Ken Mizunoのタバコのけむり?

Hangeul-Lab Ayase, Tokyo
Ken Mizuno

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(20030729) 日記 − 僕が Nifty を解約した理由

昔々の 「パソコン通信」、当時の商標?で NIFTY SERV。
これの最終的な解約を、昨日 した。
今まで、「パソ通」は既に意味を失っていたので、「インターネット経由でのみアクセス可能」な契約形態、つまり 「月¥250」+消費税で、「もしパソ通本体にアクセスするならその時間数で課金」、ただしメールだけは現在のプロバイダに転送してもらうよう、設定していた。というのは、「パソ通」に もう用はなくても、昔 公開したフリー・ソフトの連絡先が今も Niftyのアドレスになっているので、仮に問合せがあれば それを受け取りたいと考えていたからだ。
が、少なくとも過去8年、その問合せはなかった。代りに増えたのは、宣伝メールの類。これも つまらない宣伝ばかりなら それでいいので放置してきたが − 最近 数週間だろうか、1ヶ月くらいだろうか、やたらとエロ・メールが増えた。「爆発的」 とまでは言えないが、Niftyアドレスあてで、現在のプロバイダに転送されてくるメールの ほぼ 100%が、エロ・サイトへの 「勧誘」 または Viagra (ご存知、バイアグラ、中年以後の勃起補助薬)、あるいは 「あなたのペニス、30% 増大保証!」 なのだ。いい加減にしてもらいたくなった。この種のメールの8割までが Niftyあて。Niftyあてのメールの ほぼ 100%がそれ。Niftyさん、おたくのメール・アドレス のリスト、どこかで販売されてるんじゃないの?
補足: 「もし」 僕がその種のエロ・サイトを見た場合、そのサイト側では僕のメール・アドレスを取り出すことは、可能ではある: JavaScript。わたくしも男性なので、時には そういうところを見ることは ある。が、そういうときは JavaScriptを禁止してしまう。万一その操作を忘れて、自分のメール・アドレスを垂れ流すことがあるとしても、それで流れ出るのは現在のプロバイダのアドレスである。第3者集団である Niftyアドレスを検出する手段など ありえない。
(いや、ひそかに Windowsの .EXEファイルをダウンロードさせて、そのプログラムに僕のパソコンを検索させれば それは可能だが、そんなことをするプログラムが、メール・アドレスの取り出し程度を目的とするわけが、ない。僕が悪意でそれをやるなら、もっと 「やりがいのある」 「仕事」をやるだろう − 例えば、そうだな、そのパソコンに記録されているオーナーの名前、生年月日、クレジット・カードの番号その他を取り出し、それで買い物 しまくる一方、証拠隠滅にパソコンはクラッシュさせておけばよい。機械が動かなくなって 主がおろおろしている間に、買い物はすませる。以後、そのカード番号は廃棄する。この手口が発覚するまで 10人から 100人くらいの被害者が出る必要があるだろうから、数ヶ月は使えるだろう)
Niftyのメール・アドレスは 「アルファベット3文字+数字5桁」なので、あるいは、携帯の 「迷惑メール」と同様に自動生成して メクラ的に送りつけてくるのかもしれない。事実、メール・ヘッダに明らかにその痕跡が見えるものがある。それにしても、ここ数週間はひどい。

Nifty経由以外で届くエロ・メールは、これは また別の、ロボットで収集した (公開された Webページのどこかに書いてある) メール・アドレス一覧の販売があるのだと思われる。その証拠に、僕に届く (Niftyアドレス以外の) その種のメールの半数は han-lab@orcaland.gr.jp あてである − こんなアドレス、どんな技巧を弄しても、Webサイト側が ブラウザから取り出すことはできない。いや、orcaの上にユーザ名 han-lab でログインし、そこから自宅を X端末として 無防備なブラウザでエロ・サイトでも見れば 話は別かもしれないが。
というわけで、Niftyの契約を 最終的に切った。
切ったとたんに、「ついに」 Niftyさんも スパム・メールの排除機能を提供するというニュースが出た; が、それも、Nifty内部での (今で言う) Webメールの画面でのみ、なのだそうだ。スパムが 「正確に 100%」 かと思っていたら、月に1度の Vector フリー・ソフト 公開継続確認のメールが来た。そうだった。これの連絡先を変えておかなければ。契約 「解除」 の発効は 8月4日。それまでに、まだ何か思い出すかもしれない。

