Ken Mizunoのタバコのけむり?

Hangeul-Lab Ayase, Tokyo
Ken Mizuno

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Mail to home master: Ken Mizuno


最近数年の記事の総目次
この時期の前後の 目次


(20040425-1) 4年生のメール発信

前座として、まず 「ASCII 文字範囲による顔文字」がある。例えば 次のようなものがある:
=3ため息、または感嘆。これは僕自身の発明である =3
m(_ _)m「ごめんなさい」
:-)笑顔
:->(同上、バリエーション)
:-(笑顔の反対
:-<(同上、バリエーション)
これらを教えていたら、4年生は自前の作品を作ってしまった。さて、次のものを読者は理解されるか:
    (.)...
        =3 D
    (.)..

   (けんかをしてなかなおりをしたといういみだよ)
「けんかをしてなかなおりをしたといういみだよ」 は、4年生は 学校のローマ字の教科書を持ち出して、ついに自力で入力した。父親のパソコンは英文キーボードで、「カナ」 刻印がないので、学校のローマ字教科書が活躍するわけである。「いみ」 が 「意味」 に変換されていないのは その事情による。ともあれ、彼女はローマ字入力それ自体は理解した。この 「作品」 は、ただちに大好きな おばちゃん (父の姉) あてに送信された。

その翌日には、彼女は 携帯それ自身からの 入力・送信を試みた。そこには 「顔文字」 はないが、「こんにちわ、わたしはげんきです」 ではじまる文面で、テン・マルのない古文書のような かな だけの文面が、250字直前まで展開されている。どうやら彼女は、「携帯」 メールの送信可能文字数が その程度であることを理解しているように思われる。古文書のような (テン・マルのない) メールに、おばちゃんは感激したか げんなりしたか、「おばちゃん、負けそうね」 と返信してきた。

僕自身は、「携帯」 による日本語入力を放棄して、2年。姉 (の携帯) からのメールも パソコン インターネット・プロバイダあてに出させ、パソコンからの返信ですませてきた (その際に 「512バイト」 制限が問題になる)。しかし今度の4年生の試図は、その 「携帯」 自身での 「日本語入力、そのまま送信」 という経路を取った。
あるいは、こうして 「姪と おばちゃん」 のメールが、父の知らないところで往復する可能性が 出て来た。4年生に専用の携帯を持たせれば、それは現実化する。それはそれでよいのだが − 「携帯」 の子ども同士の通信、そこに 「子ども」 を装った悪意の第3者が介在するときが、危険なのだ。


(20040423-2) Information Devide (?)

職場でのバカ話: 高校生くらいの女の子たちが、電車の中で話していたそうだ。「パソコンって、メールもできるの? ケータイみたいね」。

都会の子どもが田舎に行って、夜空に輝く満天の星を見て言ったそうだ: 「いやあ、気持 わるーい。じんましんみたい」。

僕の父が、10年以上前に 「ワープロ」 を買って、既に白黒液晶画面が、「10年」 の約束通り 寿命で見えなくなっている、つまり彼が筆記用具を失ったことは、前にも書いた。今となっては、もう 「ワープロ」 などという機械は売っていない。ここ数年、彼は手書きに戻っている。どうしてもほしければパソコン、それ以外に選択の余地はなくなっている。しかし、たまにそれが話題になると、キーボードにモニター、その横にある 「この箱は何なのだ」 と来る (それがコンピュータなんだよ!)。そうである以上、パソコンはノート型以外に考えられない。これなら、電源断の手順さえ守れば、かつての 「ワープロ」 と呼ばれた機械と同じだろう。が、ノートは高い。選んでも、どうしても¥15万にはなる。大手のブランドがよければ、¥20万は用意する必要がある。かつてのワープロとちがって、パソコンにはプリンタが組み込まれていないから、それも問題。
それ以上に問題なのは、「通信はできなくてもよい。俺は紙にきれいに出したいのだ」 という、彼の明瞭な意思である。彼の頭の中にあるのは、「ワープロで打ち出した文面を紙に、その紙を Fax で送信」 という手順なのだ。「通信」 つまり インターネット、電子メールの類は、使ってみないとその意味がわからない。彼はまだ、自宅の電話が IP 電話であることを理解していないし、最後まで理解しないままかもしれない − 彼は、僕が子どものころ、中学の理科の教師だったのだが。

