Ken Mizunoのタバコのけむり?

Hangeul-Lab Ayase, Tokyo
Ken Mizuno

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最近数年の記事の総目次
この時期の前後の 目次


(20040803-1) マウスの電線をかじったネズミ

このネズミは、我が家の3才手前、男の子である。
今は4年生になるお姉ちゃんは、この時代、68040 Macintosh のフロッピー・ディスクを ぺろぺろ舐めていたことがある。うーむ。今ではフロッピーがない。欲求不満の3才前は、マウスの電線に かみついたとも 思われる。

ある朝、マウス (カーソル、つまり矢印) が動かないことには気がついた。その日だったかその翌日だったか、夏休みのお姉ちゃんから 僕の携帯に電話がきた: 「マウスがうごかなーい!」。とにかく電話でリモート・コントロールする。一度、電源を落とさせる。それでもマウスが動かない。「マウスをひっくり返して、赤い電気、ついてるか?」。点いていないという。と同時に4年生自身が発見した − 電線が切れかけている!
じいちゃんのパソコンになるはずの機械に、マウスは付けてある。それを使え。USB のコネクタを抜き、差し替えさせるまで、電話で 15分。ふう。

帰って、問題の 「切れかけている」 マウスのケーブルを見た。これ、本当に3才前のネズミの仕業だろうか? 電線の外皮に、まず 「すばっ」 と斜めの切れ目が入っている。その傷口が次第に広がり、ついに内側の電線まで切断された。USB のケーブルをバラした方はご存知と思うが、このケーブルはビニールの外皮の中に、網状に編んだ電気的な被覆 (シールド) 部分、さらにその中に、本当の信号線が走っている。外皮に傷をつけると、まず この網状の部分が痛む; この網がついに電気的にも切れると、マウス (カーソル) は動かない。ふうむ。3才児の歯であれば、この 斜めの、直線状の傷をつけることは可能か?

この機械は、ツマ子用である。つまり、早朝に母親が各国のニュースを見たり メール・チェックなどをした後、夏休みの間 4年生はビデオ見ながら宿題したり、友達を連れてきてゲームをやり ・・・ と、かなり酷使されている。小さな 「噛み傷」 が酷使の結果 広がった − それは十分に考えられる。「酷使」 の証拠に、キーボードも、キー・トップが外れていることがある (特に、ビデオの 「一時停止/再生」 をトグルする スペース・バーが、先日はカタカタ浮いていた)。

この機械、CPU も Pent-IV 1.6G、メモリ 256M で、僕の機械の Celeron 1G、メモリ 128M よりはるかに能力が高い。ましてビデオ録画のために 80G + 120G HDD を持っているし、熱対策には 温度センサ付きの冷却ファンを付けてある − 別にツマ子のパソコンを優遇するつもりではなかったのだが、自分の機械は いつでも どうにでもなるので、こういうことになる。「素人」 の使う機械は、いつでも オーバー・スペックと言えるレベルにしておかないと、いつ、何を機会にパンクするかわからない。が、マウスやキーボードは、何でもない、ただの安い製品だから、そんなところに 「故障」 が集中するのかも、しれないが。

(マウスの電線を噛みちぎられないためには、無線マウスにしろ? ご冗談を。無線マウスなんて、買ってきた翌日には、どっかに 行方不明になるに決まってる。だからこそ、子どもらをパソコンの前に張り付けておく目的で、僕はあくまで有線マウス、有線キーボードにする。彼らをパソコンに張り付けておいて、僕は あっちの部屋で昼寝するのだ)


(20040804-1) 小学校4年生の英文キーボード現状 (1)

古い友人たちは知っていると思うが、僕は 「キーボード・マニア」 の一種である。日本では、キーボードは昔から 「1枚、2枚」 と数える (番町皿屋敷の お岩さんは、実は皿を数えていたのではない、キーボード・マニアであった主人のオランダ語キーボードを数えていたのだ。ご存知でない?) が、パソコン2台くらいにキーボード 10枚も持っていた時期がある。現在も、生きているパソコン2台、死んでいるパソコン3台に対して、数えてみるとキーボードは8枚ある。このうち、80前の父の機械に付けて出す予定だった Compaq の DOS/V キーボードだけが例外で 日本語 106 キー、その他はすべて ASCII-Qwerty、いわゆる 英文 101 キーボードまたはその小型版である。この他にも、職場に持ち込んで使っているのが2枚、これも英文キーボード。Compaq の日本語キーボードは、Windows 95 直前の時代のもので、きわめて高品質だった。だから捨てずに残っていたのだが、父の 「ワープロ」 代替機にこれを付けて与えるつもりだった − ただし 父 当人は 今になって 「パソコン」 に怯えてしまったので、まだこのキーボードと 550M Cylix は遊んで (死んで) いる。

ともあれ、僕はキーボード・マニアであって、マニアは 「こだわる」。ローマ字入力するのに 「なぜカナ・キーが必要なのか (いや、不要である)」 という、我ながら かたくなな態度を崩さない。だいたい、Windows 全盛の現代でも、この Windows 英文キーボードと 日本語キーボードではキー配置がわずかに異なる (最上段の数字 1〜9,0 の Shift 位置、その右側数個のキー)。これらは 「わずかに異なる」 から、始末が悪い。それから、一群の英文字の右側 ざっと7個か8個のキー群は完全に異なるので、列挙すると , . / < > ? ; ' : " [ ] { } - = \ _ + | といったキーは、慣れたキーボードでないと 「キーを求めて キーボードを眺め回す」 結果になる。いったい、今どき 誰が 「JIS かな」 キー入力をするのだろうか。今はパソコンに怯えている僕の父でさえ、「ワープロ」 の 「50個」 のカナ・キーを避けて、ふだんはローマ字入力だったという。「50音」 すなわち 50音節、その 50個のキーを覚えろというのは、そもそも非人道的な要求だと僕には思えるが、実際、1980年前後の 「タイピスト」 学校では これを教えていたそうで、当時の彼女たちは アメリカ人 (英語の) タイピスト並みの速度で日本語キーを たたいていたのは、認めるが。
余談だが、この 「かな」 キーボードが淘汰されない主たる理由は、「JIS 規格でないと官庁に納品できない」 からだそうである。(あほか、と思う。しかし世の中 おカネである。官庁を制覇できなければ市場の独占はおぼつかない)

念のため皮肉を言っておくと、JIS 配列の Windowsキーボード 「JIS 規格の Windows キーボード」 は、ない。JIS 規格は 「かな」 その他の配列規格で、そこに Windows という私的規格のおまけキーが付く。それで 「106」 または 「109」 になる では、歴史的な理由によって、半角であれ全角であれ 「〜」 キーがないものがある。この 「〜」 は、キー上の刻印がなくても (刻印のあるものと ないものがある。困ったことに、この刻印が別の文字になっているものが多い)、出る。が、それで 「迷う子羊」 がたくさん出ることになる。
もう1点、これは気が付く人が少ないので 「皮肉」 として機能しないのだが、「日本語」 キーボード設定のまま 「英文」 キーボードをパソコンにつなぐと、「絶対に出ない」 文字がある。"_" (underbar) 。この環境では、例えば this_var_should_hold_any_value = fn_do_that( n ) といった プログラム文 (左記は 代入文) が書けない。これは、物理的に同じ電気信号を発生するキーを押しても、「日本語」 キーボードの設定では ソフトの上で何か別の文字にバケてしまうからである。裏返すと、アメリカや韓国のパソコンに 「日本語」 キーボードをつなぐと、似たようなことが起こる。が、その場合には 回避方法がある。問題は、現在の Windows 「日本語」 キーボードを最初に決めた 日本 IBM のデザイナーに、ある。皮肉の余談に、この最初のものは たしか 1983年、日本 IBM が発売した公称 「ワープロ」 機 IBM 5550 である。この機械は、当時の (USA) IBM-PC の、不完全なクローンだった; つまり そのとき、日本 IBM は 「IBM 互換機の正式キーボード配置」 を決めた。IBM-PC の 「不完全な」 クローンであった点は、NEC の PC-9801 と変りはない。が、その日本法人である 日本 IBM 自身の製品が、あえて元祖 IBM-PC の 「完全互換機」 ではなかったあたりが − 「時代」 を物語っているような気もする。

