Ken Mizunoのタバコのけむり?

Hangeul-Lab Ayase, Tokyo
Ken Mizuno

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(20030227-1) 日記 − 「アレア」 の将来 / 明菜おばさん / 「昔はいつも美しい」

ワープロ 「アレア」の問題は、書いたとたんに (その)友人から反応があり、ごく近い将来に株主総会があるのだそうだ。この会社自身は、韓国内で優秀ソフトウェアの表彰を何度も受けているし、今後も続くことを期待する、あるいは Windows関連の大手に吸収されることはあるかもしれないが、いずれにしても商品は存続するだろう。ただ、「国外」 のユーザの立場から言えば、「韓国版 Windowsを前提に」 のみインストールできる、つまり外国版 Windowsではインストール自体が文字化けするのだけは、困る。困る。困る! 猛烈に抗議を続けたい。

一方、日本の国内では、僕の 「恩師」の、かつては手書き原稿だった記事を また 「OCRソフト」にかける機会ができて、なかなか面倒。作業中は他の仕事ができないので、隣の (ツマ子用) パソコンで TVを見ていた。

あらら? どう見ても 40前後の、顔は 「美人」に属すが、やせすぎ、がりがりの 「元少女」らしいのが歌っている。「みゆき」おばさんなのか、「明菜」おばさんなのか、正直わからない; が、みゆきおばさんにしては若すぎるし、曲も彼女のものではない。そのうち 全盛時代の 例えば 「スローモーション」 その他のメドレーが出て来て、明菜おばさんであることが判明した。ただし最後は、曲名は忘れたが、元 「明菜ちゃん」は 「みゆき」の曲で舞台を終了したようだった。ったく、もう、「かつては みんな 若く 美しかった」。残念なことに、「わ・た・し、少女A」 は出てこなかった。「元 明菜ちゃん」のオープニングから中盤への衣裳が、バスト つまり 「おっぱい」ばかり強調するものであることは、まあ、彼女の (彼女を対象とする)最近のそれの共通点なので、驚かない。みゆきおばさんでは、こうまで 「おっぱい」を強調できないだろう。ただし 最後の全盛期のメドレーでは、肌の露出より 「男っぽい」衣裳が連続した。

ただ、その間にスキャナと OCRソフトで作業していた恩師の文面は、亡くなった同僚 (または同志)への追悼文である。「かつて こんな時代があった」 という意味で、作業中の内容と その隣の TVの番組とは、一致した。なんだか、「昔はいつも美しい」。昔はいつも美しいが、しかし現在、現代に生きている / 生き残っている我々には、「昔」 のことより、いま現在が重要なのではある。


(20030226-1) ワープロ 「アレア」の将来

2週間ほど前だが、友人からメールをもらった。ワープロ (+ 今では Officeなみの大型パッケージ) 「アレア」の開発・販売元 社の、内紛。社長の解任が取締役会で決議され 新社長が就任したが、旧社長が社印を抱えて離さないのだそうだ。友人は 「アレア悲報」 と言う。それから2週間、どう推移したかは、僕も知らない。

「アレア」が崩壊して困るのは、まず 「国民」である。過去 20年、つまり 1980年ころからのあらゆる国内文書の、初期には 100%、最近でも 80%くらいは 「アレア」というワープロの文書だ。図書館に納められている文書、図書館サイトからダウンロードできる文書も、ほぼ 100%が 「アレア」 .HWP 文書だ。こうなると問題は 「国民」 だけではない。

さらに困るのは、韓国内では 「国語学」、古典の研究者たち。もちろん韓国の外でも、1930年くらいにまで遡る時代を扱うすべての研究者たちにとって、これは重大な問題になる。MS Wordでも今では かなり不思議な (擬古文みたいな)ハングルは読み書きできるが、本当の 「古ハングル」が完全に使えるのは 「アレア」だけだ。これが崩壊すると、過去 20年にわたる、少なくとも 「古ハングル」 に関連する研究が、消滅する。早い話、李光洙も金素月も、つまり 1910-1930 ころの、出版当時のハングルの姿がコンピュータ上に復元できなくなるのだ ・・・

