Ken Mizunoのタバコのけむり?

Hangeul-Lab Ayase, Tokyo
Ken Mizuno

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(20021217-1) 日記 − ローマ字ツール (続き) / ハリポタの 「入れ子」 構造

「ローマ字ツールで画像によるハングル表示」(下の記事) は、「仕事」を離れたところでの作業である点、楽しいとはいえる。少なくとも2人の友人から、「2350文字(画像)」のロードに要する時間計測レポートをいただいた。一人は、おおむね僕のところと変化がない。彼のところは 公称 12M ADSLだが、僕の 1.5M と同じ程度だ。もう一人は ADSL 12M、実測テストで 2M ということだが、CPU 1GHz で 4分もかかるという。CPU 1GHz は僕と同じ、彼のメモリは 512Mで、僕の4倍もある。

本当の 「仕事」先、つまり より条件のよい 「光 100M」 回線の下では、悪くしても 50秒、速ければ 40秒程度だった。おそらく、「画像 1つ1つについてセッションを張りなおす」 インターネット通信、つまり TCP/IP の、ホップ数 (途中経路で渡る中継点の数。プロバイダが二流、三流 ・・ となるほど、これは数が増えて行く。中継点の数とは、つまり 通過する 「ルーター」 の数 ) にも関係があると思われる。

ツール自体は、この先 「実用」にむけて、まだ考えることが いくつか、ある。
しばらく、時間をみながら、少しずつ進めるつもり。

「仕事」の行き帰りには、まだ 「ハリー・ポッター」 第2巻の英文を抱えている。やっと、壁に 「スリザリンの継承者は秘密の部屋を開いたぞ」という落書きが現われ、凍りつき・または眠らされたネコ、その取り調べの場面まで。
第2巻では 「事実上の1人称」がなかなか出て来ない、故につまらないと書いたが、ここまで来ると、作者の書き方が多少変化する。つまり、「ハリーにしか聞こえない」 怪物の声の描写では、ハリーの 「事実上 1人称」にならざるを得ない。それに対して、ロンやハーマイオンの行動・考えの 描写 (または説明)は、パラグラフを変えて 出てくるようになった。同じやり方で、この先 ロンが 「君はヘビ語 話者なんだ」と伝えてくれるのだろう。

見れば見るほど、構成、伏線関係が緻密に用意された作品で、上の 「落書き」に出会うのは 幽霊 「ほとんど首なし」ニックの 「死亡記念日」パーティーからの帰り、そのパーティーでは、後のハーマイオンの 「化け薬」ラボとなる 「女子トイレ」の、幽霊 「嘆きのマーテル」が出る。「落書き」を喜ぶ幼い敵 マルフォイが この 「化け薬」のターゲットとなり、しかし 「化け薬」の結果でマルフォイ自身 何も知らないとわかって、話は再び 「落書き」に回帰する。結局、第2巻も、「複雑な、しかし入れ子になった謎」の構造に帰着する。前に描いた絵を再度:
    第1の伏線    第2の伏線    第3の伏線    第3の解決    第2の解決    第1の解決
       |             |             |                |          |             |
       |             |             | (近距離の解決) |          |             |
       |             |             +----------------+          |             |
       |             +-----------------------------------------+             |
       +---------------------------------------------------------------------+
                                    (長距離での解決)
これらの 「複雑な伏線構造」 の間に、ハーマイオン自身は 「化け薬」の使い方を誤ってネコになったり、寮監が実は 「生得的に無能な」 魔法使いであることがわかったり、重要人物 ネビルの 「無能」が同じ理由だとわかったり、する。中距離での伏線と解決には、第2巻冒頭の 「飛ぶ車」が、「禁じられた森」で野生化している姿が出る。この巻の最外周の伏線であるドビーの正体が、本当に巻末で明かされることも、もう書いた。そのさらに外側の 「謎」たちが、第7巻までの間に、まあ、明かされてゆくのだろう。
しかし、この 「謎」の 「解決」が 巻 後半に集中するのは、まいった。現在 p.115 (ややペースが落ちている)。謎の提示は まだ すべて終わっていない。これから残りが出て、巻 後半の 1/2 で その謎解きに入る; こういう 「教科書通り」?の構成をする作品も、あるいは 多くないかもしれない。

余談では、「後継者」 の原語は heir だった。こんな単語は知らない。数ページ読んでいる間に、これは hierarchy の語幹に近いことに気がついた − 厳密には異なるとしても、「単語の綴りと意味の横すべり」を考えると、少なくとも 「同系の」単語であることに、まあ間違いないだろう。いずれ 「辞書なし」で小説を読むというのは、こういう類推のくりかえしだ。

いずれ、朝鮮語作品の 「購読」で、そういう話をしたいと思う。今度の 「ローマ字で書いておけば 画像でハングルが出る」ツールも、最終的には それが目標だった。10年近い昔、そのときは 「ローマ字」と 「ハングルの文字コード系」との往復 「だけ」を課題にした。今度は、本当に 「絵」 として、「目で見て本当にハングル」 に見えるものを作りつつある。


(20021216-1) 日記とお願い − 「ローマ字ツールで画像によるハングル表示」 (4)

下記のボタンを押すと、別窓が現われる。そこには、ハングル KS完成型 2350文字が、一見羅列されているが、実はそれは 「ハングル KS完成型 2350文字」 に該当する 2350個の 「画像」 の羅列である。「あなたの」 手元のパソコン、ブラウザで、これが見えるだろうか? 全部表示が出るまで、何分かかるだろうか (期待値は 90秒前後)、正しくパソコンは動きつづけるだろうか (Windows 98 SE、メモリ 64MBのころ、この表示は Netscapeでは不可能だった。ブラウザ自身が落ちた。その当時の MS-IEは、ちゃんと動作した。僕の手元では、現在 Windows 2000、メモリ 128MBで、Netscapeでも正しく 「90秒」程度で表示される。ただし 「この窓」を閉じるときにも、使った 2350個の小メモリの解放に時間がかかるようで、10秒前後の 「だんまり」が発生する):
KS完成型 2350文字の一覧表
もしよろしければ、ボタンをクリックして実験していただけないだろうか?
もし、何かおかしな動きを示す、あるいは表示に数分もかかる、といった問題があれば、メールをくだされば、幸いです。

くどいようだが、現実の運用時には、これほど時間はかからないはず。2350字では 「特別な場合」に不足するけれど、しかし 「特別な場合」を除けば、普通の 「小説テキスト本文」では 数百字未満ですべてが足りる。この 「日記」 テキストは異常に長くなってきたが、例えば 小説の 「購読」ページを作成した場合には、これより はるかに 「軽く」なるはずである。

なお、上の 「ハングル」画像の 「ソース」は、同じ位置のファイルを 「そのまま、CGI を通さず」 に見ることができる。ハングルの代わりに、ひたすらローマ字が並んでいるのを理解していただけるだろう:
KS完成型 2350文字のローマ字一覧表

(20021215-1) 日記 − 「ローマ字ツールで画像によるハングル表示」 (3)

「KS完成型」 2350文字の 「全文字リスト」を作ってみた。昨日より1段階大きく、11ポイント。実験ではまだ CGI 化せず、HTMLソース上で 「1文字ずつ画像表示」してみた。これが 「2350個」となるとさすがに時間がかかり、手元の Windows上で、つまりローカルな画像イメージのロードに 30秒前後、一方、HTMLも画像もサーバ上において、インターネット経由でロードさせてみると 90秒くらいかかった。もっとも、この差は必ずしも 「インターネット経由」だからではない。1GHzの手元の機械の上で 30秒もかかるのは、「2350個のファイル」にアクセスする (7200回転ハード・ディスクが動作する) 時間だ; 1個のファイル (1つのハングル字体) の大きさそれ自体は 188バイトにすぎない。サーバ側は、実は 400MHz級に 5400回転ハードディスクなので、これが遅いのはしかたがない。何よりも、「188バイト x 2350文字 = 440KB 」 である。転送が 14400 モデムなら5分かかっても不思議はないが、仮に ISDN 64Kでも 55秒ですむはず。僕の手元に来ているのは、ADSL 1.5Mである:
・・・
で、「すべての文字 (画像)が異なる」 2350文字が並べば、その時間がかかる、が、現実の − 例えば小説作品テキスト本体などであれば、それほどひどいことはない。昔、僕自身が 「現場」の 「文字」種別を数えた経験では、1000字種あれば まず足りる; そのうち、「常に使用される」 文字は数百字にすぎない。昨日の 『サランのお客様とお母さん』 の 「購読」 数回分では、「個々のハングルが独立した画像だから 遅い」 とは感じられなかった。おそらく、現実に運用した場合に、このハングルが 「実は単なる絵 (画像)」 であると気が付く人はいないかもしれない − その程度まで実用化可能であるという感触は得た。

さて、この先をどうしよう。
僕の 「ローマ字/ハングル」 相互変換ツール群は、1994年から 1996にかけて、ある種の 「定向進化」を遂げていて、実にさまざまな 「オプション」を抱えていた。例えば、こうである:
・ローマ字との 「変換」の相手は、(1) 韓国の 「KS完成型」、(2) 一太郎の外字によるハングル、(3) 当時 既に過去のものになりつつあった (高電社の) KOA ハングル、 (4) 当時 「いま現在の」 高電社の商品だった Korean Writer、(5) 当時のパソ通 Nifty上での、Korean Writerもどき、それから、(6) Mac上での Korean Writer類似コード系、それから、(7) また別の 「ハングル・ローマ字系」 − これらすべてとの、双方向変換。
・「ローマ字からの一方通行」でよかった、(1) 「JIS記号類の組合せによる擬似ハングル」と、(2) 「花文字ハングル」。
楽しかったのは 下2つ、「ローマ字からの一方通行」でよかったグループだ。その例をあげておきますか:
C:\>hrss han-manh-eun i se-sang ya-sok-han nim-a
ニ                                         ニ
○ト 口ト ○   ○|   人-ll 人ト   ○l= 人 ○ト   レ| ○ト
 L  Lニ 匸                 ○         亠  L     口
       ○                               フ
C:\>hrban an-nyeong-ha-se-yo
        @@           @@           @@             @
   @@@   @    @@      @     @@@    @           @ @
  @   @  @     @    @@@            @      @    @ @      @@@@
  @   @  @     @      @    @@@@@   @      @    @ @     @    @
  @   @  @@@   @    @@@            @      @ @@@@ @     @    @
   @@@   @      @@@@  @     @@@    @@@   @ @   @ @     @    @
         @                 @   @   @     @ @   @ @      @@@@
         @                 @   @   @    @   @  @ @
   @@             @@@@      @@@    @   @    @  @ @     @   @
    @            @    @            @           @ @     @   @
    @            @    @            @           @ @  @@@@@@@@@@@
     @@@@@@       @@@@             @             @
今度の場合、「ローマ字から、ハングル画像を呼び出す HTMLテキストへの変換」、その1方向である。呼び出される側の 「ハングル画像」は、友人のフリー・ソフトで作成でき、既に上でも、下記の記事でも使用している。あとは僕が、「自分の過去の作品」を どう整理するか − うーん、どうしよう。


(20021214-1) 日記 − 急にはじめた「ローマ字ツールで画像によるハングル表示」 現状

我ながら何を思ったか、急に作業をはじめてみた 「HTML本体の上ではローマ字、Web上で見るとハングルにみえる」 ための CGIの実験を、Windows上でシミュレーションしているところ。今日までの段階では、次のような 最終表示ができることがわかった:
ハングル画像は 「10ポイント」まで小さくしないと、地の文の日本語や句読点と上下がずれてしまう。が、ここまで小さくすると、 //reul// のハングルの初声と母音が重なってしまっている。
また上記は、その実験の画面 (の画像) なので、実験時の画面幅で改行されている。このハングルはもともと画像なのだが、その 自動的な改行後に、次の行との行間が空いたり (Netscape) ・空かなかったり (MS-IE) する。上の画像は Netscapeのもので、日本語の (文字) と同じ行間が空いている。
これの HTMLソース・コードは、最終的には次のようになる:
<font style="line-height:150%">
// na-neun keum-nyeon yeo-seos-sal nan cheo-nyeo-ae-ip-ni-da. nae i-reum-eun pak ok-heui-gu-yo. u-ri jip sik-ku-ra-go-neun se-sang-e-seo je-il i-ppeun u-ri eo-meo-ni-wa tan tu sik-ku-ppun-i-rap-ni-da. a-cha, kheun-il-nass-kun. oe-sam-chon-eul ppae-noh-eul ppeon-haess-eu-ni.<br>
ji-geum jung-hak-kyo-e ta-ni-neun oe-sam-chon-eun eo-di-reul keu-reoh-ke ssa-dol-a-da-ni-neun-ji jib-e-neun kki-ni-ttae-na oe-e-neun pyeol-lo puth-eo iss-ji-reul anh-a eo-tteon ttae-neun han ju-il-ssik ka-do oe-sam-chon kho-ppae-gi-do mos po-neun ttae-ga manh-eu-ni-kka-yo, kkam-bak ij-eo-beo-ri-gi-do ye-sa-ji-yo, mu-eol.//<br>
<br>
私は今年6才になる女の子です。私の名前はパク・オッキ。私のうちの家族は、世界で一番きれいな私のおかあさんと二人きりなんです。あ、たいへん。おじさんを忘れるところだったわ。<br>
いま中学校に通っているおじさんは、いったいどこをうろつきまわっているのか、うちにはご飯のときくらいしかいなくて、時には1週間に1回もおじさんの顔をみることがないなんてしょっちゅうですから、いつも忘れてしまうんですよ、ほんと。
</font>
ところで − 何でまた 「ローマ字」なのか?
もちろん、僕はローマ字で HTML本体を書く気は、ない。長い文は何かしらの手段で、ハングルは本来のハングルとして入力し、その結果をツールにかけてローマ字にした上で、HTMLに貼り付けるつもりなのだ。
なぜそんな面倒なことをするのか − それは、「MicroSoft以外の」 ブラウザで、日韓混在文が読めるか、という問題になる。

21世紀に入ってからの MicroSoft製品だけで統一するなら、ページを読むほうも作るほうも、日韓混在文を書き、読める。それは、わかってる。しかし、その 「設定」自体ができない人は、多い。「前世紀」からのパソコン、学校環境ではどうする? MS-IEより Netscapeのほうがはるかに優勢だった時代の、韓国内の大学環境は? それから、パソコンは数十台も買ったが5年くらいは買い替えのできない日本の小・中・高校あたりでは? あなたのパソコン、Windows 98? ME? インターネットを読むためのブラウザは、最新版に取り替えてますか? 韓国内の通信販売のページが、文字化けせずに読めてますか?

