Ken Mizunoのタバコのけむり?

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Ken Mizuno

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(20021015-1) 76才の告白 『童話の国イギリス』

中公新書 1610、著者ピーター・ミルワード、小泉博一訳、書名は上記、副題 「マザー・グースからハリー・ポッターまで」、2001.10.25、¥840+税。

副題を書いてしまったので、先を急ぐ。
著者はシェークスピア研究者である。その 76才(だと、最終章にみずから書いている)の随筆集の最終章が 「ハリー・ポッターは古典になるか」。

さすがにこのおトシの研究者では、「ハリー・ポッター」のプロッティングがどうの、そのほころびがどうのと述べて、一人得意になることはない。それよりも、なんだか 「ええトシして恥ずかしげ」に、やはり著者自身 最初は大した本だと思わなかったが、周りに引きずられて読みはじめたら、数日の間に既刊4冊すべて読んだ、と書いてある。今までの3人 (この本の著者、二日前に触れたジャーナリスト、それに僕自身)に共通しているのは、「最初からそうだったのではない」思いだ。この本の場合、他の 21章は伝統的・古典的なヨーロッパの童話(またはそれに類するもの)が並んでいるが、最終章は、どう見ても 「いいじいさん」という自覚のある研究者が、「あはは、でもおもしろいんだよなあ」と頭掻きながら書いてるみたいに思える。

でも、さすがに、日本で暮らす英国人文学者、日本の読者のことを考えたか、いくつか重要な証言を重ねてくれる:
・ハリーの住む「プリベット通り」は、「私の実家」とちがい典型的なイギリスの町だ
・名前がハリー・ポッターとは! 「あの先輩女流作家のベアトリックス・ポッター」とは関係がないが
・ところで、今はなきダイアナ妃の、遺児の名前がハリー (ヘンリー)である
・(原書の)出版社名が ブルームズベリーだって? そりゃ 「ピーターパンといっしょに空中冒険に出発したダーリン家のウェンディとその兄弟たちの家がある場所ではないか」 (p.277)
そうだったか。忘れていた。ハーマイオンの生意気さには、ティンカー・ベルを思い出すべきだったのか − 「ピーターパン・シンドローム」とも言われる、子どもの限りないわがまま症候群に対して、ときおり警告のベルを鳴らしてくれるのが、妖精の Tinker-Bellである。(西洋の固有名詞には、しばしば 「意味」が与えられていることがある。日本人や韓国人の名前も、漢字で書いてみると しばしばとても立派な名前であることがわかるみたいに。子ども服のブランドに 「ティンカー」 というのがあるが、あのアクセントは明らかに原語を忘れたものだ)
この他にも、登場人物たちの固有名詞その他の 「言葉」が、原文を読むネイティブ・スピーカーに与える印象が、かなり詳しく書いてある。興味のある方にはお勧め。

「え?!」と思わされる表現があった: 「ちなみに、主人公とヒロイン (ロンとハーマイオニーのことだが)を取り巻いている登場人物は、どこか普通でないのだが、ふたりだけは普通の子どもとして描かれている」 (p.286) と、さりげなく。
さりげなく、「主人公とヒロイン (ロンとハーマイオニーのことだが)」と。驚いた。ふうん! なるほど ・・・ うーん
(「安寿と厨子王」の 「主人公」は、厨子王ではない、背後を支える安寿だという説は、僕は小学校だったか、中学だったか高校だったかの、国語の先生から聞いたことがある)

僕が 「イギリス」文学に興味を持ったのは、1980年ころ、朝鮮 1930年代の 「諷刺」小説をテーマにしたからだった。「諷刺」という言葉の英語は satire である。その典型的なものとして、スウィフトの 『ガリバー旅行記』 (あれは、実は 「童話」ではない。それがなぜ 「童話」に化けたかを追求するのは、「比較文学」の仕事だ) があるが、実はスウィフトの 「諷刺」はそれで終わらない。詳しく書けばキリがないのでやめるが、朝鮮近代文学の 「研究」にはじまり また別の外国文学の世界が スウィフト、キャロル (アリス)といった世界だった。1980年代には、それが現代アメリカのソフトウェア技術者たちにも、ある程度通じるのに驚いていた。

1970年代、韓国の 「近代文学研究」は、おどろおどろしい西洋文学理論の導入期で、端的には、例えばルカーチという名前の評論家などがもてはやされた。ただ、そういったマルクス主義に近い文学の解釈が成功的・生産的であったかどうかは否定的で、現在ではその痕跡はほとんど残っていない。その周辺で僕が出会ったのが、「諷刺」をキーワードとした場合のスウィフト、その解釈といった世界で、不幸なことにスウィフトという とんでもない 「作家」には、マルクス主義風の解釈などまるでない。「ガリバー」は空想的荒唐無稽な話である点では 「ハリー・ポッター」とそっくりだが、しかし露骨な政治論が (実は)展開されているあたり、それだけが 70年代韓国の研究者にも受け入れられる点だった。しかしそれでも − スウィフトはとどまるところを知らず政治的アジテーションに、さらに 「本当は残酷な童話」みたいな 人肉市場奨励論みたいな作品へと突き進む。今となっては、しかし 「ガリバー」は 「童話」になった。

で、この本の著者は、シェークスピアが本領である。それが、研究者でありカトリック司祭という立場に関連するのだろう。この本は 「論文」ではなく 「随筆」集である。著者自身が言う。ハリー・ポッターの荒唐無稽が愚かしいというなら、シェークスピアをみよ、あそこにこそ、読者 (聴衆・観衆)から拍手喝采を受ける、荒唐無稽な展開があるではないかと。
それでまた思い出したのは、朝鮮 近代直前の 『春香伝』 だ。そうだった。あのパンソリ、それも 『春香伝』 には、とんでもない地口、語呂合わせ、わいせつと猥雑が平然と、ただし難解至極な漢字語で展開されていて、それ故に演者 (唱者) 自身さえその意味を理解していないのではないかと、思ったことがある。時期は、そう − まさにシェークスピアの時代と一致する。

というわけで、(1) ええトシこえて 「ハリー・ポッター」は、76才のじいさん研究者も同じである。
(2) この本、最終章しかまだ読んでいない。著者にも、「ここ」の読者にもなんだか申し訳ないような気がするので、本の目次から、章ごとに扱われる作品名だけでも挙げておこう。最終章からの類推で、この本の密度はかなり高い。全部読むのには、相当な時間がかかるはずだ。最終章、新書の 14ページを読むのに、僕はラーメン1杯とビール1本の時間を要した。訳文は決して悪くないが、ただし、4ページある 「訳者あとがき」だけは陳腐でつまらない:
マザー・グース / グリム / ピーター・ラビット / クマのプーさん / ヒキガエル屋敷のヒキガエル / アリス / ロビン・フッド / アーサー王物語 / クリスマス・キャロル / 黄金詞華集 / ロビンソン・クルーソー / ガリバー / 宝島 / ピクウィック・クラブ遺文集 / 子どものためのイギリスの歴史 / 聖書物語 / シェイクスピア物語 / ピーター・パン / おとぎの国の倫理学 / ホビットの冒険 / ナルニア国物語 / ハリー・ポッター

(20021014-1) 妻の母の他界、遺骨の引き取りは1ヶ月後だった

義母、この場合 「妻の母」が他界した。それは9月のことである。
困ったことに、亡くなった人の娘、つまり うちのかあちゃんは病気で、そこに駆けつけることができない。(別の言い方では、もう死んでしまったものを、あわてて行ってどうなるものでもない、という面もある)

日本からは何の手も出せない間に、葬儀までは終わった。それも9月のことである。墓は、生前に当人自身の用意した、団地方式の祭壇があるという。そこに、遺骨が納められる。

不思議だったのは、葬儀の後の火葬、その火葬の後に、遺骨が直ちに遺族に返されるのではなく (日本では、火葬場の現場で 「はい、持って帰りなさい」とくる。この骨壷は熱い。うかつに触ると火傷のおそれがある、新鮮な遺灰だ)、香港では遺族に返されるまで1ヶ月ほど必要だという。これが ・・・ 理由がわからなかった。英国植民地であった香港では、遺骨が役所の中を回るのだろうか?

つい、今日になって、思いつくことがあった。
僕と現在のかあちゃんの婚姻届けは、日本の区役所と、東京のイギリス大使館の双方に提出した。日本側は即日受理される。英国側では、公式にそれが発効するまで、1ヶ月を要した。理由は、「公告」である: 「下記のカップルの婚姻届けを受け取った。それについて異議のある者は、本日より1ヶ月以内に申し出よ。さもなければ、役所はこの2人を夫婦と認めるであろう。xx年xx月xx日、役人誰それ」 と、役所の中 ( 「外」の場合もあるかもしれない)に掲示する。これが 「公告期間」である。

それ、だな。おそらく。
「誰それの死亡に伴い、誰それが遺骸を火葬に付した。遺骨(遺灰) については誰それが引き取ることを申し出ている。これについて異議のある者は、本日より1ヶ月以内に申し出よ。さもなければ ・・・ 」。

というわけで、1ヶ月を要する。ちょうど、予定した日付に重なった。かあちゃんは日本に置いて、亡くなった ばあちゃんの血族であり、ばあちゃんを直接知っている上の子を連れて、この週末に香港に行ってくる。最後の孫である1才は香港を知らないし、ばあちゃんはこの子に会わないまま行った。「気持の整理」 またはその体験が必要なのは、「香港のばあちゃんの、思い出のアパート」を持っている上の子だ。僕自身、ばあちゃんが死んだのは小学校1年のときだった。この子も、2年生で最初の親族の死に出会ったことになる。


(20021013-1) 「ハリー・ポッター」の解説本を読んだ

緒方邦彦 『「ハリー・ポッター 4th」の魔法世界を冒険する 』、ぶんか社、2002.10.1。¥900+税。

著者の名誉のためには、ブームに便乗した安手の本ではないと、まあ申し上げるべきだろうと思う。が、本のソデにある著者の既刊本の中には 『田中真紀子猛語録』、『小泉純一郎に学ぶ ビジネスマン 74の生き方』 といったものがあって、少なくとも著者が 「文学」研究の背景をご存知の方だとは思えないし、事実 内容もそうである。ただ、推理小説の 「紹介」にはタブーである 「筋書き、帰趨を読者に明かしてしまう」 ことだけは、著者は避けている。結果的に、訳本が未刊の 「第4巻」の内容説明は、事実上冒頭の展開だけである。従って、書名にたがって、この本は 第4巻の内容をちっとも 「冒険」していない。

その未刊の訳本の 「冒険」より、著者の関心は 世の中の 「ハリ・ポタ現象」の解釈にある。まったく − よくも悪くも − ジャーナリストの文章で、第3巻までは要約を越えて、著者自身の説明であらすじが書いてある。その中に一部、本と映画が混同されていたり、そのどちらにも (僕には) 記憶のない説明があったりするが、それはまあ、こういう文章 (ジャーナリズムの中にある文章)としては、きわめて良心的な部類に属す。デモや集会のおそるべき 「でたらめ」な新聞記事と比べれば、この本の記述は はるかに精度は高い。

もちろん、不満はありますです。第1巻の本では埋もれてしまうが、映画では大写しになる (しかし後のプロッティングでは忘れられる)女の子 スーザン・ボーンズの扱いも、第3巻でハリーの仇敵の手先だと判明するロンのペットのネズミに対する、ロンの心理問題も、もちろんこの本には触れられていない。まして、思春期を迎えるハーマイオンの初潮の時期にも、この著者の思いが至ることはない。それは、まあ、仕方がない。ただ、やはり読めば誰でも予想することとして、第3巻に出てくる 中国名とおぼしい女の子にハリーがぼおっとなる問題、これだけは第4巻で再度出てくるらしいこと、さらに、(推理小説だから明かしてはいけない)謎の女性が登場するらしいことなどが、触れられている。

全7巻の帰趨がどうなるのか、僕は第2巻までで 「壮大な循環劇」になると予測した。この本の著者も、おそらく一致はしないが、想像をめぐらしている。

ただ、本の最終章、2002年8月の東京原宿に招待されたという想定での、22才のハリーの行動の 「シミュレーション」だけは限りない駄作で、読む価値はゼロだった。それは、この著者の主眼があくまで 「ハリ・ポタ現象」の解釈にあって、その先を占う意味を帯びている。だからこそ、著者にはそれが重要だったのだろうけれど、しかしそれは、やはり 「田中真紀子現象」、「小泉現象」の解釈の延長でしかない。それに続く、見開き2ページだけの 「あとがき」の最後に、著者はこう書いている。ここまで来ると、これは僕自身、まったく意味がわからない。もし、この文面から何か想像できる方は、よかったら教えてくださらないだろうか:
しかし私は危惧している。
実はこの物語は 「愛と夢、正義の物語」 などではなく、「インモラルなマザコン少年の復讐劇 (ふくしゅうげき:原ルビ)」という物語ではなかったかということを ・・・・・?
(同書 p.165)
マスコミ的解釈に ある種の予測が介在すれば、そういう危惧が成り立つのかもしれない。が、作者はまず最終刊を完成させてから、そこに向かって緻密な構成を展開しつつある。時には、その展開に ほころびが発生することは、ありうる。が、話は未知だが既定の結末に向かって展開しているのであって、その 「結末」が 「母と少年の関係に対する何らかの敵」 への復讐であろうとは、なんだか、まだ不自然なような気がする ・・・ いや、最後になって、すべてはハリーの、1才までの記憶の中の母親に帰結するのであっても、それはそれで不可能な終結方法ではないのだが。


(20021012-1) 国籍離脱による徴兵忌避は可能か?

