菅野裕臣の

II ) 大学 − 大学院




目次
東京外大と徳永康元先生
朝鮮のことども
東京教育大学,そして河野六郎先生

東京外大と徳永康元先生

 東京外大蒙古語学科 (後にモンゴル語学科と改称) ではわたくしが年長者だということもあるが,ともかく目標に向けて前進あるのみと思っていたから,クラスの学生ともほとんど付き合わず,勝手気ままなことをしていたので,ずいぶん煙たがられた.

 1級上 (といってもわたくしより年下だが) 黒田信一郎というとても蒙古語のよく出来る活発な文学青年がおり,すぐ親しくなった (彼は後に都立大大学院 (社会人類学) 修了,小樽商大を経て北海道大文学部北方文化研究所助教授,1991年 (平成3年) 自殺,ギリヤーク,ツングース専攻.黒田信一郎,『ギリヤーク族の社会構造 』,(私家版),2001,408ページ).彼とよく酒を飲みに行き,わたくしの会社時代のいくばくかの貯えは早々と底をついた.

 1歳年上の田中克彦氏はわたくしが東京外大に入学した時一橋大学大学院に入学したが,黒田と一緒に時々会い,モンゴル研究について話を聞いたものである (彼は一橋大大学院修了後,東京外大,岡山大を経て一橋大教授,1998年 (平成10年) 定年退職,社会言語学専攻).彼は先輩の風格はまるでなく,彼に 「先輩」 を感じたことは1回もない.

 2級上には塩島俊雄氏 (NHK解説委員,中国問題担当),1級下に花田麿公氏 (外務省,駐モンゴル日本国大使) がいた.東京外大蒙古語学科及びその後のモンゴル語学科,モンゴル語専攻の専任教官はみなここの出身者で占められているが,わたくしの関係 (言語学) で言うと,以上の人々のほかには次のような人々がいた: 1924年 (大正13年) − 故小嶋武男 (東京外大教授.モンゴル語); 1925年 (大正14年) − 故出村良一 (モンゴル語); 1931年 (昭和6年) − 故竹内幾之輔 (モンゴル語); 1942年 (昭和17年) 卒 − 長田夏樹 (元神戸外大教授.アルタイ語); 1947年 (昭和22年) − 小澤重男 (元東京外大教授.モンゴル語),竹内和夫 (元岡山大学教授.トルコ語); 1962年 (昭和37年) − 柳瀬正人 (日本医科・獣医畜産大学教授.英語); 1967年 (昭和42年) − 松本幹男 (拓殖大学教授.英語); 1969年 (昭和44年) − 城生伯太郎 (筑波大学教授.音声学); 1975年 (昭和50年) − 栗林均 (東北大学.モンゴル語); 1980年 (昭和55年) − 斎藤純男 (東京学芸大学助教授.音声学).なおほかに1939年 (昭和14年) − 故坂本是忠 (元東京外大学長.国際関係論); 1974年 (昭和49年) − 中見立夫 (東京外大AA研教授.モンゴル史).

 故小嶋武男先生と故坂本是忠先生にはたいへんお世話になった.小嶋先生のお宅では陸軍省編纂の 『蒙古語大辞典 』 (この辞典はいろいろと優れた点を持つ) の校正刷りを製本したものを拝見したことがある.田中克彦氏は出村良一氏に会ったことがあると言い,氏がドイツ語やロシア語による蒙古語辞典を直接筆写するなど,たいそう迫力のある人物だったと言う.当時蒙古語学科では1週間6コマのモンゴル語の授業のうち1コマを 小嶋先生は中国語に,坂本先生はロシア語に当てていた (勿論小嶋先生はロシア語も,坂本先生は中国語もご存知だった).わたくしも後にロシア語を蒙古学科の非常勤講師として担当したことがある.小嶋先生の中国語は本格的なもので,先生にとりモンゴル語よりも中国語の方が痒いところに手が届く感じだと言っておられた.先生の中国語では第1声が第4声のように若干下がり目に発音されるが,このようなわれわれの耳では区別しづらい第1声と第4声の発音は実際に北京にあるのだということを後に確認した.先生は 「学問」 を尊敬しておられたが,御自分は便所の中から外の人に向かって便所の用紙をくれと言うのをこう表現するのだ式の語学のスキルの教授に終止された.
 モンゴル人の故セベグドルジ Sevegdorzh 先生は内蒙古チャハル盟の御出身,戦前日本留学,そのまま日本にいつき,日本に帰化された.モンゴル人民共和国から毎年来日するモンゴル代表団の世話を民間大使のように献身的になさった.当時日本にはモンゴル人は内蒙古出身者が全部で3 - 4人しかいなかった.先生はキリル字を覚えようとはなさらず,いつもつっかえつっかえ読むという有様で,しかもウランバートル方言ならぬチャハル方言で通した.内蒙古の方言は一般にハルハ方言とは異なり,二重母音が長母音化し,[ts],[dz] がないという特徴があるが,チャハル方言はさらに語頭の無声子音が第2音節の無声子音の前で有声化する異化という現象がある.小嶋先生もセベグドルジ先生も縦書きの蒙古文字だけを用いておられた.

 東京外大という大学は小さな地味な大学だが,およそ学問的雰囲気のない大学だった.全般的に語学屋と呼ばれる,東京外大たたき上げの教師の支配する奇妙な雰囲気の学校だった.二期校でもあるせいか東大をすべって入ってきた学生が多く,そういう学生は概して東京外大だけを目指して入学した学生をたいそう軽蔑し,全般に頭のよい学生は語学などというものはしないものだという雰囲気もあった.ただしむしろ語学はそういう学生の方が出来たかも知れない.こういう学生の言い分ももっともなところがあり,語学ばかりやる学生は大抵くだらない人間が多かったし,語学の話しか出来ない教師たちもくだらなかった.語学屋あるいは語学馬鹿というかたわにはなりたくないものだという不文律があった.学生たちがコンパで歌う歌は 「万里の長城で小便すればすればバイソラキンキラキン」 の類の卑俗なものだった.エスペランチストや謄写印刷の諸先生から漂う高貴な香りは一切なく,ここに見られるのは大和證券の社員旅行で大人たちの歌った卑猥な歌と変わるところはなかった.学生の分際でと思ったが,こういうものに無神経な教師もいるのであきれた.東京外大の一大恥部である.この時から,つまり当初から今までわたくしには愛校心なるものはひとかけらもない.

 わたくしはそれでも蒙古語学科はよい方だと思っていたが (一般に蒙古語学科の教師も学生もそう言った),西洋語専攻の学生や卒業生たちはそのように考えるわれわれをけっこう軽蔑した.つまりアジアよりもやはりヨーロッパの方が上だというわけだが,わたくしはこれは決してアジア蔑視でもなく実は一理あったと思っている.

 モンゴル人民共和国 (社会主義崩壊後はモンゴル国.かつては外蒙ともいった) の言語はキリル字 (ロシア語,ウクライナ語,ベラルーシ語,ブルガリア語,セルビア語の文字) で書かれ,しかもモンゴル語の学習には蒙露辞典を用いなければならないから,ロシア語を学んだわたくしはとても有利だった.当時は教材は謄写版刷りか青焼きだったが,わたくしは上級性のものも出来るだけ貰って読んだ.わたくしは体育というのが苦手でその時間をサボりまくったため,これでは進級できないことが明らかだった (戦後日本の大学は長い間体育などというものを必須科目とした).体育の時間は体育サークルの学生たちが学生の持つカードにはんこうを押していたので,そういう上級生の一人 Oに頼み込むと, 「よし,ではおれの面倒を卒業の時まで見ろ.」 といって可になるだけのはんこうを押してくれた (もっとも体育の教師にビール1ダースを持っていけば何とかしてもらえるといううわさもあった).Oが卒業するまであらゆるモンゴル語の教材がわたくしのところに持ち込まれ,わたくしはその日本語訳を彼に渡した.彼らは Oの下宿で試験前首っ引きで 原文とわたくしの日本語訳をつき合わせて徹夜で勉強し,試験を通過していった.彼らにとって,英語とは違って,モンゴル語は一夜漬けの勉強の対象以上にはならなかった.

 語劇祭などというものがあった.わたくしはこれに冷ややかでいたら,村八分のような目にあった.わたくしは後に東京外大の朝鮮語学科の教師になっても学生たちに語劇をやれとも言わなかったし,これを授業の一環とも見なかったし,やりたければやれと言うにとどめた.とまれ東京外大は各語学科という村の集合体に過ぎなかった.

 こういう雰囲気の中で唯一落ち着くことが出来,学問の香りを味わうことの出来るのは 言語学 (ハンガリー語学) の故徳永康元先生の新大久保のお宅での 毎火曜日のいわゆる 「徳永サロン」 だけだった.ここには徳永先生を慕って集まる在校生,卒業生,その他先生の知人たち,それも多岐にわたる専門の人たちが顔を合わせた.出て来る話も言語学,民族学,文学,ヨーロッパのことなど,実に様々で,毎回いっぺんに入りきれないほどの知識と刺激を頭に詰め込んで興奮してお宅を辞した.
 先生は温厚な方でこうとはっきりとは仰らないが,わたくしに何事もエピゴーネンを追いかけず,本物を相手にしなければダメだと仰ったお言葉はいつまでも忘れられなかった.エピゴーネンを追うくせのあるわたくしにとって真に有難いお言葉だった.
 先生は人も知る蔵書家で,珍しい本をいっぱい持っておられ,今から思うと,ずいぶんと失礼なわたくしたちの頼みを快くお聞きになって お貸しくださったものである.わたくしは計り知れずお世話になった.先生の蔵書については詳しい人がいるから,わたくしの分野で言うと,当時日本に3冊しかなかったという河野六郎先生の 『朝鮮方言学試攷 − 「鋏」 − 』,東都書籍,京城,昭和20年 (1945),207+79ページ の原本がある (あと1冊は河野先生自身,もう1冊は金沢大学の某教授).
 先生は 1939年 (昭和14年) ハンガリー政府の第1回留学生としてブダペストに行かれた.ブダペストには安益泰 (アン・イクテ) という朝鮮人音楽家がいてブダペスト大学に居を構えており,先生はこの方に世話になったそうである.安益泰氏のため音楽会を企画してもそれが壊れたのは 安益泰氏と日本大使館の関係のまずさかも知れないとのことだった.安益泰氏はその後スペインのマジョルカ島に行き,スペイン人の奥さんとそこで暮らした.戦後徳永先生は東京で安益泰氏と再会し,その時当時高価だったビフテキをご馳走になったが,その時 安益泰氏は自分は今韓国でちょっと有名になり,表彰されたのだと言ったという.徳永先生は 安益泰氏こそは韓国なら知らない人がいない現在の大韓民国の国歌ともいうべき 「愛国歌」 の作曲者であることをご存知なかった.安益泰氏はその後一度日比谷公会堂でコンサートを開いたことがあるという.1942年 (昭和17年) 先生はブダペストから交戦国でないトルコ,ソ連のカフカズ,バクーから船でカスピ海を渡り,そしてトゥルクシプ鉄道とシベリア鉄道経由により満洲国から帰国,その間のお話もお伺いした.わたくしは 2000年 (平成12年) バクーの船着場に行ったことがあるが,トゥルクシプ鉄道はまだタシュケント − ビシケク (旧フルンゼ) 間しか行ったことがない.
 徳永先生は満洲国間島省 (現 中国吉林省 延辺朝鮮族自治州) の延吉 (旧局市街) にもいらっしゃり,その時の詳しい記録がおありとのことである.先生からお伺いしたことがあるが,当時満洲国は政府と関東軍と協和会の三頭政治で,三者の言うことを聞いて廻ったという.延吉には わたくしは 1981年 (昭和56年) に行った.先生は敗戦を迎えた内蒙古張家口から病身をおして安東 (現丹東) 経由,汽車で鴨緑江を渡り,ソウル (旧京城) に着いたが,街は日の丸の旗を改造した太極旗を手に 「マンセー (万歳) 」 を叫ぶ民衆でごった返し,京城帝大付属病院 (現ソウル大学付属病院) に行ったら,日本人は皆逃げておらず,やっと朝鮮人医師により命を助けられたそうである.京城帝大の河野六郎先生の研究室に行ったら,出来たばかりの 『朝鮮方言学試攷 』 が山と積まれており,それを貰ってきたのが先生の蔵書に入ったというわけである.わたくしはこれをお借りして筆写した.
 先生は東大言語の御出身,1972年 (昭和47年) 東京外大アジア・アフリカ言語文化研究所所長,1975年 (昭和50年) 東京外大退官後 2001年 (平成13年) まで関西外大教授,1912年 (明治45年) 生.2003年 (平成15年) 逝去なさった (91歳).先生は生前膨大な蔵書は早稲田大学図書館に徳永文庫として御寄贈なさるおつもりとお聞きしたが,最近はどの図書館も寄贈を辞退すると聞く.精魂込めて作り上げた蔵書が先生の高潔な御意志を受け継ぎ得る機関に入り得ず,散逸するのではないかと心配される.

 わたくしは大学4年生の時母との折り合いが悪く,家を出たが,保谷にある日本民族学協会の建物に部屋を斡旋してくださったのも徳永先生だった.今思うと,失礼なこと限りなく真に汗顔の至りだが,先生のご恩は一生忘れることが出来ない.



 河野六郎六郎先生には時々お会いした.先生の横須賀のお宅にお伺いし,先生の多くの論文の抜刷もいただいたこともある.中にはアメリカの朝鮮語学者 マーティン S. E. Martin 氏 (Yale大学教授) にあげる予定の抜刷を,感じの悪い奴だから,こいつにはあげないで君にあげるというのもあった.わたくしはこのマーティン氏には 1990年代初ハワイの学会で初めて会ったが,確かに感じが悪かった.奇しくもわたくしの妻の弟がたまたまマーティン氏と知り合って食事を共にしたり付き合ったというのだが,親切だったという.
 先生のもとには小倉進平先生 (元東大,京城帝大兼任教授,朝鮮語学の基礎を築いた方,『朝鮮語学史 』 は名著) の作成した中期朝鮮語の単語カードがあり,それをもとにアメリカのハーヴァード燕京研究所から金を貰って中期朝鮮語辞典を作る計画があり,わたくしも含めてアルバイトとしてそのカードの筆写を行った.カードでは用言は II- r 連体形が見出し語となっていたが,それを I- Da 終止形に改め,その際 r 語幹用言は r を保ち,カードに記載されていた声点 (韓国では傍点という.アクセントを示す点) は依拠する本によって違いがあるので省くという原則に拠ったと記憶している.なんでも 戦後 在日本朝鮮人連盟 (略称:朝連) 文化部がこれを謄写印刷して出版するといって ある程度準備したはずだそうで,印刷されたその第1ページを見せてくださった.生活苦の当時としては この時貰った金額は有難かったと河野先生は仰った.結局これは出版されなかったそうで,その後わたくしはそのことで知り合いの朝鮮人に聞きまくったが,知っている人は誰もいなかった.その後韓国からは南広祐,『古語辞典 』,東亜出版社, Se'ur,檀紀4293年 (1960),553ページ (後に改版が出た: 教学社, Se'ur,1997,1475+41ページ); 劉昌惇,『李朝語辞典 』,延世大学校出版部, Se'ur,1964,830ページ が出たので,小倉先生の 『中期朝鮮語辞典 』 は出す必要なしとのことで,出版されないままであるが,カードと筆写された原稿は一体どこに行ったのだろうか.
 ただ わたくしの記憶では 小倉先生のカードには朝鮮のみならず西洋人や日本人の記録も含まれている.わたくしがちらっと河野先生からお伺いしたところでは,小倉先生のご遺族がアメリカの金を貰うことに乗り気ではなかったらしい.なお小倉先生の朝鮮語方言の膨大なカードは京城帝大の研究室に置いてあったそうだが,わたくしが韓国留学当時いろいろの人に聞きまくっても所在は不明のままだった.恩師の故李崇寧 (イ・スンニョン) 先生のお話ではその研究室のある建物はアメリカ軍が使っており,すでに何もなかったと言う.河野先生は何事も exhaustive にやろうとするとダメで,気づいた時にカードに書き込むという小倉先生方式が最も効果があると言っておられた.小倉先生のカードは,漏れはあるか知れないが,すべてそのようにいつの間にかたいへんな量になるというのである.

 実際 『朝鮮語学史 』 はそのようなカードを元にして出来たもので,河野先生は常々 「君,『朝鮮語学史 』 は学術書の最高傑作だよ.」 と言っておられた.後に故志部昭平氏とも話をしたのだが,日本の朝鮮語学,モンゴル語学,ツングース語学のうち歴史的な研究は 唯一 朝鮮語学のみが 『朝鮮語学史 』 に基づいてかなり楽に研究を始めることが出来るのであって,それこそは日本が誇り得る数少ない成果の一つであり,残念ながらいまだにそれを越えるものが出ていない.小倉先生と似た形式で 金允経,『朝鮮文字及語学史 』,京城,昭和13年 (1938) [ 『韓国文字及語学史 』, Se'ur,1982,1015+27ページ ]; 崔鉉培,『 HanGyrGar 』,京城,昭和15年 (1940) [ 『 改正 正音学』, Jeq'ymMunHoaSa [正音文化社], Se'ur,檀紀4315(1982),710ページ ] が出ている.GS氏という著名な韓国人言語学者から,なんだおまえら日本人はまだ時代遅れの 『朝鮮語学史 』 を見ているのかと言われたことがあるが,わたくしはいまだに 『朝鮮語学史 』 の真の改訂の作業は 安秉禧 (アン・ビョンヒ) 氏其の他以外には誰もしていないと思う.



 毎年8月の原水爆禁止世界大会にはモンゴル人民共和国の代表団もやってきた.国交のなかったこの国の代表団にはいつも日本の警察の尾行がついた.わたくしと黒田もよく会いに行ったものだが,尾行の警官とも親しくなった.その時はテープを持っていって本を読んでもらって録音したり,モンゴル語の分からないところを質問したり,モンゴルの本を貰ったりした.ある時こうして貰った貴重なモンゴル語の本をタクシーの中に忘れてしまい,3大新聞に投書したら,1紙が記事として取り上げてくれ,徳永先生も古本屋のネットに頼んでくださったが,とうとう出てこなかった.当時はさほどにモンゴルとは珍しい存在だった.
 どうやらモンゴル代表団は来日するたびに日本共産党とも日本政府筋とも密かに会っているようだった.モンゴルを訪問してそこで世話になった日本の労働組合幹部らは その時だけ彼等の世話をしたが,後は知らぬふりだった.モンゴル代表としては 毎回大物の学者を送ってよこした.わたくしの入学する前年の第1回のモンゴル代表に作家ダムディンスレン Damdinsren,第2回に言語学者ロプサンワンダン Luvsanvandan,また何回目かにはウランバートル大学総長シレーンデプ Shireendev (歴史学者) を送ってきた.黒田などはダムディンスレンに気に入られ,氏の著した “Japony tuxaj temdeglel” (日本日記) に自分の名前が載っているので興奮していた.なおわたくしは 1995年 (平成7年) モスクワのロシア科学アカデミー東洋学研究所で ダムディンスレンの娘 アンナ・ツェンディーナ Anna Cendina (母親はロシア人) に会った.社会主義崩壊後のモンゴルの反ロシア感情がいやで,モンゴルには帰らないと言っていた (もっともこの研究所にはモンゴル人民共和国のツェデンバル Cedenbal 首相の息子という人もいた).シレーンデプにエスペラントを宣伝するモンゴル文のビラを渡したら,彼はたいそう警戒していた.後に 1976年 (昭和51年) にわたくしがウランバートルで科学アカデミーのエスペランチストのドクスレン Dogsren にこのことを言ったら,今はエスペラントに理解を示しているとのことだった.モンゴル人民革命党の大物幹部であるシレーンデプが来日した時は日本の左翼が滅茶苦茶に分裂していて,彼はどう対処してよいか分からず,相談するためソ連代表団を探していたのは 正にソ連の属国たるモンゴルの姿の現れであると思った.代表団の一員に 『ザローチョーディーン・ウネン (青年の真理) 』 紙記者がおり,北朝鮮にいたとかで,朝鮮語を知っていた.

