ハングル工房 綾瀬 - Ken Mizunoの朝鮮語ノート 9812

Hangeul-Lab Ayase, Tokyo

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981204-1: タンシン tang-sin

実は、見ている友人たちがいるので大変 具合が悪い。この単語は、パソ通 Niftyの「外国語フォーラム」の「朝鮮語(韓国語)」会議室で、いま現在話題になっている。
数年前なら、僕もその話題に参加した。僕自身の言葉の体験を綴りながら、結局「タンシン」の3つか4つの場合について、辞書の項目立てをするように整理をしただろう。それは、学生だったころのその学科で覚えたやり方だったし、今も同じことだし、この単語であれば既に整理ずみ事項なので、特別に考えなおすこともない。

しかし、パソ通の「語学」系会議室に数年つきあった方ならご存知の通り、その世界には入れ替わりたちかわり新人があらわれる。その多くは自称初心者で、言い換えると「眉つりあげて朝鮮語を習いたいのではない、雑多な気楽な話題の一つとして、その話題をやりたい人」たちである。
この人たちを相手に懇切丁寧な解説を書き続けることは、並大抵の努力では続かない。実際、その世界のスタッフである中国語の担当者に、「中国語はいつまでたっても語学の入り口の質問ばかり。朝鮮語はまだましだ」と言われたことがある。これは、彼の誤解を含んでいた: そのころの僕はパソ通上では有名で、常連で、「初心者の気楽な質問」を一見許さないような緊張が文面にただよっていたから、まず「初心者」が声を出さなかった。だから、朝鮮語は質が高いとみなされただけだ。

初心者質問に常に懇切丁寧な解説をするのは相当な労力を要し、これは街の語学学校の講師以上の労力だと思った; だから、それをやるなら僕はおカネをもらわなければいやだと思っていた。だから、僕には最後までスタッフのお呼びがかからなかった(むしろ、危険人物とみなされていた。「猛獣」というニックネームをもらったのもそのころだ)。

だから今度は、ある程度 安定して記録を残せるホーム・ページに、回答を書いておこうと思った。

この話題は、次の本が解決してくれる:
長璋吉『私の朝鮮語小辞典 ソウル遊学記
僕の手許にあるのは: 河出書房新社、河出文庫 747A、ISBN4-309-47070-X C0193 P460E つまり ¥460。文庫は 1985年初版で、文庫以前の版は 70年代前半だった。
長氏の項目立ては、けっこう細かい。僕なりに再整理してみると、次のようになる: 長氏はまだ詳しく とかが挙げてある。

(1)翻訳調の「あなた」
これは日本語も同じ。こんな朝鮮語は(日本語は)現実の使用にまず耐えない。あえて使うなら「ケンカ」ごしか、さもなければTVのCM効果をねらったものだろう。

外国語としての朝鮮語を、例えば I am a boy. Are you a girl? みたいな文章から教えるところがあるらしい。これは、いけない。これだと、学習者はいつまでたっても「相手のことをどう呼べばいいのか」と悩むことになる。

(2)恋人夫婦間の「あなた」「きみ」
日本の(外国人相手の)日本語学校では、非常に親密な男女関係で女が男を呼ぶのが「あなた」だと教えられている(いた、少なくとも5年前)。
外国人相手だと日本語教師は「いる」と「ある」の差を説明しなければならなかったり(わかりますか? 空港にいくと飛行機がたくさん「いる」。うちには車が「ある」が、車庫の前によその車が「いて」出られないので困ることがある)、なぜ女が日本人の男に「あなた」と語りかけて不自然なのかを説明しなければならない。

朝鮮語の夫婦間のタンシンも、これにあたるんですねえ。
夫婦間の特権用語、または事実上そうである間での、互いの関係の確認呼称。
余談だけど、互いに「タンシン」と呼び合う夫婦の間では、だいたい -yo という敬語の語尾が使われるか、またはそれが理想的・規範的なものになる; 男尊女卑の世界の中で、夫が妻を「タンシン」と呼びしかも -yo 型の敬語の語尾になるのが、理想的美しき関係である; 李夢竜は結婚後の春香に「ヨボ、タンシン .....」と呼びかけたにちがいない(念のため、彼女は妓生の娘であり、南原での愛の日々の間、彼は彼女を neo「お前」と呼んでおります。はい)。

現実の中年の夫婦間では、ほとんどが tang-sin と呼び合い、しかし互いの語尾はパンマルになっていることが多い、みたい。これは家庭の事情なので、夫婦によって異なる。もちろん、妻から夫にだけ -yo 語尾というケースも、東洋型の関係ではぜんぜん不思議ではないし、来客のある時とない時でちがう蓋然性はとても高い(つまり、客がいれば妻は夫に、または互いに敬語を使う、と。これは日本語でも同じようですよ)。