仮に 2015年、限りなく 「徴兵」に近い数万人の青年男子を日本政府が必要としたとき、もちろん 「抽選」になると、昨日 考えた。1930-1945の日本ならともかく、今となっては お上の任意で人選・抽出、赤紙1枚で徴集というわけにはいかないだろうし、ベトナム戦争当時のアメリカでさえ 「国民皆兵」は必要でなくなっていた − 80年代末期の湾岸戦争 (イラク制圧)では、戦争はカネひとつで遂行できることがわかったのだし、いまさら地上の白兵戦を前提に 「徴兵」に類する人集めは、前世紀の遺物かもしれない。

だが、現在でも 「徴兵」のある国は多い。韓国の場合だと、当事者に特別な技術 (先端技術、コンピュータ技術などが該当する)があって優遇される場合を除けば、青年は原則3年前後の地上部隊への徴兵をまぬがれない。韓国の場合、この期間は当人の能力・知識などによって流動的で、それはおおむね当事者にも納得可能な範囲にある、らしい。
ただし国民皆兵原則から、その忌避だけは厳しく追及される。仮に − 徴兵に応じる時期にアメリカに出て、そのままアメリカ市民権を獲得し 韓国籍を放棄した場合、どうなるのだろう。この種の兵役忌避を、韓国は数多く経験してきたから、それなりの自動的な対応ができているかもしれない; 例えば、かつては徴兵義務をすませていない青年にはパスポートを発給しなかった。現在では、パスポートは出るようだが、そのまま逃亡、韓国籍を放棄する行動に出た場合、さて、どうだろう。兵役逃れの国籍離脱を韓国が認めるかどうか、現在でもやや懐疑的ではある。

さて、2015年、うちのちびすけは 14才である。まだ若いが、その時その姉は 20才になる。この姉が生まれたとき、「もし、仮にこの子が男の子だったら」と、僕は本気で考えた。では 2025年ならどうだ。ちびすけは 24才。韓国の場合、大学、大学院と進みながら兵役を延期しても、そろそろ限界の時期である。専攻分野がある種の先端分野でない限り、腹を決めて地上部隊の兵役に応じるしかない時期だ。
日本政府がそのころ、「限りなく徴兵に近い」抽選をしたとする。不幸にも当選すると、どこかに行かなければならない。そのとき、この子にそれを忌避する合法的な方法は唯一、国籍の放棄だろうと、僕はずっと考えてきた。だからこそ僕は、子どもには可能なすべての権利を維持させておきたい。彼を二重国籍にしたい唯一の理由は、今はそれだけしかない。

ところが、なのだ。
昨日、日本とブラジルの二重国籍の知人を思い出した。彼らが日本で、日本国籍を離脱すると申し出た場合、その時点で外国人になる。もちろん、日本人だ(った)から 「外国人登録」はしていないし、外国人としての入国歴もない。従って、国籍離脱したとたんに 違法滞在となり、密入国を疑われるおそれも出てくると、つい昨日 書きながら気が付いた。
うちのちびすけが二重国籍を獲得した場合、まったく同じ状況になる。抽選で 「限りなく徴兵に近い」 幸運を当てたとき、その後に国籍離脱を申し出る; すると、彼はその瞬間に外国人となり、しかも外国人としての滞在資格がない。

窓口、または日本政府の立場からは、それは明らかに徴兵忌避である。1945年以後、長い時間をかけて準備してきた新・徴兵制度なら、その周辺は固めてあるにちがいない。「抽選」後の国籍離脱の試みは、新しい犯罪になる可能性がある。
では、「抽選」前に国外に出しておく。そこで、正当な居住権を確保する。その居住権は英国人として確保する。その現地から、日本国籍の離脱を日本に通告する ・・・
このシナリオであれば、「政治的亡命」による現地受け入れではない。逆に日本人として例えばカナダに居住し、そこで居住権を得ていれば、その場合は 「良心的兵役拒否」で原国籍の放棄、それに伴ってカナダ側の扱いは 「亡命」、そこでおそらくカナダ発行の 「渡航証明」が出るが、その場合 日本への入国は面倒になる。フランスに亡命した韓国人が 「金大中政権の成立で帰国できるか (逮捕されないか)」と、数年待たされた例もある。
補足: 「二重国籍」がもし日本と USAであれば、本人は無条件に その双方に居住権がある。国民である以上、自国に住む権利があるのは当然である。
ただし、うちの子の場合、日本と 「香港英国」籍である。イギリスの 「国民」には最近まで3ランクがあった: 1997年 香港の中国返還まで、香港人には 「英国植民地国民」パスポートが与えられた。1997年で英国の 「植民地」は消滅したので、香港人で英国籍を希望する者には、英国は 「英国在外国民 BNO - Biritish National Overseas 」を発行するようになった。不思議なことに、BNOパスポート所有者は英国内に居住権がなく、「この者の居住権は香港にある」と書いてある。香港は外国なのに、英国政府がそこに居住権を与えると、どうして言えるのだろうか。中国または香港行政府が、このパスポート保有者に 「50年間」 その権利を認め続ける保証は、何もない。
いきおい、当事者は自力で居住権地を開拓する必要がある。うちのかあちゃんは、日本にそれを確保した。子どもらは日本人なので、その点で彼女は安心している。ところが、僕の心配は、この子らがその日本の国籍を放棄したとき、どこに 「安住の地」を 得ることができるかという点なのだ。もとより、僕自身は日本の単一国籍だが、2025年の抽選には、対象年齢層から外されているだろう。

(20021011-3) 国籍、多重国籍とその放棄

8年前、今度生まれてくる子は女の子であることがわかっていた。生まれてみたら、本当に女の子だった。そのころから、僕はこの子を二重国籍にするつもりだった。つまり、父親の子の権利として日本国籍を、母親の子の権利として香港英国籍を取ることが、この子にはできる。
手順としては、二重国籍を原則認めない日本側に、まず出生届をする。次に、多重国籍を問題としない英国側に、同じ届をする。実際には英国側手順を踏むまで1年半のブランクがあった、つまり日本・イギリスの2つのパスポートを作るときまで遅れたのだが、しかし2つの国籍とも、この子の出生時点に遡って発生している (注: 日本でも、出生届は2週間以内だったかの期限がある。が、たとえ届けがそれより遅れても、役所は始末書を取るだけで、届け自体は拒否できない。日本の国籍は、その届日ではなく、出生日に遡って発生する)。

1年前、男の子が生まれてきた。この子の日本側パスポートは最近作ったばかりだが、英国側にはまだ届けてない。上の子の英国パスポートも期限が切れているので、いずれ2人同時に再度申請になる。そのとき、下の子も出生に遡って英国籍が発生する。

ところで、日本側では、原則として多重国籍を認めない。従って、たしか 22才だったかまでに、「国籍選択届」だったか 「国籍放棄届」だったかを出せ、ということになっている。これには、罰則がないらしい。罰則を作ると、実は深刻な事態が発生するのだ。

知り合いに、日本とブラジルの二重国籍の兄妹がいる。彼らはもう 30代中期か 40前後になる。が、現在も二重国籍を維持しているはずだ。彼らは、日本への入国時には日本のパスポートを提示し、つまり日本人として 「帰国」する。ブラジルへの入国時にはブラジルのパスポートを提示し、つまりブラジル人として 「帰国」する。少なくとも日本とブラジルの間で、彼らはビザを受ける必要がない。この2国間で、一人で2つのパスポートには、それぞれ自国へ 「帰国」、自国から 「出国」のスタンプはあるが、相手国への入出国スタンプはない (わかりますかしら?)。

さて、彼らはとうに 22才を越えているのだが、日本側に国籍を放棄する届けを、出すわけには行かない理由がある − 日本にいる間に日本国籍を放棄すれば、その瞬間に外国人になる。その瞬間、彼らには、日本に在留資格:ビザがないから、違法滞在になる。ブラジル人としてのパスポートには、日本への入国スタンプさえないので、密入国の嫌疑を受けるおそれさえある。
では、ブラジルにいる間に、日本大使館に日本国籍放棄を届ければ? それはできる。が、それを彼らはしないだろう。日本人として日本に帰国する権利をみずから放棄する、どのような理由も、彼らにはない。

(書きながら、くたびれてきたので また明日)


(20021011-2) 住基ネット個人番号による抽選?

1970年ころのアメリカは、ベトナムで戦争をやっていた。当初、アメリカ側は 「手持ち」の兵隊を地上軍に出していたはずだが、その手持ちには限りがあって、どうしても 「徴兵」を復活する必要が生じた。が、「国民皆兵」化するほどの数が必要ではなかった。そこで考えたのは、対象年齢層からランダムに青年を抽出する、つまり抽選による徴兵だった。方法は、回転ダーツとでもいうのだろうか。ルーレットが垂直に立てられ、そこに向かってダーツを投げる。これが公開の場で行われる 「厳正な」抽選である。これほどありがたくない抽選も、めずらしい。

日本政府が最後の窮地に落ちたとき、きっと 「国債を買う義務のある国民」を抽選で決めるだろう。逆に、ちょっと余裕ができたときは、また「地域振興券」を抽選でくれるかもしれません。今度 北朝鮮に拉致されるかたは、抽選できめましょう; その上で、国交回復した共和国に、経済協力戦士として、義務的に行っていただきます。

そして、2015年、限りなく 「徴兵」に近い数万人の青年選びが、抽選で決められるかもしれない。ダーツの矢のあたり場所で、運命が決まる。「国民」のすべてに番号を振ることのおそろしさは、そのあたり。
破綻した国民年金の受給者も、抽選で決めることになるでしょう。外れた方は、あきらめてください。エリートではない、公平に選ばれた方だけが、充分な年金を受け取ることができるのです。

この他に、もし日本に陪審制度が復活するなら、これも抽選でやってもらいたい。学識経験者だの法曹縁故者だの、やめてもらいたいね。家裁の調停委員も、へたな人生通のじいさん・ばあさん集めるより、抽選がいいのじゃないの?


(20021011-1) 住基ネット犯罪の 「シナリオ」?

ストーカーの 「広域」化、長期化である。
被害者を いま Mと呼ぼう。加害者を Aと呼ぶ。

あるときから、Mは不審な電話や郵便物を受け取るようになった。発信者は不明だが、常に同一人物と思われる。学生を終えて就職したときも、親が病気になったときも、いかにも 「俺は知ってるぞ」と言いたげな電話が来た。就職後1年が経過し、給料がやや変化した。そのときも、見知らぬ Aから電話があった。自分自身が病気で3ヶ月ほど入院したときも、病室に手紙が届く。退院して職場に復帰したとき。姉が結婚したとき、親が死んだとき、アパートを借りて一人暮らしをはじめたとき。
一人暮らしをはじめてから、ストーカーは姿をあらわしはじめる。夕方の黒い犬のように、アパートの周りに不審な人影がある。玄関先に、直接手紙が放り込んであることもある。気味が悪くなった Mは、引越しを決意する。ストーカーは引越し先に追いかけてくる。たまたま、幸い転勤になった。だが、その転勤先のアパートにも、ストーカーはやって来た。転勤先のアパートは会社の寮なので、出ればおカネの負担が大きい。そして引越ししても、ストーカーはまた現われることが予想される。

このストーカーの 「程度」は、いろいろでありうる。暴力を使ってくる、あるいは精神的な暴力、頻度にも差がありうる無言電話、あるいは よりじわじわと、あくまで 「お前のことは知っているぞ」 いい続けるだけの、気の弱いストーカーかもしれない。が、数年かけてこの追っかけをされたら、普通の神経では持たないだろう。この種の事件では、加害者自身に ある種の神経症か、あるいはパーソナリティ障害がある見てよいはずだ。
(余談だが、神経症は 「精神病」ではない。「パーソナリティ障害」も病気ではないので、ストーカー自身が 「あの人、精神病患者なのよ」と言われるおそれはない。もちろん、それはいつも 「病気」と紙一重なので、この種の犯罪では 「病気」を装い 「おとがめなし」を狙う傾向があるし、弁護側は 「当人はきちがいである、故に無罪」を主張することになる)

「住基ネット」稼動前には、役人がある人物の 「非」プライバシー つまり 「住所・名前・年令」を追跡するにも、多少手間がかかった。が、ネットワークが稼動すれば、どこに行こうが、同じ番号1つで、直ちに追跡できる。その証拠に、かつては 「転出届」をして、そのカーボン・コピー(紙)を持って 転入先に 「転入届」を出す必要があったが、ある時点で、そのどちらか1回でよくなるという。なぜなら、番号1つで転出元、転入先ともにアクセスできるから。番号を変えたらどうなるか? それは知らない。が、僕が住基ネット・システムを設計するなら、その個々の番号の変更歴それ自体を、当然のこととしてデータベース化するだろう。それは技術者としては常識的なことだ。

かくして、「住基ネット」が 「民間」の不正アクセスからどのように保護されても、役所の中では、その加害者 Aが物理的に端末から遠ざけられない限り、また誰一人 Aのひそかな依頼に手を貸さないのでない限り、Mは、無期限にストーカーから自由になれないことになる。
これは、僕でさえ 「おそろしい」と感じる。


(20021010-1) 「住基ネット」からの連想

前 (下) の記事で 次々と 「余談」 に悩まされた (「悩んだ」のは僕自身である。書こうとしていた話を忘れてしまい、次々と連想が連想を呼ぶのだから たまらない)。書きたいことが何だったのか。実は、「住基ネット」 稼動前後の新聞記事を思い出していたのだが、それが 「書きたい」ことの本体だったとも思えない − 非常に不愉快な記事だったので:

どの新聞かは、覚えていない。核心の概略は、こんな記事だった − 窓口の公務員が、窓口に来た客に、「あ、このお宅では誰それさんが精神科に通っています。つまり、精神病患者ですね」 と言った、と。
窓口に来た客が何者なのか、客とこの公務員との関係などは、書いてあったかどうかも覚えていない。

やや想像を展開するなら、「客」は、子 (か、知人か、依頼人か)の縁談の相手の身元調査にでも来たのだろうか; 公務員側は 「客」と顔見知りだと仮定すると、上の記事は自然に読める。役所の出版物によれば、「名前・住所・年令」の3項目はプライバシーではなく 誰でもそれを参照できるそうだから、公務員はそれを拒否しない。その際に、窓口が顔見知りであれば、窓口の 「職務外」情報も手に入る可能性がある。それにしても、特定の家庭の関連情報 (この場合、健康保険の支払い歴、つまり健康保険から病院に支払われた記録とか、あるいは医療補助、障害者手帳の情報など)を 「ちょっと覗いて」 客に漏らすという神経には、驚いた。と同時に、驚かなかった。

日本というのは、文化的に非常に 「均質」な社会だ。「均質」だという意味は、この場合 「みんなが同じ」なのではなくて、「どこの社会にも同じような頻度と割合で、同じようなことが起こる」 (ちょっとしゃれた言い方をすると、どの社会も金太郎飴のような) という意味である。公務員社会も同様で、一般企業と同様に、優れた知能と知性の持ち主がいる一方、こざかしい・愚かな・矮小で無能な人物もいる。その社会はしかも、「一般社会」よりも 「無能だからクビ」になる機会の少ない社会でもある。

想像をたくましく展開しよう。窓口のおせっかいおばさん。窓口では他家の個人情報を見る機会も、機械もある。顔見知りの 「客」が来たとき、それを漏らしてみせるのが彼女の特技である。ちょうど、「一般人」のおばちゃんが終日近所のゴシップに明け暮れるように、しかし彼女は公務員で、一般人には見れない情報を見る特権がある。窓口で話しかけてくる顔見知りに、特権的な情報を 「ちらっと」出して見せるとき、彼女は幸せである。それが、何か彼女の地位を上げるような気がする; おたくのお子さんと つきあってる方、精神病院に通ってますのよ。相手はきっと、その情報に感謝してくれるだろう ・・・

それで − やはり、僕は何が言いたいのだろう?
この記事と、そこから想像されることが 「おそろしい」と思う気持は、僕には強くない。が、それに対して 「非常に不快」 な気分になるのは事実だ。だから、戯画化された 「おせっかいおばさん」でも登場させてみたくなる。しかし、「住基ネット」を話題に出した理由の核心は、何だったのだろう。なお わからなくなってきた。

「住基ネット」で 「住民」 と「外国人登録」に連想が行ったのは、「住基ネット」は 「住民=国民」だけを対象としているからだった。そこから「戸籍」と 「国籍」に連想が飛んだのは、「国民」とは 「戸籍」の保有者であるからだった。日本と韓国では、それが 「国籍」である。ただし 「戸籍」など そもそも存在しない社会がある、というのは正確ではなくて、「戸籍」という制度のほうが むしろ 「きわめて特殊」な制度であることを、いつも感じてきたので、僕の連想の中では当然だった。が、前の記事 (下の記事)では、唐突に連想が飛躍するように、僕自身が感じた。
別に 「弁解」する必要もないと思うが、とりあえず、ようやく僕自身の連想の共起関係とでもいうか、その説明はついてきた。