上のような 「対訳」文の場合、「何かしらの手段で、ハングルは本来のハングルとして入力し、その結果をツールにかけてローマ字にした上で、HTMLに貼り付ける」。地の文は日本語にする。原文解釈の上で必要な単語の引用くらいなら、手打ちのローマ字ですませる。その HTMLファイルは、自分自身のサーバに上げ、そのサーバ上では、CGIに 「ローマ字部分だけをハングル画像に」 置き換えさせる − on-demand、リアルタイムの 「ローマ字 -> ハングル画像」変換である。結果として、「水野さんのところでは日韓混在の表示が出る。あのハングルは実は 『画像』 だから、そういうことができるのだ」。それでいい。その ハングルの 「自動的な」 画像化こそ、少なくともこの 10年の間、懸案でありつづけてきた。その必要を感じている先輩、同期、後輩と友人たちは多い。ただし、その人たちが 「CGI」という単語を理解するかどうかは、また別の問題なのだが。


(20021213-1) 日記 − 「ローマ字ツールで画像によるハングル表示」 現状

もう 10年近く前の自分のプログラムを読んでみたら (やっと 「読んでみる」 余裕ができたらしい)、何のことはない、入力テキストの解釈と、変換後の出力側とは、きれいに分けてある。かつてのツール群は、次の2つの機能を持ち、それぞれ変換対象が複数あって複雑だった:
・日本語+ローマ字表現を、ハングル混在文に変換するツール群
(この 「ハングル」には、インターネット上のハングル、一太郎の外字、大昔の高電社の "KOA" ハングル、それに Korean Writer、Macの Korean Writerもどき、その他 JIS記号の組合せによる擬似ハングル、花文字ハングルなど ・・・ があった)
・逆にハングルのテキストを、日本語+ローマ字表現に変換するツール群
今度の場合は、昨日 書いたように、ローマ字で書かれた部分だけを次のように置き換えるだけだ。それ自体は、簡単にできてしまう:
この文章には //han-geul//と 日本語が混在しています。
この文章には <img src="han.gif"><img src="keul.gif">と 日本語が混在しています。
問題は、「10年」近い歴史を持ってしまったツール・セットから、この単純な置き換えツール 「だけ」 にする (つまり、余計なものを切り捨てる)作業のほうが面倒くさいことだ。ツールそのものはおおむね出来てしまったので、次はこの切り捨てと、できあがったその HTMLファイルから呼び出すハングル画像を作ること。これができると、例えば次のような ホームページ上の画面を、かなり手軽に作ることができるはすである (今はまだ大変、ハングルを画像化する手作業が入るので):

私は今年6才になる女の子です。私の名前はパク・オッキ。私のうちの家族は、世界で一番きれいな私のおかあさんと二人きりなんです。あ、たいへん。おじさんを忘れるところだったわ。
余計なものを切り捨てるのは、僕自身の作業。個々のハングル画像を作るのは、友人のツールに頼ることにする。さて、次の作業は、いつできるだろうか。

(どうでもよいけど、上の 「6才」の女の子のせりふ、どこか ハーマイオンの生意気さと共通していないだろうか? ハーマイオンは 11才からはじまるが、上の作品 (『サラン(バン)のお客様とお母さん』) の 「6才」は 「数え年」なので、実は満4才の可能性もある。事実、この話者は作品の途中で 「幼稚園」に入る。植民地期朝鮮の学制は、おおむね当時の日本と同じと思ってよいはずである)


(20021212-1) 日記 − 「ハリー」、ローマ字ツール、「画像」によるハングル表示

やっと聞いてくれた お姉さんがいて、「なに読んでらっしゃるんですか?」。はい、「ハリー・ポッター」の第2巻の英文。
お姉さん、英会話教室に通い、出身は 「航空宇宙」学科である。「ハリー」 の第1巻の訳書は読んだそうです。

「ハリー」の今後は、作者は、「ハリーと共に認識し体験する読者の旅」 という方向より、限りないスペクタクルを展開しようというのだろうか。第2作の映画を見ていないが、第1作より 「スペクタクル」そうに、(予告の画面などからは) 見える。第3作までは訳本を読んだが、原作・映画ともこの方向で7作、みんな行くのかしら。それまで続くのでしょうかねえと、やや皮肉を言いたくなっている。
「文学作品における」 「描写」と 「説明」のちがいを説明するために、また引用をしてみようかと思ったが、"「描写」になっていない、「説明」になっているので面白くない" 部分を引用しても つまらないと気がついた。
昨日 現在 「90ページ」と書いたので、1日に読むページ数がはじめてわかった。電車の行き帰り、途中の食事時間をあわせて、だいたい 10ページほど進む。これだと あと 150ページ、平日だけなので、15日かかるなら年内には読み終わらない。

仕事で、Unix上の makefileを完全自作する必要に迫られた。やってみると、面倒くさい。が、面倒ながらも、なんとか要領がわかってきた。帰ってから、数年前からの懸案で、「ローマ字 <-> ハングル」 変換ツール群の makefileを書き直してみた。gccだ。Windows上のそれでまず実験、次にサーバに上げてコンパイルしてみると、何のこともなく動いてしまった。もっとも、これは作成当時から (最後の版は 1996ころらしい。自分の作品でも、もう忘れている) 単なるフィルター・プログラムなので、とりあえずサーバ上で動いても あまり意味がない。目的は、これを再度いじって、次のような Webサイト (ホームページ)を作ることにある:

HTMLソース・ファイルには、次のように書くことにする:
この文章には //han-geul//と 日本語が混在しています。
これを、このページが参照されると同時に、サーバ上の CGIで (リアルタイムに)次のように置き換える:
この文章には <img src="han.gif"><img src="keul.gif">と 日本語が混在しています。
これが めでたく動くと、インターネット上の端末、つまりパソコンのブラウザでは、次のように見えることになる:
この文章には と 日本語が混在しています。
問題は、韓国で主流派、インターネット上の標準的なハングルは 「KS完成型」であり、これは 2350文字のハングルを含んでいる。この画像を全部揃えるのは、大変だ。ただし、ツールがないわけではない。

実は、ホーム・ページ作成時に、(サーバ上でやるのではなく) 手元のパソコン上でこの作業をみんなやってくれるソフトが、ある。このツールは、「ハングル工房」の仲間である 森保生氏の作品で、次のトップ・ページから 「HRHTML(画像でハングル)」 がダウンロードできる:
http://member.nifty.ne.jp/moj/ 森のソフトアトリエ
それにもかかわらず、僕が自作の CGIを考えているのは、Windows上での作業がうっとおしいからだ − Windows上で、HTMLの 「日記」や 「朝鮮文学ノート」を書いて、それを この HRHTMLにかける。出来てくるのは、変換された元のテキストと、そこから呼び出すたくさんのハングル画像たちである。それらを、FTPで一挙にアップロードするのは、よい。ただし、そのハングル画像は無限に増えつづけて行くだろう。「一挙にアップロード」すること自体は簡単だが、書くたびに増えつづける画像の処置に、おそらく困る。

そういうわけで、僕は 「もっとも信頼するハングル フリー・ソフト作者であり、友人である」 森氏の作品を、使っていない。森さん、ごめんね。
今度の gcc - makefile の再構成で、(手元の Windowsではない) サーバ上での変換への道のりは、多少 具体的になってきた。あとは、多少のコーディングと、森氏の作品を流用して 2350文字のハングル画像を 個々に作成すること。
ただ、時間、労力、仕事つまり僕自身の生活事情と ・・・ その関係を考えると、いつになるのか、やや心もとない。

ただし、それでも、この 「画像によるハングル表示」という方針は、MicroSoftさんのここ数年の動きに対しても、ある・決定的に優位な点がある: それは − 「パソコン上にハングルを表示するための どのような用意をしていない人でも、ハングルが読める」 こと、それに、たとえ 10年前のブラウザであっても、「画像」が表示さえできれば 「ハングル」が読めることである。

さて、いつになるのか。
バブル期はもう去った。今は、1ヶ月分の生活費が保証されるなら、それに専念したっていいのだけれど ・・・


(20021211-1) 日記 − 「ハリー」第2巻が なぜこれほど面白くないか

第1巻の英文は、慣れないながら − いや、あるいは慣れないからこそ − とても面白かった。訳文がよく検討されていると思ったのに比例して、原文をみて 「あっと驚く」ような表現であることが、何度かあった。

第2巻は、慣れてきたらしい。アメリカ語とは明らかに異なる表現も、「そこここにある」どころではない、文面のほとんど半分くらいはアメリカ語と異なるような気がしてきた。だから、それが面白くなってきても よさそうなものだが ・・・
なぜか、つまらないのだ。もちろん、1文の解釈に首をひねっている間に電車を乗り過ごし、2駅先から引き返す、という経験をしたのはつい今日のことだが、それは文面の解釈に気を取られていたからであって、作品が面白かったからではない。

理由を考えてみる。とりあえず、2つくらい思いつく。

第1に、第1巻ではハリーの新しい世界への旅立ち、新しい世界が、「ハリー」の視線から 「事実上の1人称」で展開されて、読者としても、それに 相当に 「自己同一化」することができた。読者はハリーと共に新しい体験をし、ハリーとともにその世界への認識を深めて行く。たくさんの謎もまた、読者はハリーと共に行動し、謎は解決されて行く (または深まって行く)。

第2巻には、この 「読者がハリーと共に行動し、認識を共有する」 面が、希薄なのだ。この世界の事情は第1巻で既に説明ずみなので、作者はときおり、第1巻を知らない読者のために、背景説明をする。これが、しばしば うざったい。地の文でそういう説明をすると、作者も人間、第2巻自体の展開も 「説明的」になって行く。もちろん、形式上はあくまで 「ハリーによる事実上の1人称」なのだが、それが、なぜか 「説明」の色が濃い、つまり 「描写」から遠いような気がする。第1巻で読者を既に手に入れた作者は、今度は次から次へと 「新しい」展開を持ち出す。その 「描写」が、どうしても 「お話」の 「語り」口調に落ちてゆく。例えば、いんちき教官のロックハートの最初の授業で、ピクシーたちが教室で暴れる場面。ここには、「ハリーによる視点」はない。まるで前世紀の 「春香伝」みたいに、作者はおおげさな形容詞で極端な場面を語る、つまり 「説明」するばかりなのだ。英語そのものに慣れていれば、母親の 「お話」が熱を帯びてくる場面にも相当する・かもしれないのだが、第1巻で 「ハリーと共に行動」してきたはずの読者には、これは、つまらない。

結果として、文面が 「事実上1人称」の 「描写」より 「お話」に傾けば傾くほど、映画か演劇のシナリオに近づいて行く。事実、映画の前宣伝には、「ロンの おうちの描写」が (原作と比べて)とても正確、などと書かれていて、原作自身の 「シナリオ性」が高くなっているのではないかと思わせた (ただし、飛ぶ車で線路上を走っていたら汽車に追いつかれる映画の場面などは、原作にはない)。

第2の理由としては、訳本の文面に、多少変化があることだ。
これは、訳本を読んでいるときには気が付かなかった。つまり、第1巻前半は実によく 「考えられた」訳文で読者を獲得したが、後半になるとやや生硬な、学生の訳文みたいなところが出てくる。それでも読者は、「一度 引き込まれているので」ついてくる。第2巻は、その延長上にある。
僕自身が原文の解釈に自信が持てない、読みきれないで困ったとき、訳本にあたってみる。なるほど、とは思うが、その訳文には、第1巻の前半で感心させられた 「配慮」のあとがみられない。どうも前半から、学生の訳文みたいに思える。こういう訳文は、「訳文解釈」を要する。読者は − 僕は − この 「訳文解釈」に慣らされたのではないか。原文を読んで、感動がない。語学面で、既に 「訳文解釈」という語学をさせられているので、同じ内容の「原文解釈」に、まったく新鮮さがないのだ。

というわけで、「ハリー・ポッター」第2巻は、次第につまらなくなってきた。が、今のところ、まだ持ち歩いている。つまらない心理分析の新書とか、役に立たないパソコン雑誌よりは、まだまだ 「面白い」とは言える。ただし、緊急に何か別の課題が発生すれば (例えば、水野さん、この作品どう思う? なんて、韓国の作品でも与えられたら) ハリーはお休みになるだろう。ご参考までに、今日時点では ロンの杖が逆噴射してナメクジを吐き出す場面、ハグリッドの小屋に行って、さらに3人はハロウィーンの大かぼちゃの畑を見せられるところまで、読んだ。作者の舞台回しは、やや速すぎるような気がする。が、既に背景を理解している読者に、作者は 「次から次へと」 話題を提供することに懸命なのだ。これが 250ページある中の 90ページである。


(20021210-1) 日記 − アニメ 「七人のナナ」

「誰も知らない」たぐいだ。9ヶ月前、つまり3月に、2年生になる前の7才が、東京でしかやっていない TVアニメを見ている中で、これの DVDがほしいと言った。その少し前、やはり東京でしかやっていない TVアニメ 「パワー・パフ・ガールズ」、これはアメリカもので 「東京でだけ」は多少話題になったようだったが、DVDも VHSビデオも出ていない (いや、出ていても追いきれない。アメリカではともかく、日本の東京では、TVの放映そのものが短期間で打ち切りになった。去年のクリスマスのサンタさんへの要求はこれだった)。一方、「ナナ」のほうは国産アニメ、DVDが予告で全8巻、結末まで出版を続ける約束になっていた。TVでは早々と後半部まで進んでしまい、数ヵ月後の DVDで 「そこはもう見た」と言っていた。が、いつの間にか TVは完結したか中断したのか、彼女の話題からは消えていた。その時点で、DVDは 「全8巻」のうち第4巻か第5巻まで出ていた。1巻が定価で¥5000前後、全巻そろえれば4万円を越える買い物になることは自動的に予測されたのだが、出し惜しみしつつ、結局 全巻そろえる結果になった。

話のあらすじ。ヒロイン ナナは中3の受験生で劣等生。でもクラスにあこがれの男の子がいて、その子が行く高校について行きたい。でも中3の彼女は、それを告白できない。両親はアメリカにいて、発明家のじいちゃんと2人で暮らしている。バレンタイン・デーのチョコを渡そうとする日、じいちゃんの発明のミス?で、電子レンジで 「7人」のナナが誕生する。「7」人なのは、もちろん虹の7色である。そこから、「本物のナナ」の受験生活、残り6人のナナの隠遁生活がはじまる。「両親はアメリカ」という背景は、少なくとも この時期の TVアニメで、他に2例ほどあった。「7人」のナナはコスプレで「ナナ・レンジャー」に変身して空を飛ぶのだが、これが 「5レンジャー」のパロディまたはパクリであることに疑問の余地はない。
さて、そのナナには、重大な恋仇(こいがたき)がいる。あこがれの男の子もまた、幼なじみの少女と同じ高校に行きたくて、志望校を決めていたのだ。その少女とナナとの、宿命的な出会い。受験までの長い道のり。その中間点で、ナナ自身の 「黒い」内心を反映する 「8人め」のナナが登場するが、それはすぐ消える。が最終 第8巻で、その黒いナナは強烈なパワーをもって、再び登場する。再登場した黒い 「ナナ」は、そのパワーで恋仇を抹殺する行動に出る。そして結末は、やや通俗で平凡なのだが、「受験って、自分自身との戦いだったのよ」という 「本物の」ナナの自覚によって、黒いナナが撃退される。
結末は、ナナは志望校に入れず、親友と同じ高校の入学式に。そしてその場に、あの・あこがれの男の子も現われる。
1年たてば 「7人」は再度 「1人」に収束するはずだったが、「7人」のまま あこがれの男の子とつきあうことになる点、そこだけは 「アニメ」のマンガ的部分として目をつぶらざるを得ない。

