Ken Mizunoのタバコのけむり?

Hangeul-Lab Ayase, Tokyo
Ken Mizuno

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(20051201-1) プロの技術者の理解は 早 (速) かった

彼は、ハングルが 「韓国の」 文字であることを知っているが、それ以上の知識はない。
ハングルは、日本の 「漢字」 と同じように、「変換」 入力するものらしいと考えていたようで、ある。と同時に、彼自身は 日本語入力に 「50字」 もある日本語カナのキーボードを覚え切れず、ローマ字 -> かな -> 「変換」 という経路で日本語を書いている (それは、僕と完全に一致することでもある)。

その彼の類推で、「韓国語は漢字変換のようなもの」 で、ローマ字入力して、それをハングルに 「変換」 するのだと考えていたらしい。この場合 「変換」 とは、例えば 日本語でいえば 同音意義語 「似る/煮る」、「買う/飼う」 などの選択を、人手を介して選択する操作を含むものだと考えてよい。ローマ字入力すれば 「かな」 になるのは自動的、しかしそれをもう1度 手操作で 「変換」 しないと書けないのが日本語の電子文書である。
だから彼の類推から、「韓国語」 でも ローマ字入力が速いのだろう、そのほうが (カナの類推では 50個もありそうな) ハングル直接入力より速いはずである、と考えていたらしい。

おいおい。ハングルの文字数は いくつだと思ってんだ。たった 24字だぜ。
彼の前で、ハングルを入力してみせた。
基本的に左手は子音、右手は母音である2ボル式の意味も示しつつ、まず という単語を入力してみせる:
をたたく − が出る
をたたく − に変化する
をたたく − に変化する
をたたく − に変化する
ここで、彼は 声のない 「あっ」 という声を出す。
字形が変化すること。僕はキーをたたくたびに 「ほい、子音」、「次に母音」、「次に子音だよ」、「で、次は母音」 と説明しているので、そのたびに字形が変化する。特に、最後の に変形するところは、彼には驚きだったようだ。

ついでなので、パッチムのある場合として、
をたたく − が出る
をたたく − に変化する
をたたく − に変化する
をたたく − に変化する
をたたく − に変化する
をたたく − に変化する

− つまりな、子音と母音の現われ方 (並び方) で字形は自動的に決まる。これは完全なオートマトンなので、「変換」 という人間の操作は存在しないのだ。まして、ローマ字なんか全然必要ない。

彼は、これで完全に理解した。ソフトウェアのプロなので、理解は早い。
その上で、一応 「ハングル入力」 ではない、その先の KS 漢字への 「変換」 ができることも、見せてみた。が、新聞や戸籍の人名だけが漢字で書かれるという背景を理解しなければ、この意味はよくわからない。彼は ハングルと 「漢字」 の関係を理解していないから、そこは驚いただけで、ピンと来たようではなさそうだった。

が、彼は、「ハングルから漢字への変換」 と、2ボル式ハングル入力が 「オートマトン」 であることとを混同していない。プロのソフト屋は、そういう点の理解は早い。

誰に対しても、説明がこう簡単だとありがたいのだが。


(20051202-1) 生存日数でソートした 金魚の 「母集団」

右の表、日付で 明日、現在まで 13ヶ月+、金魚を飼育した履歴である。総個体数 40、赤字は死んだ日付、薄青で囲んだのが現在も生存中のもので、その 「死因」 欄は空白である。最下段は、最高生存日数、平均値、標準偏差、それにパソコン上の 「今日」 の日付。

時系列を無視して 「生存日数」 順なので、赤字の死亡日の並びは意味がない。「時系列を無視」 の意味は、この並べ方では 「いつ死んだか」 を問題にしていないという意味である。

とはいえ、「38日」 で死んだ1匹があり、実はこれが、去年の 10月、現在の4才が 教会バザーの金魚すくいの 「残念賞」 でもらってきた6匹の、最後の1匹である。この金魚すくいが この1年の 「苦闘 (笑)」 の始まりなので、管理者としては 一応 思い入れがある。事故、あるいは病気や衰弱で淘汰されなければ、この1匹の上、4匹の生きた集団は、10日後には偏差値 50を越えるグループに降りてくるはずである。もっとも、この4匹こそが 「いま現在 焦眉の」 対象で、「30日生存率 27%」 または 「死亡率 73%」 線を越えたばかり。ちょうど、カビ様の白斑を見せているのがいるので、そこに神経を使っているのが現状。

「死因」 欄のほとんどが 「衰弱または尾腐れ」 なのは、「死んだとき、ほとんどの場合にヒレの欠損、侵食が見られた」 ということである。水は東京・足立区の水道水、それを半日から数日 汲み置き 「塩素抜き」 して使っているが − あるいは この 「塩素抜き」 こそ カビ様の白斑 (つまり、まさにカビ) の原因ではないかと、今では疑いたくなっている。塩素入り水道水には敏感な (つまりすぐ死ぬ) 個体もありうるが、その手の本によれば 「ぶくぶく」 があれば塩素は翌日には みんな飛んでしまうというので、いわゆる 「中和剤」 を僕は使っていない。60L 水槽にしてからは、「汲み置き」 15L バケツ2個では 水換え所要量の半分以下である。不足分は、マンションの 「湯」 蛇口の湯を混ぜて温度調節を兼ねているので、ガス・バーナーを通った 「湯」 にも塩素は少ない。