 ついでながら蒙古語学科の故小嶋武夫先生から聞いた話だが,朝鮮戦争の最中アメリカ軍の捕虜となった北朝鮮側の飛行機のパイロットがモンゴル人で,彼のポケットに小さな蒙露辞典が入っていた.アメリカ軍は早速それを東京に送り,東京外大蒙古語学科に持ち込み,それの鑑定を依頼した.それは正しく新文字 (すなわちキリル文字) で書かれたものであり,付録としてモンゴル語文法概要まで付いていた.これをマイクロフィルムに撮って返し,そのフィルムをもとに現代モンゴル語の概要を知ることが出来るようになったというのである.思わぬところでモンゴルと朝鮮は繋がっていたのである.

 しかしモンゴル関係の本は全般に知られず,情報が欠如していた.たまに入手した貴重なモンゴルの本は研究者が公開せず,非常に閉鎖的な雰囲気が漂っていた.わたくしはそういう中で 少なくとも現代モンゴル語文法の研究などはほぼ不可能だと悟った.モンゴル語文法の詳細は何もかも分からず,モンゴル人学者の研究とてないに等しかった.わたくしにしても黒田にしても モンゴル語研究を本格的にするにはかなり疑問を感じ出していた.黒田は一応モンゴル語学で卒論を書いたが,言語学一般に見切りをつけて社会人類学に転じていった.田中克彦氏はモンゴルについての興味は維持したが,社会言語学へと進んだ.わたくしは東洋文庫にある朝鮮本 『捷解蒙語(方孝彦.乾隆55年 (1790)) についての研究を卒論とした.これは後に 『朝鮮学報 』 (朝鮮学会,天理) に掲載された ( 「「捷解蒙語」 のモンゴル語について」 , 朝鮮学報 』,第27輯,1963,pp.65 − 93).これはわたくしの処女論文であり,かつこの時 朝鮮学会の会員になった.ついでながら韓国の李基文氏 (元ソウル大国文科教授.その著 『国語史概説 』,民衆書館, Se'ur,1961,264ページ [日本語訳 『韓国語の歴史 』,大修館書店,1975,375ページ] は有名) はわたくしの論文を根拠もなしに 「皮相的」 と評しているが,甚だ不愉快である.いずれにせよ東京外大蒙古語学科で この頃 皆がモンゴル語学に見切りをつけたことは重大な意味を持っているとわたくしは考えた.後に東京外大朝鮮語学科を建設する時 このことを教訓としようと心に誓った.

 われわれの学生時代にモンゴル学の碩学 ニコライ・ポッペ Nikolaj N. Poppe 教授が日本に来た.東洋文庫にモンゴル本の調査のために来たポッペ先生の宿舎は染井墓地の近くになり,東京外大から近いので,わたくしと黒田はよく遊びに行った.先生はよれよれの背広姿で,細かなことはいつもドイツ人の夫人に任せているようだった.夫人とはドイツ語で話していた.先生は愛想よく,ロシア語と分かりやすいハルハ・モンゴル語 (外蒙のモンゴル語.ただし先生は母音 u を [o] ではなく [u] と発音しておられた) とロシア訛りの酷い英語 ([w] を [v] と,音節の頭と末の [r] を巻き舌で発音する.例えば we are [wi: :] を [vi ar] のように) をまじえて親切に相手になってくれた.黒田などは 先生にアメリカの自分の大学に留学に来いと言われたとかで興奮しきっていた.モンゴル語諸方言はすべからく頭に入っているようで,何を尋ねてもすぐ返事が返る.たいへんな記憶力の持ち主だと思った.根からのフィロロジストという感じだった.ブリャート・モンゴル語の辞書がないと言うと,それは簡単だ; ロシア語・ブリャート・モンゴル語辞典が出来ているから,それを1部コピーして一項目ずつカードに貼り付け,ブリャート・モンゴル語の部分を字母順に並べれば,立派なカード辞典が出来るというものだった.われわれもこのやり方を踏襲してみたくもあったが,そのコピー代とカード代がなかった.モンゴルのソニン sonin (新聞という意味のモンゴル語) は毎回家畜が何頭増えたとか何とか面白くない記事ばかりで,本当のソニン ( 「珍しい」 とか 「ニュース」 とかいう意味) がないと冗談を言っておられた.先生の教えを受けた日本人に故村山七郎氏 (順天堂大教授,後に九州大,京都産業大教授.1905年 (明治38年) 生 − 1995年 (平成7年) 没) − ベルリンで − と 岡田英弘氏 (東大東洋史卒,元東京外大AA研教授) − アメリカで − が いた.東洋文庫でのポッペ先生の講演の通訳は岡田英弘氏が担当したが,聞く人のために解説的な丁寧な通訳で,もとの講演よりもずっと分かりやすく,学術的な話の通訳とはかくあるべしという模範的なものだった.わたくしはその後学術的な話の通訳の際には岡田英弘氏のこの時の通訳を念頭に置いた.
 先生は独ソ戦の最中言語調査に行ったカフカズで進攻してきたドイツ軍の捕虜となり,ドイツに行き,さらにアメリカに亡命したのだという.実は 1995年 (平成7年) わたくしがロシアに滞在した時のモスクワの下宿の主人 故フョードル・ドミートリイェヴィチ・アーシュニン Fedor Dmitrievich Ashnin 氏がチュルク語学者で,大いにポッペに関心を持っていた.彼はもとは共産党員だが,今はデモクラート (ロシアでは共産主義反対の進歩主義者の意) で,共産党反対の人間であるから,亡命者自体の悪口を言わない人なのだが,ポッペとなると違った.反戦主義者だからとドイツ軍に進んで降伏し,後にアメリカに行ったウクライナ人チュルク語学者 プリツァーク Pricak (ソ連崩壊後ウクライナ科学アカデミー総裁.韓国の金完鎮 (キム・ワンジン) 氏はアメリカ留学時代彼の弟子) は許せるが,ポッペは積極的にロシア人の仲間をドイツ軍に降伏させるべく工作した人間だから,祖国の裏切り者であり,ソ連もロシアもいまだに彼の名誉を回復せず,彼自身 とうとうロシアに一度も来られないうちに没したのは当然だというのである.わたくしがプリツァークだって敵前逃亡ではないかと言うと,言葉を濁すのだった.ロシア科学アカデミー東洋学研究所 (わたくしは1年間ここにいた) の副所長 ヴラジーミル・ミハイロヴィチ・アルパートフ Vladimir Mixajlovich Alpatov 氏 (日本語学) はポッペに関して本を書いたが,ポッペをやはり裏切り者と見ているようである (V. M. Alpatov, "Nikolaj-Nikolas Poppe " [ニコライ=ニコラス・ポッペ ], Moskva, 1996, 143 stranic.).ポッペの自叙伝 (ロシア人はここにかなり嘘があると見ている) と併せて検討すべきだろう.



 わたくしはすでにエスペラントとは没交渉となってしまっていたが,東京外大のエスペラント・サークルの学生がどこからかわたくしの名前を聞きつけて応援を求めてきた.われわれは特に伊東三郎先生とコンタクトを持ち,Mondopaca Esperanto-Movado (世界平和エスペラント運動.略称:MEM) 日本支部と連絡を取った.伊東先生は中学生の頃お目にかかったことがあるが,今度は親しく しげくお会いすることとなった.先生は楽天家で,とても正直な方だった.だいたいエスペランチストというのは そう複雑で悪い人間はいないもので,ほとんどが極度の御人よしである (例外は勿論見た.朝鮮語をも解するある日本人エスペランチストは 日本が朝鮮に善政を敷いたことを主張するために一生懸命 朝鮮語新聞を読んでいた).伊東先生は左翼運動で監獄にぶち込まれた時に大蔵経を全部読んだとかで,話がマルクスからド・ソシュール,コメニウス (コメンスキー),釈迦に雑然と及び,一体論理的にどうなっているのかさっぱりつかめなかった.特にエスペラントの言語としての側面を述べる時には かなりその論は危なっかしいと感じた.ただ いざ面と向かうと誰もが簡単に先生に呑み込まれてしまった.伊東先生の話はしばしば戦前の左翼運動に及び,ヤクザは監獄の四面の壁に囲まれるとやることがなくて 「ワッ」 と喚いてすぐ屈してしまうが,共産主義者はまたとない骨休めの機会とて 何もない壁を相手に その間の情報や知識を整理した.先生らにはいつも刑事が付いて廻ったが,だんだんと刑事とも親しくなり互いに情が沸いてくるもので, 「わたくしも立場がありますから,先生,そんなにむげにわたくしをまかないでくださいよ.」 などと刑事が言ったりしたそうだ.
 またわれわれは TELS ( = Tokia Esperanto-Ligo de Studentoj 東京学生エスペラント連盟) にも加盟した.この時の参加者には清水孝一氏 (中央大法科卒,講談社),大庭篤夫氏 (早大卒,桜美林大教授) らがいる.森田明君と共に学園祭で石黒修氏を招いて行ったエスペラント講演会は失敗した.
 伊東先生は肺炎のため急逝なさった.伊東先生は故小坂先生が非左翼でありながらプロレタリア・エスペラント運動をも暗に支援してくださったと感謝しておられた.逆に故大島義夫氏 (プロレタリア・エスペラント運動の中心人物.訳書にブイコフスキー,高木弘訳,『ソヴェート言語学 』,象徴社,昭和21年 (1946),259ページ がある.わたくしもこれを読んだが,訳す価値もないものだと思った) をちっぽけな人間だと評しておられた.伊東先生は山口県の出身,先生の記憶では,いわゆる日韓併合後 山口県にけっこういた朝鮮あめ売りの朝鮮人に,日韓併合したのだからわれわれも朝鮮の言葉を覚えなければならない; 朝鮮の文字を教えてくれと,伊東先生のお父さんが言うと,あめ売りは困ってしまって汗をかきかき,鉛筆をなめなめでたらめな記号を書いていたという話を聞かせてくださった.それからなんと伊東先生は 自分はかつて朝鮮の洪命熹 (ホン・ミョンヒ) というエスペランチストと文通していたと語ったが,洪命熹氏がさほどの大人物だったことはまるで気づいておられなかった (北朝鮮副首相,朝鮮科学院 院長となる.なおその著書 『林巨正伝 』,1929 - 1939 は有名.1888生 - 1968没.洪起文 (ホン・ギムン) は子息).伊東先生は小倉進平先生にお会いしたことがあると言い,小倉先生が日本の万葉集にあたる郷歌というものが朝鮮にあるのだよと情熱を込めて話されたと語った.
 1965年 (昭和40年) 東京で第50回世界エスペラント大会があったが (後で知ったが,この時韓国からの参加者に故洪享義 (ホン・ヒョンウイ) 氏がいた),その席で殷武巌氏にぱったりお目にかかった.氏は ヨーロッパ人は皆遊びでエスペラントをやっていやがると憤慨していた.ポーランド人のエスペランチストを捕まえて,おまえらは社会主義国の人間なのにだらしないぞと怒鳴っていたが,当のポーランド人はキョトンとしていた.わたくしは伊東先生や殷武巌氏を尊敬はしていたが,エスペラントに対する彼等の思いにはあまり理論的根拠はないと感じており,エスペラントに対する懐疑は晴れないままだった.

 いつだったか確か伊東先生からの連絡で来日中のワルシャワ大学のコタニスキ Kotaski 教授 (日本語) にも会ったことがある.この時エスペランチスト来栖継氏 (チェコ文学研究家) もおられた.

 原水爆禁止世界大会での行進でぱったり殷武巌氏にお目にかかったことがある.日本政府が北朝鮮代表団の入国を拒否したので,在日朝鮮人の代表を北朝鮮代表に指名したとのことだった.どうしてここにいるのですかと尋ねると,朝鮮人はパチンコ屋あがりが多く,マナーも何もまともに知らないから,自分は通訳兼テーブル・マナーの指南役であり,恥をかかないようにする教育係に過ぎないのさと言っておられた.わたくしは後に殷武巌氏がエスペラントのほかに英語とフランス語が巧みな上に大の洋食好きでスマートなのは,氏のデンマーク公使館勤務時代のお陰らしいことを知った.後で知ったことだが,殷武巌氏はデンマーク公使と共に満洲を旅行しており,この後デンマークの日本に対する態度が非友好的になったといって,氏に対する日本の警察の監視が厳しくなったという.

 RT先生は学校の教師を辞め,清瀬にある国立多摩研究所 (旧 国立癩 [らい] 研究所) の研究員になっていた.朝鮮にはライ病患者が多く,自分は朝鮮が独立した時,これからはわが民族が自力でライ病を退治しなければならないと思い,そのためには日本の先進的な医学を学ばなければならないと決心して 解放後 日本に密航して来た; ところが来てみると,在日朝鮮人は字も知らず,自民族の言語さえ知らず,教育水準も低いという現実を見て,同僚に説得されてしまい,道がそれてしまったが,これから本職に戻るのだと熱っぽく語るのだった.謄写印刷のアルバイトのため訪れたこの日 たまたまライ病患者の死亡の報が届き,研究室はどよめいた.RT先生自ら執刀して解剖するのを見学させてもらった.理科の教室の壁に掛けてある人体解剖図の鮮やかな色は決して誇張ではなく 実際そういう色なのだということを知った.ライ病の特徴は民族によって現れ方が異なるのだそうで,この間は在日朝鮮人老婆の死体の解剖を自ら行ったと 感激の手紙を後に受け取った.当時でもすでにハンセン氏病 (ライ病) は完治する病気となっていた.RT先生の指導教官は刺青の研究もしていると言い,一体言語学なんてどこに役に立つのかとわたくしに質問した.印象的だったのは,解剖学はほとんどやり尽くされていて新しい発見はそうあるものではないが,1万枚もプレパラートを見つづけていると他人に見えないものが見えるようになるもので,毎日同じ作業の退屈と思える繰り返しこそが基礎医学そのものなのだ; 世に臨床医学ばかりがもてはやされるが,基礎医学の軽視は医学自体の低下をもたらすというのである.基礎科学と応用科学との関係の問題である.



 言語学の勉強は通り一遍のことはやったが,これといって深くやったわけではない.当時ソ連は資本主義世界には政策的に本を安く売ったから,わたくしはアルタイ諸語関係を中心にかなり買った.今わたくしの本を整理してみると,当時何気なく買ったものの中に買っておいてよかったと思うのがけっこうある.それと同時にもうどうせアルタイ諸語にまでは手が廻らないだろうと思い,韓国人に譲ったりやったりしたのが 今となっては惜しく思える.いつも気がせいて落ち着かなかったわたくしが本当に身を入れてやった語学といえばモンゴル語と朝鮮語ぐらいのものだろうか.当時のわたくしの手紙の下書きを見ると モンゴル語も漢語 (中国語) も今よりはかなり出来たようで,ずいぶん難しい文も書いていたことが分かる.
 竹内和夫氏 (東京外大蒙古語卒,東大言語卒,元岡山大学言語学科教授) や故都築通年男氏 (小学校しか出ていないと聞いた.元富山大学人文学部教授) らと一緒に トルコ語やウイグル語 (ソ連刊行のアラビア字による読本 . N. Nadzhip, "Ujgurskij jazyk " [ウイグル語 ], Moskva, 1953, 190 str. と 中国刊行の 鮑爾漢,『維漢俄辞典 』,新華書店,北京,1953,827頁 による) や ウズベク語 (ソ連で出た "Uzbeksko-russkij slovar " [ウズベク語=ロシア語辞典 ], Moskva, 1959, 839 str. の付録の文法概要 A. M. Borovkov, Kratkij ocherk grammatiki uzbekskogo jazyka, 679-727 str. による) の勉強を竹内和夫氏の指導でやったことがあるが (トルコ語のテクストはわたくしが謄写した.このテキストはすべてのトルコ語がローマ字とアラビア字併用だった.竹内和夫,『トルコ語文法 』,東京外大内陸アジア研究会,1959 - 1960),これもものにならなかった.戦前の本で鷲見という軍人の書いた 『中央アジア・トルコ語 カシュガル語の研究 』 とかいうのを持っていたが (アラビア字による別冊が付いていた),これも失われた.日土協会,『日土土日辞典 』,1936,1009ページ はまだ保存されている.わたくしと黒田ら数人で 「内陸アジア研究会」 なるものを作り,わたくしが謄写印刷で会報を出したりした.徳永先生の蔵書も含めて内陸アジア関係文献目録を作ったりもした.当時の日本はモンゴル,満洲などを中心とする 「内陸アジア」 より西のチュルク族を中心とする 「中央アジア」 までは関心があまり及んでいなかった.当時は中国の新疆にもソ連領の中央アジアに行くことなど考えられもせず,発音さえよく分からず,そういう民族は日本に一人もいなかった.わたくしはやっとソ連崩壊後の 1996年 (平成8年) に念願のウズベキスタン,カザクスタン,クルグスタンに行ったが,いまだに中国の新疆維吾爾 (ウイグル) 自治区行きを実現していない.

 ウイグル語のナジプ氏 (われわれの教材の著者) に モスクワの出版社宛てに質問の手紙を出したら,きちんと返事をくれた.またモスクワ大学の理論言語学講座のアフマーノヴァ O. S. Axmanova 教授の "Fonologija " (音韻論 ) という小冊子をわたくしが自分のために日本語訳したものを送ったら,氏の著書を数冊送ってくれた.わたくしが 1995年モスクワを訪ねた時にはこの方々は残念ながらすでに亡くなっていた.
 故都築通年男氏は日本語学,特に方言の専攻だが,幅広くアルタイ諸語其の他にも関心を持つ独学の志であり,世間で言うほどには彼は変わり者ではなく,彼自身が変人扱いされていることもよく知っている常識ある人だった.彼は年に似ずそれだけ純粋な人だった.しばしば 「学者たち」 ,特に東大出身者たちは自己のかたわ性に気づかず,他人を却ってかたわにしたてあげて悦に入るものである.彼は富山大学在職中 水泳中に亡くなったと聞いた.わたくしは 大学院入学前の経済的に困っていた時に彼から援助を受けた3万円の恩返しも出来ていない.
 1962年 (昭和37年) 東洋文庫で行われた北村甫先生 (東大言語卒,東京外大AA研教授,所長,後に東洋文庫長) のチベット語講習会はその教材の作り方といい,教え方といいすばらしかったが,チベット語は言語学的にも文化的にも重要な言語でありながら,これまたものにならなかった.河口慧海師の本も面白かったが,直接チベット留学をした多田等観氏の話は興味深かった.当時は中国からダライ・ラマがインドに亡命し,何も知らない日本のジャーナリズムは無責任にも中国に肩入れしていたが,実際チベット人に接してみて,チベット人が極めて優れた民族だということを知った.東洋文庫にはソナム・ギャムツォという活佛がおり,日本に帰化 (日本名:祖南洋 [そなみ・ひろし].彼が韓国に行く時わたくしがちょっと手伝ってやったことがある),後にアメリカで死亡したと聞く.彼は韓国の仏教をチベットのそれと比較して,案外たいしたことがないと評した.同じようなことは日本人仏教学者S2氏も言っている.あなたは活佛だが,本当に生き仏と信じているのかと尋ねると,今はそうは思っていないと言い,中国がよく言うチベット人の奴隷的状態は,余計なお世話だが,実はわれわれも知らなかったことで,チベットの近代化に早くから手を付けていなかったわれわれ自身にも罪があると言っていた.中国軍がチベットに侵略する以前すでにチベットのラジオ放送でもベートーヴェンの音楽程度は流していたと言う.彼はテレビでモンゴルの草原を見るたびにチベットの草原と同じだと言って懐かしがった.