(3)ケンカのときの「きさま」
「きさま(貴様)」と訳してしまうと、ちょっとニュアンスに問題が出る。

例えばソウルのど真ん中でタクシー同士が軽い接触をしたとしよう。双方の運転手、路上で猛烈な言い争いをはじめる。頭に血はのぼっていて、相手を「ヨボ、タンシン、いろっけ へった あねった」と言い合っている。この「タンシン」は、日本語の「きさま」が相当に深刻であるのに比べて、だいぶまし。路上のケンカが物理的な殴り合いにならないための、ある種の防波堤の役割をはたしているのではなかろうか。もちろん、ケンカ言葉を応酬する以上 双方ともに本気なのだが、しかし日本語の「貴様」が動員される場面には到底 至らない。

要するに、日本語の「貴様」の語感には敬語の痕跡が完全に失われているのに対して、朝鮮語の「タンシン」にはまだまだ敬語の(?)性格が残っている。
ただし、ケンカはケンカなので、互いにパンマルの応酬になる。当事者の意識の上で「敬語」を使っているわけではなくて、次の「中年同士」のタンシンみたいなものだ。この場合、ケンカは「濃い感情の関係」であるという意味で、どこか、夫婦間や中年同士のつきあいと似ていないだろうか?

(3-1) 中年のおじさんおばさん同士の「あんた」
これはケンカのタンシンの亜流ではなかろうか。
唐突で恐縮だが、アメリカ人の中年のおじさんおばさん同士は、互いに (hey) boy! と呼び合う。これは女同士でもそうだし、「おいおい!」という感嘆詞を兼ねることもある。

おっさんおばはんの「タンシン」は、日本語では(親しみをこめた)「あんた」とすごくよく似ている。これを流用して若い僕に(おっさんが)(親しみこめて)タンシンと呼んでくれると、うれしかったりする(した。今では僕も中年になっている)。

(4) 三人称のタンシン
これは、語学ではしばしば「教え忘れ」が出る部分。
「先生は(ご自分の)帽子をお取りになると、(以下 先生のご行動)」
この「ご自分の」の位置に tang-sin-eui とくる。
敬語がらみなので、マスコミの文章には出にくい。特に政治文書にはまず出ない用例なのだが、しかし「お偉い方が親しく私に話しかけてくださった、その時の描写」文には出てくることがある。
ま、これは文脈的にすぐ発見できるので、難しくない。

この場合のタンシンは、次のような「3人称」の主語でも現れる:
タンシン・ケソ ハシン xxるる ...
(tang-sin-kke-seo ha-sin xxx-reul ...
(ご自分で/みずからなさった xxxを ...)
形式上あくまで3人称だが、ご当人を前において詰難する口調でもありうる(例えば、政治のトップがみずから出した指示を後にひっくり返す、偉い芸術家が完成直前の作品をみずから廃棄して家族は貧困をまぬがれない、その被害者のせりふの中で)。

高校生のころ、国語の教師が教壇でお述べになったご高説の中に、「この本は君らが持てばただの '本' だが、私が持てば 'ご本' になる」というのがあった。
まあ、敬語表現の問題は難しいです。


981205-1: タンシン tang-sin 補足

長璋吉の説明の他に、僕が気がついたものに「目上から目下へのタンシン」がある。
これは、一面「翻訳調」に聞こえたり、突き放した言い方だったり、逆におじさんが若い相手に親しみ持って語りかけるのだったりする。

教官が大学生や院生を相手に:
これは、多い。日本語でも教官が学生を呼ぶ呼び方は人によるが、無難なところでは「きみ」とか「あなた」が多い。同じように、韓国でもいろいろな言い方が動員されるわけだが、研究室に相談に来た学生に、対等な表現として「タンシヌン・・・xxxハシオ」(あなたはxxxしなさい)なんて言い方をする人がいる。語尾に -o が出るときは紋切り型だと思ってよく、正しい言葉で学生を対等に扱い、過度の近しさを避けるには便利な表現かもしれない。
だから、教官が女子学生をタンシンと呼んだからといって、学園セクハラを想像してはいけない。

教官と学生でなくても:
1980年ころ、当時生存していた韓国の重鎮級作家を、日本からの留学生数人でインタビューに回ったことがある。この多くの場合、重鎮作家が、せいぜい院生クラスの留学生を「タンシン」またはその複数で呼んでくれた。
この場合、基本的に「互いに敬語でしゃべる」関係だ。もちろん、若いほうは先生を「先生nim」と呼ばなければならない。

どうであれ、これは翻訳口調の流れにあるのだと思う。春香伝の時代ならともかく、現代社会の中で、(感情・身分関係にかかわらず)「単に相手をさす言葉」がないと不便きわまりない。そういう経過を、日本語もたどってきたはずだ。現代朝鮮語では「タンシン」がそれになる。ただし、これにはかなりの「距離」の認識が前提で、距離が近くなればなるほど「夫婦間」の連想がはたらいて、結果として「タンシン」は忌避されるから、二人称代名詞は永遠に揺れ動くハメになる。

初対面のおじさんと青年:
これが「うれしい」ケース。
上の記事で、おじさんおばさんの集団がいて、そこに未知の青年が現れて、一通り尋問?が終って、多少酒も回っているとして − おじさんの一人が「ところで、タンシン」と話しかけてくれる。このときは「あんた」と受け取る。とてもフランクな「タンシン」が、こういう風に存在するわけだ。

