Ken Mizunoのタバコのけむり?

Hangeul-Lab Ayase, Tokyo
Ken Mizuno

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(20021119-1) 「絵本」の 「教育性」 問題

ふと − あたりまえのことに − 気がついたのだが、最近の 「ハリ・ポタ」現象、それに少し前の 「千と千尋」や、そのシリーズでは 「トトロ」の関係。

「ハリ・ポタ」については、もう誰も気がついていて、変な 「魔法」の本の類が、「流行」しているらしい。「ハリ・ポタ」そのものの背景、つまりイギリス北半分の 「ホグワーツ探し」とか、作品に出てくる食い物、風物の 「紹介」本が出ているのは、まあ健全なのだと思う。が、関係もない、ただ同じ 「魔法」という言葉だけが一人歩きして、どうも、しょうもない 「魔法」の 「流行」のきざしも、あるらしい。

「千尋」については、異郷訪問譚 (20021003-3) で、あのとき書いた通り、国文科の教官が楽しみながら分析してみせるような、そういう作品だった。たった3晩の体験からトンネルを越えて戻ると、車の周辺は草ぼうぼう。浦島太郎。その意味で、作品は 「現実世界」に関与していない。

「トトロ」も、実は 「現実世界」には決して関与しない作品で、表題のかわいい怪獣たち自身が、作品の中で説明されるように 「大人には会えない、見えない」存在である。

この3つの作品に共通することは、広い意味で 「童話」であること、現実世界から切り離された世界が展開されること、だ。ただし 「トトロ」は 「現実世界」の中で子どもの出会う怪獣だが、話の主題はその現実にはない。その現実の 「現実」性を薄めるためにこそ、作品の設定年代は 「昭和 30年代」になっていて、それは 「もう、過ぎ去った過去」である。同じことは 「平成狸ぽんぽこ」にも言えて、狸たちの 「生活」という現実が、しかし人間の現実ではないからこそ、文字通り戯画化され、面白く展開される。そこにある種のペーソスを感じることはできても、その作品を見て 「社会的正義」を感じて 「立ち上がる」人がいるとは思えない。

「気がついた」のは、その点だ。究極的には 「ハリー」の隔離社会、つまりホグワーツ、そこまで完全に隔離されてはいないが、ジブリの一連の作品たち。それらが興行としての成功をおさめてきたことと、その一方で、その対極にある 「童話」作品群がある。

「対極」にある作品群の、典型的なものが、文部省推薦もの、またはそれに類するものだ。以下、これを 「文部省もの」 と呼ぶことにする。昨日話題にした 「ハッピーバースデー」などは、類型としてはそれに属すかもしれない。ただし、断り書きなしに 「文部省もの」と呼べる 「童話」の類、小学校の 「推薦図書」に類するものには、もう1つ、顕著な特徴がある: 「社会性」である。

例えばこの1年の間に、子どもが学校の図書室から借りてきた本の中には、「チロヌップのきつね」 という作品がある。勘のよい方は気がつかれる通り、「北方領土」の話である。話は、決して 「政治」を口にしない。春になると島にやってくる老夫婦がいた; その島で夫婦はきつねの親子に出会う; きつねの子は夫婦と遊び、そして冬になって夫婦が去ると、今度は軍隊がやってきて、きつねの子は両親を失う; 春、夫婦が再びやってくると、一面花畑ができている; その中心点が、死んだ母きつねと、その傍で子きつねの死んだ場所であるとわかる。話はそれだけだ。この話は一連のシリーズになっていて、今も書店の店頭にある。「文部省もの」のひそかな意図が、ここまで明瞭に示されていることに、僕は驚いた。ただし 「話」それ自体は、決して 「政治」を口にすることはない。

「文部省もの」の顕著な特徴は、「社会性」とともに もう1つ、「露骨な描写を含まない」点がある。人の死、障害者の現実の生活などを、おそらく、描いてはならない。その点で、昨日話題にした 「ハッピーバースデー」は失格である。養護学校の少女が、主人公の目の前で死んでゆく。かつて 同じように養護学校の生徒の死に出会ったクラスの友人が、それ故に養護学校に出入りしなくなった話なども、同様である。「文部省もの」には、そういうきびしい制限があるらしい。

一面では、「トトロ」や 「千尋」の仮想世界、もう一歩進めて 「ハリ・ポタ」の架空の世界。それは、ある意味、空想の自由な飛躍ではある。その一方で、「魔法」という言葉だけが一人歩きしはじめる、ある現象。これは、20年、30年前の 「オカルト」の再来のようにも見える。
そのまた一面で、究極的には 「文部省もの」に見られる、「生臭さを極限まで削除した」世界があり、そしてその周辺には、その「生臭さ」を語ろうとする童話たちがある。

DVDで 「千と千尋」を見ながら、僕はこんな意味のことを書いたと思う − 「おくされ様」ではない、「名のある川のヌシ」がやって来て、油屋 総出で その体内のゴミを引き出す場面: これが露骨に 「環境保護」のキャンペーンだと思われたくないからこそ、作者(たち)はこの話を隔離された空間、トンネルのむこうの架空空間の話にしたのではないかと。
同じような面は、「トトロ」にも強い。まして 「ぽんぽこ」。
よくも悪くも、ジブリの作品は そういう 「touchy 微妙な」ところを、とても上手に隠蔽している。

「ハリ・ポタ」には、そういう危険はない。架空空間での友情とその危機と、主人公たちの関係は作者の自在に変えられるが、しかしその手法自体は現代小説なので、そうそう恣意的に変えるわけにはいかない − つまり、その技術と、さらに語り口自体が子どもむけ、そしてさらに、長い構想の末に実現されつつある 「深い入れ子」構造の謎と謎解きの関係が、読者を魅了してゆく、らしい。ただ、その言葉尻をとった 「魔法」という言葉だけが一人歩き しはじめるとき、それは一面 「オカルト」趣味の再来にもつながって行く。もちろんそれは、作者の責任ではないのだが。

(1970年代、「我々」には 「なぜ朝鮮近代文学が面白くないか」という 「課題」があった。近代朝鮮文学は 「虚構が虚構として成立せず」、現実とシームレスにつながって存在していること、従って作品は ともすれば政治演説化するおそれがあったし、仮に 「演説」にならなくても、作家の書き連ねる言葉には必ず、「眉つりあげた」 「現実」へのなにがしかの主張が込められていた。これに変化が出てきたのは、「解放」: 1945年以後 30年以上を経過した 70年代後半からだった。岩波の翻訳集 (2002.04) は 80年代と 90年代の作品を収録したが、しかし、80年代の作品はまだ、旧世代 「社会派」と 新世代との まだら模様だと言っていい。90年代になってようやく、短編小説は短編小説らしくなってきた面がある。それでも、まだ、韓国の 「文筆」家たちには 「眉つりあげた」 「現実告発」の傾向は強い。よくも悪くも、韓国には まだ 「ハリ・ポタ」型の作家は出ていない。ジブリ型は? うーん、韓国原作のアニメやゲームは、出て来はじめては いるのだが)


(20021118-1) 書店で偶然みつけた 「絵本」

青木和雄 『ハッピーバースデー 命かがやく瞬間』、金の星社。本の 「帯」には 「私も愛されたい」 という非公式の副題(?)がついている。
本には2つの版があるようで、僕(ら)が買った 「アニメ版」と、Webで発見されるものとは、絵がまったく異なる。買った本の本来の触れ込みは、「長編アニメ映画」だと書いてある。映画になっていて、どこかで上映の情報があったが、ビデオや DVDの商品リストには出ていない。

「偶然」というのは、週末に子どもを連れて買い物に出たとき − もう すっかり習慣になってきたのだが、彼女は 「絵本」売り場で 「立ち読み」ならぬ 「座り読み」をはじめてしまう。はじめは、『小学校X年生』 とか 「教育的」な本とか そんなものしか買ってもらえないので、絵本を 「立ち読み」、しまいには 「座り読み」するようになったのだが、時には父親が 「それ、買ってかえろうぜ」と言うこともある。その、最近の例がこれである。

やはり、圧縮したあらすじ:
時代は現代。ヒロイン、10才の少女は、常にエリートの兄と比べられている。楽しみにしていた誕生日に、「あんたなんか生まなきゃよかった」と母親に言われて、声が出なくなる − 急性失語症 −。多少心配してくれた兄の示唆で、彼女は一人で田舎のじいちゃん・ばあちゃん − 少女の母親の両親 − のもとに行く。田舎には、死んだ伯母 (少女の母の姉)、兄、少女自身 ・・・ の生まれた日に植えたという木が、ある。が、少女の母親の木は、ない。彼女の生まれる前後に、その姉の手術が重なったからだという
その田舎で、少女は言葉を取り戻す。再び東京へ。少女は学校に復帰し、同じクラスでのいじめ事件、養護学校の少女との関係などの中で変化してゆく。その変化の余波で、エリートだった兄まで豹変し、少女はさらに母親にさえ挑戦してゆく − わたしがXXおばさんに似てるから、そんなに私がきらいなの? と。
少女の母親の幼時の体験、それが現在の母親としてのあり方につながることを示唆しつつ、話は一見 極端に、少女の失語症ではじまっている。ジブリの 「トトロ」や 「千尋」と同じ 「絵本」構成になっているので、細部は省かれているようだが、原構成の上では、幼時の体験に起因して少女を うとみ続けてきた母親の内省などがあるはずで、ある日 「ママと呼んでくれるの?」 と、感動的な和解がやってくる。

7才の読者自身が、何度も泣いちゃったという本である。よくも悪くも、「感情の性感帯」を刺激する話の連続である。つまり、とても感動的な作品ではあった。技巧的には、例えば 「トトロ」で、迷子になったメイを猫バスがおいかけ、おねえちゃん! と再開する場面、その後に 「おかあさんへ」という爪文字のとうもろこし、さらに猫バスで家に戻って 「あばあちゃん!」と抱き合う姉妹 ・・・ それに類するシーンが続くが、ただし 「トトロ」とはちがって、素材は現代のヒステリックな母親、その幼時体験の発掘、クラスでのいじめ、エリート化される兄、それに、養護学校の生徒で死んでゆく女の子 ・・・ と、一面 「暗い、生臭い」 素材で話は展開されて行く。

巻末の紹介文によれば、同じ作家で、もう1冊 本があるらしい。その本では、差別に苦しむ 「キム」という子が出てくるそうだ。ただし、この巻末の紹介文の精度が低くて、これを見ると、表題作では養護学校の少女と おじいちゃんの両方が死ぬように読める (本の内容だけなら、死ぬのは少女だけだ)。原作の紹介を、わずかなテン・マルの処理で誤ったのか、原構成ではおじいちゃんの死があるのかわからないが、まあ、それはどうしようもない。

ただ、「何度も泣いちゃった」 この本を、父親にも読んでもらいたい7才がいる。久しぶりに、ハリー・ポッターの原文を置いて、この本を持って出た。電車の駅には、ハリー 第2作の映画の大変なポスター群。でも、これでよかった。ハリーのカエル・チョコをクリスマス・プレゼントに友達にあげるというのも、第2作の映画がアメリカで空前の売上を上げているのも、それはそれでいい。僕は、でも、彼女が 「何度も泣いちゃった」 本を読むのが先なのだ。「ハリー」 原文は、それ自体が 「100年ぶり」の 「古典」になるだろうから、急ぐ必要はない。


(20021115-1) 学芸会、または学習発表会

僕が子どもだった時からそうだったから、もう 40年も そうなっている。あれは 「俗に」学芸会と呼び、学校では 「公式に」学習発表会と呼ぶ。

1ヶ月近く、子ども自身が楽しみにして、家でも しきりにせりふを口にしていたから、だいたいの様子はわかっていた。が、実際に見てみると、むむむ、ずいぶん無理な公演だわねえ ・・・

話自体は、「国語」の教科書にのっているものだ。圧縮ダイジェストすると、おおよそこんな内容である:
きつねが森で、家のないひよこに会った。しめた、でも痩せてるな。連れて帰って、もう少し太らせてから食うことにしよう。「親切なきつねのおにいちゃん」と呼ばれて、きつねは「ぼうっとなった」。ある日、二人は森で、家のないうさぎに、さらにある日、家のないあひるに出会った。そのたびに 「親切なきつねのおにいちゃん」と呼ばれて、きつねはぼうっと なりつづけた。ある日、おおかみがやってきた。きつねはおおかみと戦い、追い返すと、翌日 死んだ。家のない3羽 (うさぎも 「1羽」ですな)は、親切なおにいちゃん、ありがとうと。
これが、ミュージカルになっている。
何が無理かというと、舞台に上がる俳優は 30人以上いるのに、「役」は5つしかないことだ。おいおい。1羽しかいないひよこがぞろぞろと、あひるもうさぎも、合計 10人以上が舞台で踊る。果てはきつね自身もおおかみも、それぞれ2人だったか3人だったか いるではないか − いわゆるダブル・キャスト(時間的なタテに交代する複数キャスト)ではなく、同時に複数人が舞台に立っているのだから、あきれた。これでも 30人には遠く足りない。残りの半数は、舞台の半分を占めるヒナ段に立って 「ナレーター」である。20人近い 「ナレーター」がいるので、一人のしゃべる機会は1度だけ、文字数にして 15字から 20字くらいだ (例:「ある日、きつねは森にでかけた」、「ある日、おおかみがやってきた」)。おまけに ・・・ ピアノ伴奏の音楽の先生があわてたのか、フィナーレで 「親切なおにいちゃん、ありがとう」と歌うことができなかった (とばしてしまった)らしい。あら、あら。失礼ながら、この先生、前からピアノ、上手ではなかったのだ。

発表会は金・土の2度あり、子どもたちの希望によって 2クラス 60人が その都合で2組に分けられた。金曜の希望者は少ないし、僕が午前なら見に行けるからと、金曜を希望させたのだが、それでも 「ぞろぞろ ひよこ、うさぎ、あひる」には入れなかった。金曜の舞台には、土曜の組が合唱隊になり、土曜にはそれが交代する。
眠いから明日は お父さん行かないぞとは言っておいたが、さて、どうしよう。

ピアノの先生、明日はちゃんと伴奏してくれるかな。数週間前から発熱が続いて休んでいたという子も、今日だけはちゃんと舞台に立って、うちの子の次のせりふを言った。そんな子もいるのに、伴奏とちるなんて、許せないね、うん。


(20021115-2) セブン・イレブンの 「ハリー・ポッター」 カエル・チョコ

あきれた。
おどろいたな。セブン・イレブンの棚の一角に、大量の 「ハリー・ポッター」 カエル・チョコが置いてあった。映画の通り、カード入り。ただし ロンが 「500枚」も集めたというほどの数はなく、中身のカードは 40種類くらいだと書いてある。1個買ってみた。スネープの魔法薬の授業だ; 大鍋で何かを煮ている場面。この場面は、映画にはない。そもそも、箱のハリーの顔も、英文原作の表紙の顔には多少似ているが、映画の美少年にはほど遠い。これだと 「ブスで出っ歯」のハーマイオンでも出てくるかしら?