 東外大の他学科の先輩としては フランス語学科出身の矢島文夫氏 (京都産業大などを経てアジア・アフリカ文化財団図書館,セム語学,メソポタミア,文字論),ロシア語学科出身の佐藤純一氏 (東大教養を経て創価大教授,ロシア文学会会長をつとめる.スラヴ語学) がいて,徳永先生のところで時々いっしょになった.矢島文夫氏はお父さんが京城帝大教授 (科学史) で,子どもの頃 京城にいた.佐藤氏はマルを研究したと言われ,優秀な人として知られていた.ロシア語学科出身の千野栄一氏はチェコスロヴァキアのカレル大学に留学中だったが,徳永先生宛ての氏の手紙が時々披露され,当地の教授たちの ウィスキーを飲みながらのタフな授業振りや プラハの古本屋の状況が伝えられた.また城田俊氏 (ロシア語) は日ソ学院の方からモスクワ大学に留学し,帰ってきたばかりだった (その後北大,広島大などで日本語研究をした).同期頃の人としては フランス語学科出身の崎山理氏 (大阪外大,広島大を経て国立民族学博物館教授) がいて,京大大学院に進んでから,マライ・ポリネシア諸語に首を突っ込んだ.ロシア語学科の故 冠木克彦氏はチェコスロヴァキアに留学し,なぜか自殺した.彼の蔵書は今 東外大図書館にある.ロシア語学科出身の故 森安達也氏 (東大比較文化,西洋古典,スラヴ学),杉田洋氏 (ハワイ大学に留学,国際基督教大,マライ・ポリネシア諸語.彼の指導教授はハワイ大学の Son HoMin (ソン・ホミン) 教授 (朝鮮語学,日本語学専攻) だった) はほぼ同期であり,少し後にフランス語学科出身の長野泰彦氏 (国立民族学博物館,チベット学) がいた.皆多かれ少なかれ徳永サロンに顔を出した人々だった.



 まことにあつかましくも 1961年 (昭和36年) ソ連の見本市でロシア語の通訳のアルバイトというのをやったことがある.現実のロシア人と接してみて,社会主義国の人間はこんなものかとがっかりしたものである.彼らは基本的に個人主義者で,自分の仕事が終ってしまえば他人の手助けは絶対にしない.そのくせ頭が固く,融通がまるで利かない.イワンというモスクワ大学を出たという日本語通訳がいたが,たいへん鈍く何事も杓子定規に考える人間なので,われわれは彼を 「イワンの馬鹿」 と呼んだ.こんなことがあった.鳩山首相が見学に来たら,ロシア人は皆日本の首相を見にワッと駆けて行き,残ったのは日本人だけだった.イワンはなぜおまえらは自分の国の指導者を見ようともしないのかといぶかしがった.
 ミコヤンが来て たまたまわたくしの隣のセクションの技術者に質問をしたが,彼はこちんこちんに硬くなっていた.かと思うとわたくしのセクション (製本機械) に来たある若い日本人は演説を始め,われわれ中小企業の苦しい労働者を代表してソ連のすばらしい機械を見学し,併せてわれわれ労働者がどう生きるべきか教えていただきたいのだと弁じた.製本の機械はドイツ製が世界で一番よく,次が日本製で,ソ連製はもっと落ちるようですよとわたくしが説明した後,彼の言を政治意識の低いわたくしのセクションの技術者に伝えると,彼はこの日本人は一体何を言うのかと怪訝そうな顔をした.このような馬鹿げた話がたくさんあった.
 見本市の会場は 朝始まる前にロシア人の共産党員らしいのが長々と演説をしていたが,始めから最後まで聞く者はおらず,入れ替わり立ち代り 途中だけを聞いて出て行く者ばかりだった.さほどに言葉に重みというものがないかのようだった.この見本市のソ連側スタッフはソ連各地からのいろいろな民族によって構成されているらしく,事務局にはいろいろな民族語による新聞が置いてあり,わたくしはサンプルに各1部ずつ貰ったが,保存していたその新聞もいつの間にか失われた.
 通訳として満洲のハルピン生まれの日露の混血児たちの一群が働いており,彼らは日常会話はロシア人並みによく出来たが,スプートニクその他の専門的な話になると,日本人の質問におびえて逃げ回っていた.わたくしは 1976年 (昭和51年) モンゴルからの帰り ハバロフスクのホテルで間違えて他人の部屋をノックしてしまったが,それは偶然にも 今は日ソ貿易の商社に勤務しているあの時のアルバイトの混血児の一人だった.
 通訳として日ソの間を行き来する日本人商社員もいたが,彼等の話はわれわれの持つ神聖なソ連のイメージを壊した.例えばこんな風に: ロシア人は一般にお人よしだが,単純で,日本船が出港する時など,無知なロシア人の百姓女たちは親しくなった日本人を見送るために遠くの山奥から徒歩で港にやってきて,みんな一斉に船に向かって 「スケベー」 と叫びながら,いつまでもハンケチを振りつづけた. 「スケベー」 とはある日本人が 「日本人」 という意味の日本語だと いたずらで教えたというのである.彼らはモスクワのウクライナ・ホテルには外国人相手の売春婦がいるというのだが,われわれが信じたくないそういう話はどうやら真実のようだった.ソ連側は通訳採用のための面接に際して,約束とは異なり,初めからアルバイト料を値切った.このこともわれわれのソ連に対する不信感を増大させた.社会主義って奴は嘘つきで汚いではないかと.

 まことにあつかましくも四国の松山でロシア語の講習会での講師を務めたことがある.黒田の同級生に 人のよい田川滋という人がおり,彼の斡旋によるものだが,彼の父親は愛媛大学教授 (教育学) で地元のちょっとした左翼の有名人だった.地方では日ソ,日中,日朝友好運動をただの一人の専従が引き受けているところが多く,松山もその例に漏れなかった.ある日 梅津寺港にソ連船が入港したというので,教え子ともどもロシア人に会いに行った.ウクライナのオデッサから来た船で,われわれは中に招き入れられ,交流の場を持ったが,ここでわたくしのロシア語は全く役に立たないことが暴露され,はしなくもシベリア帰りのわたくしの教え子のブロークンなロシア語の方がよく通じた.この時も皆で一体この人たちのどこが社会主義的なのだろうかと不思議に思ったものである.われわれもまた 理想としての特別な社会主義的人間という像を勝手に作り,それに合うものがいないとがっかりしていたのだろう.ウクライナ人か南ロシアの人がいたらしく,ロシア語の単語 bor'baバリバー (拳闘) を borba ボルバーと,mnogo ムノーガをムノーホと発音しているのを聞いた.

 たまたまソ連のある代表団の通訳として来日したロシア人と知り合ったが,彼は石川啄木の研究家でもあり,啄木を尊敬もし,啄木の詩の翻訳もしていた.わたくしは残忍なスターリンは大嫌いだと言うと,平然と自分はスターリンを尊敬していると言った.時代はまだそんなところにとどまっていた.
 もっともソ連崩壊前後に知り合った故アレクサンドル・ホロドーヴィチ Aleksandr A. Xolodovich (レニングラード大学教授.朝鮮語学,日本語学専攻) の娘 リュドミーラ・アレクサンドロヴナ・ホロドーヴィチ Ljudmila Aleksandrovna Xolodovich (ソフィア大学 (ブルガリア) 教授.日本文学専攻) は 貧しさを強調する琢木やらプロレタリア文学など大嫌いだと言い,スターリンを初め KGB (カーゲーベー.ソ連の秘密警察) を憎んでいたから,世も様変わりしたものである.

 ロシア語の通訳のアルバイトのようなことは いつだったか後にコパルというカメラのシャッターを作る会社でやったことがある.ソ連はカメラの性能をよくする目的で まず西ドイツにシャッターの図面を売るよう交渉したが拒否され,日本に依頼して来たのだが,コパルが当り障りのない図面を売却したのだと言う.全ソ連から各分野のえりすぐりの技術者を 20人 日本に派遣してきたのだという.日本とソ連とは工業規格が異なるので,どこまで細部の違いが許容されるかも技術者同士の討議事項だった.われわれは専門的な知識が皆無だから,われわれの本当の出番は少なく,結局は机を鋏んで相対するロシア人と日本人の技術者が,ロシア人向きにはロシア字による日本語,日本人向きにはカタカナによるロシア語の専門用語の対を見ながら,互いに身振り手振りを交え,図示しながら説明するのが一番効果があった.
 この過程でいろいろなことが分かった.われわれはもはや社会主義が格別優れているとも思わなかったし,ソ連のどこが問題なのかを発見することに ある意味では興味を覚えていた.ソ連の技術者の専門は細分化され,一人の技術者は他の分野がほとんど分からなかった.そして彼らはソ連のマニュアルを最良のものとする信仰のようなものがあり,ちょっとでもソ連の方式と違うと混乱が生じるようだった.この工程をどうしてここで行うのかというロシア人の質問に対して,日本人がこうでもよいし,ああでもよいが,便宜上そうしているということがしばしばあったが,頭の固い技術者は時折 「ニェット Net (否) 」 と言って怒り出すことがあった.特に化学担当のロシア人の中年女性の頭の固さには皆てこずっていた.ローマ字 Hを彼女はフランス語式に ash アシュと発音したが,日本人が英語式にエッチだのエイチと言うことさえ気に入らなかった.日本人技術者は一人であちこちの分野に関する知識を持ち,融通が利いたが,ロシア人はたくさんいても 最終的にいろんな分野に渉る話は 大学院を出たというただ一人の技術者 = 研究者に持ち込んでOKを得ればよいということが分かった.しばしば ここをこうしたら性能がもっとよいはずだとのロシア人の指摘に対して,その通り,しかしシャッターを何ドル以内で作れという要請に応えると こうしかならないという日本人の説明が ロシア人には納得できないようだった.ソ連と日本 (日本だけではなく資本主義国一般かも知れないが) の この違い − 結局はシステム上の − はその後のソ連の没落を知る上での手がかりになるかも知れない.ロシア人の方も シャッターの部品を作るところが 街の民家の一部屋に大きな機械をでんと据えつけただけのちっぽけな町工場であることに驚いたらしい.
 ゴム専門の技術者はゴムの話なら延々と出来るが,ソ連で当時見ることを禁じられていた 007 (ノーリ・ノーリ・セーミ nol' nol' sem' と言っていた) の映画を見に行くこと以外には ほかに何の関心も持たない 極めてかたわで魅力のない人ばかりだった.通訳仲間のある者は 彼らをロシア文学の素養が欠けていることをもって殊のほか馬鹿にした.ロシア文化やマルクス主義についての教養は彼らよりわれわれの方がはるかに高かった.わが日本人技術者の方が関心が多岐に渉った.
 この時の通訳のアルバイトを紹介してくれた勉強家の左近毅氏 (東京外大ロシア語卒,一橋大大学院修了,ロシア思想史専攻,大阪市立大の教師となる) も故人となった.氏とフランス語やらポーランド語の本を一緒に読んだことが思いだされる.



 中国は北京の清華大学の学生にエスペラント文の手紙を出したら,その手紙が漢語 (中国語) に訳されて,『中国青年報 』 という新聞に載った.そうしたら内蒙古,新疆から海南島に到るまで各地から日本人と文通したいという手紙が何百通と押し寄せた.わたくしはそれを一々日本各地に送って 文通相手を探してくれるように依頼し,本人にはそうした旨の返事を出した.ただし これだけ広い中国から来た手紙の内容は どれもが判を押したようにほとんど同じ語句,すなわち四字成句から成るスローガンの組み合わせで出来ていた.もう一つ,中国の各地に朝鮮人がいるらしく,朝鮮語の手紙が内蒙古からも新疆からも青海からさえやってきた.これだけたくさんの手紙の中で ただの一通だけ毛色の変わったものがあった.曰く,自分はスイス人の平等,フランス人の博愛,ドイツ人の勤勉...を愛するというものである.この人とはしばらく文通が続いたが,手紙はいつも自分の頭で考えた新鮮な言葉で綴られていた.いつからか手紙は途絶えたが,わたくしの記憶にはしっかりと残った.
 ところが 1980年 (昭和55年) 遼寧省錦州市にいるこの人から 東京外大のわたくしに宛てて手紙が突然 ほとんど 20年ぶりに舞い込んだ.彼は NHKに手紙を出し,以前東京外大の学生で菅野というのがいたが,調べてもらえないかと依頼したら,それと同一人物かどうかは知らぬが,東京外大の職員録に全く同じ名前があると知らせて寄越したというのである.彼の手紙の内容はこうである.自分は河南省師範学院で仕事の合間を縫ってロシア語の美学の本を漢語訳していたが,そのこととわたくしとの文通を理由に厳しい点検を受け,何度も自己批判させられた挙句,農村に送られた.当時中国は大躍進などといって 20年でイギリスに追いつくと言っていたが,アメリカでもイギリスでも日本でも 100年以上かかってやっと築いてきた資本主義を ただの 20年で遅れた中国が追い越せるはずがないと言ったのがたたった.文化大革命の時も農村に下放となり,無学な農民の女と結婚した.いまや時代は変わり,また北京に戻せといくら掛け合っても下っ端役人では埒があかない.解放直後の中国で八路軍や新四軍は実に立派だったから,自分らは心から中国共産党を支持したのに裏切られた.父は満鉄の日本語通訳をしていて 常日頃日本人をほめていた.自分は今 客観的な報道をする NHKの漢語放送だけを聞いているというのである.わたくしの返事に対して,自分は慣れない農作業のせいで今病床に臥しているが,すまないが,結核のための漢方薬 (日本製) を送ってもらえないないかという手紙が来た.少し調べてからまた手紙を出したが,今度はしばらくして彼の奥さんという人から当て字だらけの,いかにも無学な人の書いた手紙が来た.話には聞いていたが,表語文字たる漢字が半ば表音文字として用いられ,その結果意味を考えつつ漢字を読んでも一切 「読めない」 というものには始めて出くわした (もっともこの事実はローマ字論者を勇気付けるものである).その内容とは,夫はあなたの手紙を枕もとに置いてしきりに次の手紙を待っていた; NHKの放送を聞き,死にたくないと繰り返しつつとうとう息を引き取ったというものだった.20年の歳月は国も人もこれほどまでに変化させていた.
 これには後日談がある.わたくしが 1981年 (昭和56年) に中国に行くと手紙を出したら,その奥さんからそれではテレビを持って来てほしいと手紙が来た (ただし当時錦州は外国人の行けない未開放都市だった).さらにその息子から数年後に手紙が来て,日本に行きたいので何とかしてほしいと言って来た.この手紙を東京外大でわたくしの指導する中国人留学生 (北朝鮮出身.朝鮮語を解する) に見せたら,その学生の曰く: 先生,いくら昔の文通相手といったってかなりの中国人が下放されたのだから,一々それに涙など流していられませんよ; しかもその息子のことはもう関係ないから,この手紙には返事を書いてはいけません,と言う.そして中国人ならこう書かれれば,これはだめだという婉曲な表現だということがすぐ分かると言って書いてくれた中国文をそのまま筆写して送ったら,彼はそのことには触れなくなったが,1995年 (平成7年) まで年賀状が来ていた.

 当時八路軍の立派さについてはあちこちで聞いた.確か四国に行く汽車でたまたま隣り合わせになった田舎の自民党員という人からはこんな話を聞いた.満洲で日本人引揚者の一団を引き連れて ある町にいた時,入れ替わり立ち代りいろいろな軍隊が町を通過していった.女たちは強姦を恐れて坊主頭にし,街には出なかった.八路軍が来た時,呼び出しがかかった.これはもうだめだと思い,自分が帰らなかったらこうしろと団員たちに指示をした後,八路のところに行った.彼らは非常に丁寧に 今の世界情勢について知っていることを教えてくれと言った.自分の知識を披瀝すると,丹念にノートして,今日は有難う,明日も来てくれるかと言う.今日は取りあえず命が助かったと思い,翌日行くと,昨日あなたの語った世界情勢を分析するとこうであると思うのだが,それでよいかどうか,率直に話してほしいと言う.そしてすまないがラジオを持っていたら貸してもらえないかと鄭重に頼んだ.また八路がいる間は日本人は 街を自由に歩いてよろしいとも言った.本当に八路は略奪をしなかった.こうして自分は殺されることなく,女たちも安心して町を歩き,八路と日本人の間には信頼関係が出来た.まもなく八路の隊長から,ラジオをどうも有難う,自分たちは明日ここから撤退するが,くれぐれも注意するようにと言ってラジオを返して寄越した.翌日国民党の軍隊が入城するやいなや 一切合財ラジオも含めて略奪された.だったらあのラジオは八路にあげるべきだったと後悔した.自分はいろいろな軍隊を見たが,八路ほどの立派な軍隊を見た事がない,と.



 「言語学研究会」 の発足の集まりに行った.金田一春彦氏 (東大国文科卒,名古屋大学,東京外大を経て元上智大学教授) や三上章氏 (東大卒,現代日本語文法専攻) らの講演があった.この研究会の研究発表には時々出かけた.当時はまだ国文法の強い時代で,国文法を無視した新しいタイプの現代日本語文法の研究は佐久間鼎氏,三上章氏,金田一春彦氏らを経て故奥田靖雄氏,宮島達夫氏,鈴木重幸氏,高橋太郎氏らの手でようやく始まったばかりだった.

 奥田氏はハルピン学院出身,建国大学 (新京 [今の長春] にあった満洲国の国立大学) の助手,後に満洲時代はツングースの民族学的研究に従事し,ソ満国境にいたが,敗戦直前ハルピンに脱出,帰国後は うわさでは闇市で叩き売りをしながら言語学をしたという.帝政ロシア時代のかなりよい本を満洲から持ち帰って日本で売ったと見られ,IZ氏の持つザハロフの 『満露辞典 』 は奥田氏旧蔵本である.服部四郎氏の門を叩き,東大の言語学もちょっと出入りしたらしいが,服部氏と喧嘩をしたのか,その後寄り付かず,服部氏の悪口を言っていた.長らく職がなかったのではないかと思われる.教育科学研究会でのしごとに従事していたが,ずっと後に宮城教育大学教授,2002年 (平成14年) 逝去.布村一夫氏 (元九州大学教授,親族組織の研究者として知られる) は実兄.ソ連の本を買いまくり,恐らくソ連本,特に言語学書の蔵書としては個人,機関を問わず日本最大ではなかろうか? 新潟に書庫があるそうである.

 宮島,鈴木両氏は東大国文出身,高橋氏は京大心理学出身,3人ともすでに国立国語研究所に職を得ていたと思われる.宮島氏は後に大阪大学教授,鈴木氏は横浜国大教授,たいへんな勉強家だった.彼らは新進気鋭の元気溌剌とした若手研究者で,確か奥田氏がソ連の “Voprosy jazykoznanija” (言語学の諸問題) 誌を示しながら,モスクワの匂いがすると言っていたのを覚えている.彼らは当時学界から異端視される存在だったが,現在では現代日本語研究を行う上で 彼等の足跡は欠かすことの出来ない研究史の重要部分をなしている.もっとも日本では 特にいわゆる有名人は言語学の世界でも俗物が多いから (特に東大出身者に多い),彼等の水準も分からずに今でも異端視しているであろう.わたくしには彼らはまことに新鮮に見え,文法研究とはまさにそのようでなければならないと思った.金田一氏もしきりにその点を強調していた.

 「言語学研究会」 は民主主義科学者協会 (略称:民科) 言語科学部会を受け継ぐものとはいえ,大島義夫氏らの時代とは異なり,はっきりと奥田氏中心となっており,民科などとは違ってはるかに 「言語学的」 だった.奥田氏は奥田靖雄 『正しい日本文の書き方 』,春秋社,1953年,202+6ページ (ここには奥田氏特有の用語が既に見られる) を指し,おれたちはこういう幼稚なことをやっていたと自嘲的に語っていたが,しかし彼の業績は 戦前の日本の左翼言語学徒が幼稚にもマル学派のお先棒かつぎでしかなかったのとは雲泥の差だった.日本における初めての本格的な左翼言語学者の誕生である.もっともこの 「左翼」 というのがその後問題となる.例えば左翼を標榜する言語学者としてはフランスのマルセル・コエン Marcel Cohen がいるが,彼は単に言語の volution をマルクス主義に結び付けているかのようであり,これは実はエンゲルスの二番煎じに過ぎない.新中国と北朝鮮は恐らくソヴェト言語学を受け入れたと思われるが,その導入がどの程度のレヴェルだったのかは疑わしい.曲がりなりにもソ連の言語学をそれほどまでに深く研究した人物としては極東では奥田氏の右に出る者はいなかったと言ってよいとわたくしは思う.しかも現地に行かずに日本で書物を通してのみ行なったところが,ヨーロッパの他の国々の言語学の導入に際してと同じく,いかにも日本的ではある.この意味では奥田氏は日本の言語学史において特記すべき役割を果たし,かつ少なくとも極東の言語学において日本の誇りを成すと言って過言ではないと思う.

