ハングル工房 綾瀬 - Ken Mizunoの朝鮮語ノート 9901

Hangeul-Lab Ayase, Tokyo

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990102-1: 数字とトシの表現

知っている限りでは、日本語と朝鮮語は「数」の表現に2重の系をもっていて、これはその言語を母語とする子供(母語として学習しつつある2才から4才くらいの子供)の言語学習期に、けっこうな負担になる。

具体的には「いち、に、さん、し、...」と並ぶ漢字語の系と、「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、...」と並ぶ固有語の系が同時に存在して、学習者はそれを使い分けなければならないし、しかもその系はしばしば混交することがある。例えば、「いち」と「ひち(しち)」の混同がありうるので、昔の電話局では「いち」と「なな」と読み分けた。「1個、2個、3個...」と数えて行くと、現代日本人は必ず「よん個」、「なな個」と発音するが、この2つだけが「固有語」系であることを現代の日本人は意識していない。言語獲得期の日本の子供は、これを相当な期間をかけて学習するわけだ。

この2重系は、中国語と英語には存在しない。中国語とは別であるはずの広東語でも、すべての「数」は漢字語で表現されるから、うちのかあちゃんの父上が自分のトシを bat-sap-sam だと表現なさったのには たまげてしまった(朝鮮語の感覚では、トシは固有語系で表現されるのだ。朝鮮語で「83才」は yeo-deun-se(s) であって、phal-sip-sam はまるで裁判所の起訴状である)。

知っている範囲では、日本語と朝鮮語だけが、そういう「特殊な」事情をかかえている。韓国人との電話でも、数字が電話で聞き取りにくいとき、「いざとなると」電話番号を固有語系でしゃべって、多少こっけいではあっても「確実に伝える」場面は しばしばある。これがコンピュータの 16進数だったりすると「2とE」、「Aと eight」なんかの混同が起こるので、8ビット・マイコン少年たちはダンプ・リストの読み上げには「ハナ、トゥール、セッ、ネッ、...アホップ、エー、ビー、シー、ディー、イー、エプ」とやったものだ(英語の [1..9] と [A..F] の間には聞き間違いの余地はない。英語ベースの 16進数が普及した背景には、その事情があるかもしれない)。

本題に戻ろう。
朝鮮語には、日本語とよく似た「数字系の2重構造」が生きているので、それに気をつけないと「自然な表現」ができないことがある。

その最たるものが、まず年令表現で、これには必ず「固有語」系が使われる。
子供の年令、青年の年令、中年、老年を問わず、トシは原則として「固有語」系である。例えば今年3才になる子供は「絶対に」 se-sal であって、「決して」 sam-se ではない。この使い分けを誤ると、そもそも韓国人に聞き取ってもらえないだろう。
同様に、「今日から私は二十才」の「20才」は seu-mu-sal であって、決して i-sip-seではない。

ところが、なのだ。
例えば、韓国の役所から、韓国人である当人あてに送られてくる文書があると想像しよう; その文書(例えばハガキ)には、当人の名前欄、住所欄、年令欄があって、それらは手書きで書き込むようになっているとする。このうち「年令」欄は、次のようになっているとする:
(23)se
これを韓国人が「読む」とどうなるかというと、おどろくなかれ、彼らは i-sip-sam-seと読む。当たり前、そう書かれているのだから!

それにもかかわらず、その 23才のご当人は自分の年令を seu-mul se-sal だと考えているし、そう表現する、つまり発音もする。現実の会話の場面で i-sip-sam-se と表現することは「決して」ない。

仮に、だ。「現実の発話の場面」で i-sip-sam-se だとか、「俺は yuk-sip-se だが...」という発話が見られたとしたら、次のいずれかに当たると思う: これが、マスコミの取材に答える場合なんかになると、両者の混交というか、微妙な問題になってくる。漢字読みの数字でトシを表現する場合は現実に増えているらしいけれど、しかし、「うちの子は3才なんだけど」の「3才」が sam-se になることは、まあ・まだ 50年くらいはないんじゃなかろうか。