従って、この カエル・チョコのターゲットとする購買層は、映画より訳本、それも原本の表紙またはその写真くらい見たことのある人たちでなければならない。とすると、これはきっと、失敗するな。Warner Bros. の著作権同意の表示はあるが、Warnerの宣伝 広告 Webページの一切には、原作を連想させるものはない; つまり、俳優の美少年ハリー、まともな少年ロン、美少女のハーマイオンの画像や、あくまで映画の白いフクロウの画像はあるが、原作は一切出てこない。映画が好きでこのチョコを買った子は、確実に失望する。喜ぶのは、原作か、少なくとも訳書を読んで (例えば) 「ハーマイオンは決して美人ではないらしい」と感づいている人たちだけである。訳書がベスト・セラーだといっても、せいぜい数百万部。これを本当に読んだ人たちの中で、セブン・イレブンに出入りする人の比率をかけると ・・・ と考えて行くと、あんまり売れそうにないなあ。

いや、それは、わからない。セブン・イレブンだけではないかもしれない。全国津々浦々のコンビニ、駄菓子屋、スーパーの店頭に同じ規模で並べば、訳本と同じ数の買い手はいるかもしれない。商品のねらいは、その客たちに 「40種類」のカードを集めさせようとする点にあるわけだから。

人の顔や描写はともかく、カード自体はきれいだし、うちの7才は喜んだ。中身のチョコ本体にはカエルがレリーフになっていて、「ほら、跳ぶよ」などと 遊んでいる。
ただし、西洋のマンガが日本で受け入れられるケースは、ものすごく少ない。「日本的」なマンガの絵の 「neatさ」、つまり とても小奇麗な絵に対して、西洋のマンガの絵は しばしば 「醜く」見える。それが、「ハリー」読者(または映画ファン)にどんな反応を起こすだろうか。

「我が家」に限っていえば、ろくでもないラムネ菓子より、チョコなら買ってもいいぞ (そっちのほうが栄養あるから)と、僕は常に言っている。もし、隣の駄菓子屋にこの 「ハリー・ポッター カエル・チョコ」が並んだら、はてな、あいつは どうするかなあ ・・・


(20021113-1) アナスタシア / ハーマイオン / ハリーと孫悟空

ディズニーの売れない作品の中に、『アナスタシア』というのがある。帝政ロシアのモスクワ、最後の宮廷では幼い少女 (王女)だったアナスタシアが、革命で一家が西洋に逃れる列車に、乗り遅れる。乗り遅れる原因も、人形だったかぬいぐるみだったか、女の子の宝物を探している間に遅れてしまうのだ。その後 彼女は身分が明らかになることなく(本人も知らず)、施設で育つ。話は、彼女がその施設で成長して、施設から事実上 追い出されるところから。一攫千金を狙う一派と出会い、アナスタシアの祖母、つまり革命前の国王の母親のいるパリに向かう。一派としては、彼女を 「本物の」アナスタシアとして売り込み、成功すれば、大金が手に入るはずである。

そしてパリでは、にせもののアナスタシア続発に耐えかねた祖母が、いまや誰とも会わないと拒絶する。パリに着くまでの間に、一派は既に青年一人だけになり、この青年の機転で彼女はついに祖母に会う。が、アナスタシア自身は正直だ。あなたが本当に私の祖母なのか、確かめたいだけだと言う。その しおらしさが機会となって、彼女の持ち物に祖母は気づく。「これは?」 「わからないの。施設に来たとき、私が持っていたそうです」。それが証拠になって、二人は互いの関係を確認する。

この物語には、政治的な意図がありうる。が、今それは話題にしない。
いま話題にしたいのは、この作品のヒロインには2つの名前があることだ。つまり − 本名である 「アナスタシア」と、それに幼名または親愛呼称である 「アーニャ」と。

モスクワからパリへの途上で、青年は既に彼女を 「アーニャ」と呼んでいる。同じヒロインの 「名前が変わる」ので、誤解がないよう日本語版ではその点にかなり気を使っているように見えた。
だが、成長した彼女に出会い、それが本当にあのアーニャであると判明したとき、祖母は 「ああ、わたしのアナスタシア!」と抱き寄せる。なんだか不自然だったが、王家の祖母はあくまで威厳をもって 「アナスタシア」と発話するようにも、日本語版の映画では見えた。
だが、物語の冒頭、宮廷で彼女は 「アーニャ」と呼ばれていたはずだ。日本語版でも、そうだったような気がする。

この問題、現代韓国の作品集でも、一度は話題になった。同じ人物が、原文脈では自然に別の名前で呼ばれることがある。それをどうするかと。そのとき、僕が持ち出したのは 「アナスタシア」の例だった。子ども時代はアーニャ、成長すると一貫してアナスタシアに、この映画の日本語版では変化する。しかし、こういう処理には、名前が変化する前後に、日本語側で相当な操作をしないと誤解のおそれがある。場合によっては1行、2行と原文にない説明を、訳文に埋め込む必要が出てくる (原文にない説明追加の例は、「ハリー」では 「組み分け帽子」をかぶる順番を、マクゴナガルが読み上げるところに出てくる。原文では断りなしに 「姓」の ABC順に呼んでゆくのだが、訳文では 「姓のアルファベット順に呼びますよ」と、わざわざマクゴナガルが断っている。それでようやく、まずハーマイオン (Granger)、かなり後になってハリー (Potter)、ほとんど最後に ロン (Weasley) の順番になる説明がつく)。そして/ただし、それをやると、その 「翻訳的処理」に、いずれ 「原文にそんな説明はないぞ」と文句を言い出す僕みたいなのが出てきて、ひどい場合には 「あの訳は誤訳だらけだ」と言われかねない。

それはともかくとしても、主人公やそれに近い人物の名前が2つ出てくると、読者(視聴者)には かなりの障害になる。人物の名前が、安定して記憶されないのだ。結果として、作品は読者の周辺では話題に ならなくなる。これが、商業ベースでは売上に反映する。結果的に、『アナスタシア』を知っている人は少ない。僕自身 知らなかったし、たまたま店頭の在庫処分で安く出ていたので、「安いから」買って子どもを妥協させた。それでこの作品を知っているだけなのだ。

さて、では 「ハーマイオニー」。
僕はまだ第1巻を読んでいる。まだ Hermiony という綴りは出て来ない。彼女はまだ 「3つ頭」の犬の廊下につきあわされたばかりで、ハリーとロンとは口をきこうともしない。それを、ロンは有難がっている。
が、ごく近い将来に、男の子二人と彼女の和解はやってくる。次の話題はハロウィーンの怪物、次がクィディッチの試合で、呪文を唱えるスネイプの上着に彼女は火をつける。おそらくその前後で、ロンかハリーかが親愛をこめて Hermiony と語りかけるところが出てくるのだろう。巻末で3人は仲良く汽車に乗り、第2巻では 「ある」策略で3人は仲良くハーマイオンの作った魔法薬を飲む (予告編にも、一瞬その画面がある)。

現代の訳者、あるいはその出版社なら、主人公たちの名前が2つもあると読者を混乱させるだろう・くらいのことは知っている。だから、Hermione は 「ハーマイオニー」で一貫されている。

そろそろ、「ハリー」の原文がなぜ 「面白い」のか、文章面+構造の上での理由がわかってきた。ペースが速いこと。そのくせ、子どもが時々やってみせる、とんでもない言葉遊びがしばしば挿入されること、それにもかかわらず、少し前の話が次々と次の展開を生み、それが早いテンポで進行し、進行しつつその中には さらに次の話題への伏線が隠されていること − この作品または作者の 「うまさ」は、その 「近距離の伏線」を惜しみなく (すぐに)解いたうえで次のプロットに進め、進めるごとに ・・・ 実はもう1段前から用意してある 「伏線」を思い出させて さらに解いてゆく。
つまり、「伏線」とその 「解決」が、「入れ子」になっているのだ:
    第1の伏線    第2の伏線    第3の伏線    第3の解決    第2の解決    第1の解決
       |             |             |                |          |             |
       |             |             | (近距離の解決) |          |             |
       |             |             +----------------+          |             |
       |             +-----------------------------------------+             |
       +---------------------------------------------------------------------+
                                    (長距離での解決)
「ハリー・ポッター」シリーズの展開は、どうもこんな風になっているか、あるいはさらに複雑なような気がする。ある「解決」の段階でさらに新しい 「伏線」が用意されると、構造は限りなく深く、複雑になってくる。
いずれにしても、この 「入れ子」構造からすると、第1巻 冒頭の謎が解決されるのは、第7巻の末尾かもしれない。実際、第2巻では典型的な例として、冒頭の謎の 「しもべ妖精」の正体が明かされるのは、本当に巻末の最終章である。

さらに余談を申し上げれば、『孫悟空』の原作全巻をあわせると、それぞれの巻・章がこういう 「完全な入れ子、左右対称」の構造になっていることは、一応有名な事実であるらしい。ハリーは、現代イギリスの孫悟空だ。ただし孫悟空の時代とはちがって、「ハリー」は近代西欧文学の さらに高度な技巧、つまり現代の語り口で語られている。その 「高度な技巧」を、「子どもむけ」の言葉で語りつづける点が、おそらく作者の 「才能」である。


(20021112-1) 日記

ハーマイオンが実は 「出っ歯」ではないかという疑問または疑いは、早くも第4巻訳本の上下2冊を読み終わったらしい職場の同僚の話で、確認しつつある。出たばかりの第4巻の訳本で、彼女は、誰かのいたずらで 「前歯が長ーくのびて」しまい、マクゴナガル教授がそれを直してくれるそうだ。結果として、前歯は前よりやや小さくなって、彼女は多少かわいらしくなるらしい − 僕は第4巻を見ていないので、以上はまだ伝聞である。

第3巻でもそうだが、彼女とマクゴナガルとは、特別な関係が成立している。第3巻では、「すべての」授業を選択しようとする (つまり、不可能な選択をしようとする)ハーマイオンに、マクゴナガルは 砂時計のようなタイム・マシンを与える。これを使って、ハーマイオンは 「同じ時間に進行する複数の授業」を採る。この巻には 「ハーマイオンの秘密」という章があり、その秘密のタイム・マシンを使って話の最後の 「3時間」が二重に展開され、その2度めの 「3時間」の間に、3時間前のハリーが (死んだ)父親に救われる。小さな 「循環」劇が、ここにある。

原文を読んでいる僕は、まだやっと、ハリーがはじめて箒に乗ってマルフォイと対決するところまで。この後は、映画にはないマルフォイとの決闘の場を探して (映画では 「階段が勝手に動いて」)、3つ頭の犬に出会うことになる。僕は、相変わらず 「慣れない」 新鮮な外国語への興味で本を読んでいるところだ。

なお、マルフォイとの 「決闘」そのものは、映画では今月の第2作に出てくる (はず。予告編にその場面がある)。ただし、これは 「特別授業」での決闘で、訳本の第2巻では 問題の教授 スネイプがその組み合わせを示唆または提案することになっている。僕自身が映画 第2作を見るのはまだ先になると思うので、その点は あしからず。訳本では、この決闘の際に、ハリーが 「パーセル・マウス」つまりヘビ語の話者であることが明らかになる。

まったく個人的な 「読書」進行状況をまとめておくと、次のようになる:
略称種別状況
1賢者の石原本最初の箒飛行、シーカーへの抜擢まで読んだ
1賢者の石訳本ななめ読みした (できた)
1賢者の石映画いやになるほど見た
2秘密の部屋原本まだ
2秘密の部屋訳本読んだ
2秘密の部屋映画半年くらい先に見る見込み
3囚人原本まだ
3囚人訳本読んだ
3囚人映画まだ、存在しない
4ゴブレット原本まだ
4ゴブレット訳本まだ買ってない
4ゴブレット映画まだ、存在しない
なお、Hermione を Hermiony と表記した部分は、第1巻ではまだ発見できない。映画の字幕にも出ないので、おそらく彼女は原文文脈では最後まで Hermione、日本語版の訳書と字幕でだけ、一貫して 「ハーマイオニー」なのだと思われる。あるいは、アメリカ版の本には Hermiony が現われるか、そのあたりも、わたしは英語が 「専門」ではないので、今のところわからない。


(20021111-1) 外国語の 「原文」がなぜ新鮮なのか

「ハリー・ポッター」だが、慣れないイギリス英語が、なぜこれほど面白いのか、考えてみた。あらためて気がついたのだが、学生のころ少しずつ読めるようになってきた朝鮮語で、小説をどうにか読み進めはじめたころと、とてもよく似ている。もちろん、朝鮮語の小説の場合、まず 99% 訳本はない。故に、原文を無理しても読まざるを得ないのだが、でも学校の課題でもない、読まなくても別にどうということもない本を、僕はけっこう 「面白がって」読んでいたと − 思われる。

例えば次の英文、何でもない文章だ。何でもないのに、困ったことに、僕には妙に新鮮に感じられる。「何でもない」文章である証拠は、やはり引用せざるを得ない:
At the start-of-term banquet, Harry had got the idea that Professor Snape disliked him. By the end of the first Potions lesson, he knew he'd been wrong. Snape didn't dislike Harry - he hated him. ("Philosopher", paperback p.101)

