百孫朝鮮語学談義 − 菅野裕臣の乱文乱筆




ロシアヘの道 − 出遅れた者の弁 −

菅野裕臣


 1993年2月下旬 わたくしは雪の降りしきるモスクワのシェレメーチイェヴォ空港に はじめて降りたった.東京からの約10時間 一部を除いてよい天候に恵まれた飛行機の窓からの眺望は わたくしの視線をまっ白なロシアの大地と地図とに交互にくぎづけにさせた.地図は結局なんの役にもたたなかったが,レナ川,イェニセイ川,オビ川ははっきりとそれとわかったし,なによりもウラル山脈を越えてヨーロッパにやっと入ったらしいことを知った時の感激は忘れられない.18年前にモンゴルヘの入口イルクーツクまでは行ったことがあるが,思えばわたくしにとってモスクワヘの道は限りなく遠いものだった.
 わたくしはわたくしより先にモスクワ行を果していた韓国の友人任軒永氏(文学評論家)のことばを思い起こしていた.『快適な国際線の機中で,私は,1920年代,30年代に独立運動家たちが何度も行き来した道のりである新義州 − ウラジオストックのコミンテルン本部 − モスクワ行き,または新義州 − 上海国際党連絡部 − モスクワ行路や,八・一五後のピョンヤン − モスクワ行路を思い浮かべていた.行程が便利で楽になればなるほど失うものは多いという思いが脳裏をよぎった.厳しい監視を避けて,日帝植民地時代の頃の独立連動家らの行き来した,目的意識のはっきりしていた苦難の旅路に比べるとき,我々の旅の道のりはあまりに豪華で何とも身のほどしらずなルンペン的行路ではないか.』 ( "Libellus" (柏書房) 1992年第2号 「レーニン廟とハンバーガー」)
 ロシア語との出会いは高校(夜間部)に通った頃からだった.若さのいたりで,あることに関ってしまったわたくしは悶々とした日々を送るうち,これではいけないと大学に行く決意を固めた.日ソ学院に通ったこともあるが,ロシア語は会社をやめて集中的に独学した.日ソ学院では,日本共産党の地下活動からはい出してきて,将来への展望のないまま,ロシア語をやっておけばそのうちなんとかなるかもしれないと考えていた朝鮮人活動家に数人会った.片言のロシア語を話すシベリア帰りもまだたまにはいた.
 わたくしは朝鮮語を含むアルタイ語をも学ぶ目的でロシア語学習の必要性を感じ,そして東京外大モンゴル科にロシア語で入学した(当時貧乏人の行ける国立大学に朝鮮語学科はなかった).果せるかなロシア語はモンゴル語学習にとっては不可欠のもので,わたくしはロシア語の恩恵をもっともこうむることとなった.当時安かったソ連のアルタイ語学関係の本も買いこんだ.わたくしの関心はもっぱらソ連の少数民族の言語にあり,ロシア語学科の諸先生とも学生ともほとんどつきあいがなかった.入試の勉強として独習したロシア語は大学入学後は忘れる一方で,わずかにロシア語で言語学書を読むにとどまった.
 わたくしのロシア語との出会いはソ連の少数民族だけでなくソ連の言語学との出会いでもあった.ソ連言語学といえば,日本のロシア語学者とは没交渉に独自に研究していた満洲帰りのOのひきいるG研究会があり,V・V・ヴィノグラードフの連語論を日本語に「適用」して主として日本語の格に関する研究を行なっていた.かれらの現代日本語学研究に対する貢献は実に大きなものがあった.現在では日本の国力伸長にともない外国人に対する日本語教育と関連して現代日本語の研究はけっこう盛んで,今ではG研究会の幹部クラスの人たちも権威となってしまったが,かれらは当時は学界からは異端視されていたし,ましてソ連言語学などというものが世間に通用するはずもなかった.それでもわたくしの理解するところでは,戦前マールの理論を紹介していたエスペランチストの大島義夫氏らを除けぱ,Oは戦後のソ連言語学のほとんどはじめての紹介者ではなかったかと思っている.
 わたくしは大学院で朝鮮語学を専攻することとなったが,わたくしのソ連の文法論に対する関心は一層強くなった.確かイェルムスレウも言っているが,ロシアは文法論に関して議論の盛んな世界のいくつかの国のひとつに数えられる.当時は科学アカデミーの 『ロシア語文法 』 (いわゆる60年文法) が出ていて,スターリンの言語学論文の出た後それを主管したヴィノグラードフに対しては日本のロシア語学者はなぜか冷淡だったようだ.むしろそれをまっこうから受入れたOはわたくしには非常に新鮮に思えた.
