百孫朝鮮語学談義 − 菅野裕臣の乱文乱筆




志部君の思い出

菅野裕臣

 わたくしが志部昭平君に最初に会ったのは,1968年4月志部君が東京教育大学大学院修士課程 (言語学専攻)に入学した時だった.
 志部君は岡山大学文学部文学科言語学専攻で江実先生に師事し,満洲語を学び,卒論も 『満洲実録 』 に関するものだった ( 「満州語文 『満州実録 』 の言語学的研究」[翻字,訳解,語幹および語彙索引など]1967.1).
 江先生のお名前はかねてからお聞きしていたが,志部君を通して江先生のきびしい指導ぶりと暖かい師の愛というものを伝え知った.志部君は江先生から満洲語を徹底してたたきこまれ, 『満洲実録 』 もすでにある日本語訳を利用せず,自らの力で読むよう指導されたという.志部君が東京教育大に河野六郎先生をたずねてきたのも江先生の強いお勧めによるものだった.
 江先生には,わたくしは韓国留学から帰国してのち1973年か1974年頃志部君の紹介で鎌倉のお宅におじゃましてお目にかかったのが最初である.その後江先生のお宅には一人で,あるいは志部君といっしょに時におうかがいしては,先生の内蒙古時代のお話しや当時進行中だった蒙古年代紀の校訂の作業や,パプア・ニューギニアまでお出かけになったお話しなど,興味尽きない,追力ある話法にただただ圧倒され,また激励された.
 先生はアルタイ語族に関心を持っておられた.ドラヴィダ語族やパプア諸語も含めて壮大な規模の系統論を考えておられたようだが,体系的にお書きになったものがなく,また断片的なお話しをおうかがいしただけで,お考えがこれまたうもれてしまった感じである.江先生の強いお勧めでわたくしは "", , 1953 (W. コトフィッチュ 『アルタイ諸語研究』,クラクフ,1953)のロシア語訳 (モスクワ,1962)からの日本語への重訳を1983年の文部省の在外研究員時代になしとげたが,原稿を整理できないまま,今日に到っており,かりに出版したとしても永遠に江先生のおことばを得る機会はなくなってしまった.
 わたくしが逆境にあった時も江先生は弟子でもないわたくしのことを親身に心配してくださり,また相談にも乗ってくださった.なにかにつけわたくしも江先生を頼りにするようになったが,その江先生も1988年にはじめに奥様が,次に先生がおなくなりになってしまわれた.江先生のお葬式を藤沢の斎場で志部君と慣れないながらもとりしきり,1回忌,2回忌にも志部君といっしよに雑司が谷のお寺へと出かけたが,まさか江先生の7回忌にいっしよに出かけられなくなるなどとは考えもしなかった.こうして江先生の周辺も実にさびしくなってしまった.
 江先生は真正直な方で,江戸っ子気質まる出しであり,とことん暖かく,親切であられ,若い意慾的な学徒に対しては常に鼓舞なさるが,道理や礼儀にもとるやからに対しては心底激怒され,きびしかった.先生はまったくのお人好で,そのためそれを悪用するやからもいたらしい.現にH大学のT教授はそれほどまでにお世話になったはずの江先生をないがしろにした人倫にもとるやからの一人である.
 江先生はお弟子さんたちに翻訳させた西洋の学者によるアルタイ語学の基本的な論著の日本語訳の青焼き用の原稿をたくさん持っておられた.これはいずれ手を入れて出版にもちこむおつもりのようだったが (わたくしも実は江先生に頼まれて1984年にロシア語からの訳の一部に手を加えたことがある),御自身の遺稿と合わせて現在では出版する計画すらないままうずもれようとしている.直接の弟子たる志部君の死はそれをほとんど決定的にしてしまった.
 江先生のおしごとについては志部君が本当はいろいろと整理すべきだったのだが,わずかに追悼文を書くだけで終わってしまった ( 「故江實先生」, 『言語研究 』 96,pp.171-173,日本言語学会,1989.11).江先生について書く機会がなかなかないので,わたくしは傍系ながらここに書かせていただく.
 志部君は江先生のお勧めで東京教育大学大学院入学当初から明確に中期朝鮮語研究という目標を持っていた.年令のわりに大人に見える志部君は行動様式も実際にかなり大人で,古本屋めぐりの趣味,漢文を含む美文調を好む趣味等々常にわが道を行っていたが,江先生にたたきこまれた文献学的研究の態度を当初から持っていた.わたくしのようにあちこち手は出すが,一向にまとまらないのとは異なり,志部君は目標を最初からしぼりこむというところがあった.