(20021008-1) 「住基ネット」、「住民」、「戸籍」

「住基ネット」の稼動前後の騒ぎは、まあ、つい最近だった。僕のところでは、一家世帯をまとめてその番号を書いた 「目隠しマスク付き」のハガキが、「世帯主」つまり僕あてに来た。念のため、「住基ネット」 の番号とは 「国民」の 「住民登録」の網羅番号のことなので、外国人は含まれない。従って、この 「一家世帯」に、うちのかあちゃんは含まれていない。日本の制度下では、外国人は たとえ親子・同居親族であっても 「戸籍・住民」関係はすべて別である。もっとも、さらに不思議なことは、うちのかあちゃんの 「外国人登録」では、その 「世帯主」が夫つまり僕であることだ。外国人妻の日本人夫を 「世帯主」と呼ぶのはともかくとして、しかし 「その僕の」 世帯一覧表つまり 住民登録 「全員」票に、外国人である妻がのっていない。素朴に、実に不思議な話ではある。彼女は外国人だから 「住民」ではなく、あくまで 「外国人登録」されているだけで、その 「外国人登録」の上で僕は 「世帯主」なのに、その 「世帯」一覧表には彼女がいない ・・・ 話は完全に循環し、矛盾のくりかえしになる。

余談の1: 「住基ネット」の対象になるのは、「国民」である。ところで、外国人についてはどうなのだろう。僕の理解では、日本における外国人の管理はきわめてきびしい類型である。つい最近まで、外国人一般は 「外人登録」に指紋押捺を要求された。これよりきびしいのは、1980年ころの韓国で、外国人は両手 10本の指紋を取った韓国だけだ。それは、外国人の 「動物扱い」に類する、それだけの問題なのだが、しかし、法務省:入管では、いま現在管理する外国人一般をコンピュータ管理していないとは − 僕には到底思えないのだが。
余談の余談だが、日本で 「外国人一般」に要求されていた指紋押捺が 「免除」されたのは、「永住」外国人だけである。従って、いま現在 結婚数年以内の (一方が外国人である)夫婦の外国人側には、今も指紋押捺が要求されている。うちのかあちゃんの場合、この夏に 「永住」が出た。それは、ウワサとして言われていた 「10年」の期間そのものだったが、それも 「うわさ」であって、入管が 「10年たてば永住権が取れますよ」と、言ってくれたわけではない。

余談の2: 「入籍」という言葉がある。一般に、結婚したカップルが 「婚姻届」を役所に出し、日本人同士であれば妻が夫の戸籍下に移動することをいう。この言葉が、在日で韓国籍で、日本人と結婚した女性から発されるのを聞いた (文字で見た) ことがある。「入籍」? つまり自分の 「戸籍」が 相手の戸籍に統合されるという意味ですね。それなら、彼女の認識は誤っている。彼女の 「戸籍」は韓国にあり、それは彼女の 「韓国籍」を証明するものだ。一方、日本側の夫の戸籍は、婚姻届を機会として その親からは独立するが、それは日本の行政上の事務的作業である。作成された彼の新戸籍には 「xx年xx月xx日xx国籍xxと婚姻」と書かれるだけで、驚くなかれ、その後の彼の戸籍 「謄本」にさえ、「妻」の欄は、ない。つまり、「戸籍」は、「戸籍」制度の中では 「国籍」の証明でもあるので、外国人である妻 (あるいは夫) が、夫 (妻) と対等な関係で、日本の 「戸籍」上に 「自分の名前」欄を持つことは、ない。「入籍」という言葉には、この場合 「彼と本当に (法的に)結婚しました」という以上の意味はない。

余談の3: 「戸籍」と 「住民」(または 「外国人登録」) という二重制度は、近代 100年の日本と、その旧植民地に固有のものらしい。その証拠に、アメリカにもイギリスにも 「戸籍」制度は存在しない。USAまたは UKであえて 「戸籍」に代わるものを探すなら、それは 「出生証明」である。それが、その人の 「国籍」を証明することになる。例えば、USAに所属する飛行機がシベリア上空を飛行中に出生した子の国籍は、まず USAであることが保証される。その 「出生証明」は、何らかの回路で証明書が得られる。その子の母親が、たとえ韓国籍でも、イラク国籍であっても、である。これを 「出生地主義」の国籍という。USAに属する飛行機の機内は、USA国内とみなされるからだ。
と同時に、ほとんど すべての国の法は、「その親の国籍」を継承する権利を保証する。従って、そこに多重国籍の可能性が生まれる。日本人の親から生まれた子は日本政府が日本国籍を保証する一方、親の一方が外国籍であればその継承も可能である。たとえ両親が外国人であっても、N 国の法が 「N 国内での出生による」 国籍(市民権)を保証していれば、その子は親の国籍と同時に N 国籍をあわせてもつことができる。「分娩だけはアメリカに行って」 する、という母親 (たち) の言いは、USA国内で分娩すれば、それだけでその子の USA国籍=市民権が発生するからだ。

「住基ネット」からの連鎖で、何を言いたかったのだろう?
以下は、「以後に続く」 ことにする。


(20021007-2) スヌーピーのルーシーとチャーリーの関係、再度

復習しておこう:
ルーシーの弟がライナスである。ライナスはいつも毛布を抱えて、それが彼の精神安定を維持している。ライナスが作った積み木のお城を見て、ルーシーが言う: 「このお城、あたしが蹴っ飛ばしたら あんたどうする?」。ライナスは答える: 「ううん、何にもしないよ。でも、お姉ちゃんが将来結婚して、ダンナが家を買うとき、僕に保証人になってくれと言っても僕は断るからね」。
ルーシーは、「私が両親の唯一の子であること」を望みつづけている子である。

チャーリーはスヌーピーの飼主で、妹ができる。妹ができると知って、チャーリーは狂喜する。妹が生まれてからは、チャーリーはルーシーの 「遊ぼう」という申し出を断ることがある。妹を乗せたバギーを、彼は母親が帰ってくるまで動かしつづける必要があるからだ。
この2人の対照が、「スヌーピー」の基調をなしている。

あるとき、誰だったか、おばさんに問われた。僕んちの上の子:女の子は、そのどっちなの? と。
僕は答えた: 「正確に両面です」。

たとえマンガであっても、文学作品は 「ある」典型、あるいは象徴的な、または戯画化された姿を映し出す。ルーシーとチャーリーのあり方は、その時代のアメリカ人の子どもたちの、「ある」姿を描いている。

6才の秋、1年生だった上の子は、クラスの発表で 「私の宝物は弟の麦です」と言った(という)。弟の出生・分娩に立ち会ったこの子の善意を、父親は疑わない。その一方で、嫉妬がないわけがない。かなり高い頻度で、(わたしも)「抱っこしてくれ」と言う。

ここ数日、1才を越えた子の 「言語発達」の測定で、かかりきりだった。既に7才の上の子は、相当な嫉妬を示している。「抱っこ」は昨日やってやったが、今夜は 忘れていた宿題を、横で見ていてくれという。ふむ。気持はわかるけどね、お前ちゃん、宿題って、自分でやるものなんだぜ。

なんとも 「家庭的」な、我が家の一日が暮れてゆく ・・・
僕は、僕自身は、朝鮮近代文学が、20数年前までは 「専攻」だったのだが。


(20021007-1) 1才児が言葉を獲得するとき、それは 「言葉」だとは限らない

うちのかあちゃんは、現在は病気である。いちばん深刻だったのは今年の1月から3月の間で、この時期、0才の子は施設で暮らしていた。4月、優先的に近所の公立保育園に入ることができたので、この子は帰ってきた。母親は、日中は事実上 「寝たきり」なのだが、日中は子育てから解放されるので、現在は充分に耐えられる。現在この子は1才2ヶ月めになる。

この子が帰ってきてから半年。僕の関心は、ただただ この子の 「言語獲得」の過程にあった。「ことば」は、子どもの発達を示す指標の中でも最大のものである。いわゆる 「運動神経」が体力とその反応速度を問題にするのに対して、「ことば」は それよりはるかに微妙で繊細で困難な肉体的行為を必要とし、しかも脳内の認知・応答のメカニズムによって・のみそれが発動される。ある年齢になって 「ことば」を発しない子どもには重大な障害があると考えるのが、常識ではある。
ただ、友人(たち)の先例は多い。男の子の場合、1才あたりでは何も発話しない、2才か3才、4才近くなってから 「急に文章をしゃべるようになった」という話は、今回を含めて数多く聞いてきた。ただしその多くは、普段は自宅にいない父親たちの証言なので、「ある」 条件付きで聞かなければならない。では、うちの子の1才2ヶ月めは、どうなのか。

1つだけ、気になっていることがあった。母親の病気で3ヶ月間 施設で暮らしたこの子は、今も 「常に」 おしゃぶりを与えられている。これがないと、うるさくてしかたがない子なのだ。施設から保育園への申し送りにも、「おしゃぶりを使用しています」 と書いてあったっけ。ん? つまり、おしゃぶりしないと、おまえ、やたらに声を出そうとする子なのか?
今になって気が付いて、今日は最初から おしゃぶりを取り去ってみた ・・・ おいおい、笑うわ、しゃべるわ、大声出すわ。「しゃべる」といっても、必ずしも言語音ではない。しかし、時にはナン語もしゃべる。笑顔ではない、けらけら笑うこともある。0才未満で観察される (はずだ) という 「指差し」 行動も、1才を越えたこの子は扇風機に人差し指をつっこんでみようとする ・・・ お前さん、これなら、適切な訓練さえあれば、すぐ 「言葉」なんか話せるぜ。

「おしゃぶり」の 「弊害」が喧伝されたのは、いつごろのことだったろう? もう僕も忘れてしまったくらい昔のこと、しかし記憶にある時代のことなので、これも 1960年代、または 1970年代のことかもしれない。しかし、その 「弊害」の内容は、まったく記憶にない。しかし、こうして実験してみると、「おしゃぶり」が言語音の発声に対して障碍になっていることは、まあ、まちがいない。しかし、だからといって、今夜からおしゃぶり取り上げれば、当人と母親の間に深刻なあつれきが生まれることは、またまちがいないのだが。


(20021006-1) 書き直し日記 − 1才児が言葉を獲得するとき

「日記」の書き直しなんて、いかにも不細工、恐縮、穴があったら入りたい気分。
昨日、なんだか深刻な気分で、1才がいまだに 「言葉」を発しないことを書いた。「幼児が言葉を獲得する」 という言葉そのものは感動的だが、裏返せば、親の気分に障害がある場合、「絶望」の種にもなる。そういえば、少し前の社会面ニュースでも、子どもが自閉症であると思い悩んだ母親が、酒で母子心中を画った事件があった。アルコールを与えられて死んだのは幼児、実は母親が鬱病というケースだった。

昨日の僕の 「日記」に、即 メールをくれた友人がいる。僕の昨日、深夜の気分は、友人にメールを書かせるに充分な内容 − 正確には 「トーン」か − だったらしい。書いた当人が、眠りながら 「あれはボツにしよう」と考えて、作業にかかろうと思ったら、既にメールが来ていた。そうか、やっぱりあれは、人を不安にさせるのだ。
というわけで、昨夜の作文はボツとさせていただきます (m__m)

しかし、人とは (いや、僕は)、気分によって 「認識」まで変化させてしまうことには、我ながら あきれた。今日の僕の認識では、1才2ヶ月の手前のこの子は、きわめて順調、既に はいはいもせず歩き回るし、仕事部屋の入口に立ててある障壁 (風呂場の スノコを立ててある)を乗り越えようとする。よく観察すると ナン語も見られる。先達たちの男の子たちと (おそらく)同じで、言語獲得に遅れがあると見るべきどのような証拠も、まだない。

考えてみれば、僕には、上の子と同年の男の子たちが、僕の娘と比べていつも幼く、頼りなく、未発達に見えていた。それは、「僕の子:娘」がすばらしい発達を見せている、と 僕には見えていたにすぎない。その証拠に、僕の注目の対象となった同年の 「女の子」たちは、「僕の娘」よりはるか先を行っている例が、目立った。事実、僕の目には聡明で意思明瞭で有能な女の子は、しかし絵や字をかかせると、おそろしく へたくそだったりする。僕はおそらく − 「自分の子」だけを特別視する、ごくごく当たり前の落し穴に落ちているのだな。


(20021005-2) 恩師のプリンタ

顛末は、何のことはない。師は、お勧めした通りノート型の機械を店頭に持ち込み、これにつながるプリンタをくれと のたまった。店員は大喜びで、その日に発売されたばかりだというカラー・プリンタを。
超一流ブランドのノートに超一流ブランドのプリンタで、2万そこそこだったそうだ。師いわく、実は最近は写真をメールで送って来る輩がいる (大変迷惑そうであった)、故にこれでよいと。

一件は落着 (ただし、写真の印刷手順ができたかどうかは、知らない)。


(20021005-1) CD-R ・・・ まだ見ぬ DVD-R

Maxell ブランド 「24倍速」まで可の CD-Rが 10枚セットで ¥480、これを2セット買うと、消費税込みで¥1,008。ところで、Victor ブランド 「16倍速」が 20枚セットで、まったく同じ値段。どうなってるんだろう。前回と棚の様子がちがっていて、DVD-Rがだいぶ増えている。ふむ、売る側の関心はそっちに行っているわけね。CD-Rは、とにかく在庫を吐きたいのだろう。「16倍速」の山があり、同じ値段の 「24倍速」は、山の間に隠すように置いてあった。くどいようだが、「24倍速」では、1時間ものの書込みが 60/24 = 2分半で できる; 「16倍速」では 60/16 = 3分45秒。大した差ではないが、しかし一度 「速い」機械を使うと元には戻れない ・・・ そうすると ・・・ しかし、DVD-Rの書込み 「24倍」はあり得ないので ・・・ いや、買うのはまだ先の話だし ・・・ と、土曜日は終わる。

見もしない TV録画 CD-Rが増えてきたので、子どもには 「要るものだけ録画しろ。ほしいものは CDにしてやるから、言え (言わないものは消すぞ)」 と命じた。さっそく今日は、2時間ものの 『どらえもん』 だそうだ。インターネット上の番組表、そこをクリックすると TV録画の予約ダイアログが開くのを教えた − こうなると、もう完全に 「現代の」子どもだ。これで、もし − 録画を 「直接 DVD-RAMへ」 なんてことになると、VHS時代の大量のテープと同じことになる; つまり、何度でも上書き可能なはずだが、当人は1回限りの録画を消すのが惜しくて、無限に 「ラベルのない」 テープ (次は DVD-RAM) が増えつづけるだろう。
それならむしろ、ハードディスクに録画させ、ある期間の後には強制的に消す。そうなる前に、「ほしい」 ものを申告させて、親が DVD-Rに書き込んでやればよい。今は、それを MPEG1の CD-R、1枚1時間でやっている。その書込み作業が面倒なだけに、今は CD-Rはどうしても 「24倍速」以下で妥協できない、のだ。


