Ken Mizunoのタバコのけむり?

Hangeul-Lab Ayase, Tokyo
Ken Mizuno

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(20030117-1) 日記: 「ハリポタ」 − タイム・マシンで歴史は変わるか

昨日の記事で、「時間の前後が逆転した戦い」 と書いた; タイム・マシンで過去に戻っても 「歴史は変えられない」と書いたのだが、ここはもう少し整理する必要を感じた。

これが 「ある種の」循環劇であることはまちがいないとして、しかし第2巻での対決は、うかつに読むと、50年前に遡った上での対決 「のような」 気がした。しかし、それはどうも誤りらしい。時間の順に、整理する:
・50年前、主席で模範生がいた。この少年は 「秘密の部屋」を開けた
・少年は、その記憶を 「日記帳」に残した
・少年は卒業とともに失踪した
・11年前、成長した少年は闇の帝王として君臨し、ハリーの両親を殺したが、ハリーは死なず、逆に闇の 「帝王」の地位を失った
・1年前、その仇敵は老いさらばえて、ハリーと対決し、敗退した
・「今年」、少年は 「日記帳」によって、「記憶」というイメージとして復活した。イメージである少年は再び 「部屋」を開け、1年前の ハリーと将来の自分との対決を知り、再度対決に及ぶ
一般的な 「タイム・マシン」のモチーフでは、過去も現在も 「現実」である。従って、50年前の 「記憶」は、「1年前」の当人にも残っているはずで、ならば、その際に自分が対決に敗れることは 50年前にわかっていたはずなのだが ・・・ と、「一般的な」 SFの類推が、僕にはあった。

が、こうして整理してみると、「日記帳」が呼び出すのは その少年時代のイメージであって、50年前の実体ではない。呼び出されたイメージの少年はあくまで 「現在」に存在して、49年後の自分の敗退劇を知るが、しかし昨年敗退したその 「実体」は、16才の日記の中の自分が翌年 呼び出されることを知らないのだ。従って、このイメージが、昨年敗退した実体に代わってハリーを倒すことは、できた。それで歴史 (過去)が変わることはない。ふむ。ただし − もしここで 「イメージ」がハリーに勝利し ハリーを倒してしまうと、このイメージは限りなく 「実体」に近い存在になってくる。単なるイメージから 「実体性」を帯びた 16才の少年に復帰すると、さて − では老いさらばえた自分自身との関係はどうなるのだろうか。「タイム・マシン」に類するモチーフは、結局いつもこういう矛盾に出会ってしまう。(だから作者は、賢明にもイメージを敗退させ、消滅させた)

ところで、第3巻には この仇敵が登場しない。この巻はすべて、ハリーの両親の時代の説明に捧げられる。予定通りなら 「全7巻」の、特別な1巻になるのだろう (事実、ハリーは 本当に 「父親代わり」のブラックに出会う)。
対決の続きは、第4巻 (訳本が上下2冊セットになった、あれ) からなのだろう。まだ買ってない。第3巻の原文をとばして、第4巻の (原文もとばして) まず訳本を読んでみようか、どうしようか。
気になっているのは、第2巻の 「血」の問題、初巻以来の対決の理由、第2巻で示唆された 「循環」、特にその循環の中で、ハリーも仇敵も ともに 「孤児」であり 「混血」である点の処置を、作者はどうするつもりなのか − ただ、それは、作者も 「最後まで」 明かさないだろうと、承知の上ではあるのだが。

話はちがうが、うちの1才5ヶ月の男の子が、僕のパソコンの − 困ったことになった − リセット・スイッチを覚えてしまった。Windows 2000、NTFS なのでめったなことはないのだが、もう3回ほど、「あ? リセット?」 をやってくれた。黒い箱の、ちょうど手の届く高さに、銀色の 直径 10mm近いボタンがあるのだから ・・・ それも、怪しく光る青い LEDの下なのだ。
7才とその母親のための機械には、手が届いても リセット・スイッチはとても押しにくい。CD/DVDの開閉ボタンを押すだけなので、実害がない。しかし、僕自身の機械のスイッチを押すとは思わなかったぞ。

対策は − リセット・スイッチの前にフタをしようと考えたが、適当な部品がない。これは、箱を開けてスイッチそのものを殺してしまおうか ・・・ スイッチを押すと 「ビー!」と警告音でも出ればいいが、それも面倒くさい。
そういえば、この時期、上の子は Macintoshのフロッピーをぺろぺろなめていたことがある。


(20030116-1) 日記: 「ハリポタ」の続き

「仕事」がはじまったとたんに、自分用の CGIなどやっていられなくなる。

行き帰りがヒマなので、「ハリポタ」の続きを読む。訳本で感じたことを、原文で読むと 「単語の1つ1つを追う」ことになり、結果として かなり 「精読」に近いことになる効果は、最初から説明したつもり。

第2巻のキーワードは、結局 「血」、つまり 「純血種」の魔法使い家系と、「非純血種:汚れた血」との葛藤・軋轢である。物語ではこの2種がきれいに分離され、ロンと悪役のマルフォイが純血、ハーマイオンが 「汚れた血」で、それで侮辱されたからこそハーマイオンはあの 「化け薬ポリジュース」を実現してしまう。ハリー自身は、父は純血、母は非純血で、これも見事に、ロンとハーマイオンの関係に対応する。

ところが、訳本でもわかっていたことなのだが、問題の仇敵は、ハリーと同じ混血である。ハリーは父が 「純血」だが、仇敵は 「母」がそうで、「汚れた血」の父親は妻子を捨てて、母親自身は死んでいる; 物語の中、仇敵の 「記憶」の中で、彼の帰省先は孤児院である。その彼が、「純血種」でなければならない 「スリザリンの後継者」の部屋を開けたことには、最後まで説明がない。これは − おそらく意図されたものだろう。そもそも、ハリーがなぜこの仇敵と戦わなければならないのか、第1巻で課題は提示したが、その解決は最終巻まで引き伸ばすにちがいない。第2巻では、「血」というキーワードが与えられると同時に、仇敵の過去 50年の歴史が、前後反転する: 初巻では老いさらばえた仇敵との対決だったが、第2巻では 「記憶」の中の 16才と、現在の 12才のハリーとの対決である。つまり 16才の仇敵は、50年後の自分とハリーとの対決を知り出した上で、時間が逆転した戦いをする。歴史は変えられない。この物語に、何か 「循環」があるらしいことは、訳本を読んだ時点でもわかっていたことだったのだが。

似たような時間の逆転は、第3巻の、ハーマイオンのタイム・マシンで示される。第3巻では、クライマックスでハリーら数人への救出劇があり、その際の (死んだ)ハリーの父親の行動を、ハーマイオンのタイム・マシンで、ハリー自身が観察する。この巻では 「血」の話題は一切出て来ないので、作者はそれを当分話題にしないつもりらしいことがわかる。「血」の話題は、「なぜ仇敵と戦わなければならないか」と同じレベルの、深い入れ子構造の最外周の話題で、あろう − つまり、ある種の 「循環」を含めて、長い7巻の構想の中で、作者が最後まで明かしたくない話題なのだろうと思う。