学期の初めの宴のとき、ハリーは、教授のスネイプが自分を嫌っているのだと思っていた。だが最初の魔法薬の授業が終わってみると、ハリーは自分の考えが誤っていることに気がついた。スネープはハリーを 「嫌って」いるのではない。「憎んで」いるのだ(った)。
問題は、Snape didn't dislike Harry - he hated him という1文にある。その前には、he knew he'd been wrong ともくる。これも、実はネイティブ読者は にやにやするか、大笑いするか。これは子ども向けの作品であることを忘れてはいけない。中学のころ習った・その程度の英語が、なぜこんなに 「新鮮に」感じられるのだろう? 「ああ、俺はまちがってたんだ。やつは俺が嫌いなのではない、俺を憎んでたのだ」。ただ、それだけなのに。

この他にも、「新鮮」に感じる理由は − 例えば時制の基本が過去形、だから 「過去形」を 「現在」に読み取ること、しかし形式上は過去なので そのまた過去は 「過去完了」で、この時制が厳格に守られていること (こういう英文には久しく出会わなかった)、それから、dislike は 「嫌う」 ではなくて 「嫌っている」、hate は 「憎む」 ではなくて 「憎んでいる」と読む、つまり動詞のアスペクトのちがい、wrong も同様に、不思議なことに学校英語では習う機会の少ない単語、ですね。

思い出した。次の英文の意味は、結婚したのでしょうか、しなかったのでしょうか?:
She didn't marry to him because he was rich.
次は 「時蝿(トキバエという名前の昆虫)(たち)は(一般に) ある種の矢が好きだ」と読める:
Time flies like an allow.
次の日本語は、「良い」と言っているのですか、「良くない」と言っているのですか?
ねえ、これ、いいじゃない。
慣れない言語に接するときは、その意味 − それも実際の運用の中での意味 − がわかりはじめると、面白くなる。だから、学生だったとき、僕には朝鮮語の本が面白かったんですね。

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昨日の記事の訂正:
親切な友人がメールで教えてくれました。神社で使う楽器は 「ひちりき (篳篥)」であって、「しちりき」ではないそうです。彼の父親は浅草生まれなので どうせ区別はつかないそうですが、関東での生活が長くなった僕も、そろそろ区別がつかなくなってきましたです。


(20021110-1) 「お払い」してもらったら 「破魔矢」もくれる

「仲見世」を歩きながら、不吉な予感がしたんだなあ − 全国の 「寺社」で扱う行事なら、仲見世に 「千歳飴」も 「破魔矢」も売っていないはずがない、と思っていた。実際、正月の飾りも羽子板も、みんなここでそろうではないか。それが、ないのだ。ただの1件も。たった1軒だけ 「祝・七五三」という文字を掲げた店があったが、それは 和服の着物の小物屋だった。ついに、浅草寺の本堂 (あの大伽藍)に出てしまった。本堂前には、さすがに 「七五三祈祷」の大看板が出ている。しかし、千歳飴と破魔矢はどこにあるのだ。ダイアゴン横丁で途方にくれるハリーの気分。

坊さん姿が2人いる案内所?で、聞いてみた。千歳飴は、デパートで売ってるんじゃないかなどと、おっしゃる =3
じゃ、破魔矢は? 2人は、互いに顔を見合わせて、あっちの神社の方にはあるか? いや、店はない、などと言い合っている。

寺は超巨大規模なので、七五三の 「祈祷」は集団的にやるらしい。10時と 12時。もう今日はない。いよいよ困った。

超巨大企業浅草寺の1角には、浅草神社がある。金ぴかの五重の塔は左、神社は右だ。こちらに行ってみた。閑古鳥が鳴き、猿回しが芸を見せる空間があるほど、人出は少ない。もちろん、千歳飴と破魔矢の店もなく、団地の夜店みたいな屋台だけ。その中に、破魔矢を持っている若い父親らしい人を発見。やっと、駅でロンの母親に出会った気分。

何とも貧しい 「神社」の本殿?には、いきなり下足番がいる。ひまな巫女さん2名、ひまな神主?が七りきだか笙だかを吹いている。お値段は 「お心なので」不定、「5千円くらいから、大抵の方は1万円くらい」と聞いたので、5千円の 「初穂料」。払ったとたんに、お土産袋をくれた。もちろん、破魔矢と千歳飴入り。これだこれだ。もうこれで用は済んだのだが、「そこでお待ちください」。

15分ばかりかけて、結婚式のノリトみたいな儀式があった。「たまぐし」は、子ども当人だけが、神前にささげる。これでよかった。非日常の儀式があったこと、それに意味があるので、その内容が問題ではなかった。不思議なことに、本殿?正面には 何もなかった。ただ、よくある 「お払い」する道具の紙の形 (紙片のイナヅマ型)の金属片が正面にあった。若い神主の 「お払い」の道具それ自体はイナヅマ型ではなく、巨大な 「はたき」みたいな型だった。下足番から「初穂料」、儀式、最後に子どもだけに 「お神酒」が出て、下足を受け取るまで、我々以外のどのような客も現われなかった。外では、猿回しが猿を竹馬に乗せている。

あるいは、浅草寺のほうでも、「祈祷」に出れば 「お土産袋」でもくれたのかもしれない。が、幸か不幸かは別として、我々は閑古鳥の鳴く神社で 「お払い」を受けた。結婚式のノリトと同形式、つまり、神主じきじきに 「信者」(!)の住所・名前を、我々には未知の神に告げてくれたぞ。けっこう。うん。僕自身も、僕自身の意志で神社の儀式をやってもらったのは初めてだ。

お土産袋には、「お守り」が入っていた。いかん、いかん、ノリトを述べてもらったとはいえ、八百万の神々のどなたかも存じ上げないとはいえ、国家神道につながる神社のお守り 「だけ」に頼るわけにはいかない。「寺」本堂前の売店に戻って、寺のお守り、まったく同じ規格で仏教寺院のマークのあるのをもう一つ。

なお7才は、帰ってから2つのお守りとも、開けて中身をあらためたそうだ。約束通り、寺のには 「祈願成就」とあるようだ。神社のには、絵馬が入っているらしい。


(20021109-1) 「七五三」とは何ぞや

少なくとも僕の子どものころの記憶に、「七五三」はない。いや、あるいは親はその行事をしてくれたのかもしれないが、しかし僕の認識では、親は貧しかったのでそんなことをやっている余裕はなかったはずだった。
それから おおよそ 40年後、僕の親は、僕の子の 「七五三」を言い出した。女の子、3才。しかし、僕自身とてもわずらわしいと感じていたし、かあちゃんも同じだった。その時、僕の親への言い訳は 「おカネの浪費」を避けることに重点が置かれた。
5才。このときも、「5才」は男の子だというので、物心つきはじめた子ども自身が納得していた。
そして今年、7才の女の子は おごそかに(?)宣言した:
言っとくけどね、今年は七五三、やるからね。
時期が悪いぜ、お前ちゃん。お父さん おカネがなくて、借金して生活費を工面しているのに。でも、お前ちゃんの言う通り、これが最後のチャンスだ。これを逃せば、機会は一生やってこない。しかし − いったいこれは 「何の」、どんな行事なのだろうか。

調べてみたつもりだが、さっぱりわからん。Webで発見できるのは、ろくでもない着物の着付け方法と、わずかに 「鎌倉・室町」の 「元服」類似の行事だけだ。

わけがわからないが、当人の望んでいるのは、「七五三をやった」という実績だ。常識的(?)な類推として、まず写真屋さんでの写真だな。すると、衣装はどうなる? それは写真屋で紹介してくれるのか? 必須事項としては、衣装は借り物でも、千歳飴と破魔矢は自前で用意する必要があるな。

写真屋さんに行ってみた。衣装付きの撮影、2枚セットで2万円台。スタジオをひそかに眺めると、撮影の瞬間に持たせる千歳飴の袋も用意してある。衣装はタダ(いや、お値段に折込ずみ)だが、7才からの 「着物」の着付けは外注美容師に1万円ほどかかるという。これはまずい。女学校装束なら写真屋さんの2階で、店のおばさんが着せてくれるのだという; 当人つれて、再度。首尾よく、当人は女学校姿がよいと言う。
残るのは、借り物ではない千歳飴と破魔矢か。明日、浅草に行くことにした。

僕がひそかにおそれていたのは、「それ」が国家神道プロパーの行事なのか、どうか、という点だった。Webで見た限り、「七五三」の線上には 「神社」案内があるだけだ。これは、かなり 「やばい」ものに類する。と同時に、不思議なことに、これは 「神社」ではない、国内のあらゆる 「寺社」で扱っているという。「寺社」? 神社と仏教寺院か。神仏混交が進んだのは江戸期だ。Web Yahooのいう 「鎌倉・室町」より時代は下る。あいかわらず、事情はよくわからない。

しかし、いいだろう。当人が望んでいる以上、それが国家神道そのものでないなら。その証拠として、浅草 (浅草のあれは 「寺」だ。神社ではない)で千歳飴と破魔矢を売っているなら、つきあってやろうじゃないの。せっかくの行事、「写真だけの結婚式」みたいに、すべてが借り物では悲しい。せめて千歳飴と破魔矢くらいは、自前で用意したいと思う。

僕自身は、宗教性を帯びたあらゆるものに嫌悪がある。しかし、カトリックや仏教が示した 「現地 土着宗教」への寛容や、その土着宗教そのものには、文化人類学が示すような興味が、ないではない。実際、香港で出会った 「冥土のカネ」も、その一部だった。

うちのかあちゃんの場合、初等教育は純然たる/古典的なカトリックの学校だったらしい。だから今でも、神経質なときは 「他の神を拝むな」と主張することがある。この場合、「他の神」には、お地蔵さんも含まれる。神経質になれば、古典的なその世界では、神社も寺も敵である。しかし、彼女をそのカトリックの学校に行かせた母親自身は、仏教寺院に自分の墓となるアパートメントを用意して、逝った。逝った者の娘も、そのあたりの調整はできていると思われる。

問題は、僕自身の 「宗教」への過敏さだ。浅草寺で仮に 「護摩」があるなら、それでもいい。しかし、江戸期の神仏混交の余韻?で、「寺」の横にはしばしばしば 「神社」がある。都内の有名な寺は、ほとんどそれだと言っていい。「七五三」に限って、その神社が前面に出てきたりしないことを、今は願うばかりだと − まあ、おおげさかもしれないが、そう思う。


(20021108-1) 金持ち父さん、貧乏父さん

Kは会社社長である。この人と知り合ったとき、彼は自分の秘書と結婚して子どもがいた。彼の結婚はそれが3度めだった。秘書:妻である女性は知的で、意志の強い性格の持ち主だった。裏返すと、ときおりヒステリックな態度を示すことはあったが、しかし職場で彼女の実力は大変なもので、誰もそれをとがめることはなかった。日本から来た僕の生活周辺を支援してくれたのも、僕の車の 「助手席 passenger's seat」に最初に座ってくれたのも彼女である。Kは僕より1年若く、Kの妻は1つ年上、故に彼女と僕が同年令である。

Kに、「3度め」の結婚について聞いたことがある。彼のせりふをまだ覚えている − First, experience, second, excercise, third, serious. 「1度めは経験、2度めは練習、3度めは本気」 なのだそうだ。

その後、Kとその妻は離婚した。きっかけは、妻のヒステリー症状だったという。伝え聞いた限りでは、彼女は子どもに暴行を加えた。ただしその 「暴行」とは、我々(日本人)の想像する範囲の、単に子どもの尻や頬をたたいた程度のものだったかもしれないし、あるいはもう少し進んだ習慣的 「虐待」だったのかもしれないが、正確なところはわからない。とにかく彼女はヒステリックに子どもに暴行を加え、それを理由に離婚が実現されたのだという。従って子どもは父親が引取り、妻が去った。そのとき、子どもは中学生くらいのはずで、僕は一応、その子の1才から 10才手前くらいまでを知っている。Kが日本に来たとき、この子を連れてきたことがある。この子が日本で唯一、言葉が通じるとみなして、抱きついてきた相手が僕である。その前後に、僕は日本で最初の結婚をした。

Kはその後、4度めの結婚をしたそうだ。子どもは、思春期から大人になりつつある。
そして、その子が死んだ。死因は交通事故。詳細はわからない ・・・ どうせ金持ちのドラ息子だ、夜中に車をぶっとばして、交差点の赤信号無視で中央分離帯に激突したか、他の車につっこんだか − あの国のあの街では、交通事故なんてそんなのばかりだったぜ。
そして、その直後に、彼は会社を手放した; つまり、6割だったか8割だったかの株を保有する CEO は、ある日 会社を他社に売り渡す決断をした。20年の間、常に大手から買収の話は来ていたが、それを拒否し続けてきた彼が、ついに会社を手放してしまったわけである。誰が考えても、きっかけは 「子どもの死」 だった。

アメリカ側では、会社は吸収した側の1事業部になった。数ヵ月後、それぞれが日本に持っていた支社も、1つに統合された。面白いのは、日本市場では吸収された側の会社のほうが大きかったので、本来 親会社であるはずの側が、吸収された会社の事務所に移転してきた。そのまた半年後、統合後の本社で大幅な規模削減があり、日本支社もその影響を受けて、人員削減が行なわれた。今、Kがトップだった時代の日本側役員は全員が去り、その時代から残るのは技術者3名を含む実働部隊だけだ。いま、日本にやってくるのは、吸収した 「親」側の関係者になった。

で、
昨日の酒の席は、その 「親」側のトップと技術者、それから、たまたま日本に来て研修を受けていた韓国の代理店の技術者、それに通訳の僕と、東京に常駐する日本人社員たちである。

Kと、僕と、日本側の現トップと、アメリカ側のトップは、まったくの同世代に当たる。その間、僕自身も、離婚と再婚をやっている。うちのちびすけは1才2ヶ月、これは2度めの妻との子であると言い出したのは僕である。
アメリカ人が答えた: 「俺は、結婚したとき既に妻には2人の子どもがいた。つまり、子どもは OEM供給されたのだな」。
ふむ。なるほどね。「でも、あなたは、従ってその子らの人生の大部分を見てきたのでしょ?」。Yes。もう思春期から大人になりつつある子どもたちらしい。

「子どもは OEM供給を受けた」というジョークに、彼自身は満足したようだった。日本側のトップは何も言わないので、まあ常識的に初婚が現在に至っているのでしょうし、聞いてみるようなことでもない。