 言語学研究会は日本エスペラント学会の事務所を借りて作業したことがあり,後に麦書房に移った.

 国文法というのは一つの文節内部の形態素の分析で終る.つまり事実上のシンタクスがないからだけでなく,特に用言における助動詞や助詞という品詞の取り出し方は事実誤認の疑いがある.単語というものの概念がない (もっともアメリカ流の言語学も 日本の大部分の言語学者も形態素以上に単語に対する明確な概念規定を設けないという点では似ており,事実において時枝文法も亀井孝氏の文法も 国文法と大差はない).文法範疇を日本語にも確立すべきだ.表現は違っても 「言語学研究会」 の設立時の考えはおおよそこのような内容だったと思う.国文法によって形態論的分析を大いに学んだわたくしは,これこそは国文法の次の研究段階であると,極めて頭がすっきりした思いだった.意味の分析にしても故服部四郎氏 (東大言語学科の主任教授) の 「意義素」 なる概念にはっきりと疑問を持った.わたくしは今でもおおよその考えは当時から変わっていない.

 この研究会には GR,HN其の他の朝鮮人もいた.彼らは皆朝鮮大学の出身で,奥田靖雄氏から言語学を学んだという.朝鮮大学は開学当初はずらりと有名な日本人左翼学者をそろえていたが,後にすべて朝鮮人に切り替えた.朝鮮大学で言語学を担当した卓熹洙 (タク・ヒス) 氏と 故朴正文 (パク・チョンムン) 氏は 奥田靖雄氏と仲が悪かったが,朝鮮人学生はどういうわけか皆奥田氏になびいた.彼の方がはるかに迫力があったからだろう.奥田氏はソシュールを批判していたが,時枝の説も取らなかった.朴正文氏が,奥田はソシュールさえ否定するふとどきものであると言っているのを聞いたことがある.この段階では卓,朴両氏の方が奥田氏よりも穏健派だった.わたくしは日本音声学会の例会でも卓,朴両氏に会ったことがある.彼らは大西雅雄会長に会ったこともあるが,大西氏が日本が朝鮮に善政を敷いたようなことを言ったと非難していた.卓熹洙氏 (彼自身は左翼運動のかどで一高を中退させられたと言っていた) はこつこつ勉強して日本で始めて朝鮮語による研究書を出したと,総連の社会では有名になったようであるが ( Tag HyiSu [卓熹洙], 《 JoSen 'e'ym GaiRon [朝鮮語音概論] 》, Hag'u SeBaq [学友書房],東京,1956,187+16??),この本は読んでみると,そう質の高いものではなかった.卓熹洙氏にしても趙承福氏にしてもこの世代の学者は朝鮮語の正書法の問題に深い関心を持っていたが,音声,音素,形態音素などの概念をきちんと区別するに到っていなかったと思う.彼は ソ連は趙明熙 (チョ・ミョンヒ) のような朝鮮語の作家を養成したが,日本共産党はかつて朝鮮人のそのようなインテリを養成したことはないと語っていたのが 妙に印象に残っている (事実は,これもずっと後で知ったことだが,趙明熙は 1938年 (昭和13年) カザクスタンのクズルオルダ Qyzyl-orda で銃殺刑に処せられていたのである).彼のいう日本共産党云々の件はわたくしもあちこちで聞いたことがあって,反日共の時世から簡単に受け入れられそうだが,ただ朝鮮人左翼が四分五裂の状態だったことを考えれば,全部を日共のせいにばかり出来たものか疑わしい.卓熹洙氏はいわゆる帰国船で早々と新潟から清津に向かった.その後一時期平壌の科学院で仕事をしていたと聞いたが,間もなく消息が届かなくなった.ある人から彼は平壌から遠く離れた山奥の協同組合の会計員をしていると聞かされた.

 当時北朝鮮の書籍は直接輸入して販売する九月書房と 影印した北朝鮮の本と学校教科書を販売しかつ図書出版もする学友書房とがあった.九月書房は 九段下の交差点から飯田橋方面行きの道路 (今は目白通りと呼ばれる) と 西神田方面行きの道路とが交わるところの 北東側の角にあった.この西側の少し奥に 解放新聞社はあった.九月書房には仙花紙ながらもかなりの数の北朝鮮出版物が並べられており,原典から訳したのか日本語からの重訳か知らぬが 世界文学全集といったものもあり,例えば 『レ・ミゼラブル 』 の朝鮮語訳もあったのを覚えている.また 「 JoSen MunHoa MunGo(朝鮮文化文庫)」というシリーズの文庫本もかなり出ていた.当時朝鮮についてこれといった知識もなく これらの書籍をいくらも買っておかなかったことが心から惜しまれる.またこれらの本は日本のどこかに保存されているのだろうか.
 学友書房刊行の影印本の 「朝鮮文庫」 には 『春香伝 』,1953,163ページ があり,これは後に出た許南麒訳,『春香伝 』,岩波書店,昭和31年(1956),190ページ の元本となったものである (林和による 「例言」 が付いている).
 当時 趙基天著,許南麒訳,『長編叙事詩 白頭山 』というのがよく読まれていた.わたくしの持っていた本は貸した友人が無くしてしまい,わたくしが彼に無理やりノートに筆写させたものが今手元に残っている.その彼は意識不明と聞いた.



 1960年 (昭和35年) は日米安全保障条約 (いわゆる安保条約) の改定の年で,日本全国が荒れた.東京外大も例に漏れず,授業そっちのけで集会に次ぐ集会,そしてデモに次ぐデモに明け暮れた.今まで日共との関係をきちんと考えてこなかったわたくしは ここで重大な選択を迫られた.学生運動の指導者たちは 日本をアメリカの従属国であるとする日共の主張は間違いで,日本の資本主義は復活しつつあると言う.わたくしはまず 日共のような大組織を相手にいとも簡単にそれは間違いだと断定する大胆さにびっくりし,かついぶかしがった.われわれは今までインテリは常に労働者,農民に教えられなければならないと教わってきた.インテリは本来思いあがる危険性を持っているから,彼等の前であくまでも謙虚でなければならないという.わたくしの頭は混乱した.それならばこの学生たちは傲慢なのか.しかし彼らは かつての日共の過ちを繰り返さないためにはすべてを自分の頭で考えろと言う.そして日共の過ちというものを その根源にまでさかのぼろうとしていた.わたくし,あるいはわれわれは 組織からの脱落を個人の資質にしてぐだぐだしている間に,学生たちの思考はずっと先に行ってしまったと感じた.少なくとも今まで自分の頭で考えたことがなく,何でも正しいものを宗教的に信じることしか訓練を受けてこなかったわたくしにとっては まことに辛いことだが,何に自分が納得できるのか 自分に正直でなければならず,ともあれ自分の頭で考えるべきだと思った.とても辛く煩わしくさえあったが,わたくしはともかく討論会にはきちんと参加し,皆の言葉に耳を傾けた.本来会議というものが苦手でろくに発言の出来なかったわたくしだが,一生懸命にその発想のパターンだけでもつかみたいと思い,彼等の書いたものも丹念に読んだ.もとより経済学の細かいことまでは分からずとも,何が問題かぐらいは知りたかった.高校の時の民青などとは比ぶべくもなく 緻密で真摯な討論がそこにはあった.

 しかし討論が長引くとだらけが生じた.そして学生たちは嫌気がさすとよく会をサボった.決めたことも守らず,実に秩序がなかった.これで何か組織を作ろうと言うので,わたくしはよく分からないからと態度を保留した.するとわたくしの保留の理由をめぐってまた侃侃諤諤の果てしない討論が続いた.これは討論のための討論でしかなかった.なるほど学生はチャランポラン階層ではあるなと感じた.立派なことを言う学生でも 個人的に信用ならない者がずいぶんいた.ちょっと金を貸せと言ったきり返さない者が指導者の中にもいた.金がないから約束を守れないのは止むを得ないのだと言う.そしてこのことと論理の正しさとは別物なのだと言う.形式論理さえ成立すればそれで足れりとしているかのようだった.学生自治会長をやったGは卒業後ある有名出版社に入ったが,その仕事振りのでたらめさについては IY君から聞いた.正義感を持っているはずの学生が 実は学生時代からすでにその後の一生の生活の規律を身に付けるらしいことは,わたくしの東京外大時代の教え子を見ても理解出来た.左翼学生はそれ自体政治的存在であり,だからこそ当初から 「政治的」 なのかも知れない.

 政治的には東京外大と東京教育大の自治会がイタリア共産党の構造改革路線を取っていたが,やがてこれも二つの大学が分裂した.他大学はその路線を修正主義と断じて他の路線を取るといったように混迷を極めた.こんなことを一々フォローするひまはわたくしにはなく,どうでもよかった.

 思想的にはソ連式のマルクス主義,特に哲学や経済学に根本的な疑いが持たれ,マルクスの原点に立ち返ろうという動きがあり,『経哲手稿 』 というのが取りざたされているらしかった.こっちの方は大いに気になった.なぜならば奥田靖雄氏らは依然としてソ連一辺倒なのだが,これでよいのだろうかという疑問がわたくしにわき出していたからである.

 それにもう一つある.情熱を一生懸命ぶつけて自分の主張を述べる姿は美しくさえある.民青が 「歌と踊りの民青」 と言われ,何か不満はございませんかと注文取りに歩き廻り (これを 「大衆の要求を汲み上げる」 と彼らは表現する),どこそこの教室の壊れたガラス窓を修理しろと学校当局に突きつけるなどの学生とも思えない小ざかしい態度を ふふんとせせら笑う彼等の態度はまことにその通りであると思われた.しかしその美しい主張が並行線をたどると,組織も分裂する.もともと決めたことは守るという原則のない学生たちだから,これもまた当然である.

 わたくしは意を決して この上はやはり学生だけでなく労働者たちとも一緒にやるべきだとの判断を下し,彼らの制止も振り払って,黒田らと共に日本民主青年同盟 (青年団から青年同盟に名前が変わっていた) 東京外大班に加わった.しかしまことに迂闊なことには,そんなことは入る前から分かっていたはずなのに,民青の驚くほどの質の低さ,論理のなさに唖然とせざるを得なかった.しかも民青に反対する学生たちを十把一からげに彼らはトロツキストと呼んだ.どだいトロツキーを読んだこともなくトロツキーの何たるかを知らない者が そんなことを言う資格がないではないか.つまりこれは日共の貼ったレッテルを真似しているだけのことであって,何の根拠もないことである.わたくしはかつてわたくしが付き合ったことのある労働者上がりの日共党員に聞いて廻った.中央区会議員もいた.しかし当の労働者という輩は何の勉強もしていなかった.それは難しいことだから党中央に尋ねて御覧なさいと言うばかりだった.あいも変わらず日共の新聞を読んで学習しなさいという類の発想をしていたし,ここにはひとかけらの進歩もなかった.学生がチャランポラン階層なら,労働者という奴らはでくの坊階層ではないか.まことに不信感の塊となったわたくしは,もうそんなことはどうでもよくなってきた.突然黒田らに わたくしは民青も含めあらゆる組織とも一切関係を持たないと宣言して去った.黒田らは自分らを置いてきぼりにしたわたくしに不信を持って それからは口もきかなかった.こんな風にして黒田らとの関係は絶たれた.黒田が民青などに安住するような人間でないことはわたくしがよく知っている.その後彼は 非常に観念的なことばかり言う人間になったらしい.わたくしも彼も互いに連絡もないままそれぞれの大学院に入ったが,ある時全く偶然にも大東京のどこかでぱったり出会った途端,大塚史学はどうしようもないとかなんとかわたくしに喚いた.わたくしが東京教育大大学院にいることと大塚史学がどこで結びつくのか,わたくしはあっけにとられた.

 わたくしは大学卒業後 しばらく朝鮮人の学校で日本語を教えつつ 朝鮮語を一層きちんと勉強したいと思っていた.そこで朝鮮大学 (東京都小平市にある総連系の大学.ただし日本の法律に基づく大学ではない) の朴正文氏に話したら,十条の朝鮮人中高級学校の校長を紹介してくれた.ここは教員の資格もいらないから,これで話はきちんとついたものとばかり思っていた.ところがある時朴正文氏の家を訪れた時,迂闊にも日共に対する批判を口走ると,彼は激怒してそれはけしからんと言う.わたくしはあなたがたの国の批判をしているわけではないと言っても聞かない.とうとう激論となり,夜明けに喧嘩別れとなった.それきり十条での件は一切通知もなかった.

 こうなったことの理由は,彼がしきりに自分たちは科学院というすばらしいものをいただいているのに,おまえらは おれたちに君臨した京城帝大にいた小倉進平とか河野六郎とかのブルジョア学者しかいないではないかと言い,しきりにおまえらはおれたちのものから全面的に学ばない限り,まともな水準には達し得ないというようなことを言ったことに わたくしが大いに反発したことにもよる.最後にはおまえはやはり日本人であり,日本人は所詮日本人でしかないのだと言っていたように覚えている.この 日本人は結局日本人だ と言う言い方は韓国でもかなり聞いた.またわれわれから全面的に学べ式の発想も 韓国で出くわした.さらに GR,HNらが自分らをないがしろにして奥田靖雄氏についていることへの反発を 彼が口走ったように記憶している.わたくしが最近 言語学研究会に来なくなった学生の様子を見に朝鮮大学の学生寮に行ったこと (彼らはわたくしに友好的に対してくれた) をも 日本人がわれわれに陰謀を加えているかのような言い方をするのを聞いて 開いた口がふさがらなかった.今考えてみるに,これは彼等の社会における主体 (チュチェ) 思想運動開始の時期と符合する.

 またわたくしは日朝協会の会員にもなり,本部の人々とも親しくなった.わたくしの謄写印刷による 『朝鮮研究 』 などという 今思うに恥ずかしくて堪らない薄っぺらな雑誌も 第2号まで本部の人と一緒に出したこともある.わたくしは 『倭語類解 』 の朝日索引を載せたことがある.やがてわたくしが日共を批判すると,日共支持の彼らがわたくしを疎んじだし,これでわたくしはまたそこを退会するはめになった.とまれちょっとでも日共を批判すれば 日共の 「外郭団体」 からも すぐさま つまはじきされる時代だった.彼らがそれは大衆団体だといくら言おうとも,事実上は日共のものだったのである.ただしわたくしは 今では彼等のつまはじきに感謝している.早々と彼らに見切りをつけることが出来たからである.本部の事務職員のうち Sは東大出で,それを自慢しており,同級生に今何省の局長がいるなどとよく話していた.彼自身は左翼系の情報にはめっぽう明るい男だが,常に日共絶対服従という かたわみたいな人間だった.朴憲永は北朝鮮がスパイだと言うのだから,やはりスパイだったのでしょうねなどというような男だった.

 こんな風にして わたくしの幼稚で無駄の多い4年間は友人たちとの相互不信の中で暗く過ぎ,昼間部の高校に入った人より一ラウンド,つまり4年遅れて 1962年 (昭和37年) 大学を卒業した.わたくしの記憶では,この年 国民皆保険制度が出来,わたくしも国民保険証を手にした.またこの時から大学卒業生の就職率が 100%となった.日本経済は確実に上向きつつあった.


朝鮮のことども

 1962年 (昭和37年) に故 寺尾五郎氏らの提唱で 日本朝鮮研究所が発足した.寺尾五郎氏は早稲田大学出身,『三十八度線の北 』 の著者,北朝鮮に何度も渡る.後に北朝鮮不支持になったようで,また安藤昌益の研究会をやっていたらしい.『三十八度線の北 』 を読んで感激した在日朝鮮人青年が 「帰国」 してあまりの現実の酷さに怒り,平壌で寺尾五郎氏を取り囲んで抗議したことは有名な話である.真偽のほどは定かでないが,「近くて遠い国」 という表現は寺尾氏が最初に使用したものであると 寺尾氏は言っていた.
 創立総会に行ってみたが,河野六郎先生の姿を見て驚いた.もっとも河野先生はわたくしを見るや,これはインチキな研究所だねと即座に仰った.故 旗田巍氏 (東大卒,元東京都立教授,元朝鮮史研究会会長) も来ていた.この人は決して左翼とは思わないが,河野先生や故 田川孝三先生 (京城帝大卒,李朝史専攻,戦前朝鮮史編修会,戦後東洋文庫にいる.元東大朝鮮史講師) 其の他の方々のお話ではこの人はいつも左翼的ポーズを取る人で,韓国人からは唯一の日本人良心派と見なされていた.当時の日本人の若手の主たる朝鮮史研究者はほとんど彼の下に集まった.この人の著書 『朝鮮史 』,岩波書店,1951,299+11ページ は韓国でも読まれていることを後で知った.在日本朝鮮人総連合会 (略称:総連) の故 韓徳洙 (ハン・ドクス) 議長の姿もあった.総会が終って皆が帰ると,一部の人が残って宴会を始めた.するとふすまが開いて隣の部屋から朝鮮人数人が出てきて,いかにも偶然なようにこちらに合流した.その中には日本名中川信夫氏もいた.
 後で寺尾五郎氏その他から聞いた話では,戦後成立した在日本朝鮮人連盟 (略称:朝連) がアメリカ軍当局により 1949年 (昭和24年) 解散させられた後,左翼が在日本朝鮮人民主統一戦線 (略称:民線.なおこれは非合法組織だと聞いた) を結成したが,これは事実上日共の支配下にあった (日共の中央委員の中には有名な朝鮮人金天海 (キム・チョンヘ) がいた).事実上朝鮮人は日共の最先端で闘ったから,犠牲も多く,普通の日本人からは朝鮮人なのになぜ日本のことに嘴を入れるのだと言われた (わたくしの母もその類だった).中国の李徳全女史が 1954年 (昭和29年) 来日した際に華僑は日本では外国人だと発言したことがきっかけとなり,北朝鮮当局も在日朝鮮人は在外公民だと宣言するに至り,このことが在日朝鮮人社会に波紋を投げかけたらしい.1955年 (昭和30年) 民線が退き,総連の時代となり,総連は日共とは関係が一応なくなった (ただし日朝協会の Sから聞いたところでは,日共は総連の内部に日共のフラクを作りたがっていたとのことだ).わたくしの記憶では この頃RT先生も,戦前釜山で日本人左翼学生らと研究会を持ったが,日本の左翼も日共も朝鮮の独立については一言も語らなかった時,金日成 (キム・イルソン) 将軍だけが果敢にも日本を相手に独立闘争をしていたのだが,自分たちはそのことに気づいていなかったと語っていた.もっとも総連が飯田橋に御殿のような建物を建てている時,RT先生は彼らは官僚的であると批判していた.
 とまれこの日は民線の旧幹部ら (彼らは連日のように韓徳洙により自己批判を迫られていたらしい) が寺尾五郎氏らを助けるべく,総会のための一切の資金を出し,もしも会がしらけたら合流して盛り上げようと待機していてくれたと言うのである.当時日本人の朝鮮関係者の団体はほとんど皆 在日朝鮮人の資金援助に頼っていた.またずっと後に知ったことだが,このように目立たないように縁の下の力持ちに徹するというのも朝鮮人の麗しい資質である.

