菅野裕臣の

I ) 大学入学以前




目次
言語との出合い − 前史
エスペラントとの出合い
朝鮮語との出合い
社会,そして左翼
さらに言語の深みへ

言語との出合い − 前史

 わたくしは 1936年 (昭和11年) 二・二六事件の後 3月4日に東京の貧しい労働者の家庭に生まれた.物心ついた時には東京の佃島というたいそうがさつな地区 (現在ここはたいそう高級なマンションが並ぶ地区へと変貌した) におり,そこの小学校 (当時京橋区立佃島小学校,後に国民学校と改称,さらに中央区立佃島小学校) に入学し,太平洋戦争末期 1944年 (昭和19年) 夏埼玉県秩父郡美濃町三沢なる山の中の医王寺という寺に集団疎開し,翌年8月初旬には母の田舎である埼玉県比企郡大岡村字岡 (現在は東松山市) に移住した.いわゆる縁故疎開である.
 学校の先生のいいこと尽くめの話を信じ,親の反対を押し切って遠足気分で行った集団疎開だったが,程なくあまりに少ない食事としらみの蔓延にこれは騙されたも同然だと気づいても遅かった.こっそり秩父鉄道の電車に乗って東京に逃げ帰った生徒が出たという伝達を記した先生の手紙を持って真夜中ちょうちんを片手に隣村にある同じ小学校の疎開先まで山道を越えて運んだ怖い思い出がある.
 疎開先では上級生は女子,下級生は男子という構成だったが,女子生徒だって弟たる男子生徒の面倒を見るには幼さすぎた.戸を開けっぴろげにした寺の秋祭りの行事の時は,狭いコタツに入れる者はボスの生徒とその一味だけであり,わたくしや気の弱い者らは寒い部屋で一日中ブルブル震えていた.皇后が下賜したというココナツで作ったという菓子を2個ずつ貰ったが,有無を言わさずボスどもがわれわれから一個ずつを取り上げ, 「側近」 だけで山で分けて食べた.先生にそれを告げ口する勇気ある者はおらず,ある時そのようなボス格の女子生徒が縁故疎開に移ってから,一人の勇気ある生徒の告発でみんなで公然とそれを批難できるようになったが,われわれの学校はヤクザの多いがさつな地区にあったせいか,成績の優劣よりもやくざ的な力の有無による序列が生徒たちの間に出来上がっていた.わたくしは風邪を引いたと仮病を使って学校をサボったことがあるが,終日寝ていろと先生に言われ,その日の夜は地元の村人を招待して行った夕食会とて滅多にないご馳走を食べ,すする音を断腸の思いで聞きながら,空き腹に涙を流して布団に寝ていた (当時は病気だといえば無条件に寝させられた).
 やがてこれから入学するという幼い者たちまでわれわれの疎開先に合流し始めた.戦争も末期だとはわれわれは知らなかった.われわれはどんなに泣きたくても日本男児は泣いてはダメだと教えられていたので,やせ我慢をしていたが,この幼い者らは来た早々東京に帰りたいと泣き喚いた.

