Ken Mizunoのタバコのけむり?

Hangeul-Lab Ayase, Tokyo
Ken Mizuno

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(20030428-1) 日記 − 「ハリポタ」 第2作の映画

「ハリポタ」 第2作の映画の DVD。
こういう経験は、実は初めてだ − 原作を先に知っていて、映画を後から見た。
ふーん!
第1作の映画でも、「原作を読んでいると映画は省略が多くてつまらないよ」と言われているのは 聞いて (どこかで読んで) いた。たしかに、第1作でも有名らしい、小説前半の大幅なカット; 例えば、小説では 「汽車」は 後半 1/3 になるまで乗れない、つまり原作では作者のおしゃべりが長いのが、映画では 早い時期に 「9 3/4 番線」の列車に乗って、それからが話のはじまりだ。

第2作は、説明するのはヤボなので、要するに まったく同じような はしょりかたをする。しかしそれが、不思議なことに少しも 「原作を裏切って」いると思えない。例えば、ハリーが空飛ぶ車で救出されてロンの家に行き、ダイアゴン横丁の書店でマルフォイ父子に会い、汽車に乗れず車で学校まで飛ぶ経過は、原作=小説では長い長い説明が続くのだが、映画はそれを見事にはしょって、ほとんど1日の間の事件にまとめてしまう。以下同じで、化け薬を煮る1ヶ月の過程も、蜘蛛の化け物を追いそこから再度 「車」に救出される過程も、原作の限りなく冗長なおしゃべりを見事に短縮してまとめている。その一方で 「原作」にはないハデな場面、例えば飛ぶ車からハリーが落ちかけたり、あるいは 「穢れた血」と呼ばれたハーマイオンをハグリッドが慰めるというより、その場面でこそ彼女が (映像の技巧を極めて) 美しく表現されたり、映画には映画の 「主張」があることが よくわかる。小説では キーとなる人物でありながら性格付けが希薄だったジニーも、映画では やや大人になって むしろ美少女が使われている。さらに強調される女子トイレの 「嘆きのマーテル (マートル?)」からハリーへの好意など、原作(小説)なんかより よっぽど 「うまい」と思った。日本語吹替えで一番 印象に残るのも、このマーテルのしゃべり方だ。

マーテル?
松本零次(かな? 漢字には自信がないが) 『銀河鉄道999』の主人公テツローだったかな、彼の旅に同行するのが、謎の女性 「メーテル」である。この名前、おフランス語の 「メートル」つまり 「先生」にあたると思われる。『最後の授業』に出てくる、最後のフランス語の授業の 「先生」だが、はて、その先生の名前は何だっけ。遡ればラテン語にもどるのだろうが、ところで 「ハリポタ」 第2作の映画 (の日本語吹替え)では、ラテン語風の呪文が妙に絶叫調になっていて、そこだけは (いや、何度も出てくるが)興ざめだった − ああして絶叫されると、「呪文」が 「呪文」でなくなってしまうような気がするのだが。
英語は まだ聞いていない。


(20030423-1) 「ハーマイオン」は正しくない! 「ハーマイオニー」が正しい

まず、素人ではない言語の大家からその指摘を受けた: これはギリシャ名 ヘルミオーネー、研究社の 『英和大辞典』の記述によれば 英語の発音も ハーマイオニ、この女性はメネラーオスとヘレネーの間の子でオレステースの妻 − なのだそうだ。