前にも書いたが、同じような 「推理小説」仕立ての松本清張(の、作品群)とこの作品のちがいは、清張がいつも 「行き当たりばったり」の 「偶然」の導入によってのみプロットを進めて行くのに対して、ハリーの作者には、事前に大きな構想がある点にある。最終巻は、既に書かれているという。そこにむかって、その過程で大きな・小さな、深い・浅いさまざまなサブ・ルーチンの入れ子を挿入しつつ、最後に、一気にすべてを明かすのだろうか。いや、あるいは僕が作者であれば、最終巻の末尾まで、「最後まで謎」のまま残る何かを、残すかもしれない。構想の大筋に対して、ここまで様々な話題を展開してしまうと、その 「すべて」の後始末は不可能かもしれない (例えば第1巻以来の、スネープの意味。これは第3巻で部分的に明かされるが、「入れ子」の関係から言えば、最終的には第6巻?あたりで明かさざるを得ないだろう。が、それを矛盾なく説明できるかどうか、それは作者の 「ウデ」ひとつ)

付属する話題としては、Amazonさんからの DMでも、「思春期」にさしかかる主人公たちの関係が示唆されている。それは、第2作の映画でも、既に示唆されている (らしい)。「第5巻」の表題は、Harry Potter and the Order of the Phoenix だそうな。Phoenix は、第2巻、ダンブルドアの部屋のそれだろう。これは 16才の仇敵との対決にも現われた。最終巻が既にできているなら、作者には、もう残り1巻しかない。彼女自身、最後の第6巻は忙しくなる。


(20030115-1) 日記: 「ハリポタ」

年末年始が終わってみると、また退屈な日々がはじまった。いや、年末年始が 「退屈」でなかったのはツマ子のメンテが忙しかったからなので、「退屈」であることこそ 「平凡」で 「幸福」なことなのかもしれない。が、僕が仕事に出て不在の間の、ツマ子の生活が気になるというのは、やはり 「不幸」なことにちがいない。ただ、良くも悪くも、上の子はもう7才、もうすぐ8才で、4月には3年生になる。この子は生意気で、しかもアトピーを抱えて、おまけに半年ごとにムシ歯を訴える困った子なのだが、少なくとも僕の不在の間の家庭内状況をレポートしてくれる程度には なっている。当分は彼女が、家庭内状況センサー/レポーターとして、重要な役割をはたしてくれるだろう。

「退屈」な通勤の途中で、「ハリー・ポッター」第2巻をまた読み始めた。

この巻の 「分水嶺」は全体の8割の位置にあると書いたように (ハグリッドの小屋訪問、その場でハグリッドはアズカバンに収監へ)、残りはパラグラフごとに次々と展開してゆく。あれよあれよだ。「秘密の部屋」の怪物が巨大なヘビであることも、眠らされているハーマイオンの手の中の紙片から判明する。女子トイレの 「嘆きのマーテル」が前の攻撃の犠牲者であったことは、連行される時のハグリッドの言い置きの延長で判明し、その過程でロンの空飛ぶ車のその後も示される。マーテル自身への 「インタビュー」で事情が確認され、そこで 「秘密の部屋」への入口も発見される。何よりも、ロンの妹でありハリーに夢中のジニーが 「秘密の部屋」に拉致されてから、その救出まで、作者も忙しかっただろう、作品の中でさえ わずか数時間にすぎない。その数時間の間に、ハリーと仇敵との対決、いんちき教授の正体とその処置まで、一気に解決される。唯一、作家のミスなのかどうか、展開として 「甘いな」と思わされたのは、謹厳実直厳格であるはずの女性教授マクゴナガルが、涙ぐんでハリーとロンに (眠らされている)ハーマイオン訪問を許す点。ここだけは 「女性作家の甘さ」のような気がした。この後 残るのは、組み分け帽子とフェニクスの支援でハリーが仇敵とその巨大ヘビを倒すこと、おまけとして校長ダンブルドアの復帰、マルフォイ(父親)への警告と 「しもべ妖精」の解放談があるだけだ。

第2巻で顕著だったのは、日本の漫才で言えば 「つっこみ」 と 「ぼけ」 の、「ぼけ」役のロンの描写だった。「分水嶺」をすぎ 「禁断の森」で 自分の飛ぶ車に救出されるところに至っても、ロンのそれは、極端なまで戯画化されている。ところが、いざ 「秘密の部屋」への回廊に入るあたりから、ロンの描写が変化する。訳本では充分に伝わらなかった、彼の 「妹」への思いが、イギリス語原文では、切実に表現されている。訳本が不誠実なのだとは思わない。が、訳本では、それが伝えられていない。このプロットでハリーを前進させるのは、ロンの 「妹」への思いである。そしてハリーは、これから仇敵に出会う。

本屋の Amazonさんから DMが来た。「ハリー・ポッター」 第5巻の「イギリス版」、「アメリカ版」、出版と同時にメールをやるから事前に登録しろと。おいおい、わたしゃまだ第2巻を読んでるのだ。いわゆる 「初版」を入手するチャンスであるとは思うのだが、でも僕自身は、そういう 「初版」趣味はもっていない。


(20030113-1) 日記: 恩師への手紙 − 各国語キーボード配置のこと

以下、恩師である H先生へのメールの文面、ほぼ全文:
H先生、

中国語の各種のキー配置の件、いや、はや、まったくもって 「御苦労様」 とでも申し上げるしかありません。普通の人は、近しい人たちと同じ手段で入力ができるようになったら、それで満足するものであります。

ただ、最後のところで、コンピュータの専門家は別の考え方をするか、という点では、多少思い出した点が、いくつかあります。この連想はキーボードに限らず、そもそも 「ある国N」 の文字コード系の設計でもまったく同じような展開をするのですが、今はキーボードに限りましょう。

韓国でも、有名なところでは(僕自身 使った)2種の配列(2ボル式、昔のタイプライターの3ボル式)があります。日本では、政府がかりの公式 「JIS」 キーボードと、政府がかりではなかった富士通の 「親指シフト」 があります。この最後の 「親指シフト・キーボード」 が、おそらく DVORAKにも類似するもの、つまり 「ついに業界の主流になれなかったが、合理性が大変高い」 ものです。DVORAKは、東欧の一部に影響を与えたようですが、特徴は 「母音を1ヶ所に集中した」 点でした。

富士通の 「親指シフト」 は、左手に 「かさたなは・・」、右手に 「あいうえお」 を配置しました。1音節は、ほとんど 「左右」 1回ずつの2ストロークで完結、それで足りない場合には 「シフト」 キーが中央に配置されて、これを 「親指」 で押せというので 「親指シフト」 キーボードです。またの名を 「OASYSキーボード」 といい、OASYSというのは富士通製 「ワープロ」 の名前です。ワープロが淘汰されパソコン全盛になってからも、パソコン用の 「親指」 キーボードが、街では販売されていました。使った人は、その合理性を捨てられないのです。

それにもかかわらず、「親指」 は消えて行きました。例えば、官庁(例えば市役所、区役所)への納入品は必ず 「JIS」 キーボードを持っていなければならなかった。ただそれだけの理由で、業者は 「親指」 を排除したし、官庁の中(または中層部以上)で 「親指」 の快適さを知っている人の数(頻度)は、おそらく 「死ぬほどわずか」 だったのでしょう。