最終巻は、完全に小学2年生の理解を越えている。もし TVが最後までやったとしたら、彼女の話題からそれが消えた理由も、理解できるような気がする。
その中での挿話として、最終巻、「黒い」ナナの訪問で手に火傷を負った恋仇は、背後の説明で 「親から医者になることを要求されている。しかし本人は 『絵』 の世界に進みたい」こと、そのために彼女は、実は みずから熱湯を手にこぼして進学試験の受験を放棄しようとしたのだという − 彼女の潜在的な動機が説明される。なんだか、通俗で悲惨な話になっている。

ただ、「ナナ・レンジャー」というパロディ、それが大活躍する全8巻、それが 「小2」に受けた一方で、しかし 「黒い」ナナの存在とそういう深層心理の描写は、決して成功的であるとは思えない。「ゴ・レンジャー」のパロディで成り立つ 「ナナ・レンジャー」と、中3・高校受験の心理とは、一面 共通点があるような気がしないではないが、でも、まだ なんだか無理なマッチングだったような気がする。

李恢成の 『北であれ南であれ我が祖国』ではない、たしかその前、芥川賞受賞の後の作品の中で、妻との性交場面の描写が 「失敗」だったとする評論を読んだことがある。米軍基地周辺のアメリカ人の子どもたちをみて、朝鮮学校に通う子どもは、自転車の後の席から 「あの子たち、みんなミジェ(米帝)だね」という; それに対して父親は、「いいや、あの子たちはただのアメリカも子どもたちだ」と答える、作品である。あれは、なんという作品だったろうか。


(20021209-1) 日記 − 「ピーターパン」 3題

(1) TVの録画を誤って削除した話、「あるいは」 と思って、「窓の杜」を探してみた。「ごみ箱からファイル復元」というのがあるので、この触れ込みではダメかなあと思いつつ、試してみた。おいおい、きれいに復活、復元できてしまった:
http://www.forest.impress.co.jp/library/fukugen.html 「復元」
簡単な説明が、単なるテキスト・ファイルで入っている。実は Windowsの 「ごみ箱」から復元するのではない; ディスクの論理構造を追って、「削除済みファイル」の痕跡の、一覧表を出してくる。「窓の杜」 の上での触れ込みは 「素人向け」らしいが、中に入っている説明は、プロのソフト屋さんの書いた文面だ。まあ、感謝の意味で、上記にリンクを掲げた。

ただし注意書き: この種のソフトは、技術屋の楽しみ、「魔法」そのものだ。目的外に、余計なことをすると、痛い目にあう。テキスト・ファイルの説明にある通り、復元にもいくつか方法があるが、その・ある選択肢には危険が伴う。特に、「復元」を 「その」同じドライブ上でやろうとすると、重大なトラブルに出会うおそれがある。まして この場合のファイルは 600M もあるので、トラブル発生時の障害は痛いだろう。

「削除ずみ」というとき、つまり 600MBの空き空間がそこにあるのだが、その 「空き」には、実は 「削除」されたファイルの本体が重なっている。従って、「その場」に 「復元」するのは危険。この場合、「とにかく読み出せるだけ読み出す、その読み出したものは、他のドライブにセーブ (つまりコピー)」という方針で臨む。幸い、ソフト自身がそれを仮定していて、「コピーして復元」ボタンがある。コピー先は、LANのあちらの 隣の機械へ。これなら、失敗しても大丈夫。

もう1つ幸いだったのは、今度の場合、ファイルは 「録画専用」のドライブ上にあった (これは、実は同じ物理ディスク上の別パーティション 「ドライブ D」だが、それでも/しかし OSのファイル構造の上では別ものである)。おかげで、24時間 メールだ、FAXだ、時計合わせだ 何だかんだで常に書き込み・更新の発生している 「ドライブ C」とは縁がなく、「削除」された中身は、他のデータで上書きされることなく残っていた。

なんだかうれしくなった。さっさと CD-Rに書き込んでしまった。「復元」の結果は、最後の数フレームが失われたようだが、それは数分の1秒にすぎない。これは、ビデオでテープを交換している時間を考えれば、テープ交換に要する時間の1%未満ではないか。
まあ、うれしい。悲しいのは、ツマ子は、こういうのをわかってくれないことだ。

(2) 復元された ディズニーの 「ピーターパン」、 前半を見ていたら、奇妙な感じがした。2点、ある。

第1点。ピーターがやってくるウェンディの家の、パパの声。日本語吹き替えなのだが、これが − 「ハリー」の 「バーノンおじさん」(ダドリーのパパ) そっくりなのだ。ひょっとして同じ声優かと思うほど、同じような口調の、同じような声である。

第2点。これは子どものときから不思議に思っていたのだが − ディズニーのアニメは、絵の動きが 「おそろしく なめらかに」見える: 映画も TVも、「ディズニー」だけがコマ数が多いということはない。どちらも毎秒 24フレームだったか 30フレームだったかで、他の作品より多くすることなど不可能だ。それなのに 「ディズニーだけが」 おそろしく 「なめらかな」動きに見えるのは − 第1にはコマのすべてがていねいに作成されているらしいこと (数コマまとめて、事実上 毎秒数コマ程度ですませる類の手抜きが、ないらしいこと)、それに、例えば人の顔の縦横比などが自在に変化すること。これは 「千と千尋」などと比べるとよくわかるが、「千と千尋」で顔や体形が自在に変化するのは カオナシや湯婆ーば、つまり怪物たちだけである。もちろん 「マンガ」らしい強調・デフォルメはあるとしても、それはわずかな場面にすぎない。ところがディズニーでは、それが常に動いて、感情表現になっている。例えば (ディズニーでは) ウェンディは 「女はこうしろ、女はああしろ」と言われて、ぷんぷん怒って 「女はもう帰る!」と言うのだが、その間の彼女の顔も、体形も、タテ横に自在にふくらんだりちぢんだりする。結果として、「女はこうしろ、女はああしろ」と言われて怒る彼女の 「立ち居振舞い」が、実に 「女らしい」(やや強調しすぎなくらいの) 「シナ」を作っている、のだ。

もちろんそれは、「大人になりたくない」年ごろの彼女だからこそ、強調されたのかも、しれない。しかし、それはディズニーの 「白雪」でも同じで、幼い白雪の身体の動きは実になめらかで、見方にもよるが、「妖艶」と言ってよいほどではなかったか? ディズニーの白雪の場合、小人の小屋に到着するやいなや、実にかいがいしく、女らしい 「シナ」のある動作で 「女の仕事」を開始する。実はディズニーこそ、その昔 「ウーマン・リブ」のターゲットになるべきだったと思う (実際、なったかもしれない)。
(しかし、お城のお嬢様が、実は下女の仕事を本当にしたのか、できたのかという疑問、そこから先は、最後には 白雪は小人たちの 「夜伽(よとぎ)をする」ことを条件に滞在を許されたのだという、倉橋由美子の主張に帰結する。いや、それは余談の余談)

(3) 「ハリー」の出版社名は、くどいようだが Bloomsbury (ブルームズベリー)、それはピーターパンのウェンディたちの家のある地名だそうだ。

「ハリー」の話題で、「ピーターパン」があからさまに出てくるのは、TVでも見たことがない。でも、どこかで、ひそかに つながっている。TVが 「ピーターパン 100年」と急に言い出したことも、逆に 「ハリー」の話題では 「決して」 ピーターパンが出て来ないことも、それは 「深い水脈でつながっている」からではなくて、実は 「すぐ隣の井戸」だからではないか。
「ハリー」第2巻では、ハーマイオンの活躍は 「化け薬」があるが、かんじんの対決場面では、彼女はとうの昔に眠らされている。第2巻は、第1巻より 「お話」口調が強い。なんだか、ハーマイオンはピーターパンのウェンディであるような気もしてきた。

そういう連想から、「ピーターパン」のヒロインはウェンディであるが、ピーター自身は 「環境である」。もしその言い方が当たっているなら、「ハリー」のヒロインもハーマイオンであり、ハリー自身は 「環境である」。

残るのはロンの意味だが、これについては 「ロンは純粋種の魔法使い家系、ハーマイオンはマグルの中にただ一人出た魔女」、それがハリーの両親の関係に一致することを、既に指摘した。あるいは − 厨子王の背後霊みたいに彼を見守るのが安寿であるとすれば − ハリーを見守る (死んだ)両親のクローンが、ロンとハーマイオンでもありうる。もしそうなら ・・・ ハリー自身とその仇敵との関係が究極的に 大きな循環劇であり、さらに そのハリーの両親が、ロンとハーマイオンに重なってくる。話の構想は複雑だが、しかしいずれ、何か 「入れ子」の関係をなす 「循環」になりそうな気がする。

まあ、どうでしょうね。
第2巻は、まだ 1/3 まで読んでところ。ようやく植物学の 「マングローブ」の授業がはじまる (驚いたことに、TVの予告で2年生が知っていた。早くも 「ハリ・ポタ」チョコのおまけカードに、これが出た)。


(20021208-3) 日記のおまけ − 「我が家」 の パソコン環境

こんなところですかね:


・TVの録画は、左の機械で。必要なら CD-Rに書き込む。
・この録画は 「ハードディスク共有」してあるので、右の機械で直接再生できる。
・プリンタは左にカラー、右に白黒。互いの機械から「共有」する。
・「ISDN電話交換機」は、昔の 「ISDNルーター」だが、ルーター機能は殺してある。それでも、左右のパソコンのどちらからも 通話記録を見ることはできる。
・「ADSLルーター」経由でインターネットへ。外からのアクセスはここで遮断する。なお 「電話」は ISDNなので、このアナログ回線には電話機がつながっていない。
パソコンは、「今」の先端機種と比べると見劣りする。が、実は 左で CD-R 24倍速 書き込み中に、同じファイルを 右で再生しても、まったく問題がない。唯一、CD-R 書込み終了直後に 「書込んだファイルと書込み元ファイル」の比較に入るとき、右の機械では一瞬 「立ち止まり」が見られる。
だから、「ピーターパン」も、変な心配しないで、素直に 「1枚目」、「2枚目」と書いていれば、あんな錯覚をすることもなかったのだ。

(20021208-2) 日記 − ピータンパンはちょうど 100年

だ、そうだ。TVで放映するというので、録画した。録画されたのを見ると、あらら、2時間番組で前後にくだらないバカ騒ぎがついていて、まったく興ざめ。せめて、前後のバカを切り取って CD-R 2枚にまとめる作業をしたのだが ・・・

悲しい。作業を誤って、前半のデータを失ってしまった。原因は、まったく僕のオペ・ミスである。
隣の機械では LAN経由で 前半を見ているので、まず後半を CD-Rに書き込んだ。続いて、2枚目を書くときに − このとき錯覚が起きた。「2枚目」だから、疲れた頭と手で、自動的に また! 「後半」を選択したらしい。24倍速、快調。続いて、ハードディスクを占有しているファイルを削除。削除してから、「2枚め」が、さっきと同じものであることに気がついた。もう、回復の手段はない。

回復の手段は、本来は、ある:
・削除されたファイルは本来、実は 「ごみ箱」に残っている。
− しかし僕は、「ごみ箱」に何も残さず、「即・完全削除」の設定をしてある。
・昔なら、DOS時代の Undelete というコマンドがあった。が、Windows 2000/XP には、もう ない。
− DOS時代の 「起動ディスク」(フロッピー)を見てみようか ・・・ と思ったら、あ、そうか、僕はもうフロッピーのドライブ自体を、機械から取り去ってしまったのだ。
Windows 98の機械に火を入れれば、手段はあるかもしれない。でも、もう・いやになった。なんだか涙が出そうなのだが、子どもみたいに、対策を講じるより、放置して泣いていたい気分なのだ。
MicroSoftさん、「ごみ箱」には 「N時間後に完全消去」といったオプションをつけてくださいな。N時間後なら、あきらめもつく。今ある姿の設定では、「手操作でごみ箱を空に」、さもなければ 「永遠に成長し続けるごみ捨て場」ではないですか。市場で (ユーザの手元で)ハード・ディスクが満杯というケースの、まず8割くらいは 「ごみ箱」が満杯なのではなかろうか。

ところで、ディズニーのアニメの前後の 「バカ」部分で、「ピーターパン」の原作は 1902年、ちょうど 100年なのだと言っていた。なるほど。童話の 「名作」がそれ以後 「ない」 としたら、次は 「ハリー・ポッター」が その 「100年に一度」の作品なのか。冗談でなく、その可能性はある。イギリス人じいさん研究者の 「ハリー・ポッターは古典となるか」 という表現、とても示唆的だ。ただし、その 100年の間には 「ピーター・ラビット」も 「クマのプーさん」も、まあ出てはいる。ちがいは、「ピーター」と 「ハリー」が最終的には長編・大作の構造をなしている点。かつ、「ハリー」は未完なので、残りの数巻の途中で破綻しないことを期待しよう。今はまだ第2巻を読んでいるが、第2巻にはまだ、「ハリーの視点から(のみ)展開描写される、長い事実上の一人称」が まだ出て来ない。どこまでも 「舞台回し」型、映画の描写型の説明が続くので、やや退屈になってきた − いや、正確に言えば、ハグリッドに連れられてダイアゴン横丁を歩く場面 (第1巻)も、ロンの飛ぶ車でホグワーツに行く場面 (第2巻)も、同様に 「事実上の一人称」ではあるのだが、第2巻には 前のような新鮮さ、感動がない。どちらも、あくまでハリーの視点からの記述でありながら、第2巻では展開が多少 「恣意的」に、「説明的」に感じられるのだ。この傾向が続くと、作品は 「大人」が読むに耐えないものになる。

「退屈でない」作品とは、英語でも朝鮮語でも、「話者=読者」が一体となる、つまり 「事実上一人称」の語りに、読者が自己同一化してゆく(行ける)作品なのだろうと、僕は思う。その意味であれば、「ハリー」の舞台回し型の説明より、「小人が打ち上げた小さなボール」や 「サラン(バン)のお客様とお母さん」のほうが、面白い。少なくとも後2者は、「怪力乱神」の類、超自然の力による 「解決」に頼らない。あくまで少年と少女の目の高さから、彼らの懸命の考えと行動が示されてゆく。従って読者もまた、カエル・チョコも飛ぶ車も期待せず、ただ 話者の認識による現実世界の中で、話者とともに行動する (自己同一化する)ことになるからだ。


(20021208-1) 日記 − 基本書は絶版、しかし増補版が出ていた

友は持つべきもので、友人が、問題の本の改訂・増補版 (韓・中・ベトナムが追加されているらしい) が出ていると教えてくれた。英文は既に出ていて、日本版がいま予約受付中だという:
http://www.oreilly.co.jp/reserve2/
きのう、大騒ぎを書いたのがウソみたいだ。
ただし、上のページ、Netscapeでは見えない。MS-IE でないと 「中身、空っぽ」にしか見えない。こういうページは、実に多くなってきた。

なお、それでも、この本を読む数段 前の段階で、大学または大学院以上、ただし いわゆる 「純然たる文系」 の、それも外国語専攻で、パソコンで対象言語を扱わざるを得ない人たちのためには、僕自身の次のページが、必ず役に立つと思う。書き手の意図は、読者が 「パソコン専門家」になる必要はないが、専門家たちの間では 何が議論されたのか、その 「専門家」たちは 「言語」の専門家ではないので、何が不十分なのか、それを知った上で 「対象言語」を扱ってほしい、という点にある:
http://www.han-lab.gr.jp/~mizuno/com/code1.html パソコン・ノート (文字コードの話)

