菅野裕臣の




X ) 菅  野  雑  記   (4)

言語とコード

2005.01
校正修正 2005.3

 わたくしは初めて英語を学んだ時, 「わたし」 , 「わたくし」 , 「あたい」 , 「われ」 , 「我輩」 , 「おれ」 , 「おら」 , 「僕」 , 「拙者」 , 「朕」 などの区別が英語にないことを知った時の驚きを思い起こす.しかも 「する」 , 「します」; 「いたす」 , 「いたします」; 「なさる」 , 「なさいます」 の区別さえないではないか? わたくしは 終戦直後のいわゆる民主化の波に乗った無智な英語教師の話とか 当時の左翼台頭の時期に合わせて出てきたクロタキ・チカラなどの 『新ニッポン語』 など (イェスペルセンの言語進化論を 「マルクス主義的に」 解釈したもの,すなわち言語は 「複雑」 から 「単純」 に向かうという単純な論) に影響されて,英語のような先進国の言語においては,日本語のような封建的な言語とは違って,文体,敬語などの別がなくなっているという珍奇な説を単純にも信じていた.

 ついでながら クロタキ・チカラやエスペランティスト大島義夫らの行っていたという s.n.r. (ス・ヌ・ル) 運動 (多分 「新日本ローマ字運動」 ) らの依拠した俗流言語進化論が 彼らの信奉したもう一方のマル派理論と関係があるのかどうかは知らないが,彼らのローマ字に大文字がないのが 1920年代の旧ソ同盟でのラテン字化運動における大文字の不使用と関連がありそうなことはうかがえる.

 わたくしははじめ熱烈なローマ字論者になり,日記をローマ字でつけたりした.日本のローマ字論者もカナモジ論者も漢字の弊害を訴えるのは,第1に漢字の数の多さに伴う教育の困難,第2に漢字の使用に伴うおびただしい量の同音異義語の問題,そして第3に漢字語が純粋の日本語ではないという一種の民族主義である.わたくしは後に朝鮮語を学ぶに及んで,朝鮮語の方が日本語よりも同音異義語が少ないとはいえ (それは多分中国漢字音に対応する朝鮮漢字音の利用する朝鮮語の音素が 日本語のそれよりも多いことによるものと思われる),基本的に3つの点は日本語の場合と同じであることを知った.

 日本のローマ字論者には自然科学に従事する人々がおり,彼らのよくするドイツ語の影響もあり,ローマ字の大文字と小文字の使い分け,ドイツ語で das + 不定詞 (大文字で始める) が動作名詞化することに倣って 日本語でも動詞の終止形/連体形を大文字で書いて名詞化させる提案 (例:das Sein -- Aru wa/o/ni/kara...) を行う人もいた.彼らはドイツ語の 「純粋さ」,すなわち外来的要素の少なさに魅惑され,特に日常言語と学術言語の差異の少なさを模範と捉え,そのためにあらゆる努力をした.この努力はまことに貴重な経験ではあった.多くの場合 漢字語の大和言葉への置き換えが行われた.例えば 「推進する」 = 「推し進める」.しかし 「工業化を推進する」 を 「工業化を推し進める」 とすることまではよいのだが ( 「工業化」 という語彙の置き換えをさておくとして) , 「工業化の推進」 は 「工業化の推し進め」 とでもするのか? いずれにせよそれが不自然であるとしたら,それ以上はもうお手上げである.こういう共通の悩みを抱えるモンゴル語は この場合 「工業化を推し進めること」 のようにするであろう.しかしこの場合でも日本語同様 動作名詞がないことには変わりない.つまり 「工業化の推進」 を日本の大和言葉もモンゴル語も言い換えるすべを知らないのである.

 言語の民主化に合わせて 「やさしい言葉」 が強調され, 「です」, 「ます」 調がそうであるかのような錯覚も生じた.しかしそうしたところで 日本語のおびただしい量の漢字語がそのままである以上,言語が格別やさしくなったわけではない.このようなまやかしのやさしさを 奥田靖男氏はとっくに批判していた.