アメリカのDVORAKにも、似たような歴史があるのかもしれません。どう考えても、タイプライターの活字アームがぶつかりにくいよう、「どこにどのキーがあるか わからないように」、なるべく覚えにくくならべた・という QWERTY ・・・ 配置に、合理性で勝ち目が、あるわけがありません。それにもかかわらず、たくさんの人が支持したにもかかわらず、DVORAKは淘汰されてしまった。300年?の歴史なのか、慣習なのか、とにかく 「慣れた」 配置が変わることへの抵抗が、DVORAKを排除したわけです。想像ですが、『風と共に去りぬ』だって、QWERTYでタイプされたのじゃないか。アメリカでタイピストという職業が成立したのも、こんなキー配置、特別な訓練を受けなければとてもじゃないが使えない。指の力で活字をたたく当時のタイプライターの、人口あたりの台数を考えれば、英文タイプが特殊技術であった時代もあったはず。たとえば 『風と共に去りぬ』の作者にその経験があれば、彼女が 「一夜の間に」 はウソだとしても、1ヶ月もかかればあの大作は充分に可能です。

同じ事情が、日本でも韓国でも、ありました。
1980年ころ、日本の 「タイプライター学校」 で教えていたのは、JISかなキーボードです。このとき習った当時の少女たちは、今でも JISカナ配列でワープロ入力しているでしょう。

1960年代かに政府がかりで決まった韓国の 「3ボル」 式も、まったく同じでした。
1980年代、韓国には 「2ボル式」 が現われました。字母の1つにキー1つが対応するのだから、どう考えても、「3ボル」 より合理的です(ただし、その合理性を実現するために − 例えば K のキーが初声なのか終声なのかを自動的に判断するために − どうしてもマイクロ・コンピュータが必要でした)。1980年代の後半には、それが普及しはじめました。しかしそのころになっても、まだ、「いざとなると3ボルが速い」 という話が、まことしやかに伝えられていました。それはふしぎなうわさだったのですが − その理由に、僕は 90年代になって気がつきました:

会社で、課長・部長級のおじさんが、いやでもパソコンを使わされている; 自分でぽつり・ぽつりとキーボードをたたくのだが ・・・ これではマシャクに合わん。いざとなったら手書きで文面を書いて、当時まだ生き残っていた 「3ボル」 世代の元少女に打たせるのが、一番速い(早い)。なるほど、「いざとなったら3ボルが早い」。
今では、その 「元少女」 たちは、もう 孫のいる世代です。今となっては、もっとも合理的なキー配置だけが、実用に耐えるものでしょう。「合理的」 なタイプライター配置が生き残ったという意味で、韓国は希少な例かもしれません。

先生がいま検証されている たくさんの中国語キーボードの配置は、特に台湾で展開された さまざまな試みの、いくつかなのでしょう。
人は、保守的です。一度覚えたものを、他のものに置き換えるのは、猛烈な抵抗があります。僕自身、ハングルを 「3ボル」 から 「2ボル」 に変えたとき、指が 「パッチム」 キーを求めて宙を舞いました。ちょうど、マニュアル車からオートマ車にかえたとき、左足がクラッチを求めて宙を舞うように。

ただ、1つだけ、以上のすべてにわたる共通点があります − その どの過程にも、本格的な 「言語」 プロパーの研究者がかかわったことは、ない!

JISであれ KSであれ、その標準キー配置の決定には、当然ながら 「国語」 研究者が招かれたでしょう。が、その中で、研究者が活躍したとか、その意見が重視されたとかは、聞いたことがありません。おそらく、言語プロパーの研究者たちは、仮に招かれても、事実上脱落して行ったのではないか、そんな気がします。
去年の秋、2年生の子が、学校のパソコンで 「ハガキ」 を作ってきた。絵はともかくとして、そこには一応 「文面」 もある。自然な想像として、彼女は JISかなキーボードでその文面を入力したにちがいない。しかし、僕には ・・・ この 50+個の 「かな」 配列が、現実的なものとは思われないのだ。いや、それでも、日本の 「現在の」 子どもたちの ほとんどが、(今は頻度 50%だとしても) いずれ 「すべて」 自宅のパソコンで 「かな」入力するようになったとき、「日本における入力手段 = JISカナ・キーボード」が、アメリカの QWERTY と同じ意味を帯びるのかもしれない。事実、僕自身、日本語は JIS カナを使わず ローマ字入力なのだが、その 「ローマ字」入力それ自体は QWERTY 英文字キーボードなのだから。

うちには、しかし 「JIS」 つまり 「かな」 を刻印したキーボードが、ないに等しい。ないわけではないが、押入れの深いところに1枚だけ眠っている。「かな」入力は、僕自身は 1980年ころを最後に、一度も使ったことがない ・・・


(20030111-1) 日記: 恩師のパソコン 「言語」 事情

だいたい、である。Windows 2000の 「地域のオプション」 -> 「入力ロケール」 で、使う言語が 「全部!」 チェックされているパソコンなんて、日本にいったい何台あるというのだ。アラビア語、アルメニア語、インド語、ギリシャ語、グルジア、チュルク、バルト、ベトナム ・・・・ そのまた、例えばキリル (ロシア) 系文字の入力手段やキーボードの配置など、覚えきれないほど − 両手に余るほど − ある。それらのキー配置を手書きで作成したバインダーは1冊。マニュアルの印字に至っては、厚さ 10センチものが何冊も、購入後 何ヶ月も たっていないプリンタで、本棚を1つ埋める (だろう) ほどの量になっていた。(「だろう」というのは、まだ本棚に収まらず、床に積んであったからである)。

大きな課題は、中国語の入力手段が Word/Windowsでは いまだに見つからないこと、ロシア文字の 「半角」 入力がなぜ 「できなくなってしまったのか」。その2点くらいだっただろうか。

中国語の入力方法は、「3人」いるわけではないので 「文殊の知恵」は出ないが、プロの言語屋とプロのソフト屋が首をそろえて あれこれいじった: 出た。まず、中国語の入力手段だけで 「両手に余る」数があるうち、それが 「何」であるのか不明のまま、1つ出た。次に、ほうほう、やっとピンイン入力ができるようになった。残るは、繁体字のほう。これは、今日はあきらめて僕は帰ったが、帰ってから判明した: 繁体中国語は、Windows 2000では 「バグ」ではない、「重大な脱落」があった − つまり、「中国(香港)」では決して入力が できないが、「中国(台湾)」なら、あっらら、期待されていた入力手段が、ずらずらと出てくるではないか。急ぎ、メールで報告。このメールは、「ロシア語」による僕あて実験メールの着信確認を兼ねている。

ロシア系 (キリル文字による言語たち) は、また 「両手に余る」数のキーボード配置で入力はできるのだが、困ったことに 「JIS全角」の 「間抜けな表示」になってしまう。先生は言う: 「前には半角で出たのだが」。歴史的に、日本のコンピュータでは 「全角・半角」が問題になる。ただし、それは 「日本では」そうだ、というだけだ。あれこれ説明しているうちに、たまたま 「韓国の」 Batang つまり フォントを当ててみたら、あらら、これも驚いた。きれいに 「半角」サイズの キリル文字が出る。うーん、参った。