MicroSoftが、「古ハングル」フォントとその入力装置を 「無料で」配布していることは、僕も知っている。が、使ったことがない。僕自身 MicroSoftの行動を信用していないからだろう。その 「信用」 あるいは 「信頼」を、僕を含む関係者から得るまでには、まだ数年かかると、僕は考えていた。何よりも、「アレア」による過去 20年の蓄積を、MicroSoftさんは吸収・統合する意志があるのかどうか。それよりも、今はまだ、誰もそんなことを知らない、知っていても信用しない、アテにしない、そういう段階だった。そういう微妙な時期に、「アレア」の内紛だ。

あるいは、数年前の 「アレア」の MicroSoftへの 「身売り」話、その後の感動的、「国民的」救済運動、その後の重大な分かれ道に 「アレア」は立ったのだろう。注視を要する。しかし不思議なことに、これは ほとんど誰も話題にしていない。それが不思議だ。


(20030225-1) 日記: Linuxはフリー・ソフトである

仕事で、Linuxのインストールからはじめなければならないハメになった。それも、客先から提供される機械 (つまり、自分で選べない機械) に乗せて、その上にアプリケーションを乗せるという課題だ。
数日前ちょろっと書きかけたが、とんでもない時代の機械が届いて − つまり、Windows 95が発売されたかどうかという時代の機械が届いて − 1週間を浪費した。結局、「すみませーん、この機械じゃあんまり古すぎます」と 取り替えを要求したら、今すぐには 「ない」ので、あんたのところの機械を貸してくれという: つまり、今度は仕事先 内部での機械探しになる。Windows 95が、既に乗っていた世代が出てきた。正確にいうと、「ペケ」だったのは Pentium 90MHz、次のは 同 133MHz。どっちにせよ、前世紀の遺物であることは同じだ。が、メモリもハードディスクも、一回り余裕ができている。Linux自体は、これで やっと動いた。

ライセンス問題。
社内でも、「雑誌の付録に付いているやつ」、または平然と 「あそこのコピーを使え」 と言われた ・・・ そうだった。Linuxは、タダなのだ。どのような使い方をしても、そこにアプリを乗せて販売しても、Linux自身はまったくの PDS つまり 「フリー・ソフト」なので、何の問題にもならない。コンパイラもそのライブラリも GCCなので、それ自体のお値段はゼロ、どこから勝手にコピーしても、どのようなライセンス違反にもならないし、ましてライセンス訴訟の対象になるおそれもない。「市販」の Linuxパッケージたちは けっこうなお値段がするが、それはわずかな配布実費の上に、「電話で相談できるサポート」がついている、その 「サポート」料金が乗っているだけで、ソフトウェア本体の値段は0円なのだった。そもそも、この種の 「サポート」ほどアテにならないものはない。たしかに、社内の 「あそこのコピー」最新版を使うのが、正しい。

「フリー・ソフト」には、一般に重大な欠陥がある − マニュアル類の欠落、または貧しさだ。だからこそ、Linuxのように ネットワーク社会の基幹の一部を構成するソフトであっても、マニュアル類の不備を補うのが、「技術者の経験と知識」ということになる。
それは、Unixには 昔 AT&T のライセンスを要求され、ユーザが 「法外」なほどのお金を払っていた時代と比べれば、明らかだ。Unix 一般に、平積みすれば2mを越える厚さの (紙の) マニュアルが付いてきた。誰も読まなかったが、付いていた。そのうち、それは別途料金になった (マニュアルそのものは、Unixというソフトの中にファイルで含まれているので)。
Linuxも、今もその 「オンライン・マニュアル」を持っている。それは 「タダ」である。が、最近の Linuxパッケージたちには、その上に様々な、一見 「便利な」 ツールが付いている。そのマニュアル類が、昔と同じように 必ず 「完全なオンライン・マニュアル」になっているとは限らない。事情は ますます 「技術者の経験と知識」と要求するようになってきた。そうなってくると、「ソフトウェアは経験とカンの問題ではなく、論理の問題である」 などとは、言っていられなくなる; 今この場で Linuxを動かす必要があるのに、使い方がわからない; わからないのは、ソース・コードを見ればわかるじゃないか; でも、そんなことやっていたら、1週間・2週間じゃすまないぜ、へたすると数年もかかる話になってくる; いま必要なのは − どう操作すりゃいいのだ、知ってるやつはいないか! なのだ。