990102-2: 数字と時間の表現

いわゆる「24時間制」が「軍隊」表現であることはご存じだろうか?
日本の鉄道であれ韓国の鉄道であれ、時刻表は その「24時間制」で表現されていて、午前 10時は 10:00、午後 10時は 22:00 と表現されるやつ。
あるとき、アメリカの鉄道の駅の時刻表を見る機会があった。そこには、New Yorkのその駅から出る大陸横断列車の発車時刻が、12時間制で表現されていた。親切な表示としては、その通過地点になる各駅での「現地時間」が示されていて、アメリカでは国内に時間変更線がいくつもあることを実感したものだ。
そのすべては、「現地」時間の 12時間制で表現されていた。
ちょうどそのころ、あるソフトウェア・システムでの時刻表示の選択に "-m" オプションというのがあった。何だろうと思ったら、時刻を "Military style" つまり 24時間制で表現する選択のことだった。これを指定しなければ、「時刻」は「午前・午後」を明示した 12時間制になる; つまり、24時間制は「軍隊」表現だったのだ。
考えてみれば、飛行機の時刻表はすべて「現地時間、12時間制」で表現されている。だから、24時間制で表現するのは、いまや軍隊と鉄道だけのようではある

本題がどこかに行ってしまったが、話は「朝鮮語における 時間・時刻の表現法」である。

日本語と同様、「時間」と「時刻」を厳密に区別する表現は 朝鮮語にもない。せいぜい「8時30分」といえば時刻であり、「8時間30分」といえば時間の長さを意味する「だろう」くらいの区別があるだけだ。

しかし、問題は「時間と時刻」の区別ではなく、朝鮮語における「数」の漢字語系と固有語系の使いわけにある。

結論を言おう;
「時」は、固有語で表現される; つまり「7時」は chil-si ではなく il-gop-si である。
「分」は、漢語系で表現される; つまり「10分」は yeol-bun ではなく sip-pun と表現される。

練習問題: 次の日本語を朝鮮語に訳しなさい: 解答: 「時」の表現だけが「固有語」系であることが、理解していただけるかどうか。これによって、韓国の列車内放送が聞き取れるかどうかが別れてしまう。

おまけで、あえて「24時」という表現をする場合、もちろん これは seu-mul-ne-si という表現になることは、以上の説明を理解された方には わかるはずです。


990103-1: LG-25をどう読むか

あはは、さっそく元気な青年からコメントまたは質問メールいただいた:
目上の人の年を表現するときに「i-sip-sam-se」という方がいいという韓国人(釜山出身24歳男)がいました。
僕は、こう答えました:
ほらきた。 やっぱり・そういうけしからん韓国人がいますね。「という方がいい」の意味は、「そういうほうが役所文書風で立派そう、高級そう」と取るんでしょうね。役所風に立派であれば、目上のトシを問題にする不謹慎も、多少 割り引いてもらえるかもしれないし。

たしかに、自分のトシを言うには(トシ相応の自覚をせねば、という意味をこめて)固有語系が必要だが、「目上」の方には漢字音でやってしまって、現実に不都合ないしねえ。むしろ、固有語で「先輩、あんたもう 23にもなるんでしょ」という雰囲気を漂わせてしまうと、すごい気まずくなるかもしれんね。
固有語系で例えば「スムル・タソッ」と表現すれば、「私は 25、もう子供ではない、故に社会的責任を含めて それ相応の行動をする用意がある、または決意がある」というニュアンスが含まれる。それを他人から言われたら、「お前も もう 25なのだな、もう子供ではないのでそれなりの自覚を持つように」という含みが、当然でてくる。

では、20才の青年が 23才の「先輩」を相手にその年令を問題にするとき、そういうニュアンスを漂わせたら失礼ではないのだろうか(反語)。失礼である。

漢字語には、「高級そう、役人風、正式ふう」な効果があると同時に、「固有語で表現したときの "含み" を排除する」効果がある。若い後輩が若い先輩を相手に先輩のトシを話題にするとき、たとえ若くても韓国人の後輩は、先輩に皮肉をあびせる意図があってはならないと考える・でしょうなあ。
だから、先輩は seu-mul-se-sal ではなく i-sip-sam-se になるんじゃないかしら。