金魚屋のお姉さんによれば、「金魚は すごく水を汚す」 という。つまり、熱帯魚と比べて、エサの摂取量に対する排泄物の量が多い。
今日も、それで 「魚の糞尿を食べるバクテリア」 を投入している。ゴミ・フィルターの交換、バクテリアの投入 ・・・ いろんなことをしつつ、しかし 60L 水槽となると水換え自体が肉体労働の傾向を帯びてきて、既に1週間以上、水換えをサボる結果になっている。


(20051208-1) 日記 − 循環小数 0.9999・・・ がなぜ 1 に等しいか

毎度くだらない お話で恐縮、しかしカゼをひいて、熱があるわで、眠れない。
熱の中で うつらうつらすること自体は、「快い」 というには語弊があるが、いろいろなことを考える。

その中で、高校生のとき、「極限」あるいは 「究極」 の概念を数学で習ったことを思い出した。その裏返しで、「アキレスは永遠に亀を追い越すことはできない」 パラドクスが笑い話になる、あれである。何の脈絡もなくて恐縮だが、そこが病人の病人たるところで、本人の頭の中では、さまざまな連想の末にそこにたどりついたので、許されよ。

「4月1日生まれ」 の子どもは上の学年へ、「4月2日生まれ」 からが次の学年に回るのはなぜか、つまり 「早生まれ」 とは正確には 1月1日から4月1日生まれまでのことである。これは、ここでも話題にした。
法の上で、就学年令は 「誕生日の前日の 24時」 に 「その年令」 に達したとみなされるから、4月1日生まれの子は 3月 31日の 24時に6才となる; 故に、1日には 「既に」 6才に達しているので、小学校に上がれるのだそうだ。数学的には、究極的には、31日 24時と 1日 00時は、同一である; が、「限りなく 24時に近い 24時 わずか手前」 と 「限りなく 0時に近い 00時 わずか後」 は、別である。実際、コンピュータの浮動小数点演算では 「正のゼロ」 と 「負のゼロ」 が話題になることがある。が、法は数学に意を介さない。誕生日前日の 24時をもってその年令に達するので、その子は小学生になる。

さて、高校生のとき、誰かが気が付いて 「あっ」 だったか 「えっ」 だったか、声を上げたことがある。公式だったか、教師の言う通りに計算してみたら、限りなく続く循環小数 0.99999999・・・ は、究極的に 1 に等しい。
それを思い出した。かつ、もう 34年前、それをどう計算したかを、長い間 思い出せなかった。それが、熱を出して うんうん うなっている間に、あらら、簡単に解けてしまったではないか。
以下、解である:
まず1/3 =0.333333・・・
故に1/3 + 1/3 + 1/3 =0.333333・・・
+0.333333・・・
+0.333333・・・
=0.999999・・・
=1
つまり、循環小数 0.999999・・・ が有限の桁数であれば 1 になることはないが、無限に続けば、「究極的に」 1 だということ。「極限」 とか 「究極」 とかいう言葉は、案外 身近なところにある。ちなみに、小学校5年生の上の子が、宿題の小数点付き割り算の筆算をやっている間に、既に答えが循環するものがある; 「くりかえしになるまで計算しましょう」 と。


(20051209-1) 日記 − 循環小数 0.9999・・・ がなぜ 1 に等しいか (2)

困ったことに、ソフトウェアのプロの 「元」 青年に聞いてみたら、「0.9999・・・ は 1より 『ちょっと小さい』」 などと言い出す。ま、上の記事で 「有限の桁数であれば 1 になることはないが、無限に続けば、「究極的に」 1」 だという点を読んでくれれば、彼も理解する/思い出すだろうか。

昨日まだ思い出していなかった単語に 「収束」 がある。
循環小数 0.9999・・・ は、無限の桁数を持っているので、必ず 1 に 「収束」 する。
いま、この 0.9999・・・ という特定の値は、次のような数列の和だと考えることもできる。(なお、記号の使い方は忘れたので、集合論と混同なさらないでくださいな):
数列 A
{ 9/101, 9/102, 9/103, 9/104, 9/105, 9/106, ・・・ }
この数列の 一般項 an は、従って
an = 9 x (1/10n)
この n の値が ある範囲にある場合の総和を、「シグマ記号」 で表したはずである。いま、その範囲は 1 〜 ∞ である。この和の値は、1 に 「収束する」 ことが、既にわかっている:

Σ an = 1
n=1
ところで、1つ前の 一般項 an = 9 x (1/10n) には、定数 9 が含まれている。今話題にしているのは、
数列 A の総和
9/101 + 9/102 + 9/103 + 9/104 + 9/105 + 9/106 + ・・・
なので、これは次のように書き直してよい:
9 x ( 1/101 + 1/102 + 1/103 + 1/104 + 1/105 + 1/106 + ・・・ )
と、いうことは、いま数列 B、その一般項 bn = (1/10n) を考えると
9 x
Σ bn =
n=1