 ローマ字論者が実は決して欧化論者ではなく,純粋な日本語の求道者であったこと,その源泉が純粋なドイツ語の姿にあったことは明らかである.日常生活で用いる純粋なドイツ語で学術も芸術も出来れば こんな幸せなことはないではないか! かれらこそは 中国という外来的要素を廃そうとした本居宣長の現代版であった.わたくしもまた彼らの姿勢に打たれたのは,わたくし自身言語上の国粋主義者だったからでもある.わたくしはもう一つの 「純粋な」 言語ロシア語を学ぶに及んでその純粋さ,すなわち造語力の豊かさと外来的要素の少なさに心打たれた.

わたくしは韓国に留学するに及び,韓国の漢字廃止運動,ハングル専用運動にも大いなる関心をいだいた.日本より先に韓国で漢字を廃止してくれれば,極東の漢字文化圏崩壊のための 重要な麗しき国際的連帯が出来上がるのである.後は中国での漢字崩壊を待つのみだ! 

 わたくしはすでにローマ字書きの日記に行き詰っており,学生時代 言語学の術語を大和言葉に移し変えたり,外国語を日本語に訳するに際し 不自然なことをある程度承知の上で 出来るだけ大和言葉を使ったりしたが,友人に訳語のあまりの幼稚さを指摘されて腐ってもいた.他方 ローマ字論者をもって任ずる進歩派言語学者たちも 一部の 「言葉直し」 をしはするものの (例えば 「アスペクト」 を 「すがた」 に),相変わらず多くの漢字語で論文を書いていた,というより書かざるを得なかったではないか? しかもローマ字論者たちは 表語文字 > 音節文字 > 単音文字 という文字発展の単純な段階論に毒されていた.しかしわたくしは韓国のハングル専用の実態を見て 決定的に自分の考えを変えた.わたくしは造語力ということで言えば,全体として朝鮮語が 造語力の極度に劣った日本語以上に それが豊かであるなどとは思っていないが,大和言葉化のためになされた日本人の努力以上のものが格別見られたわけでもない韓国でわたくしが見たものは 漢字の知識のなさから来る概念の曖昧化だった.例えば 「公害」 ”” GoqHai (= public nuisance) は 漢字を知らない多くの韓国人に いまや 「空気の害」 と捉えられている (朝鮮語では 「公」 と 「空」 とは同音である).ソウル大の学生たちのまくビラに書かれたおびただしい数の漢字の誤字は 当然のことながら同音の漢字によるものであり,上記の 「公害」 > 「空害」 型のものだった.

 わたくしはここにおいて悟った.先人の執拗な貴重な努力にもかかわらず,わが日本語は,純粋性という観点で見る限り,漢字語によって毒されきった言語であり,ヨーロッパの諸概念をそれなりに漢字形態素により移し変えてきた経験は いまさら別の形に移し変え得ないほど日本語化してしまっていることを.勿論 「やさしい言語」 を目指すべきではあるが,それは決して言語の表現豊かさを犠牲にしてではない.われわれは むしろ漢字語という外来的要素をも日本語の豊かさの一部と認めるべきだという結論である.この結論は,しかし正直言えば,ドイツ語やロシア語に対する憧れを残したところで,次善の策として認めたものではある.ローマ字論者やカナモジ論者の論拠の第3点,すなわち民族主義の放棄は,第1点,すなわち漢字教育の困難と 第2点,すなわち同音異義語の問題を甘受する立場ではある.

 その間北朝鮮では 主体思想樹立運動の一環として漢字語を固有語に置き換える運動を開始したが,例えば ”” JigJeb-RieqDo-Ha-Si-Da ( 「直接領導なさる」 ) を ”” Son-Jab'a-'iGGyr'e-Ju-Si-Da ( 「手を執り引っ張ってくださる」 ) などとした言い換えは失敗し,しかも 「社会主義」 ”” SaHoiJu'yi,「資本主義」 ”” JaBonJu'yi は はなから言い換えさえ出来ないでいたのである.朝鮮語は 日本語同様 「純粋さ」 において中国的要素に敗北していることを認めざるを得ないのである.日本も朝鮮も 言語上の民族主義は すでに事実上 「現実」 から敗北を喫したというべきなのである.