Kは、今はどうしているのか、聞いてみるのを忘れた。ただ一人の息子を、その思春期後半で死なせた父親だ。その現在を詮索するのは、多少は勇気の要ることかもしれない。しかしそれ以前に、忘れていた。

ご参考までに、『風と共に去りぬ』のレット・バトラーも、僕(ら)のこの年代で初めての結婚 (スカーレットは3度めの結婚)、最初で最後の子ボニーが生まれる。この子も、ロバに乗って柵を跳び越えようとして、死んでしまう。

以上、僕を除く全員が 「金持ち父さん」である。


(20021107-1) 私はどうも正しいらしい

何かというと、「ハリー」原作のハーマイオンの描写は、僕の解釈が正しいらしいのだ。ゆうべ、こう書いた:
この作品、結局 原作では、ぼさぼさ頭のハリー、ひょろひょろのロン、出っ歯でブスのハーマイオン
日本語の厳密な意味において、「出っ歯」というのには、英文マニュアルの翻訳を職業とする元同僚から異議が出た。彼女は、原文も訳文もみんな見たという。
が、問題の原文をアメリカ人2人を相手に読んで見せたら、彼らは大笑いした。そうして、僕は一応確認する意味でアメリカ人に質問してみたのだが − (This) means she is - kind of - ugly? (これ、彼女はブスだってことかね) − 彼らは答えもせずに大笑いしている。これは、基本的に Yesである。もう一度、引用しておこう:
She had a bossy sort of voice, lots of bushy brown hair and rather large front teeth. (p.79、太字化は水野)
重要なことは、この 「原文」は、朗読されるとアメリカ人はげらげら (またはけらけら)笑い出すような文章であること、bossy, bushy という語の繰り出しがある種の 「韻」を踏んでいること、この2語がまた決して 「上品な」単語ではなくて、子どもの喜びそうな表現であること、それに続いて問題の rather large front teeth という表現が出て、ついに彼らは笑い出したこと − である。要するに作者は、子供向けの文章、仮に大人が読めば面白がるような文章を綴っている、ということ。謹厳実直、マルクス主義原典を学問的に解釈するために苦虫かみつぶした表情で読むような、そういう文章ではない、ということだ。
こうなると、この1文の訳も、考え直さざるを得ない。困ったな。とりあえず、やってみるか:
なんだかえらそうな声でしゃべる、もじゃもじゃと長い茶色い髪の、やたらに前歯のでかい女の子だった。
「韻を踏む」のを訳すのは基本的に無理で、不可能なことを試みてもしょうがない。原文では rather、一見控えめな表現は、しかし実際には 「過激な表現」に先立って出る緩衝表現だと見ることにする; すると、これは 「やたらに」 と訳す根拠にもなる − このあたりは、「翻訳」原論的な議論で、議論を展開すればキリがないのだが。
そういうわけで、訳本は (おそらく集団翻訳なので、結果的に)過激な訳文を避けているが、原文の 「実態」は、どうも僕の解釈が正しそうなのだ。

話のついでに、アメリカ人たちに、イギリス版 Philosopher と アメリカ版 Sorcerer のちがいを聞いてみた。アメリカ人たちは、Philosopher では 「魔法 magic」がぜんぜん連想されない; Sorcerer ならそれがわかる、と言っていた。なるほどね。たしかに、アメリカ語では Wizard さえコンピュータ用語化している。20年以上昔の話だが、Sorcerer という名前のマイコン (パソコン)もあった。あの8ビット・マイコン Sorcerer こそ、「魔法の機械」という意味だったのだ (たしかにあの機械では、その気にさえなれば、1980年ころ、その画面にハングルを表示できたはずだ。ただし値段が高かったから、誰も買えなかった。今はこの機械を記憶している日本人も、多くない)。

以上は、「仕事」の通訳の後、日本人、韓国人、アメリカ人を集めての 「居酒屋」での話。僕を除いて、アメリカ人と話のできる者は数人、ただしこの3言語を自由に渡れるのは僕だけだった。それから、もう驚くこともなくなったが、日本側のトップとアメリカ側のトップ、それに僕が、ほぼ同年令で − まあ、悲しいけど 50前だった。韓国人たちは、兵役をすませたばかりの (まだ) 20代である。


(20021106-1) 「普通の通訳」 2日め、その後の英文 「ハリー」

初日で体力的には充分に疲れたが、2日め、逆に 「仕事」そのものには余裕ができたらしい。長時間の通訳の間に、自分のしゃべる朝鮮語がときどき (あるいは しばしば)ブロークンなものになっていることが自覚されてくる − これは、その限りでは 「余裕」の表現だ。語学とはそういうもので、自分のしゃべっている N語の自然さの程度が判断できるようになってくれば、「ある」 境界線を越えたと考えてよい。この言語を 「専攻」したのは 29年前。その後 多少のブランクがあるが、「専攻」時期が幸い 20代の 10年間なので、機会あるごとに、それなりに復元されてくる。

「余裕」ができたのかな? 帰りのラーメン+ビールの間に、また 「ハリー」の英文、続きを見る。ちょっと気になるところがあった。生意気であることだけが 「かわいらしさ」の理由であるハーマイオンの、最初の、その風貌の描写:
(原文) 'Has anyone seen a toad? Neville's lost one,' she said. She had a bossy sort of voice, lots of bushy brown hair and rather large front teeth. (p.79)

(水野) 「誰か、ネビルのヒキガエル見てない? いなくなったやつ」 と彼女は言った。なんだかえらそうな声の、ふさふさした茶色の髪の、前歯が妙に大きな女の子だった。

(訳本) 「誰(だれ)かヒキガエルを見なかった? ネビルのがいなくなったの」
なんとなく威張(いば)った話し方をする女の子だ。栗色(くりいろ)の髪(かみ)がフサフサして、前歯(まえば)がちょっと大きかった。 (p.157、カッコ内は訳本ルビ、改行も訳本による)
訳本が 「読みやすさ」を求めて 「。」 を挿入している点、これは僕も悪くないと思う。
ところで、rather large front teeth 「言うならば大きいというべき前歯」って、どういう意味なのか、首をかしげた。僕は瞬間、ハーマイオンは 「出っ歯」なのかな、と思った。そう解釈すると、ふむ、彼女の風貌は 「どちらかというと ブス」ということになるのだが (「ブス」を差別語だと非難なさるなら、どうぞ。しかし) 少なくとも第3巻までの間には、ただの一度も彼女を 「美人」だと表現する文言は出て来ない。映画の彼女=俳優が比較的 「かわいい」少女であるのは自然な選択で、それは別だ。そういえば ・・・ 映画のロンと、本のロンの風貌も、相当に異なる。実はハリー自身が、映画と本ではぜんぜん風貌が異なる。本では、ロンはひょろひょろの背高だが、映画では普通の男の子、ハリー自身、映画では美少年の一種だが、本ではぼさぼさ頭のはずである。

で、である。
イギリス英語に 「出っ歯」という簡潔な表現は、おそらくないと思う。わたくしは。日本語でもこれは 「一次語彙」つまり単独の単語ではなく、「出る」+「歯」の合成語である。知っている限りの言語で、「出っ歯」に相当する (たとえ合成語であっても)語彙はない。ならば、作者が本当に言いたかったことは、我々(日本語話者)の表現で言えば彼女は出っ歯であり、えらそうなしゃべり方をし、髪だってブロンドでもない (ブロンドの髪は、幼い宿敵のマルフォイだけだ)ただの茶色で、声は bossy、髪は bushyと韻を踏み、最後の 「歯」についてはわざわざ rather large front teeth なんて急にもってまわった言い方をする − つまり、作者は暗に、あるいは明瞭に、ハーマイオンの風貌をブスだと言いたいのじゃないの?
本では、このハーマイオンがハリーとロンの (客車の)コンパートメントを去るや否や、ロンは言う: あんなのと同じ寮に入りたくないぜ。

で、僕の今の結論は、「原作のハーマイオンはブスで生意気である」、である。
彼女はそして、第1作の映画の中でさえロンに嫌われ、ハロウィーンにはトイレに閉じこもる。そこで、あの怪物トロールに出会う。嫌悪と親近感から彼女の所在に気がつくのはロン、そしてそのトロールに飛びついたハリーの指示で、ハーマイオンから教わった呪文でトロールを倒すのはロンである。

この作品、結局 原作では、ぼさぼさ頭のハリー、ひょろひょろのロン、出っ歯でブスのハーマイオンの、11才の関係の深化を扱っている。そして − 「主人公とヒロイン」は、さりげなく ロンと ハーマイオンだと言い切ったイギリス人評論家がいることも、もう書いた。


(20021105-1) 久しぶりの 「普通の通訳」

とても久しぶりだ。
ごく 「普通の」通訳で、ただし/しかも 10年前の職場で、内容は、過去 20年近く関係してきたソフトウェア・システムのユーザ教育。おまけに講師はかつての同僚。「かつては」 僕自身が講師をしてきたが、最近の商品事情から遠くなった僕は、今回は 「通訳」に徹すると、そういう約束で引き受けた仕事だ。

こういう場合、「通訳」は気楽だ。
内容はわかっている; というより、熟知していて、僕自身が講師をしてもよい。ただし、3日間連続 一人でやるのでは、体力的に相当苦しい (学校の授業とちがって、企業研修の類は8時間+の間フル拘束である。講師も適当に休み・または交代しないと、へたをすると倒れる)。それより、20年来の友人は今も社員だし、彼を講師に立たせて、僕は楽をすることにした。

彼の講義も、僕と同じことを説明する。彼は社員なので慣れていて、手の抜き方も、仔細な質問で横道にそれて時間を浪費することもない。機会を作っては、新人の講師も連れてくる。新人の講師は、はは、やっぱり 「仔細な質問」で横道にそれて行くが、そこは先輩講師が控えて、適切な指示を出す。見ていて (いや、一応 通訳もしながら)、「後輩って楽だな、先輩がいろんな指示を出してくれる」と思った。

「講義」というのは、一般に講師によって 「密度」が異なる。かつての同僚の講義は、通訳しながら僕が 「翻訳的」に相当に補って説明する必要があることがある。それだけ、彼の講義の密度は高い。新人の講義には、通訳するまでもない、見てりゃわかるから、通訳、手抜きですむことが多い。ふーん。ふむふむ。
ただし、通訳が相当に 「補って」説明する必要があるということは、これは単に 「語学大好き」通訳では無理、ということでもある。その意味で、彼は とても良い通訳を手に入れたわけですね(あはは)。話題が技術面でやや複雑な内容である場合、ある種の背後知識を必要とする場合、講師の頭の中にある背景を、通訳はいかに簡潔に、聞き手に喚起させつつ訳すか、という問題である。ま、それ自体は、けっこう疲れたけど。

場所は、秋葉原・神田・御茶ノ水・神保町というあたり。ホテルへの帰り道を韓国人たち (つまり受講者たち)に案内していたら、なんとホテルは秋葉原のすぐ横だった。この際だ、彼らも秋葉原見物に来た。やや時間が遅いので、技術屋受けする店はみんな閉まっているが、大型家電はまだ明るい。短期の日本滞在、まあ、いい見物になったかな。

不思議なことに、8時間 朝鮮語(韓国語)の通訳をした後は、帰りの電車の中で英文の 「ハリー・ポッター」を読む元気がない。やっぱり、脳も疲れるのだ。仮に日常化すれば、1日に3つの言語を行き来することもできるだろうが、しかし こういう単発的な体験では やはり Tri-Lingual にはなれないな、と思った。

この仕事は、あと2日続く。


(20021103-1) 今日は日記

休日は、まったく本を読んでいる時間がない。ツマ子のメンテが忙しくなるからだ。

(1) 彼らが眠ってしまってから、やっと、懸案のパソコンの 「修理」をはじめる。
「サーバになっているので送り返すことができない」、故にメーカー側からまずマザー・ボードを送ってくれた話を、書いた。2週間ほど、手がつけられなかったが、取りかえた。あれ、おかしいな。2点あった故障のうち、LANは完全に直った。つまり、マザー・ボード上のチップが破壊されていたわけだが、電源OFFまたは再起動が、またおかしい。
調べること、つまり実験する必要のあるのは、BIOS上のその各項目と、それに、かなり多数の周辺機器だ − USBのプリンタに IEEE1394上の CD-R、PCIバスに挿してある TV録画ボード。一番疑わしいのは TVボードだが ・・・ BIOS側設定のチェックをはじめてしまったので、これが終わるまでは放置だな。面倒くさい。BIOS設定を1項目ずつ変更して、数回のリセット、電源 On/Off をくりかえす。ある設定によって確実に変化が出るならいいのだが、「うまくいったり、いかなかったり」する。その場合、それは偶然の (他の)要素による問題とみなすわけだが そういう結論を出すには、少なくとも数回の電源 Off/On をくりかえすわけで、まったく、時間の浪費がはなはだしい ・・・

(2) 先々週だったか、携帯が壊れたので、修理に出してあった。
修理の持込先というのは、都内では、意外なほど 「繁華街」には少ないことがわかった。「売る」店はクサるほどあるのに、「修理」は何ヶ所もない。この場合、「三ノ輪」と言ってもご存知の方は少ない。土曜日にそこに行った。週末なので、子どもを連れて行った。
「三ノ輪」は、歴史的記念品的なちんちん電車の保存路線である都電の、終点である (反対側の終点は 「早稲田」。うそではない: 早稲田大学の足元まで、東京には 「都電」が走っている。大通りの真中を電車が走るのは数ヶ所、その他は 「専用軌道」部が多いので、それで残った路線である。他の路線は、京都と同様にすべて撤廃された)。

その 「三ノ輪」は、山手線ループの右上、北千住-南千住-三ノ輪-入谷-上野 の線上にあり、近くには浅草がある。つまり、都内では非常に古い、典型的な 「下町」(?)である。
「上野」の周辺はさすがに都市化が進んでいるが、それでも汚い街が残る。「北千住」も同様で、商店街は一見近代化されたが、街は古い。「三ノ輪」の商店街は、「浅草」のそれをやや小規模にしたものだったが、やはり古い家屋の上に新しいアーケードがかけてあるだけだ。幅 90cmのソバ屋の 「ウィンドウ」の中に線路が引いてあり、ちんちん電車が走り回っている。その店でそば食って、トイレに入ったら、そこには − 天然記念物じゃなくて − この建物は何かの保存物である、いう表示があった。