Σ an = 1
n=1
と、いうことは、である。
9 x Σ bn つまり 0.99999999 ・・・ が 1 に収束することがわかっているのだから、
1 x Σ bn つまり 0.11111111 ・・・ は 1/9 に収束する。
2 x Σ bn つまり 0.22222222 ・・・ は 2/9 に収束する。
3 x Σ bn つまり 0.33333333 ・・・ は 3/9 = 1/3 に収束する。
4 x Σ bn つまり 0.44444444 ・・・ は 4/9 に収束する。
5 x Σ bn つまり 0.55555555 ・・・ は 5/9 に収束する。
6 x Σ bn つまり 0.66666666 ・・・ は 6/9 = 2/3 に収束する。
7 x Σ bn つまり 0.77777777 ・・・ は 7/9 に収束する。
8 x Σ bn つまり 0.88888888 ・・・ は 8/9 に収束する。
こういうのを、たしか 「有理数」 とか言いましたよ、ねえ。


(20051211-1) 日記 − 「サイフォン」 再論

写真を出していると細部がじゃまになるので、概念図を右に示す。これが 我が家の 「鑑賞魚 飼育 水槽用」 「大型フィルター」 の基本構造である。

実は、この 「フィルター」 に期待した最大の機能は、その 「揚水能力」 だった。60L 水槽ともなると、15L のバケツ4杯というわけにはいかない。バケツの容量表示は 「すりきり 何 L 」 なので、それでは運べない。実際には 12L が上限で、それ以上では周囲をびしゃびしゃにする。12 * 5 = 60、つまり 60L を満たすには バケツ5杯が必要なのだ。
この 12L を、入れるのが大変。前半 6L 程度はひしゃくで入れる。半分ほどで、ようやく幼児 一人の重さになるので、はじめて バケツを抱えて水槽に流し込む。これを5回 くりかえして はじめて、「60L 水槽」 の水換えは完了する。これは、重労働である。
しかし、「大型フィルター」 は水槽 水面から 150cm 下に置けるという。だからこの 150cm を 「揚水」 できる電気モーターが付いているのだとばかり、僕は思っていた/または期待した。

ところが、買ってきて、準備を整えた末に実験してみて、これは見事に、美しく裏切られた。
図の 「青」 は水である。水槽からの水は、まずサイフォンで外壁をまたぎ、1.5m 下の 「フィルター」 吸水口に入る。フィルター内に落ちた水はまず内部3層の 「ろ材」 を浸し、さらにサイフォンで排水口にまで上って行き、右、上り経路の途中の、水槽水位と同じ線上で停止する。もちろん、「フィルター」 本体は密閉されているので このサイフォンが成立する。つまり、「放っておいても 水は 水槽の水面位置まで上がって来る」 のだ。(信じられない方は、今度 風呂場で ホースを使って実験されよ)。

マニュアルには、フィルター本体を 水槽水面から 「40cm 〜 150cm 下」 の範囲に設置せよ、とある。これは、40cm 以下では水槽からのサイフォンが成立しない (水位差が不足する) こと、逆に 150cm あたりで、フィルター自身とパイプ類の密閉度が限界に達して、これ以上の高低差では水が漏れはじめるからである。漏れがなければ、原理的に、サイフォンは 汲み上げ式の井戸と同じ 10m の高低差まで機能する。

だから、この先、水を循環させるには、ほんの数 cm、水槽水位線より高く持ち上げてやればよい。水はパイプの白い部分を上って水槽に戻る。水槽に戻ったのと同じ量の水が、再びフィルターに落ちて行く。事実、このモーターは、内容量 5L の 「フィルター」 本体の頭部に付いているが、それ自体の揚水能力は せいぜい 10cm 程度である。「1.5m 上の水槽まで水を押し上げてくれる」 と期待した わたくしは たいへん愚かであった。

かくして、揚水機がほしくなった。DIY 店で売っている水中モーターの類で、買いおき、1番 大きいのを試してみたが、これも水面上 最大 20cm くらいだろうか、そこまで 「揚水」 はしてくれるが、水槽上面までは 1.5m、丸椅子にバケツを乗せても まだ 1m ほどで、到底それには届かない。要するに、金魚槽の水換えは重労働のまま残った。

そのショックで 「寝込む」 ほどではなかったのは、しかし 水槽自体が 60L、この大きさになるとけっこう安定して、設置後 1週間の間、60L の水が限りなく透明であり続けたことだった。魚の数に対する水の総量の関係なのか、「フィルター」 の謳い文句通り 「生物濾過」 が生きてきたのか。
しかし、蜜月はいつまでも続かない。水が激しく汚れることがある。せめて半量の水交換は、バケツ3杯。そのうち、妙に透明だと思っていたら、黒い出目金の尾が、一夜の間に崩落した。まずい。リトマス試験紙が、水道水より はるかに強い酸性を示す; 明日にでも全滅の危機ではないか。水換えしかない。ところで、水換えには、まず排水しなければならない。