日本語で「はたち(20才)」という単語を考えてみればわかると思う; この単語には、「わたしは(あなたは)今日から大人」という「意味・またはニュアンス」が含まれている。子供が 20才の先輩を相手に「はたち」というとき、それには「憧憬」が含まれていなければならない。その発話には、大人が「お前は もうハタチ、もう子供ではないのだぞ」というニュアンスがあってはならないから、子供の立場からは「先輩」は「20才」と言うのが適当なのではなかろうか?

日本語では、この種の単語は「はたち」1つしかない。21になると、また「にじゅーいち」に戻ってしまう。しかし朝鮮語では、20代から 90代までのすべてにわたって、この含意の多い「固有語」系が生きている。「後輩」の立場から この「固有語」系を使うのがはばかられるかもしれないことは、まあ、わからないではないし、だから「目上」のおトシは漢字音で無色透明になってしまうのかもしれないのだと思う。

メールくれた青年の文面には、あと2つ:
まず「LG-25」をどう読むかという問題:
これは簡単。「文字に書かれている通り」; エルジー・イー・シ・ボ。
彼の韓国留学中に「学士25時」という店があったそうで、ま、それも彼の証言通り「ハクサ・イー・シ・ボ・シ」で不思議じゃないです。そりゃ「文字通り」読んだだけだから。

最後に、こういう指摘があった:
13時以降は漢字語で数詞を読む、という韓国人もいたようです。
彼にも回答を送ったが、「24時間制」は軍隊と鉄道でしか見られない。
韓国の軍隊内部では、「時」表現まで漢字語で表現している可能性はある: つまり「7時30分」は chil-si sam-sip-pun と言われている可能性はある。当然、24時間全体にわたって同じ表現だろう。
その青年が「シャバ」に戻ったとき、それでは通じないことを自覚する。しかし「シャバ」は 12時間制で動いている。いきおい、午前の間はシャバの常識に従うが、午後を「軍隊」式に 24時間で表現する場合になると、ふむ ... 多少ずれてくるのはしかたがないのではないか。

僕が知りたいのは、「いま現在」韓国の鉄道の優等列車の車内放送で「午後1時」をどう表現しているか、だったりする。「オフ・ハン・シ」ならすごい、「午後1時」で、それは 12時間制の勝利を意味するし、逆に「ヨル・セー・シ」つまり「13時」と言っているなら、20年前とあまり変化がない。

悲しいことに、現代の「韓国おたく」は そういうことをレポートしてくれない。彼らがそもそも朝鮮語を聞き取れないのか、あるいは「語学」に興味がないだけなのか、それはわからないけど。


990111-1: 「北」のリウル

この話題は簡単で、要するに「北ではすべてのリウルを "文字に書いてある通りに読む"」で、すむ。

問題は、「北」ではなく「南」の自然なオトの変化、つまり朝鮮語本来の変化を学習者が理解しているかどうか、にある。これは、例えて言えば、マニュアル車を運転できる人(南の言葉を習った人)は、オートマ車(北の言葉)を確実に運転できるが、逆に最初からオートマしか習わなかった人には、まずマニュアル車は無理だというのに、すごくよく似ている。

早い話、南では「李」さんは(多くは)「イー」さんである。この場合、語頭の /r/ は南では脱落させるのが、長い間「正しい」発音であり「正しい」表記だった。この現象は俗に「ウラル・アルタイ言語の共通点」だと言われていて、それ自体は、例えば日本語でも国語辞典の「ら」行には外来語「だけ」しかないことと共通している(「ラッパ」は外来語か? そうなんでしょうね。「らっきょう」は、ありゃ漢字語ですかしら。「ラーメン」は明らかに外来語だが、開化期の日本人は「ロシア」が発音できず「おろしゃ」と言った)。

