Ken Mizunoのタバコのけむり?

Hangeul-Lab Ayase, Tokyo
Ken Mizuno

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(20060611-1) 『サンダーバード』 の秘密基地、ガチャガチャで ¥200

『サンダーバード』 が流行っているらしい怪現象(?)は後回しとして、右の写真をご覧になられたい; 子どもがいつもやりたがる 「ガチャガチャ」 または 「ガチャポン」 ともいう、プラスチックの丸いカプセルが出て来る 「手動」 販売機。この列にも 「サンダーバード」 があった。¥200 なので、ま、いいか、「2号」 でも出れば4才児は喜ぶだろうと思ったら − あらら、えらいものが当たってしまった。

大きさは、右上に DVD ケースとティッシュの箱があるので、想像されたい。ベースである地球 = 海の 「台」 の直径 50mm。その上端に秘密基地の島があり、そこから 「1号」、「2号」、「3号」 までが、ロケットの火炎と煙を支柱として 「飛び上がりつつある」。1号と2号 本体のサイズは 10mm 台、3号だけが 20mm ある。一番大きい宇宙ステーション 5号の最長辺が 50mm。
何か足りないと思った 「4号」 は、はは、秘密基地を隠している 「雲」 の下に隠れていて、「雲」 を外した右の写真、海面上にかすかに見える (元のサイズで白丸をつけたが、縮小したので見えるかどうか)。4号本体の全長は 6.5mm である。

「サンダーバード」 が 「流行」 しているらしいのは事実で、パチンコ台にも そういうのが現われたらしい。コンビニでも特定のチェーンの特定の店でだけ 「食玩」 が出た。それを見つけた当日 買ったら中身は映画中のブルドーザで、これは外れ。まだ たくさんあるからと安心していたら、翌日には4個しかない; 仕方がないので4個 全部買ったら、今度は 3号、4号、ペネロペの車に、秘密基地の工事ブルドーザで、けっこう当たり。もっとも4才児は、3号の3つのエンジンは外すわ、4号の 「尾翼」 は折るわ、ペネロペの車はタイヤを むしり取るわで、いつものように 「急速に破壊」 してしまう。実はこの写真も、彼が壊す前に急いで撮ったもので、1時間後には3号の 「支柱」 が折れている。翌日の今日は、もう 1号が行方不明で、2号は本体を支える支柱である火炎が折り取られてしまった。


(20060618-1) 「子どものころの記憶」

子育ての中で、ふと気がついたこと。

例えば 5才から 10才くらいまでの記憶は、50代に入った僕にとって かなり鮮明なもので、断片的だが、しかしその 「断片」 の項目を数え上げれば 数十から 100 を越える項目数になるはずだと、そのいくつかを思い出しながら考えた。

記憶の 「断片」 の中には、幼稚園まで一人で通った道の記憶、小学校までは丘と田を越え 1Km か 2Km あって、低学年で集団登下校がはじまったこと、それでも一人でその通学路を通った記憶。
それから急に遡って 幼稚園のころ、僕自身の 「記憶」 では父が手術を受けた病院の病室に1ヶ月 同居したのだが、しかし父の手術は 「痔」 だったから 「1ヶ月」 は長すぎる; おそらく僕の記憶はどこかで変容しているのだが、その理由はわからない; ともかく、「子どものころの記憶」 はシームレスに 現在 50代の僕の中にあり、それが現在の僕自身を形成してきた初期の記憶なのだと、ふと 考えた。

若い夫婦とその子どもたちの関係の中で、1990年ころか、「思い出作り」 という言葉が流行ったことがある (今でも言われているかもしれない)。子どもが適当な年令に達する間に、親子の 「思い出」 を作っておこう、例えば2才の子をディズニー・ランドに連れていっても記憶に残らないだろうから もったいない、何才で親子で どこに行って、何才のころの 「この子の思い出を作ってやろう」 という意味だったらしい。

たしかに、それに該当する記憶が、僕にもないことはない。田舎で、電化していても機関車の引く 「汽車」 に乗って、県内にいくつもない遊園地に行ったこと。その客車の窓に僕らが写っている 父の撮った写真などの記憶はある。その記憶を詮索すれば、その中に動物園もある。
が、その時代の、現在の僕自身の記憶の中では、それらは ごく 希薄なものでしかない。
それよりも僕には、まず書いた、幼稚園まで一人で歩いた (あくまで記憶であって、事実かどうかはわからない) 記憶、鮮明な情景、小学校への通学路の 丘を越える簡易アスファルト舗装の通路、家には両親がいてその家庭を維持し、それがそれなりに機能していたから、大人の言葉で言えば 「保護」 されていた自分と姉たち、家の間取り、薄暗い台所の水がめが水道に移行したこと、夜 寝るときの天井や柱や梁の様子、そういう環境の中で、痴呆の時期をほとんど持たず、足をすべらせ池に落ちて死んだおばあちゃんのこと ・・・ 親が強いて 「思い出作り」 した事々よりも、もっと・はるかに卑近な・仔細なことごとの記憶こそが、僕自身には 「子どものころの記憶」 であるような気がする。