ここまで、1ヶ月半。
排水は、1ヶ月半、なぜ気が付かなかったのだろう。それ自体、砂利底のゴミを吸い上げながら、手作業で 12L x 数回にわけてやっていた。

しかし、図で、水槽から落ちてくるチューブと、フィルターから上ってゆく上昇流チューブの根元には それぞれバルブ (ひねりコック) がある。モーターを止める。それぞれのバルブを閉じる。バルブの直下で、各チューブはネジを回して外れる。水槽から下りて来るチューブを外して、いきなり 「排水」 してみた。「フィルター」 という途中抵抗のない高度差 1.5m のサイフォンは、強力である。砂利の奥に堆積していたゴミが、一気に流れ出してきた。
こうした強い水流による 「吸い上げ」 (全体としては 「吸い下ろし」 だが、水槽内では 「吸い上げ」 である) は、かつて、買った当日の超ミニ 「エサ金」 を巻き込んだ。それはモーターに巻き込まれて死んだが、今度は単純サイフォン、仮に巻き込み吸い下ろしても、受け側のバケツの中に出て来る。
幸い、直径? 5mm の縞ドジョウも、吸い込まれてはこなかった。

結局、この種の 「大型フィルター」 は、水循環のほとんどの部分をサイフォンに頼っていて、その 「揚水」 能力は 「ない」 に等しい。その代わり、水槽から 150cm も下にあると、サイフォン能力だけは高いので、モーターの能力の限りの水循環が可能になる。このモーターを止めて、サイフォンを 「排水」 だけに使ったときも、10m :1気圧 に対する 1.5m : 0.15 気圧の差、この程度でかなりの効果を発揮した。こんなこと、買ったとき 「揚水能力なし」 とわかった時から 理解するべきだったのだが。

「排水」 はこうして簡単にできることを 「1ヶ月半」 かけて理解したが、「給水」 のほうは、まだ 15L パケツの手運びである。誰か、毎分 1L でいいから 「1.5m 上にある水槽に水を汲み上げるポンプ」 を作ってくれ (「毎分 1L」 で、60L は 60分かかる。それでかまわない。水中のおもちゃ、アクセサリーなどの掃除までやっていると、たいてい2時間はかかるので)。
あとは、園芸用の、小山からの水の流れを作るためのポンプでも探してみるか。


(20051213-1) 日記 − 「サイフォン」 と揚水機

承前。
「1.5m まで水を押し上げてくれる揚水機」 は、意外なところにあった − 「風呂桶の残り湯を洗濯機に送るポンプ」 である。
東急ハンズで、水ポンプはないかと聞いてみた。たまたま そこにいたのは 可愛らしい女の子だったが、「そのお、そういうのは お風呂の水を洗濯機に入れるポンプしかないんですが」 と言う。あ。ともかく、どこにあるの? ちょっと見せてくださいな。実際には、1.5m 上の金魚鉢に水を入れるだけなんです。

彼女について、売り場に行った。彼女自身、お値段の高いのが高能力だと考えただろうから、まず ¥8,440 のを彼女自身がチェックしてくれた。この場合、サイフォンと異なる押し上げポンプなので、その 「揚程」 が問題。2m とある。つまり、上下差 2m までは水は上がる。ただし、風呂桶の水面から 洗濯機の口までは、1.5m まで。つまり、2m は上限で、それ以上は水は上がらない。桶の水面から洗濯機の上面まで 1.5m くらいでないと、能率が悪いというわけである。
そうか。一般に、風呂桶の水面より、洗濯機の水面の方が高い。それにしても、上限 2m まで押し上げるとは意外だった。
その隣に、¥1,550 というのがあった。これも見ると、あら? やはり 「揚程」 2m、洗濯機の上面まで 1.5m。ただし余計なアクセサリーがないので、チューブは別に買わなければならない。そんなの水ホース 1m ¥157 である。

買って帰る途中で気が付いたのは、同じ能力を持つポンプの値段の差は、どうも、「洗濯機が一杯になったら自動的にモーターが止まる (揚水が停止する)」 ためのセンサ、そのセンサからの信号を得たらモーターを止める電子回路によるらしい。ふむ。安いの買ってよかった。我が家の必要は、せいぜい 15L のバケツから 60L 水槽への揚水なので、あふれるわけがない。

実験してみた。
「フィルター」 に落ちる 1.5m のサイフォンで、15L ぎりぎりまで排水。
次に、汲み置きの水に湯を混ぜて、15L バケツぎりぎり一杯。ふむ、ほんとだ。水は水槽まで上がって行く。えらく遅く感じるが、それでも 「揚程」 1.5m で毎分 6L とある。たしかに2分強で、水槽には 15L 上がって行った。
意外だったのは、それでモーターを止めると、逆止弁 (逆流防止弁) が付いていないようで、今度はたちまち 1.5m のサイフォンになって、水がバケツに戻ってくる − はは、お値段相当だな。でもそれは、また 100円ショップの 灯油ストーブ給油ポンプ (の弁 部分) を使えばよい。常につないでおくものではない、給水の 「そのときだけ」 使えば外してしまうのだから、精度や密閉度は問題ではない。何と言っても、パケツ1杯 2分で、座って待てば水は上がる。これで、気分は ものすごく楽になった。
もちろん、水槽は たまには砂利まで出して徹底掃除する必要はあるが、ともかくこれで、排水・給水とも自動化できるところまでは 実現したわけである。