そこへ、まったくの偶然なのだが、未知の読者からメールをいただいた。アメリカのどこかだろうか、彼女の名前に関する Q&A の引用があり、このメールをくださった方 自身、映画を聞いても明らかに 「ハーマイオニー」と聞き取れるとおっしゃる:
http://www.theblanchards.com/hp/faqs.html
によれば、
Q: Why is Hermione pronounced 'her MY oh nee'?
A: Hermione is a Greek name (meaning: eloquence). Other similar Greek names include Chloe 'klo EE', Penelope 'pe nel OH pee', Zoe 'zo EE', and Persephone 'per SEF oh nee'. JK Rowling chose this unusual name because, 1, she likes interesting words and names and, 2, so there wouldn't be much chance that many girls out there would have the name and be constantly compared to the character.
「明らかに 「ハーマイオニー」と聞き取れる」 と言われて、あわてて DVDの英語を聞いてみた。キーとなる場面は3ヶ所、汽車の中で彼女が現われ自己紹介する場面、ハロウィーンで彼女はどこに行ったのだとハリーがいぶかる場面、その晩餐の間に 「トロールだ!」 騒ぎで寄宿舎に帰る間に、やはり ハリーが 「彼女はそれをまだ知らない (女子トイレにいるぞ)」と気が付き、トイレに行く (結果、トロール退治劇になる)場面。
ふーむ。その通りだ。Hermione の 最後の ne は、はっきりと [ni:] と発音されている。Her の部分は音として非常に弱く 聞き取りにくいが、最後の [ni:] は はっきり 長く発音されている。僕は、そこを聞き取っていなかった。

ただし、それは 「キーとなる」 重要な場面の話だ。僕の耳に、その場面は残っていなかった。僕の記憶に残ったのは、「ボケ役」である ロンの発話で、前後が流れて消えてしまう 「・・・マイオン」 という発話だった。「ボケ役」であるだけに、ロンの発話は 「無教養」を示唆するのかもしれない; あるいは、「高級・正式」な言い方に対して 「俗な」音を示しているような気もする。

いずれにしても、日本語への訳者(たち)は、「研究社の 『英和大辞典』」に一致する名前を彼女に与えた。訳文なので、「最初の1発」めの名前を、全巻終結するまで使わざるを得ない。同じ理由で韓国版は 「ヘルミオンヌ 」 であり続けるだろう。ロンの 「・・マイオン」という発話は、「正しくは ロバート、しかし俗に ボブ」、ロン自身の 「正しくは ロナルド、しかし俗に ロン」 に近いのかもしれない。もっとも、「ロバート」はさらに正しくは 「ロバートソン」だったりするかもしれない。

で、どうしよう。僕は、「無教養な」 ロンの発話 (それは原作でも映画でも、充分に強調されている)のほうが好きなのだが。第2作の映画の DVDが明日?には出るので、それをながめてみようか。

どうでもよいが、「ヘルミオンヌ 」 が、フランス語風を気取ったことは否定できない。ただし 「フランス語風」なら /h/ は発音されないはずなのに、韓国の 「おフランス」風は それでも /h/ を表記する、その傾向は、昔からある。


(20030422-1) 日記 − ハーマイオンか、ハーマイオニーか

「ハリポタ」の話。
大阪外大の女子学生で、しかし僕より数年若いだけの 「元 少女」がいる。その人を相手に、韓国版の映画 ハリポタ (「賢者の石」) では ハーマイオンが 「ヘルミオンヌ 」になっていることを挙げて、教官たちにその理由を聞いてこいと言ったのは先月だった。

メールが来た。
結論的に、どの教官も 明解な解答は出してくれなかったようだ。その中で、僕がそこの学生だったころも同じ学生だった (現在の)女性教官だけは、こう答えたという:
わあ〜 水野さん? お元気? いやあ、あの方はお元気でしょうねえ。あはは、そうなの、そう。
えっ、ハーマイオニー?ややこしいわよねえ。ほんと。うん、また考えとく。あはは、水野さん。
ったく、もう =3

ところで、では Hermione がなぜ日本版では 「ハーマイオニー」なのかと聞かれた。そんなの、知らんぞ。きっと訳者が、わざわざイギリスまで作者に会いに行ったとき、作者は 自分の子みたいな ハーマイオンへの親愛をこめて Hermiony と発話したのだろう。訳者は、きっと うれしかった。訳本では、「ボブ」と 「ロバート」、「ビル」と 「ウィリアム」、「アナスタシア」と 「アーニャ」みたいに、自在に入れ替えるわけにはいかない。「最初の1発め」の表記は巻末まで一貫させないと、読者は混乱に陥る。だから、最初に 「ハーマイオニー」と書いたら、彼女は全巻完結するまで 「ハーマイオニー」でなければならないし、最初の1発で なら、彼女は最後まで 「ヘルミオンヌ」でなければならない。「ボブ・サップ」が 「ロバート・サップ」と表現されたら、誰もわからなくなるだろう。