だとすると −
今、僕の子らは、5才まであと2ヶ月の男の子と、11才 6年生の女の子である。
おねえちゃんは、この 「5才から 10才くらいまで」 の範囲を抜けて、既に中学受験するかどうかという時期にあり、この先は思春期に入ってゆく; 既に 「子どものころの記憶」 を形成する体験は、おおむね済ませてしまったと考えてよい。僕自身、たしかに中学生のころは過渡期なのだが、このころの記憶は はっきりと思春期、さらに高校から大学へと上がって行く時代の前哨期であって、既に 「子どものころ」 の記憶とは言いがたい。
余談だが、この時期は 「母語 (または言語一般) による論理表現能力」 の完成期でもあり、別の表現では世界観が完成する時期でもある。その意味、言語能力と (将来の) 「子どものころの」 記憶から階段を1つ上がった段階にある、または入りつつあるような気がする。
とすると、これから その 「子どものころ」 の記憶を作ってゆくだろう下の子。それから、既に 「子どものころ」 体験の時期を通りすぎた上の子の、将来の 「子どものころ」 の記憶は、どんなものになるのだろうか?

父親と、まったく異なる点を問題にしたいのだ。
僕の 「子どものころ」、友達には第1次生産者の子らが多かった。つまり百姓屋の子ら、茶畑とミカン畑のオーナー、それらは個別に分化しているのではなく、例えば父親は国鉄職員、自家では畑と田を持ち、ヤギを飼っているケースがあった。そこに、単なる公務員の子である僕が、その家の子のためにゼロ戦の絵を描き、その家で 「ヤギの乳」 を振舞われ、その子が自家の軽トラックにキーを入れて 車が動いてしまい、トタン板と木柱で できた車庫を破損する、という事件もあった。その 「記憶」 の時代と土地では、純然たるサラリーマンはむしろ少数派だった。
この他に 「第1次生産者」 でなかった例は商店街の酒屋の息子、床屋の娘、布団屋 (菓子屋?)の息子、それから警察官の娘、八百屋の子、駅長の娘とかもいた、それはそれだけのことだ。巨大な茶生産/加工装置を売っている 「親友」 の家があったが、これは 「子どものころ」 より長いつきあいになったので、また例外になる (なお、大井川西岸、この地域一帯の 「製茶機」 は、彼の店の独占状態だったと思われる)。

東京、都内とはいえ郊外の子どもたち。
彼らに、「ヤギの乳」 を振舞ってくれる友達の家庭はない。山に入って、ひそかにミカンを取って食うチャンスもない。まして 「かぶれの木」 に触れて ひどいメに会うこともない; むしろ、公園の木々から下りて来るムシを嫌い、うっそうとした大学構内の林に、おねえちゃんは警戒心を起こす。「田舎」 を知らない彼女を3才のころ親戚の家に連れて行ったことがあるが、せいぜい茶畑を見学し 帰り道に松ぼっくりを拾ったくらいで、3才ではもう記憶に遠い。この子たちにとって、ジュースだってアルミ缶でなければペット・ボトルで買うもので、木の実を絞るものではない; 仮に木の実を絞るにしても、その木の実はやはりスーパーで買ってくるものである。「世の中 すべてカネ」 という図式は、「食い物は基本的に自家の田畑と家畜、その余剰を農協に出して現金収入」 という友達の家でも存在しなければ、誰も否定できない現実でもある。

何を言いたかったのだろう。
僕の この環境は、日本では典型的なものだろう。
韓国では、おそらくこの落差は、日本より、激しい: 韓国の 1953 - 1960 は、まだ朝鮮戦争が休戦になったばかり。その後、良くも悪くも劇的な経済構造の変化を経た結果、1960ころまでに少年期を過ごした世代と、次の世代の少年期とは、完全に異なるはずである。

その対極には、アメリカがある。僕が見たアメリカの田舎は 1984 - 1988 のことだが、その限りで 「世代」 差は 「ない」 に等しいと思った。むしろ この国では、面積的に圧倒的な部分を占める 「田舎」 に対して、わずかな数の大都会が 「第1次生産者」 を欠いているにすぎない。そこでは、時代を問わず 「すべてがカネ」 で生活が展開される。「田舎」 でも 「第1次生産」 そのものが 「カネ」 を目的に展開される、いわゆる Agri-business であること、つまり、人は農産物を生産するが、それはあくまで商品生産であって、自家の消費生活はあくまでその商品売上によって成り立つこと、それは 少なくとも 60年前から変化はなく、その 「田舎」 に世代差は感じられなかった、21世紀の現在もそうだろうということである。

横すべりした。
で、東京の郊外、アパートの一室で育った子たちの 「子どものころの記憶」 は、どんなものになるのだろう。「子どものころ」、僕は、さらに昔 大きな一軒の農家だったらしい建物を3分割した いわば 「3軒長屋」 で育った。「子どものころの記憶」 の半分は、その間取り、天井、梁である。現代のマンションの 「天井」 は、ビニル・シートに木目を印刷したものである。天井の高さそれ自体も低い。この子たちは、将来 「子どものころの記憶」 として、何を記憶しているのだろうか? 彼らの 「子どものころの記憶」 は、サンダーバードの がちゃがちゃ になるのだろうか?


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