 志部君はわたくしの記憶では食事を2食にきりつめて,そのういた金でよく本を買っていた.当時日本に来ておられたソウル大の崔鶴根先生が韓国には志部君のようなタイプの大学院生はいないといって感心しておられたのを記憶している.志部君のそのような刻苦勉励のたまものたる蔵書も死後夫人が古籍商に売りはらってしまい,かれの苦労をとどめるのはわずかに岡山大学文学部図書館に保存されるかれの卒論のみとなってしまった.これとて青焼きであって,オリジナルの原稿は不明であるので,いつか消える運命にあるため,先だってわれわれ数人はその青焼きをゼロックス・コピーしたばかりである.
 東京教育大の学園紛争の真最中1969年11月わたくしは念願の韓国留学にたった.1972年3月帰国後志部君とはよく会った,志部君はわたくしの留学中いつのまにかものすごく勉強していて,すでに研究の方向性をきちんと確立していた.日本にある朝鮮書はすでによく調査していた.
 志部君は東京に出て来た当初から結婚するまで地下鉄丸ノ内線若荷谷駅近くの小日向1丁目の木造の下宿屋にいた.この下宿は建物が志部君の死の直前までそのまま残っており,今でも残っているかもしれない.今考えてみると,わたくしはこの頃志部君にはずいぶんと迷惑をかけていたようだ.よく自らかれのところにおしかけていき,いろいろと相談にものってもらったりした.大人のかれは年上のわたくしの幼稚な行動をよく許してくれたものだと思う.今はかれにたいへんすまなかったという思いでいっぱいだ.確かこの時期に志部君の早稲田大学在学中の弟さんに会ったことがあるが,この弟さんには志部君の死の直前に再会することとなった.
 確か1972年志部君ははじめて訪韓するが,わたくしの友人稲垣一二三君 (現ロスアンジェルス在住)の紹介で釜山で知りあった韓国人の青年たちに現代朝鮮語ならぬ中期朝鮮語で会話をするという前代末聞のことでかれらを驚喚せしめたという逸話が残っている.この時わたくしはソウルでかれとおちあったが,この時熱心に韓国のいろいろの図書館で朝鮮本の調査をしている.
 1973−1974年は目韓関係が極度に悪化した時期であり,志部君はこのため残念ながら韓国留学を断念せざるをえなくなった.この頃わたくしは東洋文庫の研究員となるが,折しも東洋文庫に来られた安秉禧先生のアパートは志部君が自分の下宿の近くに見つける労を取ってくれた.安秉禧先生,志部君らといっしょに過ごした有益な時間はさまざまな思い出となって残っている.この頃東洋文庫では故田川孝三先生から,ぜいたくなことには,志部君とわたくしの2人で朝鮮書誌学の講義を受けたが,たいへん楽しいものだった.田川先生のその原稿は圧縮されて檀国大学校東洋学研究所の 『東洋学 』 に 「李朝印刷文化と日本」という題で発表されたが,オリジナルの長い原稿は田川先生の逝去後ついぞ出て来なかったとYから聞いた.
 やがて安秉禧先生はソウルに去られ,1975年4月志部君は東洋文庫研究員となり,同年7月東京教育大学文学部言語学講座助手となり,10月に国立国語研究所研究員 (日本語教育センター)となり,研究者としてのスタートを切った.わたくしは九州大学文学部朝鮮史学講座助手となったが,1977年東京外国語大学朝鮮語学科赴任により東京にもどった.
 国研での志部君のしごとは外国人に対する日本語教育の諸問題の研究であったが,このうち 『日本語教育基本語彙七種比較対照表 』 (日本語教育学習指導参考書9,解題+資料表,p.278,大蔵省印刷局,1982)は,後にわれわれが刊行した 『コスモス朝和辞典 』 (1988,白水社)に入れるべき朝鮮語の基本的な語彙の選定に際して,方法論を提供してくれた.朝鮮語の主要な語彙頻度調査,入門書その他の合わせて9種の資料をそれと同じ方法によりアルバイトにやらせた作業を志部君がまとめてくれたのだが,せっかくの資料をなんとか刊行にこぎつかせたいとわたくしがソウル大学の李R馥教授にあずけたままなのだが,まだ残念ながら実現に到っていない.[結局これは実現に至らなかった.]