 秩父は寒村だったが,学校の教育水準は高く,泥棒もいない,非常に秩序ある村だったが (あの物資のない時でさえ道端に置いてあった米俵を持ち去る者はいなかったし,畑のサツマイモを盗んで食べたわれわれの仲間は後々までも村人に後ろ指を指された),比企郡のその村は民度が低く,東京者はいつもいじめられた.学校の先生も秩父の先生よりも威厳がなく,この村の低さといったら,1945年 (昭和20年) 8月15日の日本の敗戦もやっと翌日に確認される有様だった.ラジオのある家が少なかった.この村では東京者はみな金持ちだと思っていた.ずっと後にこれが 「農村を搾取している都市」 の東京者が田舎者にしっぺ返しを食ったのだということを知った.小作の子供たちは決まって,例えば畑の面積が少ないというようなつまらないことでわれわれをいじめたが,かばってくれるのはいつも地主の子供だった.その飯島貞雄君は数年前病死した.彼の母親はわれわれの学校の先生で,わたくしにとり数少ない 「よい」 先生だった (彼女もなくなった.当地はかつて養蚕が盛んだったが,朝鮮人の養蚕の研修生も自宅に受け入れたことがあると言って,彼等の名前をそらんじていたが,それはすべて日本名だった.陸軍の演習がある時は彼女の大きい家に軍人たちを寝泊りさせたが,地主といっても士族ではないので,将校たちは士族たるわたくしの母の親戚の家に泊まったのだと彼女が説明してくれた).
 わたくしは入学したその日,今まで生徒たちが種芋を持ち寄って集団で作ったというジャガイモを彼らと一緒に食べたという理由だけで早速いじめられた.
 秩父から移る時,熊谷から県道に沿ってその村に向かって父と一緒に歩いている最中にアメリカの飛行機の機銃掃射を浴び,慌ててトウモロコシ畑に逃げ込んだ.秩父の山奥に落ちた焼夷弾に次ぐわたくしの戦争恐怖の体験第2号である.ある夜東の空がまっかに染まったが,アメリカの飛行機の編隊が熊谷を空襲したのだった.雨が降ってきたと思ったら,それは油だった.翌日は日本敗戦の日だった.これがわたくしの戦争恐怖体験第3号である.ずっと後に知ったことだが,アメリカは日本が降伏するのが分かっていながら爆弾を各地に投下したのだった.
 9月か 10月にアメリカ兵がサイドカーに乗って熊谷から東松山への県道をはじめて通った.これが白人を見た最初だったが,学校で教わった鬼畜とは違い,普通の人間だった.後で知ったことだが,父は無学ながらもシンガポールが陥落した時もうこれはだめだ; 死ぬなら家族全員で一緒に死のうと思ってわたくしを縁故疎開先に呼んだそうだが,10月のある日一家そろってトラックで廃墟の東京へと帰ってきた (後で知らされたが,父はシンガポール陥落の際に不用意に発した言葉で非国民として憲兵に連行されたそうだ) .埼玉県から荒川を渡って東京に入った時,そこから焼け野原を介して銀座まで見えた.

 1947年 (昭和22年) 小学校卒業,中央区立月島第三中学校入学,1950年 (昭和25年) 同中学を卒業した (この中学校は,地域住民の少子化の波を受けて第一,第二の中学校とともに合併し,現在月島中学校という) .同年大和證券株式会社兜町営業部に就職し,そして東京都立九段高等学校第二部 (夜間部) に入学した.