「ハリポタ」原文の第4巻、まだ持ち歩いているが、作者の心理安定?にともなって、小説としての構成に緊張感が失われているのだろうか、限りなく 「水増し」の印象をまぬがれず、「読む」意欲を失いつつある。

一方、第2作の映画の ビデオ/DVDの発売があさってになる。予約の景品には2種類があって、1つは (あの)飛ぶ車、1つは house-elf/「屋敷しもべ妖精」 の ドビーの人形。予約先によって、この景品が異なる。車は多数派で、ドビーが少数派らしい。仕事先の近所のコンビニではドビーだったので、そこで予約した。


(20030420-1) 日記 − 「誕生日」の翌日は 「NEC 98」 フロッピー

親バカという言葉はあるが、教師バカという言葉はないかもしれない。さらに 「教え子バカ」も、説明なしでは到底 理解できない単語にちがいない。

「恩師」の一人のホームページには、僕の作業で次々と記事があがりつつ・ある。どれも、そうなのだ、僕自身が書きたいような内容を、かつての 「師」 が書いている。あるものは紙の印刷物から スキャナ、OCRソフトを経て公開し、あるものは Korean Writerというソフトを使って書かれた Word文書を、Wordや Korean Writerに依存しない形態に書き直して 「公開」することになる。その作業が一段落して、次に控えていたのは、おいおい、Korean Writerどころではない、KOA TechnoMateとかいう − かつての NEC PC9801で動いた − 「98」の外字域を使ったハングル・ソフトによる文書だ。このファイルは、フロッピーで残っていた。古い 98自身では読めたというが、フロッピーを送ってもらっても、現代の Windows機では どうしても読めない。

困って、友人に助けを求めた; 彼のところには、仕事の都合で 現在も 「純然たる PC98」がある。1日かかって連絡を取り、日曜日の夜、彼のアパートを訪ねた。フロッピーは読めた。結論的には、「PC98のディスクには、現代の Windowsでぜったいに読めないものがある」ことになる:
機種 フロッピーの回転数容量セクタ長
PC98 360RPM 640KB512 (?)
PC98 360RPM 1.2MB1024 (?)
Windows300RPM 720KB512
Windows300RPM 1.44MB512
Windowsパソコンでいうフロッピーの 「3モード」とは、「回転数 300/360」、それに 「単密度/倍密度」の自動選択のことを言う (はずだ)。2種の選択だから都合4種類の動作が可能なはずだが、はて、おかしいな・とは思っていた。しかし、どうも、その一種はぜったいに読めないのか、フロッピー自身の媒体がおかしいのか、このディスクは読めない。思い出したのは、「ディスク・アクセスのスピード」を求めて NECが 「セクタ長」を大きくした時代があったことだ。常識的には、IBM 8" フロッピー初代は 128B、それから 「倍密」で 256B、さらに 512Bまでは IBM-PCで定着したが、NEC 98のそれは、1024だったのだっけ、2048になったのだっけ?

友人を久しぶりに訪ねた目的は、そのフロッピーを 「読み出す」こと、ただそれだけだった。用件は、早ければ5分以内に解決するとわかっていたから、「いっしょに行きたい」という8才の子を連れて行った。春のはじまり、今日は急に寒くなってきたのに軽装で出た彼女は、寒さに震えた。これはまずい、とり急ぎ駅前の女の子 (といっても大人の女の子)ショップで上着を買ったら、6000円ばかり取られた。これは親バカに属する。電車を降りて、霧雨の中を歩いてカゼひかせるわけにはいかないからタクシー。その僕らをむかえてくれた友人は 僕自身の 「教え子」であると主張する人で、それだからこそ僕の求めに無償で応じてくれる。つまり彼は 「弟子だと主張する」バカである。そして、彼を訪ねた僕自身、かつての師の記事を復元するための 「バカ」行動をしているわけだ。これを、「弟子バカ」とでも呼ぶか。

