菅野裕臣の



X ) 菅  野  雑  記
− 菅野裕臣のたわいもなき近況報告 (1) −

 赤恥をさらしてわたくしのホーム・ページ http://www.han-lab.gr.jp/~kanno に 「菅野裕臣の 」 を載せ始めてしばらくたつが,だんだんと朝鮮を対象にしだしてくると,書くごとに困難を覚えてくる.書けなくなるか,書いても正直でなくなるのである.



1) 1991年の衝撃的なソ連解体という歴史的大事件 − もっともこれを 「衝撃的」 と捉えなかった人も多いらしい.現に20世紀の重大事件にさえ多くのマスコミはこれを入れていなかった − はいろいろなものを後に残した.それはまず第一にソ連の解体にともなう同盟共和国の 「国民国家化」 を促した.同盟共和国 (加盟共和国ともいう) の国境がいかにして形成されたかはつとに疑問視されてきたところではあるが,ともあれ既成事実が先行してしまい,現状の変更はまず無理な話である.

 ロシア語は国家語ではなかった.それは事実においてソ連国内の少数民族たちに強制されたものではあれ,法制上はソ連内諸民族間の 「交際」 の言語であり,建前としては自民族の言語をあらゆる分野 (裁判を含む) で用いる権利が保証されていた.ペレストロイカのあたりから民族間の矛盾が噴出し,同盟共和国のみならず,共和国を一方的に宣言した自治共和国,自治州でも 「言語法」 の制定が相次いだ.多くではロシア語を締め出し,タイトル言語 (共和国名と同名の言語) が 「国語」 となった.問題は解体後も多くの少数民族をかかえるロシア連邦がロシア語をほぼ国語として扱っていることである.この国では国籍のほかに認められていた民族籍さえパスポートからは消えたともいう.こうなるとロシア連邦にはロシア人以外の存在は公的にはないことになってしまう.どだいソ連とてロシア連邦共和国の公的機関さえなかったという変則的な状態だったのに (すなわち事実においてロシア連邦はソ連と異なるところがなかった) ,ロシア連邦もまたしかり,ロシア連邦内部の共和国は州並みのあつかいであり,どこに 「連邦制」 があるのかわからないと言う曖昧さである.

 とまれ新たに15の国民国家が成立し,それぞれの言語が事実上国語となった.国民国家の 「国語」 とはそれを少数民族に押し付けることである.かつてフランスが行ったように,日本がフランスの真似をして朝鮮人や台湾人になしたように,各々の共和国は公然と非タイトル民族に国語を押し付けるのである.タイトル民族は国語の主人公であるがためにロシア人にさえ自国語を気持ちよくも強制することがいまや可能である.結果はロシア人の多くや朝鮮人はロシアに逃れ,タイトル民族になることを拒否する.朝鮮人の多くは野蛮なタイトル民族になるよりはむしろロシア人になる方を選ぶ.

 民族政策の多くをソ連から学んだ中国もまたソ連解体後は事実上国民国家化の道を歩んでいる.人口の極端に多い漢民族に比べると広大な土地に住む少数民族の人口比率は小さく,西部大開発の名のもとに行われる近代化の波は 「漢化」 を一層促進するであろう.現在の中国の少数民族の住む地域で行われている中国の事実上の政策を見るならば, 「中華民族」 の国語たる 「漢語」 一色に塗り替えられる日もそう遠くはあるまい.

 勿論ここで述べたことは実に大雑把なことであり,細部に渉ってはさまざまな違いのあることを否定するものではない.社会主義なるものが決して美しいものでもなかったことぐらいは誰でもが認めることだとしても,それが理想とかけ離れざるを得なかった過程ぐらいは,困難だが,少しくらいは覗きたいものである. 「理論」 にもとづいて描くことは易しいだろうが,理論にもならない片言節句の収集とつぶやきをこそわたくしはしたく思う.



2) ウズベキスタンという国には学生時代から魅せられた.学生時代にウズベク語というものをやろうと何人かで集まったことがあるが,当時日本にはウズベク人なる者はおらず,所詮は夢かと思われた.観光旅行は出来はしたが,値段が極度に高かった.