 両親は無学にして無知だったが,双方ともかなり苦労しており,それでも教育にはいっぱしの理解を示したつもりでいた.二人とも漢字はそれなりに読んだが,小学校をきちんと卒業してはいなかった.父菅野義明は福島県信夫郡庭坂村 (現福島市) 出身 (1900年 (明治33年) 生,1993年 (平成5年) 没) で,言葉はいわゆるズーズー弁だった.父の話では,父の実家はいわゆる本家だったが,父が2歳の時その両親が病死した後は兄弟ともども分家にあずけられ,ひどい仕打ちを受け,子守りばかりさせられ,学校にも通わせてもらえなかったらしい.次男である父は東京に出,仕事を転々とした挙句石川島重工の労働者となった.漢字は火鉢の灰に火箸で書きながら覚えたと言う.兵役は,仙台の師団に属し,一度は関東軍所属の南満洲鉄道の守備隊 (鉄嶺,開原) で (1920年 (大正9年) − 1923年 (大正12年)),もう一度は台湾 (屏東) で (1937年 (昭和12年) − 1938年 (昭和13年)) 服している.
 わたくしは 1981年 (昭和56年) はじめて中国に行った時 開原と鉄嶺にとまる長春発北京行特急列車に乗ってこの二つの駅に降り立ち,父のアルバム (このアルバムにはどういうわけか正装した朝鮮貴婦人とか銃殺される朝鮮人露探 [ロシアのスパイ] とか革命後のヴラジヴォストークでのロシア人共食い後の骸骨の山のような写真も入っていた) で見たことのある鉄嶺の塔を確認し,1976年 (昭和51年) 台東 − 高雄間のバスで屏東を通過した.
 一般に東北人の知識は東京止まりであるが,普段はおとなしい父はどういうわけか腰抜けの大阪の師団の奴らというような口のききかたをした.父の断片的な話によるわたくしの推測だが,父はたぶん開原から四平街 (現四平市) 行きの汽車の途中で大阪師団の兵隊と殴り合いの喧嘩の果てに営倉入りになったのではないかと思う.父が四平街に行き着いたという話をついぞ聞かなかった.父は戦時中も東京に残り,軍需工場たる石川島で働いた.戦後父は多くの労働者と同じく首を切られ,その後日雇い労働者 (職業安定所を通じて仕事をもらう労働者) になった.
 父は働き者で正直者だったが,口下手でいつも要領が悪く,損ばかりし,生活力はまるでなかったが,人間的にはとても暖かかった.日雇い労働者になってからは朝鮮人労働者と接する機会が多かったらしく,朝鮮の祭り (これは 「祭祀 (チェーサ) 」 のことらしい) なので貰ったといってはよくチョーン (Jen) という食べ物を持ち帰った.
 父の話では,若い頃日本語を習いたいというある全羅南道出身の朝鮮人と同じ部屋にいっしょに住んだことがあると言ってその朝鮮人の姓名と住所を諳んじていた.わたくしがそれを記録しようとした時にはもうぼけていてすっかり忘れていた.その朝鮮人は商売は朝鮮人のように大きくはじめるとだんだん小さくなってしまうが,日本人のように小さくはじめれば,だんだん大きくなるから,朝鮮で日本式に商売をしないかと言ったという.父は満洲側の安東 (現在の丹東) から鴨緑江の鉄橋を歩いて朝鮮側の商店に買いに来たが,朝鮮人商人は その口うるさい誘いに乗らず物を買わないと 決まって悪口を叩いたものだと言った.満洲の街路で べろんべろんに酒に酔ってだらしなく寝そべっているのは日本人か朝鮮人か蒙古人で,支那人はけっしてそういうことはないと言った.
 父は中国人の芝居が好きでよく一人で見に行ったと言う.その時満語 (実はこれは中国語,すなわち漢語と変わるところはない) でこう言うと,差し出した金を受け取らず快く中に入れてくれたそうだ.父の記憶にあった平板で声調無視の満語は,多くの日本人が習ったものと同じく,二重母音 ao 「アオ」 を長母音 「オー」 と発音した類のものだった.
 父は幼い時に両親を亡くしたせいか,人間のみならず 犬や猫の 「死」 に異常なまでの関心を持ち,自分の周りの人や動物の没年月日を全部覚えていた.何かにつけて神棚に向かって拝み,死者を記憶することが宗教であってそれは決して迷信ではないという論理をわれわれに強調した.自分のうちが禅宗の曹洞宗であることに無限のほこりを持ち,禅宗の絶対的優位をかたくなに信じていたので,創価学会の折伏にあうと,あんたがた邪教をやめてまともな宗教を選びなさいと言って有無を言わさず追い返していた.

 母 菅野直美 (旧姓松本) は埼玉県児玉郡出身 (1906年 (明治39年) 生,1981年 (昭和56年) 没) で,その言葉は比企郡のとも少し違っており, 「ふとんの」 (=ふとんを) のように 「ん」 の次の助詞 「を」 を 「の」 と言っていた.比企郡の疎開先では,新学期第1日の朝一列になったわれわれの学童たちの最後尾のものからの伝達 「ガバンおろしてすぐこうと (カバンを下ろしてすぐ来いって) 」 がわたくしの接した方言第1号だった.
 母は分不相応にも士族の端くれに連なることを誇りとしており,駐英大使だったとかいう貴族の松平某氏 (母は松平ツネオ様は駐英大使だったことがあると話していた) の屋敷で若い時貧乏貴族の娘らと共に奉公した経験のあることを自慢していた (時々 「おたあさま」 の類の貴族用語を教えてくれた.母によれば昔は貴族の娘たちは他の貴族の屋敷で女中奉公をしながら世間の勉強をしたもので,あの 「いい人」 たちは そこらの平民とは生まれつきからしてまったく違う立派な人たちだと言っていた) .田舎の人々は互いに 「 − やん」 と呼び合っていたが,東京から来た母に対しては 「 − さん」 と呼んでいた.ある時母は護身用の短刀を見せ,戦後アメリカ軍は日本の子供たちをさらっていっているといううわさが本当ならば,それでわれわれを自ら殺した後自殺しようと思っていたという話をし,わたくしは思わずぞっとした.