この種の 「風呂桶の水を洗濯機に」 送るポンプは、僕はその経済効果など まったく信用していない。だから想像の範囲外にあったのだが、その話は ここではやめることにする。

僕は、ともあれ その 「揚水能力」 だけに注目して、「1.5m 上」 の水槽に給水できることがわかったので使うが、その 「本来の目的」 (「風呂桶の水を洗濯機に」) に使う気は、毛頭ない。
それより、安いから逆止弁もついていないので、再び 百円ショップの 「灯油ストーブ給油ポンプ」 が使えそうだと考えているところ、である。


(20051214-1) 日記 − 宮沢賢治

遠い昔、現在の 10才 5年生が、おそらく まだ幼稚園に行っていた時代、この眠れない子のために、絵本を読んでやったころがある。彼女がいつ その内容を理解するようになるかと、はるか未来を見据えながら (おおげさ)。あのとき、絵本で 『注文の多い料理店』 だった。
今は、5年生。
学校で、「雪渡り」 を習ったのか読まされたのか。そこで言い出した: 「『注文の多い料理店』 の本、あったよね」。
いつかそういうときがやってくると思って、買ってはあった。が、今は見つからない。机の後の本棚の周辺、乱雑に詰まれた山の中にあることを、彼女も覚えているという。探した。あった。

「夜鷹」 も 「銀河鉄道」 もない。みんな短いものばかりだ。が、その代わり、既に理解したらしい 「雪渡り」 の他にも、「料理店」、「セロ引きゴーシュ」 も、あとは僕自身は一番 おもしろいと思った 「X森、Y森、Z森」 (X,Y,Z は、彼女が持って行ってしまったので忘れた) も入っている。なるほど、「いつか子どもが読むことを期待して」 日本 (近代) 文学全集を買った僕の父も、僕がそれを読んでいるのを見て喜んでいたっけ。

次は − 太宰治か。
『走れメロス』 は、少年 (少女) 期の必須作品だと思う。手塚治虫に 「白手塚」 と 「黒手塚」 があるように、太宰も落差が激しい。しかしその落差の中で、太宰は たくさんの文学少女たちを生んできた。

1ヶ月ほど前か、TV ドラマの 『1リットルの涙』 の原作、つまり少女の日記と その母親の手記を、彼女は文庫で探していた。お小遣いの範囲で買えるには、文庫でなければならない。ずいぶん成長したと思う。TV ドラマが進行するにつれて、「今日のがいちばん悲しかった」 と父親に泣きついてくるのも彼女である。

その先に、高校生くらいで はじめて理解できる 『舞姫』 がある。「安寿と厨子王」 は、話自体は僕も小学校で理解したが、夫の単身赴任とそれを追う妻子の導入部の意味を理解したのは やはり高校生くらいのときだったろうか。結末で母親に出会う厨子王、その出世がとんとん拍子にすぎるのがおかしいと感じたのは、僕は 「文学研究」 者を志してから後ではなかろうか。母親との再会、その母親が既に盲目であるという 「感情の性感帯」 いじりに気がついたのも、そのころ。
そのころになると、『舞姫』 など単に 「女を捨てた話」 にすぎず、あんなの 「近代」 文学ではない、という 「女」 たちの主張が出てくる。それにもかかわらず、『舞姫』 を近代文学から外すことはできない理論的な理由を僕が抱えてしまったのも、「文学」 専攻を掲げてからの僕である。

幼いころ読んだ作品を、成長してから読み直すと 「印象がちがう」 ものだと言われる。
この印象の差は、幼時と少年・少女期、その時期から思春期を経て、思春期以後 30 前後までの間にも変化する。つまり、人の、作品への評価は、何度かは変化するものだ。そして 40代後半から 50前後で、ようやくその印象の変化そのもののパースペクティブが得られるような気がする。僕自身、『舞姫』 を、今では面白いと思わないが、しかし これを近代文学の重要作品の1つとして外すことはできないと思う。宮沢賢治の 「料理店」 は、やはり作者のねらった通り今でも童話として機能している。が、40代末期に読んだ あの本では、「X森、Y森、Z森」 が一番 印象に残った。この印象は、おそらく 10才の娘と、40すぎと思われる学校の担任とも 異なるだろう。学校で話題になったらしい 「雪渡り」 そのものも、僕には印象が薄い。

ま、よい。
ところで、「1リットルの涙」 に対応する過去 50年の作品には
『にあんちゃん』
『愛と死をみつめて』
韓国の 『ユンボギの日記』
アメリカ映画の 『ある愛の詩(うた)』
などがあるのだが、ご存知だろうか? あるいは、僕には 「世の中 全般」 に対するブランクの期間があるので、追加するべきものを忘れていないか。もし あったら、指摘していただければ幸いでは ある。