さようなら、Niftyさん。「パソ通」には 1989年以来の思い出があるが、それは 現在の Niftyさんとは関係がない。これで、Niftyさんとは縁を切ることになります。


(20030725) 我が家の TV録画、その後の現状

おカネがないので DVD-R/+R など買っているわけにもいかず、1時間1枚の CD-Rに毎週 子どものために 掃き出し作業をしている時間もない; 調べてみると、今年の2月以来、CD-Rへの掃き出しをサボってきた。残り3時間くらいでディスク (パーティション)がパンクするだろうと書いたら、底なしの録画のために、120Gの外付け HDDを貸してやろうかと、友人が言ってくれた。が、彼には世話になりっぱなしで、さすがに気が引ける。

「残り3時間」を承知で、今日 (昨日) TVで 『魔女の宅急便』 をやっていたので、録画した。残1時間。こうなってみると、明日の土曜の朝、子どもの録画に支障が出るか、あるいは Windows自身が死ぬことになるか、きわどいことになる。買いためてある空の CD-Rは 40枚ほどある − CD-Rが 「先端」ではなくなり、しかも 僕のドライブ 「24倍速」 より早い 「48倍速」対応 CD-Rばかりになってきたので、メディアは安くなるどころか、かえって発見困難、値段も高くなりつつあった。だから、1枚 50円台で買える間に買いためていたのだ。それを 10枚、つまり 10時間分ほどの録画を、「映画」ばかり選んで掃き出した。HDDの残、10時間になる。
2月以来の録画が、数えてみると、「映画」だけで まだ4本ほど残っている。これらを CD-Rに掃き出すと、8時間。その中には ジブリの 『紅の豚』 もある。これらをすませると、子どものための残、総 18時間。週末に5時間としても3週間強、週末に2時間半ですませてくれれば、夏休みが終わるまで もつ。

DVD-R あるいは +R のドライブを買えば問題は解決するかというと、一度に 「掃き出す」 量が増えるので、その意味では楽になる。
が、「録画」 そのものには別の問題があって、マニアはご存知の通り、TV映像を software encoding するか、それとも 「TVボード」 それ自身が hardware encoding してくれるか。原理的には同じなのだが、「動いている TV画像を」 ボード自身がパソコン動画に組み直してくれるか、それともパソコン CPUがソフトウェアでしこしこ作業するかで、だいぶ差が出る。僕の場合、「安い」ボードを買ったので エンコードはソフトウェア、その OS環境は Windows XPで、この組合せがどうもよろしくない; 1時間が CD 1枚に相当する昔の Video-CDレベルの録画で、結果はいつも 「もこっ、もこっ」 という動きをする。このレベルでこれだけ 「もこもこ」するのでは、それ以上の品質は望めない。この説明をしていると専門的になりすぎるので省略するが、DVDを使って高品質の画像 (映像、録画)を残す目的であれば、TVボードそれ自体を取り替えなければならない。いま現在のアナログ TV放送の録画でそうなのだから、遠くない将来の高品質 TV画像になると ・・・ きりがないのでやめよう。


(20030724-1) 筆者がいないとアマチュア編集者は困ってしまう

大学教官という職業を 「うらやましい」と思う 唯一・最大の点は、2ヶ月という長い夏休みだ。最近では 小学校でも 夏休みの 「登校日」がなくなり、教師は ずいぶん楽なんだなあと思っていたら、今年 (子どもは小学校3年め)は 生徒有志(?)による 「草むしり」登校日があるそうだ。それでなくても、小学校は ある期間 プール監督はあるわ、宿題相談期間はあるわで、やはり小学校くらいの教師では 「長い」連続休暇にはならないらしい。中・高でも この期間は、教師は 「自宅研修」であって、公式に 「休暇」ではないはずだ。大学教師になって はじめて、教師は本当に 「自由な」 夏休みが得られる − はず。もっとも/だからこそ 勤勉な大学教師は それでも学校に詰めて、学生のいない 「自由な」 勉強に精出す人も、時々いる (自宅にいると遊んでしまうから、というケースもあるかもしれない。が、それならそれで、まさに 「勤勉」の証明になって、結構な話だ)

24年前の恩師は 現在はさらに自由で、一度 定年退職後の再就職だから、現在の職場では大学行政に権限がない代わりに義務もない; 従って夏休みは完全に自由の身になる (いや、「なられる」。この 「られ」 は敬語なので、念のため)。