 日本朝鮮研究所にはいろんな人が出入りした.その一人に故 藤嶋宇内氏がいるが,氏が北朝鮮から帰ってきた直後,彼が寺尾五郎氏に,朝鮮人は毎朝歯を磨こうという運動まで金日成の名前でないとできないらしいと言っていたのを側で聞いた.どうやら彼らは表と裏を使い分けているらしかった.彼らは意図的に裏のことを書かなかった.当時日本から北朝鮮訪問団の中には自民党の国会議員も含まれていたらしいが,平壌での宴会の席でかつて半島の舞姫と呼ばれたかの有名な崔承姫 (チェ・スンヒ) を側にはべらせて酒の酌をさせたり − 当時彼女はいやしくも一国の厚生大臣だった −,絵葉書二千枚を自分の選挙区に宛てて送る − 当時二千枚の絵葉書は朝鮮側が平壌中を駆けずり回って捜したはずである − という類もいたらしい.そういう自民党の議員でさえ北朝鮮にいるとなんとなく雰囲気に押されて自らスコップを手に労働者の隊列に入り込み,香港でギャンブルして元に戻るというのである.わたくしも社会党系の労働組合の幹部から 北朝鮮はみんなが一生懸命に国を作っていることを感じるが,モンゴル人は怠け者だから,あれはたいした国ではないと言う言葉を聞いた.藤島宇内氏はわたくしに極東共和国 (十月革命後アメリカや日本などのいわゆるシベリア出兵を阻止するために作られた緩衝国) に関する本の一部を日本語訳させながら とうとう金をわたくしに払わなかった.

 寺尾五郎氏は安藤彦太郎氏 (元早大教授) と仲がよく,一緒によく酒を飲んでいた.彼らはどこからか金をせびってくるのが上手だが,いつもどんぶり勘定だった.折りしも日韓条約反対闘争の中で全国のいろいろな労働組合や団体から講演の依頼が殺到し,彼等の作ったパンフレットもずいぶん売れたらしいが,あの儲けはいい加減な方法でどこかに消えた.

 その儲けの中にはささやかながらもわたくしが教えた朝鮮語講習会の上がりもあったはずである.わたくしにはほとんど支払われなかった.なおこの時の受講生の中に長璋吉君 (東京外大中国語学科学生) がいた.彼は後にわたくしなどよりはるかに朝鮮語が上手になった.また谷浦孝雄氏 (東大地理卒,アジア経済研究所研究員,後に新潟大教授,韓国経済専攻) もいた.この時のテキストは今でも保存されているが,韓国の本が日本に入らない折から北朝鮮の文章だけからなっていた.わたくしは気負って始め IPAから教え,それを順次ハングルに切り替えるという方法を取ったら,朝鮮の言語もあらゆる種類の文字も知らない ある在日朝鮮人女性から 朝鮮文字を覚える前にどうしてもローマ字を覚える必要があるのかと尋ねられ,はたと困ったことがある.当時はそういう人がけっこういた.

 日本朝鮮研究所には故 梶村秀樹氏 (東大卒,当時東大東洋文化研究所研究員,後神奈川大教授),宮田節子氏 (早大卒,元朝鮮史研究会会長,朝鮮史専攻),大村益夫氏 (早大卒,早大教授),故 梶井陟氏,小沢有作氏 (東大卒,都立大教授,教育学専攻) 等も出入りした.塚本勲氏 (京大言語卒,後大阪外大教授,朝鮮語専攻) も時々来た.

 この中で梶村君は抜群に頭がよく,彼は常に何が学問で,何が学問でないかが分かっていたにもかかわらず,同時に常にイデオロギーにも忠実で,しばしばそれを優先させたために,こいつは馬鹿ではなかろうかと思われるような発言を時々した.北朝鮮労働党の言語に関する文章をわたくしのところに持って来て 雑誌に紹介したいと言う.わたくしはそれは言語学のものではないと言ったのだが,彼は載せたいと言うので,わたくしの名前を出さないという条件で日本語訳したものがいくつかあった.後に彼はありとあらゆる朝鮮に関する運動に首を突っ込み,教祖的存在となり,癌で死亡した.驚いたことに韓国に彼の信奉者が多い.彼は関心も広く,ちょっとしたことなら言語を含めてどんなことでも理解した.彼は誠意ある人間で,どんな小さな会議でも欠席することはなかった.朝鮮語に関するグループの集まりには 結局わたくしと梶村君の2人しか来ないことがしばしばだった.彼のような誠意は当時の日本朝鮮研究所に出入りした他のだれにも見出せなかった.梶村君は研究所の事務局長 KK とはあからさまに敵対したが,わたくしは梶村君を支持した.

 わたくしは彼の下宿も訪ねたことがある.梶村君を訪ねてきた故 金三守 (キム・サムス) 氏 (淑明女子大学校商科大学教授,朝鮮経済史専攻,エスペランチスト) を梶村君が紹介してくれ,韓国訪問の際金三守先生を訪ねただけでなく,長璋吉君の韓国留学に際しても氏にお世話になった.わたくしは梶村君に紹介されたチェコスロヴァキア科学アカデミーの朝鮮研究者シュラーム rm 氏と文通を始めた (もっとも梶村君は氏を意識の低い人間と評したが,北朝鮮とヨーロッパでは 「意識」 以前に根本的に異なるものがあったはずである).シュラーム氏から送られた北朝鮮の Gim'irSeq JoqHabDaiHag Ro'eGaqJoa (金日成 綜合大学 露語講座), 《 RoJoSaJen 》(露朝辞典 ), Pieq'iaq (平壌), 1954 は,後に韓国外大ロシア語学科の゙圭化 (チョ・ギュファ) 氏に請われるまま さらに情報部経由で彼のもとに送り,それは彼等の編纂した 『露韓辞典 』,主流, Se'ur,檀紀4320年 (1987),1748ページ の基礎にもなったはずである.その辞典の参考文献には平壌 ― プラハ ― 東京 ― ソウルの経路で入った辞典の名前も収められている.1994年 (平成6年) プラハを訪れた際 シュラーム氏がとうに亡くなっていることを知った.

 当時北朝鮮に 「帰国」 した人たちから送られてくる手紙からは, 「帰国」 前の情報とは違ってかなり困難な状況が北にあることが漂ってきたが,梶村君は 「帰国者」 がそういうことがある程度分かっていながら敢えて 「帰国」 するのは 日本で楽をするより苦しくとも民族としての生き甲斐を得たいからであると語った.彼が生きていたら,今の北朝鮮指導者の罪悪をどう見るだろうか.わたくしは後に彼とは対立する関係となり,彼の変な仕打ちにもあったが,不思議に彼を恨む気にならない.彼のような人が真に学問の世界で仕事をし得た人であると思うと,実にもったいないことだと思う.彼がわたくしと対立しても何かにつけわたくしのことを頭の片隅に置いていたことは わたくしはいつも感じていたし,生前彼と腹を割って話が出来なかったことがこの上なく悔やまれる.

 宮田節子氏は聞き書きというものをやっていた.当時はこういうものが学問なのかと思ったが,氏は今では朝鮮近代史の大家らしい.氏は後に梶村君を批判していた.大村益夫氏の専攻は中国文学とも朝鮮文学ともいい,もしも後者なら当時唯一朝鮮で飯が食える安定した研究職についている存在だった.塚本氏は大阪で大学や講習会の朝鮮語の講師をつとめていた.当時全日本で朝鮮語を教える大学はいくつもなかった.わたくしは梶井氏の本で朝鮮語を学んだ人間だが,氏が言語学も文学も格別きちんと勉強した人ではないことはこの時分かった.わたくしが大学でもたついている間にこの人たちは朝鮮との関係をかなり強めていたが,わたくしは全面的には彼らに同調する気にはなれなかった.

 折りしも日本朝鮮研究所では北朝鮮訪問団を送ることとなった.団長 故 古屋貞雄氏,団員 寺尾五郎,安藤彦太郎,小沢有作その他,随行員 (通訳兼小使) 菅野裕臣という構成が発表された.わたくしはそのための事務的なことを引き受けた.古屋貞雄氏は山梨県選出の社会党国会議員,元弁護士,朴憲永その他の朝鮮の共産主義者たちの法廷での弁護を引き受け,朝鮮人に信用絶大の人だった.当時,そして今も日共と日本社会党の党員同士は仲が悪く,悪口を言い合ったものだが,寺尾氏の言によれば 古屋氏は社会党員が日共党員の悪口を言おうものなら烈火の如く怒ったという高潔の士である.わたくしも会ってその人柄を感じた.さて北朝鮮側から招請状も届き,これからという時,わたくしは事務局長 KK 氏から,団長とわたくしを除き全部日共党員だが,おまえも党員になるようにとの要請を受けた.わたくしはこれを蹴って団から抜けた.記録には一身上の都合により菅野団員退団とあるはずである.わたくしは必要な事務を最後まで全うして 研究所そのものを辞した.ここはわたくしのいるところではないと判断したからである.わたくしはこの時もその後も 北朝鮮に行かなくて本当によかったと思っている.もしもこの時行っていたら,今日のわたくしは存在しなかったはずである.

 後日ここの事務員から聞いたことだが,小沢有作氏なども これは金日成からじかに貰ったお手垢付きのタバコだと大事そうに見せたとのことである.当時は中ソ論争の始まったばかりの時で,北京では至る所でフルシチョフの顔写真に×印がつけられていたそうである.

 わたくしの北朝鮮行きを聞きつけて在日朝鮮人C君から電話がかかってきた.北から帰ったら自分にだけは北の実情を正直に話してくれというものだった.当時いわゆる帰国運動についてはすでに疑問が出始めていた.マスコミにも取り上げられたが,帰国者からは次々に地上の楽園からは程遠いものであることがうったえられていた.わたくしが大学時代つきあっていた在日朝鮮人C君 (ロシア語学科) は朝鮮籍,G君 (英米語学科) は韓国籍で,在日朝鮮人とのことで日本の会社には入れず,C君は総連系の商社に,G君は韓国大使館へと就職していったものである.C君はこう言った.北朝鮮が日本よりも豊かだとは思わないが,ある程度の水準に達しているなら,自分の国だから我慢しようと.その後C君がどうなったかは知らない.

 こういうことがあった.宮田節子氏が旗田巍氏を担ぎ出して,朝鮮研究者から聞き書きを行なうとかで,河野六郎先生を呼んだことがある.質疑応答の後 河野先生がわざわざ用意してきた日本の朝鮮研究の概観についての原稿をお渡しになった.この原稿について川越敬三という新聞記者は,ここに南朝鮮を韓国と書いてあるから掲載の要なしというのだった.このような幼稚でくだらない論が堂々とまかり通るような雰囲気が当時の日本の左翼にはあった.この後この原稿はどこかに載り,『河野六郎著作集1 』,平凡社,1979,597ページ にも収められている ( 「日本に於ける朝鮮語研究史概観」,576―589ページ).新聞記者という奴は学者の偉大さも分からない不届きものが多く,わたくしは以後ジャーナリストには気をつけなければならないと自分に言い聞かせることにした.河野先生は金沢庄三郎の 『日鮮同祖論 』 を極めて言語学的な本だと評したのに,旗田氏はそれのイデオロギー性を強調した.旗田氏の誤読であることはいろいろな人 (左翼をも含む) によっても指摘され,河野先生のとらえかたは正しかったのである.わたくしの考えであるが,だいたい歴史学者がきちんとしているかどうかは,言語というものをどう扱っているかを見れば分かる.わたくしはある百科事典の項目の解説のうち 「朝鮮語はウラル・アルタイ語に属し」 というくだりの訂正を編集者に要求したが, 「旗田先生がそう書いておいでですので...」 と一蹴されたことがある.

 日本朝鮮研究所は御茶ノ水事務所時代から新宿事務所の最盛期を経て文京区目白台の事務所 (佐藤克巳所長) へと変わり,さらに現代コリア研究所へと受け継がれるが,わたくしはその最盛期を全く知らない.

 わたくしは韓国留学時代にはじめて 東京で佐藤克巳氏に会った.氏は小学校しか出ておらず,船員として世界各地に行った.どういうことからか新潟で日共党員となり,日朝協会新潟支部を率いた時いわゆる北朝鮮帰国運動が起きた.その後日韓条約交渉の際 李承晩 (イ・スンマン) 大統領の引いたいわゆる李承晩ライン (韓国では平和線といった) を日共を含めて日本の左も右も挙げて韓国に猛反発した時に,佐藤氏一人は日本の漁民より貧しい韓国の漁民の立場を考慮して李ラインを認めるべきだと主張して日共と袂を分かった.  

 佐藤氏が日本朝鮮研究所を引き受けてから ある時 総連からこの人物を批難せよと要求してきたが,佐藤氏は断った.すると総連は研究所の雑誌の買い上げを止めた.当時総連の資金援助とは雑誌何部を買い上げるという形で行われていた.総連は買い上げた雑誌を組織内でまた売るというわけである.研究所はこのことで経済的に大打撃を受けたが,総連には屈せず,耐え抜いた.佐藤氏はそこから臆することなく 「仲間」 に対しても必要なことはずばずば批判した.氏の総連や北朝鮮批判はこうして始まった.氏は韓国でスパイ活動して逮捕された在日朝鮮人,日本人に一切同情しなかった.韓国だって北朝鮮の脅威にさらされているわけだし,韓国ではスパイは最高死刑と定めた反共法の存在を知った上でのことだろうから,勝手に死刑になりなさいと言うのである.
補足: わたくしは見ていないが,70年代の 『朝鮮研究 』 には氏の 「認識には過程がある」 という随筆が連載され,その中で氏の一見 「右転回」 の過程が克明に記録されているそうである
 氏は韓国の人権擁護運動のことで韓国に行った時,韓国情報部に韓国を案内しようと言われた.氏は北朝鮮が掘ったというトンネルだけを見たいと言った.トンネルを見た氏はこれが北朝鮮が意図的に掘ったものであることを見抜き,韓国に頼まれもしないのに積極的に北朝鮮の不当性を書きたてた.当時氏は韓国から資金を貰っているのだと書き立てられたものだが,わたくしは氏がたいへん正義感が強く,喧嘩っ早いが,そういう汚いことは絶対にしない人であると信じている.

 氏は在日朝鮮人問題の専門家で,日立製作所や武蔵野学園 (旧東京外大の前にある学校,校長も東京外大出身) での在日朝鮮人の就職や入学に対する差別を訴える原告に積極的になった.東京外大朝鮮語学科は氏に非常勤講師として在日朝鮮人問題の講義を依頼した.氏は今の学生は覇気がないと言って講師を数年後 辞した.氏は教え子 朴洪植 (パク・ホンシク) 君 (東京外大卒,サントリー勤務) が卒業前奮起して日本の大企業をアタックしたら4社から合格通知書を貰った例を引き合いにし,在日朝鮮人がいまや日本企業に入る努力もしないで自分らは差別されると言うだけで,あたかも差別を享受するかのような態度に対しても厳しく批判した.朝鮮人が日本に帰化する際法務省の窓口の役人は日本の姓と名に変えろと要求するが,どうして朝鮮の姓と名で帰化することが不可能なのかと氏に質問したことがある.氏は正に何の法律もないところで法務省が勝手にそうしているだけのことだが,その点で在日朝鮮人を応援すると日本人が日本への帰化を奨励するかのように受け取られるから,自分はこの問題は扱わないことにしていると語った.

 氏は日本朝鮮研究所で梶村君と衝突したらしく,梶村君が結局は東大生で人を軽蔑するなど人間的な欠点を指摘していた.特に渡部学 (これについては後で述べる) に対しては殊のほか厳しかった.氏は,しかし,外国としての朝鮮というとらえかたがなかったから,氏の朝鮮論はしばしば批判された.わたくしは 現代コリア研究所と名称変更した時,その雑誌の推薦者に名を連ねたが,東京外大朝鮮語学科の長璋吉君が論文を書きもしないのに,そこに随筆を載せ始めたので,急遽推薦者から降ろしてもらったことがある.しかしわたくし自身は,いつも筋を通し,権威に屈しない佐藤氏を心から尊敬している.よく若い世代で佐藤氏は差別者だとか何とかいうやからがいるが,それは違う (こういうやからの方が差別者であることが多い).そういう軽い批判をする者たちとは何段も違う苦労をしてこられたのである.民間の団体として資金もなく,経済的にもたいへんだっただろう.氏は在日朝鮮人の資産家の一代記をまとめて執筆する仕事をしておられたと聞く.在日朝鮮人の生き様はたいしたものよと言っておられたのを覚えている.数年前からテレビで北朝鮮に拉致された日本人の救援運動で佐藤氏の顔を見るようになったが,老いたとはいえ依然としてその精悍さを失っていない姿を見て意を強くする.

 日本朝鮮研究所にいた頃,寺尾五郎氏の斡旋で岩波書店刊行の講座 『現代 』 の第3巻の 「中国を除くアジアにおける社会主義体制 (3) モンゴル」 という項目を執筆させられた.どだいモンゴルの専門家でないばかりか資料それ自体がないのに,ヴェトナムの研究者を自認する Sの構想に無理やり合わせた感じになった極めて恥ずかしいものだった.わたくしはジャーナリスト的センスがゼロであることを悟って,以後絶対にこの手のものは書くまいと心に誓った.この時知ったことは,現地の言語も知らないのに単にその国の有力者に取り入って何度も訪問するジャーナリストが左翼に多いということだった.こういう人はほとんど当該国の傀儡になりさがるのである.そしてこんな分野でも東大閥だ,やれ京大閥だ,やれ岩波文化人だといった分類がなされているらしい.今でもこういったことは そうたいして変わっていないようだ.

 1960年 (昭和35年) 日本の安保闘争の頃 韓国では四・一九学生革命が起こり,李承晩政権は倒れた.当時韓国の学生が肩を組んで街路いっぱいになってデモ行進するさまはニュース映画で日本にも伝わり,日本の学生もそれを真似した.日韓の学生の連帯が叫ばれたのはこれが最初ではなかったろうか.

 張勉 (チャン・ミョン) 政権は穏健な政策を打ち出し,朝鮮学会には解放後初めて許雄 (ホ・ウン) 氏を団長とする韓国の学者 11名がやってきた.その中には言語学者が4人もいた: 許雄氏 (元ソウル大学校言語学科教授,現ハングル学会理事長),故 南広祐 (ナム・グァンウ) 氏 (元中央大学校国文科教授,1997年 (平成9年) 10月逝去),金敏洙 (キム・ミンス) 氏 (元高麗大学校国文科教授),故 崔鶴根 (チェ・ハックン) 氏 (元ソウル大学校農科大学教授,1998年 (平成10年) 2月逝去).東京の神田の天理教の会館が会場で,巣鴨の天理教教会が宿舎だった.団長の許雄先生はぼそぼそと朝鮮語で前置きしてから中期朝鮮語の謙譲接尾辞 -- -Sb- について報告された.前置きとは,通訳付きで朝鮮語で発表したいが,招聘者側が許さないのでやむを得ず日本語で行うというものだった.わたくしが聞いた限りでは,ここは日本だから,アメリカでは英語で発表するのが常識であると同様,発表は当然日本語でなされるべきだとのことだった.解放後初めて見る韓国の学者の姿は われわれに強烈な印象を残した.4名のうち崔鶴根先生はその後たびたび来日された.巣鴨の宿舎の広間で行われた懇親会には朝鮮大学の人たちもたくさん来たと記憶している.

 やっとこの頃から韓国という国が現実のものとして迫ってきた.それまではこの国についてはほとんど無知に近く,実は北朝鮮を知ったつもりの日本人研究者がそれさえも知らないのだということが分かるには まだまだ時間を要した.


東京教育大学,そして河野六郎先生

 やたらにもたもたしたわたくしは やっと 1964年 (昭和39年) 東京教育大学大学院修士課程文学研究科英文学専攻に入学した (言語学の1名分の定員が英文学専攻の中にあった).3年後に言語学専攻が出来,そちらに移った.またまたもたつき,1968年 (昭和43年) 修士課程を修了し,同年博士課程に入学した.

 英文の方の入試の問題は数多かったが,それに言語学の面接が加わった.面接は河野六郎先生と関根正雄先生の前で ド・ソシュールの “Cours de linguistique gnrale ” (一般言語学講義 ), Paris, 1916 の指定されたところを読み,訳し,質問に答えるというシンプルなものだった.他に卒業論文の提出が求められた.当時言語学の必読書はもっぱらド・ソシュールであり,田中克彦氏の話では 一橋大の亀井孝先生も ともかくもド・ソシュールを熟読しておられたようである.やたらに学生の頭に知識を強制的に詰めこんだところでたいした効果のないことは (学生の質の低下と知識の過度の詰めこみとは比例するものらしい),いたずらに多くの偏った試験問題を出す最近の大学院の傾向のむなしさを物語っている.

