鈴木 利一 (すずき としかず または り〜ち)
1960(昭和35)年 遠州浜松の生まれ
「山邊學舎」へようこそ。このサイトは、古道山辺道のほとりから、文学を中心とする文化情報を発信しています。名称は、いつもの 散歩道に由来します。
管理人の専攻分野は、萬葉集を中心とする上代から国風暗黒期にかけての日本文学。教育職としての指導の範囲も、萬葉集・古事記・日本書紀・風土記等の上代文学、そして古今集以前の文学作品を中心にと考えています。自分自身の研究活動では、奈良遷都を境とする後期萬葉歌、とりわけ大伴旅人・家持父子とそれを取り巻く大伴家周辺歌人の文学作品を重点的な対象に据えています。
また、遣外使によって舶載された漢籍と日本文学との関わり、そして、それらの書籍や文化と共に渡来した人々の文芸活動にも大きな関心を寄せています。
生まれは遠州浜松。東からくる文化と西からくるそれとが衝突し融合する街。確たる基準を持たない風土は、俗に言う「やらまいか精神」(とりあえずやってみようという発想)を生んだようです。そそっかしくて早とちり、さらに安請け合いも得意なのは、そんな街で自我形成期を過ごしたためかも知れません。今は、静かな奈良の片田舎に住んでいますが、そうした性格は一向に改善されません。
中学生の頃から、ラジオに入ってくる韓国のラジオ放送を聞くうちに、何となく興味を持ち始め、今では立派な韓国フリークになりました。ろくに言葉も出来ないくせに、仕事のストレスなどで頭が煮詰まってくると、一人でふらりと渡航し、韓国各地を巡り歩いては発散しています。通勤途上で聞く音楽CDには、韓国の歌ばかりが入っています。新婚旅行も、当時ソウルオリンピックを間近に控えた韓国へと出かけ、ガイドさんに「変な日本人」と大歓迎されました。国家レベルでは、何かとぎくしゃくしがちな日韓関係ですが、様々な草の根交流を通して相互理解を深めていければいいなと思っています。ただし、萬葉集を韓国・朝鮮語で読めるなどとは決して考えてはいません。なぜそうなのかは、講義の中でお話ししています。
なお、当サイトは管理人の個人的運営管理によって開設されているものです。勤務先での教育・研究に関連した事柄を管理者に関わる情報として取り上げることはありますが、組織からは独立した純然たる個人サイトであることを御承知おき下さい。
以下は、私の略歴です。
【最終学歴】
1989(平成元)年 3月 龍谷大学大学院文学研究科後期博士課程国文学専攻単位取得退学
文学修士
【職 歴】
1990(平成 2)年 4月 大谷女子大学文学部国文学科専任講師
1995(平成 7)年
4月 大谷女子大学文学部国文学科助教授(現職)
1990(平成 2)年10月〜1994(平成 6)年 3月
羽衣学園短期大学非常勤講師(国文学講読、国文学史、国文学概論担当)
1998(平成10)年
4月〜 龍谷大学非常勤講師(日本文学特殊講義担当)
2000(平成12)年
4月〜 皇學館大學非常勤講師(表現演習<言語・文章>担当)
【研究業績】
一、研究論文
「相歓歌二首−家持と池主出会いの宴−」
『國文學論叢』第三十二輯
1987(昭和62)年 3月 龍谷大学国文学会
「国守大伴家持の上巳宴歌」
『國文學論叢』第三十三輯
1988(昭和63)年 3月 龍谷大学国文学会
「咲見慍見つけし紐解く」
『國文學論叢』第三十五輯
1990(平成 2)年 3月 龍谷大学国文学会
「橘の花散る庭のほととぎす−『萬葉集』巻八、一四七二、一四七三番歌をめぐって−」
『大谷女子大紀要』第25号2輯
1991(平成 3)年 3月
「湯の原に鳴く葦鶴は−『萬葉集』巻六、九六一番歌をめぐって−」
『大谷女子大国文』22
1992(平成 4)年 3月 大谷女子大学国文学会
「隼人の瀬戸の巌も−『萬葉集』巻六、九六〇番歌をめぐって−」
『大谷女子大国文』24
1994(平成 6)年 3月 大谷女子大学国文学会
「鳴く鹿と散る萩と−大宰帥大伴卿歌二首−」
『大谷女子大国文』27
1997(平成 9)年 3月 大谷女子大学国文学会
「遣唐使に贈る歌−巻九、一七九〇、一七九一について−」
『大谷女子大国文』28
1998(平成10)年 3月 大谷女子大学国文学会
「静けくも岸には波は寄せけるか−巻七、一二三七番歌の表現−」
『國文學論叢』第四十五輯
2000(平成12年) 3月 龍谷大学国文学会
二、共編書
『仏足石歌用語索引』(1982(昭和57)年 9月)資料調査、編集に参加
『龍谷大学善本叢書20 類聚古集』(2000(平成12年) 3月思文閣出版)資料調査、編集に参加
【その他】
2001(平成13年度)阪急友の会 古道を歩く 同行講師
2002(平成14年度)大阪いずみ市民生協 古道歩き 同行講師
2003(平成15年度)富田林市中央公民館市民セミナー講師