 こうしてわたくしはG研究会に加わることとなったが,ほどなくわたくしはそこから離脱した.Oを頭として二人の少壮学者(かれらも今は定年退官する年となってしまった)が事実上の幹部だったが,かれらのものの考え方,日本語学至上主義者といった 「狭さ」はわたくしにかれらに対する根本的な疑問を起こさせた.わたくしの大学院での恩師K先生は学問的にも人格的にもまれに優れた方だが,所詮K先生とOとでは比較にならなかった.K先生を知りもしないOはことごとくわたくしに対してK先生を罵倒したが,これは結局はOの劣等感以外のなにものでもなかった.わたくしはOのロシア語の力や ロシア人学者の論文の理解のしかた,それにK先生をも含む 「ブルジョア」学者の一般言語学に対するすばらしい理解を たいした言語学的基礎もなしに否定し,ヨーロッパ語の概念を深い考祭もなしに安易に日本語に適用するやり方に問題があると感じはじめていたし,ひたすら無批判にOに追随してやまない 「弟子」 たちに共通する傲慢さと品のなさにも我慢ならなかった.
 こうしてソ連言語学については 「師」を持たないわたくしの放浪がはじまった.60年代初期にモスクワ大学での留学を終えたS氏やら,ロシア語教育のために日ソ学院に派遣されてきたセルジュチェンコ氏(かれはマール派だった)とその夫人トダエヴァ女史(カルマック人),東洋文庫に来ていたモンゴル語学の碩学ポッペ先生,チュルク語学のバスカーコフ氏,ウラルトゥ語のメリキシヴィリ氏といった方々を通してわたくしは断片的な知識を積みあげた.アキーシナ女史がはじめて来日した時日本のソ連言語学研究者に会いたいというので,G研究会に連れていったら,Oが「われわれは日本のヴィノグラードフ学派である」といったことばを聞いて,女史はヴィノグラードフの亡霊が日本に徘徊していることを知ったのは大変な驚きだと語ったのを覚えている.G研究会の幹部の一人M氏とは,本当に久しぶりに昨年韓国のあるシンポジウムにともに招かれて行ったことがあるが,M氏は年もとったが若かりし頃の頭のさえはもはや感じさせず,かえってもっと狭くなったと感じた.
 1969年以降のわたくしの韓国留学はソ連の書籍との断絶を意味したが (ロシア語の本を韓国に持ちこむことそれ自体が反共法違反に問われた),その間ある韓国人教授の熱心な勧めで,科学アカデミー東洋学研究所のコンツェーヴィッチ氏(朝鮮語学)のソ連における朝鮮語学の概観の韓国訳をくわしい注つきで韓国の学術誌に発表した.ロシア語の原文を持ちこめないので一旦日本語訳した原稿から朝鮮語に重訳したが,これは韓国でけっこう反響を呼んだ.ソウルにはロシア人を夫人とするスウェーデン人R氏がいて,わたくしはR氏とソウルで声をひそめてロシア語で話したことを思い出す.R氏は夫人とは東京で会っていた.韓国人に頼まれてシロコゴロフのツングース語・ロシア語辞典 (手書きの原稿をそのまま影印したもの) をソウルに持ちこんだ時,税関の職員の質問に対しヨーロッパのある言語によるものだと言いはって難を逃れたものだった.反共国家韓国はさほどにロシアとは縁がなかった.
 コンツェーヴィッチ氏とはその後年賀状のやりとりをしていたが,来日した氏とやっと3年前に東京で会うことができた.韓国は一挙に反共の国是とは手を切り,コンツェーヴィッチ氏は現在韓国のある国立大学のロシア語学科の教授となっている.わたくしが論文でしかその名を知らなかったロシア人朝鮮研究者とはソウルで会える時代となった.わたくしのソウルでの常宿たる安ホテルは今はポーランド人とロシア人のかつぎ屋たちの宿と化した.ソウルの町をロシア語で大声でわめき歩いても逮捕される心配のない時世となった.
 その間 朝鮮語学研究に忙殺されるあい間を縫って,わたくしのロシアの言語学への関心は維持された.大学院時代に読んだマスロフのアスぺクト論に関する論文の日本語訳に手を入れ,それにいろいろとつけ足したものをある大学の紀要に発表したが,コンツェーヴィッチ氏からマスロフ先生の死亡を告げられたのはショックだった.できるなら直接会っていろいろ教えを乞いたかったからである.