姉。二人いる姉の一人は、高校生のころから補聴器を使っている。現在では、電話での話は不可能。その彼女を 下の姉が説得して、ついに携帯を持たせた。大成功だった。携帯メールが 聴覚障害者にとって新しい通信手段をもたらすという話に僕は懐疑的だったのだが、これで認識が変った。この人には、携帯メールという手段ができた。

その説得をした下の姉は、1円なのか0円なのか、そんな携帯を使っている (ちなみに、最近 職場のおばさんに孫が生まれるということで、緊急時に備えて彼女は 「1円」 の携帯を買ってきた。1円の機械には、なんとカメラが付いている。時代は既にそうなった)。
この姉からの連絡は、まず携帯発、僕あてのメールで来る。いつも 「久しぶりだね」 になる。しかし、その 「久しぶり」 になるまでの間の当方の事情を説明するには、512バイトのメールでは いかにも 狭い。512バイトなんて、要するに 25字 x 10行しか書けないのだ。結局、直接の音声電話になる − もう少し長いメール、受け取れるようにせんかね? どうしたらいいのよ。
そうなのだ。彼女は、FAX だって (電話が聞き取れない母親のために) 最近 買ったばかりなのだ。携帯でも インターネット・サイト経由で長いメールが可能だとか、いっそのことパソコン買えとか、言っても、はじまらないのだ。彼女の IQ は高い。高校は進学校で、男子 40名に対して 女子 10名、「ブスでも もてる」 高校に通った。高校の後は、人体解剖に立ち会うようなこともした。その意味で かなりのインテリ層に属すのだが、うーむ、いかんせん、彼女がパソコンを使う機会がなさすぎる。

世の中の 「IT化」 なんて、ほんの一握りの世界でしかないのではないか。通信インフラの整備は華々しいが、しかし それが 「電話」 と同じまで普及するためには、「電話」 と同じように 「すべての家庭に」 高速回線とその端末機、つまり現在でいうパソコンに当たるものが入り込むまで、あいかわらず Info Devide は深刻であり続けると思う。昔、アメリカでは Transportation Poor が問題になったことがある。「車、つまり交通手段が持てない、持てない故に貧しい、貧しいが故にさらに孤立する」。Info Devide は、それとまったく同じ経過をたどるのか、どうか。
少なくとも今は、512バイト上限のメール、その返信、それでは間に合わなくて、コードレス電話 -> 親機 -> アナログ線 -> ISDN -> 交換局 -> 携帯交換網 -> 携帯 という長い経路を通って、姉と 「直接電話」 するハメになっている。


(20040423-1) 文字コード解説書 2種 紹介

(1) 清水哲郎 『図解でわかる 文字コードのすべて』、日本実業出版社
初版 2001.4.20、手元の版: 第5刷 2003.6.10、¥2,700
ISBN 4-534-03224-2
(表紙にのみ 副題ならぬ 頭題(?)「異体字・難漢字からハングル・凡字まで」 の表示)
(2) 加藤弘一 『図解雑学 文字コード』、ナツメ社
2002.9.30、¥1,300
ISBN4-8163-3243-X