 上記の第1点は漢字の制限によりある程度克服可能であり,現に中国では教育の普及後は繁体字でさえ復活の気味があり,コンピューターの普及がさらに追い討ちをかけている.日本や朝鮮での漢字使用の必要性の最大の根拠は 結局 第2点ということになる.同音異義語が日本語で多数を占めていることは,パソコンでかなを漢字に変換するに際して誰でもが味わう最大の難点であり,外国人の味わう日本語の難しさの最大の理由らしい.しかしわれわれが更なる努力をもってしても 同音異義語を食い止めることが出来ないのである以上,われわれは積極的に漢字を用い,それを正確に教育するしかないのである.

 このように日本語への漢字形態素の導入を認めることは,すでにローマ字論者やカナモジ論者が主張してきたように,日本語に大和言葉と漢字形態素という いわば二重言語生活を日本人に要求することに他ならない.すなわちわれわれは多くの場合 例えば 「やま」 : 「山 (サン) 」 , 「こころ」 : 「心 (シン) 」 , 「うつくしい」 : 「美 (ビ) 」 , 「うごく」 : 「動 (どう) 」 等のような対を会得しないと 日本語それ自体の理解が不可能になるのである.つまりわれわれ日本人は,生まれた時から学んだ日本語に加えて 学校教育を通じて漢字形態素を学ぶことによって,日本語と漢字形態素という2つの言語的コードを会得するのである.

  「どの言語共同体も一定の交際手段―言語,その方言,ジャルゴン (通用語) ,言語の文体的変種を用い」 , 「そのような手段を コード (code, / kod) と名づけ得る」 . 「もっとも一般的な意味ではコードは伝達手段であり,すなわち自然語 (ロシア語,英語,ソマリア語等) ,エスペラントのタイプ あるいは現代の機械言語のタイプの人工語,モールス符号,手旗信号等である.」 これは 「言語的コード (linguistic code, / jazykovoj kod)」 について . . , . . , , : , 2001, 24 . / V. I. Belikov, L. P. Krysin, "Sociolingvistika", Moskva: Rossijskij gosudarstvennyj gumanitarnyj universitet, 2001, 24 str. (V・I・ベーリコフ,L・P・クルイシン, 『社会言語学』 ,モスクワ:ロシア国立人文大学,2001,24ページ) でなされている定義である.言語的コードは多くの場合 多言語社会に特徴的だが,一つの言語の内部にも下位コード (subcode, / subkod) としてあらわれ得る.日本語における日本語形態素と漢字形態素が正にそれである.

 ドイツ語やロシア語のように造語法がよく発達している純粋な言語は 概して下位コードは一つしかないと言い得るが,日本語のように下位コードが複数ある言語の場合,主たる下位コード ― 自民族的要素 ― ならぬ別の外来的下位コード ― この場合漢字,すなわち日本漢字音を伴った漢字形態素 ― の存在それ自体が 日本語話者に中国語の習得をある程度容易にさせている.このような状況は朝鮮語の場合も同じだった. 「同じだった」 と言ったのは 南北朝鮮では漢字を公式の場から追放した,すなわち朝鮮語における下位コードを2つから1つにしてしまおうという,言い換えれば漢字という字形がなくなることにより,まだ朝鮮語に存する漢字音と漢字の字形との関連が絶たれ,その結果として漢字音と形態素の意味との関連が曖昧化する状況を作り出してしまったからである.朝鮮はこの点でますますヴェトナム化の道を歩むに違いない.つまり朝鮮語における下位コードの単一化こそが民族主義と合致するのだが,ドイツ語やロシア語とは異なり,造語力の極めて貧弱な朝鮮語にあっては,前に見たように,概念の曖昧化しかもたらさなかった.現在 韓国の企業の側から漢字の知識を社員にもとめる風潮の生じているのは,国民の正確な概念の保持によってしか近代化を達成し得ないことを認識している進歩的企業の当然の要求だろう.

