菅野裕臣の




X ) 菅  野  雑  記   (3)

言語と不平等

(2005/01)

 「人間は生まれながらにして平等である」 などと言ったって,たまたま生まれついた国が貧乏か金持ちかで人間が不平等であるぢゃないかとまでは言わないまでも,われわれの関心事である言語だけを取ってみても,英語国に生まれるのと 日本語しか通じない国に生まれるのと どっちが有利かと考えてみただけで十分である.多くの場合 「違い」 があるということ,即 「不平等」 である.

 言語学者にとって言語に優劣はないというのが近代言語学の常識ではあるとはいえ,そこで普通取り扱われる言語は有力な言語だけであり,もしも 「平等」 を 「対等」 あるいは 「均一」 と言う風に理解するならば,事実上は言語学においてさえ言語は平等ではなく,多かれ少なかれ不利益を蒙っている言語が大部分なのである.まして人間は利益 (これも種類が多い) だけで平等性を判断しているわけでもなく,金のかかる平等よりも金のかからない不平等を好む人もいようし,不名誉な不平等よりも名誉ある平等を選ぶ人もいよう.だいたい不平等のどこが悪いのかという発想だってあり得るのは何も言語に限ったことではない.しかし不平等こそ個性の違いであると開き直れないのは,言語というのは言語形成期を過ぎたらほとんど習得不可能であるようなものであることによる.

 そもそも たいしたことのない英米人におまえはこんなことも分からないのかと言わんばかりに英語でまくしたてられて,民族的自尊心が傷つけられない人間がいようか? われわれがアイデンティティーの動物である以上,民族的,個人的自尊心がある以上,損得だけで問題を考えるわけにはいくまい.とはいいながら利益 (経済的,時間的) をまったく無視し得ないのが生活であるから,英語が全世界で普及しているのも動かしがたい事実なのである.結局は俗っぽいが,自尊心と利益との両立あるいは融合を図らざるを得ないということになるのか? 

 限られた言語,選ばれた言語,すなわち国連や国際会議での作業言語とか,ある種の国々 (ロシア,インドその他多民族国家) でのいわゆる公用語とか通用語といったものの対極にあるのが,EU の全加盟国の言語などにあらわれる多言語主義的原則である.端的に言って前者は効率よく,後者は効率悪いが,前者は自尊心を損じ,後者は自尊心を満足させる.

 そこで その矛盾を解決しようとするのが 「国際語」 とか 「世界共通語」 とかいう類のものである.その際 「国際語」 と 「世界共通語」 の概念がどう違うかということはあまり意味を成さない.ここでも一つを 「選択」 するのであるからには,それが自然語であれ人工語であれ,死語であれ生きている言語であれ,ヨーロッパ語であれアジア語であれ,不平等でないはずはないのである.よくエスペランチストが エスペラントこそ平等だと言うが,あれは人工ヨーロッパ語 あるいはヨーロッパ語に似せて作られた人工語であって,英語を知らない日本人には結構難しいものであり,ヨーロッパ人には習得が容易であるという点でやはり不平等である.文法的に簡単だという点では むしろ中国語とかムラユ語/インドネシア語の方がやさしいとさえ言えるのである.事実わたくしの知人でインドネシア語の専門家は インドネシア語を国際語とすることを提案している.この際ヨーロッパ人の非難轟々であろう.限定された地域での共通語ということで言えば,日本,台湾,香港,中国など漢字を用いる地域では なまじ音声を発するよりも漢字でそれぞれの言語 ― 日本語,中国語 ― の語順で書いた方が通りがよい.漢字は形態素表記文字であるから このような漢字表記も一種の共通語である.この共通語圏から早くもヴェトナムが離脱したのが他律的だったとしても, 「自律的に」 離脱した朝鮮は実に愚かとしか言いようがない.もっとも漢字という他民族の文字を用いることを不名誉と感じるかどうかという問題がある.多くの日本人は漢字の使用を民族的屈辱とは考えず,そのことと中国という国家の傲慢さとは区別すると思うが,漢字を他国の文字として排斥する朝鮮の方が親中国的であるのだから,事態はそう簡単ではない.