Windows内部で何が起こっているのかは、僕は知らない。それはたしかに一度 Unicodeを経由しているのだろうか、日本製の MicroSoftフォントで表示されるときは 「全角」で、しかし 「日本」ではない韓国で作られたフォントでは、それが 「半角」サイズで表示された。まるで、ハリー・ポッターの謎解きだ。しかし、言語屋の先生はそれで満足してくださった。僕あてに送ったその実験ロシア語のメールは、正しく届いた。Windows内部で 「一度 Unicodeを経過している」らしいことはまず想像できる。が、やはり詳しいことは、ソフト屋としては 「正確な」 説明がない以上、わからない。だいたい、「全角・半角」という用語自体が 「日本にしかない」 特殊事情なので、今は 「知らん」 ことにしておこう。

朝8時半に出て、帰ったのは夜7時すぎ。あー、遠足に行ったのと同じくらい・くたびれた。帰りの渋滞がひどくて、高速を出たところで立ちションしてきた。膀胱周辺の筋肉疲労で、ある。

なお、僕には 「言語」屋で 「恩師」 と呼べる方が、二人ある。恩師Aは、僕に朝鮮語そのものへの機会を与えてくださった。恩師Bは、7年後に僕を韓国に留学させた。上記は、師Bである。師Aとは、東京と大阪に離れてしまったので、過去 15年ほど お目にかかる機会がないままだ。


(20030109-1) 日記: 友人、「後輩」、恩師、ハリー・ポッター

「リンク・ボタン」 の中での画像の外枠 (昨日の記事) 問題、友人2人からメールをもらった。1人は公式通り タグ内で "border=0" と書けと、1人は style-sheet じゃだめかと。ありがとう。一応 「知識」 としてはわかっているのだけど、「仕事」 つまり 「おカネ」 にならないので、僕は無限にずぼらであり続けたくて、ずぼらな ごたくを述べたくてしかたがない・らしい。

一方、大学での専攻は 「朝鮮語」、卒論は文学作品論で 『林巨正 』、就職先は派遣ソフト屋という、この 30年の間に希少な例の一人である 「後輩」 (カッコ付きなのは、厳密には彼と僕の卒業校が異なるからだ。ただし狭い社会の話なので、みんなどこかでつながっている) が、また転職先を探すそうだ。彼は不幸な例で、転職した先が次々と左前になって行く。ちょうど、僕や、「この」サイトの技術的な元締めである 「ひらちゃん」 と同じように、彼の場合も、遠くないうちに 「フリー」=「税法上の個人事業主」 になる可能性もある。ただ − 僕の場合は、それまでちょうど 10年かけている: 僕が幸いだったのは、第2の就職先からアメリカに派遣されて滞在のべ3年半、日本に帰ってから法人の再編を経て、さらにそこを去るまで2年。最初の就職から個人としての 「独立」まで、ちょうど 10年になる。それが 1992年のことで、それから 10年。今、この種のソフト屋は、誰もが深刻な危機にある・という面はある。バブルの余韻の中ではフリー・ソフトをゼロから作っている余裕があったが、しかしこの数年は ひどい。「後輩」には、できることなら、平凡で卑俗だとわかっていても、しかし 「安定した」 就職をしてもらいたいと思う。

さらに遡って、23年前の恩師のパソコンの面倒見には、この土曜に行ってくる − この先生は、学校の規則を変えてまで僕を受け入れ、さらに推薦状を書いて僕を韓国に留学させ、それと同時に僕はそこを退学した・という経緯のある ・・・ 「あだやおろそかにできない」 方である。よって、土曜日の先生宅の訪問だけは、他の事情を割り込ませることができない。その間のお呼び出し、お断り。ただし、それは午後の後半には終わるので、実際の 「出動」 が夜になる弁護士会からの通訳呼出だけはスタンバイする。

「ハリー・ポッター」の原文 (第2巻) を読みながら、訳書では気がつかなかった (プロッティング上の) 重大な部分にたどりついた: おそらく、映画にも出てくるだろう − ハーマイオンさえ 「誰か」 の攻撃で眠らされ、クィディッチつまり箒飛行ハンド・ボールの試合が中止され、さらに生徒たちの一切の自由行動が禁止された夜、ハリーとロンはあの 「透明マント」 でハグリッドの小屋を訪ねる: この小屋での出来事が、この巻の分水嶺となる ・・・ つまり、原文で (驚かれたい) たった2ページ+数行の間に、それまで 194ページも続けてきた示唆、暗示が一挙に解明された上で、さらにこの先の暗示を与えている。校長ダンブルドアの解任、マルフォイ(父親)の行動と発言、それに対するハグリッドの抗議、この2ページに凝縮された記述が、以下 わずか 40ページの間に解決することになる。この巻の 「退屈さ」 は、この分水嶺に至るまでの長広舌が長すぎる点だったのだ。訳本をお持ちの方は、第15章の切れ目、p.392 と p.393 が、全 502ページの 80% の位置であることに、気が付かれただろうか? 僕は、原文を読んで はじめて気がついた。残り数章のうち、最終章は 「しもべ妖精」 の解放談なので、実際にはあと3章で、「この巻」 については 「すべてが解決」 することになる。


(20030108-1) 「できた、もうすぐできる、まだできない」

「もう少し」、「あと1段」、「あと一息で」 と言いつつ、なかなかできないのがこの (ハングルのローマ字を表記しておくと サーバ上でハングル画像に置き換えてくれるツール、つまり) CGI。問題は2点。

1つは、理解されるかどうかはともかく、CGI自身の置いてある位置から、目的とする HTMLファイルへの相対的な位置関係と、その HTMLからさらに他の HTMLにリンクが張られているときの、そのまた 「相対的な」 位置関係。
これは、「ある決断」 で、つまり 「こういう仕様です」 と決めてしまえばそれまでで、その 「決める」 ところで僕が優柔不断になっているだけだ。

もう1つは、「実験」 しているうちに、えらいものが出てきたなあ ・・・
「リンクを張る」 とき、そのボタンの中にハングルを書きたい − 実験してみたら、あらら、汚ねー。これでも 「動く」 けど:
工房 本店ページへ
工房 綾瀬店
問題は、「リンクの中」 だけ、勝手に下線がついたり 画像には余計な外枠が出たりする点。「リンク・ボタン」 にいつも特別な修飾子を付けている人なら別だが、ずぼらな わたくしとしては、こりゃ まいった。
もっとすごいのを お見せしよう。ただし、これは近い将来に 「リンク切れ」 にするので、あしからず; また、ここから先のリンクは現在まだ何も処置していないので、今まで見えていたのと同じである:
Ken Mizuno の 朝鮮語ノート全体目次 (2)
「仕事」 は、数年前にやった仕事を別機種に移植する作業。そこそこ進んでいるが、例によって 「分担はそれぞれ遅延」 の傾向を示し、これが現在では露骨に (僕の)収入に反映する。