さて、本題を書いている余裕がなくなってしまった。
小学校4年生に、いかにして 「英文」 キーボードを使わせるか、キーボード・マニアの父のそれに、彼女はどう対処しているか。それは また明日。


(20040806-1) 小学校4年生の英文キーボード現状 (2)

現状では、次の表が、パソコンのすぐ上のホワイト・ボードに書いてある:
実は、この表を理解できるまでが 大変なのだ。「K か」 のセットで 「か行」 を意味することがわかるためには、「か行の カナ は 子音 K と 母音1つで出る」 ことを理解しないと、この表は意味を持たない; つまり、ローマ字入力には 「子音」 と 「母音」 を区別 (概念として識別、弁別) して、その組み合わせによる 「かな」 の再現が不可欠であって、この区別がつかないと 「ローマ字」 入力はできない。

実際、3年生から4年生になるまでの間、彼女は 「横文字のキーの組み合わせで カナ が出る」 ことは理解した。そこで、Yahoo での検索などを はじめたのは、4年生になってからではないか。4年生で、学校で教えはじめたらしい 「ローマ字」 表が、ここで活躍する。めずらしい、教科書を持ち出して パソコンに向かっている姿が見られた。

それでも、その教科書がないと、困ってしまった。彼女は 僕に聞く:
− 「け」 は?
− K に E
− 「て」 は?
− T に E
おいおい、「あいうえお」 5段が 「かきくけこ」、「さしすせそ」 ・・・ と対応しているのを理解していないのか。これでは、JIS カナ 50個のキーを覚えるのと同じじゃないか。1つ覚えるのに5回の練習?をするとして、50音節 x 5 回 = 250 回 質問されるのでは かなわん。やむを得ない。教育に及ぶ:
− 「け」 は?
− 「けーーーー」 と長くのばして言ってごらん
− 「けーーーーえ」
− ほれ、「え」 になるだろ。だから 「け」 は K に E
かくして、「か行は K」、「さ行は S」 ・・・ の関係を覚えれば、残る母音は自力で取り出せるようになった。母音5つに対応する英文字は、もう覚えた。残るのは子音のセットだが、これが けっこう数がある; しかも 「文字」 と 「音」 には 「合理的な関係がない」。単語とその意味の関係が 「恣意的である」 − 例えば 「日はさんさんと輝くから sun」 という こじつけが 生まれるくらい、太陽そのものと、「日」 という単語と、sun という単語は、関係がない、つまり 「単語と それの指示するものの関係は 恣意的である」 − のと同様に、オトと それを表す 「文字」 との間には どのような合理的な関係もなく、まったく 「恣意的」 なのだ。現に、キリル字では P は 「ら行」、C は 「さ行」 の子音だが、これはローマ字では R、S で転写される。「ら行」 子音として P を書くか R を 書くかに 「合理的な理由」 は なく、まったく 「恣意的」 に決められている。これは 「合理的な理由がない」 以上、単に 「覚える」 以外に方法がない。だから 50音図の 9個の子音、それに、カナでは 「合理的な関係がある」 がローマ字ではその関係が失われる 濁音・半濁音まで含めて、14個の子音。これを一気に覚えろというのは、まず不可能だから、「表」 にして掲げておくのが早い。冒頭に掲げたものを再度 掲げて、今日は終りにする:

(20040809-1) 大阪人民共和国

大阪で学生をやっていたころ、僕は 大学 というのが 言語的に いわゆる「無国籍」 地帯であることを知った。つまり、大学というのは 学生であれ教員であれ、全国からの人の寄せ集めで成り立っていて、そこで 一番 通じやすい言語は 「いわゆる標準語」 であることを知った。
これは、大学を越えて社会一般がそうであるのが東京である (だから 「東京は日本最大の田舎」 という表現が可能になる; つまり、「東京」 土着民というのはごく少数で、土着民の言語など 土着民の ごく狭い社会でしか通じない; 土着社会から一歩出れば、そこは 「標準語」 の世界。それが東京という土地だ。土着民以外は すべて 「田舎」 の人間であって、ただその 「田舎」 が その社会の構成員ごとに 見事に全国に分散している。つまり東京は、「田舎」 社会たちの ほぼ均等な るつぼ状態を示している) のに対して、大阪では 社会一般には 「現地語」 が生きていて、ただ 「大学」 の中だけ 「標準語」 が生きているのだった。
が、場所は大阪である。さすがに大阪の大学となると、大阪 (または関西) 「生え抜き (はえぬき)」 つまり大阪語のネイティブ・スピーカーの教官も学生も、比率が高い。そこで、彼らの間では大阪現地語が行き交うことがある。それを聞いた僕は、「お前らの発音はナマっている。関東アクセントでやってくれんと わからん」 と言ったことがある。そこで必ず出る反発 − 「何を言うか (関東出身者め)、俺らは大阪人民共和国だ」 と。なるほど。

ただし、今になって考えてみると、「大阪人民共和国」 より、過去の歴史的な可能性としては、東日本が 「日本民主主義人民共和国」、西日本が 「日本共和国」 に分割される可能性があったのではないか。つまり、1945年以後 ドイツ、朝鮮、ベトナムなどが2つに分断されたのと同様に、日本が2つに分断されてもよかった(?)という考え方がある。そのとき、東日本は共産圏、西日本は資本主義圏となっただろう。東日本の言語的宗主国はロシアまたはソ連、西日本はアメリカまたは英語世界。その上で、分断されたそれぞれの国内で文字改革が行なわれて、東日本ではキリル字、西日本はローマ字が公式の文字になったと仮定する。
なお、この分断の境界線には、現在も電気の 50Hz と 60Hz を分ける富士川 から糸魚川(?)の線上、つまりフォッサ・マグナにほぼ並行する線が自然なような気がするが、それは政治的な問題なので別かもしれない; 場合によっては利根川 − 信濃川の線、あるいは 伊豆 − 富士 − 軽井沢 − 長野 − 新潟 という稜線上で分断された、かもしれない。いずれにしても、政治的境界線が地理上な境界におおむね一致する場合 (現在の朝鮮の休戦ライン) と、一致しない場合 (朝鮮戦争前の、正確に機械的な 北緯 38度線) とがある。
ちなみに、中国返還前の香港は、境界線上の川の水を全面的に中国からの輸入に頼り、同時に電気も中国に頼ってきた (それは、現在も変らない)。朝鮮戦争前の南朝鮮の電気も、中国国境にある鴨緑江上の発電所に頼っていた − つまり朝鮮戦争前 1950年までは、南北朝鮮間にその程度の 「相互援助」 が生きていた。これが完全に切れたのは、1950-1953年の朝鮮戦争である だから、南朝鮮つまり大韓民国は、戦争状態と同時に 「電気」 を失った。他のあらゆる資源も、アメリカまたはその占領下の日本経由で輸入するしか方法がなかった。その意味で、「北」 こそ潤沢な資源を持っていた。ただ、北が欠いていたのは、南朝鮮の食料供給地帯である。マッカーサー上陸後の北には、深刻な食料事情が待っていた。その支援には、ソ連と中国が出た。いや、近代史の講義をしているわけではないので やめよう