南の言語政策は、日本の植民地下に展開され(弾圧され)た「ハングル学会」の考え方に、強く影響されていた。この学会の考え方自体、ある意味では激しく民族主義であり、その流れの上に、解放後の言語政策が展開された。だから、ある時期、それは北に対するアンチテーゼであった時代もあって、例えば「李」さんの名字を「イー」と書(き、読む)のが正しい表現であり、これを「リー」と表現することは反民族的であり、北のスパイであると言われる危険さえある、そういう時代はあった。

現在は、韓国でも自分の姓である「李」を「リ」とハングル表記する人は多い。それは、北に対して南が相対的に力をつけて、その開放政策が進むにつれて「自然に」、「俺は李なので、それをリと表現して何がおかしい」という態度が可能になったことと無関係ではない。実際、1960年代だったら、人名の「李」をハングルで「リ」と書けば、たとえ外国人でも「北のスパイ」にされたかもしれない。

北では、別の意味で単純だった。
北は社会主義社会をめざしたから、「ソウルの中産階級の言葉」である「標準語」などというものを採用するわけにはいかなかった(わかりますか? 「中産階級の」すなわちプチブル言語を模範とする「標準語」など、社会主義にあってはならない)。

だから、北の「標準」的なコトバは、「標準語」ではなく「文化語」になった。この「文化語」の中には、例えば「養鶏場」を「talk-kong-jang ニワトリ工場」と言い換える作業、つまり漢字語を固有語に置き換える作業も含まれたが、

しかし、その「文化語」が示した指針の中で最も注目するべきことは、「漢字語のリウルは リウルを文字通りに読め」という点だったのではなかろうか。

それは、マニュアル車をオートマに変えるくらいの大変革だった。
思いつくまま、いくつか例を挙げますか。もちろんみんな漢字語で:

漢字表現 北の綴り北の文化語発音 南または伝統綴り南または伝統音
独立 tok-riptong-rip tok-riptong-nip
立証 rip-jeungrip-jjeung ip-jeungip-jjeung
放浪 pang-rangpang-rang pang-rangpang-nang
浪漫 rang-manrang-man nang-mannang-man
列車 ryeol-charyeol-cha yeol-chayeol-cha
冷麺 raeng-myeonraeng-myeon naeng-myeonnaeng-myeon
冷蔵庫 raeng-jang-goraeng-jang-go naeng-jang-gonaeng-jang-go

「問題はむしろ、南の表現を理解しているかどうかだ」という意味を、理解してくださるだろうか?

「南」表現では、上の例だけでも /r/ が単に脱落するのと /n/ にバケるのと2系統がある。この2系統を使い分けるのは、おおよそ「マニュアル車を運転する」くらいの技術に相当すると思う。もちろん、その程度の技術にすぎないから、説明は簡単、次の記事で説明するつもりだが − もし「あなた」がこの使い分けに迷うようなら、「北のリウル」にとまどう以前に、朝鮮語初級の教科書を復習してみてもらいたい。これは、日本語に例えて言えば「かなが読めるかどうか、てにをはと促音が読めるかどうか」という、必須事項だ。


990111-2: 「南」のリウルとその周辺

この話題は、ハングルという文字の読み方として必須部分なので、必ず誰にも習った経験があるはず; ただし「北」一辺倒の社会では「リウルをリウルのまま読め」原則があるので、「文字通りに読まないハングルがある」ことを教えてもらえないことがある。不幸にもそういう習い方をした方は、オートマ車をマニュアル車に乗り換えるくらいの努力を要するけれど、一度は苦しまないと韓国も自由に歩けないだろう。

くどいようだが、これは日本語で言えば「は」と書いて「わ」と読み、「へ」と書いて「え」と読むのと同じくらい、語学学習者が落としてはならない必須事項である。
従って以下は、初級朝鮮語クラスでの必須事項をまとめただけなので、既に習った方には「新しい発見」はない。ご用のない方は読みとばしてください。
なおここでは、「リウル」を /r/ と、「ニウン」を /n/ と表記する。