 この地も含めていわゆる中央アジアの魅力はなんといってもいろいろな民族のモザイク状に混在する特殊性にある.かねてよりこういうところの国境線はどうやって引かれたのかとか,混在する諸民族の自治といったものは何かといった素朴な疑問を抱きつつ,どうせ言語学専攻のわたくし如き者に分かるはずはないのさと思いつつも,世の中の変わりかたは激しく,いつの間にかあっという間にソ連は解体,こうなるとかねてより強い不信感を持っていたソ連ではあるが,さりとてこれの解体はわたくし自身の拠って立っていた基盤の崩壊でもあり,そう安閑とばかりしていられなくなった.1992年の学生たちとの旅行ででもあったか,わたくしは学生たちの前で音痴ながら 「ソ同盟国歌」 をロシア語で歌って,あっけなく消え去ったソヴェト社会主義共和国同盟の葬送をわたくしなりに行った.他の多くの人々はしたり顔でソ連の崩壊など前から分かっていたとばかり当然のこととしているかのよう,わたくしは断じてこういう御仁を信ずることは出来ぬ.この際政治音痴を奮い立たせてでも,人からお前のがらではないと馬鹿にされつつも,わたくしもいささかでも何か知らねばならぬと決意した.しかしこの決意も従来のわたくしの不精と要領の悪さと 「朝鮮」 というしがらみのため,言い訳めくが,なかなか具体化しなかった.

 現在のモンゴル国にいたと思われるテュルク族はすぐ隣のモンゴル族,またそれと隣り合わせにいたと思われるツングース族らと相互影響を保ちつつ,西漸を繰り返し,現在のトルコ共和国のアナトリアにまで達したと思われる.いわゆるアルタイ系諸民族 (テュルク,モンゴル,ツングース) 中牧畜という共通点をモンゴルと共有しつつも,文化的にそれを陵駕していた可能性のあるテュルク族はモンゴル高原からアナトリアに至る広大な土地に各種のヴァリアント (支脈のエトノス) を残した.しかしながらモンゴル高原からアナトリアに至る通路にはペルシャ人やアラビア人という巨人が立ちはだかっていた.テュルクらは彼らの間をかいくぐって西漸を続け,その間シャーマニズムからイスラームに転進した.サハ (ヤクート) やトゥバのようにモンゴル化したテュルクがいた.イスラーム化を免れたハカスでさえモンゴルの影響なしとしない.イスラーム化の遅れたカザクやクルグズをテュルク化したモンゴルあるいはモンゴル化したテュルクとも言う.するとアゼルバイジャンはテュルク化したペルシャか? あるいはペルシャ化したテュルクか? ではウズベクはどうか? タジク化したテュルクか? テュルク化したタジクか? これが彼らの壮大な移動の叙事詩に伴う諸問題の一端である. 

 世界広しといえども他民族に影響を与え得るほどの高度の文化はいくらもあるものではない.
1) 極東の中国 (漢語) 日本,朝鮮,ヴェトナムその他 −
2) インド (サンスクリット) 東はラオス,カンボジア,インドネシア,フィリピンにまで至る −
3) ペルシャ (ペルシャ語) 中央アジア全域,ほとんどすべてのテュルク族居住地,現中国の新疆,トルコ及びインドやパキスタンの回教徒にまで至る −
4) アラビア (アラビア語) ペルシャ語やアフリカ,インドネシアに到るまですべての回教圏 −
5) ギリシャ (ギリシャ語) これはほとんどギリシャ語により文化語となったラテン語とともにヨーロッパ全域にわたった.
 わが日本も朝鮮もそれらの言語の中の中国的要素の多さに目を向けるがよい.言語のみならず日本も朝鮮もその文化たるやほとんどが中国に源流のないものはない.われわれは1) 中国に対してあたかも文化的奴隷であるかのようだ.中央アジア諸言語は多かれ少なかれ 3) ペルシャと 4) アラビアとの二つが自己の言語にかぶさったのである.このことは極めて重要である.

 学生時代からいわゆるアルタイ諸語なる壮大な世界に酔ったこともあった.だんだんこれはとてつもなく大きい世界でわたくし如きちっぽけな貧乏人になど出来るはずもないと悟りもした.今やっとテュルクの世界に差し掛かったばかりのわたくしは,案外知ったかぶりの 「学者」 は多いもので,世界広しといえどもアルタイ全域に通じた者などいるはずもないことをようやく知った.あまり恐れることもないのだ.今からでも確実なことは出来るのだ.ソ連が崩壊した今現地への旅行は自由になり,若い人々は生き生きとこの地域に取り組みだした.暴くべきことがあまりにも多いが,それを解き明かす可能性が開かれているのだ.



3) 朝鮮に始まったわたくしの異文化への関心はやがてアルタイへと広がったが,アルタイへの誘惑にもかかわらずわたくしが朝鮮にこだわったのは,一にも二にもより深く 「確実な」 ことを研究し得る外国は朝鮮をおいてないと信じたためである.今でも基本的にその考えは変えていない.われわれが現代朝鮮語の文法研究で得たほどの緻密さをモンゴル語やツングース諸語やテュルク諸語で日本のみならずヨーロッパの研究者も示し得たということがかつてあったろうか? 否である.日本のいわゆるアルタイ語学者たちの文法論に対する見解の幼稚さを考えただけでただちにこのことは理解出来る.日本語,朝鮮語,モンゴル語等々のいとも簡単なタイポロジーを恥ずかしげもなく堂々とやらかし,挙句の果てにそれらの基本的同一性を論じてしまう.今の年齢になって大胆に言い得るようになるのだが,彼らには文法の世界など金輪際分かってはいないのである.