しかし、彼のところに現在も存在する 「純然たる PC98」は、いつも火が入っているのではない。彼は僕のために、1時間以上前から電気を入れて、「安定」するのを待っていたという。僕がその画面を見たときも、画面は ひどい揺れ方を示していた。それでも、ファイルは読める。世代的に、この機械は 1993年前後の製品だ。天下の NECの製品でも、正確に 10年後には、この状態になる。パソコンの寿命、家電の寿命。天下の 国産 NECの PC98 でも、10年後にはそうである。

TechnoMateは、ここらあたりが最後の機会か。Korean Writerの寿命も、やがて数年内にやってくる。今度のケースは 「読む」機械の寿命問題だったが、フロッピーという媒体 (磁性体)の寿命は、既に 1990年代のはじめから問題になっている。


(20030419-1) 日記 − おう、「誕生日」 / アルプスの少女ハイジの家族関係

あんまり書きたかないが、「50回め」の誕生日をむかえた。
ただし、誰でも理解される通り、「1才」の誕生日は 「2年め」の人生の初日である。赤ん坊は 生まれた瞬間、0才の誕生の瞬間に 「1年め」の人生を歩きはじめているのだ。従って、49才の誕生日をむかえた昨年の今日、僕は既に 「50年め」の人生を歩きはじめていた。今日が その翌年である。今日からは 「51年め」になる。

「大台にのった」 という表現がある。そりゃ、好かん。四捨五入すれば百才になっただけだ。ま、いいや。僕が百才になったとき、上の子は 58才、下の子は 51才になる。

お茶の水の本屋さんに、上の子をつれて買い物に出た。『ハイジ 』 その他 数冊を買った。TVアニメでは説明されていなかった (あるいは僕が見ていなかった)原作の訳文を見て、アルムじいさんは ハイジの父方の祖父であり、ハイジを じいさんの許に連れてくる女性は 「母親の妹」、つまり、じいさんの息子の嫁の妹なので、ハイジを放棄したいと考える合理的な理由が出てきた。家系の話なので面倒なのだが、おおよそ こうなる:
・じいさんは若いころ放蕩した。
・じいさんは若いころ失踪し、帰ってきた時には妻は既に死に、息子だけを連れてきた。
・じいさんの息子は、そこで結婚し、ハイジを作ったが、
・その息子と嫁は、ハイジの幼時に他界した。
・故に、ハイジは母の実家に引取られたが、その母方の祖母が他界したので、
・母親の妹に引取られた。
・で、その母親の妹にとってハイジは障碍物となるので、妹はハイジを、父方の祖父に預けに来た。
と、なる。なるほど。説明はつく。

驚いたのは、近代小説としての 「ハイジ」に、その導入説明部分から くるくると 「視点の移動」があることだ。いずれ説明するが、『風と共に去りぬ』 に見られる 数ヶ所の、ミスによる視点移動どころではない。「ハイジ」は そもそも、導入部からそれが移動する。TVアニメでそれを説明するのは、相当な手間がかかる。かくして、アニメでは、ハイジは じいさんの孫、ただし 母方の孫であるような印象を与えていた。ハイジを連れてきた女性が じいさんの娘にしては冷たいなあ という印象は、訳文であっても 「原作」を見ることで 理解 (修正)された − 彼女は、死んだ姉の、そのまた死んだ夫の、さらにその父親であるじいさんにハイジを預けに来たのだった。

どうであれ、しかし じいさんがハイジの直系の祖父であることにまちがいはない。その意味で、導入部の齟齬は重要ではない。あるいは、じいさんはハイジに、死んだ妻の面影を見ているのかもしれない。死んだ妻の息子の、娘である。


(20030414-1) 日記 − ハングル 「画像」表示の本格運用 (2)

前の記事 (つまり下記) では、「本格運用」と言いつつ 実は 「2350文字のハングル」を一気に表示する実験を事前にすませていた。過去半年の間、その実験を続けてきたのは、「ここ」の読者はご存知の通り。だから、実は 「1761個」の画像くらいは、問題ではなかった。問題は個々のブラウザの実力で、ブラウザがパソコンのメモリをどう使うか、どう使って目的とするページを表示するかが問題だった。「1761個」、あるいは 「2350個」のハングル画像では、その実力の差が如実に出て、MS-IEこそ迅速、Netscapeはたいへん不成績だったが、どちらも そこそこ動作した。