(1) 語頭の /r/, /n/ が脱落する

「李」さんが「りー」さんではなく「イー」さんになる。
相手を呼ぶ敬称の "nim" は、現在でこそ より自然な "nim" と書かれるが、解放後の韓国ではかなり厳格に(語頭では) "im" と書かれた。韓竜雲の有名な詩 『nim-eui 沈黙』は、だからしばしば 『im-eui 沈黙』と表記されている。

この脱落は 母音 /i/ の前で必ず起こり、同じように 半母音を含む母音 /ya/, /yeo/, /yo/, /yu/ の前でも脱落する:
漢字表現 表記 発音
梁(姓) yang yang
列車 yeol-cha yeol-cha
料理 yo-ri yo-ri
yong yong
劉(姓) yu yu
離反 i-ban i-ban
立証 ip-jeung ip-jjeung

ついでに、こうして脱落するのは /r/ だけではなくて、同じ条件で語頭の /n/ も脱落する:
漢字表現 表記 発音
女子 yeo-ja yeo-ja
女性 yeo-seong yeo-seong
尿素 yo-so yo-so
溺死 ik-sa ik-sa
匿名 ik-myeong ing-myeong

ここまでは、/r/ や /n/ は「文字には書かれない、発音もされない」。しかしそれらは「漢字のオト」から子音が消えてしまったのではなくて、「語頭」以外では復元してくるからやっかいなことになる。

(2) 語頭で脱落をまぬがれた /r/ は、/n/ に化ける

誇り高い(?)ウラル・アルタイ系(と言われる)言語では、上のように語頭の /r/ を脱落させるが、「脱落させるには及ばない」許容範囲があって、その場合には /n/ に差し替えが起こる。

これは「発音通り」に表記される:
漢字表現 綴り 発音
羅(姓) na na
浪漫 nang-mannang-man
冷麺 naeng-myeonnaeng-myeon
冷蔵庫 naeng-jang-gonaeng-jang-go

が、これも漢字の /r/ のオトが完全に変化したのではなく、語中ではやはり /r/ に復元されて書かれて・しかも読み方が異なってくるので、その先が頭痛のタネになる。

(3) 初声の /r/ は、前のパッチムによっては /n/ になる

ここから「急に難しくなる」。なぜなら、「文字の上では /r/ が書いてあるのに、実際の発音は /n/ である」ケースが増えるから。

まず、語中の /r/ は、「その前にパッチムがあり・しかもそのパッチムが有声」であれば、単純に /n/ に化ける。文字表現と発音がずれていることに注目:
漢字表現 表記 発音
耽羅 tam-ra tam-na
網羅 mang-ra mang-na
放浪 pang-rang pang-nang

(4) 初声の /r/ は、前のパッチムのオトを変化させ 自分自身も /n/ になる

次が一番「難しい」もので、「前にパッチムがあり・しかもそのパッチムが無声」の場合には、驚いたことに、/r/ はそのパッチムまで有声化してしまう。こうなると、よほど訓練をつまないと、オトから漢字を復元するのは困難になってくる:
漢字表現 表記 発音
博覧会 pak-ram-hoepang-nam-hoe
独立 tok-rip tong-nip
督励 tok-ryeo tong-nyeo
特例 theuk-rye theung-ne

(余談だが、こうして「オトが変ってしまった」のを元の漢字語に復元するのは、コンピュータでは相当に困難だ。例えばパソコンの「音声入力」をする場合の技術としては、いっそのこと tong-nip とか pang-nam-hoe という綴りで辞書登録してしまったほうが、おそらく早い。そうなると、今度は tong-ni-bun-dong(独立運動)、tong-nim-mun(独立門)なんていう派生語もみな別々に登録するのかな ... なんてことを考えるわけで、いやはや、そんなものを仕事にしなくてよかった)