 わたくしはコンツェーヴィッチ氏から教わったロシアの朝鮮研究者や言語学者の電話番号を頼りに,2月のモスクワ訪問にひきつづき7月にもモスクワとサンクト・ぺテルブルグを訪れた.ロシアの学者たちは皆が殊の外親切だった.初めてのロシア訪問を終え,その報告も兼ねて 4月初旬に韓国のコンツェーヴィッチ氏を訪ねたが,氏のアパートにとまりこんでロシアの東洋学と言語学について語りあかした幾晩かを わたくしは忘れることができない.
 わたくしが若い頃からあれほどまでにあこがれていたモスクワは治安の悪い町となっていて,わたくしのとまっていたロシア・ホテルはカフカスのマフィアに占領されているらしく,カフカスのさまざまな少数民族の話す目新しい発音に接しながらも,危険だからかれらと接触するなというロシア人の忠告どおり,この言語の宝庫に身を埋めながらも いかんともしがたいわが身をもどかしく思った.日本で会ったこともあるモスクワ大学のミハイル・パク先生はわたくしに10年前に来ればよかったのにと言い,ソヴェトの権力が極東に及ばなかった幼少の項からソヴェト政権の崩壊までを見てしまったわが身の不運をかこった.
 サンクト・ペテルブルグでは科学アカデミーのボンダルコ先生(機能意味論)も大学のヤーホントフ先生(中国語学)も実に親切にお宅に招いてくださり,極東の一学徒のつたないロシア語に耳を傾けてくださった.ソウルで会ったことのあるハカス人言語学者アトクニン氏にも再会した.
 ボンダルコ先生はマスロフ先生の弟子である.ヴィノグラードフはレニングラードにいたことがあるが,ボンダルコ先生はヴィノグラードフの弟子だったこともなければ,その自覚もない.ヴィノグラードフを中心とするソ連のマルクス主義言語学はボンダルコにひきつがれ,そして観念論者たるマスロフにボンダルコが対峙しているかのようなOら一流の,常に指導者と敵がいなけれぱならない式のオールド・ボリシェヴィキ的発想がなんの根拠もないことをわたくしは はっきりと確かめえた.
 ヴィノグラードフはよく後進を育て,またかれこそはむしろ西洋の言語学理論を積極的に取り入れるべきことを勧めた人である.そして実際に多くの点で暖味さを残すかれの理論に批判を加えたのも他ならぬかれの弟子たち − シュヴェードヴァ他 − であった.ペレストロイカがもっとも出遅れた社会的改革だとするならぱ,スターリン批判以後ソ連の言語学者は徐々にではあれ基本的には魂の改革をなしとげ,マルクス主義からも解放されていたというのが,さまざまなロシア人から得たわたくしなりの大まかな一応のまとめである.ただしロシアにはロシア言語学の伝統があり,プラハ学派の理論にしてもそのまま無批判にとりいれているわけではない.西ヨーロッパが自己のものをかなぐり捨ててアメリカナイズしている現在,むしろある意味ではロシアこそがヨーロッパ的伝統を保っていると言えなくもない.ボンダルコ先生はロシアの経済危機から来る学術書刊行の困難さに言及しつつも,生成文法論その他の理論のいきづまりを解決すべくわれわれは道を模索しなければならないと意慾を見せておられた.
 サンクト・ペテルブルグは言語学だけでなく東洋学の一大中心地だった.カフカス学のマール,メシチャニーノフ他,モンゴル学のヴラジミルツォフ,ポッペ他,チュルク学のマローフ他,ツングース学のツィンツィウス他,中国語のドラグノーフ,そして日本学のコンラト,ネフスキー,ポリヴァーノフ,それに朝鮮学のホロドヴィッチといった碩学がひしめきあっていた.
 ヤーホントフ先生はドラグノーフの弟子だが,ホロドヴィッチ亡き後大学とアカデミーの諸学者の統括をよく行っているとの話だった.その御子息は満洲語研究に従事している.ヤーホントフ先生はAA研の故橋本万太郎氏がレニングラードを訪れた時のことを懐しげに語られた.