「ハリ・ポタ」 原文 第2巻は、やっと仇敵の 「50年前の記憶」から抜け出し、春になりつつある。ハーマイオンは翌年度の選択科目を 「全部」 選択し、ハリーは結局 ロンと同じメニューにする; このあたり、ロンがハリーの 「父親」 代役であることを示唆しているのだろうな。ハーマイオンが 「全部」 選択した結果がどうなったかは、第3巻に出てくる。第2巻は、冒頭で示される 「車」 の解決が近い。これから、「(ハリーの父親代役である)ロン」 の妹ジニーが仇敵に拉致されて行くと同時に、ハーマイオンも眠らされる。

「ハリ・ポタ」マニアの間では、「誰と誰が」 恋愛関係になるのか議論があるらしい。「映画」派は、眠らされていたハーマイオンがハリーに 「抱きつく」場面で 「ハー子、ハリーで決まり」だという。だが小説派は、彼女が彼に 「抱きつく」のは これが最初ではないことを知っている − 第1巻、映画では省略された 「アリスの7本のビン」 の問題を解いた後、彼女は彼に抱きつき、ハリーはそれに難渋している。
今のところ、イギリス人評論家がさりげなく書いた 「主人公とヒロイン (ロンとハーマイオニーのことだが)」 という表現が、まだ生きている。僕の読み方では、ロンとハーマイオンは、ハリーの 「両親」 の写像ではないかと思う。
なお、原文には Hermiony という表現は いまだに出て来ない。おそらく、最後まで出ないだろう。「ハーマイオニー」 という呼び方は、あるいは、訳者(代表)が作者にインタビューしたときに、作者自身の発話に出たのではないのかな、と、想像している。


(20030107-2) 新年のカレンダー


一番有名な絵: 『滝』 (Waterfall)
出典
やっと 「新年」 がはじまったのは、ついさっきだ。つまり、カレンダーを掛けかえた。

一昨年だったか、その前だったか、偶然 Web上でこの店をみつけた。アメリカの個人商店・出版社のようで、毎年夏ころに、翌年のカレンダーの予告を出してくる。ドイツ系の画家らしい Escher 専門の店である。左に掲げたのは、その作品としてはもっとも有名な Waterfall で、一見 「流れ落ちる」 水路が逆に頂上に上りつめ、それが 「滝」 となって落下、その落下経路に水車があり、この水車が、落下した水を再び水路に押し上げる、いわゆる空想的永久機関。俗に言う 「だまし絵のエッシャー」 の、代表作である。この絵だけは、いろんなところに紹介されている。今年は、7月にこの絵が配置されている。

さすがは 「アメリカの、外国製品出版社」 で、カレンダーには 外国 各国の休日一覧表がついてくる。極端にも思えるのは、今年は完全な単色 (白黒) 印刷で、土日も色はおろか、うす字、半透明、字体の変更もない完全なフラット。付録の1枚ペラで、客は自国の休日を書き込んで行かなければならない。去年1年は、日めくりも手帳もカレンダーも、みんなこれで通した。今年も、「手帳」を小型のカレンダーに変更しただけで、まったく同じ注文を出し、去年夏の後半には届いていた。今日やっと、それを取り出した。「手帳」 は、去年は 365日 各日の欄はムダになったので、今年はその1ヶ月分だけを取り出した 「小型の」 カレンダーに切り替えた。

さて、どうでしょう。


(20030107-1) 同じ記事の書き直しが面倒くさい

自分自身の書いた 「朝鮮語ノート」 を、問題のハングル画像表示に書き換える作業が、意外に面倒、というより、面倒くさくなってきた。ファイル1つならともかく、数個のファイルに渡る。こいつを、「自動書き換え」 するツールがほしくなってきた!

決して冗談ではなくて、なぜ 「自動」 書き換えができないかというと、こりゃもう人口知能の領域に属す。そもそもこのソフトは、人口知能を最初からあきらめて、「ハングル」 に置き換える部分だけを // ・・・ // と囲んで、人間がソフトに教えてやれ、というのが 「仕様」 なのであーる。

もう1つは、複数ファイル間のリンク。リンク先でもハングル画像を表示する場合は、いつもいつも
	<a href="/~mizuno/cgi.bin/hr.cgi?doko/sore.html"> あっち </a>
	あるいは
	<base href="/~mizuno/">
	<a href="cgi-bin/hr.cgi?doko/sore.html">ハングル版はあっち </a>
	<a href="doko/sore.html">ローマ字版はこっち </a>
などと書かなければいけないので、これがねえ ・・・ あー、面倒くさい。
せめて、このリンク先の書き換えだけは自動化する (ためのソフトを作る)? なんだか、自分の作ったロボットに指示されてるみたい; チャップリンの Internet Times だな。やりたくない。

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チャップリンで思い出したが、「ハリー・ポッター」 第2巻は、まだ (また) 行き帰りに読んでいる。やっと 50年前の、「16才前後」 のハリーの仇敵の 「日記帳」、その中に誘い込まれたところまで。映画の予告編では机で日記帳と対話し、日記帳が光るが、本ではベッドの中で、光るのはインクで書いた文字である − まあ、映画らしい再表現だなと思う。


(20030106-1) 「ローマ字 -> ハングル画像」 CGI の 「太い・細い」

これは 「実験」 なので、どうか了解されたい。
昨夜は、「太字」 が出るのがうれしくて、「今までに書いた分、全部太字」 にした。が、今夜は、それらは 「細字」 に戻した。昨日まで 「太字」 のはずだった が、昨日の説明に反して 「細字」になってしまっているので、どうかお許しを。
「実験」 の意味で、まずこの 「日記」 で 「太字・細字」 を混在させてみる:

どうだろうか? どちらも MicroSoftの、横文字名 GulimChe、ハングル原語で表記すると 実は の、Bold:強調と 強調なし である。
ご参考までに、これらのローマ字のままの姿をお見せすると、こうなる:
//face="ks2350b";han manh-eun i se-sang ya-sok-han nim-a//
//han manh-eun i se-sang ya-sok-han nim-a//
余計なことだが、"face" という英文字綴りが、「ぜったいにハングルのローマ字表現ではない」 ことも、一応考慮した。

昨日の については、再度 「太字」で掲げておくので、お許しあれ:

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(20030105-1) 年末年始レポート (8)

フリー・ソフトの作者として最も信頼する 森のソフトアトリエ の森保生さんから、メールをいただいた。ハングル画像の 「太字」 化は、すでに解決ずみ、ただし画像作成そのものは Windows 2000/XP でないと動かず、Windows 98/Me ではだめなので、それで 「お蔵入り」 していたそうだ ・・・ そんなの、2003年ともなった今では問題ではないような気がするのだが、作品ができた時点では無視できない問題だったのかもしれない。
取り急ぎ、未公開の新版を送っていただいた。できた。「太字」 も 「下線」 も用意されている。

