2005.01
校正修正 2005.3
追記: | 以上の文を私的にある方に送ったところ、次のような感想をいただいた。なお引用は当サイトの慣例に従って、本来の改行部に1行の空白を挿入した: |
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お送りいただいた文章のうち、特に 「言語とコード」 には感銘を受けました。最近私も日本語についていろいろと考えることが多いのですが、先生のご説の通り言語内の 「下位コード」 という概念を認めることが、社会言語学のみならず言語学のあらゆる分野において是非とも必要であると私も思います。日本語や朝鮮語や英語 (さらに私は全く知りませんがウズベク語やタジク語、ペルシャ語等々) のような言語の話し手は、知らず知らずのうちにコードスイッチングをして話しているのであって、それは、本質的には高麗人2世のコードスイッチングとさほど違うものではないのだと思います。最近私は、昔ほんの少しかじっただけでやめてしまっていた中国語を熱心に勉強しているのですが、日本人にとっての中国語学習とは、ロシア語やドイツ語の学習とは非常に違うものであるという印象を強く持っています。私にとって中国語とは、ロシア語やドイツ語とは本質的に違って、半分は 「外国語ではない」 という感じがするのです。そして、恐らく英国人がラテン語の後裔たるイタリア語やスペイン語を学ぶときにも、私が中国語に対して持っているのと同じ印象を持つのではないかと思われて仕方がありません。
ドイツ語とロシア語がラテン語形態素を calque によって排除することに成功したのとは逆に、英語はそれをしなかったために口語と文章語の文体論的な乖離が甚だしく大きく、それが少し以前までの、つまり私自身が属する年齢層を含む日本人が、高校教育でかなりの時間を割いて英文の読解を教えられ、熱心に勉強すれば文献を読むことはできるようになっても会話が非常に不得意であったことの最大の原因であることは間違いないと思います。我が国では、「文法を教えるから会話ができない」 などという支離滅裂な非難を世間に跋扈させた結果として英語の文章語 (つまりラテン語系) 下位コードの文法・語彙の教育を守ることができず、今日では会話も複雑な文の読解も両方ともできない学生を量産する結果になってしまいました。この責任の一端は、奇妙な初級英語教育法ばかりを考える英語教育法研究者のみならず、この 「下位コード」 という概念を理解していなかった日本の言語学者にもあるのだと思います。私がロシア語を学んだ経験から言えば、「英語の会話が苦手なのは、英語のゲルマン系下位コードの文法・語彙が十分に身に付いていないからだ」 というのが真実のところであって、世によく言う 「文法知識が邪魔をするから話せない」 からでは決してないと思います。
私自身の世代の日本人が英文読解はできても会話はできないという現象とはつまり、日本語を習ったこともない中国人が日本語の新聞を見るとき、ひらがなさえ知らなくてもかなり理解できるが、話すのは一切不可能であることと同じ現象であるのだろうと思います。全く同様に、スペイン人が英語の文章を見ると、英語を全く学んだことがなく、それゆえ話すことは全くできない人でもかなり理解できるという話を、昔スペイン人から聞いたことがあります。あえて大胆な言い方をすれば、今日でも日本語とは 「倭語・漢語混用コード」、英語とは 「アングロサクソン語・ラテン語混用コード」 であるに他ならないと言えるのだろうと思います。
そうであるならば、英語がラテン語系下位コードをロマンス諸語と共有し、それを学問用の言語としているのと同様に、日本語が漢語系下位コードを中国語、朝鮮語やベトナム語と共有していることをも肯定的に認めてそれを活かすことを考えるべきであり、つまりは、漢字・漢文教育を充実すべきだとの結論が導かれるべきであると私も思います。漢語は完全に日本語の下位コードの一つとなっているのであって、また一方で、我々日本人にとって中国に対する事大主義は千年以上前になくなっているがゆえに漢語を使うことを事大主義に結びつけて考えることなど一切ないのですから、朝鮮・韓国とは違ってその意味での反発はあり得ません。初等・中等教育で漢字学習に時間がかかりすぎるとはいっても、それは文字を学んでいることに留まるものではなく、漢字を学ぶと同時に、学問用下位コードである漢語コードを学んでいるのだと考えれば、決して無駄な時間を費やしているのではないということになるはずです。また、日本語における漢語コードの存在とは、英語におけるラテン語系コードの存在と全く同様に近隣諸言語との共通の財産であって、それが存在するが故にこそいずれの場合も普通の人々にとって近隣諸言語が学びやすくなっているのだということも、現在以上に積極的に評価すべきであると思います。それゆえ私は、韓国における漢字教育の再強化の動きをも内心非常に歓迎しています。漢語という共有の財産をそれぞれにおいて是認し、かつこれを活かすことは、大げさに言えば近代の国民国家論を超克することに繋がることですし、また偏狭な民族主義を排して、古代から連綿として存在し続けてきた東アジア文明圏の、本来の自然な姿に立ち戻ることに他ならないからです。東北大学 柳田賢二