 堪えがたく心が痛んだのは,科学アカデミー東洋学研究所の壁にはられた スターリン時代に粛清された東洋学者たちの顔写真とその経歴だった.ネフスキー 1937年11月24日銃殺,ポズネーイェフ 同年10月20日銃殺,そしてポリヴァーノフはフルンゼ(現ビシケク)で同年8月1日逮捕後,あれほどまでに帰りたがっていたモスクワに連行され,翌年1月25日ルビャンカで銃殺された.なお加藤九祚氏は2年前の「朝日新聞」で,ネフスキーの一人娘エレーナさんが KGB の秘密書類の中に 朝鮮語学者ホロドヴィッチが内務人民委員部第3課の秘密工作員であった事実も見いだしたとし,ネフスキーその他の銃殺にホロドヴィッチが関ったかのように書いている.
 実を言うとわたくしはホロドヴィッチ先生の 『朝鮮語文法概要 』 に感銘を受けたことがあり,この学者には着目していたが,たまたま3年前にそのお嬢さんのリュドミーラさん(日本文学,現在ブルガリアのソフィヤ大学講師)が東京外大に4ヵ月来ていた時に,親しく生前のホロドヴィッチ先生について話しを聞いていた(なお今回わたくしはサンクト・ペテルブルグでリュドミーラさんと3年ぶりの再会を果たした).先生の夫人は党員だったが,先生は非党員だったこと,先生の父親は白衛兵として革命後ヴラジヴォストークにいたこと,先生の一家は大の共産党ぎらいで,リュドミーラさんをコムソモールに入らせなかったこと等々である.わたくしはモスクワでもサンクト・ペテルブルグでも,先生を直接知る人々に先生がネフスキーを当局に売り渡すような人物なのかと尋ねてみた.先生を知る人々は皆が皆 先生の高潔な人格からしてそんなことは考えられないし,先生が生前一度も外国に行けなかったことを強調し,エレーナさんがアプラヴダーニエ(正当化)を必要としてのことではないかという人もいた.サンクト・ペテルブルグの KGB の威圧的な建物の前でリュドミーラさんは,『この屋上からはシベリアがよく見えるそうですよ.』 といい,ユダヤ人の父親が死の直前までずっとなにかにおびえていたと語った.
 ロシアについての強烈な印象は到底簡単には語りつくせない.思えばキリル字母を学びはじめて 35年以上もたってしまったが,スラヴ学専攻でないわたくしはいつも傍系として恐々ロシアに接していた.限りなく出遅れたわたくしは今やっとロシアの地に立ってみることができた.その間わたくしの考えも変わり,ロシア自体も変わった.しかしこの巨大な国の例えば言語学や東洋学についてわれわれは一体今までどれほど全体像をつかみえているのだろうか.
 わたくしの友人任軒永氏はこう書いている.『行きよりも帰りのほうが足が重いのは,もはやソ連は我々の民族民衆問題にとっては頭をもがれたサムソンでしかないのではないかという無念さのせいだった.』 しかしわたくしは思うのだ.物質的な近代化なら韓国でも 1970年以後 20年ほどでなしとげた.高い教育水準と豊かな精神文化という遺産を持つロシアが早晩新しい文化を築きあげるだろうことは疑いない.
 わたくしはロシアを知るのにはあまりにも出遅れた者だが,これからでもロシア人の学者と自由に意見を交しうるほどの語学力を是非獲得したいものだと帰りの飛行機の中で考えた.
 終始暖かく御援助くださった原卓也先生その他の方々に心から感謝する.

ロシア手帖 』 第37号 (1993年12月25日) 所収


[追記]
 G: 言語学
 K: 河野六郎 (故人.東京教育大学教授.後に学士院会員)
 KGB: Komitet gosudarstvennoj bezopasnosti pri Sovete ministrov SSSR (ソ連閣僚会議付属国家安全委員会) すなわち秘密警察
 O: 奥田靖雄氏 (2002年春逝去)
 R: スタファン・ローゼン (後にストックホルム大学教授)
 S: 城田俊氏 (北海道大学,広島大学教授)

 わたくしは後 1995-96年に念願のロシア科学アカデミー東洋学研究所への留学を果たした.この時多くの方々と再会した.バスカーコフ,セルジュチェンコ両氏,その他手紙のやりとりをしたことのあるアフマーノヴァ(言語学),ナジプ(ウイグル語学)の諸氏もすでに他界しておられた.トダエヴァ女史はモスクワにおられたが,ご高齢であり,とうとう会わなかった.シュヴェードヴァ女史には是非お会いしたかったが,お会いできなかった.メリキシヴィリ氏はグルジアにおられるそうで,これまた会うことは出来なかった.
 ボンダルコ先生には,2002年春東京外大の中澤英彦教授の尽力で来日された時,6年ぶりに再会した.
 アトクニン氏は 2001年カナダに移住したと聞いた.