 わたくしは 1945年 (昭和20年) の2個月あまりに著しく埼玉県東松山市の方言の影響を受けた時期を除けば,概して東京の下町方言を話しているわけである.

 戦争中は日本軍の進駐したアジア各地の地名を覚えるのが大好きで,特に父の持っていた詳しい中国地図に記載されている蒙古 (モンゴル) の長く連なった漢字にカタカナをふった地名などは今でも記憶している (そのうちの一つチェチェルリグマンダルウラ部というのは今の発音でツェツェルレク・マンダル・オール部 Цэцэрлэг мандал уул といったのだということはモンゴル語を勉強した時に知った) .また当時の地図にタンヌ・トゥワ共和国 (現在のトゥバ共和国) という奇妙な名前の国があるのも秩父の疎開先で知った.これがわたくしのいわば外国とのはじめての出合いだったと言える.わたくしはモンゴルは 1976年 (昭和51年) に,トゥバは 1996年 (平成8年) に訪れた.
 大東亜共栄圏とか言いながらその実他民族を軽蔑する雰囲気はわれわれ子供の間にもあったし,ある場合には学校の先生とて同じだった.朝鮮人を馬鹿にするのは当たり前,そして疎開先から東京にちょっと行ってきた子供の持ち帰った東京で流行っている歌ときたら, 「インド人のさるまたネットネットするよー」 という侮蔑的なものだった.こんな歌もあった. 「ルーズヴェルトとチャーチルが林の中で泣いていた.それを見たのは東条さん,お腹を抱えてワッハッハ」 .欧米を無条件に悪と教える風潮の中で,疎開先に皆で持ち寄った本の中にはアメリカのルーズヴェルト大統領をたたえる文があったりで (日米戦争がはじまる以前のものなのだろう),子供心にも不思議な気がした.

 当時は国語教科書のほかに 「かきかた」 という教科書があり,これはいわば正書法または文法の教材のようなものだったが,わたくしはこれが好きで,当時はあの難しい歴史的仮名遣いを間違いなく書いたものである.国民学校4年生からは文語文が教えられたが,わたくしはこれが大好きで,当時はやりの短歌を文語文で作り,よく友達,特に子供たちのボスから頼まれて代作をした.当時は 「つづりかた」 と呼ばれる作文が盛んで,わたくしはこれも得意だった.これが言語への最初の関心だったかも知れない.

 疎開に行く前隣家の上級生が持っていた下敷にローマ字の活字体と筆記体が記入されているのを見てやたらにそれを筆写したくなり,それを貸してほしいと頼んだ時には,敵の物は持っていてはいけないと学校で取り上げられた後だった.こんなわけでとうとう敵の文字を知る機会は敗戦の時まで待たなければならなかったが,敗戦後間もなく東松山の疎開先に東京から食いつぶれてやってきた親戚の大学生から初めてローマ字の手ほどきを受けた時,メートルだのリットルだのキロだのというものの記号がまさにローマ字なのだということを知って驚いた.われわれはすでに敵の文字を少しは知っていたではないか! 母が戦争中にわたくしに対して使う 「サンキュー」 その他の言葉はてっきり日本語だとばかり思っていたが,実は母が若い時東京のイギリス人女性牧師 (ホワイト先生と呼んでいた) の家で女中をしていた時覚えた英語なのだということを敗戦後間もなく打ち明けられた.さほどに敗戦前はわれわれは外国語とは隔離されていた.
 ホワイト先生という方は帰宅が遅れると,閉じられた鉄の門を飛び越えて入るほどの気丈な女性だが,常日頃日本人女性の 「弱さ」 を露骨に馬鹿にするので,悔しい思いをしたそうだ.ある時母が壁紙をきれいに張りかえると,それを見たホワイト先生はどこかでごそごそやっていたが,やがて母を呼んで,あまり上出来とはいえない壁紙の貼り具合を示しつつ,われわれ英国女性は家を作れと言われればそれさえ作ってしまうほどの強固な意志を持った国民なのだと自慢げに言ったという.