(20021207-1) スプーンは曲がらなくてよい、基本書を絶版にしないでくれ

このところ、22年前の恩師が今になってパソコンと本気で取り組みはじめ、大量の質問を送りつけてくださった。それはすごくうれしいのだが、こちらもアップアップしてしまう。この先生の場合、まずパソコンに慣れない上に、パソコンで使われる大量の隠語が、わからない。困ったことに、先生は言語学者であり、百科全般、知らない単語が出てくると、まず辞書を調べてまわる。それでもわからないと、「それは術語か」、それとも あなた(水野)の特別な言い方か、と来る。うーむ、先生、それは 「隠語」、業界または知ったかぶりパソコン・マニアの 「俗語」です ・・・ とかなんとかやっている間に、止むを得ない、ついに 「文字コード」 と 「フォント」 の関係を 理解していただくしかない、という結論に、僕は達した。

そこで、先生に勧めた本は、次である。上のは原本英文、下のがその日本語版。著者は日本語を熟知しているアメリカ人のようで、Macの 「ことえり」開発に関与した人だと聞いたことがある。「日本語」処理をうたいながら英文で本が書かれたのは、それが著者の母語だからだろう。訳書の著者序文には漢字名が 「(小林剣)」と併記してあるが、これは、訳者の一人が 「春遍 雀来」(ハルペン ジャック)さんであることから想像しても、著者が 「日系」であると想像する根拠は何もない:
Ken Lunde, "Understanding Japanese Information Processing",
日本語副題「日本語情報処理」、O'Reilly & Associates, Inc., Sept 1993 1st Ed.
ISBN 1-56592-043-0

Ken Lunde (ルビ: ケン ランディ)、『日本語情報処理 』、
ソフトバンク株式会社 出版事業部、1995.8.25
ISBN 4-89052-708-7
この本を読んでくだされば、文字コード論の基本的な意味がわかる。それを期待して、恩師には勧めたのだが − さすがは我が師、書店から Amazonから、調べ回った; 驚くなかれ、もう絶版で手に入らないという。「コンピュータ関係」の本である以上、古本屋に出るのも まず絶望的だ。しかたがない。不肖の弟子は、我が家を探した。やっと、日本語版が出た。これを、師にさしあげることにする。英文は、僕自身の志向と嗜好、先生の嗜好も考え、僕が持つことにする。

この本は、表面上 「日本語」を掲げている。が、その内実は、ISOの各国語コーディング原則からはじめて、その1適用分野である日本語 JISコード系と、そのバリエーションである EUC、Shift-JIS、それに いくつかの (昔の)コンピュータ・メーカー独自のコード系などの説明と、その周辺の詳細な資料が並んでいる。事実上、ISOコーディング系の解説書であり、「日本語」はあくまで その 「例」であるにすぎない。少なくとも僕の知っている限り、原典 (ISOの規格そのもの、JISコードの規格原本)を除けば、「これ」が唯一の、手軽な、正確な解説書だった。まさか、それが絶版などと ・・・ 驚愕とは、こういうのを言う。この本程度の内容を理解していなければ、大学の情報処理学科の最近の論文だって、理解できない、書けないはずなのだ。

この本以後、世の中は Unicode騒ぎに突入した。パソコンの話題の流行も、そちらにむかう。主として Windowsでは 「内部的には」 Unicodeだ、Unicodeだと騒がれ続けた。が、その 「内部的」処理を正確に理解している人に、僕は会ったことがない。もちろん僕自身、説明もない Windows 「内部」の処理など、理解できない。実際の運用の中では、少なくとも Windowsのアプリの中で 「多言語」が可能だということになっていて、それを 「テキスト」セーブするときに、伝統的コード系 (ISOコード系、そのバリエーション、あるいは ISO外の破格のコード系など)の知識が必要になる。将来的にアテにならない MicroSoft製品のファイルで・のみ文書を保存するならともかくとして、将来的にも、あるいは今現在の Windows以外の機械に転送する目的でも、それに − 眼前の課題として − Web上で諸言語を扱う場合にも、一度は 「伝統的コード系」に戻す必要が、(少なくとも今は)ある。その「伝統的コード系」の、「語の全(まった)き意味における」 教科書が、なくなってしまったのだ。

ソフトバンクさんは、よい。そこに、古典的教科書を維持してくれと言うのは、ユリー・ゲラーに 「箒を曲げよ」と言うに等しい。
が、O'Reilly & Associates, Inc.、オー・ライリーさん、おおい、どうしたの。30年ものの Emacsの解説書は維持しても、ISOコーディング系の解説は維持しないんですか。それは、ダンブルドアがハリーを裏切るようなものでは、ありませんか、ねえ、オー・ライリーさん。

なお、この本を読む 「前座」として、つまり予備段階の講義として、僕は僕自身の ある研究会での講義テキストを、恩師に紹介しておいた。それは、「この」サイト内である:
http://www.han-lab.gr.jp/~mizuno/com/code1.html パソコン・ノート (文字コードの話)
これでも、先生は まだわからない部分があるとおっしゃる; 言葉使いが、「パソコン大好き」人間にはわかっても、「完全なカタブツ、言語論そのものだけの人生 60年」の先生には、抵抗が強いのだ。裏返せば − 大学で朝鮮語専攻の教授、それで定年退職した教官が、これほど苦労している; ならば、「普通の人」である 「あなた(わたし)」に、「多言語」系の わけのわからなさは、当たり前ではないか。
原理的にはよくわからない。でも、どうにかパソコンでハングルを使えている人は、その意味では安心してもよい。僕自身、Windows上の 「多言語」は ナゾだらけなのだ。

では Macでは? Macは、Mac上で動く MicroSoft製品 (Wordと MS-IEの類)を別にすれば、Macの 「多言語」環境は、今でも 「伝統的」 ISOコーディング系とその拡張で成り立っている − はずである。Windowsを使い切れず挫折したが、何かの機会に Macを使って、以来 「嬉々として」 Macで多言語環境を使ってきたという 大学教官を知っている。それ以来、彼自身、Windowsを断固排除して、誰かに問われれば有無を言わせず Macを買わせてきたという。その話を聞いたのも、もう、5年か7年か前の話ではある。


(20021206-1) 日記 − スプーンが曲がるなら箒だって曲がるはずではないか

あれは、いつごろのことだったろう。スプーンの首を曲げることのできるアメリカ人 「超能力」者がいて、日本までやって来て TVに出た。今でも、当時は子どもだった (今ではじじいか)ミニ超能力者たちが複数いて、俺はスプーンの首を曲げられるぞと、TVに出ることがある (あった。少なくとも過去3年以内の間に一度、見た)。

なんだかおかしいなー、と思っていた。なぜ 「スプーン」だけなんだろう? フォークじゃいけないのか、箸はなぜ曲がらない? さらに、では ゆで上がったスパゲッティをすくい上げる木のフォークのようなスプーンのようなやつ、日本の台所の 「おたま」や菜箸では、なぜ いけないのだろうかと。
これについては、梅図かずおが、見事な回答をしてくれた。ある日 (ある週)の B5全面 1枚漫画で、妻は夫の目の前で、竹の柄の箒をくるくると丸めてみせる; あなたがそんなこと言うなら、ほら、私だってこの程度のことはできるのよ。
そう。スプーンの首を曲げるのが超能力だなんて、おかしいと思っていたのは僕だけではない。やっぱり常識こそよりどころであって、スプーンが曲がるなら竹の箒だって曲がるはず、従って竹の箒を曲げられない 「超能力者」なんて、ただ、あれだけなのね。

「ハリー・ポッター」を読みながら、今になって気がついた。
ロンの おうちからダイアゴン横丁に行くのに、香料を暖炉にふりまきその炎に飛び込めば移動できるのであれば、では、彼らは別に汽車に乗らなくても、空飛ぶ車で汽車を追わなくても、ロンの おうちから暖炉に飛び込めばホグワーツにも行けるはずじゃないの?
やっと、オカルトの原点?に戻ったのか、素朴な疑問に戻ったような気がした。

そんなこととは関係なく、「ハリポタ」は社会現象になりつつあるらしい。地下鉄の駅のホームからあのポスター群は消えたが、裏返せば もう宣伝の必要さえなくなったのかもしれない。

それにしても不思議なのは、原文のテンポの速さ。いや、正確に言うと、訳本を先に読んでいるので、それに対して原文のテンポの速さに驚かされるのだ。
不思議に思って、訳本と対照してみた。駅で汽車に乗りそこねたハリーとロンが、飛ぶ車でホグワーツの 「暴れ柳」に衝突するまでの、物理的なページ数。訳本では、6ページ弱。原本では、3ページ強。だいたい、倍と半分である。活字の大きさ、行間、ページあたりの文字・行数というのはあるが、それにしても、原文は訳本よりはるかにスピード感がある。結果として、「暴れ柳」に衝突したとき、ハリーの頭には 「ゴルフ・ボール大」のたんこぶができたことを、訳本の読者は記憶していないだろう。

原文のスピードだと、この 「ゴルフ・ボール大のたんこぶ」という一言が、ある意味を持っているように思えた − つまり、そういう極端な形容をすることで、作者は 「これはお話なのよ、現実の描写じゃないのよ」と、ひそかに言っているように、僕には思えたのだ。飛行中の、雲の上に出たときの感動、セスナで地上に戻るときの臨場感にも近い描写、それらが速いペースで展開された末のことなので、この 「ゴルフ・ボール大のたんこぶ」という表現が、急に印象に残るのだ。(まったくの想像だが、雲上の景色は、作者の飛行機体験でしょうね。夜間にホグワーツ城に接近するわずかな描写は、これは作者自身が、セスナ 172級の小型機に乗った体験を物語るような気がする。ただし、接地直前で急にラフに、極端になるので、彼女自身がセスナを運転するわけでは、おそらく、ないと、僕は感じた。しかし、少なくとも彼女は、離陸より着地のほうが難しいことを知っているらしい)

訳本には、もちろん 「ゴルフ・ボール大のこぶ」と訳してある。訳してあるが、それは安全第一の長い訳文の中に埋もれてしまう。訳本だけを見ていると、おそらく記憶に残らない。この本が童話でオカルトで荒唐無稽な架空の話であることを、訳本は忘れさせる効果を (結果的に)もっているのじゃないかと、思った。

いや、ただ、それだけ。


(20021205-1) 日記 − 「翻訳者」のひそかな楽しみ

「まいったなあ、もう」 というやつである。
「ハリー」第2巻の原文を読んでいたら、こんなのが出てきた。こりゃもう、すげえな。「訳者」たちの 「お楽しみ」に属する。みんなバラしちゃえ。
ハリーたちの新学期の教科書のリストだ。そのうち、いんちき新任教授の著書名だけ、左は原語、右は訳本。この対照で、この訳語が 「訳者」たちのお楽しみだったろう (いや、逆に 「苦労した」と言うかもしれない) ことが、きっとわかってもらえるだろう:
Break with a Banshee き妖怪バンシーとのウな休日
Gadding with Ghouls ールお化けとのールな散策
Holidays with Hags 婆とのツな休暇
Travels with Trolls トロールとのとろい旅
Voyages with Vampires ンパイアとッチリ船旅
Wanderings with Werewolves 男とのいなる山歩き
Year with the Yeti 男とっくり一年
訳文を見たとき、「何か韻を踏んでるのだな」とは感じたが、おいおい、こういうことだったのね。カンの悪い方は、左辺の大文字が全部同じであることに注目。つまり、これは 「頭韻」を踏んでいるのですね。そいつを、こういう訳語に置き換えるの、楽しかっただろうなあ ・・・ やった当人は、何日も何日も考えた末に、こういう句にしたにちがいない; それは、当方もおカネにはならないといえ 「同業者」だから、とてもよくわかる。

もう1つ、ある。
ロンの おうちからダイアゴン横丁に行くとき、ハリーは呪文を誤ったらしくて、ダイアゴン横丁の隣の 「夜の闇 (ルビ: ノクターン) 横丁(よこちょう)」 に出てしまう。「ノクターン」横丁? 普通の読者なら、「ノクターン: 夜想曲」だと思うわよね。僕だってそう思った。「シンフォニー: 交響曲」、「コンチェルト: 協奏曲」だ。「夜の闇」が ノクターンなら、そこそこ含みのある、それらしい名前ではないか。ところが − 原文は 「ノクターン: Knockturn」 なのだ!

職場の読者家いわく、「そりゃ "ノックアウト横丁" と訳したほうがいいんじゃないの?」と。僕なら? 「叩けよ、されば開かれん闇の魔術」 横丁?
まあ、「ハリー」の訳者たちも、訳者だけに許される 「ひそかな」遊びを、楽しんでいることはわかった。

なお、「泣き妖怪バンシー」は、この巻の中盤の展開の伏線になっている・のかもしれない。ハーマイオンはこのいんちき教授の著書をみんな暗記するが、同時に、あの女子トイレの幽霊少女が、それなのかどうか。まあ、あわてないことにする。


(20021204-1) 日記 − Gnomeは RedHat Linux、「朝鮮語の小説を読みたい」意識

職場の読書家 − であると同時にソフト屋 − に聞いてみた: 「ぐのーむ」って、どっかの Linuxに入ってなかった?
彼は、うむ、とうなづく。2人で記憶をたどる。そうだ、RedHat Linuxのユーザ・フロントエンド、つまり ウィンドウ型ユーザ・インターフェースの名前が GNOME だったような気がする。「それがどうした?」。ええ。「ハリー」第2巻の、ロンの おうちの、「庭小人」が gnome なのよ。彼、あえて形容すれば 「おいおい、またかよ」という表情で、多少 笑ったようだった。
残念ながら、映画では、ロンの おうちは 「とても正確」に描写されるが、「庭小人」は出てこないそうだ。

未知の方から、メールをいただいた。朝鮮語の小説を読みたい。しかし、語学面で自信、あるいは体力がない。世代的に、僕より わずかに上の方なので − それで思い出した: 学生だったころ、僕は学生主催の市民向け 「朝鮮語講座」の講師をしていた。その講座の受講生のほとんどは 「社会人」で、しかも僕よりトシが上だった。そのまた半数以上が、在日朝鮮人 (あるいは韓国人)だった。
あれから、もう、30年にはならないが 20年以上には、なる。あのころの在日の・当時の青年から、時代を越えてメールをもらったような気がする。

だいたい、紙に文字で書かれた本の、それも 「小説」を読みたいなんて、時代の趨勢に反する。それでも、過去から残されてきた 「作品」たちにこだわるのは、今や大学研究者くらいのものだ。その世界に、正当であれ不当であれ・それなりに敬意を感じ・あこがれ・それを自分で読みたいと、あがいたり 聞いてまわったりする、そういう 「興味」の方向が 「青年」たちに見られたのは ・・・ やはり 1970年代までだったろう。80年代に入ると、「韓国」はオリンピックに向けて動き出す。まだ、良くも悪くも 「小市民」の内面を描く作家は、韓国にはほとんど出ていない。「朝鮮近代」 または 「現代」の文学論は旧態依然で、結果として、バブル期を経験しつつある日本では 「もっとも人気のない分野」の1つになった。(そのころ、僕は韓国への留学を中断して帰国、就職、アメリカへの出入りと、僕自身の生活もめまぐるしく変化しつつあったのだっけ)