 志部君は国研時代でも自分の関心事を着々と形にしていた.確か後に文化公報部長官となられたソウル大の故鄭漢模教授を国研におつれした時,わたくしはかれの研究室で 『翻訳老乞大 』 の厖大なかなり綿密なカード (大型)を見たことがあるが,あれはいったいどこに行ってしまったのだろうか.古木屋に売れるものでもなし,棄てられてしまったのだろうか.
 1979年に刊行が完成した 『河野六郎著作集1,2,3 』 (平凡社,1979.10/12)は資料収集や基本的な作業を志部君が千野栄一教授とともになしたものである.河野六郎先生の衣鉢をもっとも忠実に受けつぐ志部君ならではのしごとだったと思う.
 志部君は1971年の修士論文以来1982年に至るまで中期朝鮮語の疑問法,願望法,陳述法語尾についての論文を発表したが,これは中期朝鮮語の史料の綿密な文献学的調査を基礎とした上での厖大な量の資料の整理にもとづいたものだった.
 わたくしの不確かな記憶では1970年代終わりごろから志部君は数回韓国を訪れ,安秉禧先生の御援助により誠庵古書博物館その他の図書館で朝鮮資料を調査している.わたくしもいっしょに誠庵古書博物館に通ったことを思い出す.この時の成果の一部が 「乙亥字本楞嚴経諺解について」 ( 『朝鮮学報 』 106,pp.1-24,1983.1)であるが,この頃かれは中期朝鮮語資料の書誌学的研究における確固たる見解を固めつつあった.1984年わたくしの文部省在外研究員としてのソウル留学中志部君が訪ねてきて韓国学術振興財団国際会館のわたくしのへやにとまっていたが,この時はいっしょに酒なども飲み歩き,たいそう楽しかった.かれはこの年8年半勤めた国研を去り,千葉大学文学部文学基礎論講座言語理論コースに移っており,おもてむきにも朝鮮語学を研究しうる立場となった.
 志部君は1981年以降朝鮮学会の常任理事,編輯委員をつとめ,朝鮮学会に常に研究という一本すじの通った姿勢を貫かせるのにかなりの貢献をしたと思う.
 1983年志部君も発起人の一人となり,東京の若手の朝鮮語研究者の 「朝鮮語研究会」を作ったが,常にかれはその中心的なメンバーで,その間7回の発表を行なっている ( 「朝鮮語研究会の記録」 (1993年9月)参照).また1990年11月から1992年8月の間その会長をつとめた.
 確かこれもわたくしの記憶では1985年から1年間 Japan Foundationの派遣教師として韓国の高麗大学大学院と駐韓日本大便館文化公報室で日本語の教師を勤めたが,この時志部君はかれらしくたいそうきめこまかな研究計画を実行に移した.
 かれの目的の第一はもちろん中期朝鮮語資料の調査であるが,それもこの時 『諺解三綱行実図 』 に対象をしぼりこんでいた.これが後にかれの博士論文の基礎をなすこととなる.その第二は近世朝鮮語研究であり,高麗大学大学院で 『捷解新語 』 の日本語を敢て講義することにより,当時の朝鮮語の文法と語彙を明らかにしようというものであった.かれはこの機会を生かして江戸期の日本語の勉強を集中的にすべく,日本語のありとあらゆる資料を買いこんでソウルに持ちこんだ.かれが懸命に勉強したであろうこれらの書籍も今はない.
 Japan Foundationというところはずいぶんと海外に行く日本人を優遇するものらしく,かなり高級なアパートに住めるほどの金も申請すればくれるとのことだ.志部君のえらいところは,日本で食うや食わずの生活をしている者がソウルでそのようなにわか成金の生活に慣れてしまううちに酒色におぼれて堕落するさまを見て,当時の自分の生活を考慮するならば帰国後の生活にすぐもどれるように分相応な生活をすべきだとの判断から,周囲の勧めもふりきって,敢て韓国学術振興財団国際会館に宿舎を決めたことである.志部君は1984年に当時ソウルの日本大使館勤務の成沢勝君の提唱ではじまった在ソウル日本人研究者の研究会でも研究発表をしてくれた.
 志部君のこの時期の成果は 「陰徳記 高麗詞之事について − 文禄慶長の役における仮名書き朝鮮資料」 ( 『朝鮮学報 』 128,pp.1-102,書影 pp.137-160,1988.7)にもあらわれたと思う.宮島達夫氏から教えてもらった文禄慶長の役の時のこの資料は志部君が扱うに最適だと判断してわたくしがかれにそれを研究するよう強く勧めたが,かれの第一稿を,1988年の春ではなかったかと思うが,成沢勝君の別荘でみんなで読みあったことが思いだされる.