 敗戦後間もなく 『埼玉新聞 』 にもカタカナによる英会話の欄が設けられ,夢中でそれを覚えたものである.当時東松山は田舎の子供たちも不確かな発音で英語らしきものの情報を交換しあった (そのうちには 「グードバイ」 というのがあった) .わたくしは親戚の大学生からローマ字を教わり,たちまち覚え,彼にはローマ字で葉書を出したりした.かれはもう一つ,今思えば実にいい加減な発音だったが,発音記号 ( IPA の記号,すなわち International Phonetic Association (国際音声学協会) 制定の記号で,英語やフランス語でよく用いられるもの) を教えてくれたので,英語の辞典に記載された IPAによる表記はいい加減ながらも読めた.小学4年生の時だった.

 東京に戻ると,子供たちが人間の骨を探しに行こうとあちこち探してもそれが見つからないほど焼け跡の整理はなされていた.しかし父の話では隅田川にはおびただしい死体が浮かび,門前仲町から相生橋の間は死体を飛び越えてきたというのだった.ある日 弟は道で拾った銃弾らしいものを空き缶に入れて遊んでいたが,それを見た父は慌ててそれを取り上げ,外に出て行った.父が帰ってきて言うには,あの銃弾はいつ爆発しても不思議ではない状態だったとたいへんな興奮ぶりだった.
 町はしらみだらけだった.アメリカ人はだれかれとなく道行く人を捕まえては服の間から DDT を注入し,町中真っ白な人だらけだった.町は泥棒,強盗,殺人が日常茶飯事だった.事実わたくしたちの路地に住む若い娘は当時世間を騒がした殺人鬼により殺された.やがて食糧危機が訪れ,配給は止まり,まったく食べるものもなくなり,学校に行かずに一日中家にいることもあった.街は下品なアメリカ兵とそれにぶらさがって歩く日本娘と英語の表記に満ちていた.アメリカ人の全部がそういうわけではなかったが,乱暴で粗野な者が多かった.わたくしは後に中学校に行く途中,商船学校 (現在の東京商船大学) に陣取っていたアメリカ兵から 理由もなくビールの空き缶を投げつけられたことがある.ここの酒に酔ったアメリカ人によって 面白半分に隅田川に投げ込まれた少なからぬ日本人の話はよく聞いた.
 ある時酒臭いアメリカ兵が夜中にわたくしのうちにも入ってきたことがある.わたくしは英会話の本に基いてアメリカ兵と接してみたりもしたが,彼等のうちには,当時よく言われていたように,本当に名前も書けないような無学な者も結構いた.われわれは負けたといえども,文化水準は高いのだと自慢したものである.と思うと小学校の教室を借りて開いていた音楽教室のピアノの音に引かれて おとなしい感じのアメリカ兵数人 (彼らは皆洗濯物を入れた袋を肩に担いでいた) がその部屋に入ってきて,音楽の先生にピアノを弾いてくれとねだり,われわれも知っているフォスターの歌をいくつか歌ってから礼を言って帰っていったのを見たことがある.

 町のあちこちに英語塾というのが開かれていて盛況だった.わたくしも初日に覗いてみたが,民家の片隅の部屋にぎっしり詰まった人々の前で,満洲帰りの人が英語の効用を説き,黒板ならぬ壁に貼った模造紙に筆でローマ字を書いていた.小学校では担任の先生がローマ字を教えてくれたが,わたくしは基本的なことをすでに知っていたので,何の苦労もなかった.ヘボン式ローマ字を教わったわたくしは 先生の書いた訓令式ローマ字は現実の発音通りではないと,生意気にも抗議したりもしたが,先生はそんなわたくしをかわいがってくださった.母は近くの英語塾にわたくしを通わせたが,やさしすぎるクラスと難しすぎるクラスのどちらかしかなく,わたくしの英語の力はまるで伸びず,無学な母たちはこれをわたくしの怠惰のせいにしたが,わたくしにしてみれば,わたくしを取り巻く無知な環境がわたくしの力を発揮させてくれなかったのだとしか言いようがなかった.こうして英語とローマ字の区別もつかない両親のもとで,わたくしはローマ字以外の基本的な知識もないまま中学校へ進んだ.