(20051220-1) 日記 − TV の 『1リットルの涙』

なんとも 「感受性の強い子」 と呼ぶのかどうか、TV ドラマの 『1リットルの涙』 の最終回を録画、5年生、10才は 大声で (家族はみんな寝てしまった 23時前、僕だけは目が覚めて、彼女の声とパソコン録画の音が聞こえていた) 泣きながら見なおしていた。たしかに、誰にもとがめられることなく 「泣いて」 平気なのは、深夜の一人の時だろう。

僕は、原作である少女の日記・手紙と、母親の手記、どれも読んではいない。が、少女の日記・手紙集らしい 『1リットルの涙』 の付録に、医者として少女を2年ほど見たという女性医師の短文、それに 母親の後書きがついていて、内容はそれで理解した。

TV ドラマの最終回も、帰宅したらちょうど やっていたので、後半 10分ほど見て 僕は仮眠した。10才が思い切り泣きながら録画を見終わり 完全に眠った後で、最後の 20分を見た。
ドラマ最終回は (も)、原作の女医の短文、母親の解説 兼 後書きとは、やや展開が異なる。死んで行く少女が 「私、結婚できる?」 と問うた相手は、女医だったはずだが、ドラマ最終回では、若い医師に (まだ日記を手で書けたころの) 日記を読んでくれと、その日記に その句が書かれている。つまり、本質的には、少女は (いわゆる) インターン医師に恋をし、そのころ女医にそんな質問をしたらしいが、ドラマでは 若い医師自身に、(既に文字板を指差して発話の代用をしている少女自身から)、「日記を読んで」 という形で 幼い 「恋」 が表現される。かつ、その時点で 少女自身には 自分は死ぬという自覚があり、医師に 「ずっと生きて」 と言おうとする。(ただし それ自身が原作をゆがめるものだとは思えない)

意外だったのは、その場面から、いきなり5年 とんだことだ。場面は、彼女の死。病院内で医師その他が走り回り、父親の絶叫が少女の死を告げる。この時間、およそ 60秒あるかどうか。
次の場面は、さらに1年後、常識を越えると思われるほど 広くなだらかな山腹に 立派な墓があり、それを両親がたずねる。そこに あの若い医師が現われる。最後のせりふは母親のモノローグ または ナレーション。まずまず、悪く言えば陳腐だが、無難な しめ方になっている。

しかし、少女が死んで行くまで、TV では表現されなかった 「5年」、それが当人と家族にとっては 最大の困難と苦痛の時期だったはずである。実際、その間 「寝たきり」 少女の付添婦問題で、母親は適切な付添婦を求めて苦労したことが、原作の後書きに、ごく抑制された表現だが書かれていて、その間の少女と母親の苦痛を示唆している。もっとも、この部分は まさに 「終末医療」 問題そのもので、老人介護と重なる部分が出てくる。だから、TV ドラマでは それを捨象して、話は あくまで少女の、少女自身の意思表示が可能だったころからいきなり5年、すべてをとばして臨終、さらに1年後の墓参りにジャンプして、少女の恋を示唆した医師の再登場で閉める形を取ったのだろう。理解するかしないかは別として、話を あくまで 「あなたは たくさんの人に生きる希望を与えてくれた」 というテーマに収束させる必要はあったから、ドラマのこの帰結は、まあ 「理解」 するべきだろうか。

余談としては、ドラマの中で 激しく衰弱しつつあるはずの少女役が、あくまで ふっくらとした可愛らしい顔であるのは − しょうがないな、健康な役者を使う以上。しかし、そういう点こそ、「映画」(ドラマ) の化粧の出番ではなかったか。いや、制作者は、あくまで少女は可愛らしくなければならないと考えたのだろうか?
「母親」 役の薬師丸ひろこ。昔、彼女も少女だった。かつてのアイドル歌手は 「昔の栄光」 を求める傾向があるが、この人の場合、トシ相応の大人の女性役になっている点、正直 驚いた。明菜おばさん、小百合ばあさんと、異なる。
薬師丸ひろこは、忘れたが何か他のドラマの母親役にもなっていた。「自分がヒロイン」 であり続けようとする 没落貴族型の 「もとアイドル少女」 の中で、彼女は異色なのかもしれない。


(20051223-1) 日記 − サンタさんまであと1日

「あと1日だね」 と、10才は言う。
「何が?」 と、父は反問する。
「サンタさんが来るまで」 と、10才は言う。
「おう、そうか、サンタさんなんか俺には来ないから関係ないぜ」 と、父は答える。

しかし、だ。
サンタさんだって、タダで商品を調達するわけではない。今年の彼女の要求は、TV アニメの DVD セット 9巻だったか 10巻だったかで、市場価値では ¥4万から¥5万の間だった − いくらサンタさんでも、それは無理だぜ。だから彼女には、別の注文を出させた。DVD セットは、僕が安い 「DVD 再生専用機」 を買って、レンタル・ビデオの1時間のアニメを1時間かけて録画させることにした。その録画セットは、既に完成段階にある。録画は 「ビデオ CD」 レベルなので、1時間 640MB、従って 10巻分で 6.4GBになる。HDD の残量は 10GB を割り、今年中 いっぱいが ほぼ限界である状態になってきた。この HDD 録画消費量は、1年前の予測通りである。この年末の間に HDD の差換えが必要で、過去1年で予測通りの 100GB を要したので、今後1年のためには 現状より 100GB 大きな HDD が必要になる (これには、家庭内ネットワークで 録画サーバという選択肢がないわけではない。が、それをやっている金銭的・時間的・空間的余裕はない。現実的なのは、HDD それ自体の差換えである)。