 志部君の帰国後わたくしは三修社から 『月刊基礎ハングル 』 (1986.4 - 1988.3)の編集と以前から続けていた白水社の 『コスモス朝和辞典 』 の編集にも志部君をまきこんでしまったが,かれはいつもこころよく引き受けてくれた. 『月刊基礎ハングル 』 に4回にわたって連載した中期朝鮮語の講座 (1987年第8号 - 第11号)は少ない分量ながら志部君がそれまで考えてきたことの中間報告的なものであり,今では日本人向きの最良の中期朝鮮語文法入門であると思う.
 また1990年に学習院大学の大野晋先生の提唱でアジア諸語の研究会をはじめた時も志部君をその発起人としてまきこんでしまったが,かれはあとの酒飲みの会にもよくつきあった.そして1991年12月から4回ほどにわたって古代,中期朝鮮語の概要をしろうと向けに解説する発表を行ない,確かかれが2回ほど担当したが,それは 『月刊基礎ハングル 』 の時の原稿をもとにそれに修正を加えたものであり,かれの考えが一段とさえを見せてきたと感じられたものである.かれはすでにこの時体の不調を常に訴えており,この発表もかなり体にきつかったのだと思われた.こうしてかれの報告を最後にこの研究会はやめることにした.
 こうして志部君の学問の中間報告ながらもかれのそれまでの研究の集大成たる大著 『諺解三綱行実図研究 』 がやっと1990年に出た (本文校註篇 p.514,KWlC 索引篇p.592,全2冊,汲古書院).この著の題字は志部君の学問のよき理解者だったお父様の手になるものだった.わたくしはこの頃かれとは頻繁に電話をかけあっていたので,話題は当然それに及んだ.コンピューターヘの入力からすべてを志部君が自ら行なった.版下を完全に作り終える段階で長野泰彦氏 (国立民族学博物館)に出版社の件で相談し,そして北村甫先生を仲介として汲古書院との間で出版の話にこぎつけたのだった.恐らく今後この種の出版は日本では資金がかかりすぎて絶対に不可能だろうし,その点で志部君の方式 (すなわち版下まで著者自ら作成し,それを出版社にもちこむ)は今後の学術書の出版のありかたの一つの典型となりうるとの判断もあったらしいと聞いている.しかし志部君は本が出版された後,よい本とはやはり本のプロたるよい編集者とのタイアップではじめて可能なのだとも言っている.この頃のかれとの対話を通じて,かれのコンピユーターにはほとんどすべての15世紀以降の中期語資料の総索引,中期朝鮮語資料 (その原本と影印本,それに関する研究論文等々)に関する覚書,主たる朝鮮語研究者の経歴とその論著その他が収められているらしいことを知った.ともかくかれに質問するとただちに答が帰ってくるのである.また出版後この著の欠点についても謙虚かつ率直に述べていた.かれとしてはその正誤表を含めて不完全なところを訂正したい思いでいっぱいだったろうし,またその作業を開始していたにちがいない.
 志部君の中期朝鮮語の最大の関心事は文法研究にあり,そして河野六郎先生の忠実な弟子たるかれはまず第一に絶対に河野六郎先生の学説のわくを出ようとはしなかった.しかし特に第 III 語基に開してかれはかれ独特の慎重な論考の未,今までのわくを越えた体系を作りつつあった ( 『月刊基礎ハングル 』 の中期朝鮮語の講座にもこのことはあらわれている).また当初からかれは服部四郎教授ばりの意義素論に与することはなかったが,中期朝鮮語文法を構築する上での文法範疇をいかに組み立てるかについての方法の問題をめぐっていろいろと悩んでいたと思う.これについてかれ自身の明確な見解を今後うちださなければならないということをかれはこの大著刊行後の課題と考えていたことが,かれのことばのはしばしから推察された.