(20021004-1) どんどん増える子どもの TV録画をどうしよう

機械を買った最初から、ハードディスクはそれにそなえて 80GBにしてあった。その半分を、動画で遊べるように取ってあった。TVチューナー・録画ボードは 9800円ですませた。最初の1ヶ月、MPEG1、MPEG2のいろんな類型を試しているうちに、半分=40GB の大半は埋まってしまった。これは将来的に DVDに移すつもりなのだが、DVD-Rを買うまではこのまま保存するしかない。その間にも、文字通り 「手軽」になった TV録画を、子どもはどんどん貯める。このままでは数日内にパンクすると感じて、とりあえず CD-Rに1枚1時間、MPEG1でがまんしなさいと、吐き出し作業にかかった。その枚数たるや ・・・ 48枚も入る CD用 バインダーに、あと何枚も入らない。48枚ったって、1枚 50円なので金額は知れているのだが、しかしちょっと油断するとハードディスクの方がパンクする。CD-Rの買い置きが尽きたので CD-RWを使ってみたら、おいおい、-RWは 「4倍速」で1枚 15分、「書込みテスト」に 「結果の検証」までやってたら1時間近くかかる。1枚 200円近くてこれでは、使い物にならない。CD-RWは、近い将来 淘汰されたメディアになるのだろう。ふう =3

DVD-R?
恩師から経済的支援をいただいたばかりだ。そんなの買ってたら、師を裏切り僕の家計は再び破綻するにちがいない。困った。当分は、もう1度だけ、48枚の CD-R路線でしのぐか ・・・


(20021003-3) 『千と千尋の神隠し』 の研究者的解釈

知人のサイトの 「日記」なので、多少遠慮する気持がないではない。が、この誘惑には耐えられない。現役の大学教官で日本文学、「源氏」が専門分野であるという彼の同僚が、受験生集めを目的とする (いわば) 「見せ講義」 で、『千と千尋の神隠し』 を 30分にわたって論じたという。やや長いが、引用させていただく:
異郷訪問譚というのは、神話学や民俗学、説話研究で使われる説話や伝承の分類用語で、分かり易く言えば浦島太郎の竜宮城や海幸山幸神話の海宮訪問、舌切り雀の雀のお宿が「異郷」になる。現実社会とは隔離された世界が存在して、そこでは時間の流れや様々な現象が通常と異なっている。そこへふとしたはずみで迷い込んだ者は、そこでの体験からなにがしかの「タカラ」を得て帰る。帰還後の展開はそれぞれの説話伝承によって異なるが、これがだいたいの大枠であり、『千と千尋』もその類型上にある。

まずは、時間の流れ。車で乗り付けたテーマパークの残骸とおぼしき中国風城門の入り口。お父さんの腕時計は10時を指している。ところが、その城門(これが異郷への第一境界)を通り過ぎただけなのに、最初に見かける時計台は10時40分。第2の境界である川を渡って迷い込む食堂街。食事に熱中する両親から離れて迷い出る千尋の影は正午頃のそれ。不用意に踏み越えた第3の境界である橋の上でハクと出会うシーンから日没へ、急速に影が伸びて日が暮れていく。時の推移の描き方が、外の世界とはまるで違ったものであり、これが「異郷」の特徴である、と。たしかに、3泊4日の物語が終わって、帰ってくると車の周囲は草ボウボウ、落ち葉や埃に車は埋もれていた。浦島太郎の竜宮城での3日が現世の300年だったことを思い出す。

時の流れの異常さは、月の描写にも現れていて、なるほど1日目の月は三日月、2晩目のは満月、3日目の月は十日の月、これが現実世界の時間の流れを反映しているのなら、3泊4日後の経験を終えて、千尋は1ヶ月と1週間後の現実世界に戻ってきたことになる。映画では、その後の話は巧妙にカットされていたけれど、車の周辺状況からみて多分そう言うことになるだろう。

油屋周辺の描写も、「異郷」の象徴としての「四方四季」の景が随所に見られ、そこが現実の時間を超越した空間であることを示している。「四方四季」とは、一度に四季の景物が楽しめるという趣向で屏風画や障壁画で使用される手法だけれども、それが物語の中での描写として使われるのは、現実を超越した「異郷」の設定に他ならない。たとえば、人間の臭いがすると見つかりそうになった千尋がハクに連れられて庭の片隅に隠れるシーン、紫陽花の花の向こうに椿の花、縁側の方向には紅梅の花。うむ、確かに。

最後に、戻ってきた時の城門が、入る時には「いかにも安っぽい粗末なモルタル造り」だったはずが堅固な岩の城壁に。車止めの置き石にあった神様の顔が消失してのっぺりした岩に。これは、「異郷」への入り口があの時限りのもので(モルタル造りは臨時性の象徴)、今はもう閉ざされてしまったことを意味する。これも異郷訪問譚の特徴である。うん、トトロの穴もいつも開いてるわけじゃなかった。そして、千尋の髪に残った銭婆に貰った髪止めがきらりと光って、あの日々が確かに存在したことを示して終わる。千尋が得た「タカラ」は、やや現代化されて「生きる力」だった。
(出典: http://www.orcaland.gr.jp/~richi/nikki0209.htm、その 「浦島太郎と千尋 2002.09.28 」 の項。太字は水野による。同サイトのトップ・ページは http://www.orcaland.gr.jp/~richi/で、サイト 「亭主」のプロファイルはそこから参照されたい。「万葉」の専門家である)
この緻密な観察が、「プロ」 のものなのだ。この教官は おそらく 40前後で、子どもとともに 「千と千尋」を見ただろう。が、「プロ」の意識が、こういう細部を見逃さない。
それは、広い意味での 「文学」研究の大前提でもある。そして − 蛇足だが − こうした緻密な観察を朝鮮近代文学の作品に動員した例を、僕は知らない。結果として、「いつも悲しい」。その代償として、例えば 10年以上遅れて子育てのさなかにある僕は、時に 「千と千尋」や 「ハリー・ポッター」にこだわってみるのではないかとも、ふと思った。


(20021003-2) 「ハリー・ポッター」 のハーマイオンに生理がやってくるとき

唐突で恐縮。
「ハリー・ポッター」の全7巻 (前の記事に 全 「9巻」 と書いた記憶があるが、これは誤り。本のソデには 全 「7巻」 とある) の、第1巻では、主人公群の3人は、ホグワーツ入学資格 「11才」である。
忘れていたのは、11才とは 「大人」になりつつある時期であること、そのうち女の子であるハーマイオンには、いつか 「生理」がやってくることだ。

伏線は − そう考えてみると − 充分に張ってある。ロンの兄パーシーにはガール・フレンドができ (第2巻、第3巻)、第3巻では 校内でひそかにキスする場面さえある。11才から7年制の学校では、在学中に思春期の前半、大部分を終えることになる。第3巻にさえ、ハリー (13才)が他の (敵対しない) 寮の 「シーカー」、中国名とおぼしい女の子に ぼおっとなるシーンが数回あって、今後の成り行きを (ひそかに)心配させる。
そういえば、第1巻だったか第2巻だったか (第3巻だったか)、学年末で解散の直後に、学校側は女子学生だけを集めたことがあるような気も、する。僕の小学校時代では、6年生の卒業式の後だった (かな?)

それらのすべてを含めて、「1年に1冊」しか出さないという出版社 (作者?)のやり方は悩ましい。古典的なこの 「じらし」作戦は、いや、はや、相当な効果を上げている。幸か不幸か、来月には第4巻が書店に出るだろう。この第4巻が、ハーマイオンの 「初潮=月経」に触れるかどうか、まあ、注目点たちの1つはそれである。もちろん、ハリーとハーマイオン、それに 「中国名とおぼしい」彼女との関係も、良くも悪くも 「通俗」小説であるこの作品では、焦点の1つになるにちがいない。


(20021003-1) 日記、恩師からの手紙

僕が 「恩師」と呼ぶ以上、僕はこの方に敬意を抱いている。だから、僕は (やや非常識なまでに)、僕自身の私的な状況も説明しようとする。念のため、関東に在住される方である。

この先生から、郵政省経由の郵便物が届いた。
先日から、パソコンとプリンタの問題でメール交換があり、ついでに僕の家庭事情を説明してあった。プリンタは先生自力で解決できそうだったので、その経過か。でもなぜ郵政省メールなのだろと思いつつ、開けてみた; おどろいた; 現金が入っているではないか。

その瞬間、僕は鉄腕アトムだ; 複雑な事情と関係を電子頭脳で処理し、わずか1秒か2秒後には アトムは結論を出した: この現金、ありがたくいただくと。

事情は、僕の親族に不幸が発生したことにある。しかし、前後の事情は、僕は必ずしも説明し尽くしてはいない。が、かつての学生と教官である。「教官」の本能かもしれない。先生は現金を送ると決めた。

驚いた。「恩師」から、現金をいただいた。瞬間、これは返すべきだとも考えた。が、鉄腕アトムは、それをもらえと言う。事情は、師の不幸ではない、僕自身の困窮である。そうか、先生、わかった、わかりましたよ。二十数年前の激しい愛情 (大変でしたよ、先生、僕はさんざん ののしられて) の後、再度これですね。

眉を上げ、決意に満ちた表情で鉄腕アトムは言った:
「御茶ノ水博士、僕を 100万馬力に改造してください」
「じゃがな、アトム、お前を 100万馬力に改造したら、そのパワーでお前の電子頭脳は狂ってしまうかもしれんぞ」
「はい、かまいません。たとえ電子頭脳が狂っても、僕はあの敵を倒したいんです」
僕を、100万馬力に改造してくれる博士はいない。その代わり、マンガの枠を破って飛び出すアトムになることもない。ただ − 常識とは逆に 「恩師」から再度支援を受けた僕は、厚意に報いるような、健全な家計を再建することを考えなければいかんのだろうな ・・・


(20020927-1) 日記、「ハリーポッター」第3巻

第3巻には、キャロル的な論理問題は出なかった。が、もちろん言葉遊びには満ちている。この連作は推理小説に近いので、話を書いてしまうと 読んでない人の楽しみを奪ってしまうのが、やりにくい。ただ、「読んでみようか」と思わせる方向で話をするのはきらいではないので、以下、そう試みる。

第3巻には、ハリーの 「親友」(既に 「同志」と呼んでもよさそうだが) ロンの、老いぼれ役立たずのネズミのペットと、ペットを持っていなかったハーマイオンの新しいペット、赤猫が登場する。(なおハリー自身のペットは白いフクロウで、これは第1巻の映画からキャラクタ商品になっている。クリスマスに、雪の中を、肩に白いフクロウを乗せて歩くハリーの姿が、映画に出てくる)

赤猫はまず、そもそも魔法のペット・ショップで、ロンのネズミを襲おうとする。ハーマイオンはフクロウを買いに行ったはずだったのだが、なんと この赤猫を連れてくる。当然、ロンとハーマイオンの関係は悪化し、数度に渡って友情の危機がやってくる。老いぼれ役立たずのネズミで、兄たちからお下がりのペットでも、ロンはこのペットを愛しているらしい。二人の関係が回復するのは、ネズミが失踪しその床に赤い猫の毛が発見されて、ネズミの 「死」 が強く示唆され、さらにハリーをめぐる本来の危機がやってきて、3人がそれに対する行動をはじめてからである。

さて、そこで 「解説者」としては、困った。ネズミは、第3巻の結論部で生きて発見されるが、このネズミの正体が 第3巻それ自体の触れ込みを裏切る (つまり 「どんでん返し」の) 結果になっている。つまり、第3巻の触れ込みの仇敵ブラックは、巻末で完全に立場が変化する。12年前 ハリーの両親を裏切り V 某に殺させたのは、驚いたことに このネズミ、実は 当時の彼らの同級生だった。

伏線というべきか、前後の道具立ては緻密にできている。例えば、赤猫が当初から このネズミを襲ったこと、ブラックが深夜に寮に侵入し 「襲った」のは ハリーではなくロンのベッドであること、さらに、第1巻で ロンが 「お日様、ひな菊、とろけたバター」でネズミを変身させようとしても 必ず失敗すること (映画ではそこへハーマイオンが登場する) など、どれもこの第3巻のネズミの正体に収斂することになる。

ところで。
僕には、違和感が残った。兄たちのお下がりのペット、老いぼれで役立たずであるからこそ それをロンは愛していたと言える フシが、ある。作者自身、読者にその印象を与えることで、第3巻までネズミの正体を隠してきたはずだ (作品7巻は、最初に第7巻が書かれたという。従って、最終巻に至るまでの過程は、作者の緻密な計算というか、戦略下にある。その場その場の読者の反応で自在に変化する (かもしれない) 新聞小説とは、その点、この作品の成立は異なる)。
違和感があるのは、このネズミを愛してきたはずのロンが、ネズミの正体を知ったときの反応だ。葛藤はそこそこ描かれてはいるものの、合理的な説明を与えられネズミがハリーの仇敵だと判明した後は、人間の姿に戻った 「ネズミ」の両腕に手錠がかけられ、その片側をロンが引き受ける。もちろん、自分の愛してきたネズミの正体を、ロンは 「屈辱と受け取ったように見えた」 とは書いてある。だからこそ、その連行の片側を、ロンは引き受けるのだ。13才の正義ではある。

しかしねえ ・・・ 第1巻の森のシーンの後、ハリーが V 某に殺されかけた夜、それを聞いたロンは、なんてことだ、僕はそれも知らずに期末試験の心配ばかりしていたなんて ・・・ と自分を責める。ロンの人格形象は、だいたいそれで矛盾はない。が、第3巻の立ち直りは 早すぎ (速すぎ)ないか。
一般論として、「愛するもの (者、もの)」に裏切られた心の傷は、長引く。ましてそれが、「兄たちのお下がり」で老いぼれの無能ネズミであればあるほど、それゆえにハーマイオンとその赤猫への敵意は高まった。彼がネズミに注いだ愛情は、(作品の流れでは)大きなものだ。そのネズミの正体が、親友ハリーの仇敵のスパイだったとわかったとき − あなたなら (わたしなら) どうするだろう。普通の神経だったら、耐えがたい葛藤と混乱と、その回復までに数ヶ月から数年を要するのじゃなかろうか。

ロンは、学年末の世俗への汽車の中で、新しいペットを手に入れる。立場が逆転したブラックからのフクロウ便が、車中のハリーに届く。その手紙を運んできたフクロウそれ自体をロンにやると、手紙は言う。ロンは大喜びでそれを受け取る。

「推理小説」の 「解説」のタブーを越えたかもしれない。

思い出したことがある。イギリスの常識ある家庭では、引越しの際にペットを連れて行けない場合、保健所 (か、それに類する機関) に預けて、そのペットを毒殺してもらうのだ、と。それが、責任ある=常識ある飼主の行動だ、という話を。
この 「伝統的イギリスの常識」は、現代のアメリカ人には通じない。現代アメリカでは、牛・豚・鶏を殺し解体して料理にするが、クジラやイルカをそうしてはいけない。アメリカ家庭でのペットは、家族の一員でありつつ、放棄するときはそれなりの (殺さない)機関に預けることになっている。

ペットに対するイギリスとアメリカの差が、あるいは、第2作でイギリス生活を切り上げアメリカに帰った映画監督の、無意識の中になかったとは言い切れない。
それから、第3巻には、第1巻・第2巻 末尾のハデな 「対決」 場面がない。その意味でも、映画屋は 第2作で 「そろそろ引き上げ時」と感じたのではないかと − まあ、考えてみないわけでもない。


(20020927-1) 日記、「ハリーポッター」第1巻とルイス・キャロル

映画のチェスで 『鏡の国のアリス』を思い出したのだが、『ハリー』の第1巻を読んでいたら、あらら、論理ゲームが出てくる。

映画で最終場面に至る前の、巨大チェス。これに命をかけて戦う 幼いロン。ロンは自分が犠牲になることによって、ハリーに チェック・メイトさせる (将棋の王手だ)。映画では、ハリーとハーマイオンがロンに駈けより、ハーマイオンは有名な(有名になるかもしれない) 「私なんかガリ勉なだけ、あなたは勇気があるわ、ハリー」というせりふでハリーを最後の部屋に送り出す。