実は − 続きがある。
前の記事で示したページは既に公開されているが、その続きがある。前の記事では 「トレーニング」と称して、朝鮮語 「初級」の入口、発音指導だけだった。「実は」この後に、様々な動詞(形容詞)の変化を訓練するための 「ドリル」が用意されている。これは、大きい。ドラフトを作成して数えてみると、ハングルは 10909個 − 1万字というのは、400字の原稿用紙に換算して 25枚に相当する。25枚の原稿というのは、小説で言えば 「ごくごく短篇」にすぎない。が、それが 「1万字」と言われると、おう、大丈夫かな、いつまでも未完成の文房具であるパソコンで、1万個の画像が正常に出てくれるだろうか?
1万個の画像を含むページの表示は、結論的にこうなった:
OSメモリMS-IENetscape
Windows 9864MBGOODNG (1)
Windows 2000128MBGOODFAIR (2)
Windows XP256MBGOOD未実験
Windows XPGOOD

(1) 表示は出るが、しばしば消える。しばしば、ブラウザ自身が死ぬ。
(2) 表示は出るが、画像ダウンロード後の長い沈黙がある。ブラウザが死ぬことはない。印字も良好。
「画像」によるハングル表示は、そもそも Netscapeでは 日韓混在ができないからだった; しかしそれは、HTMLという名前の 「言語」本来の仕様であり、盗人的に 「混在」を可能にした MS-IEこそ、HTMLの 「規格違反」という性格を帯びていた。だから − 僕自身は あくまで愚直に、「世界中の読者のすべてが MS-IEで見ているわけではない」; たとえ1%であっても MS-IE以外のブラウザで 「そこ」を見る人がいる以上、この場合 基礎画面が日本語である以上 ハングルは画像で表示しようと考えた。
が、Netscapeの この 「だらしなさ」は、何だろう。基本的に何かを考え直さなければならないような気もしてきたが ・・・

当面、おそらく、1万字のハングルを含むページは 「画像」によるハングル表示になるだろう。しかし、それに具体的な苦情が出てきたとき、どうするか。
問題の 「1万字のハングル」の一部をお見せしたいが、今夜はその余裕がない。


(20030408-1) 日記 − ハングル 「画像」表示の本格運用

やや 「わたくしごと」で恐縮だが、次のところに 「恩師」の朝鮮語教科書の 「補助教材」を作成してある。これは、遅くても 48時間後には 「公開」されるので、ここで先行掲示してもかまわないだろう:
http://www.han-lab.gr.jp/~kanno/cgi-bin/hr.cgi?textsppl/training.html
この数ヶ月 「実験」してきた 「HTML原ファイルではローマ字、CGIを介して画像化」の例だが、今度はそれが かなりの規模になった。HTML原ファイルのサイズは 88KB、それを CGIで加工して その結果が 123KB。この差は、原HTMLでは単にローマ字である部分を、CGIで1つ1つ 「ハングルの画像呼び出し」に置き換えている、つまり長い長い HTMLの記述に置き換えているからだ。CGIを通過した後の画像呼び出しの数は 1761個で、そのすべてがハングルまたは IPA (いわゆる 「国際音標記号」)である。

正直なところ、不安はあった。
Windows 95 か 98 の時代、当時のブラウザでは、1枚の HTMLページの中に画像の数があまりに多いと、インターネットとの接続そのものが動かなくなる場合があった。その点が不安だからこそ、僕は 「ここ」で数ヶ月の間 「実験」を続けてきたのだが、今度の場合は、是非もなく 「教材」だった。よい、チャンスになった。HTMLの上で、「画像が多すぎるとブラウザが落ちるんじゃないか」 という及び腰を捨てて、すべて原則通り、ハングルは HR つまりローマ字で、それを CGIに通して、個々のハングルを個別に画像で表示することにした。結果は、メモリ 128MB、CPU 1GHz、Windows 2000、ブラウザは MS-IE 5.50、Netscape 4.77 で、問題なく描画/表示できた。Windows XP とその付属のブラウザでも、一応問題がない。問題が出るとしたら Windows ME, 98, 95、それに Mac のいくつかの版だが − ま、それらはもう手元に 「ない」。