 中期朝鮮語のアクセント体系についてはわたくしは1972年頃とりあえずまとめ,大学の講義ではそれを述べ,かつ一応のまとめを1983年第3回朝鮮語研究会で発表したきり,活字化したことがなかったが,かれがこの大著の随所で展開した中期朝鮮語アクセントに関する解説はほぼわたくしの見解と同じである.わたくしはその後中期語の用言1音節母音語幹のうち、 / y を持つものの基本はアクセントは高であり, a / e, o / u を持つもののそれは低である (例外は h ‐1 例だけだが,これは本来子音語幹だった),という結論に達したが,かれはこの大著の執筆中に上記のようなことを発見したと語り,さらに i を持つもののそれは低と高の2種類があることを追加したのは,まことに心強い限りだった.これらは大著にはすべて反映されている.ほかにかれの新発見とおぼしき種々の興味深い言及がある.
  『諺解三綱行実図研究 』 の最大の意義は全面的に訓故注釈を加えたということにある.古来中国に近い朝鮮はどういうわけか訓故の学が発達しなかったが,前間恭作先生の 『龍歌故語箋 』 に範を置き,訓故をなすことが,日本における朝鮮フィロロジーの発展につながるのだと志部君は情熱をこめてよく語ったものだった.
  『諺解三綱行実図研究 』 の海賊版が志部君に相談することなくソウルで出版されたことは病床にあった志部君に伝えられた.なんと志部君の死後,韓国のK大学図書館にいたY氏がその海賊版を出したと告白した.
 1991年秋頃は志部君の体は思わしくなく,酒席も自ら遠慮するというありさまだった.1990年ソウルの熊谷明泰君が東京に来た時も志部君は喜んでかれと会ったのだが,その時志部君はついていた杖を落とし,倒れるということが起きた.あとで聞いたことだが,こういうことが数回あったのだという.そしてついに翌年1月東京の虎の門病院に診察に行き,ただちに入院して徹底的な検査を受けた.一時自宅にもどったが,また3月頃入院した (ちょうどこの頃志部君は東北大学文学部から 『諺解三綱行実図研究 』 により博士号が授与された).この頃医師団はあと半年の命であることを御両親と夫人に告げていたと思われる.本人にはそのことは告げられず,本人はあくまでも希望を棄てていないかのようだったが,どうやら最悪の場合を予想したにしても,あと1年ほどは体をもたせたいと願ったふしがある.
 志部君には1981年以来ずっと東京外国語大学朝鮮語学科の非常勤講師 ( 「中期朝鮮語研究」)を担当してもらってきた.かれはたいへん熱心に教授にあたってくれたが,自己の真の専攻を教えられることに喜びを感じているようだった.病床にあった志部君に東外大の非常勤講師をどうしようかとたずねたら,かれは他大学の非常勤講師はすべて他の人に換えたにもかからわず,これは小康を保ったら再開するつもりだから,1年分をまとめて集中講義で年末にやるように手配してほしいと言っていた.このことばもむなしく1992年度の東外大での志部君の講義はついに開講されることなく終わった.ついでながら1987年の東外大朝鮮語学科の謝恩会で志部君とともに学生たちからもらった皮製の小銭入れは,どうしたことか志部君の死後ホックが取れて使えなくなってしまった.
 わたくしは病院に志部君を訪ねてあいさつをし (これが志部君とことばを交した最後の機会となった),1991年7月末ホノルルで開かれた第1回朝鮮研究環太平洋国際会議に参加したが,ホノルルに東京から電話があり,志部君が危篤に陥ったという.同じ頃ワシントンで行なわれる International Circle of Korean Linguistics に出席するという韓国の学者に手紙を託し,そこに参加することになっている安秉禧先生に志部君の危篤を知らせた.8月7日に帰国してすぐその日に病院をたずねたが,かれは危篤の状態は脱していたもののもうことばが出ない状態になっていた.ただこちらのことばは聞き取れるようだったが,病状はどんどん悪化する一方だった.安秉禧先生はアメリカから電話をくださり,予定を変更してわざわざ東京に寄ってくださるという.I が空港に行ってくれ,先生といっしよに空港から病院に直行してくれた.その頃志部君はほとんど人の顔の見分けもつかない状況になっていたが,安秉禧先生の顔を見たとたん,喜んでベッドから立ち上がり,オーと声にならぬ声をあげつつ安秉禧先生を抱きかかえ,しきりに声を出そうとしていた.かれは明らかに安秉禧先生をそれと確認したのだった.