幸い、Linuxフリークは 社内に ごろごろしている。青年を2人くらいつかまえて、「今、ヒマ?」 と聞くと、Linuxの扱いなら乗ってくれる。やっと、予定した最低限の設定ができたなあ ・・・ 「ソフトウェアは経験やカンではない、論理とその構築である」などという高級な議論は、どっかに飛んで行った。現実にそれを実用に持ち込むのは、技術者の 「経験」とカンなのだ。

「ソフトウェア」が、そういうことになるとは、予想はしたが期待はしなかった。朝鮮文学が専攻だった僕がソフト屋になったのは、それが 「経験とカン」ではない、「論理」だけでたちうちできる世界だったからだった − はずだった。ただ、僕自身、それから 21年。今では、Linuxこそ 「初心者」だが、また別の分野では 「もっとも経験豊かな」 技術者の一人では、ある。

僕自身は、「経験」を振り回すのは 「朝鮮文学」だけでたくさんだと考えている。しかし 「仕事」 つまりおカネがからんでくると、「経験」が 生活問題にもなることがある。悲しいのか うれしいのか、よくわからない。いずれにせよ、僕の朝鮮語歴は 30年、6年後に朝鮮文学で卒論を書いてから 24年、それとは関係のないソフト屋になってから 21年で、ある。


(20030223-1) 「ハリ・ポタ」は近代文学ではないか、あるいは 「近代文学」の定義を変更するか

それは − 当初からわかっていた (はずの) ことだった。怪力乱神を語るのは近代文学ではない。が、映画/映像にまずかあちゃんが食い入り、次に子どもが、最後に僕まで、映画 (第1作)は相当に面白いと認めるようになって、そこに 「生意気な」ハーマイオンが出てくるので、その生意気さにも引かれて、イギリス原文を読みはじめたのだった。

冒頭の説明部分、つまりハリーが養家の前に捨てられ、10年後のその養家の様子も戯画化されている点には閉口したが、これも 「訳文」との対照関係を追うことで、関心はそっちに行った。そのうち 「近代文学」らしい、ハグリッドの案内でハリーが次々と新しい世界を発見して行く喜びが表現されてきて、いま思えば "Never Ending Story" の少年 (映画の中の本の読者) が 「本」に引き込まれて行くように、僕も引き込まれていった。

その途中で、見逃してきたこと − わかっていたし、何度もここで説明したことだが、それでも 「見逃してきた」 といえること − は、この作者の語り口はあくまで 「お話」口調であることだった。例えば第2巻までの間に、ハーマイオンの 「ブルーベリー色の」炎は、3回出てくる。最初の登場は、スネープのマントに火をつける場面、第2の登場は、悪魔のツタにからまれる場面で、「スネープのときに使った、あのブルーベリー色の炎」とくる。作品の上では、「あのブルーベリー色の炎」を知っているのは読者だけであるにもかかわらず。第2巻に入ると、その 「水に強い」炎が、女子トイレでの化け薬の仕込みに使われる。この段階で彼女のそれは 「お家芸」にさえなっているのだが、しかし、その事情を知っているのは やはり読者だけだ。それが彼女の特技になっていることは、作品の外でハリーとロンに知らされていると、考えることはできる。が、その説明はない。近代小説が ある人物の 「事実上の1人称」で世界を展開すると (もし)仮定するなら、作者と読者の間で共有したことが、登場人物たちにも共有されると仮定することはできない − または、するべきではない。「お話」は、あくまで作者の、恣意的な (しかし計画的な)おしゃべりで続けられてゆく。背景が架空の世界であるだけに、それが作者の 「恣意に流れる」おそれがあることは、早い時期に予想できた。が、少なくとも第2巻までの間に大きなほころびは出ていなかった。