本では、巨大チェスでロンが犠牲になり、チェック・メイトは自動的、ロンは盤の外に捨てられ、ハリーとハーマイオンは2人とも次の部屋に行く。そこには、7本の小ビンが置いてある。この瞬間 思い出してほしいのは、『不思議な国のアリス』の 「私をお飲み」ジュースだ。あの、体が巨大化する (のだったか?) ジュース。ハリーとハーマイオンの出会う小ビンは7本。そこには、要約すると次の説明がある:
・ある1本を飲めば、背後の炎を越えてここから逃れることができる
・ある1本を飲めば、前方の炎を越えて次の部屋に前進できる
・2本は酒
・3本は死の毒薬
ここまでが前提。次に 「ヒント」が並ぶ:
・毒入りは必ず酒の左
・両端は種類が異なる。この両端は 「前進」のビンではない
・ビンの大きさはすべて異なり、最大・最小のビンとも毒ではない
・左端から2番目、右端から2番目は 「双子」で中身は同じものである
最後の 「ヒント」で、キャロルの読者は笑い出すだろう (僕は笑ったから)。ハーマイオンも微笑み、「これは魔法じゃないわ。論理よ」 とくる。たちまち目的とする2本を彼女は発見し、退却のビンを彼女が、前進のビンをハリーが飲むところで、やっと彼女は 「私なんかガリ勉なだけ ・・・」と発言する。

映画では彼女はその 「聡明な」知性一般で得点するが、本では、その恐怖の中でも冷静にこのビン選びをした功績で、と明言されている。うーむ、アメリカ人なら、キャロルの世界はマニアのものだ。さすが 作家は 「本場」のイギリス人で、平気でアリスを持ち出すわけね。

こういう世界は、朝鮮近代文学には ない。日本文学にも、もちろん ない。「アリス」や 「ハリー」を面白いと思う理由の多くは、それなのだ。
面白さの別の面には、やはり 「アリス」にも出てくる言葉遊び、例えば文字の並びを左右 (上下) 逆転する、似た単語の意図的な言いちがい、「韻を踏む」のか、似たような音の言葉で句を立てる − 第2巻では 新人教官の著書名がそのオン・パレードだし、核心部分では 「50年前」の記憶の中の青年の名前が、実はハリーの宿敵の名前と同じ文字セットで成り立っている ・・・ などがある。こうなると、原文を読まないわけにはいかない、ような気もしてくる。

もちろん、「言葉遊び」が 「文学」ではない。が、言葉遊びが至るところにちりばめられているのが、キャロルつまりアリスの世界でもある。それに、「チェス」も近代では 『鏡の国』 が ある原点になるのだが、『ハリー』は、そういう背景の上に成り立っているようなのだ。


(20020925-1) 日記、7才のパスポート、「ハリーポッター」第1巻

7才のパスポートを受け取りに行った。ついでに1才のも作ったので、家族総出だ − つまり、パスポートの受け取りだけは 「本人」出頭が必須なので、1才も7才も 「その場」に連れて行かなければならない。必然的?に、1才には母親が同行するから 「家族総出」。
1才と7才の決定的なちがいは、「署名」が自筆か親の代筆かだ。それ自体は 申請書の上に署名し、パスポート本体にはコピーが出るだけなのだが、いざ実物を受け取ってみると、ふーむ、僕の字で子どもの代筆署名したのと、7才が自分で書いたひらがな署名では、どうも価値がちがう。ある種の感慨にふけってしまった。もっとも、パスポートの期限は5年、そのころには当人は中学生になっているので、恥ずかしい思いをするかもしれない。が、それはそれで、彼女の成長の証拠なのだ、ま、いいじゃないか、おねえちゃん。

パスポート受け取りで仕事は1日休みにした。本を読む時間ができたので、「義理はない」 はずの 『ハリー・ポッター』 第1巻を、半分まで読んでみた。あらら、おいおい、映画のシナリオとぜんぜんちがうじゃないの。基本的には同じでも、「細部をとばした」 程度の差ではない。ハリーが列車に乗るまでの手順 (本では、ハリーは数日 「自宅」に戻っている)、列車の中でのロンとハーマイオンとの出会い (ハリーは既にロンの兄たちと出会い、その存在を知られている。ハーマイオンは列車の中で、魔法でハリーのメガネを直さない)、謎の石 (だと後にわかる)を守る三つ頭の巨大犬に出会う理由 (本ではなんと、既に 「敵」になっているマルフォイとの 「決闘」、映画では 「動く階段」の気まぐれ) ・・・ と、プロッティングはかなり異なっている − ただし、プロッティングの技巧的な面が異なっているだけで、作品の本質的なところに変化があるようには見えない: つまり、朝鮮近代の短編 『サラン(バン)のお客様とお母さん』の場合、解放後の韓国の映画では作品世界そのものが変質するのだが、今のところ 「ハリー」 第1作については、そこまでひどい改作はない、ようである。あくまで技術的・技巧的なプロッティングの変更であるようには、見える。

第2作の 「本」を読みながら、全9巻の収束する方向を 「壮大な循環劇」 になると予想した。第1作の 「本」を見ながら、やはりその傾向を感じる。最終的に、ハリーとその宿敵 V某 「名前を言ってはならないその人物」 は、同一人格か、あるいは同一人格の分身ではないかという気がする。眼前の幼い 「宿敵」 マルフォイについても、ハリーを 「憎んで」 いる教官スネイプについても、作者はまだまだ 「出し惜しみ」をしている感じ。マルフォイの背景については、第1作、第2作とも 本では ある説明がされるが、それもまだ漠然としている。スネイプに至っては、第2作でもハリーを 「憎んでいる」 ようで、その正体は明かされていない。良くも悪くも、9巻中の2巻まででは謎の人物であり続けている。

「ハリー・ポッター」に興味を感じる僕の頭の中には、『風と共に去りぬ』がある。『風と共に去りぬ』は、伝説によれば、ヒステリー起こした ねえちゃんが、夜中に数日かかって書き上げた大作である。結果として − 作者は 「プロ」ではないので − 技術的・技巧的には穴だらけであるのは事実なのだが、それでも・あくまで 「名作」であり続け、その映画も原作を大きく離れることはできなかった。
「ハリー」は、本のソデ、解説や付録に、離婚後の作者 (女性)の事情が説明されている。どこか、何か、「風と共に・・・」 との共通点があるような気がするのだ。ただし、「風と共に・・・」 は作者自身の体験を背景に あくまで 「現実」をフィクションとして展開しているのに対して、「ハリー」は、作品世界そのものがフィクションである。これが9巻完結まで商業的成功を続けるかどうか、それを含めて、まだ 「観察を続ける」必要があるとは思う。

この他に、本と映画では 「生意気な」少女 ハーマイオンの意味が、かすかに異なっているような気もする。「本」では、彼女は あくまで本気で ハリーとロンにうとまれているのだが、映画では この 「生意気さ」への親愛表現が強い。これと並行して、例えば 「三つ頭の巨大犬に出会う」場面には、「本」では ネビルがいるのだが、映画はあくまで ハリー、ロン、ハーマイオンの3人だけである。このあたりに、原作者と映画監督との微妙な差がある。
まあ、今後の展開を見るしかないですか、ね。


(20020924-1) 日記、キーボード、父の次期マシン

電卓のキーボードと、電話のダイヤル・ボタンの並び方、それとパソコンの いわゆる 「テン・キー」つまり数字キー。この3つの大きなちがいはご存知だと思う: 前2つは、「上から 1、2、3・・・」、パソコンだけが 「下から 1、2、3・・・」 である。

この 「問題」、誰も問題視するのを見たこと (聞いたこと)がない。会社一般で経理などやっている人たちは、過去 30年くらいの間に そろばんを捨てて、電卓を使ってきた。その次はパソコンで − それで、なぜこのちがいが問題にならなかったのだろうか? たがいに良く似た機械だからこそ、この上下反転 (正確には上下の鏡反転) は、当初、当事者たちにはものすごく使いづらかったはずなのだけど。もっとも、会社一般の経理がパソコンに移行するのも 長い時間がかかっているし (今でも手計算の豆腐屋もお菓子屋もあるし)、商店では今もキャッシュ・レジスタ−だけですんでいるところも多い。言い換えると、パソコンそのものの 「実用度」は、信じがたいほど低いのかもしれない ・・・

考えてみれば、「ブロードバンド」 インターネットだって、個人ではあくまで道楽の世界であって、だからこそ 高速などといっても 「映画の配信」が実用になる気配はない。パソコン用 TVチューナーの画面が (最初) おそろしく鮮明に見えたのは、それまで僕が TBS、読売、フジTV といった 「インターネット放送」のニュースに慣らされていたからで、毎秒 30フレームもある TVをパソコン画面で見たら、今度は 「インターネット放送」の画面など汚くて、実は目をそむけたくなるほどなのだ。

何の話だったか − キーボード。
70代後半の父と話をしていたら、僕と姉とのメール交換が話題になった。この前も書いたが、父の使っている 「ワープロ」は液晶が劣化してもう使い物にならない。だいたい、ざっと 10Kgもありそうな重い機械で、こういうのを前世紀の遺物という。ついでに 彼の Faxの機械も故障がはじまり、スキャナ部か あるいは送信部がノイズを発生したり通信不能を起こす。携帯メールの話で、どれどれ、携帯ではどうやって入力するのだと、興味を示す。
しょうがない。電話のキーの 「1、2、3・・・」 に重ねてある 「あ、か、さ・・・」 で入力するんだよと やって見せた。我が父はこう言った: 「ふうむ、わかりやすい!」
面食らったのはこっちだ。これの、どこがわかりやすいのだ。彼の主張はこうである:
ワープロのキーボードは、あっち・こっちに文字がばらばらで、どこにどの字があるのか、さっぱりわからん。これなら 「あ・か・さ・た・な」 の順に並んでいて、俺の思った通りの方法だ。
10年も使っていて、結局 JIS カナ・キーボードの配列、覚えられなかったのね。あれは、両手使って、出現頻度の高い順に中央から配置してあるんだぜ (ほんとかな)。

僕は、携帯入力は放棄した。パソコンではローマ字だ。英文キーボードは、8ビット・マイコンあたりでいやでも覚えたから、カナ配列も放棄した。今でも、日本でパソコン買うと 「かな」付きキーボードが付いてくるので、これが目障りで、必ず英文字だけのキーボードに取り替える。一時はキーボード・マニア化して、パソコン3台にキーボードが 10枚なんてことがあった (現在は5枚くらいだろう。なお、日本語では古来キーボードは 「1枚、2枚」と数える。「1枚、2枚 ・・・ 悲しや、1枚足らぬ」という怪談もある)。7才の子どもに 「かな」入力を教えてみたい気持はある (喜ぶことはわかってる)のだが、しかし、僕がそんなキーボードは見たくないのだから仕方がない。

で、父の次世代機種がどうなるか。そろそろ世を去る同年輩がふえている年齢だ。行政主催の IT 教室にも行ったし、女房 (つまり僕の母)にも行かせたという ある種の積極性はあるのだが、いかんせん、行政 IT 教室のちいちいぱっぱでは、コンピュータの基本的な原理というのか、基本概念を教えてくれないらしい。よって、「いかに覚えるか (覚えられるか)」という問題になる。70代後半の夫婦が、そろって孫に、「よく覚えたねえ、えらいねえ!」 と賛嘆を惜しまない; 息子の講義を本気で1時間 聞く意思があれば、CPU、メモリ、外部記憶と周辺装置といった概念の講義くらい、喜んでするのだが ・・・
これでは、Windowsは無理だ。では Macか。しかし、Windowsなら僕が関与してフル・セットで 10万、しかし Macでは確実に 20万かかる。Windows買っても粗大ゴミになるのがわかっているが、Mac買って粗大ゴミになるのは ・・・ そのカネ、息子にくれえと言いたくなる。

さて、我が父の次期マシンは Faxでしょうか、携帯でしょうか? ザウルス1枚に携帯内蔵、ペン入力で Fax送受信可、それで数万円というのならよさそうか。ただし、「老人モデル」の でかい・太い字が出ないと読めないし、紙に出ないといけない。その 「紙」にしても、外付けのプリンタなんて、ビデオの接続のできない老人に USBだの IEEE1394だの、そりゃ無理だわなあ・・・ まして、ノートの ものすごく小さなコネクタなんか、ピンの上下も彼には判別できないだろう − それは、まだ 40代の僕自身が、このごろは困りはじめているのだから。


(20020921-1) 『ハリー・ポッター』 第2作

映画の予告が出ていた (もうやってるのかな?) 『ハリー・ポッター』 第2作 「秘密の部屋」 の 本を、買ってみた。第1作の本は、映画 (DVD) を見た後なので、翻訳調の文面が気に入らず、あえて読み直す必要を感じなかった (つまり、「やはり 「翻訳」 は読みにくい」のだ)。が、今度は未知の作品なので 「その」興味で読み進んだ。冒頭に出てくる 小人とも妖怪ともつかない 他家の 「しもべ妖精」の正体が、巻末で初めて明かされるのをはじめとして、その間に発生するさまざまな事件や謎が、最後の 1/3 できれいに解き明かされて行く、まあ、よく 「結構の整った」 作品である。(ただし、空飛ぶロンの自家用車、森の中で野生化したまま放置されるのかしら?)