「困った」のは、僕である。
これは、「将来的な」 課題として、「腹案」 しか用意していない。さて、どうしよう。とりあえず 現状の 「ハングル画像」 を、ばっさり まとめて 「太字」 にしてみた。こうすると、以下に見えるすべての 「ハングル」 画像が 「太字」 になってしまう。それは、よい。これは実験なので。昨日までの 「実験」で 「細字」 だったハングルが、以下すべて 「太く」 なっているのを見ていただける。せっかくなので、作者の死後 50年を経過した の有名な詩、冒頭の4行だけを引用してみよう:

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問題は、「ある」 部分だけを太字に、その他は細字のまま残すことだ。パソコンのワープロではないので、それはどうにでもなる。が、その 「仕様」 を現実的なものにしないと、後で、自分自身が、あるいは他のユーザにとって、使いにくくなる。さて、どうしましょうか。


(20030104-1) 年末年始レポート (7)

「歯が痛〜い」 と言い出した子は、区の休日診療所に行ったら、なんとムシ歯が4本、永久歯の圧力下にあるのが1本、さらに 「子どもの歯槽膿漏」のケも多少ある、と。痛んでいる1本をキュイーンと応急処置。鎮痛剤を3回分。月曜まで歯科が開かない場合の、最低限の処置をしてくれた。土曜、案の定? 歯科はまだ開いていないので、やっぱり月曜待ちだ。

ハングルの 「ローマ字書き -> GIF画像」 の課題は、html側の、そのまた JavaScriptかなんかで、こんな変な表現があるのを処置。こういうのも、どういう方法であれ、透過させざるを得ない:
<script language="JavaScript">
<!--
document.write( "<a href=\"../index.html\"> ハングル工房 綾瀬ホームへ</a>" );
// -->
</script>
まったくもう、面倒なことをはじめてしまった。
が、現実の課題としては、あと少し。あと、画像の 「太字」、「細字」 問題が残っているが、これは数日で片付く問題ではなさそうだ。

最大の問題は、「これでハングルを入力できるわけではない」 点に、ある。が、いま、それを課題にするわけにはいかない。「この」 ツールの目的は、第一義的に、まず 「ハングル表示のための どのような用意もしていないパソコン」 に、有無を言わせずハングルを描画することにある。自称 「初心者」が 韓国の Webサイトを見て文字化けし、困って僕にメールをくれることがあるが、その人たちも、少なくとも 「この」 CGIで描画されたハングルだけは 「読める」。この 「画像」 を読めない人は − それは、失礼ながらハングルそれ自体を読めない人たちなので、それはどうでもよいのだ。

・・・ , "" , "" "" , ?


(20030102-1) 年末年始レポート (6)

ゴミ捨て場の、ゴミ袋に入れなおした 「もの」 たちは、まだ残っていた。が、不思議なことに、空にしてドアの外に放置したプラスチック箱たちは、きれいになくなっていた; 正月2日に、ゴミ収集があったとは思えないし、あったとしても ドアの 「外の」 不燃物だけを収集して行くのは、たいへん不自然である。
おそらくそれは、近所の人に回収されたのだ。実は − 秘密なのだが − うちの その子の赤ちゃん時代にも、友人がゴミ捨て場で調達してくれた・ある・ものがある。それが何であったかは、それだけは ・・・ 言えない。

じじばばの家に行って来た。帰るとさっそく / またしても 「その」子が、「歯が痛〜い」 と言い出した。明日はバスで休日診療所だな。アトピーの 「かゆみ止め」ならすぐ効くが、歯痛が 鎮痛剤で あと 36時間 もつとは思えない。子どもの歯槽膿漏が問題になってから久しいし、単に虫歯であってほしい。あるいは乳歯の下から大人の歯が圧力をかけて来ているなら、さらに幸い。しかし、手のかかる子だ。

ハングルをローマ字で書き、CGI にそれを表示させるツールは、ごく一部、実用に踏み込んでみた。やはり、「太字」、「細字」 の区別、つまり複数の画像セットで、特に 「太字」 がないと、悲しい面がある。一方、CGI出力と 「平文」 HTMLの間での 「相対パス」 の位置関係も、まだ手を入れる必要が出てきた − Java Script の中での document.write( "<a href='eodi/museun.html'>" ); の類。こいつも、けっこう手間を取らせてくれる; まったく、面倒な 「仕事」 をはじめたものだ。

年賀状は、印刷はしたが まだ宛名書きに手がつかない。今年は、実は昨年中に 「妻の母」 の他界があるので謹慎するべきなのだが、その事情自体を触れてまわっていない。最小限のあて先リストですませるつもりなので、あしからず、お許しを。それでも この あて名書きは、実際にはこの週末を越えるかもしれない。


(20030101-2) 年末年始レポート (5)

子どもの机のまわりが片付かないので、父親は腹を立てた。彼女のおもちゃ箱を、衣裳ケースに換算して7箱分、アパートのゴミ捨て場に運んだ。泣き叫んで抗議する彼女に、「学校で使う鍵盤ハーモニカ」 だけは返した。この他、幼稚園の卒園アルバムを拾い出し、さらに、彼女自身が幼稚園の 「卒園文集」を拾い出してきた。
しかし、これだけ 「ばっさり」 切り捨てると、当人もあきらめがついたようで、いわゆる 「かえって さばさば」 したところがある。父親は逆に心配になって、やはり幼稚園時代の段ボール箱だけ、深夜に拾い戻してきた。中身をあらため、別の箱に詰めなおして、古い箱を廃棄する。

その間に、不思議なことが起こっている。「衣裳ケースに換算」 7箱分は2回に分けて捨てに行ったのだが、その1回めと2回めの間に、「捨てた」 箱が移動していた。移動先は、ゴミ捨て場にお尻を向けている僕の車の背後。はあ? これは、明らかに 「僕」 の行動であると知り、かつそれが僕の車であると知っている人の行為だ。そうなると、何世帯もないこのアパートで、候補は3軒+隣の駄菓子屋くらいしかない。
深夜に再度 段ボール箱を拾いに行ったときも、7箱分は、今度は遠慮げに1mほど移動していた。移動先は、ゴミ捨て場のドアの前。まるで 「ゴミ捨てに来たみなさん、この箱たち 見てください」と言ってるようだ。たしかに、その1番上にある段ボール箱は、蓋をひょいと開ければ、うちの子の名前が乱舞する、幼稚園時代の記念品箱である。これだけは回収することにして、よかった。

ただし、残り 「換算6箱」 のうち 4箱はプラスチックの透明箱、残る 「換算2箱」も、引出し型の3段透明プラスチック箱である。どれも、「中身は女の子のおもちゃ箱」であることが明瞭で、見れば、やはり名前が書いてあるにちがいない ・・・ おそらく、みんな戻ってくるのではないか。そうなる前に、はて、どうしよう。やっと空間のできた子どもの机の周りをながめながら、再度引取るわけにはいかないぞ。
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というわけで、再度、深夜に始末に行ってきた。午前0時から2時の間に、さすがに 「箱」 は移動していなかった。中身を見てはいけない、しかし 「燃える」、「燃えない」 は区別せざるをえない。僕自身の、とてもなつかしいものがある。それも、捨てる; 「捨てる」 と約束したのだ。ただ2セットだけ、おかあさんが香港で買ってくれたセットと、それに、1才のために買った積み木セットを、回収して戻る。プラスチックの箱4個と、3段ものの引出し(タンス?)も、空にしてその場に放置してきた。1時間。東京ではこの冬2度めの雪が降り出した。この正月は 「逆サンタ」 になった。