もっとも不安なのは、Windows 98 ないし 95 で、メモリ 32MB程度の場合だ。それらでは、上のページは完全に表示されないかもしれない。さて、どうだろう。問題の出る方から、一報をいただければ とても幸いである。

なお、上記のページは全体が 「テーブル」構造になっていて、その中に 1761個の 「画像」が分散、偏在している。意外に健闘するのが MS-IE 5 で、これがもっとも成績が良い。一方 Netscape 4.77 は案外だらしがなくて、動作はするが、画像のダウンロード後 「テーブル」の再描画に 10秒以上かかる。結果として、MS-IE 5 では 10秒前後で表示が完了するが、Netscape 4 では 20秒くらいかかる。

僕自身の通信環境は ADSL 1.5M。ただし、接続が より高速になっても、表示までの所要時間が大幅に短縮されるとは思えない; 1761個のハングルまたは IPA画像は孤立した画像たちなので、インターネット上ですべて個別のセッションを開く; この 「個々の」セッションは個々にすべてのルーターを経由して再接続するので、「データ通信速度」より、個々のセッションの接続に要する時間のほうが長いからだ。ご参考までに、ハングル1文字の画像の多くは 200バイト以内で、そのデータ転送時間・それ自体が問題になることは考えられない。


(20030402-1) うちの子は感受性が豊かで、よい

こういうのを 「親バカ」と言う。
だが、感受性豊かであることが良いか悪いかは、別問題である。それが良いのか悪いのか、正直なところ わからない。

香港で買ったアニメ DVD "Ice Age" は、前に書いたように、広東語と朝鮮語 (とその他いくつかの言語)が出る。昨夜は、1才半が例によって寝ないので、しょうがない、その続きを見せた。音声を広東語にしておいたので、母親が気がついて、関心を示す; 1才半は、そのうち退屈してマウスに手を出すわ、タバコやライターに手を出すわで、そのうち 騒ぎながら寝た。これに気がついて起き出してきたのが8才である。

彼女には、音声の広東語になじみはあるが、聞取り理解しているとは思えない。字幕は朝鮮語なので、なお わからない。が、アニメのアニメたるゆえんで、作品を最後まで見たのは彼女だった。マンモスとキツネ(?)とトラもどきが、人間の父親に赤ん坊を返す場面 − 8才は、1才半と比べると充分に 「大人」になっている。懸命に 涙が出そうになるのを抑えているではないか。「元気でなー!」と叫ぶ 「キツネ(?)」に、トラもどきが 「人間に俺らの言葉はわからんのだぜ」と、字幕を僕が通訳してみる; 8才は 「うるさいな!」ときた。この場合、せりふの 「意味」は必要がないのだ。アニメがアニメだけ、映像だけで話を展開している; 「言葉」は、実はどうでもよい。二流のマンガはせりふの 「吹き出し」に頼るが、この映画は 「言葉」に頼っていないらしい。広東語をしゃべるマンモス、キツネ、トラ、その朝鮮語字幕で、8才は 「言葉」を ほとんど理解していないにもかかわらず、このシーンを理解している。彼女は、TVや映画を見て涙が出るのを 「恥かしい」と感じはじめている年令だ。懸命に、涙を抑えようとしているように − 僕には見えた。

感受性が高いこと それ自体は、評価してよいと思う。ただ、僕自身がしばしば そうなのだが、映画を見て涙が出たくなるようなときは、生活それ自体に何かしら問題ないし障害があって、「感情の性感帯」が敏感、あるいは過敏になっているときだ。8才は、どうなのだろう。TVのドラマを母親と見て、二人で 「涙っぽく」なっていることが、時々ある。「感受性 豊か」であることが、条件なしで常に良いことなのかどうか、それはまだ、よくわからない。