さて、東日本が 日本民主主義人民共和国に、西日本が 日本共和国に分断、それぞれ独立宣言を行ない、その後それぞれ文字改革をしたとする。
南北朝鮮では、不思議なことに文字改革は行なわれなかった。ただ、それぞれが自国伝来の文字つまりハングルを維持しつつ、綴字法つまり 「つづり方」 に多少の変更を加えただけである。が、外国語教育は変化した。南ではアメリカ英語 一辺倒、北では、もちろんロシア語 一辺倒で、ただし 北では、南のアメリカ文字つまりローマ字が普及したほど、キリル字は普及していない。これは、初等ないし中等教育の段階での 「外国語」 の扱い (重み付け) の差と、それ以上に北では政治教育と現場の建設動員が忙しかったから、そこまで手が回らなかったとも考えられる。
ともあれ、東西に分断された日本も、似たような経過をたどったかもしれない。それぞれ文字改革をして 「漢字 かな混じり文」 を捨て、それぞれキリル字、またはローマ字だけを公式表記にした可能性は、考えてよい。この例はベトナムである。ベトナムでは、分断された双方が、ほぼ同時に国字も漢文も捨ててローマ字化した (幸い、一方はキリル字、一方はローマ字ということにはならなかった。あるいは、ローマ字化は分断以前だったのかもしれない)。

ここから本題。
あくまで 「仮定」 の話なので、分断された東西の日本国は、現在の 「訓礼式」 ローマ字に順ずる文字改革をしたと仮定する。もちろん、東日本では 「訓礼式」 キリル字である。分かち書きは これも便宜上 現在の韓国に類似したやり方で 以下を示す。「僕は今日 学校の宿題を忘れました」:
.
Bokuwa kyo gakkono syukudaio wasuremasita.
「オト」と、その 「オト」 を表す 「文字」 の関係が まったく 「恣意的」 である、という意味を、おわかりいただけただろうか?


(20040810-1) 「冬のソナタ」 の 「ソナタ」 とは何か

この TV 番組の半狂乱の流行には、正直 おどろいている。1970年代だったか 1980年代だったか、中年有閑主婦たちのあいだに 「カルチャー」 なるものが狂ったように流行したことがあるが、あれも、予言された通り、後には街の不定期・定期 有料講座に変化して行った、つまり正常化した。

韓国の TV ドラマなら だいたい見当がつく という 妙な自信のようなものがあるし、ふだんは朝鮮・韓国をまじめに扱うことのないマスコミが 時々 紹介記事を載せているのを見て、その 「妙な自信」 を確認してしまう。従って、僕自身、このドラマを見たり、論じてみたりする予定はない。

この確信?を深めた理由の1つは、先日 新潟に往復したとき、車で移動した5人のうち4人までが韓国人で、日本人は僕だけだった、その車内で彼らの話を聞いたことも、ある。
3人は韓国からの留学生、1人は、日本に留学後 そのまま日本の大学で朝鮮文学を担当している教員。この中で、「現地」 である日本の TV で 「冬のソナタ」 を見ていたのは、この教員 一人だけ; たまたま彼の専攻分野は、「文学」 に属するとはいえ マンガ、映画、TV ・・・ といったメディア 一般を扱うあたりにある。従って、車内の退屈しのぎに、日本での 「ヨンさま」 騒ぎを、教員が学生たちに説明する展開になった。車内は抱腹絶倒の連続で、少しだけでよい、「文学、近代文学、その筋立て、構成」 といったことに関心のある者なら 笑わずには いられない、そういう話し方を心得ている 「教員」 のせいもあるが、実に楽しい、バカバカしい笑い話の連続だった。なるほどなあ。そういうドラマの筋立ては、70年代か 80年代の 「カルチャー」 に狂った中年有閑主婦たちの、絶好のターゲットだなと、さらに 「確認」 を深めることになってしまった。

ところで、「中年有閑」 主婦とはやや異なる、「老年有閑」 主婦である 僕の母から、質問を受けて困った。「ソナタって何だろう? 韓国語なら 健に聞きゃあ わかるかと思って」、僕が来るのを待っていたという。うーむ、困った。僕も、「恋歌」 がなぜ 「ソナタ」 にバケたのか、疑問に思っていたのだ。それも 「ソナタ」 となるとなじみがない。西洋古典音楽に 「ソナタ形式」 があるのは知っているが、シンフォニーだのコンチェルトだのなら、わかる。が、ソナタとはなんぞや。

貧しい百姓屋の末娘として生まれ育った 現在の 80前の女性に、西洋古典音楽だのイタリア語だの言っても はじまらない。とりあえず 「それは英語」 ということにしたら、「じゃ、英語の辞典があればわかる?」 ときた。Yes と答えたら、彼女は なんと、「外来語辞典」 を持ち出してきた; さすが我が母、わからないなりに書物は用意しているのであーる。なるほど。「ソナタ: 奏鳴曲、4楽章構成」 であることがわかった。4楽章構成ならシンフォニーと同じだが、それよりは規模が小さいことは感じられるが、それ以上はわからない。そもそも 「交響曲、協奏曲、狂想曲、奏鳴曲」 と漢字語に訳されて 「意味がわかった」 ような気がするのが、おかしい。これでは 「動詞」 では難しいから 「動き言葉」 に、「形容詞」 では難しいから 「飾り言葉」 と言い換えるのと、何も変らない。「理解できるかどうかは 概念を理解したかどうか」 にかかっているのであって、「ソナタ」 を 「奏鳴曲」 と言い換えて 「意味」 がわかるわけがない。まして 「恋歌」 が 「ソナタ」 にバケた理由など、訳者かプロデューサーかの勝手な創作で、その創作のために なんで僕が こんな説明をしなければならないのだ。TV ドラマである以上、その成り行きは不明; まさか 「ソナタ、4楽章構成」 つまり4部作になるというのでもないだろうに − もっとも、

もっとも、ヒロインの第1の純愛Aの入口・出口、第2の純愛Bの入口・出口、これで 「4部」 構成にすることはできるかもしれない。が、それは 番組を見ていないのでわからない。が、見ていないとはいえ、その A と B の男が、実は腹ちがいの兄弟であったなどと聞いてしまうと、これはもう、日本で言えば南総里見八犬伝か、最近の少女マンガでいえば犬夜叉か − だから、新潟からの車中は爆笑の嵐になったのだった。こういう作品を拾ってくる NHK さんもまた、既に 「近代」 文学を知らないのだろうと、僕はひそかに考えてみる。

なお、原題を大きく変えて訳文の表題にした例は、韓国の作品 (からの翻訳) には 妙に多い。一番 目立ったのは、崔仁浩 『 (バカ(たち)の行進)』 が、訳題 では 『ソウルの華麗な憂鬱』 になっている。これは、今では有名な、拓殖大学 重村教授が 毎日新聞ソウル特派員だったころの訳である。残念なことに、誤訳が発見される。
この他、かつてマニアの間で もてはやされたパンソリの映画、その原作である 李清俊 『西便制』 は、たしか 『風の丘を越えて』 だったかという題名で訳本が出た。これも、残念だが とても読めたものではない。訳者は僕の出身校の後輩、映画の字幕も担当した人だが、この訳書の時点では経験不足がひどく、訳文は学生のレポート程度と言うしかない。訳者名 根本理恵。ただしこれは重村氏と異なり、作者自身に直接 面会して疑問点を問いただすなどの作業をしているので、その意味での誤訳はないと見てよいはずである。ただし、僕がそれを保証することはできない。実際、李清俊の作品は難渋な文面が連続する (と、中級程度の学習者が言っていた) ので、僕自身 それを 「誰にも文句を言われない」 訳文に写す自信は、まあ ない。