行きは地下鉄だったが、帰りはちんちん電車に乗った。僕が言った: 「おい、あの商店街、フクロウも魔法の杖も売ってなかったな」。7才、2年生は言った: 「そんなの、普通は売ってないよ =3 」。

「普通」でなければ売っていそうな、そんな商店街だったのだ。
学芸会で着る黒いスカートが、イトーヨーカドーなら3千円くらいなのに、ここでは 400円くらい高かった。2年生め、時々こういう反応をするのだが、今度も ここで 「これにする!」と即断を下す。なんだか、ガリオン金貨を数枚払わされたような気になった。ならば、いっそのこと、フクロウの店でもあればよかったのにね。

この子は香港の問屋街、たとえば 「あやしげな日本語カナもどき」の書かれた靴下やTシャツといった、そういう店の並ぶ商店街にも、出入りしたことがある。韓国の 「市場」は未経験だが、はて、最近は近代化されてしまった (らしい)韓国の市場に連れてゆく機会があるかどうか、今はわからない。


(20021031-1) 『ハリー・ポッター』の原文を読んでいる最中 (2)

「ハリー」の (作者の)語り口は、基本的に 「舞台回し」型、つまり映画のカメラのように自在に書き手の視点が移動すると書いたが、これはそれほど (思ったほど) 恣意的ではない。序章の導入部分、つまり0才のハリーが親戚の玄関先に捨てられる場面は、おそらく最後の付けたしで、これは止むを得なかっただろう。

が、11才の誕生日前後から大量に舞い込む 「手紙」あたりから、実質的に 「事実上の1人称 (しかし文章形式の上では3人称)」になる。実は、この 10年後の章でも、はじめのうちは、作者は冗談チックな口調でハリーの心理を説明しはじめるのだが、それは、ハグリッドが嵐の夜 海岸のバラックに現われ、ハリーに事情を説明するあたりから、完全な 「事実上1人称」になる。これが案外 めだたないのは、時制が 「歴史的現在」、つまりいつも過去形で書かれるからで − 例えば Harry thinks ・・・ とあれば我々でも 「あ、3人称単数」と思うのだが、常に過去形 Harry thought ・・・ と書かれると 「3人称」であることを忘れてしまう。ハグリッドから自分の出自を聞かされ、ダイアゴン横丁に行く間に、文面は完全にハリーの内面描写になり、世界はハリーの認識のもとで(のみ)描写されて行く。この展開のうまい・へたが、作品の成功を決めるキーの1つでもある。この作者は、うまい。確かに、実にうまい。

くどいようだが、映画はあくまで映像でそれを 「説明」するのだが、「本」では、特にダイアゴン横丁あたりから、ただただ 「ハリーの視線で」、ハリーの視点からのみ、記述が進む。これが、近代文学、いわゆるリアリズムの 「描写」 基本技法の1つ、ではある。たとえば − そうですね、作者は地の文でダイアゴン横丁を説明しない; 説明はあくまでハグリッドにさせる; そこで大事なことは、「だからハリーはこう思いました」と書くのは素人で、それでは 「説明」になってしまう。ハグリッドの説明から直ちにハリーの内心と、次々にわきおこる疑問と質問を、ハリーの意識の中から次々とハグリッドに投げかける。作者は、たしかに、ものすごく上手な書き手だ。いわゆるストーリー・テラーとは、上手な 「説明者」のことではない; いま話題をハリーの世界に決め、そのまず大枠の 「説明」が終わると、以下は決して 「作者」が出ることなく、どこまでも 「ハリー」の認識の中で、ハリーの認識を通してのみ読者に語る。つまり 「事実上の1人称」で展開される。

数ヶ所、やはり英文の読み取れないところが出てきた。訳本に当たってみると、なるほどね。でも、なにか印象がちがう。なぜ、原文と訳本の印象がこれほどちがうかというと、理由は2つある。1つは、ハグリッドの発話は強い方言なので、その扱い方。もう1つは、限りなく 「読みやすさ」を追求したらしいこの (おそらく)集団翻訳が、あまりにも読みやすすぎる点か。以下、原文、次にその日本的学校英語への訳文、最後に僕自身が訳してみる:
'Yer not from a Muggle family. If he'd known who yeh were - he's grown up knowin' yer name if his parents are wizardin' folk - you saw 'em in the Leaky Cauldron. Anyway, what does he know about it, some o' the best I ever saw were the only ones with magic in 'em in a long line o' Muggles - look at yer mum! Look what she had fer a sister!' (p.61)

"You are not from a Muggle family. If he had known who you were - he was grown up knowing your name if his parents are wizarding folk - you saw them in the Leaky Cauldron. Anyway, what does he know about it? Some of the best (Wizards or Witches) I ever saw were the only ones with magic in them in a long line of Muggles - look at your mum! Look what she had for a sister!"

「お前はマグルの出じゃないぜ。お前の正体をそいつ(訳注:マルフォイ)が知ってりゃ、どうだったか。親が魔法族だっちゅうなら、そいつはお前の名前をいつも聞かされて育ったはずだな。「漏れ鍋」で会っただろう、そういう連中に。どっちにしても、そいつに何がわかる? 俺が会ったことのある最高の魔法使いには、長い間マグルばかりだった家系に、たった一人だけ魔法の使えるのが生まれたってのが何人もいる。お前の母さんがそうだ。その母さんの姉貴なんか、見てみろ、あのざまだ」
(対照される方は、訳本では p.121 に該当部分)
訳本に導かれて、僕はそう解釈した。でも、訳本のハグリッドの言葉の、やさしいこと。

なお、ハグリッドの 「方言」は、最初の 30ページくらいは苦労する。が、原則通り、とにかく読み進めれば、「いずれ」後の展開で判明する。標準語の you が yeh に、your または you are が yer に、of が o' に、 for が ferに、それぞれ対応する。その中で突然標準語の you が出てくるが、それは関西人が急にそこだけ 「標準語」でしゃべる (またはその逆の)文脈を想像すれば、「そこだけ特別なトーン」であると想像すればよいはずだ。

・・・ 相手が英文だと、こういう引用も簡単でよい。実は 10年ほど前から、朝鮮語の − あるいは韓国の − 小説でこんな議論をしたいと思いつづけているのだが、いまだに実現しない。


(20021030-1) 『ハリー・ポッター』の原文を読んでいる最中

「原文」と 「訳文」の決定的なちがいは、一般に 「訳文」は読者の母語なので 「ななめ読み」できることだ。この 「ななめ読み」に耐えない訳文は、「目をそむけたくなる」 「翻訳調」と呼ばれる。「ハリー・ポッター」シリーズは、どう考えても集団翻訳で、「読みやすさ」を求めた、相当な内部議論の末の訳文である (あろう)ことは、もう書いた。

それに対して、原作を母語としない読者にとって、「原文」は 「ななめ読み」はできない。朝鮮語歴 30年、その最初の 10年は朝鮮近代文学を 「専攻」とした僕が断言するのだが、どんなに慣れても 「原文」は1語1語、逐次読み進める以外に、方法はない。もちろん、「いや、俺は現代の韓国の新聞をななめ読みする」と言う人は必ずいるが、その人たちは、その記事の言語的・語学的な状況に興味がないからだ。「言語」そのもの、あるいは、腐っても 「文学」作品であることをうたう作品を読むとき、「かつて文学専攻」のおじさんは、どうしても1語1語を逐次追ってゆくしかない。

かつて朝鮮語の長編を読み進めたときのように、おじさんはこのイギリス英語を読み進める。電車の中、帰りのラーメン+ビールの間に読むだけだから、速度には限界がある。それでも、ハリーはダイアゴン横丁に到達した。

「原文」を読みながら、はじめて気がついたこと: ハリーを迎えに来た大男・森番のハグリッドは 「傘」を持っていて、それを魔法の 「杖」の代わりに使う (ハリーの養家の息子にブタのしっぽを出す場面など)のだが、その 「傘」は、驚いたことに 「ピンク」なのだ。訳本は 「ななめ読み」したらしくて、僕には驚きだった。
職場の読書家に、聞いてみた: 「ハグリッドが持っている傘の色は?」。即、「ピンク」と返事が来た。彼は、DVDは子どもらに与えて、自分は 「本」(訳本)を読んでいるらしい。その彼は、訳本で明瞭に 「傘」が 「ピンク」であることを記憶している。それに対して、「ななめ読み」に耐える訳本を僕は本当に ななめ読みしたらしい。「1語1語、逐次」読まざるを得ない 「原文」で、はじめてそれに気がついたのだ。

それが、どうした?
いや。
その先は、DVDもさんざん見た僕の 「色盲」問題もある: つまり、液晶モニタの色調整もあるが、僕はそれを調整できない − 上の子 (女の子、従ってこの子は色盲ではない)がもう少し大きくなれば自分で調整してくれるのだろうが、今はメーカー出荷時のまま いじれない。その画面で、あの傘が 「ピンク」であるとは、知らなかったぞ。日本人男子の色盲率 5%、そのまた 90%を占める 「緑色盲」の場合、中間色に類する薄い 「ピンク」の認識は、パソコン画面では ほとんど絶望的なのだ。

いや、それは余談で、とにかく僕は、訳本では傘が 「ピンク」であることを読みとばしている。原文で はじめて、それを知った。「原文」を読むことの意味、「1語1語」追ってみることの意味。一応それが、今は言いたいことである。


(20021029-1) 西岸良平 『鎌倉ものがたり』


西岸良平 「冥途講」、『鎌倉ものがたり 17』 p.40、双葉社 2001.04.12

同上 p.44
職場で 「あの世のカネ」 をパソコンの壁紙にしてみたら、あらら、やっぱり 「縁起が悪い」という評が出た。そこで、話を聞かせてさしあげる: 西岸良平 『鎌倉ものがたり』というマンガでは、冥土の入口にバス停があり、そこで待っていると AIR BUSと称する飛行船がやってくる; それで三途の川をひとっ飛び、冥土の本土に着く; そこには (いわば)ダイアゴン横丁があり − ちゃちゃが入って、「ゴブリンとか鬼の銀行とか?」 − そうそう、青鬼、赤鬼がたくさんいるんですね。そこで使えるカネは、なんと香港で発見されたのである、と。

正確なところでは、ダイアゴン横丁にはいないが、冥土の土産物屋街にいるものは、亡者たちである。画像がつぶれてしまったが、下側ページ p.44 の最後のコマは、頭に三角マークを着けた亡者が3人、温泉マークから出てきたところである。左側には屋台があり、品書きには 「えんま酒」、「まんじゅう」、それからおでんの湯気が見えている。

しかし、結局、この話を説明しないと、「あの世のカネ」は一般に 「縁起が悪い」、「不吉な」ものであることを、確認してしまった。

と同時に、余計な対比のつもりだった 「ダイアゴン横丁」との共通点も、僕には より明確に意識されてきた。
もちろん、ホグワーツ特急は飛行船に対比してよい (その証拠に? 「ハリー」第2作 − 来月の映画 − では、ハリーとロンは特急に乗らず 「車」で 「空を飛んで」ホグワーツに行く)。ダイアゴン横丁も冥土の土産物屋街も、「この世ならぬ世界」への入口、またはその準備の場所である。それをすぎると、本格的な 「非・現世」になる − 「ハリー・ポッター」は、童話でありつつ実は怪奇恐怖小説でもある。第1巻で既に、「マグルたちの普通の世界」と、「魔法界」のちがいが強調される。それは 煉獄と天国への岐路でこそないが、しかしホグワーツでは次々とおそろしいことが起こりつづけ、まさにそのことによってのみ、「ハリー・ポッター」の一連の話は展開されて行くではないか。現実問題として 「ハリー」の映画はおそろしくて、それを正視できない子どもたちがいる。もしあなたがあの映画を見て本気で 「こわい」と感じるのでなければ、冥土もやはりこわくないはずである。

ついでなので、この冥土での切符綴りをご紹介。
これは、冥府護照、つまり 「あの世発行」のパスポート・セットに含まれていたもので、セットにはこの他に小切手帳、クレジット・カードも含まれる。パスポート本体には 「亡者であるこの旅券所持人を無事通行させるよう、関係各所に依頼する」旨のページがある。もちろん金文字の表紙、写真を貼ってサインするページ ・・・ などがあるのだが、表紙の金文字などスキャナでうまく取れなかったので、ごかんべん。

念のため、切符は上からバス、汽車、船、飛行機である。絵の4枚アコーディオン・ドア1階立てバスは、空港シャトル・バスである。「火車 = 汽車」には、なんと日本の新幹線の絵が、船は現代の豪華客船、飛行機は大型ジェットで、残念ながら 「ホグワーツ特急」の赤い機関車は出ていない。が、あるいはハグリッドも、そのロンドン支店で切符を買ってハリーに与えた、かもしれない。

(さらについでに: 「ハリー」第2巻からは、ハリーは自分で 「ホグワーツ特急」の切符を買ったはずである (直接の言及はない)。親の残してくれた 「あの世」、いや 「魔法界」のカネを、7年の在学中に使い切るわけにいかないという彼の経済観念と、貧しい魔法省サラリーマンであるロンの家庭の経済事情、それに対比した悪役マルフォイの裕福な背景が、第2巻、第3巻で説明されている。
現世を離れても、問題はカネか)


(20021028-1) あの世のカネ、または天国または冥土のカネ

右の画像をご覧くださいませ。これが 「あの世のカネ」、または 「天国のカネ」、あるいは 「冥土のカネ」でございます。

画像を縮小したので、細部が読めなくなった。金額の漢字は 「壱億圓」、発行者は 「冥都銀行」、表裏ともに 「通用冥幣」と それぞれ右から書かれている。カネの単位 「圓」は、他の紙幣によって 1圓 = 1 DOLLAR であることが確認される。この 「1ドル」がどこの 「ドル」かといえば、当然ながら香港ドルである。HK$1 は、おおよそ日本の ¥15 程度に相当する。従って右の紙幣は、これ1枚で日本円 15億に相当する。