 わたくしにとりかくの如く特別な意味を持つ朝鮮であるが,わたくしがここを去って学生時代のもう一つの夢 − 中央アジア − に飛び込もうというにはそれなりの理由がある.わたくしは現代朝鮮語文法という大海を前にその全貌を明らかにすることなどは到底出来ないまでも,いくらかでも前進するための基地になり得るような確実な一歩程度でも,わたくしの 「弟子」 たちを動員して,構築したいという夢があった.わたくしはそのための素描を準備しつつあった.やがてわたくしの東京外大定年間近から早くも躓きが始まった.わたくしはこの悪夢を,正直言って,もはや思い出したくもない.人間は皆それぞれ言い分があろうものだが,わたくしの側から言わせて貰えば, 「弟子」 たちの裏切りという青天の霹靂に接した.飼い犬に手を噛まれるとはこういうことを言うのだろう.わたくしは何度か体制を立て直そうと試みもしたが,あれほど尽くしたと思った朝鮮学会での天理教の者どものわれわれに対する卑しい暴挙と,こともあろうに,弱者の味方をもって任じていた日本の朝鮮研究者 (わたくしの 「弟子」 も含む) の道義的退廃 (思い出したくもないこの下品なことどもにはいつか触れることもあろう) をまのあたりに見て,わたくしはすべてを悟った.朝鮮についてやり残したことだけをやり,後は自分の気ままに生きる方が精神衛生上よいと.朝鮮 「研究者ども」 に殺されてたまるかという思いである.既成の学会を超越したものを建設することも考えたりした.しかしそのしんどさは寿命を縮めるだけである.わたくしはもはやつまらぬ緊張感を持ちたくもない.ここにおいてわたくしは 日本の退廃した者の支配する朝鮮の学会,研究会から身を引いた.

 もう一つ,正直言うと,ある.われわれは一体朝鮮とかかわることによって大変な緊張感を持ってきた.朝鮮を支配した日本に属する日本人たるわれわれの行き方とは何か? 日本と朝鮮の歴史的,文化的関係を 「正しく」 見るとはどういうことか? 古代から現代にいたるまでわれわれ現代の日本人はわれわれの先輩とは違って朝鮮に関してひたすら謙虚に謙虚にやるべきであるという原則を堅持すべきだと考える日本人は多いだろう.それはそれでよいだろう.しかしわたくしは敢えて言おう.いささか疲れた.もっと素直に見たいものだ.日本の国粋主義が悪いなら朝鮮の国粋主義だって同じではないか? 何故日本のが悪くて朝鮮のはよいのか? とまれわたくしは本能的に自分の体が嫌悪で震えるようなことについては無理をしてまで朝鮮擁護のつじつま合せはもはややりたくない.つまらぬ民族感情などに左右されたくないのだ.もっと自分に正直でありたい.これについては別に述べることもあろう.

 とまれわたくしは意の向くまま中央アジアに関心を移すことにした.



4) もう一つある.わたくしは学生時代マルクス主義とかかわってしまったが,殊のほかそれと言語学とのかかわりが問題となる.われわれの学生時代マルクス主義は社会科学,人文科学は勿論自然科学をも貫くものであると信ぜられてきた.それが幼稚なたわごとだしかないことはもはや明らかである.しかし奥田靖雄氏率いるところの言語学研究会に属してきたわたくしはそこから抜けた後もそれの動きは気になってしようがなかった.奥田氏が素朴なマルクス主義者であることにはわたくしも間もなく気がつき,それはそれでその点に気をつければよいことではある.また奥田氏のロシア言語学に対する見方も,奥田氏一流のマルクス主義的解釈を捨象すれば,注目に値するところもある.というより日本で実に現代日本語文法研究は彼らから本格的に始まったとさえ言えるから,その動きには充分な注意を払うべきなのである.

 奥田氏は日本共産党が嫌いだった.この点はわたくしは評価する.しかし彼の行動のパターンは日共のそれと酷似していた.彼の 「弟子」 の中でこの点で内心奥田氏を批判する者もいたはずである.奥田氏が朝鮮にかかわったことがあったのに,その研究会の雰囲気が中国人留学生には暖かく,朝鮮人に冷たかったらしいことについてはわたくしは詳しくは知らないが,そのことでやたらに彼を批難してはならないと思っている.