(20040812-1) 狂乱の夏と 「西便制」

TV の全国ニュースになっている。東京は狂乱状態の真夏日の記録的連続。この くそ暑いのに、4年生は 「ディズニー・ランド」 に連れて行けと。数日前、わずかに夕立が来た。その直後は、午後4時、この程度なら この時間にディズニー・ランドも殺人的ではないかもしれないと思っていたら、翌日から午後4時、再び熱帯状態に戻った。予報は来週いっぱい この状態だというので、「盆明け」 の夏休みも延期するのが かしこそうだ。

3年前まで、東京都内での 「ヒート・アイランド豪雨」 が話題になった。地下鉄の日比谷線、丸の内線、銀座線あたりの2ヶ所か3ヶ所で、都心の駅が洪水になって電車が止まった。だから、その後 この傾向は さらに激しくなるだろう、東京の夏は 必ず毎年 「ヒート・アイランド豪雨」 で交通麻痺し、これは年ごとに激しくなるだろうと予測した。現にあのころ、東京湾横断道路から都心方向を眺めると、都心上空にだけ激しい乱雲が舞い上がっていた。昔から言われているのが 「環七雲」、つまり 環状7号道路上空に発生する 帯状の雲だが、それの比ではない。環七雲は車が途絶えれば消えるが、都心の 「ヒート・アイランド」 は移動することがない。

ところが、その後、これがなくなった。都心の 「ヒート・アイランド」 だけではない、東京全体が熱帯化したようだ。この暑さは、北側つまり埼玉県方向にはなかなか緩和されないらしい。東京の東側つまり千葉県方向では船橋・津田沼あたりまで同じ、ただし検見川まで出ると、ぐんと気温が下がったような気がした。つまり、内陸方向には 東京の狂ったような暑さが続くが、東京湾に面する千葉の手前ではやや緩和される。「内陸」 という意味では 那須は涼しかったそうだが、これは充分に遠いうえに、標高が高い。そこまで離れてよいなら、新潟に往復する間、関越道で埼玉・群馬・新潟の県境を越えるあたりは 充分に涼しかった; 冬にはチェーン必須と思われる この山越えを、エアコンがほぼ必要でなくなったからこそ、大人5人 乗った 1500cc で乗り切ることができたわけである。

ところで、大阪。
僕が経験した限りでは、大阪は暑い。大阪から東京に移動すると ほっとする。そのくらい大阪の夏は暑かった。最近は どうなのだろう? 大阪は、小さな 入り江を抱えていて、ただしその入り江は瀬戸内の東端にすぎないので、入り江つまり大阪湾の冷却効果が乏しいのだと考えていた。事実、大阪から1時間の京都は、殺人的に暑い・熱いと、僕は感じていた。いま現在 大阪、京都に暮らす人は どう感じているのだろうか?

やや強引だが、こういう地理的な関係、それも人工的な工事で地形が変化した場合を扱った例が、前回 書いた 『西便制』 に出て来る。この作品は連作で、その第2作だったか第3作だったか、「鶴」 の形をした入り江、入り江の向こう側にある山、その関係が 「風水」 の 「明堂」 の関係をなしていて、この山は 「盗掘」 ならぬ 「盗葬」 の名所(?)になっている; つまり、「明堂」 は そうたくさんあるものではなく、山はすべて持ち主の祖先の墓地として 「開発」 されつくしている。にもかかわらず、「明堂」 に父母を埋葬しようとする子 (他人) は多く、「西便制」 の盲目のパンソリ唱者もまた、人を雇って ここに 「父」 の遺骸を埋葬 (盗葬) する。だが、「鶴」 の形をした入り江は、朴正熙時代の開発で既に埋め立てられ、農地になっているらしい。それを承知の上で、盲目の 元・少女は、「父」 をその山に埋葬 = 盗葬 するのだ。
聞いている限りでは、話題になった映画には、この場面は出てこない。映画はあくまで、連作 第1作、それだけを扱い、かつ 「盲目」 の少女と、その少女とは父親の異なる兄 = 小説の話者との関係を、かなり美化しているように思われる。そのあたりが、韓国における 「映画化」 の意味と、あくまで原作を (一部省略しても) 再現しようとする 「ハリポタ」 との差かもしれないとも、考えてはみる。


(20040813-1) 狂乱の夏 − 海 − ホテル

わたくしごとで、恐縮。

「夏」 の準備は何もしていない。親の 「夏休み」 3日間だけは確保してあるが、今から、子どもの夏休みの間に どこに行くこともできないし (泊りの予約が、もう不可)、ましてディズニー・ランドはごめんだし ・・・ と考えつつ、「あるいは」 と思って、8月22日からの2泊を探してみた。あった。犬吠埼。ここなら、20年前から 「房総を暴走」 してきた なじみの土地だ。急ぎ予約をした。電話で自宅に伝えると − 言わんこっちゃない、かあちゃんの抵抗が激しい。事情は略して、彼女の病的な 「出不精」。4人家族、下は3才だから母親は不可欠、その母親がいやだと言い出すのでは、救われない。代役に ばあちゃん、あるいは おばちゃんを立てれば立てたで、そうなれば 病的な出不精も 「私が行く」 と言い出しかねない。その錯綜の予測に、こっちが病的な気分になる。

上の子、9才、4年生。せめて こいつを連れて行くか。とにかく明日、つまり 土日の1日は 「海に」 行くことにした。しかし、「そこで泳げないの?」 という質問には、困った。彼女が寝てから、既に 「当日」 になりつつある 土曜の予約可能なところを探した; おどろいたことに、ある。九十九里海岸。親と子 二人で¥3万+。さすがに高い。が、やむを得ない。これで行く。「土日の1日」 ではない、「土日の2日」 になる。僕自身 腹の出た海パン姿になる気はないが、せめて 「夏休み」 らしい体験は、4年生には必要だろう。

問題は3才の子だ。
現在の9才は、1才半で飛行機に乗っている。現在の3才は、決して・どこにも・連れられて行ったことはない。3才の知能は、「下の子」 だからと みくびっていたら、確実に3才の知能を発揮しつつある。3才では、5母音が確立する。動詞を発話し、自分の意志を表示する。このままでは、現在の3才は やがて、幼時に 「どこにも連れて行ってもらえなかった」 恨みを言い出すにちがいない。遠くない 「どこか」 で、この埋め合わせをする必要がある。明日 (今日) は しかし、やはり おねえちゃんと おとうさんに 置いて行かれることになる。

なお、僕はノート・パソコンは持っていない。旅行中は どなたのメールを見る機会も、手段もない。48時間、どなたのメールにも応答できないので あしからず。48時間の間に届くだろう 大量の Virus と Spam が うっとおしいが。