実は、最初に発見したのは (2) である。いかにもミーハー的で、記事は必ず見開き2ページで完結する。それが 百項目ほどで 200ページ。見開き2ページで説明できることは限られているから、煩雑な事情は書いてない。が、この 「見開き2ページ」 を単位に、例えば日本語の文字コードの成立過程などは 10項目くらいに分けて書いてある。煩雑・厳密な説明がないのは不満だが、裏返すと この世界の成り立ちを概観・一覧するにはとても便利。例えば ヨーロッパ文字系 ISO-8859 の主力4種は、左ページの数百字で説明、右ページには4枚の地図が掲げてあって、とても簡潔。「細大もらさず」 の 「細」 に漏れは多いが、過度に細部に踏み込まないのは、それでよい。ハングルのコード系についても 「細」 の説明がないので実用にはならないが、しかし あくまで 「一覧、概観」 としてはよい本である。

(1) は、実は恩師から教えられた。奥付の書名に対して 表紙だけに 副題 (頭題?) が付いているあたり、バカにして かかったのだが、どうしてどうして、僕自身が求めてきたもの、書きたいが そこまで 実世界のソフトの話は盛り込めないと考えてきたような内容になっている。Mac も Windows も出て来て、あのソフトではこう文字化けする、このソフトではこうなる、それは文字コードの構成が これこれ こうであるからだと、想像以上に懇切ていねいに説明してある。裏返せば、使ってもいない Mac や 使いもしない Windows の入力ソフトの説明が うざったいが、しかし その説明の目的が はっきりしている。
本の作り方それ自体は、よくある 「バカでもわかる パソコン・メール」 に類する構成と言えば失礼だが、その種の本で得られた パソコン入力窓の引用のノウハウが流用されて、個々のソフトの動作の解釈、「なぜそういう結果になるのか」 が、正確に説明されている。この本はおそらく、外国語を扱う大学教員レベルで発見されて、その教員たちの間にノウハウを伝える経路になっている可能性がある。

この他には、大学教員で 文字コード (論) それ自体をテーマとする研究者たちの本がいくつかあるが、あんまり役に立つと思えない。それは、言語研究者たちの著書が一般人の 「語学」 に ほとんど役に立たないのと同じで、想定する読者層が ずれているからだ。僕の周辺、ハングル工房関係者、あるいはそれに関心はあるが 「コンピュータや文字系」 論そのものが専門ではない、かつ 簡潔・正確、現実的な知識を必要とする人には、とりあえずこの2冊をお勧めすることにしたい。


(20040422-1) 「こいのぼり」 は 本来 「男の子が生まれた」 ことの掲示なのだそうだ

しかし、うちの上の子 (女の子) は3才ころから、じじばばと買い物に行くたびに、デパートのおもちゃ売り場で こいのぼりを買ってもらっては得意満面だった。もちろん、それには父親の誘導があって、当時この子に弟ができることは想定していなかったから、父親のイデオロギーによって 「男も女もあるものか」、子どもには こいのぼりが必要だと考えた。しかし 明治以来の家父長制の象徴でもある おどろおどろしい ヒナ人形や 国旗掲揚台みたいな鯉のぼりは ごめんだったから、スーパーやデパートで売っている おもちゃの こいのぼり くらいが、ちょうど適切な規模だったのだ。だから彼女は、「ちょうどよい」 規模の、ばあちゃんが 買い物のついでに買ってくれる こいのぼりを喜んでいたし、それが父親としても 「ちょうどよい」 ことだった。幸か不幸か、じじばばは貧しい。だから、僕は長男であるが、その 「まな娘」 の3才に、おどろおどろしいヒナ人形が買われることはなかった。立派なそれを買ってやりたい気持が 僕にもないではないが、カネの問題もある、置き場所はないし、それ以前に 「宮廷」 を模した階段構造のヒナ段には、僕自身に抵抗がある。

さて、今では、その子に弟がいる。今年の夏、3才になる。保育園にも、既に国旗掲揚台?に巨大な こいのぼりが泳いでいる。ただしそれは、父鯉、母鯉、子鯉の3匹セットである。ふうむ。