 中央区立月島第三中学校には,今思えば,とても意欲的な若い先生が大勢いた.この先生たちは夜遅くまで自発的にしごとをしておられたと記憶している.校長はもと一高の教師をしておられた YH先生で,われわれは 「狸おやじ」 と呼んで,その退屈な長話にはうんざりだったが,しかしその校長自らがそのような立派な人材を集めたらしかった.図版でギリシャ建築の,今にして思えば,ずいぶん高度な説明をしてくださった芸大出身の図工のとても優しい OE先生,今にして思えばけっこう詳しい音楽の理論と音楽史を教えてくれた芸大出身の SN先生 (わたくしの進学した高校には図工,音楽の授業はなかったから,これがわたくしがそれを学ぶ最後の機会だった.絵を描くことの好きだったわたくしは OE先生にずいぶんかわいがられた),毎回日本の古典的な文学作品の内容を面白く解説してくださった東京教育大学出身の TH先生,国語の KH先生,社会の SK先生 (後に東大農学部教授),家庭科の美人の OY先生,英語の MS先生,数学の WM先生,それに代用教員として当時まだ東大と慶応大の学生だった先生もいた (この方々は大学卒業後日本銀行と講談社に就職されたが,そのうちの DS先生 (慶応大卒,英語) にはずいぶんお世話になった) .

 中学校では特に英語と国文法に熱中した.小学生の頃耳に聞こえてきた 「過去」 とか 「過去分詞」 とか 「進行形」 とかをはじめて具体的に知った喜びは計り知れなかった.なによりも楽しかったのは国文法の授業で,わたくしはこれにより初めて言語というものを分析することのすばらしさを知った.これほどの分析を加えられる身近な材料は言語をおいてはないように思われた.わたくしは熱中した余り教科書の著者である東京教育大学の佐伯梅友先生に葉書で質問をしたが,親切に回答してくださった筆書きのお葉書を国語の TH先生に見せたら,なんと佐伯先生は TH先生の恩師らしく,TH先生はあきれるやら驚くやらだったが,たいそう喜んでくださった.後に中学3年生の頃わたくし自身の 「方言」 や周りから聞こえてくる言葉,それに読んだ本の中で気づいた文法的な 「誤り」 を項目別に1冊のノートにして,TH先生にお見せしたが,中学生としてはよく調べたといえるが,これぐらいのことはすでに 中村通夫,『東京語の性格 』,川田書房,1948,247ページ という本に書かれていると言われた.後にわたくしはわれわれの教わったいわゆる橋本文法こそは日本語の深い分析を阻害するものであるという言語学研究会の考えを支持することになるが,それでもわたくしに言語の喜びを教えてくれた未然,連用,終止,連体,仮定,命令といった用言のパラディグマを教える教科は今の中学校にも高校にもないと聞く.

 中学入学の頃学校で印刷された全紙を貰い,それを折りたたんで切りそろえて作った国語教科書の中に 「世界をつなぐもの」 という題の文章があり,そこにはエスペラントを作ったザメンホフの話が載っていた (後にこの文章は日本エスペラント学会の故三宅史平氏 − 大学書林刊行の 『エスペラント小辞典1965年,519ページ その他の編著書 − の手になるものだということを知った) .また日本語の系統についての文章もあり,日本語と朝鮮語とがとても似ていることをこの時はじめて知った.さらに金田一京助の樺太アイヌ語を調査した時の文章もあり,わたくしはこの時載っていた樺太アイヌ語のいくつかのカタカナ書きの単語を今でも覚えている.この三つの文章はわたくしに決定的な影響を与えた.これらの文章はわたくしに世の中には日本語と英語のほかに多くの言語が存在することを教えてくれた.後にわたくしと同世代の言語学研究者の中にはわたくしと似た経験をした人がいることも知った.わたくしにとって外国,言語入門の新しい段階だった.