(5) 逆に、単なるオトの干渉で /r/ は前後の /n/ を引きずり込んで /r/ にする

この他に、「漢字音」の問題ではないが、現象的には漢字音に頻発して、しかも /r-r/ の現実音は [l-l] になる:
漢字表現 表記 発音
新羅 sin-ra sil-la
全羅道 jeon-ra-do jeol-la-do
分離 pun-ri pul-li

以上のうち、(5) だけは「北」の公式規範でも同じ。また、それまでのすべての /r/ は「表記し、かつ本当に /r/ を発音する」。(4) の /r/ 直前の「変化させられるパッチム」は、北も認めるが、/r/ を /n/ に変化させることは認めない。

そしてさらに「ただし」、これはさすがに「北」のアナウンサーでも発音しにくいらしくて、北の放送でも「南」と同じオトで言っていることが、しばしばある。つまり、本人は正しい規範通りに発音しているつもりでも、「分析的」には南と同じ /n/ だと言うしかない発音が、聞こえることがある。特に (3), (4) ではその傾向が強い。つまり、朝鮮語というシステムの中で「リウルはすべてリウルで発音しろ」ということ自体に、多少無理があるわけだ。

こうして見ると、たしかに「ハングルは難しい」ですねえ。 しかしこの関門を突破しないと、南の新聞が読めないことはないにせよ、韓国の放送は決して聞き取ることができないわけで...

まあ、語学以前の「文字の読み方」では、マニュアル車を習うつもりになっていただくより他は、ない。


990116-1: 「北のリウル」補足

「北」では「漢字音のリウルはリウルもまま読む」原則が生きていることは、上の通り。北のアナウンサーたちはこれに忠実であること、それにもかからわらずその発音が「しばしば」「南」と同じオトになっていることも、上の通り。

ところで、北が「リウルを書いてある通りに読め」というのは、くどいようだが「漢字音」に限られる。では「漢字」ではない音はどうなのか、歴史的に漢字が書かれたことがあるが現代では(漢字が)忘れられている言葉の場合はどうか。

日本語を内省してみましょう。
「ネジ回し」を「ドライバー」と呼んで得意になってる人はいませんか? もしあなたがそうなら、教えてあげましょうか: 英語の driverは、断りなく使えば まず 99% 「運転手」の意味です。あえて「ネジ回し」と言いたければ screw driver と言わなければなりません。driverのその他の例では、コンピュータの基盤の上では line driver(信号線が外とつながっていて、この電力で「外の機械をドライブできるか」という風に使われる)とか、A chairman is the person who drives the meeting といったふうに使われる。英語のハイカラをねらって「ネジ回し」を「ドライバー」というのは、かなりダサい部類に属します。
ところで、日本語の「ネジ」は、漢字では「螺旋」と書くのはご存知ですね。

朝鮮語で「ネジ」をどう言うかご存知ですか?
北でも南でも na-sa です。
調べてみました。
1960年代の北の『朝鮮語辞典 jo-seon-mal-sa-jeon』では、「語源」の表示をした上で「螺旋」という漢字が表示してあります。これを ra-sa と読めとは言っていませんし、その見出し語もないし、ただ na-sa という見出しに「語源」表示があるだけです。
1992年に出た北の『朝鮮語大辞典 jo-seon-mal-dae-sa-jeon』では、その「語源」表示さえ消えました。つまり、そんなものは公式に知らんというのです

「漢字語のリウルはリウルそのまま発音しろ」という北の方針の(ある)矛盾は、これに尽きます。

この他、北の辞典にはとんでもない「矛盾」が示されています;
「列車」を ryeol-cha と読め、そもそも「列」は ryeol である; そう言いながら、困ったことに「隊列」にはわざわざ発音の指示をつけて、これは tae-yeol と読めと書いてあります。昔もそうでした。1992の「大辞典」もそうです。どちらにも、漢字表記があります。すごいですね。
だいたい、「隊列 (綴りは tae-ryeol、発音指示は tae-yeol) 」の説明には「隊をなした列 (ryeol)」なんて書いてあって、笑ってしまいました。

