ハングル工房 綾瀬 - Ken Mizunoの朝鮮語ノート 9907

Hangeul-Lab Ayase, Tokyo

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990713-1: 動詞、形容詞の区別と 動詞の現在形

動詞と形容詞の区別がわからない人はいないと思うが − 念のため「食べる」は動詞、「美しい」は形容詞ですね。日本語の場合、動詞の「活用」類型は数種類(5段、上下1段または2段、か変、さ変の類)、形容詞の活用は2種類(注)がある。
(注)余談だけれど、日本語の形容詞を、日本の国民向け学校文法では「形容詞」と「形容動詞」とに分ける − つまり異なる品詞にしてしまう。だから「美しい」は形容詞だが、「きれい」は「形容詞」ではなく「形容動詞」だなんて、へんなことになってしまう。
この「変な」文法用語は過去 20年くらいの間に反省されているようで、現代の日本の日本語学校(外国人「就学生」むけの学校)では、形容詞を「い形容詞」と「な形容詞」に分けている。
例えば「美しい」は「い形容詞」なので「美しい人」は正しい。一方「きれい」は「な形容詞」なので「きれい人」は誤りで「きれいな人」が正しい。
国民向け文法と外国人向け文法の、どちらがわかりやすいでしょう?
日本語では、動詞と形容詞(い形容詞)の「活用」はまったく異なる。

朝鮮語では、動詞と形容詞の変化形はまったく同じで、動詞であれ形容詞であれ、例えば -ha-da という単語ならまったく同じ変化をする。その点、初学者は「これは形容詞、これは動詞なので こう活用する」ということをほとんど意識する必要がない。その結果として、例えば -ha-da の付く単語が形容詞なのか動詞なのか、かなりの訓練をつまないとあいまいになる;

例えば「がっかりする」とも訳せる「落心(nak-sim)-ha-da」は動詞、「敬愛する kyeong-ae-ha-da」はまちがいなく動詞だが、「親愛なる chin-ae-ha-da」を形容詞だと思っている人はいるかもしれない。

朝鮮語の動詞と形容詞は「まったく同じ」活用をするので、区別がない・みたいな気がする。が、1つだけ、決定的なちがいがある; 「現在形」のあるのが動詞、ないのが形容詞。
この「現在形」には、2つがある:
(1) いわゆる「連体形」に過去と現在の区別があるのが動詞、ないのが形容詞
(2) 現在の終止形のあるのが動詞、ないのが形容詞
まず「連体形」の例:
勉強する人
勉強した人
聡明な人

この場合「聡明」は形容詞なので ha-neun という形がない。当たり前のような気もするが、「言われてみると なるほどな」と感じる人がいるはずだ。
この「現在形」は、形容詞にはない。ものごとを「形容」することばには、日本語でも時制がない − 昔々、あるところに「美しい」女があったとな。その名をかぐや姫といい、彼女は「美しかった」。しかし、時空を越えて、彼女は今も「美しい」ことになっている − いや、過去の女であっても、現代の「美しい」にさえ一致すれば、竹取物語の女は現在も「美しい」。形容詞には、時制が、基本的には ない。
あえて「過去」を強調するなら「美しかった人」みたいな表現を取らなければならないが、それでは「昔々・・・」の文章は成り立たない。この事情は、日本語も朝鮮語もかわらない。
次に「終止形の現在形」だが、これは初級で教えてもらえない場合がある。

動詞であれ形容詞であれ、文(発話)の末尾のパンマルは誰でも知っているが、このパンマルは「(外見上)連用形による ぞんざい型」で、連用形つまり「終止していない」ので、命令になったり断言、放言、宣言、疑問文になったりするのは、ご存知の通り。

それに対して、完全な終止形の現在形というのは neun-da または n-da で終る「言い切り」型である:

辞書形=原形
現在形で「私は考える」
辞書形=原形
現在形で「私は行く」
辞書形=原形
現在形で「私は食べる」

もちろん、これも形容詞には「ない」。

動詞の現在形(の終止形)というのは、基本的には初級の早い時期に習うことになっている。不幸にも忘れた方は、思い出しましょう。初めて聞いた方は、この表現が「パンマル」以上に断定的な、断固たる言い方であることを記憶してくださいな。

動詞の「現在形」でこそ、右翼も左翼もアジテーション演説ができる − 我々わあ、断固としてえ、戦闘的なんとか主義に基づきい、ハワイが我が国 固有の領土であることをお、ここに宣言するう!(宣言han-da!)。


990719-1: iss-ta は動詞か形容詞か

年寄りじみた表現で恐縮だが、「僕の若いころ」、つまり 1970年代の前半に 僕はこう習った: iss-ta は動詞的な性格を持ちながら、形式上は形容詞に近い使い方をする; しかし、これを「形容詞」と呼ぶにはやや問題があるので、これを「存在詞」と呼ぶ、と。

いい加減な言い方があるものだ。
この摩訶不思議な表現は、「形容詞でもない、動詞でもない、でも動詞でもあり形容詞でもあるような 不思議な存在」だと言っているだけで、それ以上に何の意味もないような気がする。

これを「存在詞」と呼ぶ立場からの説明は、おそらく次のようになりますね:
・この単語には「現在形の終止形」つまり がない; 従って、これは動詞ではない
・この単語には「連体形の単純形(動詞であれば過去形)」つまり がない; 従って、これは形容詞ではない
・現在形は常に 、連体形の現在は 、その過去は とでもするしかない
・だから、動詞でもない形容詞でもない「存在詞」という品詞を立てよう
そういう「新・品詞」を立てた人たちの気持ちは、わからないではない。少なくとも、誠実な・学問的な動機による、ネイティブ・スピーカーに対する「インフォーマント調査」の結果として、iss-ta という「動詞もどき」は そういう結果を導いていたし、だからこそ「誠実な」言語屋さんの立場からは、何か「存在詞」という単語でも使って新しい「品詞」を立てるしかなかったかもしれない事情は、僕も理解しないわけではない。

しかし、僕は その後、いくつかの実例、それも「言語」屋さんの出会うことのない、しかし「言語屋」以外の世界では「あたりまえ」の実例に、出会ってきた。ここでは、その2つを示しておこう: 結局、上の2例では、 は「動詞」以外のなにものでもない。だから、「過去の連体形」 も、「現在の終止形」 も、ある。ただ、そういう運用例は「インフォーマント調査」の対象になった韓国人たちの意識の中からは抜け落ちているので、彼らは「そういう使い方はしないよ、それはおかしいですよ」と言ってきたのだろうと思う。

何が「普通の朝鮮語(韓国語)」なのかは、僕もよくわからない。ただ、「普通の」日本語文法では「形容詞」と「形容動詞」を別物だと考えるくせに、同じ日本の「日本語学校」では「形容詞」は1つ; ただし「い形容詞」と「な形容詞」に分けるみたいな、現実の言語運用における実践的区別が出てきたことに対応するような「何か」が、朝鮮語に起こっても不思議はないだろうというのが、まあ、この記事のまとめではありますが。

は存在する。これを知らない「語学屋」さんは怠慢にすぎると思う。


(このファイル終り)