百孫朝鮮語学談義 − 菅野裕臣の乱文乱筆




安秉禧(アン ビョンヒ) [特集・世界の言語学者たち <1>]

菅野裕臣


〈プロフィール〉安秉禧 1933年大韓民国生まれ.1960年ソウル大学校大学院碩士課程修了.1977年ソウル大学校で文学博士号取得.1960年以降建国大学校講師,助教授,副教授.1968年から現在までソウル大学校助教授,副教授,教授.1973−75年日本の東洋文庫・東京大学の外国人研究員,台湾の国立中央研究院外国人研究員.〈主要著作〉 『中世国語口訣の研究 』(1977),『十五世紀国語の活用語幹についての形態論的研究 』(1978)
 日本は朝鮮語学研究で前間恭作,鮎貝房之進,金沢庄三郎,小倉進平,河野六郎というすぐれた先輩を持っている.小倉進平と河野六郎は解放前(1945年以前)に京城帝国大学法文学部で研究に従事した.小倉進平は 『朝鮮語学史 』により朝鮮語資料の書誌的研究に対して,河野六郎は 『朝鮮方言学試攷 − 「鋏」語考 − 』により朝鮮語史研究に対して絶大な影響を及ぼし,事実上朝鮮語学の基礎を固めたといえる.
 京城帝大出身の李煕昇,方鍾鉉,李崇寧,金亨奎らは他学の崔鉉培,許雄らとともに解放後の韓国の国語学界をリードしていった.
 特に解放後成立したソウル大学校文理科大学国語国文学科の李煕昇と李崇寧は音韻史,系統論の李基文,音韻史の金完鎮,文法史の安秉禧,漢字音の姜信その他のすぐれた後進を育てあげ,朝鮮戦争などの困難にもめげず,執拗な努力で朝鮮語の歴史的研究を行なった.
 朝鮮の資料はほとんどソウルに集中しており,金寿卿,洪起文などの一部の学者しか北朝鮮に行かなかったことにより,南北分断後の朝鮮では資料に依存する歴史的研究は韓国が圧倒的優位を保ち,現代語研究を活発に行なう北朝鮮とは対照的であった.
 解放後アメリカに留学した李崇寧,李基文,金完鎮その他の人々によりアメリカの言語学が導入された.さらに1970年代からはアメリカ帰りの生成文法論研究者らによる現代語の研究が盛んになり,一時歴史的研究がほとんど軽視されたかに見えたが,最近はそれがまた復活したかのようである.
 韓国の国語学者は日本とは異なり言語学に対する強い関心を持ち,一般に英語等の外国語によく通じているのが特徴である.しかし逆に一般理論にふりまわされ,言語事実への注視を怠る傾向があり,このため内容の薄い,理論優先の厖大な量の論文が生産されていることも事実である.韓国のこのような状況にあって安秉禧教授の存在は韓国言語学界の中で極めて特異なものである.
 安教授の関心はまず中期朝鮮語(15世紀のハングル創制以後の言語)の文法研究に寄せられ,1960年代から体言,用言の語尾,接尾辞の機能に関する論文を発表した(このうち碩士論文 『十五世紀国語の活用語幹についての形態論的研究 』は1978年に刊行された).1987年には 『国語文法論(II) 』(李b鎬との共著)を著したが,これは中期朝鮮語の体系的文法書としては李崇寧,許雄に次ぐものであり,特に文法形式の機能に関する正確な内容をコンパクトにまとめた点が注目される.
 朝鮮語の資料は多くが諺解(げんかい)といって,漢文とその朝鮮語訳(あるものは注釈も含む)からなるバイリンガル・テキストだが,漢文は日本のものと異なり上から下に棒読みされ,漢字は音読され,体言や用言の語尾が時々挿入される(この語尾を口訣と呼ぶが,多くは漢字の略体,すなわち日本のかたかなのような文字が用いられる).安教授の第二の功績は中期朝鮮語資料精査の過程で,朝鮮の漢文もまた日本のそれと同様漢字が訓読され,返り点があったことを発見したことにあり,安教授はさらに口訣として用いられた漢字を精査して,これを博士論文として発表したが( 『中世国語口訣の研究 』,1977),これはこの分野の研究の嚆矢となった.安教授の口訣への関心は漢字のみで書かれた古代語の借字体系一般への関心に当然つらなっている.
 安教授の第三の,というよりは最大のとでもいうべき功績は言語資料の書誌学的研究にあり,この分野では他の追随を許さず,事実上韓国の書誌学一般の分野でも千恵鳳教授と肩を並べている.安教授は初期の文法研究の時期から言語資料の綿密な書誌学的研究を常時こころがけ(日本にある朝鮮本の調査も行なった),朝鮮の活字本の校正に着目して厳密な資料批判を行なった(この種の資料批判は安教授,金完鎮教授らによってしか行なわれたことがない).安教授の永年にわたる書誌学上の調査は 「中世語のハングル資料についての綜合的な考察」( 『奎章閣 』3,1979)という形で簡潔にまとめられたが,これは解放後韓国で発見された多量の言語資料にもとづき小倉進平の 『朝鮮語学史 』の記述を補正したものであり,今後の朝鮮語史研究者の座右に置くべきものとなった.
 安教授の研究の第一の特徴はその研究が事実の正確な記述に立脚していることであり,そのためわれわれは安心して安教授の論文を信ずることができるのであり,この意味で今後の朝鮮語史研究はすべからく安教授を出発点とすべきだとさえいいうるのである.安教授の研究の第二の特徴はその公平さにあり,安教授のたいへんな謙虚さとあいまって安教授の美徳をなしている.安教授の特に書誌学関係の論文集の刊行が期待される.最後に少なからぬ日本人研究者が安教授のお世話になっていることを付記する.

月刊 言語 』Vol.17 No.6, 1988 所収


[追記]
 安秉禧先生はその後1991年創設された国立国語研究院の初代院長を務められ,1998年ソウル大学を定年退職された.論文集を2冊 著された: 『国語史 研究 』, 文学知性社, , 1992; 『国語史 資料 研究 』,文学知性社, , 1992.