(20030101-1) 年末年始レポート (4)

ふだんは 深夜 24時すぎは前日の日付にするのだが、今日はそうにもいかなさそうだ。
明けましておめでとうございます。

「めでたさも中ぐらい」 などと言うけれど、子どものころから 「正月の何がめでたいのだろう」と思いつづけてきた。今も、「めでたさもどこにあるのさ」 といった感じだ。
家族のことを考えると、外国人妻を日本に適応させる目的もあるし、7才の子は じいちゃん・ばあちゃんとこでお年玉もらうことを期待しているから、「その正月前に」、勉強机のまわりの掃除だ、年越しそばだと、やってはみるが、結局 父親自身は掃除もせず、7才も掃除は終わらず、「そば」はファミレスに行ったら 「ない」 ので 「うどん」 になった。「めでたい」のは、お年玉もらえる子どもだけだ。なお、我が家にはサンタさんは来るが、親が子にお年玉を与える習慣がない。それはあくまで 「じいちゃん・ばあちゃん」からである。

ツマ子が寝静まった後、昨夜・今夜とも CGI の実験を続ける。
ソフトの開発期というのは、案外つまらないもので、仕事なら 「おカネ」にかかわるから それで必死になったりするが、この場合、細部の調整問題は 第3者に興味を持ってもらえない。
昨日、今日でいじった結果で、せめて ハングルの単独字母も出るようになったことだけでも、見ていただきましょうか:
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上の字母の並び順に疑問を持つ方が、いらっしゃると思う − これ、ローマ字でのアルファベット順です。あしからず


(20021230-1) 年末年始レポート (3)

「ツール」 の 「実験」 をしている間に、自分自身からのアクセス・ログが増えてくる。今夜はだいたい 20回くらいだろうか。その間にも、見覚えのある URLからのアクセスがある。あらら、「日記」 を互いに共有する関係とはいえ、よく見てくださる; 僕のほうも、書いておこう。

「ツール」 の 「実験」は、言い方にもよるが順調、ただし意外に面倒な問題が出てきて、今夜は さらに別の問題でサイト管理者とのメール往復を数回。「面倒な問題」というのは、やはり CGI (プログラム)それ自体と、表示するべき 「ページ」の 相対的な位置関係だ。これ以上は話が仔細にすぎるので、やはり ここでは話題にしない。

1年待たせた子どもの映画は、「ハム太郎」。去年もそうだったが、主題歌から子どもたちの合唱がはじまるあたり、なかなか楽しい体験ではある。まわりを見ると、ほとんどが子どもと父親の組合せだ。隣の子と目を合わせてみるのは意図的、その父親とつい目線が合うことがあって、ま、それも それなりに。
7才に言わせると、上野の ずらりと並ぶ映画館で、見たいものを順に上げて、「ハリー・ポッター」は最後だった。ふむふむ。たしかに、「ハリー」の館から出てくるのは、しかめっ面のおばさんが多かったな。
原文の 「ハリー」 第2巻は、読み進まない。仕事の行き帰りに読む 「だけ」 という習慣を作ってきたので、年明けもそうなるはず。故に、残 140ページは、やはり1月一杯だな。映画は、たしかに 「しかめっ面のおばさん」 たちと共有したいと思わないので、よほど時間が余らなければ、行かないだろう。DVDが出てからで、かまわん。

恩師のパソコンの面倒見も、留学生のインターネット問題も、結局 年明けに回った。80前の僕の母、つまり子どもたちの ばあちゃんの具合が悪いらしいので、多少は心配ではある; が、これには 正月明けに会いに行く。

やや唐突ながら、ハングル工房のトップ・ページの連絡先に、「双子」 を 「韓国語でなんというのですか」 という質問が来た。「読み方がわからない」 というので、この人は (1) 日韓辞典を持っていない、(2) 漢字の 「訓読み」語が実は 「和語」であることを理解していない、と思われた。申し訳ないが、返信する意欲を失った。この人が 「ここ」を読んでいてくれるとは思われないが、「双子」 は で、 だけが漢字音である。

明日の深夜になると 「新年のあいさつ」を申し上げなければならない。その前に、1年間、ありがとうございました。


(20021229-1) 年末年始レポート (2)

恩師のパソコンの様子を見に行く約束は、年末には果たせない公算が大になってきた。想像以上に、ツマ子のメンテに手がかかっている。

そこへ、2年ぶりにまた別の電話。こちらは、IBMブランドの CRTモニターが 「火を吹いた」 とわけではないが、ゴムの燃えるような匂いを出して昇天したそうだ。そんなの、わたしに電話したって、直るわけじゃないですよ。モニターだけ買ってくるか、あるいは 「いい機会」 なのでパソコンごと買い換えるか ・・・ 他に、答えようがないではないか。IBMブランドは、故障するにも時期を選ぶのだな。

CGI によるハングル表示のコーディングは、一応できた。この日記の表示ツールにもそれは反映させてあるが、日記ではあまり使い道がない − だから、まあ、よく などと言ってみたくなる。

実用まで、あと1段、コーディングが残る。そこまで行けば、僕自身の 「朝鮮語ノート」 をそれで置き換えての実験になるが、それも記事自体は古い。ソフトができたからといって、「めざましい」 結果が出るわけではないのが、ややさびしい。

公開フリー・ソフトにするか? ただし、CGI なので、「直接使える」 ユーザ層が限られる。パソコンにダウン・ロードして気楽に使えるといったものではないし、Perl ではない C言語なので、サーバの種類ごとに 「自分で」 コンパイルする必要がある。「フリー」でなくて、出張作業付きの有償ソフトにでもしますかね − おカネを出してくれるユーザさえ・いれば。しかし経験的に、韓国・朝鮮関係の本屋さんでさえ、自分の店のホーム・ページにおカネを出すのは、とてもしぶるものなのだが。


(20021228-1) 年末年始レポート

「年末」がはじまってしまった。仕事を終えて 「ほっとしますね」 と同僚が言うのを聞きながら、でも 「ほっと」 ばかりしていられない自分に気付く。
実は、この1年は 「修羅場」 に近い経験をした。ちょうど1年が経過して、その 「1周年」の日に何も起こらないことを祈った。それは、幸い、祈った通りに 何も起こらなかった。