 志部君の御両親,弟さんが病院へ見え,もはや時間の問題と見なされるに到った.上のお嬢さんの高校転校合格の通知書も志部君に示されたが,反応がなかった.志部君のお父様が志部君のメモをさがしだしたが,そこには自分の死後のことや家族への配慮が記されていた.自分の唯一の宝は書籍だが,言語学関係書籍は千葉大図書館に,朝鮮関係書籍は東外大図書館に寄贈すると記された部分をお父様から見せていただいた.こうして御両親,夫人,2人のお嬢さんのそろった8月23日夜わたくしは弁当を買いに新橋界隈をさまよったあげく病院にもどると,家族の泣き声により志部君の死去を知った (午後7時).それまでたいそう苦しそうだった志部君の顔はずいぶんとおだやかに見えた.
 志部君の遣体は病院に献呈したいという御両親の意向は,夫人,夫人の母親,2人のこどもの反対で実現されなかった.遺体が病院を出る直前お父様がお世話になった病院の医師,看護婦の方々に深々とおじぎをなさり,遺体を役立ててもらえずたいへん残念ですとおっしゃったことばが印象的だった.
 志部君の告別式は志部君の49回めの誕生目である8月26日ときめ,葬犠は志部君の生前気に入っていた千葉大近くの同じ宗派の寺ときめた.千葉大,国研,東外大の三者からなる葬儀委員会の連絡により,多くの弔電がとどけられたが,韓国からのものが多く,心暖まるものが多かった (代表的なものは 『志部昭平著作集 』 (1993年9月25日刊.朝鮮語研究会編)に収めた).葬儀には志部君の恩師河野六郎先生はじめわざわざ北海道,関西からもかけつけてくださった.
 志部君の死後10月に天理で行なわれた朝鮮学会大会では志部君を悼んで黙祷がささげられた.また1993年1月刊の 『朝鮮学報 』 第146輯には菅野と藤本幸夫氏による 「志部昭平先生追悼記事」が掲載された.
 東京外大の韓国人学生が志部君の蔵書印入りの雑誌を神保町で見たという.不吉なものを感じるうち,河野六郎先生が中期朝鮮語の書籍が大量に出たようだと古本屋の目録を見せてくださった.その目録を見てみるとどう見ても,このような本の集め方をする人は志部君をおいてないので,これらは志部君の本にまちがいないと思い,東京外大図書館から特別に予算をもらって少し本をおさえた.案の定志部君の蔵書印がおされている.ところが他の古本屋の目録を見るとどうやら志部君の本はあちこちの本屋に分散したらしい.こうなってはもうなすすべがない.志部君のメモには確か本の寄贈先を書いてあったが,さりとて遺族のことを考えるとそうもいかずに,まとめてある所にひきとってもらおうと考えていた失先のことだった.こうして志部君に貸してあったわたくしの数冊の本もたぶん古本屋に行ってしまった.事実わたくしのものとおぼしき本が店頭に並んでいるという報告を受けたこともある.と同時にわたくしが志部君から借りていた数冊の本は遣族には敢て返さないことにした.それらは志部君の記念のためにわたくしのところで役立った方がかれの遣志にそうことになると確信するからである.その後志部君のコンピューターは千葉大がひきとったことと思う.その中のデータがどうなったかは聞いていない.
 1993年春志部氏一家は船橋市行田の公務員宿舎を出て近くのアパートに移ったようである.志部君は勤続年数が20年に満たずに遺族年金たるや極めて微少なものらしい.
 同年8月21日岡山県久米郡久米南町北庄の志部家で行なわれた一周忌にわたくしと I が参加した.関東しか知らないわたくしにとって岡山県の風土は,今までに志部君の話しからも幾分なりとも推察できたが,非常に豊かで,また文化水準の極めて高い地域のように思われ,かれの学問の生まれた根源の幾分かに触れた思いだった.志部君の小学校時代の後輩という僧の法話も質の高いものであり,それを聞く参会者もみなかなりの知識を持っているらしくみえた.なににもまして御両親の高い学識とその礼儀正しさからも志部君自身の人格形成のよって立つところを見る思いだった.
 同年9月25日朝鮮語研究会は第99,100回記念大会を志部君に献げ,その業績を手分けして分析した (それを1年ぶりにまとめたものが本論集である).また朝鮮語研究会は9月25日志部君の著書以外の論文をすべて集めてコピーし,それを製本したものを少部数作って関係者に配布した ( 『志部昭平著作集 』 465 + 139ページ).
 同年10月9日わたくしは格別に安秉禧先生らの御配慮もありハングル発展有功者として韓国大統領表彰を受け,また11月3日には東京で記念パーティーをやっていただく光栄に浴したが,一番このことを喜んでくれるはずの志部君の姿がないのがまことに心残りだった.