第3巻では、その 「恣意的であることによる」 ほころびが、(前にも書いたが) 愛するペットがハリーの仇敵のスパイであったことを知った後の ロンに、見えた。この事実を (計画に従って)判明させた作者は、その後のロンの心理に、ほとんど意を介さない。つまり、作者に ロンの 「内面」を描写する意思がない。作者の恣意によって、ロンは代わりのペットを与えられて、喜んでいるばかりである。このあたりから、「架空の世界であるだけに」 恣意的な展開になるおそれが、予測されてきた。

第4巻。そろそろ閉口、難渋してきた。20030215-1 に書いたように、話はどこまでも作者の 「おしゃべり」にすぎない。そのすぐ後には、実は 「ホグワーツ以外に、外国にも魔法学校がある」ことを理解したハリーが、(それを知らなかったことに) 軽い自己嫌悪を予想させる場面があるのだが − つまり そこから 再びハリーの心理描写がはじまり 「事実上の1人称」になるのかと思いきや、残念でした、まだまだキャンプ場での、作者のおしゃべりに戻ってしまう。

第1巻、ダイアゴン横丁で喜びに満ちたハリーの姿は、何だったのだろう? そこで、読者は、ハリーとともに その世界に連れて行かれる。その新しい、新鮮で、謎に満ちた世界が、第1巻では展開された。第2巻までは、その 「近距離」の謎解きが続いて、話は活劇になり、ハリーの出自が問題になり、ハリー自身が悩む。そこまでは、読者は 「ハリーとともにある」。第3巻は、全巻がハリーの両親に収斂する。そのためか、作者は ロンの心理に思いが至っていない; 話が 「恣意的におちる」兆候を示してきた。

第4巻。いま読んでいる p.83 あたりは、1冊の中での量的な比率では、第1巻 養家でのバカ騒ぎの部分に該当するのかもしれない。が、第4巻のここまでで ハリーの内心まで踏み込む記述は、第2章の 「傷が痛む」前後だけだ。「外国にも魔法学校がある」と知ったハリーの内面に踏み込むかと思ったら、肩すかしを食らう。もちろん、この作家のことだから、それらの個々の話題の1つ1つが今後の伏線になっているだろうことは予測できるが ・・・ それにしても、 聞いてるわけじゃあるまいし、この長広舌には参ってしまう。

それでも、「ハリー・ポッター」シリーズは近代文学か? あるいは 「ハリー・ポッターは古典になれるか」。
「近代文学」への厳しい条件を外せば、これも近代作品にはちがいない。
それが 「古典」になるかどうかは、今は "Never Ending Story " が 「古典」と言えるかどうか、そのあたりまで僕の意見は後退してきたのも、事実だ。「古典」になるための 「素朴さ」が、この作品には欠けている / 変な言い方だが、作者が常に小出しにするたくさんの話題が、この作品では 「緻密」に配置されすぎているような気がする。あるいは、"Never Ending Story " と同じように、最後になって読者は何か未解決のまま、放置されるのではないか。逆に、それら 「緻密」に配置されたプロット群を完全に・すべて解決して終わるなら、作品は 「あくまで架空」の世界を完結することになり、そうなると − これもまた 「近代作品」と言いがたくなるおそれも出てくるではないか。
まさか、アリスじゃあるまいし、「ハリーが目をさますと、お母さんの顔がぼんやりと見えました」では すまないだろう。