西岸良平の 『鎌倉物語』によれば、冥土の入口にはバス停があり、そのバス停には飛行船の AIR BUSがやってくる。その「バス」で三途の川を渡り、降りたところには土産物街またはダイアゴン横丁がある。ここで買い物をした後に、亡者は閻魔大王に会いに行く。多くの場合、亡者は生前に善人なので、そこから極楽に直行、極楽では次の生れ変わりの時期を待つだけなので、冥土行きは決して恐怖ではない。
万一の場合に、閻魔大王の前で、「お前は生前に悪をなしたのではないか」と問われて言いよどむ場合にも、この紙幣は有効だろう。地獄の沙汰もカネ次第なら、金額は多いほどよい。

香港は、100年の英国植民地の歴史にもかかわらず、土着宗教を保存してきた。それは、社会主義中国の支配下に戻っても、やはり保存されるだろう。同時に忘れてはならないことは、この紙幣が 「仏教寺院」の売店でさえ手に入ることだ。仏教とカトリックは、歴史的に 「現地」の土着宗教に寛容だった。死者の子孫たちは、少なくない比率でカトリック、あるいは英国国教系の学校に通っているにもかかわらず、死者の葬儀には この 「冥土への送り」が許される。考えてみれば、キリスト教の 「煉獄」と 「天国」は、仏教以前の 「地獄」と 「極楽」と同じものだ。そこに、「カネ」だけが現世の幸福と安定を決める香港の文化が介在するとき、この 「あの世のカネ」が意味を帯びてくる。この 「あの世のカネ」は、前にも書いたが、少なくとも世界中の他の世界では見たことがない。

僕は、僕自身のために このカネの残額を保管するだろう − かつてアメリカで手に入れた 「カネのなる木」の種と同様に。僕が死んだとき、妻・娘・息子は、きっと (日本の文化の中では) 火葬前の僕の棺に、それを入れてくれるだろう。いや、ツマ子どもがそれを拒否して、あくまで それは自分が使うので父親の棺桶に入れるのは拒否するのだって、いっこうにかまわないのだ。


(20021027-1) 香港で買った DVD (3)、"ICE AGE" の Korean部

先日(下記)のリストから省いたが、香港で DVDはもう1枚 買った。日本語版でも 『アイス・エイジ』 らしい 表題作、パッケージは完全に英語のみ、そのパッケージ表面に香港むけステッカー (日本でいう 「シール」)が貼ってある。これの音声・字幕構成は:
音声: English (5.1ch) / Mandarin, Korean, Cantonese (2ch)
字幕: English, Cantonese, Mandarin, Korean, Thai
言語表示の順や、音声の数と字幕の数の不一致は、これは日本で売っている DVDにも見られる現象なので、まあ、よいことにする。
(念のため、Mandarinとは台湾標準中国語または国際華僑標準語のことで、中国北京とは (実際には音が)異なるが、話者たちは北京語だと信じているし、北京現代人も同じ言語だと認めるだろう言語をさす。これが Chineseと表現されない理由は、おそらく 「北京官話じゃないよ」という意味か、あるいは繁体字が出るせいだろう。Cantoneseは中国語内部の巨大方言で、字幕には通例繁体中国語が出るが、字幕で Cantoneseと うたう場合には香港文字 − 広東語の一部の表記にある 「非中国」漢字 − が発音通りに出るという意味である)

で、その Korean部分だが、
は、は、は、驚きましたね。スピーカーの声と字幕が、まるでちがうじゃないのよ。どのくらいちがうかというと、「ハリー・ポッター (石)」の日本語音声と字幕より、もっとちがう。おひまな方は「ハリー」のそれを比べてくださいな。日本で売っている 「千と千尋」の日本語音声と日本語字幕もかなりちがうが、これは 「もともと日本語」なので、字幕の省略が激しいだけだ。ところが、「ハリー」の日本語音声と日本語字幕は、まったく別の訳者がまったく別の場所で、孤立して仕事したのではないかと思うほど、声と字幕が異なる、ことがある。音声は原則として原文シナリオの訳、「字幕」は限られた数秒内の 「瞬間芸」なので、字幕がそこから瞬間的にずれることは多い。そうやって 「つかず離れず」 最後まで客を放してはいけないのが字幕の 「芸」なので、一概に非難することはできないのだが。

で、『アイス・エイジ』の Korean 音声と字幕は、「音声と字幕は、まったく別の訳者がまったく別の場所で、孤立して仕事した」 と直ちに確信できるほど、異なる。このデンで行くと、この DVDの聞き取り+字幕で語学の勉強をしたい 中国語、広東語 学習者には、多分ぜんぜん役に立たないだろう。朝鮮語 (韓国語)学習者にもまったく同じ。これは、自称 「初心者」には勧めない。逆に、自信のある方には勧めてよいと思うのは、同じ原文の訳が これほど異なるものになることが、とてもよくわかるからだ。もっとも、80分もある映画の全編を そうやって注視できる人は少ないだろう。

よって僕は、こいつは広東語でしゃべらせて、Koreanの字幕を見る; するとかあちゃんは聞けばわかるし、字幕を見れば僕の同時通訳で子どもにもわかる − これで行くことにした。もっとも、作品は 「絵」を見れば大体 大筋がわかるし、多くは言葉に頼らない展開なので、それだけで子どもは喜んでいる。言葉が必要なのは、「なぜマンモスとトラとキツネ(?)は人間の子どもを保護して、この子をどこに連れてゆくために この冒険を続けるのか」という核心部分、それに、その冒険の途中で生まれるマンモスとトラの友情と、その友情のためにトラは仲間とそのボスを裏切る、その説明など、だ。(なお さらに余談だが、「韓国語」では ho-rang-i だから 「トラ」と書いたが、子どもの観察によれば これは 「ライオン」である。中国語・広東語の字幕は、まだ見ていない。英語? 面倒なので聞いても、見てもいないぞ)

が、話は常にハッピー・エンドの反復構成なので、その説明なしでも子どもは画面にはりついていた。
だから今のところ、子どもの隣で同時通訳する機会は発生していない。


(20021025-1) 香港で買った DVD (2)、ハリーの 「石」の名前

「賢者の石」は、繁体中国語字幕では 「魔法石」だった。
原題が Philosopher's Stone と Sorcerer's Stone の2種あるので、英文字幕が気になった。2台のパソコンで DVDを同時に再生させて見比べてみた。基本的には、100% 同じ字幕。が、発見した限りでは2ヶ所、ハーマイオンが本を見つけてきて、「石」の作者ニコラス・フラメルの項を読み下す場面、それに、3人がマクゴナガルのもとに走り 「校長に会わせてください」の場面で、その単語だけが見事に Philosopher と Sorcerer に分かれる。他の部分では、単に the Stoneですんでいるので、完全に同じだ。

この他、日本版は画面サイズ(縦横比)がワイド、香港版は通常の TVサイズ。やや印象がちがうのはそのせいだ。
もう1つ、香港版は字幕にも音声にも 「韓国語」はないくせに、DVD冒頭の著作権に関する 「警告」には、なんとハングル表示がある。プレスの現実の場所は韓国なのかしら。しかし香港版の映画本体にはその音声も字幕もないので、韓国内では 「中国・広東・インドネシア」語のかわりに 「中国、韓国、タイ」語版でも売っているのか、どうか、僕は知らない。

原文のイギリス版 ( Philosopher )と アメリカ版 ( Sorcerer ) の正確なちがいは、「本」を対照してみないとわからない。「本」の原文は、まだイギリス版を読みはじめたばかりだ。

この作品の英文は、「子どもむけ」なので平易で読みやすい。ただし、英文になれた日本人には 「読みにくい」そうで、それは、この作品には 「聞きなれない」魔法用語が次々に出てくるからだという。僕の場合、いずれイギリス英語には慣れないし、知らない単語の頻度も高いが、そこは 「ろくな辞書もない」 朝鮮近代文学の 「経験」がある: 経験的に、不明な単語は、後の展開でいずれ判明する。後々まで判明しないものは、忘れてしまうような語ならそれでよい; どうしてもわからない、しかもそれがキーワードで、それがわからなければ一歩も前に進めない − そういう状況になれば別だが、今のところ そういう単語は出て来ない。だいたい、訳本を既に読んでいるので、「あの文面だな」と見当がついてしまうのだ。

「子どもむけ」であるということは、正統的な英語だということだ。最近増えてきた、コンピュータの擬似英文マニュアルに慣らされると、こういう 「英語的な英語」に接することが少なくなる。例えばこんな・なんでもない文章が、妙に新鮮に 「英語だな」と思ったりする:
The snake suddenly opened its beady eyes. Slowly, very slowly, it raised its head until its eyes were on a level with Harry's.
(ヘビは突然、ビーズみたいな目を開けた。ゆっくり、ゆっくりと頭を上げてきて、ハリーと視線が合った)
Paper Back Philosopher p.25
小説の話法としては、やはり古典的な舞台回し型 (書き手の視点が、映画カメラのように自在に移動する 「絵本」型: 訳本を読んだ方はご存知の通り)。かつ、英文自体は純然たるネイティブ・スピーカーのもので、時制など いわゆる 「歴史的現在」、つまり過去形と大過去(過去完了)の関係など、なんだか受験英語の参考書を思い出してしまった。

余計な話だけれど、僕が朝鮮 (韓国)作品の翻訳をほとんど読まないこと、アメリカ、イギリスの作品でも 「翻訳」が読みにくくて目をそむけてしまうこと、などは、そういうことも関係する。「ハリー」第3巻までの訳文は、その点、実によく配慮されていた。おそらく、これは事実上の集団翻訳で、訳者たちは 「読みやすさ」を求めて、かなりの検討を重ねたはずだ (*)。ただ、今度の第4巻は長いので、どうなったか − 「ハリー」 第4巻の日本語訳は出たらしいが、僕は原文4冊を4000円台で買った。訳本の第4巻は上下セットだけで 3800円。これだと、少しばかりおカネが惜しくなってくる。
(*) それでも僕は、まだこの訳本に不満がある。訳本をお持ちの方は、上の引用の僕の訳と、訳本の p.44 を比べていただきたい。訳本の 「かま首をもたげ」 なんて表現は 「訳しすぎ」だ。もっとも、「ハリーと視線が合った」とも原文には書いてない。訳本は、その点は忠実な訳文である、が、原文の簡潔さは やや犠牲になっている。
まったく同じ問題が、韓国の作品の訳にもある。だから、原文のない訳文だけの作品を読むのは気が重い。原文が僕には読めないならあきらめもつくが、読める、入手する回路もある、となれば、「元」研究者、別の言い方では 「研究者崩れ」の僕としては、原文を参照しないわけにいかないことになる − 因果な立場だと、自分でも思うのだが。

(20021023-2) 香港で買った DVD

友人が韓国で買ってきてくれた 「リージョン・コード 3」の DVD、つまり日本の家電 「DVDビデオ」再生機では再生できない DVDの話は、前に書いた。つまり、この 「コード」 は日本が2、アジア一般が3である。パソコンでは、DVDドライブの設定で 「5回」だけ変更できることになっているが、実際には最初の再生で 「1回」を消費するので、「あと4回」しか変更できない。あるドライブに韓国 (香港、台湾 ・・・) の DVDを入れてそれを再生しようとすると、それでまた 「1回」、その後にまた日本で売っている DVDを入れるとまた 「1回」変更になって − DVDのドライブは あっという間に使えなくなる。

これに対処するには、「日本の DVD」再生用と、「アジアの DVD」再生用のドライブを別にするしかない。僕は、幸か不幸か DVD-ROMドライブのトラブルに出会い、ドライブが2台ある。1台を子どもの DVD 「鑑賞」用に、1台を僕の機械で まず韓国の DVD用にした。後者では、当然ながら台湾・香港その他アジア一般の DVDが読めることになる。

その 「コード3」の DVDを、香港で3枚買ってきた。そのうちの2枚:
Harry Potter and the Sorcerer's Stone
音声:英語、中国語、広東語
字幕:英語、中国語、インドネシア語
千與千尋 / 千と千尋の神隠し / Spirited Away
音声:日本語、広東語
字幕:英語、中国語、日本語
「ハリー・ポッター」の原題が Sorcerer になっている点、興味半分で店員に聞いてみたが、Philosopherと書いたパッケージは店にない; 店員は Same story と答えて、すました顔である。ふむ。ソフトを見てみると、少なくとも画像(動画)は 日本で売っているのとまったく同じみたいだ。「千と千尋」は、まだ見ていない。

どちらも、音声にも字幕にも 「韓国語」がないのは残念だった。「ハリー」のマクゴナガル教授の声が、中国語と広東語ではだいぶちがう。中国語のほうが重厚、広東語は日本語の声優に近いか、それよりやや 「女性的」。ハーマイオンの広東語もほとんど印象が変わらないが、この中国語はまだ聞いていない。ただ、ハーマイオンの呪文は広東語に訳されている・みたいではある。たしかにラテン語の原語発音は、(広義の)中国語世界では無理だろうけど。


(20021023-1) 「死者のためのカネ」 訂正

重大な誤り。
手元の 「冥土のカネ」の紙幣のほとんどの額面は 「5千万」 または 「1億」である。その総額は日本円換算で数兆円から数京円になると昨夜は書いたが、これは誤りである。

西洋の数値表現は3桁単位、つまり 1000倍ごとに単位が変わる (K, M, G, T) が、東洋: 日本を含む中国系数値表現では4桁、10000倍ごとに単位が変わる (万、億、兆、京)。
従って、「1億」の額面を持つ券が 「1兆」になるためには、1万枚が必要である。僕はそんなには持っていない。

いま、「1億」の冥土銀行券が 100枚あるとする。その総額は 100億である。この金額の単位は HK$ と 1:1 に対応すると思われるので、日本円との換算レートは ¥15 +- = HK$ 1 である。つまり、僕の手持ちのあの世の現金は、おおよそ、日本円換算 1500億円程度である。「いま」仮に 100枚としたが、実際に 100枚はない。おそらく 50枚前後か。手持ちの冥土の現金は (あなたが望むなら) 差し上げるが、その総額は 実はその程度なので、そのおつもりで。また、差し上げられるのは その一部で、僕自身の冥土行きの際の手持ちを残す必要があるので、全額さしあげるわけに行かないことだけは、ご了承願いたい。