でも、そのころも、「小説を原文で読んでみたいが、語学的に自信はない、ただ一人で、体力的にはそうとうに無理」と感じている人はいたはずで、だから、70年代後半にも、自然発生的な 「読書会」が生まれていた。そういう話は、ここ 10年くらいの間は聞いたことがなかったのだが、でも、こうしてメールをいただくことがある。僕は、そういう仲間を集めて 「読書会」でもしませんかと、答えてみた。
興味のある方は、僕あて、あるいは http://www.han-lab.gr.jp/~cham にある数人の誰かあてに、メールでもくだされば幸い。ついでに、www.han-lab.gr.jp のトップ・ページにある 「掲示板ですよ」にも、同じことを書いておいた。

「ハリー・ポッター」の原文を 僕が面白いと感じるのは、あくまで・どこまで行っても、第1には 「言語」的な興味と、第2には 作品としてのプロッティングの構造にある。従って、おそらく (または 100% 確実に)、いま現在の 「ハリ・ポタ」マニアあるいは有名人たちとは 「話が合わない」だろう。だから、僕はその社会とつきあう意志がない。僕の最大の関心は、「ハリ・ポタ」が これほど多くの読者を引き付けているのに対して、では なぜ 現代の韓国の (北朝鮮の) 作品が 「読者を引き付けない」のか − その理由の多くは、技巧面、つまりプロッティング構造にある。と同時に、言葉とは何か、言葉によって・のみ・作り上げられる (文字通り)「虚構」が、「ハリポタ」ではどう実現されて行くのか、裏返せば、韓国・朝鮮の作品が なぜ そういう 「完全な」 虚構を組み立てられずにいるのか、ということだ。

でも − ぶっちゃけた話 − そういう完成度を持つ 「ハリ・ポタ」を読み進めるのは楽しい。
もし、同じ 「楽しさ」、あるいは 「読者を引き付けてゆく」何かを 朝鮮・韓国の作品に求めるのなら ・・・ 今のところ、僕は 1930年代の 『サランのお客様とお母さん』と、70年代の連作 『小人が打ち上げた小さなボール』の、その表題作、この2つしか、挙げることができない。もし僕が、仮に自然発生的な 「読書会」に勧める作品を選ぶなら、この2つしかないだろう − それは、僕の 「日記」を見ていてくださる方には、想像できることかもしれない。


(20021203-1) 日記 − house-elf, xxx-self, wives

昨日、「ハリー」第2巻の 「屋敷しもべ妖精」の原語が house-elf で 「不思議」だと書いたが、少し先を読むと、今度は 「庭小人 gnome(s)」 が出てきた。これはどうも、この種の 「へんな生き物 creature」 一般が fairy (fairies) で、ただし fairy となると 「可愛い、護身ペット」的な要素(ニュアンス)が出てくる可能性があるな、と。
英語に慣れた人が この作品を 「読みにくい」 (わけのわからん魔法用語が次々に出てくるから) と言っていたのは、このあたりに関連するのかもしれない。

読み進めると、あらら、複数形が出てきた: house-elves。どっちにしても、どう発音するのだろう。辞書を見るのが面倒なので、おそらく how-self, how-selves みたいな発音であろうと想像しておくことにする。こうして綴りを入れ替えてみると、単語の 「意味」の周辺、何か手がかりになる、ヒントのようなものが得られる・ことがある (これは朝鮮語でも同じだ。そもそも、僕は朝鮮語の長編でそれを覚えたのだ)。
どうでもよいが、gnome という単語も、Linuxかどこかのソフトに出てくる。Wizardは MicroSoftさんまで使っている。この他、「魔法使い」 には sorcerer と sorceress もあって、これが wizard と witch と互いにどういう関係になるのか、それに 「魔法」は magic と wizardry と witchcraft、いろんな言い方があって、さっぱりわからんが、ま、よい。

「複数形」で思い出したこと。
アメリカ。深夜。職場で仕事をしているソフト屋がいる。電話がかかってくる; 彼は電話を取ると、長々としゃべっているが、どうも 「いやいやながら」 電話につきあっているらしい; 彼は、ソフト屋にめずらしく(?)、結婚して子どものいる技術者である。長い電話のあと、受話器を置くと、彼はため息をしながら、小さな声で 叫んだ (「叫んだ」という表現がおかしければ、「つぶやいた」): Wives !
僕がどんなに笑い転げたか、おわかりかしら?

「英語では」、「その種」のもの(人)「一般」を意味するとき、「複数形」を使う。「ハリー」の house-elf が house-elves と表現されるのも、(ハリーから) ドビーの話を聞いたロンの双子の兄たちが、「あいつら」一般を説明する中である。
世の中一般、「女房」って、困るんだよなあ ・・・ と男たちが言いあうとき、それは 冠詞 the なしで wives、とくる。カンの良い方は、もうわかったかしら?
彼は、仕事に熱中してるのに、かあちゃんめ、ダンナに電話してくる。彼らの感覚では、かみさんからの電話をおろそかにはできない。へたすると離婚されちまう (事実、離婚歴のあるソフト屋は、ほぼ例外なく 「帰宅が遅い」、嬉々として仕事してきた連中だ)。だから、「いやな声」じゃなくて、うれしい、やさしい声で応対しなければならない。長い電話になる。やっと終わったら、ダンナも ほっとする。
よっ、ほーい、聞いたぞ、お前さん、複数のワイフ multiple wives がいるのかい!
バカいえ、女房は一人しかいないぞ。
だって、お前、いま Wives ! って言ったじゃないか
まてまて、俺は一般論として 「女房ども」と、複数 plural で言ったのだ
いやいや、お前さん、たしかに Wives って言ったぜ。
だからだなあ、一般論として plural で ・・・
どうも、失礼しました。
やはり、「?十年」 の朝鮮語に、飽きているのかもしれない。そうでもなければ、「英語」がこんなに 「面白い」はずがないのだ。


(20021202-1) 日記 − 「外国語」の衝撃

この場合、英語のことである。
朝鮮語歴 「?十年」はともかくとして、はじめてアメリカに行ったのは 31才のときである。そのとき、「最後の英語歴」つまり受験英語以来、既に 12年が経過している。このときの 「英語」の衝撃は、大きかった。
例えば、話者は会社の社長、その妻はその会社で、夫の秘書である、という前提で次の英語を聞いた場合、あなたは 「不思議な感じ」がしないだろうか?:
My wife works for my company.
うちのかみさんは、うちの会社で働いてるんだ。
不思議じゃない? なら、あなたは英語環境での生活経験のある人かもしれない。
僕には、不思議な、「衝撃的な言語体験」だった。だって、自分の女房でしょ、その人、自分の秘書でしょ、自分の会社でしょ? それなのに、この場合 「おれの女房、うちのかみさん、俺の秘書」が、3人称単数(の現在形)で 「働いている」のだ。

西洋語一般でそうだが、「人称」の区別がきびしい。1人称現在の英語なら am, are, is、おフランス語なら suis, es (?), sont ・・・ ではじまる初級の最初の時間が、大人には死ぬほど退屈でつまらない。だから 「外国語はむずかしい」のだが、だからこそ、ほとんど強制的にこの練習を中学くらいでさせてしまうのは、その意味で正しい。だから、「主語」が何であるかによって 「人称」が決まり、それによって動詞に変化があることは、18才からの受験の時まで、頭にたたきこまれている。そして、より複雑な・怪奇な・高度な言い回しを覚えさせられて、やがて英語の小説なんか読まされたとき、「歴史的現在」 つまり 形式上過去だが実は 「現在」だというのに出合って、ほっとする − 過去形になると、ほとんどの単語に 「人称」の差がなくなる (正確に言うと、「人称」の差はあるのだが、表面上まったく同じ形・言葉になる) からだ。

さて、恐縮、また 「ハリー・ポッター」、ただし第2巻の序章。上とまったく同じどころか、その上を行く例に出会った。これは、訳本からはまず復元できそうにないところだ:
      'Oh, yes, sir,' said Dobby earnestly. 'Dobby has come to tell you,
    sir ... it is difficult, sir ... Dobby wonders where to begin ...'
    (イギリス版 "Chamber", paperback p.15、太字水野)
「はい、そうでございますとも」 ドビーが熱(ねつ)っぽく言った。「ドビーめは申(もう)し上(あ)げたいことがあって参(まい)りました ・・・ 複雑(ふくざつ)でございまして ・・・ ドビーめはいったい何から話してよいやら ・・・」
(訳本 p.21、( )内はルビ)
ヤボだが解説しておきます:
話者は 「ドビー」自身だが、この話者は 1人称単数の代名詞 I を (基本的に)使わない。話者は自分自身を名前で Dobbyと呼ぶ (子どもが 「わたし」、「あたし」、「ぼく」、「おれ」と言わず、自分自身を 「XXちゃん」、「XXくん」と呼ぶのと、同じだろう)。ところが、人名というのは、機械的に 「3人称」である。いきおい、まともな英語なら 3人称現在の動詞形は、1人称と異なる。上で太字にした2語が、それである。話者である 「ドビー」は、自分自身のことを3人称単数でしゃべっている!

まあ、それだけなんですけど。すみません。

念のため、英語文脈の中では、たとえ子どもであっても、自分自身を I と呼ばず名前を言うなんてことは、多くない。ここはちょっと特別な場合のようで、そのせいか、Dobby はこの後の発話でややブロークンな英語をしゃべる (例えば They lets とか、they reminds とか、ははは)。ま、そういう 「破格の」英語を含めて、きっとこの 「屋敷しもべ妖精」は可愛いのだろう。不思議なことに、「屋敷しもべ妖精」の原語は、単に (Dobby the) house-elf である (fairy または fairies ではない)。「この子」がかわいいから、ハリーは彼からいくつもの迫害を受けながら、この巻の最後で彼を解放する行動に出る − ただし、映画にそれが表現されているかどうかは、僕はまだ知らない。ただ、それはこの巻の中で 「入れ子」になる謎(たち)のもっとも外側のものなので、映画にもそれが表現されないと 「映画」は終われないだろう − つまり、映画もそれで終わるのだろうと、想像はするのだが。


(20021201-1) 日記 − 非・読書・録

岩波新書 701、石田晴久 『新パソコン入門
「ヒマつぶし」 のつもりで街の雑誌売り場のパソコン雑誌、それも 「初心者むけ」ないし 「みーはー」ものを買って職場に行くと、「水野さん、どうして そんなの買うんですか? 知り尽くしているのに」。その手の雑誌に出る程度のことは、たしかに 「知り尽くして」いるかもしれない。でも、知らないのは最新商品の情報とか、何が 「流行」なのか、だ。「ひまつぶし」のつもりなのだが、過去2ヶ月くらい、買っただけで 「読んで」いるヒマなどない、そんな状況が続いた。思い切って、ほとんど捨てた。この本は 「その代わり」になるかと思ったが − 事実、知ったかぶりの編集者のせりふではない、一応 「質」の保証のある本である。が、なんだか・あまりに・「最近のパソコンユーザ」を意識して、必要以上に 「やさしく」説明しようとする意図が見え見え。「わかるかどうかというのは、概念を理解できるかどうかなんです」と 30年前に言った、言語学の教官の言葉を また思い出す。そういう 「むやみな」 「やさしい」説明志向だと、たとえ石田センセの本でも、「概念説明なし、ほら、こんなにやさしいでしょ、すばらしいでしょ」という印象を与えているのが、まったく不満。その一方で、前「パソコン」時代、つまり 8080 8ビット・マイコンの時代を説明する章があるのだから、本の読者層の想定に、基本的な無理、あるいは矛盾があるような気がする。これなら、いっそのこと サトウサンペイの解説本のほうが、具体的であるだけ いいかもしれない。その中間で、ASCIIの 「Z式」? と称する解説本シリーズがあって、「これが一番わかりやすい」と言った朝鮮語の有名な先生がいらっしゃる。が、この本、もう店頭には出ていない。この分野の本は、神保町の古本屋にも決して出ない。

岩波新書 651、小林信彦 『現代 <死語> ノート II - 1977〜1999 -
無作為に、P.100 「一杯のかけそば」、P.199 「カリスマ美容師」。おまけとして 1945-1955 がついていて、こちらは 「一億総懺悔」から 「神武景気」まで。

Bloomsbury, J. K. Rowling "Harry Potter and the Chamber of Secrets "
今をときめく話題の映画第2作、その原作。1作目は読んだので、原作と訳本と映画、3つの関係はだいたい予想がつく。TVでも映画の 「さわり」の引用がだいぶ増えてきたので、映画では第2作も大きくプロット変更があるらしいと予想できた。ただし、最も重要と思われる部分に触れる場面は、決してTVでは見せないらしい (例えば、決闘の後半、ハリーが 「ヘビ語」話者であることが判明するはず。そのことから、ハリーこそ悪のスリザリンの後継者ではないかと疑われる場面など。なお、スリザリンの紋章が 「蛇」であることは、既に第1巻で明らかにされている。TVのさわりでは、「秘密の部屋」の入口に蛇のレリーフがあるところまでは見せている)。
が、週末、ツマ子のメンテの後に、では読んでみようかという気になれない。また、ヒマな電車の中で読むか。今までのところ、わずかに数ページ、子どものアトピーの皮膚科の順番待ちの間に読んでみた。まだまだ退屈で、どうにもならない。


(20021130-1) 日記 − 中野重治とハリーポッター

僕の日記の 「ハリーポッター」騒ぎに業を煮やした(?)のか、友人が新刊の紹介を送ってくれた。

中野の詩 「雨の降る品川駅」には、朝鮮人をさして 「日本人民のまえ盾、うしろ盾」という句がある。この 「まえ盾」が問題で、つまり日本人は朝鮮人を盾に権力と戦うのか、朝鮮人は捨て駒にすぎないのか、という議論になる。(なお、中野のこの詩には、林和 (先日の松本清張 『北の詩人』の主人公)から 「答詩」にあたる作品がある)

この詩には、発表当時 一部 「伏字」があったらしい。戦前の、例の 「検閲」だ。「まえ盾」議論の延長で、それを復元しようとする動きがあったが、作者自身 原文はなくした、もう忘れたと言ったという。ところが、作品は発表3ヶ月後、朝鮮語に訳されて植民地下の朝鮮で、伏字にもならず発表されていた。これを見つけたのは、今も京大にいる水野直樹 (僕と同姓だが、親戚ではないのであしからず。面識はある)。この朝鮮語訳から、原詩を復元して、水野は (まだ生きていた)中野に、直接質問したという。作者も認め、その復元が定着したのが、1975年らしい。

さて、友人の送ってくれたのは、新刊、11月に出たばかりの本の序章だ:
鄭勝云 『中野重治と朝鮮 』、新幹社、2002.11.15、¥2000+税
序章によれば、著者は問題の詩を中心に、そのまた特にその復元個所を問題にして、ハングル古字体で書かれている朝鮮語訳を日本語に復元する際、読み違い、つまり誤訳があるという。この誤訳の有無で、詩の中で流れる 「血」は、テロリズムによる (被害者である)天皇の血と解されたり、朝鮮人民の 「温かい」血と解されたり、するらしい。
中野重治、30年代プロレタリア文学、といった世界が、今でも話題になるのに驚いている。