(20040816-1) 「海水浴」 とは変な言葉だと思っていた

桶に真水を満たし、それを熱して、シャワーの代りに その桶につかるのが 「入浴」 である。もちろん 「熱する」 ことなく入れば 「冷水浴」 で、これも立派な 「入浴」 である。昔の人は川で洗濯し、川で体を洗った。「浴」 とは、ラフに 「水に つかる」 意味だと (日本語では) 考えてよいはずである。だから、「海水浴」 というのは、ヘンな表現だと僕は思っていた。あれは、プールで泳ぐのではなく海で泳ぐことを目的に行くものだとばかり、考えていた。泳ぐのを目的に温泉や銭湯に行く人はいないのと同様に、「海」 という風呂に入るために海岸に行く人はいないだろう、故に 「海水浴」 という表現はおかしい、あれは 「海泳場」 ではないか、なぜ 「海水浴場」 になったのだろうと、僕はずっと考えていた。

が、この疑問は、「海水浴場」 の1時間あまりで、解けた。砂浜から波打ち際、そこから見通せる距離内に 「泳いで」 いる人は いなかった。波が砂浜を濡らす先端位置を 「波打ち際」 と呼ぶとして、その波打ち際から先、太平洋方向に 陸から 50m も離れた位置に人はいないようだった。一番 遠いところで 30m? そのあたりで大人の胸くらいの深さ、そこから サーフ・ボードの 半欠けのようなボードで 波に乗って 砂浜に戻って来る人はいる。が、少なくとも 「泳いで」 いる人はいなかった。そこは 「水泳」 の場ではなかったので、ある。なるほど、「海水浴」 場 だ。

九十九里浜、太平洋岸なので、波がある。子どもには、腰ないし 「おへそ」 の深さまでだ、それ以上 先に行ってはいけないと命じてみたが、へその深さまで入れば、波は顔面から髪まで洗って行く。ふむ。水着が必要な理由は それであって、「水泳」 をするからではない。僕自身、彼女の監視を兼ねて 同じ位置まで進んでみたのだが、太ももまでの深さで波がさぶーん、あっらら、ポケットに入れたタバコがびしょびしょになってしまった。半ズボンの下はパンツ。上半身のTシャツも、胸の下まで濡れた。手に持ったデジカメを落としそうだったので、写真も早々に切り上げた。

もう1点 驚いたのは、その 「太ももの深さ」 あたりから、海水温度が急速に下がることだった。そこに波がやってくると、冷たい。うーむ、そういうことだったのか。こんな遊泳場でも、足が ひきつる おそれはある。波打ち際の監視台と監視員は、そのためのものだと、納得する。僕が数分で 水の冷たさにネをあげ、9才を引いて陸に上がる。上がるとき、波打ち際を去って行く水を暖かく感じる。海岸、特に砂浜では、こういう激しい熱交換が行なわれている、だから 「沖」 は危ない、「沖」 といっても、せいぜい 数十m 先で、既に海水は 「冷たい」。



ホテルに着いたのは 2時すぎだった。チェック・インは3時だという。予定通り?だが、正直 部屋で休憩したかった。が、子どもは承知しない。ロビーのトイレで着替え、フロントに荷物を預けて海岸へ。さっそく (子どもの、水泳用の) ゴーグルが壊れて、その場で買いなおし。なんだかんだで、海岸で遊びはじめたのは3時前である。3時半、早くも監視所のスピーカーで、4時で遊泳時間 終りと。3時45分、監視所から出ていた 波打ち際の監視台が撤去される; ちょうど満潮時刻のようで、監視台自体の位置が波に洗われはじめていた。3時55分、最後の警告放送。「海の家」 も、もうシャワー待ちの列の他は 店じまい。腹がへったので、売れ残り、盆踊りの夜店みたいな焼きそばパックを買って、帰り道で食う。ホテルへのチェック・イン、4時すぎ。結局 「海」 にいたのは1時間そこそこにすぎない。
− 明日はどうする?
− 帰る前に また行きたい
− でもなあ、明日は もうホテルを出ちゃうからシャワーがないぜ
海岸、「海の家」 のシャワーが、見るからにアテにならないのは、彼女も理解していた。が、1時間そこそこだったが、それはそれで彼女には完結したものになった。ま、こんなもんじゃなかろうか。話題をトイザラスへ。明日はそこを回って帰ろうかと。夕食はバイキングだったので、そこでカニを食いたいだけ食ったことも、彼女の 「頭の切りかえ」 には貢献しただろう (カニは しかし、「この」 海で採れるわけじゃないのだが)。

翌日は、雨。
ニュースでは、東京の 「真夏日 記録 40日」 がここで切れた、1週間ほど涼しい日が続くでしょうと。(後・追記: それは真っ赤はうそだったが。翌週の東京は、「記録」 が 「切れる」 前より暑くなった)
「(昨日は) 運が良かったなあ」 と言いつつ、房総半島を横切る。成田へ。昨日は海岸上空を、成田から出た飛行機がひっきりなしに通過して行ったのに、今日は1機も出会わない。成田空港の近くに出てわかった: 風の方向が変わって、出発便は西向きに離陸していた。成田のトイザラスを経由して、東京に帰る。



僕自身の記憶では、子どものころ、遠州灘の似たような海岸に行った記憶がある。が、そう長時間いたとも思えない。車はなかったので、バスに乗って行ったはず。その所要時間と一行の規模 (両親、子ども3人) を考えると、海岸には2時間もいられなかったはずである。それでも、小学校以前の僕には その記憶がある。風景は 九十九里のそれに酷似しているので、おそらく子どもの時の そこは、浜岡砂丘の周辺だろう。

この他に知っている 「海岸」 は、サンタ・モニカ。あそこのビーチは、日本語でいう 「砂浜」 とは異なる。砂の粒が大きく、荒く、裸足では痛い。ここでは海水に触れていないので温度は知らない。
銚子、犬吠埼の灯台下は岩場である。「遊泳」 はできない。灯台 北側には砂浜があるが、これも砂丘型の微細な粒の砂浜ではない。房総南端の岬も岩場で、申し訳程度、箱庭程度の砂浜があるだけ。東京湾では、横須賀の対岸、富津岬も 岩場と砂浜の混成だが、やはり 「遊泳」 の条件がない。遠州灘は砂丘の他に、御前崎すぐ西側に砂浜がある。先日行った新潟には、鉄道駅のほんの 1Km 先に砂浜がある。ただし 「遊泳」 関連施設はとぼしい。金沢の内灘海岸 (五木寛之 『内灘夫人』) が、現在は海水浴場になっているかどうかは、知らない。
なお、英語でいう beach は 「砂浜」 と訳されるが、訳語中の 「浜」 の字にだまされてはいけない: 内陸である (海のない) Iowa で、小さな湖の一角に人工的に作られた beach があり、そこが現地人の集会・催し物の会場になっているのを経験したことがある。同様に、USA、カナダ国境である五大湖の周辺にもかなりの数の beach があるはずなので、おひまな方は beach の語源、つまり それが 「海」 に由来するのか、あるいは 「傾斜した砂地で、その先が水没する」 意味にすぎないのか、お調べになってくだされば恐縮至極。