そういうわけで、進行中の原稿には、筆者校正ができなくなった。氏 (師) は、長年の夢であったろう、まったく自由な留学の機会を探る目的を含めて、旧ソ連圏の、現在は独立国に飛んだ。8月中旬までは帰って来ない。現地の通信事情がアテにならないこともあるが、それ以前に旅程を見ると 3週間の間に 日本列島を縦断するほどの距離を、車で移動することになっている。こりゃ、あかん。もっとも、通信インフラは先進国であるはずの韓国でさえ、僕の場合 行けば日本との通信を断つのが普通だったから、その我が師においておや という面はある。

しばらくは、師の 朝鮮語入門書の、そのまた講師のためのマニュアルの原稿を、一人で進めることになる。本は、初版が 1981年である。この本自体が、それまで数年の手書き原稿を出版したものだった。それと同時に、同僚たちに一貫した指示を与えるための、内部マニュアルが存在した。このマニュアルは その後 高電社の TechnoMateという DOS版ソフトで内部出版されていたが、ソフト自体が古くなって既に読めない; しかしファイルだけは 「テキスト」として残っていた。最近までそのマニュアルは現場の教師に与えられて来たが − もうソフトは動かないので、コピー機で何世代も紙の複製を続けてきたものだ。アマチュア編集者である僕の任務は、それを現代の Web上に復元することで、ある。幸い、TechnoMateの KOAハングル・コード、これは数年前にローマ字化のツールを作ってあった。今この瞬間に必要なのは、そのローマ字化したハングルを再び 「画像」化して、Webに乗せることである。

「入門書」の導入部分は、ほとんどすべて 「ハングルという文字の読み方」である。その教師用マニュアルなので、議論の 「ほとんどすべて」が 音声学とその周辺に捧げられるのは、自然な なりゆきではある。そこが、なつかしい。僕もまた、この教科書ではない、別の学校の別の恩師たちの手書きテキストの青焼きだったが、同じような過程を経て それを習ったのだった。20年の間の変化を反映して 「この」 師の注釈は あちこちに追記されるが、その 「20年」の間の変化が たったそれだけであることに 驚く。

人文科学の中で、言語学、そのまた音声学 (と音韻論) は 「自然科学にもっとも近い」部分だと言われてきた。が、自然科学が次々と原理を変化移動させてゆくのに対して (例えば、昔は 原子は陽子と中性子と電子だけで構成されていたはずなのに、いつの間にか原子は反陽子だのニュー・トリノだの、わけのわからんものに分離されてきた)、言語学は 相手が相手で、10年や 20年で大きく変化するものではない。その意味で、1980年代の教科書は、今でも生きている。「古く」なったのは、ほとんど例文だけである。「言語」 の中でも 個々の 「単語」だけは、くるくると変化する。早い話、流行語など半年の命もなく生まれ、消えてゆく。この教科書の最初の例文 「これは牛だ」 が 今では時代錯誤だという話もあるが、そんなものは、原子の構成要素がクォークとニュー・トリノに分離されてしまったことに比べれば、何の変化もないに等しい。

なつかしい、音声学。
ただし、音声学で使われる IPA つまり音声記号の類だけは、現在の MS-IE、現代の Windowsフォント、Unicodeとの関係 ・・・ あたりで、悩まされている。せいぜい数十ページのこの 「マニュアル」に時間がかかっているのも、多くはその画像化作業のためである − まさか、朝鮮語初級の講師たち (つまり その記事の読者たち)に、国際音声学会の公式フォントをダウンロードしてこい、さもなければこの記事は読めないぞと、脅迫めいた注記をするわけにはいかないではないか ・・・


(20030721-1 +追記) アニメ 『銀河鉄道999』

映画館で見たことは記憶している。1979 または 1980年の初期に東京で。それから 23年または 24年。以後、たくさんの続編が出たので、どこまでも どこまでも不思議な星の旅を続ける テツローとメーテル、という図式しか覚えていなかった。