 さてこのような1言語内部の2つ以上の下位コードの存在は なにも日本語や かつての朝鮮語,ヴェトナム語に限ったわけではない.有力な言語 (A) と隣り合った下層の言語 (B) は 多かれ少なかれ (A) から借用語を大量に受け入れ,その際に音韻論的特徴さえ異なり得る.これを Mathesius は 「語層」 と呼んでいる.「語層」 は (A) , (B) に多くの場合 文体的差異 (書き言葉と話し言葉 / いかめしい言葉と親しみのある言葉) を付与するのに貢献している.日本語では漢字語に多く拗音,長音,撥音,促音が見られ,朝鮮語では漢字語に終声 // /d/ はあらわれず,その他いろいろな音韻的特徴を持つので 固有語形態素と漢字語形態素の識別が比較的容易である.日本語には ほかに擬声擬態語の語層があるから (パ行音,チャ行音の存在) ,例えば 「朴正煕」 Bag-JeqHyi を 「ぼくせいき」 と読むと,その人物が威厳あるように思うが, 「パクチョンヒ」 と言うと,擬声擬態語よろしく,軽く感じられるのである.
 英語のようなハイブリッドな言語 ( (A) :フランス語を通したラテン語, (B) ゲルマン系言語 ) は 日本語や朝鮮語と似ている.(A) in-/(B) un- (否定), (A) 最後から2番目の音節 / (B) 形態素の頭 (アクセントの位置),(A) にのみある音素: //, /kw-/, /w-/,(B) にのみある音素: /-/ (形態素末), /hw-/ 等.
 ロシア語には ロシア語 (B) ― 古代教会スラヴ語 (A) の語層があるから,実は古代教会スラヴ語 (A) も別のコードと認めてよいかも知れない.以下 (B), (A) の順序: oro - ra, olo - la, zh - zhd, ch -- shch ( / storona <側> - / strana <国>, / gorozhanin <都市住民> -- / grazhdanin <公民,市民>), / molodoj <若い> -- / mladshij <年少の>, / gorjachij <熱い> -- / gorjashchij <燃えている>).
 さらにモンゴル語 (B) はモンゴル文語 (A) という下位コードを認め得るかも知れない.TYPYY / tr <頭 (身体) > - YY / tergn <頭 (首領) >.
 例えばウズベク語 (B) はさらにペルシャ語 ‐ アラビア語 (A) という下位コードを持つが,音素 /h/, /'/ は (A) にしかない.ウズベク語 (B) : ペルシャ語 ‐ アラビア語 (A) という関係は 日本語における日本語 (B) : 漢字形態素 (A) という関係とよく似ている.似ていないのは 前者に漢字音に当たるものがないことである.
 多かれ少なかれ語層的特徴は少しずつ異なるが,カザク語,クルグズ語,カラカルパク語,トゥルクメン語,アゼルバイジャン語,トルコ語も同様である.他方タジク語 (ペルシャ語に似る) (B) は アラビア語 (A) という下位コードを持つ.つまり ウズベク語 − ペルシャ語 ‐ アラビア語という3つの下位コードがあるとさえ言えるのだが,知識人でない限りペルシャ語とアラビア語の区別は普通つかない.

 以上 下位コードについて述べたが,多言語社会ではコードが複数あることになる.ウズベキスタンという多言語社会では 多くのウズベク人はウズベク語 (B) とロシア語 (A) という2つのコードを持ち,タジク人はタジク語 (B) とウズベク語 (A1) とロシア語 (A2) の 3つのコードを持つ.この場合 (B) は非支配民族の言語,(A) は支配民族の言語である.(B) の民族は (A) を学校教育で学ぶ.ウズベク語は現在 (A1),すなわちタジク人にとって支配民族の言語であるが,歴史的には (B),すなわちウズベク語の下位コード (タジク語) だから,ウズベク語の語彙の多くの部分はタジク人にとってほとんど既知の知識である.一般にウズベク人よりもタジク人の方が ウズベク的要素,タジク的要素,アラビア的要素の違いに関して敏感である.ウズベク人はウズベク語学校に通う者 (b1) とロシア語学校に通う者 (a1) とではウズベク語の能力に差が出来る.すなわち後者 (a1) は 日常的なウズベク語会話以外は著しく言語能力が劣り,その結果ラジオもテレビを新聞もほとんどロシア語のみによることとなる.同様にウズベク語学校に通うタジク人 (b2) と ロシア語学校に通うタジク人 (a2) は,後者 (a2) は 上記の (a1) に似て 日常的なタジク語とウズベク語会話以外に ほとんどロシア語により,前者 (b2) は上記の (b1) に似て 日常的なタジク語とウズベク語会話 及びウズベク語の書き言葉を習得するが,タジク語の書き言葉はまず無理である.他方 ウズベク人もタジク人も日本語と英語が一般に上手だが,どうやら 日本語学習はウズベク語 = タジク語のコードから,英語学習はロシア語のコードから出発しているらしいのである.因みにウズベク語と日本語,ロシア語と英語の文法構造は似ている.彼らが2つ乃至3つのコードを持っていることは 更なる言語の獲得を有利にしているのである.

