュン/1940〜 ) ぐらいのものではないかと思います。それともうひとつ、現在韓国で出ている小説には、縦書きというのが一切ありません。すべて横書きです (資料7)
 日本の文学書は原則として縦書き漢字混じりで、ルビは今はありませんが、漢字は音読み、訓読み両方あるわけです。ところが、現在の韓国ではルビも漢字も一切失くなって、日本で言うと平仮名に当たるハングルだけで書いているということです。そして小説は、この新小説の時代から既にハングルだけで書くという試みになっているのです。
 なぜ朝鮮では、小説は漢字混じりではだめだったのだろうかということですが、これはおそらく古い時代の古代小説がハングルだけであったということの影響が大きいのだと思います。そして近代の初期でも、やはり新小説はあまり高級な読み物でなかったということだと思います。多分漢文で書かれたような高級なものを読まない人たちにはハングルでないと読んでもらえなかった、という伝統があるのではないかと思います。
 もうひとつの問題は、なぜ横書きになったのだろうかということです。それについてはまだ結論がありません。朝鮮語を表記する試みは他にもいろいろあったようですが、モールス符号や、英文タイプを改造したハングルのタイプライターを使ったり、英語と同じく横書きにできるようにということでハングルとは違った表音文字を用いる試みがありました。それ以外に点字、速記、手話もありました。その中で、英文タイプを改造したハングルのタイプライターは1970年代まで非常に普及していました。字はあまりきれいではありませんが、公文書も全部それで打たれ、口述筆記がタイプライターでできるということになってハングルでの横書きが完全に普及してしまったわけです。おそらく横書きの定着には、このハングルタイプライターの普及と実用化が大きく作用しているのではないかと思います。
 ハングルだけで書かれた小説というのは、古い時代の読み物の影響もあったけれども、このような試みを経て、60年代から70年代に表記の方法が確立し、80年代にはさらに横書きの形で定着してしまいました。日本では、夏目漱石を平仮名だけの横書きにすると読めなくなってしまうわけですから、もしかしたら韓国人が文学を読む時の意識は、やはり日本人とどこか違っているのではないかという気が残って仕方がないのです。つまり視覚的な効果に対する意識が違うらしいのです。
 ただ現在では、ハングルだけで書くということには民族意識も働いていると言えるかと思います。