それに、巻を越えた 「伏線」 のある場面がある。ハリーが 「蛇語 / パーセルタング」の話せる 「蛇語使い / パーセルマウス」であることが、後半になって明らかになる。この蛇語は、ハリー自身 ヘビが目の前にいないと話せない。ん? 動物園のヘビと お話する場面は、第1作の冒頭にあったな − つまり、これは本当に 「連作」なのだ。西洋文学の伝統からすれば、これは中編の連作になる。「本1冊」だから 「長編」だと考えてはいけない。話の展開の複雑さ、読者を充分に迷路に導きつつ、しかしその1冊の中ですべての問題を処理し解決して行くのは、まあ 「中編」と呼ぶのが正解だ。

(余談だが、これに対して 「短編」というのは、典型的な例がカフカだということになっている。朝起きてみたら私は虫になっていた; ただ、それだけ; 短編は 「焦点:争点:論点」または 「結末」にむかって、ただ1つの言葉の浪費もせず、結論にむかってつき進む。当然、「短編」で展開される話の時間のスパンは、短い。完全な余談だが、短いから 「短編」と言われている 1920年代の金東仁の作品などには、ある女性の幼時から老衰死までを扱っているものがある。この点が、当時の朝鮮文学の幼さでもあった)

巻を越えた伏線があることがわかったので、では、第1作の入学式、その入寮審査 (帽子)の場面に出てくる、(以後のプロッティングの中では忘れられる)スーザン・ボーンズが出てくるかな、と期待したのだが、出てこなかった。第1作は映画しか見ていないので、本には出ているのか (しかし、そこまで調べる義理もない)、あるいは今後の巻に出てくるのか。

第1作、第2作の結末の 「しめ方」から想像すると、以下7巻の作者の構想は 壮大な循環劇になるのだろうか。つまり、9巻が完結するころには、ハリー自身が伝説の魔法使いとなって、ホグワーツ魔法学校に 悪魔のように出没することになる? ま、学校は7年制だそうで、それまで7巻とすれば、残りの2巻でその後の 43年を消化するのだろうか ・・・ この先の巻まで読んでる人にお願い。僕にそれを教えないでね。

怪力乱神を語るのは近代文学ではない。「血」 を問題にするのも、近代文学の正統的なやり方ではない。ハリーの友人ロンは、純粋培養に近い 「純血」の魔法使い家系、その逆に、すてきなハーマイオンは完全なマグルつまり 「非・魔法使い」系である。第2作は、その純血ロンの一家と、悪の純血ドラコの一家の対決でもある。ハーマイオンは、対決の間は眠らされている。彼女の活躍が第2巻では限られている点、やや不吉な予感がする (連作の今後の展開に、いやな思いはしたくない。第1作と第2作でも、ハリー自身の出自と能力の説明に微妙な差がある。あまり恣意的な説明を展開してもらいたくないのだが、それは作者が決めることだ)。


(20020919-1) 面倒な携帯メールめ

「姉(2)」とのメール交換は今日もあって、こちらの事情説明が長い。しょうがない、メール・ソフトの設定を変えて、
・作文窓を1行全角25字に
・その 10行以内で1通の発信とする。行数は人間が目で数える
・送信時には 「36文字(72桁)で改行」を挿入しない (長い行の回り込みは、受信する携帯の表示にまかせる)
という一時設定で行く。念のため、僕自身の携帯に Bcc を送っておく。これだけやらないと実用にならないのだから、ったくもう、すさまじきもの、携帯メールだ。

しかし、いらなくなった僕の 「Fax」 の機械を扱いかねて、「お母さん、メカには弱いからな」 と言われていた彼女が、携帯メールを実用に供するとは思わなかった。紙の手紙や Faxでは一度も交換したことのない やりとりが、メールで できている。電話で話せばすむことなのだが、それも 「メール効果」。彼女と夜中に長話をしたのは − 40年前の − 子どものころで、それ以後 電話で話したことは いくらもなかった。Faxともまたちがう環境・状況で、「紙に字を書く」のではない、機械で文字を 「入力」しながら 「書く」という回路が、50代の女にも、(我々には) 意外なほど親和性が高いのかな、と思った。もっとも、「我々」という 「僕」 自身も、あと半年で 50になるのだが。


(20020918-1) 日記 − パソコン、携帯メール

話1:
久しい友人から電話。電話してきた理由は、これまた久しく連絡のないある青年から電話が来たが、そのせいで彼も憂鬱だったらしい。

話題はそれだけで、特に用もないので、彼のパソコン事情を聞いてみた。変わらないわねえ。FM-Vの 「初代」 あたりの機械で、ハングルの処理にいろんなことをやってみたのが、もう5年以上前の話だ。Windows 95。新しいソフトはみんなあきらめ、Word 2000とその多国語化キットで当座をしのぐつもりだと言うが、あんまり現実的とも思えない。今じゃ、売ってる機械の最低が 1.5GHzなのよ。そう言ったら、だからこそ機械の買い替えではソフトにもおカネがかかる、そんなカネはないという。
しかしねえ ・・・ 今となっては、Windows 2000も動かない機械で どうするの。ベア・ボーンでフル・セット、1GHz Celeronを6万5千円で買ったのは僕。いずれおカネはかかる。古い機械のソフトに投資したって、ほとんど意味がない。DVDでも見たいならともかく、I/O装置の値段を1万円、5千円単位で切り詰めてゆけば、今この瞬間 1.5GHz級の機械が6万あれば 買えるではないか ・・・ 彼の能力から言って、「自作パソコン」は勧めないが 「ベア・ボーン」の店頭組立て発注くらい充分できる。むしろ、僕みたいにいじくりまわして一部故障させるより、店頭で組んでもらって責任は店に取らせるのが最善だと − 僕は思うのだけれど。

話2:
僕の親族は典型的な 「田舎」族で、長い間パソコンにも携帯にも縁がなかった。数年前、姉(1) の家庭にパソコンが現われたのは事実だが、その通信環境は実用にならず、結局そこからメール1通受け取ったことも、出したこともない。10年以上 前、父が 「ワープロ」と称する機械を買って今でも使っているが、この機械の液晶モニターは (液晶の寿命の約束通り) 既にほとんど判読不能に近いところまで劣化している。彼が買った最新の機械は、熱転写インク・フィルムを使う 「FAX・電話」機である。

今年の春、数年ぶりに自前の携帯電話を買った。数年前のは PHSだったが、当時の PHSは事実上 「歩けば切れる」片輪で、毎月3千円の負担がばかばかしくなってやめたのだった。この4月、今度は数年維持することを前提に、身内に番号とメール・アドレスを通知した。反応は、仕事を除けばゼロに近かった。が、数ヶ月すぎてから、通知してない姉(2) から突然メールが届いた。あらら、あなた、携帯 持ってたの?

「携帯」が活躍しはじめたのは、それからだ。彼女から、新幹線の中からメールが届く。こちらは、とてもじゃないので 「携帯」 で応じるわけにいかない (携帯メールの日本語入力を僕が放棄したことは、前にこの 「日記」に書いたことがある)ので、メールは普通のインターネット・メールのアドレスあてにしてもらった。つまり、活躍しているのは彼女の携帯である。僕は、パソコンで受信し、パソコンで返事を返す。僕個人への受信は仕事先でも常に見ているので、仕事中に姉の新幹線車中からのメールが届く。ふーむ、ええトシして、楽しそうだなあ。

親族に不幸が発生した。つまり、ある人物が他界した。この通知を僕から出した最初の相手が、この姉(2)で、もちろん通知先は彼女の携帯メールである。23:50。返信が、その日のうちに来る。翌日にまたがり善後策というのか対策というのか、数回以上のメール往復が発生した。彼女は携帯入力、僕はパソコン。50すぎた 「昔のねえちゃん」が、携帯入力で、よくまあ書けるねえ。

困ったのは、相手が 「携帯」なので、長い説明ができないことだ。あっという間に 500バイトなど突破する。「これで全文 届くかな (ケツが切れないかな)」 と心配しつつ、「1つの話題」に限って1通のメールにする。書ききれない次の話題は、別便 「追伸」だ。これは面倒くさい。が、やむを得ない。携帯のメール受信能力、せめて 「本文テキスト」だけでも無制限にしてもらえないかなあ ・・・


(20020917-1) 日記 − 「純正」韓国産 DVDソフト

韓国を旅行してきた友人から、DVDが2種、それから 「韓国でないと見つからない」 類のお菓子や、(子ども向けの) 絵入り ばんそーこー まで入ったパッケージが届いた。お菓子の中には 「石器時代」 と称する 袋入りチョコレートが。子どもが食ってしまったが、石ころ模様の小さな粒 (実体は 有名なヘバラギ・チョコだ)と、あらあら、恐竜の卵?が入ってる。ふむ。こりゃ 『ハリー・ポッター(と賢者の石)』 に出てくるドラゴンの卵だな、ドラゴンが生まれてきて、ぼわっと火を吐くんだぜ。暖めてみな。

DVDは、「誰でも見そうな平凡なの」で、「純然たる韓国 国内版」を買ってくれと言っておいた。約束通り、それが2種。中を見ると1枚のパッケージが1つと、3枚入りのパッケージが1つ。
ドライブに入れてみた。ふむふむ。リージョン・コードがちがうと言ってくる。これを「3」に変更。はいはい。出ましたね。リージョン・コードは、彼が調べた通り、東南アジア一帯が3、日本が2であるらしい。幸い DVD-ROMのドライブは2台ある。1台は FAX受信機で子どもが見るので 「日本:2」 のまま、もう1台は僕の機械なので、これを 「アジア一帯:3」 にする。

それにしても、不親切なパッケージだ。映画のあらすじも、何も書いてない。音声は 「韓国語」 だけ、字幕はまったくなし。こうまでされると、「すがすがしい」と言いたいほどだ。耳鳴らしの準備も何もせずソウルの空港に着いたようなもので、細部が聞き取れない。それも困ったことに、2種類とも 「映像イメージ」が売り物の映画らしくて、俳優の発話は (表現はよくないかもしれんが) むつ言ばっかり。こういうのは苦手だなあ ・・・ まあ、現代の韓国の傾向がそうなら、仕方がない。どこまでも明瞭な言葉で説明をしようとする 「論理型」のハリー・ポッターの英語と、基本的に異なるのは、やむをえない。そもそも韓国は いまや、小説・言葉・文学・論説と映画で、「聴衆に向かって演説、ないし説教」 をくりかえす時期を終わりつつあるのだ。その過渡期に、「美しい映像 (イメージ喚起型映像)」 ばかりの映画があってもおかしくはない。
しかし僕自身 慣れない傾向の作品たちなので、2種3枚 (残りの1枚は 「おまけ」映像集)を一通り理解するには 時間がかかりそうだ − 少なくとも1つは有名な作品らしいのだけれど。

DVDの 「リージョン・コード 3」は 「東南アジア一帯」である。従って、これは韓国でも香港でもタイでも同じ、ということになる。実はその上に、「DVDプレーヤー」 から TVに出力するときの (映像出力の)形式に NTSC、PALという2種類の分類があり、これが異なると 「DVDプレーヤーから TVに」 はまったく出ない。例えば、韓国の TVはアメリカや日本と同じ NTSC、ところが香港の TVは イギリスと同じ PALである (だから、VHSビデオの時代に 香港マニアたちは苦労している)。
そのくせ、「リージョン・コード」は同じである。友人によると、音声・字幕に 「英語・中国語・タイ語」なんてのがあるそうだ。さて、香港で 『ハリー・ポッター』 の DVD を買ったら、それは わたしのパソコンで見えるでしょうか?
(一般論として、見えるはずである: PALか NTSCかは、TVに送る映像コンポジット信号 (プレーヤーからの黄色の線) の指定なので、パソコンでデコード=再生するには関係がない)

子どものパスポート申請はすませた。10月になってから、香港で 『ハリー・ポッター』を買ってみよう。うまくすると 「韓国語、広東語、中国語」なんていうメニューで音声・字幕になっているといいのだけれど ・・・ はは


(20020914-2) ハーマイオニーの朝鮮語が聞きたい

『ハリー・ポッター (と賢者の石)』に登場する素敵な少女で魔女のハーマイオン (ハーマイオニー)・グレンジャー。彼女の声は、原語の英語と 吹き替えの日本語で多少異なるが、「生意気さ」の程度では日本語吹き替えがまさる; つまり、彼女のしゃべり方の 「生意気さ」は日本語吹き替えでかなり強調されて、訳語の選択 (吹き替えシナリオの訳文) とあいまって 良い効果をもたらしている。

この、朝鮮語 (韓国語) 吹き替えが聞きたくなった。
ほんの数日前、友人が韓国内から、現地で借りた携帯から電話をくれた。今、大型書店の店内にいるので何か買って帰るものはないかと。とっさに思いつくものがないので、DVDも 「誰でも見そうな平凡なのを1枚か2枚」 買ってくれと言っておいた。「ハリー・ポッターを買ってくれ」 と言っておけばよかったな。

「生意気さ」 は、子どもの、言語を含む能力の1つの指標だと、僕は思う。僕自身は子どものころ 「生意気な子」 で、大人には相当にきらわれた。同じような生意気で いやーな子に、例えば 子ども向け 「科学館」の類で出会うことがある (あった)。ふうん、俺はこんな いやーな子だったんだなあと、ふと思う。うちの7才の女の子は、生意気である。が、おそらく文化的な理由 − 例えばヒコーキに興味を持つかどうかなど − で、この子にはまだ 「いやーな」印象をもったことはないが、しかし家庭の外では、この子は相当に 「生意気」できらわれている可能性もある。

一般論として、ソフト技術屋の場合 「生意気な」青年は評価される。たいてい、半年もすると大きく変貌をとげている。逆に 「あいつは生意気」なので本当にきらわれる業界・業種・職種があるのだが、その世界には僕自身 あまり つきあいがない。

あの生意気なハーマイオニー。あの子が、第2作の映画 『ハリー・ポッター (と秘密の部屋)』 でどんな変貌をとげるだろうか。監督は この2作めで もうアメリカに帰ってしまったそうなので、以後は状況が変化する。

最初の2作でのハーマイオニーの 「生意気さ」が、韓国で、その吹き替えシナリオ訳者にどう解されるかに、僕は興味がある。これは、作品 (韓国版吹き替え)を見てみないとわからない。この次、韓国に行く機会ができたら、買ってみようか。
「生意気」という感覚、そういう言葉の有無 (「生意気」にあたる単語が朝鮮語にないわけではないが、単語の運用状況・実相はかなり異なる。上官を軽視する兵士は keon-bang-ji-da と言えるが、ハーマイオン的 「生意気さ」 は、朝鮮語文脈の中では見たことがない)、現実に (日本語で言う) 「生意気」 だからこそすてきなハーマイオニー、それらが、韓国版吹き替えでどう扱われているか、それを僕は見たいのだ。


(20020914-1) 日記

デジカメ写真は、外務省の旅券課窓口で 断固として拒否された。窓口のお姉さん、慣れている。「客」の気分を損ねないよう、しかし これはどうも典型的な 「デジカメ写真 お断り」のケースだったようで、次々と難点を指摘してくる。ご参考までに、列挙する:
・髪の一部にハレーションあり。代替写真は持っていないか。
・女の子のキャミソールみたいな服では、パスポート上では顔だけ丸く切り取られるので 「裸」 とみなされるおそれがある。襟のある服を着せよ。
・センがある (これは、紙を切断したときの傷をいうのか、背景のフスマのタテ縞のことなのか、最後まで不明)
・頭頂から写真上端まで 7 + - 2mm の許容範囲に収まらない (実測 3mm)
・1才のよだれがフラッシュに反射している (これはメガネの反射と同じで、だめである)
仮に、以上をすべてクリアしていても、おそらく窓口ではつき返してきただろうと思う。問題は、デジカメの本質的なところ、つまり 「小さくすればするほど汚くなる」 点にある。レタッチすれば、ハレーションくらい修正できる。よだれの反射だって、修正できるはず。ただ、「小さくすればするほど」 鮮明に見えてくる銀塩写真に対して、ドット・プリンタの出力は 「小さくすればするほど」 荒く汚くなるのは当然で、これはどうしようもない。まず、その印象がある。あとは、いかに難点を指摘するかという技術・技巧にすぎない。だいたい 「キャミソール」みたいな服ではいけないなんて、「顔だけ」になるなら関係ないではないか。「すみません、テロ以来 厳しくなっているんです」なんて、客の気分を損ねないリップ・サービスもしてくれる。

いずれにしても、こりゃ もう やーめた。おカネ払って、プロの写真屋さんでやってもらおう。おカネを取るのを 「プロ」と呼び、だから その結果を外務省が拒否すれば 「プロ」はやり直してくれるはず。プロはこれら仔細な事情を百も承知の上だから、まあ適当な仕上げをしてくれるだろう。近所の写真屋さん、思い出せば 7才が 0才だったころから この子の写真を撮ってきたような気がする。互いに 何か記憶がある同士で、1才と7才のパスポート写真、撮ってもらった。