 上の図式で述べた下位コード (歴史的に文化の優位度による),コード (民族の支配/非支配),学校の主たる教授言語に関して (A), (A), (a) は 母語 (native language, / rodnoj jazyk) を示したのであって 民族を示したのではない.また (B), (b)は 多かれ少なかれピジン化するのは避けられない.それにしては旧ソ同盟はよくもロシア語教育を徹底したものだと感嘆してしまうほど,ピジン化の度合いが小さい.上の図式で 多くの在日朝鮮人は日本人と同じ扱いとなる.従って 彼らの朝鮮語は程度の差こそあれ日本語の影響を蒙ったピジンである.中央アジアの朝鮮人 (高麗人) は1世のそれは勿論朝鮮語だが,2世 (基本的に中央アジア強制移住後に生まれた者) となると家庭環境,学歴,居住空間の差などによって複雑である.朝鮮語による学校教育をたいして受けていない彼らは 日常生活においてもロシア語の比重が極めて高く,むしろインテリであればあるほどロシア語に対する依存度は高く,夫婦間,家庭での会話でさえしばしばロシア語で行われる.彼らにあってはロシア語が母語と間違われるほどだが,実際には母語は朝鮮語である.この場合のロシア語を第一言語 (first language, / pervyj jazyk) と呼ぼう.一般に高麗人においてロシア語が第一言語となった後,次の世代で完全に母語となってしまうのに対し,ドゥンガン人は世代の差を超越してドゥンガン語を母語としてよく保つ.

 現在ウズベキスタンでは ロシア語を英語に切り替えようとしているが,これは事実上ロシア語の切捨てを意味し,かえってさまざまな弊害をもたらす.ウズベキスタンのような多民族国家には ウズベク人やタジク人だけでなく 数多くの民族がいるので,ロシア語の消滅は民族間の交際に重大な支障をもたらす.ウズベク人はウズベク語をウズベキスタンの国語として普及させようとしているが,朝鮮人のようにウズベク語よりもロシア語を選ぶ者も多い.つまり多民族国家ウズベキスタンでのウズベク語の国語化は すなわちウズベキスタンの国民国家化であり,言語コードの単一化である.ウズベキスタンが将来英語教育に力を尽くすつもりであり,すなわち英語をウズベク語とならんで重要なコードとしようとしているとはいえ,英語がロシア語に取って代わることはないだろう.

 国によっては2つのコードの所有,すなわち2言語併用を 教育の力でほとんど実現した国がある.オランダ,デンマーク,スウェーデン,ノルウェーなどの北欧諸国では 年配者まで英語が通じるという.これなどは 所有する言語と 学ばれる言語の 極度の類似性のおかげが大きい.言語の 「類似性」 という場合,形の上の類似のほかに構造上の類似があり得る.スラヴ諸語は形が極度に相互に似たものが多いが,ロシア人にとり 語形変化の少ない英語よりも 語形変化の多いドイツ語の方が易しく感じられるのは,単語の形それ自体の類似よりも 接頭辞や接尾辞と語根との関係がロシア語のそれと似ていることによるという.例えば基本的にラテン語形そのものである英語形 "in-flu-ence" (影響), "trans-lat-ion" (翻訳) に対応する ドイツ語形 "Ein-fluss", "Ueber-setz-ung",ロシア語形 "-- / v-li-janie", "- / pere-vod" の双方とも ラテン語からの calque (なぞり,翻訳借用) である (すなわち3者とも逐字的には 「流れ込み」, 「移し変え」 という意味).この calque による造語法により生産されたハンガリー語やフィンランド語の語形は 形こそまったく似ていないものの,接辞や語根との関係が一定でありさえすれば,学習者にはさほど負担とならないのである.