次。ハリーポッター。
先日の長い引用で、その後 気がついた点が1つ。

この作品の語り口は、作品冒頭では 「舞台回し」型、つまり映画のような情景描写ではじまり、次第にハリーの内心へと、さらにあくまでハリーの視点から (「事実上の1人称」で)ダイアゴン横丁が展開されるが、第1巻全体としては あくまで 「物語」の語り口、つまり 「お話し」口調になっている。先日引用した長いパラグラフの最後の部分、再度 引用しよう:
      'Oh, right!' said Hermione, and she whipped out her wand, waved it, muttered
    something and sent a jet of the same bluebell flames she had used on Snape at the
    plant. (...)
    ("Philosopher", paperback p.202)
「あ、そうか!」と、ハーマイオンが杖をひょいと取り出し、何か言いながらそれを振ると、スネープの時と同じあのブルーベル色の炎が、植物に向かって吹き出した。(・・・)
(訳本の該当部分は p.408)
「the same bluebell flames she had used on Snape / スネープの時と同じあのブルーベル色の炎」。
実は − ハリーに 「呪いをかけている」と信じられたスネープに近づき、そのローブのスソに火をつける場面は、ハリーはもちろん、ロンも見ていない。その「炎」が ブルーベル色の青い炎であったと知っているのは、作者つまり話者と、読者、それにハーマイオン自身だけなのだ。つまり − 作者は、ただ読者とだけ秘密の事実を共有していて、ここでは ハーマイオンが 「あの」炎を使ったのよと、ひそかに 「読者に」語りかけている。子どもに添寝しながら、お話を聞かせる、あのやり方である。「ずるい!」、うまいな、と思う。

この作者は、1つの作品中で、映画のような舞台回し口調も、ハリーの内面に即した 「事実上の1人称」も、こうした 「話者と読者の秘密の関係」も、自在に使い分ける作者のようで、ある。彼女の語り口のうまさは、どうもそこにあるらしい。もちろん、「素人」がそれをやると (素人作品が、しばしば こういう 「視点の不統一」という幼稚なミスを犯すのだが)、「作品」はただの作文になる。小学生の 「お話作り」がそれである。が、この作家は、半ば意識的にか、あるいは無意識になのか、この 「視点の移動」をあざやかにやって行く。そして全体としては、あくまで 「童話」の、「大人が子どもに話して聞かせる」作品になっている。

だから、早くも第2作の原書には、幼い読者からの (作者あて)ファン・レターが付いているのには驚いた。


(20021129-1) 日記 − 中継翻訳その後 / ハリポタ第1巻おわり

韓国からは、問題の商品の扱いに関して営業面・技術面にわたって長い苦情メールが届いた。発信者が会社経営者なので、余計なあいさつ言葉を省いて 「その話題だけ」に集中してくれた。その意味では、順調なすべり出し。
日本語に訳して、日本側に転送。同時に、発信側にその旨を通知。後からみると、あらら、発信者側への返信に、相手の人名の綴りをまちがえている: yong と yeong なのだが、ハングルでは見た目からしてぜんぜんちがう ・・・ うーん、ごめんなさいね、僕はやっぱり日本人・日本語ネイティブだから、韓国語は外国語で、夜中の発信となると、この程度のミス・スペルをするんです。

「ハリー・ポッター」の第1巻の原文 (イギリス版英語)、やっと読み終わった。物語作者(話者)の 「視点」の自在な移動と、その移動の程度の 「許せる」範囲と 「許せない」範囲、そんなことを、とても考えさせてくれる作品だった。まあ、それはゆっくり話し続けたい気持もあるし、「ハリー・ポッターなんか、いい加減にしろ」という声が聞こえないでもないし。
第2巻にとびこむかどうか − 訳本が 「限りなく安全第一訳、ときには余計な補足付き」の訳であることがわかってきたので、一面うっとおしい: 各巻の冒頭・末尾は必ず現世からの脱出、現世への復帰なので、訳本のそのあたりは やや退屈になる。その印象が残っていて、原文にとりかかるのに、妙に、「しょうがない、読むか」という 「決意」?が必要なのだ。さて、どうしよう。


(20021128-1) 三者間通話、メールの中間通訳

昔から − といっても、ISDNが実現してから後のことだが − うまくいかないのは、「3者間での電話」だ。アメリカにはじめて行ったころ、僕が不満をぶちまけ、アメリカ側の社長、日本側の社長、この3人で 「3者間通話」をしたことがある。それ以後も、会議の代わりに数人がスピーカーの前に、相手は電話で、という形態だったり、はたまた純然たる 「3者間」通話だったり、何度か経験してみたが、これはうまくいかないものだ。

最近 「流行」になりかけて、しかしちっとも普及しないのも、インターネット経由の 「TV会議」だ。例えば画面が4つに割れて、その1つに自分、他の3つに会議の他の参加者が出る。マイクとカメラを前に 「会議」する。これに目をつけた 「英会話」学校があるのもご存知の通りで、しかし あれが営業的に成功しているとも思えない。

これが 「声」だけの 「電話」だと なおさらで、ちっとも 「会議」にならない。たいてい一人は黙り込んでしまうので、他の2人も話しながら、ときおり 「おい、誰それ、聞いてるか?」と、なる。そりゃ、1対1の電話でさえ、「おい、聞いてるのか」 なんてやるわけだから、「3者」でうまく 「会話」が進むわけがないのだ。

さて、
水野さん、韓国からの問合せが来ているのだが、相手は日本語わからない、こちらはもちろん韓国語わからない、英語で話をしてみるのだが、まったく要領を得ない、と、相談された。水野さん、通訳に入ってもらって、「3者間通話」で通訳してくれないかと。

うーむ、これは難しい。通訳を使い慣れた人ならそれもよいが、普通の人は、「相手」に話さず 「通訳」に話しかけてしまう。こうなると最悪で、「通訳」は議長兼書記長でもなければ、まったくお手上げだ。講義の講師なら、それでも 「受講者」の顔を見てしゃべるものだが、「電話」で 「こう訳してくれ」、「こう伝えてくれ」と言われるのでは とても 「通訳」にならないのだ。通訳を使うということは、通訳は透明な存在だと割り切ること、つまり本当の相手にむかってしゃべるのだということを理解しないと、「通訳」を使うことはできない。政府閣僚級ならそういう態度を取るのも慣れているだろうけれど、「一般人」には それがとても困難なことなのだ。

何なら、俺あてにハングルでメールを送ってもらえば、訳して転送しようか、と言ってみた。
すぐ反応があって、さっそく日本側当事者から韓国側当事者へ、英文で、Ken Mizunoあてにハングルでメールを送ってくれと。

実は、これも かつて一度 試みた。あんまり うまく行かない。メールを書く当事者が、「誰あてに」書けばよいのか、迷うのだ。未知の/初対面(というか、初メール)の相手にメールを書くので、すっかり 「固まって」しまう。初動期がうまく動かないので、結局 流れて行った。

今度は、だからその英文のメールの後を追って、「韓国人を相手にして、問いただす」式の書き方で質問を書いてくれ、そしたら俺が訳して日本側に転送するからと、ハングルと英文で送信しておいた。
が、どうかなあ。相手は韓国人だから、それでも 長い長い初対面(?)の挨拶からはじめようとして、ぎこちなくなりそうだなあ ・・・

バベルの塔を建てようとした人類に神は腹を立てて、人々をたくさんの言語で分断したそうだ。昨日まで 「おーい、石、縛ったぞ、上げろお!」と叫んで進みつつあった工事は、ある日完全に停止する。グルジア語と朝鮮語とタミル語とバスクとアイヌ語が混在するのだ。

おかげで、DVDにはいくつもの言語が収録される。それでも足りないと、香港まで行って別の言語のを買ってくるやつがいる。もうかるのは、はて、誰でしょう。もちろん、グルジア語と朝鮮語とタミル語とバスクとアイヌ語が入っている DVDというのは、ない。「ハリー」も 「指輪物語」も、日本語と朝鮮語(韓国語)が同居する DVDはない。


(20021127-1) 英語の 「かけあい漫才」?

文脈は、「ハリー・ポッター」 第1巻、笛で3つ頭の犬を眠らせ、3人が穴に飛び下りた直後、木あるいはツタがからみついてきた場面。やや長いが、ごかんべん:
      'Stop moving!' Hermione ordered them. 'I know what this is - it's Devil's Snare!'
      'Oh, I'm so glad we know what it's called, that's a great help.' snarled Ron,
    leaning back, trying to stop the plant curling around his neck.
      'Shut up, I'm trying to remember how to kill it!' said Hermione.
      'Well, hurry up, I can't breathe!' Harry gasped, wrestling with it as it curled
    around his chest.
      'Devil's Snare, Devil's Snare ... What did Professor Sprout say? It likes the dark
    and the damp -'
      'So light a fire!' Harry choked.
      'Yes - of course - but there's no wood!' Hermione cried, wringing her hands.
      'HAVE YOU GONE MAD?' Ron bellowed. 'ARE YOU A WITCH OR NOT?'
      'Oh, right!' said Hermione, and she whipped out her wand, waved it, muttered
    something and sent a jet of the same bluebell flames she had used on Snape at the
    plant. (...)
    ("Philosopher", paperback pp.201-202)
「動いちゃだめよ!」と、ハーマイオンが指示を出した。「知ってるわ。こいつ 『悪魔のワナ』っていうのよ」。
「おう、名前がわかったとはけっこう、そりゃ大変助かるわ」とロンはうなり、首に巻きついてくるツタを押さえようとしてのけぞった。
「うるさいわね。どうしたらやっつけられるか、考えてんのよ」と、ハーマイオンが言った。
「早くしてくれ! もう息ができないぞ」とハリーが、胸に絡みついてくるツタと戦いながら、かすれた声で言った。
「悪魔のワナ、悪魔のワナ ・・・ キャベツ先生、なんて言ってたかしら。これは暗闇と湿気を好み ・・・」
「なら、火をつけろ!」と、絶え絶えな声でハリーが言った。
「そうなのよ − でも、焚き木がないのよ!」と、ハーマイオンは手を揉みながら叫んだ。
お前、バカか」と、ロンが声を上げた。「お前、魔女だろ、魔女!
「あ、そうか!」と、ハーマイオンが杖をひょいと取り出し、何か言いながらそれを振ると、スネープの時と同じあのブルーベル色の炎が、植物に向かって吹き出した。(・・・)
(訳本の該当部分は pp.407-408)
何が言いたいかというと、(1) 訳本を読んだ中で、この部分がまったく記憶になかったこと。 (2) 訳本だけの読者にも、同様に記憶にないらしいこと。しかも、 (3) 訳本に再度あたってみると、きっちり、しっかり、全文がきちょうめんに訳してあること、の3点である。まして "Yes - of course - but there's no wood!" (わかってるわ、でも焚き木なんかないわ) なんてマのぬけたせりふがあったなんて。

記憶から消えて行ったメカニズムは、2通り考えてよい:
(1) 映画では、彼女の杖が呼び出すのは太陽の光である。呪文も、はっきりと唱える。
(2) 本では、ここは最終章 間近で、話のテンポがおそろしく速い。訳文にも読者は慣れて、とっくの昔に 「斜め読み」をはじめている。一方訳文は、決して冒険をしない、安全第一訳になっているので、ある種のインパクトに欠ける。結果として、「石」にたどり着くまでのいくつかの 「部屋」の記憶は、早々に薄らいで行く。
次に考えたこと。
生意気で皮肉屋であるハーマイオンに対して、ロンはしばしば、こんなささやかな皮肉を返す。この 「急な場面」では、それが連続する。「お前、バカか」 というのは、ぴったりの訳語だと思った。「安全第一訳」だと、決してこういう訳文は出てこない。その一言を 「訳して」みたい気持があった。

誰でも気がついているはずだが、彼女に 「皮肉」を返すのは、ロンだけである。この 「急な場面」の中では、ハリーは既にリーダーになっていて、(作者は) 彼にこういう言葉遊びをさせるわけにはいかない; ハリーは今や誰よりも冷静に、立派に、勇気をもって行動しなければならないのであって、この危急な現場でハーマイオンと口喧嘩しているわけにはいかないのだ。
言い方を変えると、「たたかい」の現場で 「交流」を深めるのは、ブレーンたちであって、指揮官ではない。ハリーは指揮官である。ブレーンは一人の生意気な魔女と、それに反発するもう一人の幼い魔法使いと。つまり、この2人が、「主人公とヒロイン」と呼ばれてゆく初期の過程が、この第1巻で展開されているらしい。

さらについでに、誰も記憶していない (僕も読みとばしていた)のだが、この後、飛ぶ鍵の部屋、チェスの部屋 (映画ではハーマイオンはここで去る)、大トロールの部屋をすぎ、最後のアリスの7本の子瓶の部屋で、別れ際に、ハーマイオンはハリーに 「抱きつく」 (訳本でも、しっかり訳してある)。これは、原文で再度読んでみて、もう1つの 「驚いた」点だった。普通の映画なら、決して省略されないだろう場面だ (『風と共に去りぬ』のポスター、ご存知ですよね。スカーレットを抱いたレットの姿)。抱きついてから、はじめて、彼女は例の 「私は、がり勉なだけよ、あなたは立派な魔法使いだわ」というせりふを残して、戻る。彼女の尊敬は、あくまでハリーに向いている。

しかし ・・・ そういう 「厳密な」 読み方をしておいたとしても、第2作 (今やっている映画)では、彼女は、いんちき新任教官に 「ぼおっ」となる(はずである)。女の心はわからんのだと、作者は言いたいのかね。

いずれにしても、ロンとハーマイオンが 「主人公とヒロイン」だという言い方は、もしそれが可能だとしたら、「反発し、皮肉を言い合う」、いわゆる奇妙な関係の主人公とヒロインだろうなと、このあたりを読みながら考えた。ロンは、この先も (あるいは永遠に) 三枚目役である。だが、彼と彼女がハリーの 「環境」を作っていることは、まちがいがない。

今日 最後の余談。
ハリーを残して、ハーマイオンはロンを救い、寮に帰るはずである。これに 「皮肉」 をいう読者がいて、「あんな通り道を、どうやって帰るんだろう」と。これも、原作には謎解きがある; 訳本にもちゃんと訳してある: アリスの7本の子瓶の1つを選んでロンのところまで帰ったら、あの飛ぶ鍵の部屋にある箒に乗って、3つ頭の犬の部屋まで帰れ、犬の頭上を飛んで、フクロウ小屋へ、そこからダンブルドアに手紙を出せと、ハリーが指示しているのだ。訳本のその部分を記憶している人は、少ないだろう。でも訳本にも、しっかり訳されていた。
(ただし、この退却の最後の経路で彼女たちは、急ぎ帰ってきたダンブルドアに出会うことになる。これも、映画にはない、原作のダンブルドアの説明でわかる; そこだけは、訳文だけで僕も記憶している。第1巻の原文は、あと 10ページ+ほどになった)

この作品の場合、「単語の1つ1つを追って行かざるを得ない」原文を読んでみようと思ったのは、正解だった。いろんなことがわかった。僕自身、「水野さん、すっかりポッタリアンになっちゃったんだ」とも、言われた。
そう。少しばかり、深入りしすぎたような気はするが。