 英語以外の外国語といえば,敗戦後の銀座の交差点のバラック建ての本屋ではじめて露和辞典を見,築地の映画館で 「スポーツ・パレード」 なるソ連映画をはじめて見,RやNの左右逆向きの字やVの上下をひっくり返した字に興味を持ったが,そんなことを教えてくれる人は誰もいなかった.共産党の地区細胞の謄写版刷りの新聞に シベリア帰りの人が ロシア人が日本人に 「ボリシェ・ワイナー・ニェ・ナーダ・ア・ラボータ・ナーダ」 (もう戦争は必要ない.労働が必要だ) という言葉で見送ってくれたとあったのを記憶しているが,ずっと後にこれは文法的には間違いがあり,正しくは多分 「ボーリシェ・ヴァイヌイー・ニェ・ナーダ・ア・ラボートゥ・ナーダ Bol'she vojny ne nado, a rabotu nado.」 であろうことを知った.
 呉茂一著 『ホメーロス物語 』 という本はオデュッセイアとイーリアスを小学生向きに易しく書き直したとてもよい本で何度も読み返したが,この本はギリシャ語の固有名詞を徹底的に古典ギリシャ語式に表記してあり,わたくしはセイレーネー,アプロディテー,アテーナイ,テーバイ,スパルテー,トロイエー等と響きのよい音に酔いしれたものだが,そこに挿入されたギリシャの図版に表記されたギリシャ文字とカタカナ表記をつき合わせてなした文字の音価の推定が わたくしの言語学的分析第1号となった (しかしまことに恥ずかしいことにはその後ギリシャ語はものにならなかった.なおその後東京外大在学中ロシア語学科の ME君が出した手紙への呉先生の長文の返信を直接見,感無量だったが,呉先生の暖かい人柄を感じた).
 中学校の OM先生 (台北帝大出身) から台湾語の 「我是日本人 【ゴア・シ・ジップンラン】(わたくしは日本人です) 」 というのを教わったくらいがわたくしの英語以外の知識のすべてだった.わたくしは台湾語 (福建語) は後に大学院で王育徳先生から教わった.OM先生からは台湾人はとても教養があるという話を聞いた.
 ある日 英語の先生にロシア語がどういう言語か知りたいと言うと,そんな野蛮な言葉はよしなさいと言う.なぜ野蛮なのかと尋ねると,ロシア語など文字を見ただけで野蛮ではないかという答えしか返ってこなかった.わたくしはずっと後に 「野蛮な」 ロシア語に取り付かれ,今でもこの言語にはたいへんお世話になっている.この先生はエスペラントにも冷ややかで,わたくしはこの点でこの先生にはたいへんな不信感を抱いていた.

 はじめて OE先生には東京国立博物館に連れて行っていただき,さらに国立国会図書館 (当時は今の赤坂の迎賓館にあった) に行く興味を覚え,日曜日の度の図書館通いが習慣となった.殊に中央区立京橋図書館にはよく通った.ここで高橋竜雄,『世界文字学 』,日文館,1908,364ページ という本に出合い,夢中で世界のいろいろな文字をノートに写しまくった.また点字とか速記とかの本も好んで見た.朝鮮語関係の本もかたっぱしから借りまくったが,体系的な説明のあるものはなくて文字の読み方とて覚えられず,わずかに 25字 (母音字 があったので現行のものより1字多い) とそれにあてられた不正確なローマ字を覚えたに過ぎない.この時小倉進平の 『朝鮮語学史 』 も借りたが,この偉大な著書を理解するには中学生はまるで幼さすぎた.わたくしの住む月島には朝鮮人が多いようで,特に石川島重工業 (現石川島播磨重工業株式会社) という大工場があることから朝鮮人労働者がいるらしく,敗戦直後からしばしば電柱に貼られた朝鮮語のビラを目撃し,大いにその文字に関心をそそられたが,幾分かでもこういうことを知るためには高校入学を待たなければならなかった.