 奥田氏は少なくとも初期はソ連型のマルクス主義一辺倒だった.奥田氏がソ連の哲学者の論を読み,弁証法なるものを後生大事に研究していたのを記憶している.鈴木重幸氏までがそれに同調していた.わたくしの見たところではすでに宮島達夫氏はその時そんなものには懐疑的ではなかったかと思う.すでに左翼学生たちの間ではソ連型の哲学には疑問を呈する風潮が一般的だったし,弁証法なるもの,特に自然弁証法なる神がかりの理論の信じがたいことは常識になりつつあった.

 奥田氏はソ連言語学一辺倒だった.しかし奥田氏の論はすべて自己流だったと言ってよい.彼にはこの点で師はいなかった.彼だけでなくわれわれにも師はいなかった.その中でソ連言語学の 「読み込み」 の深い (これがしばしば問題となりはするが) 奥田氏だけがいわばこの研究会で師的存在だった.奥田氏と肩を並べられるのはロシア語の読める宮島達夫氏と鈴木重幸氏だけだった.

 彼らはいわば 「しろうと」 だったから初歩的ミスはあったか知れない.しかしいったい日本のロシア語研究者でソ連の言語学をどれほど熱心に研究したというのか? 奥田氏自身が馬鹿にしていたようにマルを信奉していた一部のエスペランチストら (大島義夫氏ら) は言語学者の名にも値しない.それでは日本の著名なスラヴィストとその弟子たちはほとんど 「ソ連」 言語学など頭から問題にもしていなかったのである.奥田氏の尊敬したヴィノグラードフにしろ奥田氏以外に果たして何人がそれを読んだのだろうか? 日本のスラヴィストはほとんど読まずにそれを 「評価」 していた.ソ連にはついぞヘルマン・パウルが現れなかったと公言するソ連通を任ずる村山七郎氏にしてもソ連の文法論にはまるで関心を持っていなかった.せいぜいアルタイ語だけである.つまり言語学者にとりソ連の言語学書は異端の書だったのである.
 彼が言語学における日本語研究の優位を説く時,そこには反駁しがたい真理があったが,しかし彼および彼の 「弟子」 たちの他言語に対する知識も見方もしばしば幼稚だった.彼ら自身がそれをある程度認めてはいたのだが.

 奥田氏の研究会を抜けたわたくしはソ連言語学に一人ぼっちで立ち向かわざるを得なくなったが,わたくしの韓国留学は決定的にそれを妨げた.反共国家韓国は一切のソ連書の輸入が禁止されたばかりか,ロシア語を知っているということ自体が危険視された.わたくしの韓国留学中,そしてそれに伴う生活に忙しかった間,わたくしのソ連書収集は空白を迎えた.

 現代語を綿密に資料に即して研究すべきだという点をわたくしは奥田氏から学んだ.この点で言語学研究会は何にもまして高く評価されなければならない.資料もなしにいとも簡単に 「意義素」 なるものを取り出してみせる朝鮮語,モンゴル語,アイヌ語,チベット語等の研究者 (多くは東大の服部門下) の論に感動したことは一度たりともない.勿論意味の分析の方法にはいろいろ問題があろう.しかし彼らが示したこの重要な方法 − これまたソ連言語学に属するものである − をわたくしは朝鮮語研究に持ち込んだ.わたくしの功績があるとすれば,奥田氏にあやかったこのことしかない.

 わたくしが朝鮮語学で教鞭を振るう生活に入った時,わたくしの朝鮮語学の基礎たる一般言語学,なかんづく文法論はロシアのものをおいてほかになかった.
 第一に,先にも述べた資料中心主義である.アメリカの言語学,それに追随する特に韓国及び日本の一部の言語学に見られる経験に基づく作例による研究という方法を取らない.勿論資料がすべてを尽くすわけではない.しかし母語といえども当該の文法現象や語彙の意味が直ちに母語話者の脳裏に浮かぶわけではないことを,多くの資料を収集する過程は教えてくれている.しかも具体的な資料抜きの理論の振り回しと言うよりは,先に理論ありきの風潮, 「理論」 に言及しない研究を一切認めない風潮をアメリカ言語学はもたらした.ついでながらこの風潮は,流行としての理論,流行を追い求める言語学徒,既成の理論に対する,資料に基づかない,既成の研究に対する無智を土台とした,闇雲の否定をも生み出す.

 第二に,恐らくはアメリカ構造主義,さらにはサピアにまでさかのぼるかも知れないのだが,分析の平面的性格である.立体的な現実を概念に切り取って平面に移し変えるのが学問のあり方とはいえ,諸概念自体の境界の相対的曖昧さ,概念の歴史的相対性等までは否定してはならないはずである.アメリカのものは多くコンピューター的,非歴史的,非立体的である.この点ソ連の多くのものはヨーロッパ的伝統をよく保っているといえる.
 ソ連言語学に依拠するわたくしの立場は極めて単純なものだったが,今でも基本的にそれを変更する必要性を感じていない.

(2004年4月6日)