 東教大言語は大学院入学に際し古典語 (ギリシャ語あるいはラテン語) の試験を課していたが,わたくしはそれを勉強していないので 大学院入学後勉強するという条件で免除された.間もなく古典語は入試科目から外された.東大言語はすでにそれを外していた.われわれの時にすでに学力低下は始まっていたのだろう.



 東教大言語は故 熊沢龍先生 (当時国語審議会の委員もしておられた) が神保格先生の跡を継いでお作りになったもので,わたくしには先生の教えは受けたことがないが,入学して以来先生には何度も接する光栄に浴し,またあることでは先生にたいへんお世話になった.熊沢先生は戦前ドイツに留学なさり,カルル・ビューラー Karl Bhler を研究なさったが,戦災で蔵書を全部失われ,その後これといった研究をなさらなくなったという話を誰かから聞いた.ドイツで日本の新聞を読んでいたら,ドイツ人がそんなに複雑な文字が読めるということが本当にあり得るのかと尋ねたという.先生のご友人 (フランス語学) ともども よき時代の精神的豊かさを代表するような上品な方だった.熊沢先生は学生たちを大勢連れて酒を飲ませ,全部自ら支払われ,何軒も学生たちを引き連れてはしごをなさり,夜明けに中野のご自宅に皆を連れてお帰りになった.すると奥様が玄関で三つ指をついてお迎えになるというパターンだった.先生は後にある女子短大の学長におなりになった.君,頭の悪い女性ほどかわいいものはないよ; ぼくは徹底した教養主義だよと仰った.わたくしは東教大について意見を求められ,東外大よりはるかにりっぱなスタッフを抱えた恵まれた大学だが,学生たちにはそのことの有り難さが分かっておらず,たいへんもったいない; 学生たちは一般に東外大の学生よりまじめでよく勉強するが,これといって特に優れた学生がおらず,みんな平均している; 東外大の方はだめな学生が多いが,その中でできるのは飛びぬけたのがいる,と申し上げたら,その通りと仰った.東教大の方は親が教師とか教育委員会の役員とかが多く,東外大の学生たちも全般に貧しかったが,東教大の方も豊かではなく,なんとなくけち臭い雰囲気が漂っていた.

 言語学のスタッフは故 河野六郎先生,故 関根正雄先生 (東大卒,ヘブライ語,セム語学,キリスト教学専攻,日本学士院会員),故 矢崎源九郎先生 (ゲルマン語学) だった.熊沢先生のなさったこの人事の立派さは 正に熊沢先生の御烱眼のたまものだった.東教大出身の教官と東大出身の教官と大学全体では半々のようだったが,旧師範学校的雰囲気を 東大出身者は非常に軽蔑しているようだった.熊沢先生はこうした東教大自体の欠陥をよくご存知のようだった.

 言語学科全体がフィロロジカルな雰囲気に包まれており,現在の流行を追う言語学徒に見せてやりたいほどである.

 東教大言語にはこの後松井先生 (北大卒,ロシア文学専攻) が入ってこられた.ドストイェフスキーのご専門だったが,たいへんな勉強家で,岩波文庫の許南麒訳,『春香伝 』 まで読んでおられた.松井先生はずいぶんご苦労なさった方のようで,人間的に暖かく,わたくしには 河野先生という立派な先生の下にいられることはすばらしいことなのですよと仰ってくださった.惜しいことに松井先生はご病気で亡くなられてしまった.

 この後 東教大出身の A氏が入ってきた.A氏からはトルベツコイ N. S. Trubetzkoyの “Grundzuge der Phonologie ”(音韻論の原理 ), Praha, 1939; Gttingen, 1958 の講読を教わったが,これは有益だった.ドイツ語の原文にフランス訳とロシア訳とをつき合わせて術語の対訳リストを作成し,日本語訳を作成していったが,この原稿はもはや不必要になった.奇遇と言おうか,A氏の岳父という人はわたくしの勤務した大和證券指定のカメラマンだった.A氏は厳格な人で,授業時間になると教室のドアを閉めてしまう.わたくしは泥酔して友人宅に泊まった時でも,教材なしであれ,まずは時間までに駆け込めばゆるしてくれた.A氏は生粋の右翼で,わたくしは彼を好きになれなかった.ある時 「先生がお読みの本」 や 「この本をお読み. (命令) 」 の 「お読み」 は動詞であると主張するわたくしに A氏はそれは名詞であると言う.わたくしが,勿論 「お読み」 は名詞形に由来するものだが,この場合動詞 「読む」 のパラダイムに属すると,自説を翻さなかったら,A氏はおまえは不真面目だと怒り出した.わたくしは真面目で,今でもそう思っている.言語学上の意見の相違で怒鳴るというのは不当であると 今でも思っている.A氏とはそれきり口もきかなくなった.

 東教大出身の田中春美氏はアメリカ帰りで,Kenneth L. Pike パイクの “Phonemics ” (音韻論 ), Ann Arbor, 1947, 254 pp. の講読をアメリカ式に教わった.アメリカ式というのは量をこなすこと,つまり粗雑に本を読むことであり.好きになれなかった.わたくしは途中で留学してしまったので,少し教わったきりだった.

 一番最後に入ってきたのが故 千野栄一氏 (東京外大ロシア語卒,東大言語卒,チェコスロヴァキアのカレル大学に留学,スラヴ学,プラハ学派を研究する.後に東京外大教授,和光大学学長,2002年 (平成14年) 逝去) だった.千野氏は 徳永康元先生と東大の木村彰一先生(スラヴ語学専攻)に教えを受け,いろいろ苦労して河野六郎先生に出会うこととなるが,河野先生には常に恩を感じ,先生を尊敬し,先生の引き立て役に徹した.千野氏は わたくしが後に千野氏のいる東京外大に職を得た時に,世の中,特に東京外大は先生の味を知らない気の毒な連中ばかりなのに,おまえはたいそうな幸せ者なのだぞと何度も言うのだった.わたくしは千野氏にはいろいろと世話になることになる.

 助手は矢野通生氏 (東大言語卒,熊本大を経て名古屋大教授,バルト・スラヴ語専攻),なかなか面白い人だった.当時はアメリカ構造主義の全盛時代であり,矢野氏はその面でも非常に理論家だった.

 関根正雄先生は言語学だけでなく キリスト教学,その他聖書を中心としてまことに該博な知識の持ち主で,インド・ヨーロッパの世界とセムの世界の結節点をウガリットに求めておいでのようだった.このような研究分野もあるものかと感嘆した.先生は始め法学部におられたとかで,知識は多岐に渉った.先生はドイツ留学組で,講義の合間に楽しいドイツの話が出た.先生の講義で 聖書の翻訳が普通いかにいい加減で,牧師どもがデタラメを言っているかが分かった.当時関根先生のもとでは 韓国の大邱出身の数学専攻の教授が聖書のデタラメな韓国訳を直すのだと言ってヘブライ語を勉強していた.先生はご自分の弟子たちを非常に厳しく教育しておられた.先生の弟子たちは 後にイスラエルのヘブライ大学で教鞭を取るまでになった.先生はお子さんを背中に背負われてギリシャ語を勉強なさったらしいと ある人から聞いた.わたくしはものにならなかったが,ギリシャ語の授業は実にすばらしかった.わたくしは劣等生ながら先生のギリシャ語文法と “Odyssea ” (オデュッセイア ) の講義を聞くという光栄に浴した.先生はドイツで教わったように,ギリシャ語のアクセントを無視して,長短の韻律を強弱に置き換えて読まれた.先生は 「意義素」 は文法と語彙を結ぶ結節点であると言っておられた.分からぬではないが,わたくしはその意見には反対である.



 河野六郎先生のすばらしさは前からも知っているつもりだったが,正直言えば,東教大入学以前はまるで分かっていなかったことが分かった.入学してからその偉大さにひたすら驚き,おののいた.もっと早く学恩に接するべきだったのだ.言語学はヨーロッパの学問だから,西欧の古典語をきちっと知らなければならないとのお言葉はまことにその通りで,先生は実にギリシャ語,ラテン語は勿論 サンスクリットもヘブライ語もお出来になった.勿論 英独仏露語も中国語も漢文もお出来になった (先生は 東教大に言語学科が出来る以前は漢文学科にいらっしゃった.また戦後朝鮮から引き揚げてこられてから,日本医科大学ではラテン語を教えていらっしゃった).先生は 矢崎先生が病床に臥された時,矢崎先生の中高ドイツ語の授業を代講なさったこともある.先生から朝鮮語の勉強振りについて尋ねられることはなくても,今ギリシャ語はどこまでやったかと尋ねられるのが実に怖かった.そのうちアラビア語もやったらいいよと,こともなげに仰ったが,まことに恥ずかしいことに,そのお言葉はいつも忘れることが出来ずに,韓国留学の時も 高津春繁,『ギリシャ語文法 』,岩波書店 と “Liddell and Scot's Greek-English Lexicon ” (希英辞典 ), Oxford, 1963 と “Homeri Opera ” Tomus III (オデュッセイア ), Oxford, 1908-1962 のギリシャ語原文は持っていったものの,とうとう1ページも開くことはなかった.その後機会あるごとにサンスクリットとアラビア語の授業には出たけれども,これらもものにならなかった.

 先生はヘルマン・パウル Hermann Paul の “Prinzipien der Sprachgeschichte” (言語史の原理 ), Tbingen, 1960(第6版), 428 pp. のゼミ (ドイツ語) を担当された.この時 教わったことは,これは理論というよりは言語事実を書いたものだから,事実を知れば絶対に分かるというものだった.さらにもう一つなんでも 「分かってしまう」 という態度が必要だということだった.パウルのゼミは 徹夜で文章の意味をいろいろと図解してみて分かろうと努力したことが懐かしく思い出される.先生からは徹底して 理論などよりあくまでも事実そのものの追及の重要性,術語ではなく普通の言葉によっても学問は出来るのだということ,そしてさらに 「ヒストーリッシュ historisch (歴史的) にあらざるものは学問にあらず」 という態度だった.これは通時言語学よりは共時言語学により関心のあるわたくしにとっては まことに肝に銘ずべき言葉だった.先生はソ連のマル Marr の書いたものもお読みになったことがあるようだが,何よりもあれは事実でないからだめだと仰った.

 東大言語は当時 ゼミはド・ソシュールの 『一般言語学講義 』 (フランス語),ブルームフィールド L. Bloomfield の “Language ” (言語 ) (英語),パウルの 『言語史の原理 』 (ドイツ語) の3つを置いていたが,パウルは河野先生が担当なさった.

 先生は 定義に定義を積み重ねた一見科学的に見える論文は評価されなかった.言葉の大まかな了解のもとに深い内容が理解されるはずだというのである.従って理論のための理論などは 話そのものに退屈なご様子だった.先生が 「面白い」 というのは評価に値するということであり,すべて学問は面白くなければならなかった.わたくしは自分の書いたものが 「面白い」 と言われたくて堪らなかった.先生は つまらないものは頭に入れるのも煩わしいというようだった.理論について言うならば,幼少の頃から親しいという亀井孝先生については,あれだけ事実を知っていながらちょっと理論に傾きすぎるとか,故 服部四郎氏についても 『元朝秘史の蒙古語を表はす漢字音の研究 』,文求堂,昭和21年 (1946),146ページ を発表した時まではよかったのだがと言っておられた.ド・ソシュールは特別な術語は使っていないということが分かったよとも仰った.

 先生は頭の回転の極度に速い方だから,即座に人の頭の良し悪しが分かってしまう.だから余計な話はなさらない.電話でお話する時は必要なことだけ言われるとすぐ切ってしまわれるので,聞いてさっと頭に入れるのがたいへんだった.

 先生はよほど自信の強い方だと思う.自信があるから,ご自分の自慢はなさらないし,さりとて他人の悪口も仰らない.しかしちゃんと見抜いておられる.実にこわい方である.

 先生の知識の該博さは,歴史学,哲学,文学等々の先生の交友関係の厚さにも表れる.今まで先生を記念する集まりで言語学者の主催するものは 言語学者の狭さ故に大抵呼ぶべき方が何人か抜けている.先生はフィロロジーの重要性を説かれ (日本の江戸時代の国学は本当の意味でのフィロロジーだと言われたことがある),また常に中国,朝鮮,日本の文化のありかたを対比してとらえておいでだった (中国的なるものとアルタイ的なるもの という見方もその一部だろう).わたくしは 言語学者でこれほど幅の広い人物は日本には河野先生をおいていないと思っている.日本のすぐれた歴史学者たちが先生に皆一目置いているのを見ても分かる.そうでない歴史学者はたいしたことがないと見て まず間違いない.ただわたくし自身は 中村完氏 (東教大卒,天理大を経て東北大教授,同名誉教授,朝鮮語学専攻) のお考えとは違って,河野先生の本質はあくまでもフィロロジーを根底におさえた上でのリングィストにあると思っている.千野栄一氏もそういうようなことを言っていた.先生は講義中もあまり本質的でない部分は簡単に述べることがあり,しかし本当はこういうこともきちんと細かくやらなければならないんだがねと仰ることがあった.わたくしが先生をフィロロジストというよりリングィストと呼ぶ所以である.

 先生の学生時代からの友人で一橋大の左翼の西教授が アメリカの金を貰った東洋文庫に抗議に来たが,東洋文庫で河野先生に会うと 抗議そこそこに中国のジャンル論を語り合うこととなったと聞いた.日本研究者でありながら西洋語にも西洋古典にも明るかった亀井孝先生と並んで,中国研究者でありながらそれほどまでに西洋語や西洋古典に通じた河野先生の中国論は是非お伺いしたいところだったが,随筆の類を一切お書きにならない先生はとうとう何も語らず,お示しにもならなかった.文化大革命のことについても,中国人の個々のやり方は実に滅茶苦茶だが,われわれ日本人と違って彼らは,長い目で見ると,何かやっているものだなどと仰ったことがある.しかし学問,特に言語学は西洋のものであり,アジアのものはまだ出来ていないとも仰った.中国人は碁盤の目のような整然とした体系までは作るが,要素の真の分析にまでは到らないとも言われた.西洋の論理の優位を口にすることはなかったが,中国や朝鮮の事象は一旦ばらして まず西洋式に見ようとしているかのようだった. 『時代別国語大辞典 上代篇 』,三省堂,昭和42年 (1967),904+190ページ が出た時,上代日本語の語彙はこの程度かと 高津春繁氏 (東大言語教授,ギリシャ語学専攻) が仰ったと 河野先生が話しておられた.

 最近は国際化とやらで 大学でも何でもよいから外国語を学びましょうという風潮だが,河野先生は大学における外国語はあくまでも先進的なものを学ぶための手段としてのそれをお考えだったから,せいぜい英独仏3個国語だけであり,古典語として漢文,ギリシャ語,ラテン語をあげられたにとどまり,朝鮮語を大学の第2外国語にすることもお考えにならなかった.大学の性格というものが世界的規模でこれほどまでに変わってしまうと,外国語の価値観も変わらざるを得ないのだろうが,本質的なことは今でもあまり変わっていないと思う.

 先生は公平な方で,知識の出し惜しみなどということはなさらない.それは是非やりたまえと励ましてくださった.勿論資料の出し惜しみということもない.モンゴル学では考えられないことである.大江孝男氏 (東大卒,東外大AA研教授,同名誉教授,朝鮮語学専攻) は 服部四郎氏は人の論文の構想をつぶそうとするのに対して,河野先生はそれを生かして励まそうとすると言っていた.

 先生はまた,自分は保守かも知れないが,決して反動ではないと仰った.先生はまことにリベラルな方だった.教え子をイデオロギー故に差別なさることは絶対になかった.ある時先生の研究室で山辺健太郎氏の文章を見つけたので,どうしてこれがあるのですかとお尋ねしたら,先生のお宅と山辺氏のお宅が同じ東久留米にあり,時々駅で一緒になったことがあり,仲良しになったが,あの人はものすごい勉強家でとてもえらい人だよと仰った.東洋文庫がアメリカ (ハーヴァード燕京研究所等) の金を貰ったことで左翼から総攻撃を受けていた時に,ひとり山辺健太郎氏のみが あり難くも東洋文庫を擁護してくれたと氏に感謝しておられた.先生は出身など関係なく ともかく勉強する人がお好きだった.

 わたくしなりに整理すると,先生の学問的関心は次のものである.

 1) 中国音韻学.先生は始めはここから出発なさった.学生時代カールグレン Bernhard Karlgren と文通なさったことは有名な逸話である.カールグレンの “tudes sur la phonologie chinoise ” (中国音韻学研究 ), Uppsala, 1915-26 が中国音韻学の入門として一番よい; なぜならば結論からではなく,結論に到る過程を書いてあるからだと仰る.中国語訳の高本漢著,『中国音韻学研究 』,上海,1940 よりも原文の方がずっと分かりやすいとも仰った.先生の中国音韻学の講義ノートは,わたくしの見るところ,最も分かりやすい.これが活字にならないのは惜しい.分かりやすさ,明晰さというものが理解の深さに根ざしていることを充分ご存知のはずの先生がまた極端なまでに実用的なもの,啓蒙的なものには冷淡だということも,このノートの活字化を阻んだ理由かも知れない.先生が亀井孝先生からもらったという 『法華経安楽行品 』 の筆写本 (2種類の字音と声点付き) を材料にしつつ,国文科の小松英雄教授 (日本漢字音専攻) と共にお2人の授業を一つにして,中国,日本,朝鮮,ヴェトナムの漢字音を並べて,中国字音の変遷と各国字音の特殊性をさぐる授業はまことにすばらしいものだった.わたくしは残念なことに この講義の聴講を韓国留学のため中断せざるを得なかった.勿論先生の博士論文 『朝鮮漢字音の研究 』 ( 『河野六郎著作集2平凡社,1979,560ページ + 『資料音韻表 』,322ページ所収 [295−512ページ及び79−322ページ] ) はすばらしいのだが,先生のこの分野の蓄積はこの他にもたくさんある.

 2) タイポロジー.これについては先生のお考えの集大成ともいうべきものが亀井孝・河野六郎・千野栄一 [編著],『言語学大辞典 』,第2巻 【世界言語編 中】,三省堂,1989,1811ページ の 「日本語」 の項に載っている ( 「I」 日本後の特質 1574−1588ページ).ここにはわれわれが河野先生から日常よく聞かされたお話が最終的にまとめられた形で示されている.ここでは膠着,屈折等の類型論的概念が 「用言複合体」 という河野先生独自の概念と結び合わされて述べられているのが特徴的である.恐らく日本の風土から発信された ほとんど始めてのタイポロジカルな見解ではなかろうか? 

 3) 文字論.これについては後で述べる.

 4) 言語地理学.言語地理学とはその名づけとは違って地理学ではなく,つまり歴史言語学の一分科であるという意味で重要である. 『朝鮮方言学試攷 』 はその最高傑作ともいうべきもので,この本は事実上 朝鮮語史の本でもある.材料の料理の仕方の鮮やかさと美しさの見本のような本である.韓国のさる有名な国語学者の韓国語史も,言うならば,河野先生のこの著書を要領よく,体系的に書き直したに過ぎない.さほど熱心に彼はこの著を勉強したということなのだろう.実はこのことを韓国の優れた国語学者 LB氏も指摘していた.

 5) 中期朝鮮語文法.先生は 自分は本当は文法をやりたかったのだが,逃げてしまったと仰ったことがある.未完の原稿を故 志部昭平氏 (岡山大卒,江実先生に師事,満洲語を研究.国立国語研究所研究員を経て千葉大助教授,朝鮮語学専攻,1991年 (平成3年) 病死) に託された.これはとても含蓄のあるものだが,志部氏死去の後この原稿はどこに行ってしまったのだろうか.

 実を言えばわたくしにとって一番関心があったのが,河野先生が逃げてしまったという 「文法論」 であるが,これについての先生の最終的な見解は 『言語学大辞典 』 の中に現れていると言うべきである.これについては後に述べたい.