これが 韓国で英語教育をこれらの国並みに行おうとすると 当然問題が生ずる.英語との言語学的差異があまりにも大きいからである.それはわが日本についても同様である.アルタイ系諸言語の構造からして 本来接頭辞がなく,中国語には接辞一般がなく,ヨーロッパの諸概念を calque の方法で移し変えることは ほとんど不可能である.ヨーロッパ諸語とわが言語との間には 形の上は勿論 構造上もいかほどの類似点もないのである.日本,朝鮮,ヴェトナム,中国の漢字語の場合,名詞的,形容詞的,動詞的要素の結合 (多くの場合2形態素の結合) からなるのだが,勿論 漢字語が概念それ自体を直接表示し得るのではなく,ヨーロッパ語の場合と同様,概念を暗示する程度の曖昧なものであるとしても,漢字形態素の造語力に勝る力が 日本語や朝鮮語に内在するなどとは到底考えられない.例えば 「完了」 , 「完成」 , 「終了」 , 「終結」 , 「遂行」 , 「達成」 , 「成就」 , 「完遂」 等がいかほどの違いがあるのかは分からないが,大和言葉にはこれほどの造語力を期待することは出来ない.

つまり実は朝鮮語 ― 英語,日本語 ― 英語ほどに差異の激しい ウズベク語 ― ロシア語の関係において ウズベク人がロシア語を習得した過程では,われわれとは比較にならないほどの方法が取られたに相違ない.ウズベキスタンがロシア語を放棄するということは ある意味ではロシア語による利点をも放棄することを意味するのである.ウズベク語の科学論文の文体がロシア語の直訳体であることを考慮するなら,ロシア語の知識の欠如は文体の変化さえもたらすかも知れない.

 最近の日本語を見るに,よく指摘されることだが,上に述べた日本語,漢字語形態素のほかに 英語が下位コードとして入るかも知れない.最近のコンピューター用語を見ればよい.日本語は3つの下位コードを持ち,日本では さらに英語をもコードとしようとしていると言える.日本語のように国際的に不利な言語しか持たない国は,自尊心をかなぐり捨てても英語をコードとして認めておいた方が,将来利益があろう.けだしヨーロッパ的価値観が優位を保つうちは,英語をヨーロッパの代表として認めておけばよい.

 日本は 日本語形態素及び漢字語形態素という下位コードと 英語と言うコード (これはすでにかなり下位コード化している) の最低限3つを 学校教育で確立することが求められている.けだし漢字語形態素が 事実上近代に日本から中国,朝鮮,ヴェトナムに向け 100年以上も前から発信された4国に共通する貴重な遺産であるからには なおさらのこと,わざわざこれを捨て去るには及ばない.効率主義がすべてに先行し得るものではないことは,戦後日本から漢字を追放しようとした おせっかいなアメリカ占領軍の一軍人の思いつきが成就しなかったことを見るだけで十分である.

 日本語の文字生活を簡単にすることが ヨーロッパ化の観点からの日本語の国際化であるとする見解は,結局のところ 言語と文字に対する社会言語学的考察の不十分さに起因したものであることを認めざるを得ないのである.

追記: 以上の文を私的にある方に送ったところ、次のような感想をいただいた。なお引用は当サイトの慣例に従って、本来の改行部に1行の空白を挿入した:

 お送りいただいた文章のうち、特に 「言語とコード」 には感銘を受けました。最近私も日本語についていろいろと考えることが多いのですが、先生のご説の通り言語内の 「下位コード」 という概念を認めることが、社会言語学のみならず言語学のあらゆる分野において是非とも必要であると私も思います。日本語や朝鮮語や英語 (さらに私は全く知りませんがウズベク語やタジク語、ペルシャ語等々) のような言語の話し手は、知らず知らずのうちにコードスイッチングをして話しているのであって、それは、本質的には高麗人2世のコードスイッチングとさほど違うものではないのだと思います。最近私は、昔ほんの少しかじっただけでやめてしまっていた中国語を熱心に勉強しているのですが、日本人にとっての中国語学習とは、ロシア語やドイツ語の学習とは非常に違うものであるという印象を強く持っています。私にとって中国語とは、ロシア語やドイツ語とは本質的に違って、半分は 「外国語ではない」 という感じがするのです。そして、恐らく英国人がラテン語の後裔たるイタリア語やスペイン語を学ぶときにも、私が中国語に対して持っているのと同じ印象を持つのではないかと思われて仕方がありません。