今月の ある日、駅前のデパート、つまりイトーヨーカドーの売り場を、上の子と ながめて見た。そこで困ったのは、できあいの安いセットであれ高いセットであれ、こいのぼりは どれも 「3匹セット」 であることだった。これでは、ばあちゃんに こいのぼり買ってもらって得意満面だった お姉ちゃんの立場がない。お姉ちゃんは、「鯉のぼり」 から そもそも排除されているのだ。
できあいのセットで、1セット 1万円程度。このセットを大小2つ買えば、「小」 の緋鯉 つまり母鯉を お姉ちゃんとして使えるだろう。しかし、残りはムダになる。そもそも、現在の家計で こいのぼり 2万円は許されない。保育園には既に巨大な鯉のぼりが泳いでいる時期なので、時間的な余裕も もうない。

東京には、いくつか古い街道沿いの商店街がある。その1つ、北千住を、平日の夜 歩いた。そこで 「古い」 文化を温存する おじさんに出会った経緯は、省略する。そのおじさんの案内で、ばあさん二人が開いている人形屋さんに行った。

結論: できあいの3匹セット、父鯉のサイズ 1M、それに、緋鯉を単品で一匹追加。これで ¥7,500。
持ち帰って 緋鯉の長さを見ると、正確に同じサイズ 90cm。ただしセット内 緋鯉と単品の緋鯉で、口の輪の直径が異なる; 大きいほうを母鯉として、これで家族4人分。末の青い子鯉は 60cm で、これだけが極端に小さいが、やむを得ん。
ベランダから、水平に近いが やや上向きに、支点は物干台に掛け、逆モーメントの支えには木工用のクランプを使った (なお、水平に近く掲げるのは、香港の高層アパートで 物干竿が水平に出るのをまねたものだ。これは、主として貧民街 高層アパートにみられる)。このアパート (またはマンション) で こいのぼりが出るのは 「うちだけだね」 というのは、お姉ちゃんの言う通り。

翌日以降の余談 1: 母鯉と姉鯉 (長女鯉) は同じサイズなので、わずかだが上向きのサオにかかると、姉鯉のほうが はるかに大きく感じられる。ま、それはよい。父・母・姉・弟の順であろうが、父・姉・母・弟の順であろうが、4匹そろっていることに ちがいはない。「母」 と 「姉」 の関係が、前者が大きくなければならない理由もない。

翌日以降の余談 2: 昼、公園からこのマンションにかかる唯一の こいのぼりを眺めた お姉ちゃんの証言によれば、60cmの 子鯉だけが 「泳ぎ方がへた」 なのだそうだ。さもありなん。長さも径も不足する上に、この子鯉だけが糸2本なのだ − 凧と同じで 「鯉」 は一般に3本糸で風に泳がせるが、「極端に短い」 60cm だけは糸2本で、しかも最下段なので ベランダ直近の乱流をまともに受けているわけである。


(20040420-1) ノー・ビザは入管送り、しかし偽造パスポートは拘束する

トシで忘れっぽくなったのかどうか、ふと思い出したので書いておく。

去年の 10月末あたりから、警察はオーバー・ステイの外国人を捕まえても、拘留・取り調べ・起訴という手順を省略して、「ただちに入管送り」 にするようになった。どこなのか 管轄の役所から通達が出て、そうなった。
この種の違法滞在例は多く、かつ起訴して裁判をしても公費のムダ使いだとは前から言われていたことだし、一方では 「本人が入管に直接出頭すれば そのまま収容される」 のに対して、警察に捕まると拘留・裁判という長い期間を経験しなければならない、それ自体が不公平である、という話もあった。警察を経由すると起訴され拘置状態となり、1ヶ月+ほど後の 裁判は 開廷1時間後には判決、有罪で 多くは執行猶予が付いて釈放されるが、釈放と同時に 今度は入管の役人に連れられて行くことになった。去年の 10月最終週から、警察は 「オーバー・ステイだけなら」 この手順を省略するようになったのだ。
どちらの場合も 入管では強制送還になるが、自費で切符代の払える者は 送還の定期便を待たず 飛行機で帰ることができる。