 同年秋志部君の国研時代の友人たちの呼びかけで 「志部さんのお子様方を励ますための募金」の運動をはじめることになった.1994年4月募金は365万円に達した.志部君の人望のほどが察せられる.
 1994年4月志部君の夫人は再婚し,神奈川県に移った.
 International Circle of Korean Linguistics の Newsletter No. 11 (1994年4月)には志部君の死が次のように報じられた.Deceased Koreanist. We report with regret the untimely death last year of our colleague Dr. Shibu Shohei (志部昭平), professor of Korean linguistics at Chiba University, Japan. Professor Shibu was a specialist in Middle Korean grammar and published numerous works on the subject, including a study in two volumes of the Onhae Samgang Haengsilto (諺解三綱行実圖研究), Kyuko Shoin (汲古書院) 1990 (Tokyo). Professor Shibu was 48.
 1994年7月26-28日に第2回朝鮮研究環太平洋国際会議が東京で開かれた.考えてみたら第1回は2年前の志部君の病床にある時だった,1986年の Korea学国際セミナーの時も志部君にはさんざん世話になったというよりはかれを引きずりこんでしまった.しかし今回はかれの援助なしに準備をせざるをえなかった.
 こうしてわたくしの志部君との24年近い交友はかれの死をもって一方的にうちきられた.いったいかれの何が残り,そして何をわれわれが継承しなければならないかが今問われている.

 志部君の業績をおおざっぱにまとめると次のようになるだろう.
1)中期朝鮮語の研究
a) 特に用言終止形語尾の体系 (陳述法,疑問法,願望法) − 諸論文.志部君は今後この手の小論文をいっぱい書いていくつもりだとよく言っていた.
b) アクセント − 『諺解三綱行実図研究
c) 言語資料の書誌学的研究 − 「乙亥字本楞嚴経諺解について」.この分野で志部君は文宇通り日本の最高峰をなしていたとわたくしは断定しうる.またこの分野で韓国の安秉禧,趙炳舜,李東林,南豊鉉の諸先生にたいへんお世話になったことを特記しなければならない.
d) 諺解本の様式と文語 − 「朝鮮の文宇ハングル − 訓民正音制定と新文語の育成について」.この分野で志部君は極めて緻密な考察をなした.
e) 漢字語 − 「朝鮮語における漢字語の位置」.志部君は朝鮮語で漢字語が固有語へと転化する例を中期朝鮮語から数多く見出し,おもしろい論を展開しようとしていた.
f) 日本文字資料 − 「陰徳記 高麗詞之事について − 文禄慶長の役における仮名書き朝鮮語資料」.
g) 中期朝鮮語文法 (未完) − 「中期朝鮮語1-4」.
h) 中期朝鮮語史 (未完).

g) も h) も 『諺解三綱行実図研究 』 にその萌芽がいっぱいつまっている.またかれは中期朝鮮語の単語族について考察をすすめていた.
2)日本の朝鮮語研究の紹介 − 「日本における朝鮮語研究1945-1991」.できるだけ日本人のものの紹介につとめると言っていた.

3)現代朝鮮語の解説 − 「朝鮮語と日本語 − その構造の類似性と差異性について」他.

4)日本語教育その他
 志部君の学問の特色については次のように言いうる.
 第一に実証的研究方法に徹底的に貫かれていることである.これは江実先生,河野六郎先生の影響によるものと思われる.
 第二に言語学的事実を書誌学的研究に導入したことである.ただ書誌のための書誌ではなく,あくまでもそれは言語学研究のためのものである.これは河野六郎先生と田川孝三先生からの影響によるものと思われる.
 要するにかれこそは現在日本で数少なくなってしまった朝鮮フィロロジーの最先端を行く人だった.
 第三に言語学の側面では河野六郎先生のもっとも忠実な弟子だった.語基,接尾辞,語尾,用言の諸範疇の術語,類型論的な概念 (用言複合体)等々といった諸概念はすべて河野六郎先生のものを受けついだ.しかしこの中で不規則用言,完了接尾辞 'a / 'e,その他文法の諸相に関してかれ独自のものが用意されつつあった.これらすべてのものは 『諺解三綱行実図研究 』 に随所にちりばめられている.
 かれはフィロロジストであるからといって決して共時的な体系的研究をないがしろにするような研究者ではなかったし,また言語学研究のほかに言語教育の重要性をもよく理解しうる実にバランスのよくとれた研究者だった.また専門的な研究は大衆的にわかりやすい入門書の存在を前提にしてこそ深まりうることを口ぐせのように言っていた.中期朝鮮語に関する大衆的な講座の執筆はここから出て来たものだろう.