 わたくしはエスペラントが人工語であるとしても,世に数多い国際語案のうち唯一生き残ったのがエスペラントであり,すでに 100年以上の歴史と膨大な文献を持っているのだから (多くの自然語より エスペラントの方が 書かれた文献も使用人口もはるかに多い.エスペラントは翻訳が多いという中傷じみた非難は,どこの言語でも多くは翻訳から始まるのだから,まったく当たらない),エスペラントも一つの言語と認めて (ただしヨーロッパ語の範疇に入れる) 多言語主義的原則に基づく選択肢の一つとして認めてよいと思う.憎むべきは 「英語帝国主義」 である.英語の政治的,経済的優位が認められるとしても,英語側もおずおずと他のすべての言語に対するべきなのであって,他民族の自尊心を踏みにじってまで世界を闊歩するべきではない.わたくしは韓国のある学術雑誌に投稿した時,英語帝国主義反対の立場から,レジュメをエスペラントで書いたところ,校閲者から エスペラントなど言語でもないものではなく きちんとした言語で書くべきだというコメントを付けられ,しぶしぶロシア語で書いたことがある (わたくしは 英語でだけは意地でも書きたくなかった) が,これなどはその校閲者の見識の狭さを語って余りあるとわたくしは信ずる.

 エスペラントが決して平等でないと同様 エスペランティストもまた決して非差別主義者だというわけではない.差別というのは心の問題であるからそう簡単にいかないことは常識だが,ただ制度としての差別の解消程度は努力することが可能である.エスペラントを認めないのも一種の差別であるが,わたくしはとりあえず次のようなことぐらいはするべきだと思う.

 大学では最低限 英語は外国語の必須科目として習得させるが (ただし決して英語を 「国際語」 扱いとはしない),ほかに義務的にもう一つの外国語を習得させる.ただしヨーロッパ研究を目指すものにはアジア語のどれか,アジア研究を目指すものにはヨーロッパ語のどれかを義務的に習得させるものとする.外国研究ではない人々の場合はどうするかとか,分野によってはいくつものヨーロッパ語の習得が必要だとか,ヨーロッパ語とアジア語の違いに関してどこで線を引くかという問題などがある (わたくし自身はアラビア語をアジア語の最西端とすればよいと思う.ここでヨーロッパ語というのはヨーロッパという地域の言語であって,インド・ヨーロッパ語のことではない).要はアジアに関心ある者が 英語をはじめヨーロッパ語を習得せざるを得なくなることは多いのだが,ヨーロッパに関心ある者にも 義務的にではあれアジアのどこかにも関心を持ってほしいということである.わたくしは ヨーロッパ研究者のアジアについての極端な無智ぶりをまざまざと見せ付けられて こう思うようになった.

 同様に げに世の中でもっとも国際的でないのがアメリカと言う国,この国は他を同化する一方で他に学ばず,実に傲慢な国であり,国民の多くが他国語を知らず,これをなんとかしてもらわなければならない.ついでながらアメリカ留学組の日本人も韓国人もアメリカ以外を知らず,井の中の蛙よろしく,自分の英語による知識をもって国際的と錯覚しているのである.

 外国語の人気度ということになると,国家統制でもしない限り,国の人気度と同じで,いわゆる差別があろうとも,だからどうのこうのという問題でもあるまい.日本語の学習熱の盛んだった韓国は しばしば日本での朝鮮語学習人口の少なさを非難したが,現在の韓国で日本語以上に中国語熱の盛んなことを 日本人が非難するのは当たらない.あの国が中国になびくのはあの国の勝手だからである.そんなことよりも 日本人が北方四島を返還しないロシアという国を かつての日本人捕虜の強制労働との関連で大嫌いなのはそれでよいのだが,現在どの大学でもロシア語学習者が極端に少なく,ロシア研究者の職場が奪われている事実は極めて不当である.大嫌いな敵国であればこそ十分知らなければならないはずである.かつて日米戦争の時 英語の教授を取りやめた陸軍士官学校に続き海軍士官学校の教授会が英語の授業の廃止を決議した時,校長がかんかんに怒り,敵国の言語だからこそ英語を学ぶべきだと言い,決議を認めなかったと伝えられる.