(20040823-1) おもちゃ たち − 銃

たしか、この夏になる前だった。かあちゃんが 3才前の男の子のために、どこからかピストルのおもちゃを手に入れてきた。
僕自身は子どものころ、父親からピストルを禁止されていた。小学生になったころ、巻紙テープに小さな火薬を並べた 「音だけ」 のピストルを お小遣いで買ったような気もする。その後 ねだりにねだって タマの出るピストルを買ってもらったのだが、そのときも 「決して人に向けて撃ってはいけない」 という条件が付いた; が、それは、近所の子らとの撃ちあいごっこで ついに破られた、つまり僕は タマを発射する誘惑に耐えられなかったのだ。その後、丸いプラスチックのタマを無数に撃てる (「BB弾」 と後に呼ばれる。これは現在もある) ピストルが買えた。タマの1発1発は 「安い」 から 「惜しげなく撃てる」 という触れ込みだが、しかし本当に使い捨てると お小遣いが不足することに気がついてから、ぱたりと興味を失った。直径 5mm 程度のタマを、撃ってから探しに走るのは、子どもの心にもアホくさかった。まして、撃ちあいごっこの間に 「タマ拾いタイム」 を持つなどという フェアな(?) 遊び方はしなかったし、そのころには小学校後半で、そろそろ電気のハンダづけを覚えて、そっちのほうに興味が移動したらしい。

計算の上では、それから 20年以上 経過した後、僕はアメリカで本物の銃を撃ってみた。
アメリカ白人の男の子たちには、思春期以後、自分の銃を持つ夢があるようだった。彼らは大人になり、就職したかどうかといったころ、それを持ってみるらしい。地域は大平原の真中、見渡す限り牧場ないしとうもろこし畑という環境なので、「撃つ」 場所はどこにでもある。むしろ、野原の中でも危険と思われる地域には 「発砲禁止」 の札が掲げてあるので、その立て札のないところでは (本物の銃を) 撃ち放題なのだ。僕らを含む 30代の男たちは、休日にピストルとライフルを (持っている者は) 持ち寄って、パーティーまたはキャンプ用の、使い捨てのプラスチックの皿を標的に、腕を競うことになる。
ライフルというのは、長さのわりに弾の直径が小さい。撃った瞬間の衝撃も、ほとんどない。そのくせ、難しい。ちっとも当たらない。一方 ピストルは、その時のメンバーが持っていた機種がそうなのかもしれない、ピストルという機械の大きさに対して 弾の直径は 10mm を越えている。撃つときの衝撃も、大きい。両手で、重いピストルという機械、鉄の塊をかかげて、重い/固い引き金を引く瞬間、両肩をしっかり固定していないと 肩関節 (腕の付け根) を脱臼するのではないかと思われるほどの衝撃がある。そうやって肩をしっかり固定した上で引き金を引いても、撃った瞬間に両腕は頭上に舞い上がる; つまり銃を持った両手は天上を向く。誤って、この 「天上に向かって」 発砲すると危険な場所が 「発砲禁止」 地域なのだ。なお ついでだが、アメリカ人の手の大きさを前提に作られたピストルは、大きく、重い。僕は人差し指で引き金を引くのに困難を感じて、中指を当ててみた。それを横で見ていたアメリカ人は忠告してきた: 「それは設計上 It's designed 」 人差し指で引くようになっている (中指で引くのは危険だ) と。
(後に、ハワイには日本人相手?の射撃場があり、そこには貸し出しのピストルもあると聞いた。経験者の話では、そのピストルの発射にそれほどの衝撃は感じなかったというので、おそらくそれは、日本人向け、観光客向けの小口径ピストルか、あるいは弾のほうの火薬が減量してあるのだと思う。10mm を越える弾で普通のピストルであれば、最初は 「肩」 への衝撃に怯えるのが まともな反応の はずである)

30代、もと 「男の子」 たちである。
この体験以後、僕の 「銃」 に対する態度が変った: たとえ オモチャでも、銃口を 「人」 に向けることができなくなった。たとえ子どものオモチャでも、相手が子どもでも、銃口を向けられると、条件反射で その銃を はねのける (はねとばす) ようになった。その瞬間、子どもは泣くかもしれない。しかし それは わかっているが、銃口を向けられた瞬間、それを避けるより 銃自体を たたきおとす方が安全なのだ。銃口の方向を 「避け」 ても、銃はこちらを追うことができる。逃げることはできない。唯一の方法は、銃自体を たたきおとすである。この条件反射が、たとえ 「おもちゃ」 でも、たとえ 「水鉄砲」 でも 作動した。それ自体、僕自身が驚いている。

それから さらに 20年近くが経過した。今では、身近に 「本物」 の銃はない。派出所の警察官は銃を持っていることがあるが、それが使われることは、普通は ない。20年 経過してみると、「水鉄砲」 であることがわかっていれば、今では平然としていられる。が、おもちゃでも 「銃」 をこちらに向けられると、やはり おだやかではない。相手は多く子どもなので、ぐいとつかんで まず 方向をそらせる。大人気もなく、怒ってみせる。大人にオモチャの銃をつきつけられたことはないが、そのときは 直ちに はたき落とすだろう。「銃」 は こわい。その意味で 僕の父は正しかったし、その意味で父は甘かった。彼は、身体頑健でなく徴兵検査に 「甲種合格」 できず、「銃後」 の生産現場に回された人である。彼は 飛行機から機銃掃射のメにあったことはあるが、自分自身が銃を持ったことはないようである。だから彼には、激しい恐怖とはいえ被害者意識しかない。だが息子は、簡単に加害者にもなれることを体験している。

なお、従って、かあちゃんが3才直前のために買ってきた おもちゃのピストルは、僕がひそかに捨てた。水鉄砲は、まだ無事である。
この夏の公園、盆踊りの夜店で、くじびきの店があった。あれがほしい。おねえちゃん、くじをひいたら、おう、すごい、空気圧で BB 弾を発射するピストル、それも重そう (高級そう) なのが当たってしまった。おねえちゃん、逆に がっかりしているので、父親 「そりゃ いらない」 と言ったら、店のおじさん 大喜び、おまけをいっぱい付けて おねえちゃんのほしいのをくれた。3才のほうは、なんでもない、たしか白い 「ぶーぶー」 がほしくて、喜んでもらって帰った。(うーん、あのピストル、父親がもらっておけばよかった)

アメリカ西部の夢の残骸; 銃とナイフと火の扱い。これが、キャンプの三種の神器。この3つを適切に扱えるようになったとき、「子ども」 は 「大人」 への階段を上がりはじめることになる − 僕の理解する 「アメリカの田舎」 では、今もそれが生きている。


(20040824-1) おもちゃ たち − 飛行機

ゴム動力の飛行機が、現在では発泡スチロールの翼 (と しばしば胴体その他まで) になってしまったことは、前に書いた。

この 発泡スチロールの扱いに困ることがある。こいつは、「ほとんど あらゆる種類の接着剤」 を受け付けない。より正確に言うと、これを接着できるのは2液混合型のエポキシか、さもなければ 木工用ボンドの 単なる粘着によるしかない。これら以外の ほぼ あらゆる種類の接着剤は、発泡スチロールの素材自体を溶かしてしまう。もちろん、プラモデル用接着剤、ABS樹脂用、ゴム用 ・・・ と試してみたが、すべて素材そのものを溶かしてしまうので、厚さ 1mm 程度の 「翼」 の接着には使えない。それを承知している 組立キットには、なんと粘着テープがついていて、翼などの位置を決定したら、その周囲を粘着テープで押さえろという指示が書いてある。たしかに、飛行機はそれで飛んだ。が、1週間もするとこの粘着テープそれ自体が、はがれはじめた。おねえちゃんと実験した後、3才の子を連れてまた公園で飛ばそうと考えていたのだが、はがれはじめた粘着テープは、これはもう とうてい信頼できるものではない。おそらく、これを再度 おさえて 貼り付けても、翼に負荷がかかったとたんに はがれる − つまり空中分解のメにあうだろう。
手軽な実験には、木工用ボンドで粘着力を補強するか、さもなければ − しかし ゴム動力の飛行機にエポキシはないだろう。木工用ボンドの粘着力は、相手がプラスチックであれば ほとんど非力。エポキシでは、付けば二度とはがせない; エポキシでも ある種のプラスチックには非力なので、「翼だけ」 発泡スチロールのケースでは どうにも困ったことになる。実際、胴体まで発泡スチロールの飛行機には、「割れたときは エポキシかセロテープ」 で補修せよと、ある。ったくもう、ハイテクと ローテクの両極端だ。