1才の子どもの視線をカメラに向ける技術 − オトの出るおもちゃを鳴らして、0.1 秒程度の瞬間を狙ってシャッターを切る 「プロ」のやり方、久しぶりに見た。シャッター・チャンスを狙う経験は 僕も 相当に積んできたつもりなのだが、プロはうまい。それでも、かなりの枚数を消費していた。この写真屋さん、同じことを 上の子でも やっているのだ。7才の上の子も、「にこにこ!」 という指示に どうしても不自然な表情になるので、「普通の人の2倍以上」 の枚数を消費したそうだ。ははは。ほっぺの傷を隠すお化粧もしてもらったしね。


(20020912-1) インクジェット・プリンタの写真は 10年 保存できるか

1970年ころだったかなあ − カラー写真が一般化したのは。当時、「カラー写真の印画は 10年の保存に耐えない」という話が一般化していて、だから 「専門家」は決してカラーに手を出さなかった。実際、1980年ころの記憶では、10年前のカラーの写真は色があせて、ほとんど 「白く」 なりつつあった。「10年」というウワサは、うそではなかったのだ。だからこそ、「百年プリント」 というキャッチ・フレーズで大々的に宣伝に乗り出したのは、忘れもしないフジ・カラー。つまり、「カラー写真」が長期保存に耐えるようになるためには、「10年で消える」と言われていたウワサが実証されるまで、その 10年を要したわけだ。

必要が生じて、期限切れになっていた子供 (7才)のパスポートを再申請することにした。そこで問題を感じたのは、「パスポート写真はデジカメ写真でもよいか」だった。パスポートは、僕のは 10年期限になっている。10年の間、「デジカメ写真」 つまりインクジェット・プリンタの写真が退色せず、画像を保ってくれるかどうか。そう考えた。

次にわかったこと。日本人 未成年者のパスポートは、5年期限のものしか出ない。5年か。じゃ、大丈夫かなと思った。
次にわかったこと。日本人のパスポートは、外務省の旅券課の窓口で申請し、その際に写真を添付するのだが − あら、そうだったのか。この写真は、旅券つまりパスポートに貼り付けられるのではない (!)。旅券課の窓口は申請書に貼った写真を再度スキャナにかけて、その結果をパスポート本体に直接 刷り込んでしまう。おう。それなら、スキャナにかける瞬間にさえ画像が鮮明であれば、それでいいのだ。

「写真」を受け取って直接パスポートに貼ったのは 1970年代のことで、その後半には写真の上にビニール・シートがかけられた。旅券 「偽造」対策だ。その はるか後、1995年に作った僕のパスポート、1996年の子供のパスポートも、あらためて見たら、ふむ、写真はもう貼ってない; 申請書につけた写真のスキャナ画像が、パスポート本体に直接刷り込んである。ふうん。ここまでされると、パスポート偽造ビジネスは成り立たなくなるよなあ ・・・

外務省旅券課がスキャナにかける瞬間に画像が鮮明でありさえすればよい。その意味で、「デジカメ写真でよいか」という不安は消えた。
帰って、7才の写真、ついでに作る1才のパスポート用の写真を撮った。悲しいのは、カメラとプリンタの解像度。どう いじっても、ぶつぶつドットが消えてくれない。窓口では言っていた: 「デジカメ写真で、鮮明なものならいいんですが、線が出ているようなのはお断りすることはあります」。ま、いい。これで、明日は申請を出してみることにする。

ついでなので、インクジェット・プリンタに出した 「写真」の寿命は、少なくとも今は、とても短い。数日の間に − 「みるみるうちに」 − 変色してくる。これがはたして1年後、10年後にどうなっているかは、相当に悲観的だ。2年前か3年前、じじばばのために作った孫のデジカメ 「写真」たちは、その瞬間にじじばばを喜ばせただけで、じいちゃん・ばあちゃんは その後その写真を見ることがない。良く解釈すれば、孫たちはどんどん成長してくるので、数年前の写真なんかどうでもよいのだ。
が、被写体である子どもたちは、20年後、自分の赤ちゃん時代の写真を見ることができるのだろうか? 「転がる石にコケはつかない」から、画像イメージつまりパソコン・ファイルは、機械の世代交代にたびにコピー/バックアップをくりかえせば、いつまでも 「新鮮」だろう。が、この手間を省いたとき、この手間をさけないとき、それから、データ本体 (JPEG画像) そのものではなく 紙の 「写真」だけしかない場合 − どうなのだろう。昔なら 「セピア色」の古色蒼然たる写真があった。あるいは 2010年、「インクジェット色」という古色蒼然たる色の写真が、あるかもしれない。その 「色」は 「セピア」ではなく、おそらく、色の相がてんでばらばらに移動した、とても不思議な色だろう。その「てんでばらばら」具合は、Canon、Epson、HP、... といったプリンタのメーカーごとに、みんな異なる様相を示すにちがいない。


(20020911-1) 「明日は試験があった!」

昨日書いた記事のタイトルをながめていたら、気が付いた。このタイトルは 「明日は試験があった」文 だ。

「僕はうなぎだ」、「私、ざるそば」 というパターンの日本語の文型を、俗に (いや、正確には、言語または日本語の専門家の間で) 「うなぎだ」文 と呼ぶ。「僕」が 「うなぎ」であるはずはないし、「私」が 「ざるそば」であるのでもない。実は、これは日本語だけの話ではなくて、アメリカ語にも見られる: レストランでウェイトレスが注文を取る場面で、さて飲み物の注文に移った; 各人それぞれ飲みたいものを指定するので、最後にウェイトレスは確認して、"You are coffee, sir? You are tee?" とくる。中学・高校のころたたきこまれた(?) 「英語は合理的」という観念など、いっぺんに吹っ飛んでしまうのが 「現地体験」 というやつだ。もし、あなたが今でも 「英語は合理的、日本語 (や朝鮮語・韓国語)は不合理」だと思っているとしたら、そりゃ、あなたの言語体験の不足であるか、あるいはあなたが 「英語は合理的」教の熱心な信者で、教理に反する事実など目にも耳にも入らない人であるにちがいない。

で。
少なくとも日本語では、「明日は試験があった」という発話は、すべてのネイティブ・スピーカーに受け入れられ、正確に受け取られるだろう。では質問します: 「明日」は未来であるにもかかわらず、なぜ 「あった」 という過去形が使われるのですか?
この話を、韓国人を相手にしたことがある。相手は多分、日本に留学中の院生級の学生または教官予備軍だったろうと思う。相手が充分に日本語環境を承知している場合、あまり抵抗がない。かえって、「あ、そういうの、韓国語にもありますよ」 なんて言われることもある。ありそうだ。かすかな記憶の中に、韓国の小説の中だったのか、韓国に留学していたころの記憶なのか、まったく同じようなケースがあったような気が、僕もする。
「明日は試験があった」。だから、悪いけどさっきの約束、取り消しね。「映画の聞き取りシナリオなら、もうあった」。だから、自力で聞き書きなんて、もうやらなくていいの。

言語論そのものは、僕の現在から遠くなりつつある。この議論が、はたして統語論なのか語彙論なのか、あるいは単語または統語の 「アスペクト」の問題なのか、もう正確に区別できなくなっている。
でも、いずれにしても、「言語」 にはそういう問題がある。それを面白いと感じはじめたら、「語学」の先は早い (速い)。日本語と朝鮮語の間には、このあたりに極端なまでの類似があるかと思うと、そのくせ何か、よく考えてみると異なっている − そういうケースが多い。「よく考えてみると」 微細なところで まったく異なる、その点が 「見え」はじめると、「言語」 そのものが面白くなってくるのだろう。大学で 「言葉」を教えている教官たちは、その過程を経た人たちなのだ。

まったく逆の話では、いわゆる 「中国語」系の 「時制がない」問題がある。これは北京、広東、台湾の各語に共通で、特に動詞には時制の変化 (do, did, done, will do の区別) がない。ある行為を 「した」 のか、いつも 「する」 のか、「これからする」 のか、俗に 「文脈から判断される」という。が、その判断の根拠になる 「文脈」がいつも与えられるわけではない。それでも、場合によって、区別がつく。「いわゆる 中国語系」の各語が、日本語や英語に比べて 「より不合理」だという根拠も、ない。
おそらく、統語上のアスペクトが関与しているのではないかと、僕は感じているのだが − ただし、今となっては 「アスペクト」という用語が統語論にまで適用されるのかどうか、「言語」屋をやめてしまった僕には、もうわからない。


(20020910-1) 映画の聞き取りシナリオなら、もうあった

昨日、「DVDのハングル字幕付き (字幕付け) コピー・サービス」を思いついたのだが、これは考えてみると、大手業者による著作権訴訟という可能性、そのリスクが高すぎる。

そこでもう一度 考えた。
正当なおカネを払って (時には不当に高価だと思いつつ) 買ったお客が 「私的な利用」でコピーを作成することは、誰も文句が言えない。ここまでは、CD-Rでも DVD-Rでも、コピー・ソフトが画面に、「コピーはユーザの責任で行ってください」と、軽い警告をしてくるだけだ。

問題は、このコピー作業を 「業者」が代行すること (ここまでは ビデオのダビングと同じ)、しかもその 「代行」の過程で 「字幕」を入れるとなると、付加価値の販売になる。大手業者はたいてい独占販売権をもっているので、それに付加価値をつけた販売は、まず攻撃の対象になると警戒しなければならない。ここはやはり、NHKでも何でもいいが、「語学」の大手に出てもらって、独占販売権を持つ映画配信元と話をつけてもらうのが最善にちがいない − もし、それが 「営業的に」 成り立つものなら。

営業的に成り立たないものは − ここからが問題だ。
個人が、自分で自分の CD/DVD を、自分でコピー作成するのは問題がない。
そうすると、自分でコピー作成する際に、自分で字幕を入れてしまえばよい。このユーザは 「語学」面で字幕を必要とする段階にあるので、字幕を自分で作成することはできない。では、字幕だけ販売する業者がいればよいではないか。これは 「翻訳」業の周辺で、昔は 「テープ起こし」と呼ばれた作業そのものなので、翻訳(その他)業者は注文に応じて作業実費をとる。売れ筋では、事前に作業してしまい、それを個別販売することになる。その際に問題になるのは ・・・ やはり 「どのような形態であれ、一切の複写」を営業的に行うことを許さない著作権法上の条項である。ふむ。翻訳業者というのは、日常的にこの条項違反をやっている可能性あり、だな (客の情報収集の一部として、雑誌の記事を訳せ、400字いくら。これこそ、著作権者の承諾なしに行われる 「ある」形態の複写ではないか)。

だから、「字幕」だけを 「販売」 するのも、ビジネスとしてリスクが高い。どうするか。

思い出した。「字幕」に相当する 「聞き書き」=「聞き取り再生シナリオ」なら、Web上にある。ものによっては、韓国内のサイトからオリジナルのシナリオそのものがダウンロードできる。それがなくても、日本のフリークたちの間で話題になった韓国映画については、アマチュア (彼らは 「プロ、つまりおカネが目的」ではないので、この作業についてはアマチュア) の手による再生シナリオが手に入る。知人のサイトにも、かなりの数が収録されている。これを使えばよい。

結論的に、(1) 韓国映画の DVDに字幕をつけてコピーを作成するのは、DVDを買った当人が自分でやること。(2) その字幕は、Web上に公開されている シナリオまたは聞き書きシナリオを使う。これが、もっとも 「リスク」のない方法である。

だが、これには、ある種のソフトと、手間がかかる。想定しているのは 「語学」中期段階で字幕を必要とする人なので、画面のどの時点にどの字幕を重ねるのか、これは負担だろう。いっそのこと ・・・ いや、そのせりふの位置を特定するために、映画を見ながらシナリオを見ている間に、彼は気が付くだろう: これで充分じゃないかと。彼は、映画の原語音声とシナリオを見比べて、その対応関係が読み取れるようになる。そうなってしまえば、実は − もう字幕はいらないのだ。まして、その対応を隅から隅までみきわめてしまえば、彼は 「その」映画全体にわたってせりふを覚えてしまっているだろう。結論として、その人はもう 「字幕」をつける必要を失っている。

それじゃ手間がかかりすぎる、やはり、オリジナルに字幕がないのは、字幕付けサービスがほしい。もし あなたがそうおっしゃるなら、翻訳業者に、個別の発注をすることになる。これは、相当なお値段になる。良心的な業者なら、売れ筋は事前に作っておいて、個別の注文には安く応じてくれるだろう。が、安く売るためには宣伝をしなければならず、宣伝をすれば付加価値販売になり、配信元の独占権侵害に、また著作権法違反のおそれが出てくる。

なんだか、堂堂めぐりになってしまった。
著作権をめぐる話は、まだどこかに矛盾があるみたいだ

最後に、僕自身が家族のために 「字幕付き」 DVD-Rを作成するケースを考えてみる。
目的は2方向。外国人である かあちゃんのために、日本語 DVDに日本語字幕を付ける場合。これには、小学生のために 「漢字混じり」字幕を与える意味もある。もう1方向は、英語、朝鮮語、広東語の映画に、それぞれ僕か かあちゃんが字幕を付ける場合。第1の場合は彼らの英語、朝鮮語、第2の場合は僕の広東語の理解に、貢献するかもしれない。
でも − 家族のために、映画1本、その全面にわたって聞き書き入力し、それを DVDの映像イメージ・ファイルにはめこみ、書き戻す。そんな面倒な作業をやる人が、はたしているだろうか、ねえ。


(20020909-1) 市販ソフトの擬似コピー・ビジネスは可能か?