 河野先生は多分 初めは朝鮮語,日本語のアルタイ同系論を信じたと思われるが,わたくしが東教大にいた時にはすでに同系論ではなく借用説になっておられた.もしも朝鮮語が日本語と同系なら,もっと似た単語がたくさんあるはずだと言っておられた.先生のそのようなお考えは後に 『三国志に記された東アジアの言語および民族に関する基礎的研究 』,研究課題番号 02451066,平成2・3・4年度科学研究費補助金一般研究 (B) 研究成果報告書,研究代表者 河野六郎,財団法人東洋文庫,平成5年 [1993] 3月,120ページ+付表 に示された.

 河野先生の学問の確かさは,例えば 亀井孝先生の編集された 『日本語の歴史 』,全8巻,平凡社,昭和38年 (1963)- 昭和41年 (1966) で 亀井先生のものとはまるで異なる文体の文章がすべて河野先生のもので,それがまったくリライトされていないことでも分かる.

 河野先生は 学問というものは自分でするものと仰った.いわゆる芸は盗めということなのだろう.しかし後に先生は学生たちにずいぶん親切になり,基本的な言語学書を学生に渡され,それをチェックなさるほどになった.わたくしも含めて 学問が自分で出来ないほど学生の質の低下を感じておられたのだろう.

 先生はまた 日本人が学問の分野で寄与し得る分野はせいぜい朝鮮しかないのではないだろうかと仰ったことがある.これが朝鮮語学の分野に限られるのか,それとも朝鮮研究の分野にも及ぶのかは知らない.わたくしはこのことの意味を始めはよく分からなかった.しかし最近になって自分なりにようやく分かるようになったらしいことを感じる.

 河野先生は他の朝鮮研究者たちと共に天理大学朝鮮学科にも非常勤講師として協力なさり,かつ朝鮮学会にも寄与なさった.天理大はかつて朝鮮総督府の 『朝鮮語辞典 』 を使っており,その古い正書法でもって現在の正書法のものをどう書き直して辞典を引くかという講義をさせられていると 自嘲的に話された.長正統氏の話では河野先生は初め熱意を持って朝鮮学会の運営にも参加なさったそうだが,わたくしの知るところでは,朝鮮学会は雑誌だけがあればよいだけの学会さと言っておられた.この頃河野先生は 学会などというのは学者のお祭りみたいなもので,集まり自体は学問にとってさほど意味がないと言っておられた.先生は徹底した学問至上主義者だった.

 河野先生はとても温厚な方だが,怒ると黙ってしまわれる.わたくしは先生のその沈黙が堪らなく恐ろしかった.

 先生はとても真面目な方である.わたくしは何度もそのことを感じた.

 先生はとても暖かく,思いやりがおありである.これは先生を知る人たちが皆感じるところだった.いろいろの大学者を身近に見ている東洋文庫のある職員が河野先生はお弟子さんにはとてもやさしいと言っていたのを聞いた.

 先生はとても責任感がおありでいらっしゃる.こういうことがあった.わたくしは千野栄一氏に頼まれて,出たばかりの三省堂刊の 『言語学大辞典 』 の韓国での海賊版の入手を 学生 Iに依頼した.三省堂は Iの持ってきた領収書の宛先に 海賊版の発行 (ベルン条約違反) に関して手紙で抗議した模様である.このことで Iに本を売った韓国人の業者が Iを取り囲み,あなたが研究者だから本を売ってやったのに何ということをしてくれたのかと詰め寄ったそうで,このことで Iは韓国留学中の身でもあり,たいへん困ったという.わたくしはこのことを千野栄一氏に話したのだが,何もしてくれなかった.わたくしは三省堂編集部に Iに対して謝罪するよう求めた.これを知った河野先生は烈火の如く怒り,旧植民地で勉強する者の立場を悪くさせるべきではないと仰ったそうだ.三省堂はわざわざ人を韓国に派遣して Iにも謝罪した.河野先生は 1970年代中頃ソウルで起きたいわゆる民青連事件で当時の学生早川嘉春氏 (後にフェリス女子大) の特別弁護人を引き受けられた (結局はこの弁護は実現しなかったが).

 先生は細かい配慮をなさり,その時のために普段はご自分を主張なさらないことがある.しかし必要とあらば,絶対に後に引かない.わたくしはこういう場合を見たし,わたくし自身がこのように先生に助けられたことがある.実はわたくしが 1974年 (昭和49年) 東洋文庫の研究生になった時も,河野先生は一言も仰らなかったが,同僚の文句を覚悟で無理をなさったようだ.わたくしは後で あの時おまえが入ったお陰で自分がはじき出されたという言葉を2人から聞いた.

 わたくし自身は何度も先生にどれほどお世話になったか知れず,またたいへんご迷惑もおかけした.それでも先生は愚痴一つこぼされなかった.河野先生に対する恩は松井先生もしきりに仰っておられた.

 先生は 学生というのは原則として勉強だけするもので アルバイトをするべきではないという考えをお持ちだったが,わたくしの窮状を見かねてか 外務省研習所で朝鮮語を教えるアルバイトを斡旋してくださった.故 志部昭平君は絶対にアルバイトをしなかった.ある時 在日朝鮮人の言語を調査するアメリカ人言語学者が助手をほしがっているがと仰りながら,自分は本当は内閣総理府での暗号解読のための契丹字解読のプロジェクトとか 政治目的の言語研究はするべきでないと思うと言っておられた.

 先生は礼儀に厚い方で,小倉進平先生,金沢庄三郎先生にはいつも敬意を込めておられ,論文でも必ず 「先生」 と呼んでおられた.先生は学問の継承性をお考えになったか知れない.わたくしには 東外大には鮎貝房之進先生 (落合直文の弟,1864 (元治元年) 生 - 1946 (昭和21年) 没) のような優れた人がいるのだよと言われた (落合亮,『日韓文化かけ橋の先人 鮎貝房之進 』,気仙沼ユネスコ協会,気仙沼,平成11年 (1999),130ページ 参照).

 わたくしは河野先生のような学問的にだけでなく 人間的にもすぐれた方を師としたことを 心からありがたいことと思っている.このように学問と人間的側面とを両立させ得た方はなかなかいるものではないと 歴史学者 MM氏からも聞いた.

 もっとも河野先生のファンはいっぱいいるから,先生は先生なりに厳しくわれわれの各々を見ておられたに違いない.

 河野先生は東大卒業後 職がなく,親戚の方に会いに京城 (現ソウル) に行かれた.その時 小倉進平先生から朝鮮語学の研究を勧められたという.京城帝大では始めに上野直暢先生の下で美術史の助手をしておられたらしい.河野先生がいやに朝鮮美術に詳しいのもそのせいである.美術史というのはきちんと学問として成立するよとは 河野先生からお伺いした言葉である.

 朝鮮語及び朝鮮文学講座で河野先生の講義を聞いた人は ただの2人,ひとりは予科の李男徳 (イ・ナムドク) 女史,もうひとりは故 梁在淵 (ヤン・ジェヨン) 氏である.

 李男徳女史は 元梨花女子大学国文科教授,朝鮮語学専攻.女史自ら公言しているが,著名な歴史学者 金聖七 (キム・ソンチル) 氏は女史の愛人で,氏はこのため殺害されたという.女史はとても情熱的かつ精力的な人で,檀君神話に基づく詩を作ったりもするが,わたくしはある時韓国の学会で女史につかまり,書き上げたばかりの韓日両国語同系論の講義を 一日8時間として1週間続けて日本で行うから,おまえが河野先生,服部先生その他の著名な学者を集めよと命令されたことがある.韓国人の多くの学者は女史から逃げ回っていた.

 故 梁在淵氏は中央大国文科教授,元韓国文化人類学会会長で,1970年代後半頃 忠清南道大川 (テチョン) 海水浴場で水死なさった.天理大におられた梁浩淵 (ヤン・ホヨン) 氏 (朝鮮語学専攻) 氏はその弟である.崔吉城 (チェ・ギルソン) 氏 (元啓明大日本学科,後に広島大教授,文化人類学専攻) は氏の弟子である.
 わたくしは韓国留学に際し 是非氏に会うようにと河野先生から紹介状をいただき,2度ほどお会いしたことがある.氏が亡くなる数ヶ月前に たまたまソウルの茶洞 (タドン) の飲み屋 心園 (シムウォン) で氏にパッタリお会いしたが,この時 こういう話を氏から聞いた.戦争末期日本はいよいよ朝鮮人の学徒兵を動員するに至り,京城帝大は各教官に教え子の動員を命じたらしい.河野先生の教え子はただの2人,男は梁在淵氏ただひとり,河野先生は例により学徒兵になったらよいような悪いような 煮え切らない態度ながら,たいそうお困りのようで,ええい,では行きますと言ってしまった; 大阪から明日 船で南に行くと決まり,船はほぼ間違いなくアメリカにより沈没させられるだろうなと思っていたところ,日本の敗戦となり,自分は運よく死なずに済んだ; 氏は韓国の中央大学と日本大学の交流協定により中央大側の代表として日本に来た時,河野先生が自ら梁在淵氏のホテルを訪ね,会うや否や土下座をして,申し訳なかった,あなたが今生きているからよいが,死んだら自分の責任は計り知れないと平謝りに謝ったそうだ.戦前朝鮮にいた多くの日本人が懐かしさのあまり再び韓国を訪れたが,ただひとり河野先生だけは韓国にいらっしゃらなかった.韓国政府は 4・19革命後 真っ先に河野先生を招待したが,河野先生は応じず,そのため東大の服部四郎氏 (言語学専攻) と京大の泉井久之助氏 (言語学専攻) が韓国に行ってきた.

 河野先生は故 金壽卿 (キム・スギョン) 氏 (咸鏡道出身,東大哲学出身) と親しく,京城で一緒に雑誌を出したらしいが,この雑誌はいくら探しても不明,河野先生のお話ではそこに 『蒙語老乞大 』 についての研究を載せたらしい.金壽卿氏は学徒動員を逃れるため 京城帝大 朝鮮語及朝鮮文学講座の無給助手をしていたという.氏は戦後 京城大学 (京城帝大の後身) 商科大学で言語学の教師をしていたらしい.この時 氏からサンスクリットの講義を聞いたと故 金芳漢 (キム・バンハン) 氏 (ソウル大言語学科教授) からお伺いしたことがある.氏はたいそういろいろの言語が出来る人で,英独仏露語は勿論,中国語,蒙古語,ギリシャ語,ラテン語,サンスクリットも出来,当時朝鮮でそれほど出来る人は氏をおいていなかったと思うと 金芳漢氏が語った.
 金壽卿氏はどうやら左翼で,CE (北京大,朝鮮人,言語) の言によれば,建国したばかりの北朝鮮の金日成の手紙を頼りに平壌に行き,金日成綜合大学の創立に参加,朝鮮語学講座の副教授,多くの後進を育成したが,金奉 (キム・ドゥボン) の秘書役をしていたため,その失脚と共に追放された.本来なら金奉と共に処刑されかねなかったが,多くの弟子たちの嘆願によりそれは免れたという.ソ連言語学の紹介はほとんど氏の手で行われたようである.晩年 人民大学習堂の閑職にあったらしい.中村完氏と GR氏は平壌で氏に会っている.恐らく南北分断,朝鮮戦争の勃発など考えもしなかったであろう氏は 2度とソウルに戻ることは出来なかったが,夫人はカナダに住んでいるとある人から聞いた.わたくしは 1994年プラハの AKSE (Association for Korean Studies in Europe ヨーロッパ朝鮮学会) の大会で北朝鮮から来た5人の代表のうちのひとり 社会科学院 朝鮮語研究所長と話をしたら,彼は金壽卿氏の弟子だとか,自分の先生の友人の弟子であるわたくしと会って嬉しいと言っていた.

 戦後韓国の梁在淵氏と 北朝鮮の金壽卿氏が それぞれの国の学術誌を送ってくれる等,いち早く河野先生と連絡を取ってくれたそうだ.

 河野先生のお宅は京城府新堂町 (現中区新堂洞 [シンダンドン] ) にあったそうだ.新堂町の隣組には画家の加藤松林人もいたという (加藤松林人,『随筆画集 朝鮮の美しさ 』,加藤松林人作品頒布会,昭和33年 (1958),162ページ).京城には約8年滞在なさったらしい.

 戦争末期ご自分が方言調査なさったところが次々にソ連軍に進攻され,これはもういかんなと思ったと仰った.方言調査は主として朝鮮人小学校を廻って小学生を相手になさったという.中にインフォーマントとして実によい子がいたと仰った.

 敗戦後さまざまな噂が飛び交う中で帰国せずに朝鮮にとどまろうかとも考えたという.その時 鍾路五丁目 (現 鍾路 [チョンノ] 五街) でぱったり李仁栄 (イ・イニョン) 氏 (歴史学者,平壌の名家の出,蔵書家) に会い,その旨を伝えると,朝鮮は米ソによる戦争が起きる可能性があるから,帰国した方がよいと言われ,考えを変えたと言う.

 帰国時先生の蔵書をすべて金壽卿氏にあずけたが,行方不明,ただしそのうちの一冊である先生の卒業論文を安秉禧 (アン・ビョンヒ) 氏 (ソウル大国文卒,建国大を経てソウル大国文科教授,韓国国立国語研究院長,退職) がソウル大の学生の時,朝鮮戦争の際,釜山に疎開していた時,奇遇にも釜山の古本屋で発見し購入,後に河野先生に返還された.このような偶然はそう滅多にあるものではなく,安秉禧氏という理解者のお陰で旧に復したのだった.これは 『河野六郎著作集2 』,平凡社,1979,560ページ + 『資料音韻表 』,322ページ に収録された ( 『玉篇に現れたる反切の音韻的研究3 - 154ページ,1 - 78ページ).

 先生は 文字通り先生の著書 『朝鮮方言学試攷 』 一冊と お子さんのおしめと哺乳瓶だけを持って 釜山から帰国船に乗り込まれた.帰国後もはや朝鮮研究は将来日本ではあり得ないだろうと絶望的になっていた時,疎開先の服部四郎氏を訪ねると,朝鮮の勉強は続けないといけませんよと言われ,勇気付けられ,その言葉で思いとどまったのだと言われた.

 帰国後先生は職がなく,多くの大陸帰りの言語学者と同じく,連合軍最高司令部 民間情報教育部 (CIE) で翻訳官の仕事をなさった.ここには錚々たる言語学者が集まったらしい.また CIE にもアメリカ人言語学者がいたようだ.

 日本医科大では舎監もなさったらしい.その後 横須賀,横浜,東久留米,渋谷と住居を替えられた.先生が公務員宿舎をお出になって公団住宅 (渋谷) に移られたのは,東教大の紛争に際して先生がいざとなったら東教大をおやめになる決意でいらっしゃったのだとは誰かから聞いた.

 1974年 (昭和49年) 東教大 定年退職後 先生は 大東文化大学漢文学科に 1983年 (昭和58年) までいらっしゃった.ここには河野先生を尊敬する黒須重彦氏 ( 『 『楚辞』 と 『日本書紀』 − <こえ>から 「文字」 へ − 』,武蔵野書院,平成11年 (1999),241ページ) がおられた.わたくしは河野先生ご退職後1年間 ここで先生の担当なさった 「言語学」 の非常勤講師をしたことがある.真面目につとめたつもりだが,話が面白くないのだろう,とうとう学生がひとりも現れなくなってしまった.このことを河野先生に申し上げたら,僕もそういうことがあったよと仰った.黒須先生が巣鴨の飲み屋でわたくしを慰めてくださった.

 東洋文庫にはずっと関与しておられた.ユネスコ東アジア文化研究センター長もなさったことがある.先生は学生時代 東洋文庫を見やりながらこういうところで思う存分勉強できたらなあと思っていたが,いざそこに関与すると忙しくてまるで勉強できないとこぼしておられた.

 大東文化大退職後 三省堂の 『言語学大辞典 』 の編集と執筆にご専念なさったことはよく知られている.これは 『術語篇 』,先生ご逝去後に世に出た 『世界文字辞典 』 を含む 世界的に見ても大規模のものだが,よく知られている西洋語の記述を簡単にしたこと,執筆者を原則として一言語一人としたこと,中国音韻学の術語を含むことなどいろいろな特徴を持つ.これの功罪については改めて述べたい.

 先生は 1986年 (昭和61年) 日本学士院会員となり,1993年 (平成5年) 文化功労者に選ばれた.もっとも末松保和先生 (朝鮮古代史専攻) は学者というものは芸能人なんかと一緒に賞を貰うものではないといっておられたと記憶している.

 先生はとうとう 1998年 (平成10年) お亡くなりになった (生年は 1912年 (大正12年) ).11月29日に茗渓会館で行われた 「河野六郎先生とお別れする会」 は大盛況だったが,ここでは先生が一番長くいらっしゃった東教大関係はほとんど無視され,さながら 『言語学大辞典 』 の同窓会という感じだった.河野先生を囲む会は先生の還暦,東教大の定年退職等々いくつかあったが,先生はご自分をだしに使った会合がお好きでない様子で,大げさなものも好まれなかった.世の 「お別れする会」 が生けるものたちの饗宴でしかないことは河野先生の場合も例外ではなかった.わたくしは河野先生の教えを受けた中村完氏と辻星児氏 (岡山大言語教授,朝鮮語学) の切々たる思いのこもった言葉以外はほとんど印象にない.河野先生の教えを受けた韓国の申昌淳 (シン・チャンスン) 氏 (高麗大卒,釜山大,仁荷大を経て韓国精神文化研究院教授として退職,東外大 朝鮮語学科客員教授ともなる) は 「お別れする会」 には出席出来なかったが,多額の寄付をなさった.氏は電話口で悲しみのあまり声を上げて泣いておられた.わたくしはこれ以後 「お別れする会」 の類はなるべく出ないことにしている.



 東教大言語の先輩には朝鮮語学の中村完氏 (中村完,『論文選集 訓民正音の世界 』,創栄出版,仙台,1995,459ページ), 田中春美氏 (後に立教大教授), 故 倉又浩一氏 (電機通信大教授), 栗原成郎氏 (アメリカ留学, 東大スラヴ語教授,後に北海道大を経て創価大教授,スラヴ語学), 家村睦夫氏 (スカンジナヴィア語学),ほかに早大から来た 下宮忠雄氏 (弘前大を経て学習院大教授) らがいた.中村完氏と栗原成郎氏にはこの後何かとお世話になった.栗原成郎氏はすばらしい人柄の人で,氏がアメリカ留学時代アメリカの悪口ばかり書いて寄越したなあと 彼の恩師 熊沢龍先生が仰っておられた.鈴木康之氏 (大東文化大教授,古典日本語専攻), 故 渡辺義夫氏 (福島大教授,日本語専攻) は言語学研究会で知り合ったが,彼らはわたくしの知る東教大言語の諸先生や同僚たちとはほとんど没交渉のようだった.渡辺義夫氏とは 本当に久しぶりに 「河野六郎先生とお別れする会」 で会い,近いうちに二人で会おうではないかと言っていた矢先,福島市で交通事故のため亡くなってしまった.

 東教大言語の後輩には故 志部昭平氏 (詳しくは菅野裕臣のホーム・ページ 「百孫朝鮮語学談義 − 言語についての菅野裕臣の覚書」 の 「乱筆乱文」 の 「志部君の思い出」 を参照),辻星児氏,東外大から来た宇根祥夫氏 (東外大教授,ヴェトナム語学専攻),北大から来た門脇誠一氏 (北大言語教授,朝鮮語学) 等がいた.ほかに留学生の申昌淳氏,ずっと後に Romuald Huszcza ロムアルト・フシュチャ氏 (ワルシャワ大教授,日本語学,朝鮮語学専攻) もいた.

 東京教育大学は河野先生ご退職後まもなく廃校となり,かわりに筑波大学が設立されることになって,言語学科は幕を閉じた.東教大言語はこれから発展するという時なのに,実に残念なことだった.その後 言語学の名をかぶせた新しい専攻がいろいろな大学に出来たが,これほどバランスのとれた組織はついぞなかったと思う.