(20021022-1) 死者のためのカネ

香港の葬儀ではない 「納骨」は、一族そろって、ごく常識的に、ごくささやかに、しかし ごく普通に行われた。日本に留学したことのある (うちの子の) いとこ がいるので、彼女が終始 我々のガイド役をしてくれた; 彼女の留学時期は うちのかあちゃんと重なる; もう 10年前のことで、彼女が今では完全な大人であることに、おどろく。

近しい友人・知人にぜひともさしあげたいと考えたのは、「地獄の沙汰もカネ次第」なので あの世に持って行くカネ (現金):紙幣である。僕の記憶では、亡くなった人のアパートの地下の市場で、「冥土銀行」と書かれていたような気がしたのだが、納骨の現場の売店で見つけたのは 「冥都銀行」だった。もっとも、この紙幣発行者である銀行名は、複数ある −

ご存知の方はご存知だが、現世の香港には、英国植民地時代から紙幣の発行元は2銀行があった。つまり、香港現地銀行のそれと、香港で (のみ)流通する紙幣を発行する上海系銀行の2つ; 香港が独立国であったことはないので 「中央銀行」は存在せず、歴史的に紙幣発行権は2つの銀行に与えられたらしい。さらに驚いたことは、現在では、この紙幣発行権のある銀行は3つある; つまり、中国返還後には中国系銀行が参加して、どの紙幣も (ほんと、ウソじゃないです) 3種類が存在する。1997年、僕(ら)は、それが1つに統合されると思っていたのだが、いやいや、カネの問題は大変なのだ。現地人は、この3種を使い分けてはいない。ちょうど、アメリカ人が英文字の大文字と小文字を実際には区別していないように、香港人は2種 (いや、今では3種)の同じ金額の紙幣を、まったく区別していない。「不思議だが本当だ」 を地で行くような話。

で、その香港で発見される、閻魔大王に渡して手心を加えていただくための (であろう) 現金はすべて紙幣で、今回 手に入れたものには、「冥都銀行」 と 「冥通銀行」 の2種がある。これに、記憶にある 「冥土銀行」 を合わせて、3種。香港でなければ冥土でも 「にせ札」の疑いを受けるだろう、複雑な事情がある。この他に、繁体字で 「国際冥府護照」、英文字で PASSPORTと書かれた小冊子、そのパッケージの中には (三途の川、サイの河原などを渡るための) 船の切符、飛行機の切符、小切手帳、クレジット・カードまで入っているのも、買った。
僕らは、現地の指示に従って、現金を亡き者のために焼却炉に投げた。もちろん、カネの主と、送り主の名前を書いてからである。一見して遺骸の焼却炉だと思った炉は、この死者への投函炉だったのであった。

ただ、問題を感じた。
僕は、うちの子 7才に、「これは天国のおカネだ」と説明した。だから、彼女も喜んで ばあちゃんのために炉に投げたし、残りは自分のための楽しいおもちゃとして持つつもりになっていた。が、7才ともなると、まわりの顔色にも敏感だ。まわりには明らかに、「それは縁起の悪いものだ」という表情があった。僕も、それを感じた。これは、おもちゃにしてはいけないのだろう。7才は そこから手を引いた。僕は、しかし、捨てたくない。あくまで残りは持ち帰った。だが ・・・

考えてみれば、これは日本の葬式に例えれば、ある地方 (例えば僕の田舎)で、死者を火葬に付す前に、その手に 「刃物」を持たせる (つまり、あの世に行く前に出会う魔物と戦う、あるいは追い払うために) のと同様に、生者には関係のない、関係するべきでないもの、の一部なのかもしれない。たとえば、あなたが (わたしが)、「あの世で使うカネ」を友人からもらったら どう思うか。

実は西岸良平の ほほえましいシリーズ 『鎌倉物語』には、「報恩講」みたいな集まりで擬似葬式を出し、その擬似死者は鎌倉の冥土の入口から飛行船に乗って三途の川を渡り、まず冥土の本土に渡る; そこはちょうど 「ハリー・ポッター」のダイアゴン横丁みたいな土産物屋街で、そこでまず買い物をし、それをすぎたら地獄の閻魔様に会いに行く; 閻魔様の席はホグワーツの入学式。99%の死者はそのまま極楽行き、次の生れ変わりの時期を待つだけなので、三途の川渡りは決して恐怖ではないのである − という話が出てくる。僕には、ずっとそれが頭にあった。だから、僕は あれ (いや、手元にあるので 「これ」) を、不吉なもの、縁起の悪いものだと思えない。

しかし、その話の前提なしに 「あの世のカネ」、「冥土のカネ」を、いきなり受け取ったらどうだろう。人によって、文化によって、状況と場合によって、不快、不安、恐怖、あるいは病的心理を誘い出すおそれもあるではないか。事実、これを 「天国のおカネ」だから喜んだはずのうちの子7才が、「それは遊ぶものじゃないのだよ」という周囲の無言の圧力で、手を引いた。うん。わかった。僕も、うかつな扱いはしないことにしよう。少なくとも、僕(ら)は死んだ人の冥土への手助けをしたつもり。その残りは、僕一人だけで大事に保存する。それは僕自身の冥土行きのとき使えるかもしれないしね。

そういうわけで、「近しい友人・知人」にさしあげるつもりだった 「冥土のカネ」は、今この瞬間、保留つまり取りやめにさせていただきたい。
ただ、枚数はかなりある。その券面の単位は 「円 (ただし繁体字)」 だったり 英文字で DOLLARSだったりするが、基本的には HK$ と 1:1に対応すると思われる。1枚の金額は 50000000 だったり 100000000 だったりするので、従って日本円換算すれば、合計数兆円から数京円に上ると思われる。ご希望の方には (数枚ずつなら)さしあげるので、その旨 お知らせくだされば幸い。これは、僕の知っている限りの他の世界 − 日本、韓国、シンガポール、USA、メキシコ、ドイツ、オーストリア − では、見たことのないものだ。懸案の 「ここで公開」は、作業的に今この瞬間は面倒なので、数日 待ってくださいな − もし、万一 「あなた」が興味がお持ちなら。
それから、「紙幣」なので、その 「紙幣」には必ず英文表記がある。「冥都銀行」 も 「冥通銀行」も、共通して英文表記は HELL BANKである ・・・ これを、HEAVEN BANKとさえ書いてくれれば。

急に悲しくなった。でも、HELLも HEAVENも、「あの世」であることに間違いはない。


(20021018-2) 明日から香港

亡くなった 「妻の母」の納骨、といっても、団地型の祭壇に収めるだけだ。
もう1つは、上の子の 「思い出のアパート」である、ばあちゃんの住んでいたアパート。これだけは どうしても行ってくる必要がある。公営アパートなので、いずれ他人の住居になってしまうからだ。今回の訪問の最大の目的は、そこにある。それから、何国でも同じだが、その団地の地下にある市場、またはスーパーの類。そこに、どうしても買って帰りたいものがある。いずれ、身近な友人・知人にはその一部をさしあげたい。もし、数が不足して 「あなた」にはさしあげられない場合にも、必ずここで公開したい。
この2点 (または3点)が、今度の香港行きの目的である。

僕自身は、おそらく5年ぶりの海外だ。ここまで遠くなると、やや緊張する。かつては毎月のように飛行機に乗っていたのに、ある時点から遠ざかりはじめた。5年も間が空くと、かつて初めて外国に出たころの記憶がよみがえる − いざというときのために、現金だけは持っていないと。

この感覚は、慣れるにつれて鈍化する。帰りの旅費は現地調達で平気になる。それが裏切られると、次はまた最低限のおカネを持って行くようになる。その、くりかえしだ。5年ほどのブランクの後の今は、また 「現金」を持たないと不安を感じる。

それで思い出した − 気がついたことがある。
国際結婚で、日本で専業主婦として過ごす 「妻」たちの感覚。
外国で深刻なトラブルに遭遇したとき、下世話で申し訳ないが 最後の解決手段が 「カネ」であることは、どうしようもなく事実だ。それは、彼女たちの在日期間が長ければ長いほど、現実化する。なんと言っても、彼女たちの親族は近くにいない。いざというとき救いの手をさしのべてくれる親族がいない以上、頼りになるのはただ、夫とその収入である。これは、彼女の過去にどのような貧困体験があるにせよ、「いま現在」は夫の収入だけが頼りであれば、それが不安定であることによる不安は、あるいは 「夫」の想像を越えるものだったかもしれない。

僕は、彼女が貧しい家庭に育ったことに安心していた。月収 10万であっても、翌月は 15万であっても、そのまた翌月に 70万があれば生計は維持できる。ただ、必要なのは、その確実な保証だった。過去数年、それも その前半には、まったく その 「保証」のない時期が続いた。その間の彼女の不安は、たしかに、想像を越えるものがある。

「我々男性」が外国生活をする (あるいは あなたが女性であれば、外国で自立した生活をする)場合を考えてみよう。そのとき、そこでの滞在資格そのものが、その間の収入を保証してくれるものであるはずだし、そうでなければ、そもそも 滞在資格(ビザ)が得られない。
国際結婚で 「専業主婦」になる場合には、これと事情が異なる。この在留資格は、過去2年程度の 「夫」の収入で可否が出る。以後は、上3つのパラグラフに循環する。「循環」とは、つまり永遠に続くという意味である。

僕は、久しぶりの海外渡航で 「現金」の意味を思い出した。が、かあちゃんは、その5年くらいの間、常に その不安に怯えていたのかもしれないな。それに気がついたとき、彼女に申し訳ないような気がした。

ともあれ、明日から3日間、行ってくる。初日は移動だけ。翌日は納骨と 「思い出のアパート」と買い物。その翌日は また移動だけ。7才が言った:
言っとくけどね、行くだけで1日、帰るだけで1日かかるんだからね!
うん。とーちゃんも、それはわかってるよ。だから、学校の先生には 「月曜 お休みします」って、お手紙書いたじゃないか。


(20021018-1) 「童話」、続き

やはり、「密度の高い本」と、どうしようもなく 「低い」 本があるものだ。こないだから騒いで(?)いる 76才のじいさんの本、いくつかの章を拾い読みしているのだが、研究書でもない随筆なのに、わずかなページ数の1章を読むのに、ある種の疲労、ただし良性の疲労を覚える。たとえば、「グリム童話集」の章には、こんな文章がある:
それより有名な 「白雪姫」はどうであろうか? 同じグリム童話では、真冬に咲く愛らしい小さな花、「ゆきのはな」という別名で、再び白雪姫が登場する。「真冬のことでした。牡丹雪(ぼたんゆき)が降っていました。女王が窓辺に坐って仕事をしていました。窓枠は黒檀(こくたん)でできていました。外の雪に見とれて指を刺してしまい、血が三滴、雪の上に滴(したた)り落ちました」というのが書き出しである。(・・・)
(ピーター・ミルワード、小泉博一訳、『童話の国イギリス / マザー・グースからハリー・ポッターまで』、中公新書 1610、p.32)
原文の引用にすぎないが、引用にしても 「見事な引き方」ではないか。ここまで読んで、読者は気がつく: 白雪の 「雪のように白い肌」、「血のような赤い唇」、そして 「黒檀のような黒い髪」。そして、継母の鏡は、あなたより美しい人は 「白雪姫です」と言ったのではなくて、「ゆきのはな Snow White です」だと言ったわけである。
もちろん/当然ながら、白雪には本名があるだろう。その名前は、歴史の中でただ一度も、誰も触れたことはないだろう。本来の名前は必要のない世界が、童話または幻想・空想の世界である。ハリー・ポッターの 「ハリー」も、西洋外の読者には本名が 「ヘンリー」だと教える必要はないし、ロンが 「ロナルド」であると教える必要もない。

それと関連して、この 「グリム」の章で、こんな文面もある:
(・・・)しかし、私は、これらの童話集の作者に興味があったわけではなく、童話そのものの魅力に心惹(ひ)かれていたと思う。日本の児童文学研究家は、どうも著者の名前にこだわるようだが、子どもたちはそのような些細(ささい)なことには関心を示さない。人に読んでもらおうと、自分で読もうと、童話はそこに存在しているのである。それだけで十分なのだ。コナン・ドイルがシャーロック・ホームズに、ベアトリックス・ポッターがピーター・ラビットに、そして、最近では J.K.ローリングがハリー・ポッターに席を譲(ゆず)ったように、著者が後部座席を占めることくらいは許してもよかろう。そして、そうあるべきだと思う。
(同書、pp.35-36)
ほらほら、やはり ハリーは ピーター・ラビットの落とし子なのだ。そして同時に、ブルームズベリー周辺の 「夢」であったダイアナの落とし子であるかも、しれない。

念のため、ハリー原作の中で、彼の父親は 「ジェームズ」、母親は 「リリー」である。これもまた、あまりに平凡といえば平凡な名前。重要なことは、そういう (ハリー自身を含む)平凡な名前の連鎖が、あるいは この種の 「童話」たちの複雑なネットワークの一部を構成しているかもしれない、という点にある。こういう平凡な名前の連鎖の中に、突然 「ヴォルデモート」という難解な名前が現われる。そしてその綴りは、11月の映画第2作に出てくる、「50年前の思い出」を語る青年の名前の、綴り順を変更したものにすぎない。アリスの論理問題に、綴りの入れ替えごっこ、「シリウス・ブラック」という恐るべき名前の (触れ込みでは)悪役。立場が変わるネズミの実名は忘れたが、これも平凡な名前だった。

ハリー第2作で、僕と同じような背景 (かつて近代文学、またはその技術・構成・プロッティングという議論に首をつっこみかけたという背景) を持つ人は、おそらく僕と同様に、「なんだか予測はつかないが、何か循環劇になるみたい」だと、感じるだろう。

ま、それはそれ。76才の 「子どものまま年寄りになった」人の新書、随筆集は、まだまだ楽しめそうだ。唯一の問題は、話題の密度がおそろしく高いので、新書1冊読むのに何週間もかかりそうなことにある。


(20021017-1) 「ピーターパン」の意味、「ハリー」の原書の表紙の安っぽさ

最近 「書き散らし」が激しく、書いたかどうかを覚えていない。もし書いたとしたら、「ピーターパン・シンドローム」を、子どもの限りなくわがままであり続けたい症候群、と書いたはずだ。
この言葉は、過去 30年くらいの間に、「シンデレラ・コンプレックス」と対になって広まったもので、僕もうまく説明できないことがある。