レンタル・ビデオ屋で、初編の映画 DVDを借りてみた。さすがに 24年前の作品では、ナレーションが古い; 使い古された 「旅に出る」 汽車のイメージの言葉たちとその口調、メーテルの残すセルフ 「私はあなたの青春の幻影」なんて文句は、今となっては吹き出しそうなせりふでありながら、そうか、そうだったな − 流行作というのは、その時代の 「感情の性感帯」 を刺激することによってこそ、「流行作」 になれるのだ。この作品は、70年安保から 10年、古い世代からは 軍国主義と 「男幻想」 の復活を指摘されつつ、「男おいどん」と 「大四畳半」、それに、作者のとんでもない 「SF」志向と、既に本当に過去の遺物になった蒸気機関車で宇宙を旅するというアナクロニズム、さらに ある種のマザコン傾向と 「青春の幻影」というキーワードを結びつけたもの、のように見える。

当時と今では、作品を見る僕の 「目」が変化している。過去半年 「ハリポタ」 の長い・深い入れ子の伏線構造を追ってみた経験からすれば、「999」の伏線構造は 「きわめて単純」に近い。作品当初に示され最後にようやく解決される 長いスパンの 「伏線 − 解決」の構造は、次の2つだけ、ただし この2つは本質的に同じもので、すべては 「メーテル」の正体にかかわっている:
・作品当初、浴室のメーテルに謎の指示の声があるのを、テツローは聞いた。この声は、作品末尾の 「機械の体をタダでくれるアンドロメダ」、その惑星 「メーテル」 の分身であるメーテル自身の、父親の 「魂」を持つペンダントの声である。このペンダント=メーテルの父親が、「暖かい人間の血の通った」世界を裏切る その妻、つまりメーテルの母親であり惑星メーテルの女王であるプロメシウムと対決する。が、娘メーテルは 自分自身とその分身である惑星の間での自己分裂に耐えられず、ためらう。襲いかかる女王=母親からペンダントを奪い、「投げる=惑星を破壊する」 のはテツローである。惑星は崩壊する。

・999号の第2の停車駅は、氷の国、冥王星。そこに着いたとき、メーテルは 「行くところがあるから」と テツローを一人で放置する。放置されたテツローは、機械に体を置き換えた人々の、「元の体」を保存する 「氷の墓場」に出会う; テツローはその管理人シャドウに愛され凍結の危機に出会うのだが、そこに現われるのは 「行くところ」があったはずのメーテルである。「メーテルはなぜあそこにいたんだろう」と、テツロー自身に、作者は言わせている。
映画の末尾近く、テツローがペンダントを投げ 惑星は崩壊して行くが、テツローとメーテルは全力でそこから脱出し、再び999号に乗って地球に帰る; が、崩壊してゆく惑星から脱出する、その全力で駆ける間に、メーテルはテツローに事情を説明する − 私は機械の体に取り替えるのではなく、生きた人間の体に取り替えてきた; その体が古くなれば 次々と新しい体に取り替えてきた; 私は時間を永遠に生きる神; 最後のこの体は、あなたのあかあさんの若いころの体 − ここで初めて 「なぜメーテルがお母さんに生き写しなのか」 が説明された。崩壊する惑星から全力で疾走し脱出する途中で行なわれるこの告白だけが、見事にまとまっている。

映画の本当の末尾では、メーテルは最初の体に戻るため、つまり冥王星に戻るために再び999号に乗る。ただし、その体に戻ったとき 「あなたは私に気がつかないでしょうね」という言葉と、今となっては陳腐でしかない 「私はあなたの心の中にいる 青春の幻影」 というせりふを残して。

矛盾は、ある。機械伯爵の 「居間」に、テツローの母親は剥製となって飾られていた。剥製だから表皮だけあれば 中身はいらないのだろうが、その母親の 「体」をメーテルが使っている点には、多少だが疑問が残る。もちろん、機械伯爵はメーテルの母親一派の 「英雄」ではあるのだが。

この作品は、『鉄腕アトム』 に とてもよく似ている − つまり、作者の世界を乱雑に並べて、後半になると 作者自身がいやになるような 限りないくりかえしが続く ・・・ 事実、「999」には続編があり、その続編で メーテルは 最初の体に戻らず 母の生き写しの姿のまま テツローと旅を続ける。1980年前後の 噴飯もののナレーションとともに、「母の体」をもつ あこがれの女性という図式に 深刻な mother complex を読み取ることは、はたして 「病的」なことなのだろうか。