(20030222-1) 日記または子育て − 近視と乱視が必ず同居するものではない話

僕自身が、メガネをかけたのは小学校3年生の時だった。上の子が、この春には3年生である。眼科的には老年期に入ってきた僕の定期検診に、彼女がついてきたので、ついでに彼女の検眼をしてもらった。

完全な裸眼で、1.0 と 1.2 と。あらあら、すごいじゃないの。ところが、軽いが乱視があるらしい; ここで 「新しい知見」となる。
僕自身には、常に近視と乱視が同居してきたから、「乱視」はいつも 「近視」と同居するとばかり、感じてきた。が、まだ まったく近視とは言えない彼女に 「乱視」がある − たしかに、レンズの分解能と、その分解能のばらつき (例えば横方向の分解能は高いが、タテ方向では低い、あるいはタテまたは横方向にゴースト画像が出る、など)は 別の問題である。ふうん。遺伝子のセットの中で、近視と乱視はたしかに別物のはずだ。一方はレンズの仕上げ精度とその軸方向、焦点距離とその移動の問題、一方はレンズの軸中心(球面)対称性の問題なのだから ・・・

一方、TVの見すぎでしばしば 「目が痛ーい」と言っている (と親は思っていた)ので、「こら、バック、バック」で すぐに TVから1m離れる条件反射は作らせてきた。医者が彼女の眼球をのぞきこんでみると、ほえ、やはり 「軽い」が、アレルギー性の炎症があるという。アレルギー? そりゃアトピーと同期するのかと聞いたら、医者はうなづき、眼の一帯は 「粘膜」だから、炎症を起こしやすいのだという。あっららあ。
首から下、裸にすれば 「百年の恋もさめる」 ようなアトピーっ子なのだが、そうかあ、目が痛いというのは、その一部である可能性もある。医者にそれを説明したら、さっそく目薬。1日3回。まったく、救われない子だ。


(20030220-1) 日記 − 地下鉄放火 / Linux / 恩師のローマ字転写ツール

職場でも、韓国の地下鉄放火と死者数は話題になった。でも、「でもソウルの」地下鉄の火事はすごいですね、と言われて、ふむ、そうだねえ、 と新聞には書いてあっても、普通の人は 「ソウル」と読む? のだろうな。一応、東京-大阪に対比すれば名古屋あたりに相当する都市であることは説明したが。

仕事では、客先から Linuxを乗せるための機械が送られてきたが − うー! これはすごい。Pentium 90MHz級、Windows 95が出たかどうかという時代の機械だ。メモリなど 24MB、つまりデフォルトの 16MBに 8MBが追加してあるという時代もので、電気を入れてみると Windows NTが上がってきた。
それでも Vine Linuxが素直にインストールできない。腐って、帰る。どうしてくれよう。

恩師のための 「ローマ字」生成ツールは、水野ローマ字 つまり HR生成ソフトを、大幅に簡略化することで実現できる。KS 2350字とその転写表を、2晩かかって (1晩は子音を、1晩は母音を) 書き換えた (もちろん、エディタによる一括置換で)。
そこまででソフトを動かしてみると、「水野」ツールの 複雑な 論理がじゃまになる。例えば:
原文:
HR生成: tae-gu, tae-ku を選択できる
師の転写: daigu
話をはじめるとキリがないが、この場合 「転写」されるのは まったく同様に 「文字」であり、「発音」ではない。言語の専門家に言わせれば、水野 HRは 同じ が ku と転写されたり gu と転写されたりして、扱いに困るのだ − ソフト屋の言い分は、そういうところこそコンピュータに判断させればよいのだが、言語屋はそうではない。第1義的に、転写は 1:1 でなければならない。転写表は書き換えたが、プログラム側をまだ簡略化する必要があり、これであと1晩。「今週末まで」と伝えてある予定は、クリアできそう。