その後、弁護士センターからの呼び出しがパタンと絶えた − ような気がした。今までも ほとんどの場合は 単なる オーバー・ステイの発覚で、これから拘留 10日 または 20日、起訴され 国選弁護人がついて、1ヶ月前後で裁判が開かれ、あなたは初犯だから執行猶予が付くだろう、判決が出たら入管に移送されるので ・・・ と、弁護士の説明を根気よく通訳してゆくだけのケースが多かった。だから、警察が もう 「オーバー・ステイだけなら入管送り」 にするなら、もう この呼び出しは ない。あるとしたら、他の刑法犯が伴っている場合だろう; 例えば軽い犯罪、泥棒の見張り役、といった場合から、あるいは本気の犯罪者の場合など。そうなると、今度 呼び出しが来るとき、伴っている 「余罪」 を想像したくなる。それを思うと、憂鬱にもなった。弁護士たちも、単なるノー・ビザでは もう呼び出しはないと 考えていたらしい。

それが、来た。
今年になってから。センターからの呼び出し。弁護士と電話連絡。その際、弁護士に届いている通知で 「罪名」 は何かと聞いてみた。入管法違反。おかしいな、ノー・ビザでは もう警察での拘留はないはずなのにと、電話のむこうの弁護士と二人で首をひねった。ともあれ、その夜 接見。
ようやくわかった。被疑者 (起訴以前、拘留期間中の人を 「被疑者」 と呼ぶ) は、中国朝鮮族自治区から一度 北京に出て、そこで団体ツアーに参加したが、ただしその団体というのは その種のビジネスで、他人の名前のパスポートを用意する; 北京から成田への渡航には ご丁寧に添乗員がついて、成田到着とともに そのパスポートを回収して行ったという; 「汝ら団体、それぞれ日本でうまくやれよ」。
その後、また呼び出しがあった。同じ入管法だけ。今度は韓国人だが、やはり他人名のパスポート。
いずれの場合も、違法なのは滞在資格ではない。入国それ自体が違法なのだ。

他人名のパスポートというのは、日本の場合で言えば、「他人の戸籍謄本を使って、自分の写真を貼ったパスポート」 を作るケースで、パスポート自体は 完全に本物である。有名な例では 1979年、韓国の朴大統領狙撃事件の実行犯が、日本人のこのパスポートを使っている。その後、日本の旅券事務所は 写真の貼り替えを困難にしてみたり、写真入りの身分証明書を求めたりするようになり、今では 「写真」 は貼れない、つまりパスポート本体に刷り込んでしまうまでになった。が、それでも、他人の戸籍謄本と偽造の運転免許証 (あるいは学生証など) があれば、他人名による 「本物」 の日本のパスポートは作れるだろう。
韓国人で この 「偽造」 パスポートを持っている場合で、「先生、何か誤解なさっているようだが」 このパスポートは偽造ではない、本物である、ただ名前が他人になっているだけだと主張するケースに出会ったこともある。

日本とその周辺での貨幣価値 つまり交換レートが極端に異なる以上、短期ビザで入国、そのまま仕事を得て居座る 「オーバー・ステイ」 は 今後も減らないだろう。そのすぐ隣に、オーバー・ステイが発覚後に再び 「他人名」 パスポートで入国してくるケースもあるし、また最初から他人名パスポートで入国するケースもある。前者の場合、過去のオーバー・ステイでビザが出ないことを予測している。後者の場合は、そもそも母国でのパスポート事情が悪い、つまり めったなことではパスポートなど取れない環境にある場合である。

日本は、それで入国管理が厳しくなる傾向にある。日本人パスポートの作成でさえ、デジカメ写真を極力排除しようとしてくる。外国人の違法入国は、「水際」 で排除する方向になる。「他人名」 パスポートも、いずれ その 「他人名」 がデータベースに収集されて、入国窓口で排除されるだろう。日本違法入国案内ビジネスは、それで限りなく 「他人名」 の発掘を強いられ、それと日本の窓口データベースとの競争 (または いたちごっこ) になる。