余談だが、「作者の乱雑な世界」とは、映画初編では 土星の惑星タイタンで出会うトチローの母親、彼女からもらう銃と帽子、その本来の主であるトチローを慕う女宇宙海賊エメラルダス、次の停車駅では 例の 「トリさん」を連れたトチローを宇宙の 「魂」として送り出し、タイタンで出会った山賊の加勢で機械伯爵を倒し、テツローはアンドロメダ機械化母星の破壊を決意するのだが、それらに一貫して加勢するのがエメラルダスとキャプテン・ハーロックだったりする − この複雑な、あるいは乱雑な関係が、どこか 『鉄腕アトム』 の後期に似ているような気がするのだ。そうやってこの作者は、以後 「キャプテン・ハーロック」 を含む、似て非なる 「SF」 を続けてきたのではないか。実際、「キャプテン・ハーロック」や 『宇宙戦艦ヤマト』 の続編に出る宇宙空母では、そこから発進する 「航空機」が、滑走路の端で一瞬 「沈み」、しかる後に揚力を確保して飛び上がる; 無重力空間でなんで 「沈み」 「浮き上がる」のか、この 30年 ずっと 「あほかいな」 と思ってきたのは、事実だ。
追記すなわち余談: まさに余談だが、テツロー TeTuRo と トチロー ToTiRo は、単なる母音交替である。そういえばジブリのシリーズでも やさしい怪獣 トトロ ToToRo と おそろしい悪霊 タタラ TaTaRa は単に母音交替で、この4つとも子音の並びが T-T-R の3音節であることに驚いた。考えてみれば、「ナウシカ」 の時代は 「大四畳半」 の時代でもある; つまり二人の作者は ほぼ同世代であり、言語感覚の上でも似た面を持っているかもしれない。もっとも、どちらも同じころに見た僕自身も 「同世代」に近い。

さらに余談の追記: つい先日のイラクでの戦争の TV、アメリカの空母から発進する航空機の映像では、現代のジェット機は空母から離脱した瞬間に 「沈まない」 ように見えた。つまり、現代の艦上機は after-burner を持っていて、母艦を離脱する瞬間には翼の揚力より after-burner の推進力それ自体で上昇して行くらしい。松本映画の、宇宙空母から離脱するとき 「沈む」 「航空機」のイメージは、おそらく 1945年、あるいは 1953年 (朝鮮戦争) あたりまでの戦争映画の もの、だろう。このあたりに、作者または作者集団の時代錯誤が見える。(そもそも、無重力空間で平面甲板をもつ 「空母」から、航空機が発進するには 「助走」を必要とする点が、松本 「SF」 の最大の 「噴飯点」 である)

(20030719-1) こういう HTML語が書けるのでした

実は、気付かないまま使っていたものがある:
<font style="line-height:150%">
つまり、長い文面をすきまなく並べると、Web上ではものすごく読みにくいことがある。だから、どこかでこう書いてある実例を見つけてから、ずっと そのマネをさせていただいている; これを書いておくと、比較的 古いブラウザでも、行間が 1/2行分 開いて、多少 読みやすくなる。もちろん "style" という単語が入っているので、いわゆる style sheet の一種であることも、気がついてはいた。この機能は、Netscape 4.x では 内部的に JavaScriptで実現されているらしく、JavaScriptを禁止すると 行間もつまってしまう。

ところで、次のようなケースに困っていた:
 .  
「画像」の中に埋め込んだ 「下線」と、「文字」の下に引いた 「下線」が、悲惨なずれ方をする。この見苦しさは、救えない。多少の技巧をこらせば もう少しだけ下線のずれは小さくなるのだが、それでも1ドット単位でずれる。仕方がないので 「空白に下線だけ」 の画像を作ってみたりしたのだが、それだと、「下線」の上に現われる文字の数だけ 画像を作らなければならなくなる (上の例では スペースと ピリオドだけだが、しかし 「下線」 の引かれる 「文字」が それだけとは限らない)。正直 困った。