(20030401-2) 後始末 (2): 「昔はいつも美しい」か

多少 昔になりつつあるが、そう書いた。昔ほど美しいものはない。時間が解決しない問題は存在しないのと同様に、昔は現在のどの時代より美しい。その証拠に、「いま時の若い者は ・・・」と、ロゼッタ・ストーンだったか(?)を解読してみたら書いてあったというではないか。

が、この言い方には TPO が存在するらしい。念のため、Time, Place & Occasion である。時と場合と状況によって、言ってはならないことがある。実は、ある瞬間 (正確に言うと、それを書いた瞬間)、ある方を傷つける おそれがあった。相手は子供ではなかったので幸いだったが、しかし、遠くない将来に弁明すると約束した。

ただし以下の弁明は、超有名な女優とその関係者を傷つけるかもしれない。しかし、それは有名税である。女優が営利目的で行なった仕事に どんな批評をされようと、文句は言えないはずだ。以下、Sharpの液晶 TVの CMと、それに出た吉永小百合ばあさんへの悪口雑言罵詈誹謗、かつ 「昔はいつも美しい」の一部修正である。

中森明菜おばさんがコンサートを開く; そこでは、必ずデビュー期=全盛期の歌が出てくる。この現象は何も明菜おばさんに限らない。聖子も宏美も裕美も、みんな同じことをやってきた。もちろん、小百合ばあさんも 40前後には同じことをやってきた。ただ ・・・

デビュー期の歌を、中年の手前で歌うことが悪いのではない。一面それは 「かつてはこんなに売れたのよ」、その思い出をこめて美しい。それは、かつてそれほど美しかった自分自身への愛情表現でもあって、それ自体が美しい。

だが、SHARPの あの CM − 20世紀に置いて行くもの、21世紀に持って行くもの − は、見苦しかった。ばあさん、風呂敷に CRT包んで、どこに捨てるの? 1960年代からのサユリストたちは、その CRT − カソード・レイ・チューブ つまりブラウン管 − を通して あなたにあこがれたのではなかったの? ばばくさい姿で風呂敷包みかかえた小百合ばあさんの姿は、彼女より8年も若い僕を 失望させた。週刊誌でのインタビューに答えて今でも毎日数百メートルをバタフライで泳ぐのだと言った若々しい (はずの) ばあさんが、なんてことだ。LCDなら5万円、CRTなら1万円で買えるから、1万円の CRTで未来を 「いま」 開きつつある青年のことを、知らないな。CRTを通して自分にあこがれた たくさんの青年たちのことを、ばあさん、もう忘れたのかい?

吉永小百合さんという 「大」女優について、僕は 彼女にどんな気分を維持すればよいのか、この 10年以上 迷ってきた。「北風吹きぬく、寒い朝も」 ではじまる青春路線、その延長上でいくつも映画が作られたが、その相方となった男優たちは ほとんど例外なく没落して行った。ただ彼女だけが生き残り、中年期に入ってからの 「鶴」(正確な題を忘れた: 鶴の恩返し、おつう)は、処女の鶴らしくない高飛車な女を演じてみせた。しかしその高飛車な鶴の態度が、実は演技ではない、本当の女優を反映しているのではないかと感じたのが、最初の疑念になった。おつうは、誰が演じても、自己犠牲の末に果てる悲しい姿になるはずではないか。しかし小百合おつうは、ただ高飛車で孤高で、ちっとも悲しくない。むしろ、監督あるいは女優への反感をさそうばかりの − 今になって思えば駄作だった。あの 「鶴」は、悲しくない。鶴の独善でしかなかったような気がする。生得的と思われるこの女優の鼻声と そのしゃべり方が なおさら、孤高であっても同情をさそわない。