 わたくしは形式的には英文に属したため英文の授業も出なければならなかったようである.東教大英文はかの有名な安井稔教授を中心に当時生成文法論受け入れの最先端を走っており,学生たちはアメリカの最新の本を片手に沸き立っていた.その授業たるや正にアメリカ式に1週間に何冊もの英文の言語学書を先生に与えられてそれを読み,要約をしてくるというものであり,到底精読など出来るはずもなかった.わたくしはすぐそれを放棄した.多分 さほど英語の入試の成績のよくもないわたくし如き者を無理を言って採った上,わたくしが授業に出ないのでは,河野先生もお困りだったのではないかと思うが,ああ,いいよ,いいよと仰った.先生ご自身はアメリカの構造主義までは受け入れても,それ以上は問題にもされず,一言 「面白くない」 と仰るだけだった.こんなわけでわたくしはチョムスキーを一度も読まずにすみ,理解ある先生のもとで勝手に勉強できることとなった.もっとも先生は 始めファース J. R. Firth をやったらどうかと仰ったが,わたくしにあまりその気がないせいか,何も仰らなくなった.世に理解のない先生のもとで,先生の考えを押し付けられ,あるいはまるで先生のいないところで勉強せざるを得ない人が多い中で,わたくしは極度に幸せ者だった.



 史学方法論の授業に故 杉勇先生の 「楔形文字学」 なるものがあり,河野先生はこれは 「面白い」 と仰った.最初の授業に行ってみると,聴講する学生はわたくし一人だけだった.杉先生は A. Ungnad & L. Matou, “Grammatik des Akkadischen ” (アッカド語文法 ), Mnchen, 1964 を来週までに読んでおくようにと言われた.たいへんなことになったと思っていると,他の学生たちの言うことには,杉先生はとてもこわい先生で,先生の授業に出る学生は一人もおらず,先生が講義をなさることはない,つまりいつも 「開店休業」 だというのである.おまえのお陰で久しぶりに休業でなくなったが,おまえは本当に続けられるのかとみんなが言う.

 ともかくも次の週また授業に出ると,杉先生は,では自分の弟子たちを集めようと仰って,東教大出身の数人を集められた.先生にしっかりとくっついて卒業し,東大大学院に行った人が数人いた.黒田というハンムラビ法典 (アッカド語) を研究している人 (彼はその後亡くなったと聞いた),家形というエジプト史の研究者 (後に信州大教授),それにヒッタイトの研究者がいた (彼は自殺したという噂を聞いた).

 杉先生はヨーロッパ研修を終えて帰ってこられて まだいくらもたっていないようで,特にオランダのライデン大学での経験を話された (後にわたくしは東洋文庫で同室だった仲田浩三氏 (東教大史学方法論卒,鹿児島大教授,インドネシア史) から,氏がライデン大学留学中杉先生としげく会ったという話を聞いた).ライデンの Vos フォス教授 (日本学,朝鮮学専攻) の話もなさった.杉先生は楔形文字の筆写の方法 (書き順を含む) や写真の取り方 (文字のくぼみを出すために何度の角度で撮影するか) についてのライデン方式を披瀝なさった.

 杉先生からは数え切れないほど多くの知識を得た.わたくしの全く未知の分野だったし,文字学,文字史,文字の解読,メソポタミア史などの本を読む必要に迫られた.そのうち杉先生はウル・ナンム法典 (ハンムラビ法典以前の世界最古といわれる法典.シュメール語.当時はまだこのことが高校の教科書にも書かれていなかった) のロシア人による解読があるので,それを日本語訳するようにと言われた.そんなわけでロシア語訳からの日本語訳を青焼きで作成した.次にウラルトゥ Urartu 語とアッシリア語の対訳碑文が二つあるが,そのうちのケリシン Kelishin 碑文のすべての解読を紹介せよというもので,わたくしはドイツ語,フランス語,ロシア語のものを読んでまとめた.結局メソポタミアの楔形文字というものは,古代ペルシャ語のものを除けば,アラビア語の知識によってまずアッカド語の解読が出来,それをもとにシュメール語の解読が出来,その後アッシリア語 (アッカド語と同系) を媒介として 他の諸言語をそれらの対訳碑文により解読したのである.この頃になるとわたくしはウラルトゥ語に関心を持ち,これにのめりこんだ.ウラルトゥ王国は旧ソ連の版図内では最古の王国であり (それはトルコ,イランにも及んだ),旧ソ連で発掘が最も進み,ウラルトゥ語の刻文の研究は旧ソ連がもっとも進んでいた.故 Meshchaninov メシチャニーノフ氏 (マル派の学者だが,有象無象のマル派のインチキ学者とは異なり,氏は着実な実証主義者だと言われる) などの大言語学者もウラルトゥ語の研究を行っている.グルジア人考古学者メリキシュヴィリ Melikishvili 氏による種々の刻文の解読もまとめられている.なおわたくしは 1969年 (昭和44年) 東京で開かれた世界人類学,民族学大会に ソ連代表団の一員で来日したメリキシュヴィリ氏に会ったことがある.わたくしはこれらの研究を読み,この時ウラルトゥ語の楔形文字も読めた (ウラルトゥ語の楔形文字は音節文字が大部分だから,アッカド語のそれほど複雑ではない).ウラルトゥ語は能格 Ergativ という特殊な形を持ち,この点でグルジア語などのカフカズ諸語と 構造的に似ている.こんな風にしてわたくしは朝鮮語そっちのけでアッカド語やらシュメール語などに汲々とした.アッカド語の楔形文字を単語カードに書き込んで一生懸命覚えたりもした.

 杉先生は夏 わたくしを含めて教え子たちを引き連れて天理と京都へいらっしゃった.天理大学図書館,天理参考館と天理教ゆかりの地を 富永館長 (この方はインキュナビラの権威である) の案内で見学し,さらに大学の車で 富永館長自身の説明付きでいろいろな古墳を見学した.杉先生の弟子たちの話では 天理参考館の収蔵物の多くは盗掘品であり,盗掘品は出土の状態が不明だから,それ自体学術的価値がなく,単なる宝物にしかならないとのことだった.図書館の書庫には確かに珍しい高価な書物,例えばグーテンベルグの聖書とかシャンポリオンの本とかの類があったが,これに関しても弟子たちは,単に金に任せて珍しいものを買うのではなく,書物の体系性ある収集がなされない限り,図書館としての価値は半減すると評した.平城京の発掘現場にも行った.ある天皇の陵を削って平城京を作った可能性があり,宮内庁が慌ててとんできてその発表を差し止めたということも聞いた.要するに天皇陵と称するものはどれもが不明確で,しかも陵の周囲に廻らした堀に初めから水が入っていたかどうかも分からないものらしかった.

 その後 京都大学に行き,京都大学 考古学研究室にある楔形文字とエジプト聖刻文字の記念物を見学し (これらの文字を杉先生の弟子たちはすらすら読んでいた),そして京都大学の考古学,西南アジア史の錚錚たる諸先生たちとの懇談会に出席した.ここには確かシュメール語の吉川氏 (京大出身,神戸外大) や加藤一朗氏 (京大出身,関西大学,『象形文字入門 』,(中公新書),中央公論社,昭和37年 (1962),214ページ の著者) もいたと思う.足利先生という方 (この方は本当に足利将軍の末裔だそうだ) がしきりに西南アジア史研究の重要性を強調しておられた.この分野の素人のわたくしには全くの未知の世界だったが,なにせ彼らのスケールの大きさにどぎもを抜かされた.

 朝鮮考古学の有光教一先生にもお目にかかった.有光先生はとても温厚な方で,お金がないのでアメリカの金を貰ったら,猛反対されてしまったと ぼやいておられた.先生は京城帝大におられたが,敗戦後現地に残され (同じように朝鮮総督府の予算編成の専門家等は その知識を現地の人々に伝えるため残された),朝鮮人学生に現地での発掘その他の指導に当たられた.その学生たちが後に韓国考古学界の重鎮となったが,発掘に際して疑問点は その後も有光先生のところに問い合わせられたとのことである.日本は戦前 朝鮮の考古学研究を独占し,朝鮮人研究者を養成しようとはしなかったと故 長正統氏 (九州大学教授,日朝交渉史専攻) から聞いた.有光先生はご存命の日本人朝鮮研究者の最長老でいらっしゃるだろう.

 京都でのわれわれの宿舎は百万遍の寺だった.ここでぱったり河野先生にお目にかかった.お嬢さんと一緒に京都見学をなさっているようだった.なんと杉先生の弟子たちはここで皆逃げてしまい,先生をわたくしに押し付けた.それからというもの 朝から晩まで先生の学問のお話のお付き合いをさせられた.ただわたくしにとって決して苦ではなく,楽しかった.あまりにも多くの知識が詰め込まれたが,先生がそのうち閑になったらマイネッケをゆっくり読みたいといっておられたのが記憶に残る.

 杉先生の弟子たちの中には左翼上がりもいたが,マルクス主義などてんから相手にせず,杉先生同様 もっぱら事実の探求に明け暮れしているようだった.社会経済史などというものを馬鹿にし,もっぱら文化史中心だった.彼らはアジア史学者,中でも朝鮮史,その中でも 社会経済史などの専門家を殊のほか軽蔑していた.同じ東大出身者でも言外に西洋研究者の東洋研究者に対する優越性が前提となっているようだった.

 杉先生は東大 西洋史学卒,卒論はウラルトゥに関するものだった.杉先生こそは日本で メソポタミアの楔形文字とエジプトの聖刻文字の研究から独力で初めて その基本的な一次資料を研究室にそろえ,日本におけるオリエント学の基礎を作られた方である.今でもそれらの資料は筑波大学図書館にあるはずである.河野先生は杉先生をいつもイントロダクションをやっている感じの方と評されていたが,杉先生もそれはよくご存知のようで,僕みたいにならないよう弟子たちは専門別にしたてるのだと言って,弟子たちにアッカド,エジプト,ヒッタイト等々という風に専門を割り振った.東教大の大学院生で五味亮君というのがシュメール語をすらすら読むようになっていた.杉先生はオリエントのあらゆる言語を読んだようで,それぞれの綿密なノートがあった.河野先生はやはり杉先生は日本でオリエントの諸言語の第一人者だと言っておられた.杉先生の学生時代エチオピアの国王が来日した時,杉先生はエチオピアの言語を勉強し,その文字で国王に書状を献呈したが,後にそれがアムハラ語ではなくゲーズ語だと知ったというのである.杉勇先生の 『楔形文字入門 』,(中公新書),中央公論社,昭和43年 (1968),218ページ の 「あとがき」 には 日本の楔形文字学の黎明期の模様が描かれている.

 杉先生はわたくしにいっそ朝鮮語学をやめてウラルトゥを本格的にやれと仰ったが,それはお断りした.朝鮮に勿論未練はあったが,本格的にウラルトゥをやるということは,まずアラビア語を学び,さらにアッカド語やシュメール語をも勉強するという作業が必要であり,文字や言語の解読がほとんど考古学者によってなされているからには,原点に帰った再検討が必要だからである (ただしこの考古学者たちは実に偉大であり,わたくしには,正直言えば,朝鮮近代史の研究者などはまことにちゃちに見える).事実シュメールの固有名詞なども新しい研究によって音 (おん) が変更されることがめずらしくなく,またウラルトゥの国王の名前さえまだまだ変更される余地があるのである.今からそのような大海に乗り出すにはわたくしには時間がなさ過ぎた.

 時々先生の研究室には高松宮から電話がかかってきたが,宮様は英語の資料しかお使いにならないが,シュメール語とアッカド語の資料をお使いなさいと言っているのだが,と話しておられた.



 わたくしが杉先生を知ってから分かったことは,なんと河野先生が 学生時代にすでに杉先生から楔形文字や聖刻文字を学んでおられたことである.河野先生の関心の中心はあくまで漢字にあったが,その漢字を特にシュメール文字との比較において観察なさった.先生のご研究は通り一遍のものではなく,無造作に書かれた先生の文字論の一言一句は シュメール語やエジプト語それ自体の深い研究に裏打ちされたものだった.先生は後に塚本氏 (九州大言語卒,東教大大学院,佐賀大在職,エジプト語専攻) と時々 エジプト語の解読を共同でしておられた.先生はやたらに人の言を信ぜず,すべて自らの検証を経たから,ヨーロッパ人文字学者の考えには異論を持ち,あくまでも事実それ自体を優先された.楔形文字にも音 (おん) と訓があったが,特に漢字音 (中国,朝鮮,ヴェトナム,日本等の) というものについての河野先生の明快で確乎たる論 (そして漢字音にあたるものがヨーロッパにないこと) にわたくしは圧倒された.

 わたくしは初めローマ字論者だったが,どのように河野先生に反発しようともそれが不可能なことを知り,やがてローマ字論は捨てざるを得なくなった.後に言語学研究会は日本語の文字,音声,文法の教科書のようなものを教育科学研究会 (略称:教科研) から出すが,そのうちの文字篇は単純な文字進化論 − 象形文字から音標文字へ − に貫かれた間違いだらけのものだった.この点では宮島達夫氏も昔のままだった.謙虚に学ばないとこんな風になるという見本のような本だった.



 東教大言語の非常勤講師には 満洲語の故 山本健吾先生 (跡見女子短大),スラヴ語の故 木村彰一先生 (東大),IZ教授その他の方々がおられた.また東教大言語の集まりにはよく故 村山七郎氏 (順天堂大学) も来られた.

 山本先生は磊落な方で,服部先生との共同研究では酒も飲めず,たいへん疲れると言っておられた.山本先生は 『金瓶梅 』 の満洲語訳のローマ字転写を謄写ファックスという機械にかけてコピーをたくさん作り,資料としておられた.そんなものを女子大の学生たちに手伝わせて大丈夫なのかという河野先生の質問に,学生たちは喜んでやってくれると答えておいでだった.山本先生の 『満洲文語形態論 』, 489 - 536ページ ( 『世界言語概説 』,下巻, 研究社,昭和30年 (1955),1336ページ 所収) は満洲語の分析的な形 (先生はこれを服部氏に倣い活用連語と呼んでいる) の分析で,これに当たる研究はモンゴル語には依然としてない.山本先生からは 玉聞精一氏のシベ (錫伯) 語 (中国新疆ウイグル自治区のカザクスタン国境よりで用いられる満洲語に似た言語) を教わった.山本先生の蔵書は東外大AA研に入ったが,このテープはどこに行ったのだろうか.なお 山本健吾著,アジア・アフリカ言語文化研究所篇,『満洲語口語基礎語彙集 』,東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所,昭和44年 (1969),234ページ は貴重な研究だが (服部四郎氏による 「はしがき」 は重要),これには大江孝男氏の絶大な尽力がある.

 木村先生からは 古代教会スラヴ語の講義を聞いた.先生の教え方というのは知識の先取りをせずに,知識を積み重ねていくという方式で,それは教える項目の順序に到るまで緻密に計算され尽くしたものであり,わたくしは殊のほか感銘を受けた.後に千野栄一氏が主となって白水社の 『〇〇語の入門 』 シリーズが 千野栄一,千野ズデンカ共著,『チェコ語の入門 』,白水社,1975,270ページ を皮切りにその方式を取り入れるが (この中で 『チェコ語の入門 』 はやはり圧巻である),わたくしの 『朝鮮語の入門 』,白水社,1981,344ページ もそれによった.
 木村先生の講義は後に 『古代教会スラヴ語入門 』,白水社,1985,211ページ という形で世に現れるが,これは名著である.わたくしは先生から教わった Paul Diels, "Altkirchenslavische Grammatik "(古代教会スラヴ語), I. Teil: Grammatik, Heidelberg, 1932 , 307 pp. になんでもかんでも記述されていることにある種の感銘を受け,将来こんな形で朝鮮語文法を書いてみたいと考えたことがあるが,結局その夢は実現されずに終る.
 白水社の編集者 伊吹基文氏 (北大ロシア語卒) の話では,わたくしの 『朝鮮語の入門 』 の第1課に到るまでの文字と発音の部分が異常に長いが,わたくしの原稿に目を通された木村先生は,朝鮮語の複雑さからしてやむを得まいと仰ったとのことである.一度神保町の中華料理屋で伊吹氏らともども 木村先生にお会いする機会があったが,先生はポーランドとロシアとの関係に朝鮮と日本との関係が似ているかと質問なさった.そして先生はポーランド人はしばしばロシアについて散々な言い方をするが,ロシアが官僚主義を作り上げた大国だということを忘れていると語られたことが 妙に印象に残っている.

 村山先生にはその後もいろいろなところでお会いし,お宅も下宮氏と一緒に訪ねたことがある.先生はドイツ語とロシア語が堪能で,ドイツやソ連に顔が広く,田中克彦氏のドイツ留学は村山先生に負うところがあるはずである.村山先生からは 『元朝秘史 』 はソ連からパラディウス本の写真版も出たし ( 《Juan'-chao bi-shi (Sekretnaja istorija mongolov) 》, 15 czjuanej, Tom I, Tekst, Izdanie teksta i predislovija B. I. Pankratova, Institut narodov Azii, Moskva, 1962, 602+18 str.),自分の指導の下でそれの本格的な研究をやってみないかと勧められたが,辞した.わたくしは蒙古語は朝鮮語以上に綿密な研究が出来るものではないと固く信じていたからである.今でもこの考えは変わらない.

 IZ氏は非常に有能な言語学者とは思うが,ある日わたくしが崔鶴根教授と付き合っていることを知った氏が,李基文氏とは比べ物にならない崔教授などを なぜ相手にするかと わたくしをたしなめた.わたくしはよく覚えていないが,奥田靖雄氏のグループにわたくしがいたことも気に入らなかったのだろう.わたくしはそれきり彼の授業に出なかったし,腹の底から彼を軽蔑した.いわゆる東大生の一つの典型だが,真に頭のよい東大生はそんな下卑たことを言わない.もっとも 頭のよい東大生は口に出さずに腹の中で他人を軽蔑するものだから,その点では彼は頭が悪いだけ正直なのかも知れない.その後 KSも彼にはずいぶん気を使っているらしく,しんどそうにしていたし,いろいろなインフォーマントたちも彼を敬遠しているとも聞いた.特に東大言語に見られる 学問のためなら非人間的であるべきだと口では言わないが,事実上そのようなものの見本のような人だった.とても真面目だけれども極めて単純な人たちではあった.わたくしはここにおいて是々非々ということを ようやくにして覚えた.つまり学問と人間の完全な分離,つまり人間は軽蔑しつつも 学問は尊敬するというものである.東大出身者,それも言語学者には是々非々の原則を適用しないと認め得ない人間が多い.徳永先生とか河野先生のような方は極めてまれな存在なのである.面白いことに,IZ氏の弟子は東大でもないのに,似たような者がいる.このようにしてすべては連続するのだろう.



 やがて東教大は筑波移転をめぐって大荒れに荒れた.1970年 (昭和45年) の第2次安保闘争の前哨戦の火ぶたは 正に東教大で切って落とされた.初めは言語学科の発展のために筑波移転に賛成で,言語学科の統一のために自制しておられた河野先生でさえ我慢ならぬ事態となり,ある日われわれ弟子たちを前に,これからは君らは自分に気兼ねなく勝手に行動したまえと仰った (河野先生は言語学科の発展をお考えになって 初め東外大付置研究所のアジア・アフリカ言語文化研究所 (略称:AA研) の設立にも積極的に加わっておられたが,後に手を引かれた).大学は学生たちによって占拠され,授業は外で行われた.これでもか,これでもかと突きつける学生運動指導者 (彼らも大学院生クラスとなっていた) の言葉を追いかけるのは甚だしくしんどく,皆うんざりしていたけれども,まだ気にせざるを得ないという時代だった.しかし,正直言えば,この時 何を論じたのかまるで記憶にない.つまりイデオロギーは終焉を迎えつつあったのだろう.一部のまだマルクス主義にこだわる者を除けば,言語学だの文化人類学だの,学問の論理それ自体がイデオロギー性を持たない学問にも依然として理屈をつけようとする者,そんな理屈抜きでさっさと方向転換する要領のよい者など いくつかのパターンに分かれたと思う.言語学の分野では 三浦つとむとかいう労働者上がりの哲学者が時枝誠記の理論を弁証法的と勝手に解釈したり,吉本隆明が言語について難解な本を発表したことで哲学づいた人々は興奮していたが,わたくしはどれにも関心がなかったし,本を買いもしなかった.


菅野裕臣の II 終り