「音楽 CDを当サイトで買いなさい; 当サイトでは、あなたの CDを当サイトのサーバ上にデータとして置いてあげます。あなたはインターネット経由で 「あなたの」データにアクセスできるし、それを MP3でダウンロードして、ウォークマンで聞くこともできます。つまり、CDを買って、その CDを持ち歩く必要がないのです。」
というビジネスが、一時広がった。手段のある人には便利だったようで、爆発的に伸びかけたころ、音楽 CD 業界から横やりが入り、裁判になって、ついにビジネスは中止に追い込まれた。その話は、去年だったか、おととしだったか。

では、こういうのは?
「お手持ちのビデオ・テープをお持ちください。当店ではそれを別のテープにコピーしてあげます」。いわゆる 「ダビング」だ。これが 「著作権」のいくつかの側面のうち、金銭の権利を侵さない、つまり合法である根拠は、それが 「個人の私的な利用」である点、業者はその私的な利用のためのコピーを請け負っただけで、その手数料を取っただけ、従って 少なくとも 「著作権」を侵してはいない、という点である。

では、「もしあなたがオリジナルのソフトをお持ちであれば、そのコピーを安く販売します」。これはどうだろう。オリジナルの持ち主になぜコピーが売れるかというと、バックアップだ。CDでも DVDでも、不慮の事故はある。例えば、棚からの出し入れで傷つけた。例えば、子供が遊んで踏んづけた。CDや DVDでは、自力でコピーできる人は少なくなるから、バックアップ・コピーのサービスは、ビデオ・テープのダビングと変わらない − もちろん、悪用は可能だ。オリジナルからコピーを業者に作らせ、それを知人に販売すれば、ささやかな著作権侵害事件にはなる。そういう客層をアテにして手広く商売をやれば、やはり裁判沙汰は避けられないだろう。

では、こういうのは?
韓国の映画の DVDで、字幕にハングルの出ない DVDがある。逆に、「ハリー・ポッター」でも 「千と千尋」でもいいのだが、日本で買えるオリジナルでは、朝鮮語の音声も、ハングルの字幕も出ない。韓国で販売される 「オリジナル」では、ハングルの字幕はないかもしれない (日本製の大量のアニメ DVDたちは、ほとんど 「日本語だけ、字幕なし」である)。
「あなたのお持ちの韓国映画 (に限らないが) DVDに、ハングルの字幕をつけてコピーを作成いたします」。さて、どうでしょう?
技術的には、可能だ。あくまで個人ベースであれば、「私的な利用」の範囲だと言い切れる。が、やや厳しいのは、DVDは本来、アナログTVへの再生信号さえテープにコピーしてはいけないことになっているし、実際にやっても 「コピー・ガード」で見えないそうだ。そのくらい、業界は 「コピー」に神経質になっている。

しかし、考えてもみよう。
「語学」に、映画が強力な回路であることはまちがいがない。韓国映画フリークたちの中にも、「ハングル=原語の字幕がほしい」 という人がいる。日本語字幕を望む人も多いが、ある段階を越えると、原語の字幕が意味を帯びてくる。僕自身、「ハリー・ポッター」の英語や 「千と千尋」のフランス語は、その字幕を出せばどうにかなる。すべての人が 「原語を生 (のオトだけ)」 で理解することは不可能だし、和訳の字幕では重大な抜け落ちが出る。「語学」を教えた経験のある者として、この 「原語字幕」サービスは誰かがやってくれないか。

そこで。
「あなたの持っている DVDに字幕をつけてあげます。売れ筋は事前に作っておきますので、あなたが原盤を持っている証拠に、本物のパッケージの一部を送ってください。本物の一部は、作成した字幕入りコピーとともに送り返します」。取れるのは手数料と、マイナーなものでは新規 「テープ起こし」(と、言う。昔はカセット・テープの公演録を文字に採取するのを そう言った)代。数が出れば、1コピーに千円とか2千円、超マイナーな1本もので、その 「テープ起こし」が数万円か。フリークたちが 「まとめて注文」してくれれば、単価は下がる。著作権問題は、あくまで 「個人の私的な利用」で通す。目的は 「語学」上の私的な利用であって、それを再度販売する者が出てきた場合は、その者の法的責任を問えばよい。

ただ、最大の問題は、DVDが 「ビデオ・テープへのダビング」さえ拒否している点だ。この拒否は、法の認める 「私的利用」の権利の一部まで否定する可能性があるのだが、業界の態度がそうである以上、多少のトラブルは避けられないかもしれない。

それは承知の上で、「テープ起こし」=ハングル字幕の作成 (聞き取りハングル入力)、DVDのデータ・イメージ取り出し、そこに字幕を重ねたイメージを作成して、再度 DVD-Rへの書き戻し。この4段階の作業のできる方、やってみませんか? 僕? 資本がない。DVD-Rのドライブが買えないで困っているのだ。それに、取り出した映像 MPEGイメージの時間軸にあわせて字幕をはめる作業は、めんどうそうだな。いっそのこと、これは DVD発売元でやってくれればいいと思うのだが − いや、それなら最初から入れて発売するはず、か。

あ。
もう一点。「電子的手段を含む一切の」 複写作成の禁止条項。しかしこれは、図書館での全冊コピーなどを標的とした文言だ。「一切」 の手段による複写とは 「聞き取り入力=テープ起こし」 も含むだろうが − しかし、「個人の私的利用」はあくまで例外事項として認められている。
さて、誰か考えてくれないかな。


(20020908-1) 白雪姫はなぜ小人のキャビンに滞在できたか

はっきり言い切ったのは、最近では倉橋由美子 『大人のための残酷童話』 だ。彼女によれば、白雪姫は 「小人」 たちを相手に、順番に 「夜伽」 をすることを条件として滞在を許された。料理もできない、掃除もしない、継母が毒りんごを持ってくればだまされる、幼稚で知能も足りないような城の娘が生存を許される唯一の方法は 「性の供出」であったと、倉橋は言い切った。

実は、僕も似たような疑問を持ったことがある。「小人」たちの正体は何か。彼らが世を隠れてくらす集団であるなら、その職業は特殊なものだ。山賊であってもよいが、しかし 「きこり」 であるということには説得力がない; きこりは林業と言われ、その生産物を街に売る回路があってはじめて成立する; きこりが 「人知れず」 生存することはできない。万一、人里離れたところで自立して暮らす集団だとしたら − 男だけが7人もいるのが不自然だ。映画 『ベン・ハー』 に出てくるような、ライ患者の巣窟でも、どうもすわりが悪い。この7人は、いずれ世の中に出られない、事情ある男たちの集団である。それは、本当に成長ホルモンの異常で 「小人」化した男たちの集団であってもかまわないが、それならそれで、やはり白雪がそこに同居できる合理的な理由がなければならない。倉橋は、ある意味、もっとも安易な説明付けをした。安易であるだけに、誰も (まして) 活字にはしなかった発話が、倉橋の 「残酷童話」である。

なお、ディズニーの 『白雪姫』は、我々の前提をくつがえす: 白雪は、小人のキャビンに到着するやいなや、お掃除から料理から洗濯まで、実にかいがいしく働いている。お城のお姫様が、ほんまかいな。そう思わせるくらい、つまり、悪意の中傷を事前に遮断する意図があるのかと思うくらい、ディズニーの白雪姫は模範的に家庭的である。が、さらに裏返せば、この白雪像が後の女性差別論の標的になっただろうことも、まちがいない。日本では、「妻子を養える給料よこせ」という5月のデモの横断幕が 「女性差別だ」という非難を浴びた時代があった。ウーマン・リブの時代。「妻子を養える給料」とは、その前提に 「妻は夫に養われるもの」という前提があるから、差別的なのだ。それから、さらに 「ジェンダー」論、つまり男と女の 「役割」論が出てきて、最近になってようやくディズニーの白雪姫は復活できたのではなかろうか。

一般に童話が差別的かつ残酷だということは、多くの人は知っている。最近では 10年ほど前に 「本当は残酷な xxx 童話」 といった本が流行した。今もその続きが出ているようだ。実はそれ以前から、「童話」 は 「残酷」で 「差別的」だった。有名なところでは本多勝一が、例えば 『みにくいアヒルの子』 が、やがて白鳥となってアヒルを見下すことになる話を、差別的だと言った。
僕自身がその後に気がついた例では、たしかグリム童話にこんなのがある − ドイツのある農家、いつも両親は豚を天井につるして、それを解体してソーセージを作っている。ある日、両親は所用ででかけた。その留守に、いつもソーセージ作りを見ている上の子たちが、ソーセージ作りごっこをする。豚には、最年少の赤ちゃんが使われる。上の子らは、この子を解体しソーセージにした。帰ってきた両親はそれをみて ・・・
この話は、また別の本でも指摘されていたかもしれない。

こんな話を思い出したのは、日曜日、いつものように子供をつれて本屋さんに行ったからだ。子供のマンガ雑誌の他に、絵本の 『アリババと 40人のとうぞく』 を買った。読んでみると、どうも矛盾だらけだ。貧しく、薪を取って町で売って生計を立てているというアリババ邸は広くて、召使いまでいる。この召使いのモルジアナが機転をきかして、アリババの門の外のチョークのX印に気が付き、一帯の家の門にX印をつけてまわる。盗賊の頭は 19頭のロバと 38個の油壷を従えて、アリババの家に泊まりを請う。ずいぶんな豪邸である。モルジアナが、油壷に隠れた盗賊たちに気が付き、片端から熱した油で殺してしまう。気が付いた理由が、油がないからどこかに借りに行こうとして、盗賊たちの声に気が付いたのだという。なんだか不自然。最後の盗賊の頭を殺すのもモルジアナ。英雄は彼女である。その後、アリババ夫妻と召使いのモルジアナは、幸せにくらしましたとさ。アリババの妻は、夫の兄の家に壷を借りに行く以外に、出番がない。名前さえ出てこない。
「子供むけ」に、極端なまでに省略があるらしい。「薪をとって」生計を立てているというのは、なんだかカチカチ山だ。もっとも、カチカチ山でさえ、現代の絵本ではウサギとタヌキは和解し、「これからは仲良く」くらそうと約束するのだから、まあ、世話はないと言ってしまえばそれまでだけれど。


(20020907-1) 再々々度 「逆電子レンジ」

Web以前の 「パソ通」 時代から何度も話題にしているのだが、いまだに実現のきざしがないのが、「逆」電子レンジだ。

古い話で恐縮だが、昔 『子連れ狼』 というマンガがあった。これが TVアニメ、ではなかった、人が演技するドラマになって、毎週放映された。スポンサーは大手のカップ・ラーメンかなんかの会社で、ドラマの合間に 「大五郎、3分間 待つのだぞ」、幼児が答えて 「ちゃん!」、CMが入った。現在の 50才 + - 5才のために記憶を喚起しておくと、主題歌の歌詞は 「しとしとぴっちゃん/しとぴっちゃん」ではじまり、歌手は橋幸夫。「帰りゃいいが/帰れぬときは/この子も雨ん中/雨ん中 ・・・ ちゃんの仕事は/刺客ぞね」 である。

「3分間」は、カップ・ラーメンもそうだったが、電子レンジもそうだった。3分間待つのだぞ、チン、はい解凍ができました。20GHz帯の Microwaveは、現代では 「無線 LAN」にも使われていて、この無線 LAN が電子レンジと干渉するのではないか − つまり電子レンジを使うとインターネットが止まってしまうというウワサがあった。無線 LANが微弱で安定した電波であるのに対して、電子レンジは強烈な電波を食品に投げつける。その強烈な電波は当然レンジの外に漏れるから、LANには激しいノイズになるはずだ。どの程度に干渉するかは、電子レンジ側の品質 (どの程度に電波の漏れを抑えるか)と、LAN側の品質 (どの程度のノイズに耐えるか)の関係になる。

電子レンジは、「水」の分子を揺さぶる、つまり 「励起」する。食い物の温度とは、おおむね それが含む水分子の振動の大きさなので、水の分子の振動周期に合わせて強い振動を与えてやると、熱くなる。だから、水の分子を含まないガラスや瀬戸物の容器は熱くならない (ただし、熱くなった食い物自体からの熱伝導はある。念のため、プラスチック容器で 「電子レンジ対応」というのは、この 「3分」 程度の間に、中の食品からの熱伝導で溶けないかどうか、ということだ)。

20GHzの電波を浴びせると水が熱くなる。電波に共鳴して水分子の振動が激しくなるからだ。では。アクティブ・サイレンサーというのをご存知のはず。今そこにある空気中の雑音、つまり波形を取り出して、その逆相の 「音」をスピーカーから出してやると、雑音とスピーカーの音が互いに打ち消しあって、静かになる。「共鳴」の逆である。

読者は気がついたはず。「そこ」にある食い物の 「水分子」の振動に対して、逆相の高周波を浴びせてやれば、温度は下がる。「3分間待つのだぞ、チン」。はい、アイスができました。そういうの、ほしくないかと聞いたら、我が家の妻・子とも、「うん、ほしい!」と言った。
電気屋さんの言うことは、わかってる。全方位にむかって勝手に振動している1つ1つの水分子に、どうやって 「逆相」をかけるんだと。なら、瞬間的に共鳴させて1方向にそろえればよい。それがそろったところで逆相をかけて、一気に冷やす。それが、なぜできないのだろう。その程度のことなら、実現こそ疑われていたが、『ガリバー旅行記』の 「飛ぶ島」 ラピュタの地上の科学院でさえ研究されていたではないか − 空気中の精気を集めて水を氷にする方法。この技術はまた、人体を生きたまま瞬間冷凍する技術でもある、はずで、応用分野は限りなく広いのだが。


(20020906-1) フロッピーの輪切り販売

遠い昔のことだが、スーパーとかデパートの地下の食品売り場では、食パンやハムを、お客の求める厚さに切ってくれた。今ではパンもハムも、大きなかたまりを買って自分で切るか、あるいは既に 「できあいの」 厚さに切ってあるのを買うか、どちらかになってしまった。これはキューリの漬物でも同じで、セブン・イレブンの棚には、長さで 1本を 1/2 に切った (だけ) のを売っている。もちろん 厚さ5ミリくらいに切った漬物も、コンビニにもよるが売っていることがある。

昔はいつも美しくて、食パンを厚さ 40mmに切ってもらい、パターを1箱の半分使い切るほどのせて、オーブン・レンジに入れる。そんな、限りなくぜいたくなトーストが僕は好きだった。アメリカの田舎で、"FOOD" という大きな看板を掲げたチェーンのレストラン (この "FOOD" を、僕は 16進数の "f00d" だと誤解した。あのころ僕はソフト屋になって2年、「世の中のすべて」がコンピュータの連想で動いていた; あのころから、僕は病気なのかもしれない) には、厚さ1cmほどの 「ハム・ステーキ」があったっけ。このメニューは、2年くらい後には なくなってしまったが、でも、スーパーかデパートの地下の食品売り場で指定の厚さに切ってくれさえすれば、直径 15cmのハムを、今でも 厚さ 40mmのハム・ステーキにできるではないか。

その、美しい時代のことだ。
地下の食料品売場では、フロッピーの輪切り販売をしていたことがある。フロッピーは当時8インチと、やっと出はじめた5インチがあった。現代の 3.5インチ・フロッピーはプラスチックのケースに入っているが、ご存知かどうか、8インチ、5インチの時代は、ぺらぺらの磁気ディスクが簡単な 「エンベロープ」 に入れてあるだけだった。フロッピーは消耗品だから、それでよかった。消耗品で、接触型のヘッドで読み書きするのだから、使えば使うほどすりへってくる。読み書きできなくなる前に、新しいディスクにコピーをくりかえす必要があった。当時、既に卒論・修論などワープロ必須になっていたから、論文の最終仕上げまでには 100回、200回と読み書きをくりかえすことになる。ブランドものディスクは、まだ高い。ぺらぺらだから、すぐ擦り減ってしまう。だから、限りなく書き直しをくりかえす下書き段階では、デパートの地下のフロッピーの輪切りは必須の買い物だった。

ありがたいことに、輪切り販売では、フロッピーは ハムや食パンと同じで、厚さを指定することができた。ブランドものフロッピーの、文字通り 「フロッピー=ぺらぺら」とちがい、厚さ 1mm でもかまわない。その厚さでドライブに入り、ヘッドの接触さえ正常なら、1枚千円もしたブランドものより よほど信頼性は高い。なにしろ、多少すりへっても、破れて穴があくことがない。厚さ 40mmのぜいたくなトーストとともに、厚さ 1mmのフロッピーを補充する。勤勉な (?) 学生が忘れてはならない買い物だったっけ。

では、現在、なぜ CD-Rの輪切り販売がないのだろう?
理由は いろいろ考えられる。が、最大の理由は、食パンやハムと同じだ。ユーザは、まるのまま1本買いなさい、さもなければ できあいの厚さで切ったパッケージを買いなさい。厚さ 40mmのぜいたくなトースト、40mmのハム・ステーキ、それらとともに、CD-Rの輪切り販売が再び登場することはないだろう。もしも復活すれば − 適切な厚さで表裏2枚分、合計 1.3GB 記録できる CD-Rが作れるのに。現に、僕の持っている 『風と共に去りぬ』 の DVDは表裏の貼り合わせで、前半と後半でディスクを裏返して見るようになっている。これは、アナログ時代のビデオ・ディスクも同じだった。もっとも手近なところにある CD-Rが、どうして同じことをしないのだろうか?


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