本屋さんに行ったついでに、css という文字のある本を探してみた。たまたま それらしきものがあったので買ってみた。結論は、こうなる:
N(名詞・母音語幹)+
ただし、ソース・コードの上では、これは決して美しくない:
<b style="border-style:solid; border-width: 0px 0px 1px 0px">N(名詞・母音語幹)+ .</b>
要するに <b> - </b> という修飾タグに さらに修飾詞 (形容詞自身を形容したり、動詞をさらに形容するものを 副詞といいますね: 例 「美しく白い」 の 「美しく」。「恥も外聞もなく駆け回る」 の 「恥も外聞もなく」 は 「駆け回る」 を形容する副詞句ですな) として style="border- ..." というのがあり、これは四辺の枠線を指定する; その四辺のうち 下辺だけを太さ1で、他は太さ0で描け、ということである。困ったことは、この使い方だと、問題の部分に 「何かしら」 修飾タグを付けないと 下線も引けないことになる。さらに具合が悪いのは、この修飾付き修飾をすると、MS-IE ではいいのだが、Netscape 4.x では 勝手に改行されてしまう。結果として、この機能は 「必ず改行後の、1行全体」 にしか使えない。やれやれ。

似たような機能なら、MS-IE であれば <table> - </table> の修飾詞で、表の枠線を同じように選択できる; 結果として 上と同じことができるのだが、残念ながら これは Netscapeでは まったく機能しない。

ハングルをあくまで 「画像」で表現しようとするから、こんな面倒なことになる。しかも、IEは常に最新版が出てくるのに、Netscapeは 4.x を前提にする; 僕自身の環境がそうであることが 理由としては大きいが、しかし − IE 4 以後 の 例えば &#12345 みたいな、へんな 「Unicode」 表現を使ったとたんに、今この瞬間、「日本語以外の表示には何の準備もしていない」 読者には 読めなくなる。まして、ハングルだけではない、キリル字も ギリシャ字も 東欧変形キリル字も IPA音声記号も出て来る そういう原稿を扱う場合、「ほぼすべてのブラウザ環境で同じ表示が出る」 ためには、英語・日本語以外のほとんどは画像化せざるを得ないと − アマチュア編集者である僕は、今はそう考えている。その 「画像」 と 日本語 「文字」 の混在にまとめて 「下線」 を引くのがこんなに面倒なのだ。ま、今は、しかたがないとあきらめる。


(20030716-1) 人工言語 'C'、自然言語 '朝鮮語'

僕がこの 「日記」 の読者に想定しているのは、キー・ワードとしては 朝鮮語・朝鮮文学・文学・言語 といったものに興味のある人で、そこに コンピュータと そのプログラムないしプログラミング言語、コンピュータそのもののアーキテクチャ、OSとアプリケーションの階層関係といったことを理解している人であれば なお いい、といった、そのあたりにある。もちろん、そのすべてを共有してくれる読者は まずいないのだが、ただ、僕としては次のような議論を理解してくれ、しかも 朝鮮文学も言語論もハリポタ論も理解してくれれば最善なのだけれど:
あるコンパイラは、次の表現に文句を言ってこない。が、そのオブジェクトは期待される行動をしてくれなかった:
	if( a || !b ) 
このコンパイラでは、次のように書き直さなければならなかった。C言語の仕様の限りでは 上の表現は正しいので、これはバグである:
	if( a || ( !b )) 
また別のコンパイラ − これは明記してよいだろう、gcc − は、次の表現に文句を言ってくる; 文句を言うだけで 動作に異常はないが、かなり神経質なコンパイラではある:
	if( a = b ) 
これは、次のように書き直すと、文句を言ってこなくなる:
	if(( a = b )) 
つまり、「if (条件式)」 の条件式が a = b の場合、代入とその代入値自身が同一視されるのが C言語の仕様なのだが、しかし これは過去の言語、例えば Basicでは 「代入」ではない 「比較」である; つまり 昔の言語なら if ( a = b ) は 「もし a と b が等しければ」 と読むが、C言語では 「 a = b の代入をせよ; 次にその代入された値が 0なら偽、それ以外なら真; もし真なら」 と読む。この紛らわしさに、gcc は神経質なのだ。だから if ( ( a = b ) ) と書くと、内側の ( a = b ) で 「代入」が完結して値が決まり、その結果を if ( (真または偽) ) に与えることになるので、gcc は それで満足するわけである ・・・ 「コンパイラのご機嫌取りをする必要はない」 とはよく言われることだが、そう言われはじめた 20+年前からの長い経験から、gcc は そこで警告を出してくるわけで、ある。
ここまでが、「コンピュータ言語」の場合だ。