発泡スチロールで、組立セットを 「売る」 側にも簡単になったのは、「小型化」 である。だから、100円ショップで そういう 「飛行機」、実はグライダーを売っている。これにゴムとプロペラが付くと さすがに 100円は無理で、250円くらいから。

小型の模型飛行機の問題は、「飛ぶ」 ためのスピードである。小さいだけに、翼の発生する揚力が不足する。一般論としては 「2乗3乗の法則」 によって、機体が大きければ大きいほど、翼面積 (2乗) に対する重量 (3乗) が増えて、飛ばすにはより高速が必要なはずなのだが、逆に模型飛行機は 翼幅1m程度にならないと 「ゆったりと」 飛んでくれない。これは、翼幅1mにもなる機体は胴体内部が空洞で (だからラジコン機材を入れる余裕が出てくる)、見かけよりはるかに軽いからである。が、翼幅 50cm を割る程度だと、翼面積が絶対的に不足して揚力不足、結果としてプロペラをぶん回して 力づくで飛ばす、大きさに対して とんでもない高速で飛ばないと、「飛ぶ」 ことができない。(だから、100円ショップの 「グライダー」 など、ゴムのパチンコで発射する。発射時点で分不相応な速度を与えないと、そもそも上昇してくれないのだ。同様に、降下も速い。「ゆったりと」 飛ぶには、やはり翼幅 1m くらいが必要である)

実際、おねえちゃんと実験した翼幅 40cm 弱の飛行機は、たしかに頭上を1周して降りてきたが、その総飛行時間は はたして 10秒 に至ったかどうか。この大きさでは 「動力」 は数秒で切れてしまうので、よほど良い風を拾って数秒間に急上昇しなければ、セットの 公称 「10秒〜20秒」 は、ない。その わずか 10秒の間、その 10秒の間に頭上を1周して降りてくる; その降りてくる姿勢が 「着陸姿勢」 か、それとも頭から地面に衝突するか、そんなことに一喜一憂するのが 「模型飛行機」 である。

なお、僕がはじめて就職したころ、つまり 1980年代、この業界 (パソコン、マイコン、コンピュータ) の経営者たちの中には、「ラジコン」 飛行機に凝っている人がいた。が、それは (僕の) 子どものころと同様に、当時の僕にも手が届かなかった。そもそも東京周辺では、翼幅1m級の飛行機を飛ばす空間がない。趣味の集まりがあり、彼らは週末に 借り切った河原で飛ばして (今も) いるようだが − しかし その前に僕はアメリカで同じような集団に出会っていた; アメリカの そういう 「趣味」 集団は、なぜか貧相だった。それは − 翼幅1mの飛行機をリモコンで飛ばす 「社会」 に出会う前から、僕は翼幅 10m のセスナに乗る機会を持ったせいである、と思われた。本物のセスナが (実は) どれほど 「チャチな」 ものであるにせよ、それに比べれば オモチャの B-29 をリモコンで飛ばすのが、どれほど 貧しく見えたことか。

だから、おもちゃは おもちゃであってよい; それが翼幅1m、2mの B-29 や B-17 である必要はない。おもちゃは、翼幅 数十 cm のゴム動力でよいのだと、思っている。


(20040902-1) おもちゃ たち − 「自分史」

「おもちゃ」 の話を書きはじめてから、何か落ち着かない。夏の疲れがとれないことも理由の1つにあるが、それ以上に、「おもちゃ」 の話は 書きたいことが多くて、子どもに話して聞かせるだけではすまないような記憶が多く、一面ひどく欲求不満であることに 気が付いた。
ちょうど 「老人の 「自分史」」 は生きているうちに公開しなさいと 書いたばかりだ。この際、僕自身の 「おもちゃ自分史」 を 手短かに書いて、8月のまとめにしよう。もう9月になってしまったが。

まず、プラモデル。
この開始期は、記憶にない。小学校3年生のときハンダ付けを覚えたのは、プラモデルの電池からモーターへの配線のためだったと思われるので、9才ではモーター動力の戦車とか車とかを組み立てていたはずである。

ハンダごては 60W だった。父のものである。父は当時タバコを吸ったので、ごく自然なこととして こて台は灰皿だったはずである。糸ハンダが ようやく田舎で手に入るようになったころらしい; 当初 ハンダはムクのハンダ塊を溶かして使っていたはずだが、父が糸ハンダを買ってきた。糸ハンダは、まだ 「ヤニ入り」 ではなかったので、「ペースト」 が必要だった。60W が普通だった電気工作用の 「糸」ハンダは、直径 3mm ほど ある。
その後、ハイテク化してハンダごては 30W になっただろうと想像される方は、若い。一般的なハンダごてが 30W になるのは、まだ 20年後である。この当時、少年マニアたちは金属工作に向かったから、僕が お小遣いで買った次のハンダごては 100W である。1/80 程度の鉄道模型、金属車体をハンダ付けで組み立てるには、この程度が要る。と同時に、「ペースト」 などでは おぼつかないので、中学の理科の教師をしていた父が、塩酸と 亜鉛の粒を持ってきてくれた: 塩酸に亜鉛を投入すると、反応して塩化亜鉛になる; ぶくぶくと泡が立つのは、反応の結果の余剰物質 H2 である。この塩化亜鉛液を真鍮板に塗っておく。そこに 100W のハンダごてを当てて、真鍮工作は快適に可能になる。(ところで、父は 塩酸と亜鉛粒を職場の理科室から持ってきたのだろうか? 後に、薬局で、既に生成ずみの 「塩化亜鉛」液を売っていることを知った)
ただ、ヤニなし糸ハンダ、塩化亜鉛で 1/80 程度の鉄道車両の真鍮工作となると、僕はもう中学から高校生になる。そのころ 父はもう 「理科の教師」 ではなくなっているはずなので、その前後関係がよくわからない。あるいは、最初の亜鉛粒を僕はずっと持っていて、塩酸だけを薬局で買ったかもしれない (高校生くらいなら、笑顔次第で薬局で劇薬も買える)。少なくとも、亜鉛粒を買った記憶はないので、あるいは 薬局で瓶入りの 「塩化亜鉛」液を買ったのかも、しれない。

前後するが、僕の小学生時代は、『鉄腕アトム』 と 『鉄人28号』 の時代である。2つとも 光文社の月刊雑誌 『少年』 の連載だった。少年雑誌らしく、懸賞も通販もある。通販で (今で言う) BB 弾のピストルを買ったのも そのころである。雑誌の懸賞の賞品には、(まだ新幹線は開通していない) 「特急こだま号」 セットが、1等賞に上がっていた; 僕は、その 「1名」 に当たったことがある。線路幅、16.5mm には届かないだろう。が、金属の芯の周りに亜鉛?板をプレスした、本当の 「レール」 型の断面をしたレールを、ベーク板の枕木でつないだ楕円形の線路。電池2本を駅舎に入れ、左右のレールの極性を入れ替えることで前後進を切りかえるセット。それが、月刊 『少年』 の懸賞だった以上、かつ、新幹線開業 (=東京オリンピック) 以前である以上、僕の小学校2年から4年の間だろうと思われる。