「20世紀に置いてゆくもの」 は、その数年後だったろう。それを見たとき、僕の気持は決まった。小百合ばあさん、さようなら。あなたは、もう美しくない。あなたの昔も美しくない。「昔はいつも美しい」はずだが、あなたの昔は、こうなってみると、ただ 「可愛らしい少女時代」があっただけで、少しも美しくないのだ。40前後で、デビュー期の歌を歌う明菜・聖子・宏美・裕美を見てみろ。小百合ばあさんは既に自己完結して、希求するものがあると思えない。おばさんたちに、まだ・今でも求めつづけるものがある限り、それを求めて何かを試み続ける限り、彼女たちは美しい。でも小百合ばあさん、あなたには もう、それが見られない。残っているのは美空ひばり型の、「ふんぞり返り」型の存在ではないか。
その意味で、彼女の 「昔」は、もう、美しくない。
「昔」が、いつも美しいとは限らない。


(20030401-1) 後始末 (1): 「飽きた」、「飽いた」

「飽いた」 と 「飽きた」は、結局 (太平洋側では) 大井川あたりを境とする方言の差だと、そういう結論にせざるを得ない。ただしこの境界線は非常にラフで、現代の名古屋人がどう発話するかは、わからない。少なくとも 1874年の 「ちょうちょ」の作詞者は 「飽いた」を採用したが、ただし その作者が名古屋で日常語として 「飽いた」と言ったかどうかは、わからない。1960年前後の遠州つまり大井川の西、浜名湖の東で僕が日常的な発話として 「飽いた」を学習したのは事実だが、困ったことに この地方は 「方言のまだら状 分布」で有名な地方である。つまり、「言語のドーナッツ現象」の一部が見られたり、関西語の痕跡が残っているかと思えばアクセントは原則関東型だったりして、この地方は 扱いにとても注意を要する。

例えば、「箸、端、橋」。俗に、これは関東・関西で反転するという。が、関東型アクセント (金田一京助辞典)と遠州語アクセントは酷似するくせに異なり、これは どれを見ても 「関西型との反転」とは言いがたい:
関東遠州
しをしを
しをわたるしをわたる(1)
をわたる(3)しをわたる(2)
一休さんはどこの地方の話か知らないが、もしも関西からさらに西の、京から数百キロ離れた地方の話だとしたら、「このハシを渡るべからず」の触書きを見て平然と橋の中央を渡ったという話は、アクセント (1) と (2) が完全に同じで区別がない (文脈によってのみ意味が区別される)ことによって可能で、従って、一休さんと僕は同じ地方か、逆に言語のドーナッツの互いに反対側にあることになる (この話は、去年の今ごろにも書いた)。

で、ではなぜ僕が、大阪で大学生を6年もやりながら、大阪人自身の 「飽いた」という発話を聞いた記憶がないか。
いろいろ、考えた。結論は、次の何点かになる:
・学生は、現地人ではない。大学というのは国籍不明集団で、「標準語」の闊歩する世界である。現地人にとっても、学生は 「地元」人ではぜったいにない。つまりよそ者であり、よそ者にはよそ行きの言葉が使われる。
・学生のとき、現地人を相手に話をしなかったわけではない。が、僕の場合、その多くは、学生主催による 「朝鮮語講座」の受講者たちであり、僕はその 「講師」であった。講師がたとえ学生であっても、受講生は敬意を持って対してくれた。つまり 「講師」を相手に、卑近な 「方言」で話しかける受講者は、ほとんどいなかった。
・たとえ大阪現地人からその発話を聞いていたとしても、それは僕自身の言葉を大阪アクセントに写しただけのものだったから、まったく・ごく自然な発話として、卑近なものでありすぎたから聞き流していたのかもしれない:
大阪遠州
いた

・僕は、何よりも朝鮮語に興味を持って大阪に行ったのだった。言い換えると、大阪語、関西弁に興味があったわけではなかった。事実、6年後には東京に行った。その条件さえ揃えば、それは札幌でも仙台でもよかった ・・・ 今になってみると、「古」方言には母音が8つあったはずの東北に行ったほうが、朝鮮語の学習には有利だったかもしれないとは、思うが。
というわけで、「飽きた」 と 「飽いた」 については、終わりにします。
余談ですけれど、MicroSoft Windows 2000に付属する日本語入力装置の辞書には、「飽きる」、「飽く」とも収録されているようです。ただし、「飽くまで戦う」とか、「飽くことを知らぬ探究心」とか表記するのは、わたくしも いやでございます。