ところで、自然言語である朝鮮語では、常に 「先端」を行くはずの MS-IE、MicroSoftさんでも、表示する手段のないものがある。MS-IEでなくても 単独の母音 「アレア 」 は出るが、その母音 を含むハングルの完成字体は、悲しいことに、いま現在 どんなブラウザを使っても表示できない (いや、ブラウザ以前に、そういう文字系、フォント系がない)。例えば、こういうやつ:
ご参考までに、上記の 「画像」は、CGIを通過する前の HTMLでは、おおよそ次のような 「ローマ字」表記になっている。これを僕は CGIで 「画像」名に変換したうえで、上の画像表示をさせている。興味のある方は、ブラウザの上で 「この」 ページの 「ソース」を ながめて見られたい; 「画像」化の様子がよくわかると思う。ただし − この 「タバコ」 の本当のソース・ファイルは、Webからは見れないようになっているので了承されたい。これはいずれ、何らかの形で公開したい:
    //k@ n@ t@ r@ m@ p@ s@ @ j@ ch@ kh@ th@ ph@ h@//

(20030707-1) ハリポタ 第4巻の 矛盾?

第4巻は ウワサによれば 最初の構想から大幅に変ってしまった、というのだが、総 600ページ中の 200ページを越えたあたりで、変な − 意外な − 齟齬というのか、矛盾というのか、あるいは僕がどこかを読み飛ばしたか、読み誤ったか、これ以後に説明があるのか、ご存知の方は 教えてくださらないだろうか:

齟齬というのは、(第3巻の冒頭で悪役、末尾でハリーの父の親友であったことが明らかになり、しかし 無実の罪で再び逃亡の旅に出た 「アズカバンの囚人」 その当人である) ブラックと、ハリーとの手紙の往復、その往復に使われるフクロウである。

第4巻の冒頭少し先、ハリーは 悪夢を見て 例の傷の痛みを覚える; 不安になって、行方不明のブラックに手紙を書く; 行方不明の相手でも、相手をみずから探し出して届けてくれるのがこの世界のフクロウだが、返信は来ない。そのうちに 箒乗りハンドボールのワールド・カップ騒ぎ、新学期とそこでの次の話題でフクロウは忘れ去られたかと思うころ、ハーマイオンの屋敷しもべ妖精解放運動の途中で 白いフクロウは帰って来る。持って帰った返信に ハリーはあわて、不機嫌、そのあおりを食らってフクロウもご機嫌ななめ。翌朝、ハリーが書いた再度返信を運ぼうとはしない。ハリーはそこで、(これもやはり (第3巻 末尾で) ブラックからロンに与えられた) 現在は ロンのペットである幼いフクロウに手紙を託す。そして再び学校が忙しくなり、忘れたころ − あの白いフクロウが またブラックの返信を運んで来る。あれ?
おかしいな。手紙を運んできたフクロウに 返信を持たせて帰らせるのが、今まで出てきたこのシリーズでのやり方だった。ハリーは ロンのフクロウを借りて送信したんじゃなかったのか? 話はそこで はぐらからされる: ブラックからのその返信には、これからも状況を報告してくれ、ただし白いフクロウは (目立つから) あまり使うな とある。

もしこれが作者のミスであれば、とんでもないミスである。プロの作家のやることではなく、これではまるで、子どもの書いた お話だ (もっとも、この作家は 「プロ」というより、これが処女作シリーズだが)。僕は、誤ってどこかを読み飛ばしたのだろうか? 今まで、これほど緻密な構成をしてきたのに、こんな幼稚な齟齬があるのが 信じられない。訳本を読んだ職場の読書家にも聞いてみたが、そういえば − しかし なんだかそんな気もするが どんどん読んだので よく覚えていないという。あるいは、また ずっと先になって説明があって、この 「齟齬」 自体が伏線になっているのだろうか。

どなたか、ご存知?
大きな齟齬というより 「ほころび」があるのは、第3巻で、ロンの愛してきたペットのネズミが 実は親友ハリーの仇敵のスパイであったことが、ロンの心に少しも衝撃になっていない − いや、一応それは書いてはあるのだが、そのロンの心理描写もほとんどないし、この種の 「裏切り」 に出会ったときの人の心理、それも思春期でそれに出会うロンの心理に、作者は まったく繊細な配慮を欠いている; あるいはロンは、あくまでピエロ役であるなら それでもよいのかもしれないけれど、それにしては 彼は重要な存在でありすぎるのだが。