実はこの後に、まだ未知の世界である 「厳密な音声表記」への転写が待っている。それは、「いつか」やってみたい課題ではあった。「水野 HR」 でも、例えば から tok-rip-mun を生成するか tog-rib-mun を生成するかの選択は (その気になれば) 可能だったが、しかし そこから 「発音通り」の tong-nim-mun を生成するツールは、一時はやってみようと思いつつ、需要がないので放置したままだった。これを、「ローマ字」ではない、「厳密な音声表記」 に転写、または生成する − 技術的には 「たいしたことはない」。ただし、その厳密な 「仕様書」が必要だった。師は、それを提供してきた。一方こういうオートマトンは、いつか誰かに渡せるような (つまり僕が老化してソフトを作れなくなったとき、あるいは交通事故で死んだとき) 形態で残しておかないといけない ・・・ この先、希望的には1ヶ月くらいで解決したいと師には伝えてあるが、まあ、興味のある方はお楽しみに。


(20030219-1) 日記 − 恩師のローマ字転写 / へるみおんぬ

卒業もしていないのに、学生時代の 「恩師」とはありがたいもので、かつての学生 − 今では中年 − の 「ああしろ、こうしろ」 という忠告を しっかり聞いてくださる。しかし、あるいは逆で、これが本当に 「卒業生」だったら、こういう関係は成り立たなかったかも しれない。つまり、東京の 「そこ」 の本当の卒業生は 先生と 案外 疎遠になっているようでもあり、一方 僕自身は大阪で大学を卒業したが、「そこ」 の恩師とは意に反して疎遠になっている。

制度の上での 「卒業生」(とその師) というのは、案外、互いに交渉しにくいものなのかもしれない。僕は、東京では、学生とはいえ 「聴講生」に近い存在だったし、それにもかかわらず 「師」の推薦で韓国に留学したが、その後、僕は消息を絶った; つまり、「すべて宙吊り」で 「師」の一団と接触が切れたが、ある経過をたどって再び、生存されるただ一人の先生と再会した (「生存される」のは、ここでは本当に一人だけである: 当時の教官は3人だった。一人は 40前後で夭逝された; 一人は、最近 まだ 60前後で、酒の飲みすぎで亡くなった。冗談ではなく、それを含めて 僕はもう 「師」の 「他界」に4例も出会ってきた。まだ若い 「生存される」 師は、大事にしないといかん)。

僕自身の 「失踪」から20年、先生にとって幸いだったのは、僕が 「師」に対する敬意を今でも失っていないことと、一方 僕にとって幸いだったのは、先生が、コンピュータとソフトウェアの扱いについて僕に頼ってくれたことだった。ホームページを開く説得は、我ながらよくやった。そのページのデザインは、おう(!) グラフィック・デザインを専攻とする院生のお嬢様が、留学先から送ってくれる。まだまだ、デザイン面では細部の修正、内容面では先生ご自身の執筆に長い時間がかかると思うが、これからだ。若くして死んでしまった当時の同僚たち、僕にとっては 「師の一団」 3人の中の2人に対して、残る先生はまだ 20年から 30年は健在でいらっしゃるだろう。学生だった僕も、もう 50前。それだけに、もう 「あせる」 必要を感じない。僕自身の最大関心事は 朝鮮近代文学論だが、それを支えるのは 「言語」であり、その師である。一方 師にほうには必要なコンピュータ・ソフトウェアの上での支えを、僕から提供できる。ある意味では 「理想的」な関係ができてきたとも思う。

が、それは、わからない。人生すべて塞翁が馬だそうな。「塞翁が丙午」で直木賞をねらい しっかり受賞したのは青島幸男 (漢字はこれだったかどうか、忘れた。石原の前の東京都知事)だった。

今は、その先生の記事 (または論文)で必要になる 「ある種の」 ハングル/ローマ字転写の生成に忙しい。

一方、まったく私的には、「ハーマイオン」が 韓国版では 「なぜ」 なのか、納得がいくような・いかないような不思議な気分が今も続いている。しかし、少なくとも、日本人は 「ハーマイオニー」と認識している彼女の名前が、韓国人には理解されない; 韓国人が日本で 「へるみおんぬ」と言ってもまったく理解されないだろうこと − どうしてこんなことになったのか、そこに どうしても納得が行かないのだ。