北の(上に示した2冊の)辞書は、言語学一般、それも「辞典」に上げるべき言葉の選択とその「意味論」的な記述は、きわめて高品質です。この成果が、現在 日本や韓国で出ているいろんな辞典の背景をなしていることは、言語の専門家たちの(ほぼ)すべてが認める事実です(つまり、韓国の言語屋さんたちも、北の成果を無視できないのです)。
それは事実です。

ただ、「リウル」を「書いてある通りに読め」という政治的方針それ自体は、50年代か 60年代かの北の指導方針として、誤っていたのではないか。現実に、それは「北」の放送のアナウンサーたちにさえ不可能な発音が含まれていたのだから。

それは歴史的な経過として、今から否定することはできない。事実は事実として展開されたから、北では今でも「冷麺」は「レンミョン」であり、韓国から中国の朝鮮族自治区に行った人が食堂で「ネンミョン」と言ったら「レンミョンのことか」としかられた、という話はあります。


990120-1: うちの子はハングルを読めという

うちの子はもうすぐ4才なんですが、母親の母語は広東語、父親の母語は日本語で、しかし幼稚園を含む成長環境は日本語です。

その子が、幼稚園の先生を相手に言ったというせりふの中に、「お母さんは日本語へたくそなんだよ、お父さんはじょうずなんだよ」というのがあります。たしかに、4才前になると、特に動詞や形容詞の語尾の運用では、在日せいぜい6年の母親をしのぐ日本語能力を示すことがあり、今後は母親の日本語教師になってゆく可能性を示しています。

ところで、僕の私生活(つまり、ツマ子からも離れた私生活)では、朝鮮語が生きています。週刊誌だって、読むのは韓国のものだったりします。この子の0才、1才のころから、出張の機会があるたびに、僕はおもちゃや文字のポスターなんかを韓国で調達してきました。だから、トイレのポスターは広東語と英語だが、風呂場のドアにはハングルのポスターが貼ってあるという家庭内現象が起こります。

4才直前の子供は、そろそろ(日本の)「かな」を理解しはじめます。4才くらいから「かな」の「鏡文字」を書く現象があることは理解していたのですが、この子も もうすぐそれがはじまるでしょう。

4才前で、子供は「絵本を読んでもらう」意味を理解しました。つまり、そこには「絵」が描いてあると同時に「字」が書いてある; その「字」を自力で読み下すのは3才の子供には不可能だが、しかし「親に読ませる」という回路がある; 白雪姫であれアンパンマンであれ、それはオトに復元されて親の口から発音されることを、3才の子供は理解した。

うちの子、つまり4才直前の子は、そういう段階にあります。

ある日、僕は何か(おそらく韓国の週刊誌、どうであれ朝鮮語で書かれた何か)を眺めていました。
ちびすけが、言いました「これ、何語?」
僕は、一瞬 迷いました; 「韓国語」と言うべきか「朝鮮語」と言うべきか。ここで「かんこくご」と言ってはならないと思った; 母親に言うときと同様「ちょーせんご」と答えました。
子供:「ちょーせんご? 言って! 言って」

お断り、いくつか:
(1) 在日韓国人夫妻とのつきあいがあります。僕は、彼らの言葉を「朝鮮語」だと言ってますから、かあちゃんは子供を相手に「あの子のママの言葉はちょーせんごだよ」と言っている可能性はある。この場面で(だけ)、僕はそれを「かんこくご」と言うわけにはいかない。
(2) この子は「(文字を)読んでくれ」という表現をまだ知らない。だから「言って」くれという。
(3) この子は「何語」の差を理解しているらしい; つまり、父親や幼稚園で共通の日本語と、母親の話す広東語とは、互換性がないことを理解しているらしい。だから、僕の見ている「字」を「何語?」と聞いてきた。
で、僕は「ちょーせんご」と答えた; ちびすけは、それを第3の言語と理解したのかしなかったのか、それはわかりません。しかし、在日の女の子(4才)が、母親の朝鮮語を聞き取っているのを見ているし、一方、自分自身も母親の広東語を聞き取っているので、案外 理解しているかもしれません。


(このファイル終り)