 ドイツ語とロシア語がラテン語形態素を calque によって排除することに成功したのとは逆に、英語はそれをしなかったために口語と文章語の文体論的な乖離が甚だしく大きく、それが少し以前までの、つまり私自身が属する年齢層を含む日本人が、高校教育でかなりの時間を割いて英文の読解を教えられ、熱心に勉強すれば文献を読むことはできるようになっても会話が非常に不得意であったことの最大の原因であることは間違いないと思います。我が国では、「文法を教えるから会話ができない」 などという支離滅裂な非難を世間に跋扈させた結果として英語の文章語 (つまりラテン語系) 下位コードの文法・語彙の教育を守ることができず、今日では会話も複雑な文の読解も両方ともできない学生を量産する結果になってしまいました。この責任の一端は、奇妙な初級英語教育法ばかりを考える英語教育法研究者のみならず、この 「下位コード」 という概念を理解していなかった日本の言語学者にもあるのだと思います。私がロシア語を学んだ経験から言えば、「英語の会話が苦手なのは、英語のゲルマン系下位コードの文法・語彙が十分に身に付いていないからだ」 というのが真実のところであって、世によく言う 「文法知識が邪魔をするから話せない」 からでは決してないと思います。

 私自身の世代の日本人が英文読解はできても会話はできないという現象とはつまり、日本語を習ったこともない中国人が日本語の新聞を見るとき、ひらがなさえ知らなくてもかなり理解できるが、話すのは一切不可能であることと同じ現象であるのだろうと思います。全く同様に、スペイン人が英語の文章を見ると、英語を全く学んだことがなく、それゆえ話すことは全くできない人でもかなり理解できるという話を、昔スペイン人から聞いたことがあります。あえて大胆な言い方をすれば、今日でも日本語とは 「倭語・漢語混用コード」、英語とは 「アングロサクソン語・ラテン語混用コード」 であるに他ならないと言えるのだろうと思います。

 そうであるならば、英語がラテン語系下位コードをロマンス諸語と共有し、それを学問用の言語としているのと同様に、日本語が漢語系下位コードを中国語、朝鮮語やベトナム語と共有していることをも肯定的に認めてそれを活かすことを考えるべきであり、つまりは、漢字・漢文教育を充実すべきだとの結論が導かれるべきであると私も思います。漢語は完全に日本語の下位コードの一つとなっているのであって、また一方で、我々日本人にとって中国に対する事大主義は千年以上前になくなっているがゆえに漢語を使うことを事大主義に結びつけて考えることなど一切ないのですから、朝鮮・韓国とは違ってその意味での反発はあり得ません。初等・中等教育で漢字学習に時間がかかりすぎるとはいっても、それは文字を学んでいることに留まるものではなく、漢字を学ぶと同時に、学問用下位コードである漢語コードを学んでいるのだと考えれば、決して無駄な時間を費やしているのではないということになるはずです。また、日本語における漢語コードの存在とは、英語におけるラテン語系コードの存在と全く同様に近隣諸言語との共通の財産であって、それが存在するが故にこそいずれの場合も普通の人々にとって近隣諸言語が学びやすくなっているのだということも、現在以上に積極的に評価すべきであると思います。それゆえ私は、韓国における漢字教育の再強化の動きをも内心非常に歓迎しています。漢語という共有の財産をそれぞれにおいて是認し、かつこれを活かすことは、大げさに言えば近代の国民国家論を超克することに繋がることですし、また偏狭な民族主義を排して、古代から連綿として存在し続けてきた東アジア文明圏の、本来の自然な姿に立ち戻ることに他ならないからです。

東北大学  柳田賢二