「ハリー」の第4巻 原文は、仕事が忙しくなったことと、恩師のためのツールが急であることに同期して、自宅に放置するようになってきた。


(20030215-1) なぜ 「ハリー・ポッター」 第4巻 原文がつまらないのか

「つまらない」のは、僕自身の手がそれに伸びないことが 証明している。もちろんそれは、1つには仕事がこのところ忙しいこと、私生活に帰ると子どもが熱を出すわなんだかんだ、それに、一人の友人・知人または恩師と、もう一人の 真正な恩師とのメール交換で その応対に忙しいことはある。が、それらのすべてから解放されるのは、特に仕事に 「行く」、仕事先に到達するまでの電車とその乗り換え時間の間だ。第1巻、第2巻までは、事前に訳本を読んでいるので、原文を見ながらその 「実は原文はこうだ」 という興味で、実に面白かった。そのおかげで、訳文が 「安全第一、決して冒険をしない、時には余計な解説まで地の文に忍びこませることのある」訳文であることがわかったし、それ自体を非難する理由もないので、軽い皮肉を言う程度ですんでいた。第3巻は特殊で、作家の (全7巻の中の) 都合で、ハリーの両親の時代の記憶が説明される (「アズカバンの囚人」)。この巻は 「ハリーがなぜ仇敵と戦わなければならないか」という 「謎」を、まったく説明しない。この訳本までは読んだが、「謎」の説明に貢献しないことがわかっているので、それをとばして、高いばかりの第4巻の訳本は買わず、その原文にとりかかったのだった。

しかし、「大人」にとって 「小説」の面白さとは − 少なくとも 「近代文学」を読む 「大人」にとって − 「面白さ」とは、登場人物の心理の動きであって、「不思議・奇怪・面白いお話の展開」では、ない。訳本であれば、「これは訳文」と割り切って、斜め読みしつつ話の展開を追うのだろうが、原文を読む外国人読者は、そういうわけにいかない。どこまでもどこまでも、作者の 「お話」口調につきあわされる。原語のネイティブ・スピーカーなら、やはり 「斜め読み」で通り過ぎてゆくだろう部分も、外国人読者は、「1つ1つの語を追って」読み進めなければならないのだ。これには、参った。

例えば。
クィディッチのワールド・カップの見物に、ハリーとハーマイオンは ロン 一家とともにキャンプ場に行く。そこでの 「描写」は、原則的にはハリーの立場から行なわれる。それは事実なのだが、それが、少しも 「事実上の1人称」になっていないのだ。作者が 「お話」として、どこまでも説明するばかり; もう少し説明すると、例えば大意で次のような部分がある:
水を汲みに3人で歩いて行く間にも、見物に来た世界中の魔法使いたちのテントがあちこち、無数に展開されている。そのテントの1つには、若い夫婦のものがある。テントからは 「2才に届いたかどうか」くらいの男の子が歩き出して、(魔法の)杖で、草むらのナメクジを風船のように膨らませていた。ハリーは、こんな幼い年代の魔法使いを見るのは初めてだった。男の子=「幼い魔法使い」の母親=「魔女」が出てきて、「こら、ケビンちゃん、パパの杖を持ち出しちゃいけないって、何度言ったらわかるの!」と叱る。
たしかに、「その年代」の 「幼い」魔法使い・つまり幼児を見るのは、ハリーには初めてである。その新鮮さを説明したいのは、わかる。が − まだ 「2才に届いたかどうか」 というせりふで、僕という読者は、完全に 「シラけた」。ハリーは、孤児である。この巻で、ハリーは 14才である。幼時の記憶はないし、それ以上に、1才から 「現在」に至るまで、「この年代」(「2才に届いたかどうか」)の幼児に会ったことはない; 僕自身の記憶でも / 「あなた」の記憶でも、14才の僕に (あなたに)、ある幼児が 「2才に届いたかどうか」くらいという推定・類推が可能だったろうか? 仮に僕が (あなたが) 大家族の一員で、10才前後で幼児の子守でもさせられているのでない限り、14才の少年が、幼児を見て 「2才に届いたかどうか」 くらいだと、見当がつくはずがない。つまり、この記述は 「描写」ではない。作者の 「お話」であって、それは、「母親」である作者と、同じように母親であるかもしれない読者との間での合意の上での説明ではあっても、少なくとも 14才のハリーという主人公の (「ハリー・ポッター」シリーズの 「主人公」説には別の問題があるとしても)、「内面」に即した表現では、ない。