アメリカの場合、地つづきのメキシコがあるので 「水際」 チェックではない。国境を物理的に鉄条網で封鎖し 銃を持った警備が回り、公式の入国ゲートでは厳戒態勢ということになる (が、それにしては、サン・ディエゴからティファナへの出国、そこから再度サン・ディエゴへの入国は簡単だったが)。

日本の場合もアメリカの場合も、違法入国、違法滞在を誘う理由は、その国境の中と外での貨幣価値の差にある。違法入国/滞在は、その差で本国の親族に経済的支援し、いずれ自分も帰国することを予定・予想している − たとえそれが強制送還であっても。

浜の真砂は尽きるとも、世に貨幣価値の差を求めての違法入国の種は尽きまじ。
しかし その国境の中にいる日本人、アメリカ人たちの多くが、なぜ 「貧困感」 に苦しむのだろうか。僕の知っているアメリカ人の生活は つつましい。僕の知っている日本人の生活もつつましい。その日本人、アメリカ人に ある種の優越感があるのは事実だが、その当人たちが少しも自分は裕福だと感じていないらしいことも事実なのだ。いや、僕自身 「日本」 を去って 韓国か香港で暮らすことを考えるなら、今のうちに耐乏生活、その残額を貯金して 韓国、中国、香港で老後を悠悠自適というわけに − 行くのかどうか。問題は子どもたちで、彼らに適度な教育を与えるためには、今は 高人件費つまり一見高収入、それに対応する高物価と高額支出に耐える、つまりある種の貧困感にさいなまれ続ける以外にないのか、とも考えてみる。


(20040419-1) 誕生日

ったくもう、トシをとると1年が速い。おととし 「50年めの人生の初年」 を歩きはじめたはずだが、その翌年つまり去年は 「四捨五入して 百才」、今年は、なんと 51だそうな。1才の誕生日とは 2年めの人生の初日である以上、わたくしは 52年めの人生を歩きはじめたわけか。
上の子、4年生が、ロール・ケーキと称するパンに ココアとイチゴを乗せて、「自作」 のケーキで父の誕生日を祝ってくれた。去年かおととし、彼女がまだ 「おとうさん、ちょっと おじいさんだけど、でもちょっと おにいさん」 と言ってくれたことを、まあ、なぐさめに感じておくか。

話は別だが、4月1日生まれの子は 日本の制度では 「上の学年」 に組み込まれる根拠をご存知だろうか。例えば、1995年4月1日生まれの子は、2001年4月に1年生になる。
ちょっと考えると、3月末に既に6才の子が1年生になる資格を持つので、4月1日生まれは翌年まで待たされそうな気がする; 事実、4月2日生まれであれば、翌年まで待たされる。ところが、4月1日だけが 「例外」 なのだ。なぜ 「例外」 になるのか、ご存知だろうか?

答え:
日本の法では、「誕生日の前日の 24時」 にその年令とみなされるから、だそうだ。「誕生日の午前0時」 ではない、「前日の 24時」 である。従って、物理的に同じ時刻であっても (厳密には 「極限まで 24時に近い前日」 と 「極限まで0時に近い今日」 は別だが、法に数学は考慮されない。24:00 = 00:00 である。ただし、それが どちらの日付に属するかが異なる)、定義によって 「4月1日生まれの者は 3月31日の 24時にトシが増える」。従って 1995.4.1 生まれの子どもは、2001年4月1日の前夜、「3月末に6才をむかえた」 ことになる。よってこの子は その4月に1年生になる。

つまり、わたくしは 4月18日の 24:00 に 51才になったのであって、4月19日の 00:00 に 51才になったのではない。どうでもよいが、ハリポタのハリーも (第1巻、映画第1作で) 24:00 を回ってから 地面に魔方陣のような絵を描いて、「おめでとう、ハリー、11才の誕生日」 とやっていたっけ。(それから ハグリッドが現われる)