(20030705-1) DVD − この先をどうするか

DVDという記録メディアが 現実に稼動していることを知ったのは、おそらく2年ほど前のことだ。上の子が幼稚園の延長上で、かつて通っていたカトリックの幼稚園の母体である教会の日曜学校に、一応は登録し 「通う」ことになっていた。日曜日の午前、しばしば 「子どもミサ」 にはじまり、その後は 「シスター」 の講師で 子ども向けの 「イエズスさま」の行跡の講義があるのだが、これが つまらないらしい。かろうじて 子どもの興味をつないだのは、「今日はね、DVDで見たんだよ」 − ほーお。そうだった、カトリックというのは 布教に現地の慣習を取り入れ、または 「現地の慣習に寛容で」、言い換えると 「現地の土着の習慣と積極的に妥協しつつ」 布教をしてきたのだった。そのカトリック教会が、「現地」 である日本の 「先端流行技術」である DVDを使うのは、「現地」への適応の最たるものかもしれないなと思った。

その翌年、つまり彼女が2年生になった夏前、僕は 「ファンレス」をうたう パソコン Cylix 550MHzだったかに、一応 DVDドライブをつないで 「実験」をはじめていた。「ファンレス」つまり発熱が極端に少ないという触れ込みの この CPUは、また 極端に実パーフォマンスが悪いことでも有名で、公称 550MHzでも、実力で 200MHz程度の能力しかない。この実力では、実験的にも DVDの音声が音とびする; もちろん画像も飛ぶのだが、画像のほうは 「パソコン」の常で 多少 飛んでも気にならない。しかし、音が飛ぶ、つまり 映画の話者の声がぶつぶつ飛ぶのでは、実用には耐えがたい。 『風と共に去りぬ』も、「ハリポタ」も、それで はじまった。夏前に 「夏」 準備の冷却ファンの交換をすませていた (「ファンレス」をうたうが、実際には熱暴走した。だからファンを付けていた)にもかかわらず、去年の夏は ツマ子用パソコンを買い換えた。これが、去年の夏 「静音化」 と熱の関係でさんざん悩んだ Pent-IV 1.6GHz だったか である。既存の DVDドライブと相性が悪くて、ドライブを買い換えたことも、去年の夏 書いた。その余ったドライブを使う目的で、僕自身のパソコンまで買い換えに走り、結果として去年の収支は赤字になった。さらに秋には香港のばあちゃんが亡くなり、その旅費に耐えられず、結局 去年は親と恩師からの経済的支援でかろうじて生き延びた。

その時点までであれば、DVDは 「読む」ことにだけ関心があった。が、ちょうど1年前のパソコン買い替えと同時に 「書く」ことを視野に入れていたのは事実だ。しかし、1年前の市場では、DVDに 「書ける」 ドライブは5万円くらいした。1年後の今、これは3万円未満、安いのは2万円を切る線まで落ちている。DVD-R か DRV+R か、その市場の争いに仕事の上で参画することになる可能性は、先月 消えた。その市場争いに、個人としては興味がない。ただ、僕は、自分が作った DVDが、例えば教会で、例えば 地域の児童館 / 学童保育の現場の DVD再生機で再生できるかどうか、それには強い関心がある; つまり、互換性問題ではある。その意味では、DVD-R しか選択肢はない; が 同時に、市場の動きは DVD+R に移動しつつあり、街の 「先端」好き 商店の店先の DVD再生装置は、あるいはすべて DVD+R互換に買い換えられてゆくのかどうか、それは僕の予測できる範囲を越えている。

技術的な選択肢については、僕はそう考えている。が、一面、僕自身は 「実験的に」 DVD-/+R のドライブを買って比べる余裕なんかない。子どもの日々の (いや、ありがたいことに 実は週末、土日だけ)のパソコン TV録画は Video-CDレベルですませて、1時間 650MB、はじめのうちは 1時間分を1枚の CD-Rに書き出していたが、この数ヶ月は面倒になって放置してある。このままだと、40GBの彼女のパーティションは 数週間内にパンクする。これを解決するのは、安い DVD-Rドライブか、あるいは ハード・ディスク自体の取り替えか。実は ハード・ディスクの取り替えこそ 「底なしの録画」 容量を保証し、その方が当人にも便利なのだが、そのためには − 実は彼女のパーティションは 単にパーティションであるにすぎず、物理的には Windowsの起動ディスクの一部でしかないので − Windows自体の再インストールが必要になる。これは、たまらん。

どうしようか。