そう思って、例によって Sofmap と Amazon はチェックした。Amazon では、さすがに そういう 「部品」 レベルは高い。Sofmap で だいたい当たりはつけてあったのだが、今夜チェックしたら、あらら、Sofmap さんは それ自身の サイト・ソフトウェア入替えに失敗したそうで、数日はペケ。Sofmap さん、確か過去にも、「Web サイト (ホスト側) を狙うウィルス」 にやられたことがある; それから数ヶ月、「客」 である僕自身の クレジット・カードへの不正請求がないか、不安におびえたことがある。

ま、世の中、そんなものかもしれない。
Sofmap さん、しっかりサイト復旧してくださいな。


(20051225-1) 日記 − サンタさんまであと 364日

− 来年は俺もサンタさんに何か頼もうかな?
− 何を?
− いい車がほしいなあ ・・・
− うちのは 「高すぎる」 とか言って、別のものにさせたくせに。
今年のサンタさんに配分ミスがあったとしか思えないのは、4才の男の子セットにはお菓子袋が1つ、10才のおねえちゃんにはそれが3つ入っていたそうな。カサ (嵩) で、4才のおもちゃが優位に立ったのは事実だが、10才の注文のゲーム機とカセットは、金額的にはともかく、その カサが小さい。彼女は、「うちのが 量が少ないから、その分お菓子袋が3個も入ってた」 と言う。
まあ、そういう解釈も可能かしら。4才に金銭感覚は まだ ないし、主たる注文物はサンタの袋に入りきらず 袋の隣に置いてあったらしい 「変身」 ロボット。だから 「袋」 には 注文外のクレヨンとノートまで入っていた。

その晩、「何か忘れている」 ような気がした − 考えてみると、おねえちゃん、「サンタのプレゼントを入れてもらうための大きな紙袋」 を忘れている。我が家では、サンタへの注文が 「靴下」 に入らないのがわかっているので、彼女は毎年 大きな紙袋を用意してベッド近くに置いていた。それが、今年は忘れられた。彼女にしてみれば、もう5年生の彼女に 「まだサンタが来るか」 という重大な課題があって、その懸念の末に、寝るとき、去年までの 「紙袋」 を忘れてしまったのだ。

夜が明け、彼女は言った − 「やっぱり、もうサンタは来ないのかな」 と思って、トイレに行ったら、(そのトイレ前の) 玄関口に 大きな靴下セットが置いてあったそうだ。
− でも、サンタさんは、カギを開けて入ってくるの? 小さいときにも、郵便受けに届いたとき、でも郵便受けのカギをどうやって開けたんだろう
− サンタさんて、泥棒さんのカギ開けくらいの技術はあるのさ。指先のかすかな感覚で、カギは開けられる。ほれ、バーバ・パパだったら、煙に変身してトイレか風呂場に入れるだろ。サンタさんは、今年は風呂場かな、トイレかな、換気扇のどっちかなと、お父さんは思ってたんだ。
結局、サンタさんは トイレでもない、風呂場でもない、玄関口の靴の山の上にプレゼントを置いて行った。彼女が用意するべき 「紙袋」 がない以上、置き場所には困ったはずだ。郵便受けには、二人分の 大きな靴下は入らない。結果、「ともあれ この家の子」 へのそれを、玄関口の空き空間において行ったと思われる。

来年のクリスマス・イブまで 364日。
お父さんは、2L 級 の本物の車、頼みたい。1.5L では、環七の交差点バイパス陸橋ごとに、右足を踏み込まないといけない。1.8L では、その必要がなかった。それが 1.5L のだらしがないこと。「運転することそれ自体の楽しさ」 を失ってから、もう4年。願わくばわがサンタよ、我に 2L 級の車、できればマニュアル車を与えられよ。


(20051228-1) 日記 − 俺は もう 「じじい」 か?

12月 24日 (土曜) の午前5時、どうも 「水割り ちびりちびり」 で泥酔していたらしい。翌朝 起きると、腰痛が走る。これはまずい。30年前、学生時代に 友人の引越を2件 (2軒) 連続して手伝った後、「ぎっくり腰」 でしばらく起きられなかった。これは 「くせになる」 と言われるので、以来 30年、荷物を持ち上げるには必ず 「脚を曲げて腰を下げ」、そのうえでモノを持ち上げる習慣をつけていた。

今回は、事情が異なる。
泥酔していたらしい; そこに睡眠剤を飲んで、4才児の隣に寝た。
翌朝、腕に脹れがあり、腰の右側に痛みが走る − 4才に蹴られたうえで、睡眠剤で眠っているので、そのまま不自然な姿勢を維持したのだろうと想像した。
結果的に、若い整体師は言う: 腕の脹れは、「子ども蹴られたなんてもんじゃないですよ。(内出血の具合からみて) (あなたが みずから倒れたとき) 自分で どこかに ぶつけたのでしょう」。 腰痛については、同じく泥酔の末のその転倒 (本人には痛みの記憶なし)、さらに子どもへの添寝で、それも睡眠剤があったから、自然な姿勢に戻ることなく眠ったのだと、思われる。