(20040418-1) 「ハリポタ」 第4巻の結果

「ハリポタ」 の英文 第4巻 (ゴブレット) は、先月 読み終えた。巻内で残った謎の2つは、巻末 ほんの数ページで説明された − でたらめな記事でハリーら三人組をカク乱してきた新聞記者のリタ・スキーター、これは 「虫」 に化けて 「取材」 に来たところを ハーマイオニーが捕まえて、ガラス瓶に保管していた; これは ハーマイオンが リタと約束したそうで、巻末でロンドンに戻ったら解放してやることになっているそうだ。もう1つの未解決事項、ロンの双子の兄たちの Black mail は、巻頭のバカ騒ぎ、箒ハンドボールのワールド・カップでの ギャンブルに関係していて、ハリーの仇敵と一時は通じたが改心したらしい男から、賭けの配当金を 「翌日には消えてしまう」 エセ金貨で受取ったこと、その 「真の回収」 を求めての行動だったという。(たしかに このエセ金貨では、ロンが ハリーに返したはずのそれが 翌日には 消えてしまう?のだったか、ハグリッドの授業でその 「エセ金貨」 が説明されるなど、そのための (小さな) 伏線が事前に張ってある)
この2件とも、おそらく 後の巻への伏線をなしているはずだ。限りなくゴシップを書きつづける記者と、「仇敵と一時は通じたが改心したらしい男」 は、この巻だけでは完結した役割を果たしていない。

「ハリポタ」は、問題は次の巻の出る時期である。英文は既に出ているが、日本語版の発売は9月、既に日本の書店で 「予約」 受け付けがはじまった。一方、アメリカ版は − 最近 気がついたばかりだが − 英文原作に対して 「米文」 リライト (つまり翻訳) が公式に行なわれているらしく、この 「再話者」 名が表面に出るようになった。この 「米文」 は、ハード・カバー、ペーパー・バックともに既に出ている。が、英文 つまり原作は ハード・カバーだけで、ペーパー・バックは (たしか) 6月に発売だそうな。「米文」 であれば僕には多少 読みやすいと思われるが、それでは 「あくまで原文を参照する」 文学研究者たちのやりかたとは異なってしまうし、4冊までは 原作ペーパー・バックでそろえたので、途中で体裁、出版社、原文の本と米訳の本が混在するのも具合が悪い。イギリス版ペーパー・バックも 「予約」 できるそうだが、そこまでする気も、ない。

なお、この第4巻の末尾では、ロンドンに着いて 9 3/4 番線から それぞれ自宅に帰るとき、ハーマイオンの今までになかった行動、つまり 「初めて」 ハリーの頬に チューする (ええと、kiss、接吻する) 場面がある。
関連するのは、映画では省略された第1作の、チェスの次の部屋、7本の小瓶のキャロル的 (アリス的) 論理問題を解いて ハリーは前進、ハーマイオンは後退、その別れ際の場面で、ハーマイオンはハリーに抱きついている。第4巻の中でも、スフィンクスの謎の場面で作者はこれを読者に想起させている。つまり、きわめて遅い速度で、作者はハリーとハーマイオンの関係に微妙な方向を与えている。(ただし、ハリーには 別のあこがれの少女がいる。ハーマイオンを強く求める外国少年もいる。それらをめぐる関係も、第4巻の 「陽動・活劇」 部分で扱われている。つまり、作者による意図的な 「はぐらかし」 が はじまっている)

ところで、一方では 「ハリポタの ヒロインと主人公は ハーマイオニーとロン」 説がある (これは、上の過去目次のどこかにあるので参照されたい。在日 英国人研究者が、直感的にそう言っている)。去年だったか、TV のハリポタ特集でも それが意識されていたようで、ロン役の俳優に、そうなるのではないか、それなら君はどう思うか、というインタビューが出ていた。
どうなるのでしょうね。


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