友人が韓国から買ってきてくれた第1作の DVD、映像は日本 (アメリカ、香港)のものと同じだ。その DVDで、冒頭だから必ず見ることになる、「額に Z型の傷」のある 「1才」のハリーの顔。これは、たしかに 「1才前後」の幼児である。自分の子を持つ人には、「うちの子より小さい」子の年令の見当がつく。映画は、たしかに、確実に 「1才前後」の子を映し出している。それには、原作者 (小説の作者)も満足しただろう。

しかし第4巻で、ハリーは 14才である。ハリーは孤児で、1才以来 「親戚づきあい」で幼児たちを見る機会があったとは思えない。そこに いきなり 「2才に届いたかどうか」くらいという表現を持ち出されても、これは 「母親」である作者の勝手なおしゃべりにすぎない。少なくとも、作者には この瞬間、「ハリーの認識に即した」 描写の意思はない。あくまで、自分の位置でおしゃべりを続けるばかりだ。だから、つまらなくなってきた。物語は、どこまでも作者の 「お話」 つまり おしゃべりで展開される。今のところ、第4巻 総 636ページのうち、問題の部分は p.75、僕がガマンして読み終えた部分が、現在 p.78 である。この先は、知らない。


(20030214-1) ハーマイオンの朝鮮語は ・・・

思ったより はるかに 「ごくあたりまえの女の子の声」だった。日本語吹替えで強調された 「生意気さ」が、ちょっと聞いただけでは脱色されて、「ただの韓国人の女の子」の口調になっているようだった。が、話が話で、最後の夜、つまり 「スネープがそれを手に入れる前に」 3つ頭の番犬をすぎ、その床の穴から 「悪魔の蔓」の上にとびおり、彼女の呪文で太陽光を呼び出す場面あたりで 彼女の (3人の中での)「地位」は明確になって、ここで、あくまで3人の中では で命令口調でしゃべる彼女の 「生意気さ」が生きてきた。今のところ そこ 「だけ」しか見ていないのだが、その意味で − 3人組の中で2人の少年たちと対等の でしゃべる彼女の 「生意気さ」は、まあ、生きている。

ところで − 「ハーマイオニー」の 韓国名は何でしょう?
僕は、せいぜい くらいだろうと思っていたのだが ・・・ 「驚いた」ぞ、字幕はなんと だ。おいおい。訳者が原綴りを知らないわけはないのだが、彼女たちの使う呪文はいつも 「ラテン語」風なので、この国のプロデューサーは彼女の名前だけを特別視したのかもしれない。ハリーとロンは、期待通りの である。ただし、パッケージの原題は "Sorcerer " つまりアメリカ版なので、その関係はあるかもしれない (アメリカ版の 「原文」は、僕も見ていない)。

なお、そういう特別な例を除いて、「吹替え」音声と 「字幕」の朝鮮語は、例によってまったく異なる。が、彼らが彼女を何と呼んでいるのか聞き取れなくて困ったとき、字幕の は役に立った。念のため、イギリス原文では彼女は Hermioneで、それ以外の綴りは出て来ない。