小学校6年だったろう。僕は 16.5mm の線路幅、ベニヤ板1枚 (畳1枚) の大きさの 「レイアウト」 を作っていた。学校で担任だった先生が、それを、人口2万5千人の 「町」 の文化祭に運んでくれた: 当時 既に、プラスチック枕木、真鍮レールの 「フレキシブル」 線路を売っていた。道床つまり線路の 「石」 の表現も、できあいのコルク製品。電源はトランスに整流器ブリッジを通して直流 12V、そこに可変抵抗で速度調整をすると同時に、トランスからは直接 ポイント切り替え電源を取る。それは、12才のハイテク工作だった。

中学に行ってからも、その関係のクラブがあった。そこには、「鉄道」 をやる一派と、「飛行機」 をやる一派があった。「鉄道」 はクラブの公費が出て、文化祭には理科室にレイアウトを展開したが、「飛行機」 一派は予算がない。せいぜい、原理的には 「焼玉エンジン」 にすぎない模型用2サイクル・エンジンと機体を展示するだけで、彼ら自身 「ラジコン」 送受信機は買えないのだった。が、僕自身も、そのエンジンを回してみたことはある。不思議なことに、僕はそこでも 「小さな小さな」 アメリカ製、商品名 Pee Wee という名前のエンジンがほしかったが、これも 中学生の小遣いでは買えない値段だった − 僕は、小さな飛行機を小さなエンジンで 「ゆったりと」 飛ばしたかったのだろうか。

高校に行くと、中学の先輩は既に 「恋」 にうつつを抜かしていた。僕自身、「十年一日」 の模型の世界、何の 「進歩」 もあり得ない世界に、魅力を感じなくなっていたのだろうか。高2か高3か、クラブの幹部であり 文化祭には部屋も確保したにもかかわらず、十年一日 同じような 「レイアウト」 には飽きていた。ちょうどそのころ、工業高校に行った中学の同級生が、学校で燃焼剤と酸化剤の混合固体燃料でロケットを上げているのを見た。今 考えてみれば、彼らは、ハリポタの薬鍋みたいな鍋で危険な混合作業をし、それに紙を巻いて筒にして、せいぜい 30m ほど打ち上げては落下傘で降りてくる残骸に喜んでいたにすぎないが − しかし東大の糸川ロケットだって まだ 全長1m の時代だったのだ。
僕が幹部であるクラブでは、結局 「高速鉄道」 の技術的な面の検証、といったテーマを立てた。模型用の 「ロケット・エンジン」 は もう ないが、当時は売っていた。この推力で、重さ何グラムの車両をどの程度に加速できるか。仮に毎秒 N メートルまで加速したとして、文化祭会場の教室を一周、曲線半径は何 cm なので − では その曲線部のカント、車のサーキットでいう 「バンク」 は傾斜何度であれば最適か ・・・
計算してみた。後輩にも計算させた。結果は ほとんど一致した。傾斜、87°前後! ほとんど、垂直に近い壁ではないか。
その推力でその速度に至るまでは、平面上を走らなければならない。その距離は、教室では確保できない。まして、0°から 87° まで一気に傾けることはできないので、その遷移域では車両の重心を思い切り低くして、少なくとも倒れることがないように − 結果として床下に重りを、従って車両重量は重くなり、加速は悪く、最終的には曲線部のカント 60°前後、それでも加速が不足して、「手で」 押し出してやる必要があった。高校時代の僕の 「ハイテク」 志向は、こうして失敗に終わった。
(こりゃ、どう見ても 「続く」)


(20040903-1) おもちゃ たち − 「自分史」 (2)

明らかに 「おもちゃ」 の範囲を越えたので、以下 本当に手短かに。

中学から高校にかけて、まだ生き残っていた国鉄の蒸気機関車を追ったことがある。この時期、僕自身は小型のカメラを抱えて、自転車で近所のローカル線の C-58 を追っていた。機関士たちと顔なじみになり、ローカル線末端の転車台付近で、(機関士の業務の中では) ひそかに 運転台に同乗させてもらったことがある。
高校生になると、さすがに 「子ども」 ではなくなり、もう 蒸気機関車の運転台にも乗せてもらえないし、機関車自身がディーゼル化した。

時期は、70安保を前後する数年である。その後 僕は浪人から大学生へ、大学での専攻は朝鮮語で、「おもちゃ」 たちとは多少 疎遠になったかもしれない。が、せっかくアルバイトをして もらった給料のほとんどを、ドイツ製 N ゲージの大型蒸気機関車に 使ってしまったことがある。「大型」 といっても 1/160、全長 150mm+ しかない。下宿に それを走らせる環境は持っていなかったから、この機関車は ほとんど走っていない。しかし、それほど そんな 「おもちゃ」 がほしかった。おそらく、子どものころ それほど 「おもちゃ」 への資金に飢えていた、その反動だったのかもしれない。

それから、長いトンネルがある。朝鮮近代文学の 「研究者」 になるためには、僕自身がその勤勉さを欠いていることが、「うすうすと」 でありつつも 見えはじめていた。N ゲージのレイアウトは高校あたりで一度は完成段階をむかえていたが、「本業」 の文学専攻の 「研究」 にネを上げるたびに、しばしば 「子どものころの夢」 に逃避することが多かった。そのころ ようやく現われたのが、8ビット・マイコンである。韓国への留学に、それを抱えて行った。韓国の大学院、国文科の近代文学専攻でありながら、僕は そこで高級言語 Pascal の教科書を英語で読み、8ビット・マイコンのモニター・プログラムの ディス・アセンブルをやっていた。これで、大学院修士課程の近代文学研究ができるはずもない。僕は帰国し、ソフト屋で食うことにした。

なんだか悲しい。「百科全般、歩く百科事典」 みたいな面が、僕にはあると、僕は今でも感じることがある。朝鮮近代文学論を一応 理解し、かつ 「自力で組み立てただけ」 のパソコンを 「自作」 と呼ぶ幼稚さを あざ笑うような面が、今もある。飛行機であれ戦車であれ、電気を使わない原始的な蒸気機関であれ焼玉エンジンであれ、それに、あくまで幼稚にしか見えない、ピアノ線リンクによるラジコン機であれ、ほとんどのものは 「幼稚」 に見える。むしろ 「幼稚」 でチャチなものであっても、あの限りなく頼りない、窓を開けることのできる、たたけばカンカン音のする、操縦は両手両足で 限りなく原始的なワイヤー操作で行なう本物のセスナのほうが、「幼稚でチャチ」 であるだけに 「本物」 の魅力を持っていると思う。セスナ 172 という名前は、たしか 「172馬力」 に由来したはずだ。戦闘機の P-51 は、「2000馬力」 超だそうだ。2000馬力のエンジンに からんからんの機体をぶら下げただけのものが、戦闘機である。それは、ゼロ戦も同じことだし、原理的には 現代の戦闘機たちも まったく同じだ。それに魅力を、今は感じていない。

だから 「おもちゃ」 は、ゴム動力の飛行機までで、いい。限りなく 「ゆっくりと」 飛ぶ 「室内機」 にも、ヘリウム浮上のラジコン飛行船にも、今は手を出す気がない。それよりも、大人の飛行機の雑誌を買って 必要なところを読み終えたら 3才の子に与えてしまう; 3才児は、ピカチューを機体全面に描いたジャンボの写真をみて 「ピカチュー、びゅいーん」 などと しゃべりはじめた。9才の子は、『アポロ 13』 の映画を見て、理解しはじめている。


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