サンタさんは、例年通り来てくれた。
上の子は7才なので、もうサンタの正体を知っている。が、現実と虚構の間で、やはり虚構が実現することを期待している。下の子はまだ1才だし、下の子にサンタが来て 上の子には来ないわけにはいかないだろう。
街のサンタ用品屋さんで買い物をしたら、レジで うちの子と同じくらい − ちょうど2年生くらい − の女の子と並んだ。僕は、店のおばさんに言った: 「サンタの包装してください」。隣の女の子が、「あっ」 という・かすかな表情と、小さな声で言った:
女の子: サンタって、お父さん ・・・ ?
おじさん: あは、お父さんじゃないのに、いつも困るんだよね。「おとうさん、あれ買って来たの?」って聞かれるよ。
7才には明確な要求と、「あれもほしい、これもほしい」 があって、それなりに処理できるはずだが、1才へのサンタさんは難しかったらしい。風船の飛行機には興味を示さない; ハンドルと前輪が連動しドアもボンネットも開く大きめのミニカーも、あっという間に壊れた; サンタさん、何をまちがえたか、ピンクのウンチ (あれはアイスだそうだが)を持ったウサギの縫いぐるみを届けてくれたが、これもお姉ちゃんに取られてしまった。残る猫バスも、台所のあたりにぶら下げられて、結局 1才へのサンタさんは ないに等しい。サンタさん、来年はもう少し考えてくれよ。

年末年始を乗り越えるために、数軒の医者回り。アトピーに眼科にカゼ薬に親の薬。
年賀状は一応作ってはみたが、あて先を書いている間がない。恩師のパソコンの様子を見に行く約束があるが、どうしよう。そう思っているところへ、韓国からの留学生がインターネット接続できなくて困っているという。
子どもをじじばばの家に連れて行く必要もある。1年待たせた映画も、年が明けないうちのほうが空いているだろう。
仕事は、年明け2週間分だけが確定したが、その後のアテがない。そのころにはアパートの契約更新が出てくる。カネのなる木がほしい。

そうして、家族が寝静まってから、「ローマ字 -> ハングル画像」ツールなど いじりはじめる。「CGIそれ自身のデフォルト・ディレクトリから」 相対位置にあるファイルへのリンクの問題、一応、基本的なところまでは やってみた。まだ実験段階。「この」 日記での 「実験」 とも、コーディングの上で折り合いをつけないといけない。


(20021227-1) 「HTMLソースはローマ字、ハングルは画像で表示」 の今後

気が付いていらっしゃると思うが、「この」 ページ自身を、「CGI によるハングル画像の自動表示」 の実験に使っている。ある意味では、10年来の懸案であり、これがやりたくて この 「ローマ字」系を作ってきた、というべきでは、ある。例えば、
「林巨正」 と書いて と読む。通常の読み方なら だが、この大作の主人公は である。
「林巨正」 と書いて im-kkeok-jeong と読む。通常の読み方なら im-geo-jeong だが、この大作の主人公は im-kkeok-jeong である
ローマ字をハングルの代用に書いても、読者にはちっとも面白くないことは、10年前からわかっていた。だからこそ、あのころ、DOS画面に、Macの画面に、ハングルを描画するフリー・ソフトがいくつも現われた。現代では MicroSoftさんのソフトだけで統一すれば、複数言語が1枚のホームページ内に混在できるが、「MicroSoft外」 との互換性を問題にするなら、今も 「画像」が最後の手段であることに変わりはない。

だから − 気持ははやる; 早く実用運用してみたい。が、まだ、実に細かい、さまざまな問題が残っている。その1つは まったく技術的な問題。もう1つは、現実問題として要求があるのは、「韓国漢字」や 「古ハングル」字体や、現代ハングルでも 2350文字に含まれない非標準字体だ。

「技術的な問題」というのは、CGIが動作するときの ディレクトリ位置のこと。その位置と、目的とする (表示の対象になる) ページとの相対的な位置関係が、単に内部リンクをする場合と異なってしまう。これだけで、わかる方にはわかるはず。それを、動きはじめた CGI 内部で調整する必要がある。これ以上は説明しても数ページかかるので、今は省略する。

韓国漢字、古ハングル、非標準字体の問題は、CGI の目的が本気であればあるほど深刻になってきて、しかも その世界でこそ本当に 「実用化」 しなければならないという、困った問題。つまり、僕は 「遊び」 でこのツールを作っているばかりではない、のだ。例えば、僕自身が作ってきた次の2つの例を参照あれ:
http://www.han-lab.gr.jp/~cham/ 朝鮮文学研究会
この中でも、 三枝壽勝 『韓国文学を味わう』 は日本人の書いた唯一の朝鮮近代文学史に類するものだが、ここでは作家の名前の一部が、「日本の / JISの」 漢字で表記できないまま放置してある。

次の2つは 「ミラー・サイト」 で、同一:
http://www.han-lab.gr.jp/~mizuno/literature/note9811.html#981112-1
http://home.att.ne.jp/yellow/han-lab/literature/note9811.html#981112-1
僕自身の 「朝鮮文学ノート」 のうち、金素月 の詩 "" の、初期出版時の画像が掲げてある。この画像には、1930年ころまでは存在した 「古ハングル」、または 「擬古ハングル」 が含まれている。
この他、僕自身の 「朝鮮語ノート」 は全面的に ローマ字を ハングル画像に置き換えることになるはず。上の 「研究会」 のほとんどのサブ・ページもハングルを含んでいる。「近い将来」 と言うことはできるが、さて、いつまでに、どこまでできるか。

その他に?
実は、ある。「画像」 は、今は 「ただ1種類」 しか用意していない。「画像」 だから、「太字」 にしたり 「斜体」 にしたり、あるいは 「」 といった芸当が、できない。ましてそれらの組合せは。

本気で 「実用化」 するの?
ううん、ゆっくりとね。まずは、「画像」 は1種だけ、2350文字だけで、何はともあれ 「技術的な」 問題だけは、この年末年始の間にどうにかしたいとは思っているのだが ・・・


(20021226-1) カネのなる木

遠い昔に 「パソ通」で書いたか、あるいは 「ここ」で書いたか、あるいは書かずじまいになったか、もう記憶は明瞭でない。が、僕の手元には、アメリカ産 「金のなる木の種」の袋がある。袋の中身は、使用ずみ (廃棄済み) 紙幣をシュレッダーにかけたもので、従って中身は 「本物のカネ」 である。その袋の背面にこういう説明がある:
Dear Son,
Remeber that MONEY TREE you thought I had?
I saved you some seed - start your own !
(この文面の著作権表示: (C) 1986 SPENCER)

(親愛なる息子へ、
お前さん、俺にはカネのなる木があるんだろうと、言ってたな。覚えてるかい?
お前さんのために、その木の種をちょっとだけ残しといたぞ。あとは自分で育てろよ!)
「カネのなる木」が 『日韓』 辞典に出ていないか、調べてみた − 残念でした。「カネ(金)」 の項の関連語には出て来るが、パラフレーズして (つまり 「解釈」したうえで) (財源) つまり 「カネづる」、それ以上の訳語はない。「まじめな」 辞典としては、そこまで考慮が届かないのですね。僕が訳すならどうするか。どうしよう:

(現世) "" ()
しかし、これでは 「訳語」 ではない、「説明」だ。あくまで 「訳語」であろうとするなら、

かしら、ねえ? いや、「カネ」 は必ずしも 「実(み) 」 である必要はなくて、「葉 , 」 であってかまわないのだが。

今月も、やや赤字だ。年末から年始にかけて、子どもを連れて歩くカネがない。親からは既に 25万ほど借金していて、それ自体は親が死んでしまえばそれまでだが、しかし年明けのアパートの契約更新には 15万も要る − 誰か、「カネのなる木」を、お願い、くださいな。


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