76才のシェークスピア研究者のじいさんの本 (最終章が 「ハリー・ポッター」の) を、もう少し読んでみた。楽しい少年じいさんの、教養高いおしゃべりが続いている。その中で、「ピーターパン」 の意味が実に簡潔に書かれているので、引用したくなった。文脈は、書き手が子どものころに見た舞台劇の説明の一部だ:
ダーリン夫妻とウェンディ、ジョン、マイケルという三人の子どもたち、それに、子守犬のニューファンドランド・ナナが登場する。そこにピーターが入り込んできて、窓から子どもたちを誘い出して南の海の魅惑の島の干潟(ひがた)まで飛んでゆく。そこは、迷子の男の子、人魚、インディアン、それにフック船長率いる海賊たちが集(つど)うネヴァーランドの国でもある。もちろん、そこを訪れた子どもたちは、まんまと海賊たちとフック船長をワニの餌食にして、無事に家に戻ることができるのだが、ピーターは、無人島に住む子どもの永遠不滅の世界への愛着ゆえに、その子どもたちと行動をともにすることができない。ピーターは、「ぼくは、いつまでも子どものままでいたいのだ。そして楽しみたいのだよ」 と言って、子どものままの状態に留(とど)まって、決して大人にはなろうとしない。
(ピーター・ミルワード、小泉博一訳 『童話の国イギリス / マザー・グースからハリー・ポッターまで』、中公新書 1610、pp.230-231)
この先の著者の説明が、おもしろい。著者は、このピーターパンの考え方に首をかしげたという。子どもなら、一刻も早く大人になりたいと思うものだし、私自身そうだったと。ところが、数ページにわたってそのおしゃべりを続けたあげく、私はピーターパンの海賊船に乗って日本に来た、そこで出会ったのはいつも若い学生たちで、学生たちはいつも同じ年代だから、私もトシを取るのを忘れ、いつの間にか子どものまま年寄りになってしまったのだと − この言い方も、大学教官が一般に 「やたらに若く」見える現象を説明しているようで、「言い得て妙」 だった。

くどいようだが、ダーリン家の邸宅は、ブルームズベリー。そこは大英博物館の近くで、そのまた近くにケンジントン公園というのがあり、その近くには元ダイアナ妃の宮殿があったそうな。別の作家には 『ケンジントン公園のピーター・パン』 というのがあるという。著者の連想はさらに、シェークスピアに出てくる 「エイリエル」 という (多分) 女の子の名前に飛ぶ。「エイリエル Ariel」は、ディズニーの 『リトル・マーメイド = 人魚姫』 の名前でもある (日本語版では 「アリエル」 になっている)。

神話、伝説、昔話、民話といった世界では、世界のほとんどの地域で酷似したモチーフが現われることが、知られている。が、こうして 新しい時代の 「童話」を、こういう教養のもとに語られてみると、新しい童話たちの世界は、きわめて緊密な関係をなしているらしい ・・・ と、僕は感じはじめている。もちろん、それらのほとんどは西洋で作られたものだから当然といえば当然なのだが、それらの関係は、どうも想像以上に近い、あるいは互いに強い影響関係を持っているらしい。この場合 「影響」とは比較文学の用語で、「直接そこに根源 source がある」という意味である (別の言い方: ある童話にはいつもその 「ネタ本」があり、しばしばその 「パクリ」で成り立っていると。少なくとも、ある童話は先行するいくつかの童話世界からヒントを得ていて、そこに作者の誤解または変形、あるいは追加がなされることによって、新しい作品が生まれる。比較文学ではこれを 「創造的裏切り」 と呼ぶ)。

さて、その 「ブルームズベリー」を名乗る出版社の 「ハリー・ポッター」を、Amazonで検索してみた。
なんだか、変だ。『ハリー・ポッターと賢者の石』 だと思われる本が、2種類ある:
Harry Potter and the Sourcerer's Stone
Harry Potter and the Philosopher's Stone
よく見ると、上のはアメリカの出版、下のがイギリス:ブルームズベリー自身の出版らしい。アメリカ版のペーパーバックが安いが、こういう言い換えを平気でするというのは、ちょっと首をひねった。作者自身は承知したのだろうか。もちろん、同じ作家の名前が書いてあるし、同じシリーズで 「類似品」が出せるわけもない。表紙の絵も、同じらしい。アメリカ版ペーパーバックで、既刊4冊セットが2千円台、イギリス版ペーパーバックは4冊あわせると4千円台、オリジナルと思われるハードカバー4冊セットが6千円台。結局、まんなかのを注文した。

・・・ しかし、驚いた。Amazonのページに示されている本の表紙の絵、限りなく安っぽいのだ。ちょうど 「昭和 30年代」の日本の少年雑誌の別冊付録のマンガみたいな − いや、その時代は 『鉄腕アトム』、『鉄人28号』 といった名作の時代なので、あのころのマンガのほうがまし。あえて比べるなら、明治の 『金色夜叉』、その焼き直しで朝鮮の 『長恨夢』、さらに当時の、朝鮮では 「タクチ ttak-ji 本」と言われる、日本では貸し本屋に並んだだろうさまざまなチャンバラ本たち − そんなものを思い出させる絵、なのだ。映画のあの上品な描写とは、天と地のちがいだ。驚いた。もちろん、日本語の訳本の上品な装丁とも、限りなく遠い。

ともあれ、原文は注文した。ところで、ハリー第4作 「ゴブレット」の日本語版は上下2冊のセット販売のみで、4800円だそうです。どうしましょ? 原文4冊買うより高いのよね。このあたりで、豪華装丁、ハリポタ・ブームの演出による荒稼ぎは、破綻するのかしら。


(20021016-2) 「市井の名人」、「市井の読書家」

タイトルを考えた瞬間、「俺は単に 「市井の名人」にすぎないな」 と気がついたので、この順になった。しかし 30秒前に思いついたタイトルは、「市井の読書家」 という単一句だった。

まず、「市井の名人」をすませよう。
またまた 1970年代の話、朝鮮語学科の学生だった僕は、「朝鮮語 (今では韓国語) 大好き」というおねえさんに出会った。超一流大学でフランス語を専攻してきたという、限りなくおばさんに近いおねえさんに、僕は お説教してあげたものだ − 市井の名人になるより、プロになりなさい、と。当時の僕は、朝鮮近代文学の研究者になるつもりだったから、「プロ」予備軍を自認する学生として、彼女にそう お説教する、してあげるべきだと思ったのだ。

ここから先は、「自嘲」のつもりこそないが、そのおそれはあるので、最小限の字数ですます。岩波、現代韓国小説の翻訳集の訳者集団の中では、僕だけが 「素人」だった。大学教官4名、院生1名、素人1名である。作品の選択から訳語の選択まで、「素人」でないメンバーの間では激しい衝突がある。「素人」はにやにやしながら、ときおり 「えーとね、これはこう、それはこうなので、結論はこうでしょ」とちゃちゃを入れると、案外素直に受け入れてもらえる。「学界」とは遠いところから 「常識」的な発言をすると、彼らにはかえって新鮮な発言に聞こえたかも、しれない。逆に、僕の訳文が批判にさらされたときも、会議の雰囲気はなごやかだった; 僕が 「素人」なので、「えへへ」と頭をかいて応じる余裕、彼らにもそれを受け入れる余裕があった。ところが、彼ら同士での間で原文の解釈、訳文・訳語の選択に衝突が起こると、深刻。「水野さんのときはあんなに なごやかに言ってくれたのに、私には どうして こんなにつらくあたるんですか!」と、必死の抗議が出たりする。
それは、僕が既にプロではなく、「市井の名人」だったからだ。僕のはプロの仕事ではないので、最後の責任は友人であり代表である大学教授がとる − そんな気持が、代表者の心の中には (きっと)あった。事実、納品 (出版社への最終稿)直前に彼は僕の訳文の重大な問題に気がついて、ただ一人で、ほぼ全文の書き直しをしている。僕には不満があるが、それは彼の、自分の存在をかけた責任問題である以上、僕には抵抗できないものだった。

さて、本題。
また 「ハリー・ポッター」 (すみませんねえ)。

職場に、隠れた・ひそかな読書家がいることは、かつて書いた記憶がある。決して読みやすい訳文ではない大作 『指輪物語』 全7巻だったか8巻だったかを、彼は通勤の電車の中で読み終えたという。40すぎたばかり。当然ながら(?) 「ハリー・ポッター」の既刊3冊も読んでいる。

その彼に、2日前に書いた 76才のシェークスピア研究者の 「ハリー・ポッター」論を話してみた。あはは、大喜び。彼に話した項目は
・『指輪物語』の作者は、「ハリー・ポッター」への受賞を決める審査員側である
・ピーター・ラビットだったかの挿絵を描いている 「ベアトリックス・ポッター」という作家(画家?)がいる
・ダイアナ妃の遺児の名前は ハリー(ヘンリー)
・「さりげなく」、物語の 「主人公とヒロイン」は ロンとハーマイオンであると書いてあること
・プリベット通りは実在し、じいさんの実家とはちがう 「典型的な」イギリスの街だそうだ
・ハリー原書の出版社名 ブルームズベリーとは地名で、これはピーターパンのウェンディたちの家のあるところだ
最後の項目で、彼も4児の父親、大笑いした。
映画では省略され、本にしか出てこない アリス (いや、ハーマイオン)の 7本の瓶の論理問題にも、彼は気がついていた。チェスの場面では、当然のこととして彼も 「鏡の国」を思い出していたそうだ。

彼の場合、おどろおどろしい 「文学研究」論には縁がない。学校も職歴もコンピュータとそのソフトウェアで、現在は共同作業をしている相手側企業との交渉に日々苦心している。職場では多くの場合、こんな話をしている余裕はない。たまたま帰りの電車がいっしょになったとき、そこが彼の 「読書室」であることを知ったのだった。

彼を、「市井の読書人」と呼ぼうか。こういう読者の存在によって、本屋さんたちは成り立っている。
ただし、この 「読書人」人口は、決して多くない。僕が仕事先つまり職場で日常的に会う人は 20人前後だと思うが、その中でこうした話題を交換したことのあるのは 彼だけだ。世の中の 「ハリ・ポタ現象」というのは、どこにあるのだろう? いや、質問してまわれば、隠れた 「ハリ・ポタ」ファンは出てくるのかもしれないが、しかし 20人の中で 訳書まで読んだ人は何人いるだろう?

彼に一時、僕の関係した韓国の現代小説集の話をした。手持ちがあるので 「読んでみます?」 と聞いてみたが、それは彼にも負担になるようだった。だから、彼はそれを読んでいない。

「一般人」全体に対する、「市井の読書人」比率。それがベスト・セラー 「ハリ・ポタ」の出版部数になる。その比率に、さらに 「韓国・朝鮮」で本を買う・読む人の比率をかけ、それにさらに 「文学・小説」を選んで買う・読む人の比率をかけたものが、『現代韓国短編選』の部数になるのだろうな。
その 「短編選」は、2000部だっけ?、その程度しか印刷されていない。これを、出版社は 10年かけて売るつもりなのでは、ある。


(20021016-1) 夏の 「自作」さわぎパソコンのその後

おそらく、「工作」中にどこかをショートさせたのだろう。ぷつんと、マシン・リセットがかかったことがある。

時期的には そのころから、2点ほど不具合が出ていた。第1に、Windowsの電源断、または再起動が動かない; 正確には、システムのシャット・ダウンまでは正常に落ちるが、その後の (ソフトウェアの指示による) 電源の遮断、またはリセット再起動が動かず、そこで停止する (いつまでも 「設定を保存中です」 のまま)。
第2に、組込みの LANが動かなくなっていた。Windows自身の認識によれば、LANチップ自体は動作している。が、実際に外のケーブルには信号が出ないし、外からの信号も拾っていない; 従って、LANチップの CPUの反対側、つまり 「ライン・ドライバ」側がこわれているようだった。以上の話は、この 「日記」に書いたような気も、書かなかったような気もする。

電源断問題は、24時間稼動の機械なので、めったに使わない。本当に電気を落とす必要があるときは、手操作で落とせる。LANは、空きスロットに 780円だったかのボードを差して使っている (この話、確かに書いたなあ)。唯一、問題は、ソフトによってはインストールの間に何度もマシン・リセットが必要で、この「ソフトウェアによるマシン・リセット」が動かないと 事実上インストールが不可能になる (例えば、Windowsという名前のソフトウェアそのものが、この典型だ)。

いわゆる 「ベア・ボーン」なので、「不注意による故障はお客様の責任」である。ずいぶん いじくりまわしたから、ショートの一度や二度は、不思議ではない。しかし幸か不幸か、故障の前後に、販売元から 「専用」の DVD-ROMドライブを再度買っている。ふむ、こいつを装着するとき、「ぷつんとリセットがかかったことがある」と、販売元に説明した。当方の要求は、マザーボードの交換。最悪でも、マザーボードの単品販売してくれないかと。

数日 返事がなかったので、不快になりつつあった。新製品売込みのメールは熱心に送ってよこすのに、この問合せにはナシのつぶてか。そう書いて再度メールを出そうと思っていたら、今日いきなり電話が来た。どこかのセールスみたいな、しかし不明瞭な発音だったので、つっけんどんに どこの誰だ、俺が どこの誰に何の問合せをしたって? と、やや怒鳴り気味。よーく聞くと、あ、ベアボーン屋さんね。あなた、発音不明瞭なのよ。いや、携帯電話の状態が悪いせいもあるが。最後に名前を聞いたときも、2度 聞きなおしてようやく聞き取れた (いや、俺が耳が遠くなってきたのかしら。たしかにトシはとってきたが)。

結論的には、マザーボードを送ってくるそうだ。僕がそれを、差し替える。済んだら、古いものを送り返す − 話の流れで 僕はそう解釈したが ・・・ ちょっと不安になってきた。あの青年、明確に復唱していないから、「先に僕が機械を送り返すのではなく、まず販売元からマザーボードを送ってくる」 点、確認が取れていない。
さて、どうなるでしょう。
もっとも、この週末はこちらもいないので、その前後に届いても、作業は来週になる。青年の言い振りでも、そう早々と送ってくれるようではなかったし。


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