問題は、当日約束のあるサンタさんだった。
この夜、サンタさんの指定時刻に待てないと、面倒なことになる。幸い、痛みは右の腰に集中しているので、左脚に体重をかけて、その約束はすませた。
それから数日。毎日 改善に向かっている点だけは、我ながら幸い。

しかし、じじいになると、「今日は腰が痛い、今日は足が痛い、今日は肩が痛い」 と、毎日 必ず 「どこかが痛い」 と 人は訴える − ああ、俺はもう じじいか?


(20051230-1) 日記 − 金魚水槽、今年のまとめ (?)

時節に合わない話題で恐縮だが、明日の夜は新年なので、よた話で今年は閉めさせていただこう。

この1年と2ヶ月 「金魚」 を飼育して、明らかになったというより 再確認したのは、僕自身が 「きわめて偏執的な性格」 だということである。

2004年 10月の末、3才だった子が金魚すくいで失敗、何度でもやりたがるのは当然で、残念賞を6匹も もらってきた。それ以来、よせばいいのに その延命を画った。6匹すべてが死んだ後、わずかな日数をおいて 新しい金魚を買ってきた。このあたりから 「金魚」 は既に 当時3才のものから、父親と まだ9才だったお姉ちゃんのものになっている。そこまでなら、まだよい。が、その後1年と2ヶ月、金魚の飼育歴は合計 42匹、つまり平均して (( 365+60日 )/ 42匹 )= (10日+) に1匹は買ってきたことになる。かつ、現 生存数は9、既 死亡数は 33。これで 「死亡率」 を求めると 将来的に限りなく 100% に近づくので放棄し、せめて 「生存期間」 の偏差値統計に切り替えたことは 何度も書いてきた; こういう 「統計」 行動自体が、正直 (自分でも) かなり偏執的な行動であると認める。

偏執的であるもう1点は、この 「飼育」 の 「ノウハウ」 に、僕が異常なまでの執念を発揮していることである。例えば、今夜 ごみフィルターを一部 取り換えた: それにともなって水の追加が 5L、この追加とともに、今夜の場合、次の7種の薬品投入 他 をしていると言ったら、どなたも この 「偏執」 ぶりを理解されるにちがいない:
水質調整剤1: 3ml
水質調整剤2: 3ml
ある種のバクテリア: 4ml
「ミネラル」と称する薬品の一種: 2.5ml
病気予防薬: 4ml
病気予防の 「塩」: 2振り
ぶくぶくのフィルター交換
これを、週1〜2回のペースでやっているのだから、我ながら 「偏執的」、ある種の 「狂」 が介在しているにちがいないと思う。

生き残っている魚たちは、文字通り 「バラエティに富む」 9種9匹となった:
・生存 265日: 1匹 ¥50 だったが、巨大化した ただの 「小赤」。もう身長 12cm もありそうに見える。
・生存 97日: ある日 買ってきた、当初 赤白黒 の3色 流金。黒は消え、これも巨大化してきた。
・生存 66日: 10才が買ってきた ¥31 x 3匹の生き残り。尾のあたりにわずかに赤があるが、ほぼ 全身が白、それでも 「金魚」。これも2ヶ月を経過すると、金魚すくいの金魚より だいぶ大きくなってきた。
・生存 58日: 黒い 出目金。一時 尾が崩落したが、快復しつつある。神経症的な投薬が功を奏した唯一の例。
・生存 58日: 黒と同じ日に買った赤い出目金、ただし尾はただの 「ひら」 尾。
・生存 5日: 体は白、頭に赤があって 「丹頂」 というそうな。¥31 で、上の白いのと同じ売り場から。
・生存 5日: 同じ ¥31 の売り場から、「赤黒」 混じり。経験的にも、店のおじさんも 「黒いところは消えてしまう」 と言うが、まだ体表面積の7割以上が黒い。これが最小、30mm あるかどうか。
・番外 生存 82日: 「緋ドジョウ」 と言われる赤いドジョウ。
・番外 生存 58日: 「縞ドジョウ」。
1匹も同種は存在しない。それは、いずれ 「1ヶ月」 で半数が淘汰されてきた 他の 33匹の経験から、「死んだ子」 と同じ種類の補充を避けてきたからでもある。「死んだ子のトシを数える」 ようなことをしたくない − たかが金魚で、そういう点に思いを致すこそ、僕が 「偏執的」 であることを示しているようだ。

それから、たとえ1匹 \31 でも、それらのために水槽の状態が変化した。それでフィルターのごみを掃除したのだが − ¥31 の金魚のために、消耗品代は今日は ¥3,100 を越えている。つまり、魚の値段に対して 維持費は 毎週その 100倍を越えている。これこそ、今の僕の行動が 「偏執狂的」 であることの証左でも、ある。


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