でも、朝鮮近代文学で、ここまで深入りさせてくれる作品は少ない。むしろ、あの世界では、フィクションより ノン・フィクションのほうが、「朝鮮/韓国」に 「のめりこむ」機会を与えてくれる。それに対して、西洋ものは、虚構である 「作品」自身がそういう魅力を持っていることがある − それは、売上が証明しているのだから、抵抗しようがない。それは事実なのだ。
なお、「ハリー」以外にそういうのはないかというと、ある。職場の彼は、『指輪物語』の訳本を読みながら、電車の駅を数回 降りそこねて、3往復したそうだ。


(20021126-1) 今日の日記 − PCI / ハリポタ原文と訳本の印象差

Windowsに縁がないので 「できあい」のソフトがない、「PCIブリッジの先」のメモリ・ボードは、ようやく PCIネゴが動いたらしい。その検証に最後の1ステップで この空間を読んだつもりだったが、やはり Memory Faultを起こして、一瞬 暗くなった。そのまま宴会に誘われていたので、どうしよう ・・・ と言っている間に、あ、そうか、最後の検証で 「読む」ためのポインタそのものを間違えていることに 気がついた。やれやれ。安心して、宴会、つきあう。帰宅 24時。

その帰りに 「職場の読書家」と、また話。「ハリー」 第1巻の最終章の手前から、急にテンポが速くなる点は、彼も気がついていたらしい。印象は、僕の場合とよく似ている。まして、そのあたりでの ロンと ハーマイオンの 「かけあい」漫才みたいな部分が、訳本では二人とも 非常に記憶に薄かった点、これも一致する。僕はこのあたりの原文をみて、「主人公はロンとハーマイオン」説に同意しつつあること、原文を見ていない彼には説明してもわからないこと、など 「確認」しつつ、今日は別れた。少なくとも、「ロンとハーマイオン」こそが特別な関係に発展するだろうという 「伏線」は、既に第1巻から用意されていたことになる。そのあたりは、また明日。


(20021125-1) 今日の日記 − PCI / ハリポタ 映画と本の印象差

PCIのネゴがやっと動いた。Memory Faultを起こすので、これはそもそも動かないのかもしれないと あきらめかけて帰ろうとしたのだが、その前にあと1つ、実験をやってみた; 動いた。あららあ、コンパイル時点で特権ユーザ・オプションを与え、その上で、実行そのものは root ユーザでなければいけないのね。
いわゆる 「Unixそっくり、でも Unixとは異質」な、市場の 「リアルタイム OS」での話だ。昔、言葉としては流行した 「リアルタイム Unix」、今なら 「リアルタイム Linux」ならわかっていただけるか、それに類するものである。機械そのものは 「Windowsマシン」 つまり 「パソコン」とまったく同じものだが、工場に入る都合で 姿・形が異なる。そこに、Windowsとはおよそ縁のないハードウェア・ボードが追加されていて、これを 「PCIコンフィギュレーション」を経た後に 使わなければならない。

僕の 「仕事」は、そういったものだ。これで困るのは、子どもに 「お父さんの仕事って、なに?」と聞かれて、即答できないことだ。だいたい、この世界の仕事は、親戚・知人・友人・近所・学校で説明しても、わかってもらえない。仕方がないので、「工業用のコンピュータのソフト屋」ですませることにしている。

行き帰りに持って歩いている 「ハリー・ポッター」 第1巻。やっと最終章、ハリーが笛を吹いて3つ頭の犬を眠らせるところまで届いた (映画では、ハープが既に鳴っているが、本ではハープはもう鳴り終わっている)
最終章の一歩手前あたりで、映画、訳本、原本で、大きく印象がちがってきた。原文を読む側が慣れたのかもしれないが、結局 「ピーターパン」を思い出させるような進め方だ。不思議に思って訳本を見ると、あらら、ひどいわね: 訳本のこの最後のあたり、だいぶ生硬な訳文が出てくる。翻訳は、一般に作品冒頭では慎重で、読者を放さないために、「読みやすさ」に力点が行く。一度読者を引き込んでしまえば 「こちらのもの」で、後半になると多少 生硬で不自然な訳文が出ても (程度問題だが)、読者は案外読み通せるのだ、結果としては、作品導入部の印象が強くなる。
が、原文のこのあたり、読みながら僕は 「童話の」 ピーターパンを思い出した。あの強引な展開、ある種の軽薄さ(?)。(ただし、「ピーターパン」の原作そのものは おそろしく退屈で、僕は訳本の数ページも読まずに放棄したことがある)
まあ、わからないけど − 英語は 「専門」 じゃないので。


(20021124-1) 松本清張と 「ハリー・ポッター」作者の技巧、対比

ふと思い出したのが、松本清張である。朝鮮がらみでは、『北の詩人』 という作品がある。植民地期の詩人・児童文学 (例えば、子ども向けの詩)、かつプロレタリア文学の理論家である 林和 (作品中のルビでは 「リムファ」、現代 「北」の表記をローマ字転写すれば rim-hwa、南の伝統表記では im-hwa)が、「解放 (1945) 」後、南から事実上追われて 「北」にわたり、さらに朝鮮戦争の直後には 「北」で アメリカ側のスパイとして処刑される、その公開された裁判記録をもとに、小説にまとめたものである。

念のため、この作品には異議を唱える人が多い。ただ 「北」から出た裁判記録だけをもとにまとめたこの作品では、読者に、あまりにも誤解の余地が多い、という理由からだ。僕自身は、ただ 「北」の公式発表である裁判記録 「だけ」をもとに、これだけの作品 (文庫で厚さ 15mmほどか、一見 「中編」程度の長さ)にまとめあげる作家の 「ウデ」に、感動に近いものを覚えた。「アメリカ帝国主義」の手先として、無味乾燥の法律用語?で組立てられた 「原作」裁判記録に対して、作家は、おどろくような vividな、つまり 「生き生きとした」描写で、その間の 林和の行動、考え、事件、成り行きを語って行く。これを 「文学における想像力」と呼ぶのだなと、当時、ある種 感動的な思いをもってこの作品を記憶したのだった。

松本清張の作品(群)自体は、それほど多く読んだことはない。読んだのは数えるほどしかない。ただ、作品名を忘れたが、継体天皇だったかどうか、ゾロアスター教、奈良の酒舟 ・・・ その一連の発掘を扱った作品で、作品中に Hyper Egypt Centric な歴史観と、Hyper Korea Centric だったかの歴史観、といった皮肉が語られる、その作品を、やや明瞭に記憶している。
記憶が明瞭である理由は、2点ある。1つは、それが古代史での 「朝鮮」との関連を扱っていること、もう1つは、その前後に読んだいくつかの作品 (それらは、今や完全に忘れた)と、おどろくような・顕著な類似点があったことだ。

日本古代史での 「朝鮮」との関係に、僕は関与する意志はない。つまり、それは、「文学屋」にはどうでもよいことだった。もしそれに語弊があれば、「それは個々の作品の、個別の関心分野」なので、文学 「一般」の (技巧の)問題ではないと言い換えることができる。

しかし、第2点、松本清張の作品群には、顕著な・共通した特徴があった。いわゆる 「偶然性の導入」である。この作家には大量の作品があるが、当時僕が接した 「数えるほどの」作品ですべて共通していた。確率の問題だが、この少数のサンプリングで 「顕著」に現われたそれは、別の作品にも現われる。それが数回続けば、もうそれ以上 「検証」する必要を感じなくなる。

誰でも知っていることかもしれない: 彼の作品は、ある偶然から事件がはじまり、その事件の謎解きに当たる人物が、主人公となる。主人公はその謎解きに駆け回り、あらゆる文献と事実を調査した後に、さらに深い謎に出合ってゆく。これ以上、もうわからない、これでもう謎は永遠に謎のままで終わるかと読者も観念するころ、再び、話題で言えば3つも4つも前の話題、謎の入口で出会っただけの人物との 「偶然の」再会が、必ずやってくる。例えば、謎ときに現地に赴き、絶望的な思いで帰ってくるその列車の中、飛行機の中、あるいは空港で、謎ときの機会となる 「前に出てきた」人物がそこに再度現われる。謎は再び解明の機会が与えられ、話はその解明にむけて再開される ・・・
僕の読んだ限りの彼の作品で、それは共通していた。ただ1つだけ、『北の詩人』だけは例外だったのだが、しかしそれは、「小説」を読む前から僕は 問題の 「裁判記録」を知っていた、つまり事前に 「謎解き」の経路を知っていたので、 それが少しも 「偶然性の導入」だと感じられなかったのだろうと、今は思う。

さて。
商業ベースで大量の作品を書きつづけた (書かされてきた?) 松本清張に対して、「ハリー・ポッター」シリーズの作家は 「新人」であり、出世作が事実上 「処女作」である。たしかに、第1巻の展開の速さ、枝葉の削り方(推敲の末に省略しただろう説明)など、原文を読みながら感じている。その展開が 「うまい」のも事実で、それは売上が証明している。
問題の 「偶然」の使い方、それも、ある意味では松本清張のやり方、うまさとも共通しているような気もする。ただし、重大な差が1つ、ある。清張の世界は、常に 「現実」である。だが 「ハリー」は、常に 「非・現実」であること。数日前に書いたように、「ハリー」の世界は 「非・現実」である分だけ、作家の恣意でどうにでも変化させることができる。が、その恣意による説明と偶然が度を越えるとき、読者は去って行く。今のところ、読者はまだ去らない。むしろ、「ハリポタ現象」は これから本格化するらしい。

清張になくて、「ハリー」にあるのは、「深い入れ子」の関係をなす伏線とその解明の構造、のような気がする。松本清張の多作ぶりからいって、作者は、作品の将来 (または最終)構成を、開始時点で想定することは不可能だったのではなかろうか。だからこそ、謎を提示した後、その解明はいずれ 「どこかで」やらざるを得ず、その機会としては 「偶然」が多用されることになる。一方 「ハリー」は、その構造は事前に想定・決定されている; 読者は、作者が出し惜しみしつつ・少しずつ出してくる解明の過程を、じれったく待たされる − 処女作家のくせに、実に 「うまい」作家なのだとは、僕も思う。ただ − そのすべての 「解明」に7年かけると言われたとき、本当に読者がついてくるのか、どうか。その7年の間、市場の話題が むしろ、ろくでもない/無意味な/オカルトな 「魔法ごっこ」に終始するとしたら、多少悲しいような気がしないではない。


(20021123-1) 物語の 「主人公」とは何か/「ハリー」と「安寿」/韓国版の訳本

今日の TVは、極端かな、「ほとんど一日ハリー・ポッター」だった。前宣伝がいろいろあったので、映画の様子は見当がついてきた。その TVの、ある場面では、主人公3人組へのインタビューまで出た。そのうち ロン役への質問が − 「ロンがハーマイオニーとつきあうことになるんじゃないかって?」 役者自身はそれを望まないのどうの、というのだが、
これは微妙な話になってきた。TVでもそれが話題になってきた、ということは、ハリーがクィディッチの試合で相手側の選手の女の子に顔を赤らめるのは、第2作だったっけ?
ヒンのない TVは 「ハリーの下半身」の話題などと言っている。が、さすがに、ハーマイオンの初潮がいつやってくるか、なんて言い出す TVはないみたいだった。

日本に在住するイギリス人評論家が 「主人公とヒロイン (ロンとハーマイオニーのことだが)」 と、さりげなく書いていたこと、それは訳本の読者には想像もつかない表現だったこと、を、前に書いた。それから、では 「安寿と厨子王」の 「本当の主人公」が 厨子王ではない、安寿だと教える 「国語」の先生に出会ったことは、書いただろうか?

安寿は、作品の中盤で 「入水」する、つまり自殺する。それを背後に/背景として、厨子王は奴隷の身分を逃れ、やがて母親と再会して 物語は終わる。その厨子王の背後には、「背後霊」じゃないがその種のカゲとして常に安寿がいる。だから、物語の本当の主人公は安寿なのだと。

「主人公とヒロイン」はロンとハーマイオンだと英国人評論家がさりげなく書いたとき、僕は 「つまり、ハリーは環境なのだな」 と考えた。ハリーの存在によってのみ、架空の魔法空間とホグワーツが出現することができる。その中で、「主人公とヒロイン」 は話を展開して行くわけだ。
もしそうなら、「安寿と厨子王」の場合は、やはり逆だ。あくまで 「陽動」するのは厨子王で、安寿はその背後に霊のように (または本当に霊として)控えている。だからこそ 「本当の主人公は安寿」なのだと、あのとき 「国語」の先生は言っていた。ここでは、「主人公」こそが 「背景」であり、「環境」である。

しかし、「文学」研究者一般の感覚は世界中でだいたい共通するはずだと仮定すると、どうも具合が悪い。英国人評論家が 「主人公とヒロイン」はロンとハーマイオンだと言ったとき、「主人公とヒロイン」とは 「環境」を作っているもの、という意味だったのだろうか。それなら、説明はつく。その2人という 「環境」の中で、陽動する側のハリーが、第2作までは活劇を展開して行く。厨子王の行動がすべて安寿の監視(?)下に展開するのと同じように、ハリーの活劇も この2人によって(のみ)支えられて行く − そう考えることが、できる。この解釈であれば、2人のうち ロンは 「純血」種の魔法使いの家系、ハーマイオンは 「マグルの中に一人だけ出た」魔女で、これは、実はハリーの両親の関係に、見事に一致する − そうか、書きながら、今 気がついたところだ。

この種の感覚は、「直感」の連鎖だ。韓国の小説の 「読書会」でも、似たようなことがあった。日本人たちは、韓国の作品解読にどれほど慣れても、それは どこまでも 「語学的な」解釈に頼ることになる。一方、ネイティブ・スピーカーたちは それを母語で、生で読んでいるわけで、同じ文面を読んでも連想がまったく異なることがある。その時の作品では、韓国人の一人が、ふと 「このあと彼は自殺する」だろうと言った。え? その場にいた韓国人たちは、ほぼ全員がその印象に同意した。が、その場にいた日本人たち − 全員が朝鮮語小説の 「解釈」には慣れている − は、誰もそこまで 「読んで (読めて)」 いなかった。そうか。原文脈の中では、それが暗示されているらしい。その暗示されたものに思いが至る外国人読者というのは ・・・ 基本的には 「ほとんど いない」 と考えていい。一面、僕自身にそれが読めないことを、「くやしい」と感じる瞬間である。

文学に限らない、言語学の友人が既に言っていたことなのだが、「原文には、何か、我々にはわからない ある(種の)記号が含まれているのかもしれない」。だから、単語の辞書的解釈、文面の解釈をどんなに 「精密」にやっても、読み取れないものがあり・うる。その友人の場合、専攻は最終的に 「対照」言語学である。余談だが、「比較」言語学は 歴史的、系統的、影響・受容・変形の過程を追って、その 「系統」論を展開する。「対照」言語学とは、そういう歴史的な背景とは関係なく、2つの(あるいは3つの)言語間の、主として外形上の差異、類似、「対照」を扱うものである。

「ハリー・ポッター」の一連の訳本への不満は、今となっては、「あまりにも読みやすい」点にある。まれだが、原文にない説明が補われていることがある。おそらく (まず間違いなく)集団翻訳で、その中で最大の善意が動員されているらしいことを認めるが、その一方で、「原文を見た、この訳文おかしいぜ」という指摘をおそれるあまり、安全第一、決して冒険をしない訳文の連続になっている点が、最大の不満になってきた。裏返せば、僕が原文の 「解読」に困ったとき、絶好の解説書として機能してくれる、そういう訳本である。