 志部君は江実,河野六郎,田川孝三といった諸大家を師とすることのできたたいへん恵まれた存在とも言える.ただただかれの短かすぎた運命のみがかれに不幸をもたらした.
 実はわたくしは今回かれの研究の集大成であり,かつ今後のかれの研究を方向づけるもののつまっている 『諺解三綱行実図研究 』 を細かに検討,分析することにより,明らかなまちがいのリスト・アップとともにそれらを逐一列挙しようと企図したのだが,時間の都合上それらが果たせなかったので,別の機会を待ちたい.ところで今後日本の学徒には志部君の大著 『諺解三綱行実図研究 』 から教訓をひきつぎ,それをさらに発展させていく任務が課せられていることは疑いない.

 最後に志部君の人柄について言及しないわけにはいかない.
 志部君は極めて礼儀正しい人であった.これはだれもが認めることで,ここでも前に触れた.しかしこのことは大変重要なことで,人格というのは礼儀にあらわれるものであり,礼儀は決して形式ではないとかれは信じていた.したがってかれはまた品性のいやしいやからに対しては常に手きびしかった.
 志部君は一見冷淡に見える側面もあったが,極めて人情味のある人だった.人に世話になったことは決して忘れず,後進に対してはきびしいが他方暖かい面があり,いつも肯定的な面を育てる方向でものごとを考えた.
 志部君はたいそう大人で,頼りがいのある雰囲気がただよっていた.このためよく人の相談にのってあげていた,しかし単なるお人好ではなく,人のずるさを見抜く目も確かだった.わたくしなどはよく人を信じては裏切られたという思いにかられることが多いが,かれはそういうわたくしに対しては非常に批判的だった.瞬時に人を見抜くその鋭さにはわたくしはいつも感服していた.例えばさる有名な日本語学者Mなどは見かけ上の左翼的な言辞とは裏腹に実は在日朝鮮人をたいそう軽蔑する手あいだということをかれはとっくに看破していた.目本語学者Kのずるさ,インチキ性についてもかれはしばしばわたくしに警告を発してくれていた.
 志部君は一言で責任感ある, 「まじめ」で清潔な研究者だった.どんな小さなテーマの原稿にも全身をこめてうちこんでいたし,そうすべきだと信じていた.研究者の中にはよく大量の研究費をせしめてはいいかげんな論文を書いてすますものがいるが,かれはそういうことは絶対にしない人だった.それよりもよそから研究費をせしめるという発想それ自体をせず, 「自分の金でじかに歩く」人だった.かれの清潔さはもちろん恩師の河野六郎先生,江実先生と共通のものである.
 先日 I とともに神保町に行った折,きょうは志部君をしのんでかれの行きつけの店に行こうということになった. 「しやれこうべ」に寄ったら,その主人が知りあいの古書店に出た志部君の蔵書のうち一冊を記念に買ったといって見せてくれた.さらにもう一軒 「あくね」に寄ってそこでも志部君の思い出話となったが,なんと 『コスモス朝和辞典 』 の時の白水社の編集者伊吹基文氏がそこにいて,ひとしきり志部君の話しを咲かせた.なんとも因縁深い有意義な日だった.
 志半ばにしてたおれた志部君は尽きぬ恨のため魂はまだ地上をさまよっているかもしれない.残した家族,御両親のことを考えると,いてもたってもいられないことだろうと思う.かれの魂をなんとか落ちつかせてやりたいものだ.
 わたくしに関して言うならば志部君とかわしたある朝鮮語学上の約束をきちんと果たしたいものだと思っている.

 [付記]
 志部君の御両親から,志部君の三回忌にあたり志部君のための碑石に文字を記すよう要請されるという光栄に浴した.文字上の制約もあり,簡単に次のように記した.筆跡はお父様の迪夫様の心のこもったものとなるはずである.
故志部昭平氏は岡山大学と東京教育大学大学院で江実,河野六郎両教授に満洲語学と朝鮮語学を師事,昭和五十年以降国立国語研究所と千葉大学での中期朝鮮語研究の成果たる 「諺解三綱行実圖研究 」により平成四年三月十九日東北大学より博士号を授与されたが志半ばにして病没された.その功績は誠に不滅である


故志部昭平先生の業績と思い出 』,朝鮮語研究会,1994年8月 所収