 韓国は日本語学科を多く持っている国だが,ソウル大学にはそれはない.そこで日本大使館は,よせばよいのに,ソウル大学に日本語学科を作ろうとずいぶん努力していたと聞いている.ソウル大学側は 特に文理科大学の国文学科と国史学科が日本語学科設置反対の急先鋒だったが,その言い分は 日本の東大に韓国語学科がないのになぜソウル大なのかということだった.現在東大の大学院には韓国朝鮮文化研究の専攻があるが,ソウル大に日本関係の何かがあるという話を聞いたことがない.これなどは やみくもの対等主義に基づく論議である.しかし例えばポーランドとドイツは隣国どうしだが,両国に同数のドイツ語学科とかポーランド語学科とかがあるだろうか? 日本と韓国の間だけがそのような対等主義で行くべきであって,他国はどうでもよいのか? 言語というものは本来それ自体ではなく その背景にある国とか文化によって 「人気度」 が決まるのであって,しばしばそれが不当と思われても何らかの規制で解決されるものではない.言語はこの意味では不平等なものである.現に東大はそのような専攻を置いてみたものの,応募者が少ないという事実がある.せいぜい現在の韓国語ブームはいわゆる 「冬ソナ」 ブーム程度のものであって,韓国側の期待に応えてはいない.しかしともかく制度だけでもと言うのならソウル大にも日本専攻を置くべきだということになってしまう.

 わたくしにはそんなくだらないことはどうでもよいのだが,ただソウル大のある教授が 日本語は学術用の言語ではないからと言っていたのは十分にうなずける.しかり,日本語は,国際的規模で見る限り,朝鮮語や中国語と同じく,英語と比べて学術用の言語としての資質を著しく欠いていることは間違いない.中国,朝鮮,日本にそれぞれの言語でなされた国際的に優れた研究が出てこない限り,日本語は韓国人にさほど魅力はなかろう.同様に朝鮮語が日本人にとっていかほどの魅力があるのかも問われなければならない.

 従来外国語学習を目的に応じさまざまに分類してきた.(1) 学術語学 ― 英語,ドイツ語,フランス語,ロシア語など; (2) 芸術語学 ― フランス語,イタリア語; (3) 商業語学 ― 英語,スペイン語,中国語など; (4) 観光語学 ― 英語,フランス語,イタリア語,中国語など; (5) 友好語学 ― 中国語 (文化大革命以前) など.ここにわたくしは (6) 義務的理解の語学 ― ヨーロッパ研究者にとってのアジア語などを付け加える.さらに現在の日本では (7) 英語の出来ない成績の悪い生徒を救うための語学 (朝鮮語,中国語) というのが事実上存在する.勿論ここにはいろいろと問題はある.例えば (1) は 従来 後進国日本の大学が学ぶべき先進国の言語だったが,ここにロシア語が入るのかということなど.いろいろな項目に名を連ねる言語 (英語その他) がもっとも有利と言える.これは 「言語の変更しがたく,誰でもが認めざるを得ない不平等性」 というものを前提にした分類だが,果たしてどこに中国語や日本語や朝鮮語が入るのか? ただ日本語も朝鮮語も たいした権威もない立場からして 上昇志向を持たざるを得ない言語だとは言えるだろう.むしろわれわれに課せられた任務は,大学などで外国語学習に際して自国語を含めて各言語の置かれている位置を冷静に見極めることなのである.

 もういい加減に差別云々を軽々しく言うことはやめて,朝鮮語を日本との関係だけでなく もう少し世界の中でどんな位置を占めるのかを考えるべきである.