もう1つ、余談:
「ハリー・ポッター」シリーズの韓国版を、教保文庫で検索してみた − おどろいたな、第1巻から既に上下2冊ずつに分かれ、第4巻はそれだけで4冊になる。既刊全部あわせて総 10冊、W 58,400 である。
韓国で出る西洋の翻訳本は、悲しいけど 日本語訳の焼き直しが多い。が、時間的に、「ハリー」は日本語訳から焼きなおす余裕はない/なかっただろう。とすると、これは英文から直接 (日本語訳を参照せず)訳されたものかもしれない。さて、買ってみようかどうか、考えているうちに 1日が過ぎた。


(20021122-1) 「言葉の価値」 への補足

典型的で、知っている範囲で一番 激しい落差のある例をあげよう: 「共産主義」という言葉。

少なくとも 1970年代までに韓国内で育った、その時期まで子どもだった韓国人たちの場合、この言葉には、反射的な 「恐怖」があるはずだ。よく聞く話として、彼らの感覚の中で 「共産主義」者にはツノが生えていて、キバが出ているかもしれなくて、自分たちを取って食らうような存在であるという。
その 1970年代から、「北」では、こんな言い方がされていたはずだ: 「我が国は社会主義革命の段階をすでに完了し、いまや完全な共産主義社会に突入しつつある」。
「北」のこういう言い方は、日本の中でも相当な反感を買った。北の内部事情に詳しい人であればあるほど、北の現実がそれとは遠いことを訴えていた。それを言う人にしてみれば、冗談やめてくれ、北が今や最終的な共産主義社会になりつつあるなどと ・・・

注目してほしいのは、日本でそう 「北」を批判する人と、「北」自身の言い方の間では、「共産主義」という言葉の 「価値」は同じである点である。つまり彼らの共通点は、「共産主義」社会とは人類が究極的に到達するべき楽園である、という前提。対立点は、現実の 「北」がその楽園なのか、逆に地獄なのかという点であって、「共産主義」社会という理想そのものは完全に一致している (はずである)点である。
38度線または休戦ラインの南側では、その 「共産主義」という言葉自体の、「意味」が異なる。それは仇敵であり自分たちの存在そのものを脅かすものであり、従って 「低級」であることを越えて、ツノが生えキバをむき出しにして挑戦してくる、脅威でありつづけてきた。それを排除し破壊することにこそ 「価値」がある、つまり 「共産主義」という言葉自身には、強い、「積極的な」 マイナスの価値が与えられている。

もう少し微妙な例としては、日本語文脈の中での 「朝鮮」、「朝鮮人」、「朝鮮語」という言葉がある。
ある人たちは、この国を 「朝鮮」と呼び、そこに属す人を 「朝鮮人」と、そこの言語を 「朝鮮語」と呼ぶ。ところが、この国を 「朝鮮」と呼んでも、そこに属す人を 「朝鮮人」と呼べず 「朝鮮の人」とか 「お国の人」とか、「お国の言葉」とか呼ぶ人がいる。さらにひどい場合、「朝鮮」という単語自体を発話できず (その単語の発話自体がタブーになっていて)、やむを得ず発話する場合には強引に 「韓国」と言い換え、その北側にある政治機構を (なんと)「北韓」と呼ぶ人さえもいる。この人たちの場合、多くは、政治的な意図によってそういう言葉を選んでいるのではない。単に、「朝鮮」 あるいは 「朝鮮人」という単語を、自分自身の 「ある」事情によって発話できないだけだ。その 「ある」事情とは、「朝鮮」、「朝鮮人」という単語が、彼(または彼女)の中で限りなく低級なもの、自分自身の差別を呼び起こすもの、それを連想させるものなので、その 「場」の中でどうしても避けたい、つまり、そういう善意が動員された結果としてその単語を避け、別の言葉で言い換えているのだと、思われる。

言葉の 「価値」というのは、そういう意味である。これは、一人一人の個人によって、ずれがある。
しかし一般論として、ある社会では、「植民地」という言葉がとても否定的な 「意味」を帯びている。ある社会では、同じ言葉が 「新世界、別天地」を意味する。ある社会では、「わたしは中国人なんかではない、難民でもない、誇り高い英国植民地国民である」という意味を帯びる。

日本語文脈の中での 「差別語狩り」は、発話者の内心の 「差別」を問題に (当初は)した。その後 「差別語狩り」は 「差別語リスト」を掲げて、社会的に 「使ってはならない」 一連のタブー語を設定した。その中に 「朝鮮」 と 「朝鮮?(人、語)」が含まれているのかどうか、僕は知らない。

ただ、「差別語リスト」を作成した人たちの頭の中に、「植民地」という言葉の 「価値」の評価はあったのだろうか? アメリカ中部、シカゴからロッキー山脈に至る大平原の至るところにみられる Colony's Restaurant の類の立て看板、中国人ではない 「英国植民地国民」であることにこそプライドを感じる人々の存在。そういうものと 「差別語狩り」とは、どうもしっくり来ないとは思う。差別語リストを作った人たちだって、ドボルザークの 『新世界より』 くらいは知っていただろうに、と思う。


(20021121-1) 小学校の 「外国」の子ども

上の子の幼児時代からの知り合い − つまり公園で知り合った − の姉妹は、父親が来日した韓国人、母親が日本生まれのいわゆる 「在日」で、その子どもたちは ひらがなの名前、つまり 「きむ・あむげ」といった名前で生活している。上の子は、うちのと同じ2年生、下の子は保育園最後の年の5才組。

うちの上の子の小学校のクラスには、外国人が数人出入りした。1年生のとき中国から来て、つい先月帰国して行った男の子は、漢字で名乗り、読み方は日本語音だった。同じクラスにいる、日本に留学中の韓国人夫妻の女の子は、カタカナで原名 (原音類似名)を名乗る。漢字はラフに (僕には)推定できるが、確認したことはない。誰も彼女の名前の 「漢字」には興味を持たないらしい。

いわゆる 「在日」で 「通名」を名乗っているので それとわからない例は、本当にわからない。少なくとも、「あの子は在日の韓国籍 (あるいは朝鮮籍)だが、学校では通名を名乗っている」と判明している例は、今のところ ない。「木下」とか 「金本」といった姓も、名簿には見当たらない。ただ1例、父親がパチンコ屋、母親はまったくの日本姓で、母親の姓を名乗る子がいる (いた) だけだ。

うちの上の子については、小学校入学時点で 「日本と "英国(香港)" の二重国籍です」 と通知してある。そのせいもあっただろう、クラスに 「外国人」の転入者があるたびに、先生から何かしら働きかけがあったのか、中国人の男の子が来たときは、子どもは 「ねえ、XXXは韓国語でどう言うの?」、「こんにちわって、どう言うの?」 と、きた。どうも、彼女自身が 「中国」と 「韓国」を混同しているか、あるいは学校の先生が事実上 混同しているのかと、思われた。もっとも、学校の先生にも、僕が 「朝鮮文学」を専攻したことを伝えてあるから、それでますます (韓国、中国、香港が) 混同される結果を招いたかもしれないが。

うちの子は、純然たる日本語名である。もちろん、英国パスポートにも日本語音の転写で Mori と書いてある。日本側、英国側とも、パスポート上の名前は同一である。漢字は 「森」。姓は 「水野」。日本人としてはやや珍しい部類の名前に属す (それは承知というより、その点こそ父親の意図したことではある) ので、その意味では名前は覚えられやすい。ただし、その名前に 「外国」の匂いはないはずだ (あえて探せば、「ハリー」の友人ロンの母親は 「モリー」である。「モーリーを探せ」シリーズが流行したこともあるが、それより 「森」という漢字の印象の方が強い、はず)。
だからこそ、小学校入学時点で、僕は学校に 「この子は純然たる日本人ではありません」と通知しておく必要を感じていた。正確に 50%、彼女は外国人なのだから。

さて、9月、彼女の香港のばあちゃんが亡くなった。翌月つまり 10月、学校を1日休んで ばあちゃんの 「納骨」に行った。それが、多少とも学校で話題になったことがわかった。「ホンコンって、どこ?」という質問に出会ったそうだ。「じゃあ、ハワイってどこ?」 と僕は言ってみたのだが、彼女は言う: 「ハワイ」なら誰でも知ってるけど、「ホンコン」ではどこなのか わからないのだそうだ。
ふうん、この海外旅行、天下泰平、まだまだ香港買い物ツアーは、充分に独身貴族の女たちの道楽のはずなんだけど − 独身貴族ではない母親たちの社会では、話題にならないのだろうな。母親たちが知らなければ、当然 子どもたちも知らないわけだ。

1970年 +- 10年くらいのことだ。
そのころ、韓国に行って相手に出会い、その相手を日本に呼んで、その女性を妻として暮らしていた日本人の男たちには、「ある」懸念があったことは、僕も知っている。彼らの懸念、あるいは不安は、その子どもたちが 「いずれは差別の渦中に置かれることになる」ことだった。朝鮮近代文学を専攻し、韓国に留学し、そこで配偶者まで調達してきた先輩(または先生)でさえ、それを雑文集の中で書いている。

「差別」は、今となっては、話題としては面倒なものになってきた。
僕は、うちの子らが 「差別に苦しむ」とは予想していない。それよりも、「香港」出身者のパスポートがなぜ 「英国」だったり 「中国」だったりするのか、その理由を彼らが 「いつ」理解できるようになるのか、それが気になる。不思議なことに、「英国(香港)」パスポートを持つ者は、しばしば、香港が英国の 「植民地である(あった)」ことを、そのプライドの根拠としていることがある。「植民地」という言葉の意味の落差に、僕は驚愕した。

朝鮮近代史の中での 「植民地」という言葉こそ、あるいは特殊なのかもしれない。英語では、colony である。1980年代後半、アメリカ中部、大平原のフリーウェイを車で移動していると、ときおり野立て看板に Colony's Restaurant などというのが現われた。今も、それが変化したと考える根拠は何もない。この場合、colony は 「別天地」と読む必要がある。つまり、東部アメリカから逃れたある人々が、現地に展開する 「もう1つの世界、また別の世界」 つまり 「別天地」が colony である。ドボルザークのシンフォニー9番 『新世界より』は、そこで作られた。

被害者の側の 「植民地」という言葉が、朝鮮近代史に典型的に出てくる。加害者の側、つまり 「別天地」を求めて移動したアメリカ人の 「植民地」観が、フリーウェイの上から観察される。香港を手に入れそこに 「殖民」した英国側、そこにいた現地人たち、それから、国共合作が破れ、内戦を逃れて香港に流入した大量の 「新・移民」。わたしの妻は、そのまた最後の子世代である。彼女は、「私は中国人ではない、難民でもない」、英国植民地である香港の、誇りある市民だった (「だった」というのは、1997の中国返還後、それが多少ゆれはじめているからである)。

こういう日本人の父、香港人の母を持った子どもは、不幸かもしれない。が、いずれにしても、子どもたちは 「「香港」出身者のパスポートがなぜ 「英国」だったり 「中国」だったりするのか」を、いずれ理解し・なければならない。「植民地」という言葉の 「価値」(これは言語学のサブカテゴリー、「意味論」で使われる 術語の1つである) の問題を理解するのは、さらにその先だ。
(ただ、それって、いったい何才のときなのだろう。大学教養課程の 「言語学」は、早くても 18才ではないか。上の子はまだ2年生、7才なのだが)


(20021120-1) なぜ英語の本がおもしろいか

最初からわかっていたことだが、特に イギリス英語となると、僕にはなじみが少なかった。だから、その新鮮さを期待していなかったといえばウソだし、事実、「イギリス英語」にかぎらず 「英語」そのものの新鮮さで、僕は今も 「ハリー・ポッター」の第1巻を持って歩いているらしい。

ときおり、なんだか韻を踏んでいるようだが、訳本では記憶のない部分がある。帰ってから訳本にあたってみると、ふむう、この訳書に まず 「豪傑訳」はない。訳者(たち)も苦労しているのがよくわかる。それでも 「しっくり来ない」ことがある。例えば次の文。文脈は、映画にはない2度めのクィディッチの試合の前、審判がスネープだとわかって誰もが戦々恐々としている中で、ハリーが 「俺は出るぞ」と決意表明する場面:
    'I'm going to play,' he told Ron and Hermione. 'If I don't, all the Slytherins will think
    I'm just too scared to face Snape. I'll show them ... it'll really wipe the smiles off
    their faces if we win.'
    'Just as long as we're not wiping you off the pitch,' said Hermione.
    ("Philosopher", 太字化は水野、paperback p.162)
(水野試訳)「われ、試合に出場せん」と、彼はロンとハーマイオンに告げたり。「もし、われ出場せずんば、スリザリンどもは皆われスネープとの対面を畏れたりと考えるべし。ものみせてくれん。勝てば、やつらの顔から笑みを一掃すべし」。
「もし我ら、汝を競技場から掃き出すことなき限りにおいてなり」と、ハーマイオンが言った。
(訳書では pp.321-322 に該当部分)
高校生のころ、「国語」の 「古典」の教師がよく言っていたことだが、中国古典や日本の古語は、英文に訳してみると意味がわかることがある。いま、似非擬古文にしてみたのは、その裏返しである。僕はどうも、「英文」をそういう回路で理解しているらしい。

この作家、話がハーマイオンに至ると、どうも言葉遊びが 「韻を踏む」傾向がある。彼女の最初の登場では bossy voice, bushy brown hair というのがあった。これは、この作家個人の傾向だろう。上の部分では wipe off 「掃き出す」 が、裏表の意味で、つまり 「あいつらの得意な鼻をへし折ってやる」、「担架で担ぎ出す」(ハーマイオンの皮肉)という意味で使われているらしい。これはもう、「子どもむけ」作家の言葉遊びとして、相当な高級な技巧だ。ハーマイオンの 「性格づけ」は、この作家では必ずこういう方法を取る − のだろうか? たしかに、彼女はガリ勉で皮肉屋になっている。

「英語」には、僕にとって、こういう・とても・新鮮な面がある。一方、もう 30年という朝鮮語歴を 「誇る」ようになると、僕自身、韓国の、共和国の、どんな作品、どんな文面を読んでも、「言語」面での 「新鮮な」 衝撃は ない。朝鮮語以外で、そこそこ読める程度の言語で、ちょっと新鮮な言語体験をさせてくれるものが、この時期、僕には 「ハリー」のイギリス語版である、らしい。
なお、表題が Philosopher から Sorcerer に変わっているアメリカ語版は、まだ見ていないが、だいたい見当がついてきた。アメリカ人ならこういう表現はしないだろう、アメリカ語なら こうなるはずだ ・・ といった部分 (文面、表現)に、既にかなりの頻度で出合っている。おそらく、そういう表現が書き換えてあるのだろうと・思う。

その他に、「トトロ」や 「千尋」と異なるこの作品の 「完全な架空の空間」の中で、従って人物たちの関係が 「現実」という背景に依存していない 「ハリー・ポッター」では、作者の書き方1つで人間関係そのものが変化するということ、それだけに、作家の意思で展開はどうにでも恣意的に変化させられるのだが、今のところ (第1巻に) その破綻は見えない。その先の小さな破綻 − 愛するペットのネズミが実はハリーの仇敵のスパイであったこと、その判明後のロンの衝撃のなさ、など − は第3巻に出てくるが、そこはまだ訳本しか見ていない。


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