フランクに出る言葉だから、ひょっとするとケンカの「タンシン」と裏表なのかもしれない。かくして − 「タンシン」は敬語だったり罵倒だったりすることになる。

日本語だって「惚れる」相手は「あんた」でなければならないし、一方「あんた、あの子の何なのさ」という、ケンカ口調が存在するし、ね。表現の近しさは感情の濃さでもあるから、親密表現はケンカ表現と裏表なのだ。


981229-1: 朝鮮近代文学の購読書 − 三枝寿勝 『スタンダード ハングル講座5/ハングル読本』

本のシリーズの名前は「スタンダード ハングル講座」、その第5巻ということになっていて、その「全5巻」。つまり 1:入門・会話、2:文法・語彙、3:解釈、4:作文、5:ハングル読本の、最後のしめくくりが「文学購読」ということになる。
大修館書店、この第5巻は 1990.4.15 初版、1996.9.1 再版。全体の「責任編集」は梅田博之。
ISBN4-469-11044-2(全5巻)
ISBN4-469-11049-3(この巻)
¥2270

僕はこの本を、著者である東京外大教授(文学担当)三枝氏から直接いただいた。本の存在はご自身から聞いていたが、いや、まあ、見てみると著者の言う通り「朝鮮文学を原文で読む意志のある人を対象として、その際に読者が読み取るべきあらゆる文法事項を、ひつこいくらいに説明羅列する」本である。

僕自身、こういう本は「夢」だった。
例えば、かつてのパソ通上で『サラン(バン)のお客様とお母さん』や『西便制』の「購読」をやったころ、つまり僕がその「講師」役をして 作品の展開を逐次「語学的」に解説しようとしたころ、僕は ある障害に出会っていた − つまり、「読者」または「受講者」の質のばらつき。基本文法の説明までしていると、それをすませた読者には退屈になり、後者を対象とすると今度は「初心者」に理解できなくなる; 例えば標準語の変格活用の説明などは「購読」以前の課題なのだが、実際にそれを知らない読者がいる; しかしその説明に立ち入ると、「文学購読」が「文法講座」になってしまい、とてもではないが、「作品鑑賞」どころではない。
「こんなことなら、対訳本を作ったほうがいいんじゃないか」、つまり、わからない人はわからないなりに読み、わかりつつある人には的確なアドバイスを羅列する、「対訳」と註釈を並べた「紙の本」こそ その解答ではないかと、考えたことがある。

そういう「対訳本」は、けっこう ある。ただ、一般的な「対訳」本は「対訳」を掲げるゆえに「作品そのもの」を問題にせざるを得ないし、取り上げる作品が「つまらない」と思ってしまうと、本全体の魅力が薄れてしまう。

しかし、表題のこの本は、一連の語学講座のしめくくりであり、その最終段階にある。目標は1つ; 読者に、確実な作品「解読」技術を与える点にある。

だから、その最終段階として、近代史の中で代表的な作家たちの作品を並べ、その ある一部分だけを切り出して「徹底的な文法解説に及ぶ」という方法を取る。これは、面白い。朝鮮語をまったく知らない人には無意味だが、普通の標準語と普通の会話表現を既に理解した人が、現実の文学作品に出会ったとき「これをどのように解読するか」、著者の関心はひたすらそこにあり、方言や破格表現を含めて、著者は わからないものは「わからない」という結論を含めて、読者と対等に、しかし責任ある大学教官として、大学の朝鮮語専攻 初期から中期課程の学生を相手に説明するレベルで、えんえんと・しつこく文法説明をくりかえす。

その意味で、この本は「いい」!
僕は、この Webサイトを日常的に読んでくださっている読者に、この本を勧めることができる。少なくともこの本は、「読者はどうせ朝鮮語を読めないだろうから(読めたって、作品原文はわからんだろうから)原文を掲げたってしょうがない、適当な訳文にして読ませておけ」 という、読者をバカにしたような態度と無縁だし、逆に「いかにして原文を、読者自身に自力で解読させるか」という善意に満ちている。

そういう作業のできるのは、結局 給料もらって仕事できる大学教官だった。素人講師(水野のこと)ではちょっと(難しいので)避けたくなるような作品も、30年間の研究を背景として、正面から扱っている。もちろん、文法説明のひとつひとつにその背景があって、しかも研究者としての責任がかかっているから、驚くほど「すみずみにまで神経が行き届いている」。

皮肉ではなく、基本的な文法を一通り習った方は、新聞が読めることに満足せずに、この本を眺めてみてほしい。辞書ひく手間はまったく省けるし、それだけで小説原文の解読技術が手に入る。この本1冊ながめる努力を惜しまなければ、普通の韓国の現代小説なり随筆なりを、敬遠する必要はなくなる。

皮肉だけど、もし「あなた」が朝鮮語がよくできる朝鮮通なら、この本の「誤り」をお探しになってください。著者も喜びます。僕自身、数カ所 不審に思って聞いてみた − 著者は「そんな不審を抱く読者がいる」ことは承知の上でした。


(このファイル終り)