 子供というのはそれなりの見栄があって,自分が貧乏だと知っていてもそれを隠そうとした.わたくしは子供ながらにもクラスの中には貧しさ故によく欠席する子があることを知っていたし,また貧しい子の大部分は成績がよくなかった.とても注意深い先生は子供たちのそういう心理をよく心得ていたが,無神経な先生は例えば集金その他の仕事を生徒に代行させ,そのため心無い生徒が貧しい生徒の状況を皆にしゃべってしまい,その生徒たちが,わたくしをも含めて,傷つくということはしょっちゅうだった.食糧難の時とてもよい先生は今日何を食べたかという調査を一人一人の生徒に皆に聞かれないように小声で尋ねて行ったものだった.貧しさというものは子供にコンプレックスを植え付けやすい.さらに青山から来たという小学校のある先生はしきりにおまえたち下町のガラの悪い者どもという言葉を使ったが,この先生がなんと立川の都立朝鮮人小学校の校長になって赴任したから,この先生は問題を起こさなかったか知らんと,子供ながらにも考えたりした.

 われわれの町にはヤクザが多く,その弟とか子供とかの小ヤクザが学校にもいた.彼らは劣等生だが,影の大物で,優等生も彼等の前ではおびえていた.彼らは大体弱いものを選んでは仲間にし,学校をサボり,いじめたり物を奪ったり,悪いことをしていた.見て見ぬふりをする子供が大部分だが,わたくしは先生に知らせた.お陰でわたくしは彼らによく殴られた.かれらは卒業式が近づくと屋上に気に入らなかった子供たちを呼んでは,頭にシートをかぶせて誰がしたか分からないようにして殴り蹴った.彼らは影でこそこそやるような弱い連中だったが,さりとて概して成績のよい生徒たちも弱かった.われわれとよく遊んでくれた 近くの床屋で働く気のよい若者もそのようにしてヤクザの仲間入りをした.その床屋を立ち去ったヤクザは ある日 急にわたくしの前に現れ,床屋をチラッと見ては近況を尋ね,決しておれみたいになってはいけないぞと一言言って消えた.その若者はその後かたぎになったと誰かから聞いた.

 こんなわけでわたくしもいっぱしの正義感と貧乏人への共感を持って,中学校では学校新聞などを作っては,いわゆる出来る子とは対立し,ある時は校長らからも注意を受けた.しかしわたくしは貧しさというコンプレックスから結局解き放たれることはなかった.


エスペラントとの出合い

 京橋図書館での最大の成果は石黒修 『エスペラント ABCの読み方から 』,太陽堂,昭和6年(1931) という本との出合いだった.わたくしはその後高校生の頃カナモジカイの総会でたまたまこの本の著者 石黒修氏を見かけ,喜んで彼に駆けより,あなたの本のお陰でわたくしはエスペラントを学習したのだとエスペラントで告げると,意外にも氏は冷ややかな表情で 「ああそう.」 と言っただけだったことにたいそう失望した.さらに東京外大在学中 学園祭でエスペラント部の主催で石黒氏に講演を依頼したが − これは故 伊東三郎氏の推薦による − ,学生が一人も集まらず,結局部員と石黒氏,伊東氏の総計5名しかいなかったことを覚えている (部員の一人森田君はドイツ語科の学生,後に東大大学院に進み,名古屋大教授になったが,今でも熱心なエスペランチストで,日本エスペラント学会の幹部になったこともあるらしい) .伊東三郎氏によると,石黒氏はイード ( Ido.言語学者イェスペルセン Jespersen らが作ったエスペラントを模倣した人工語.エスペラントの 「孫」 という意味) が日本に入ってくるとそっちになびいたり,かなりゆれの激しい人だったと言う.いずれにせよ石黒氏の迫力のなさをよく記憶している.

 ともあれわたくしはその本のほとんどをノートに筆写して,暇に任せて繰り返しそれを眺めるうちに,いつの間にかエスペラントをかなり覚えてしまっている自分を発見した.国文法が単語あるいはいわゆる文節のレヴェルでの分析に目を開かせてくれるものだとしたら,エスペラントは英語とは異なり品詞の明確な表示とそれを組み合わせた文の構成に目を見開かせてくれるもので,わたくしにはまるでそれは論理そのもののように思えた (もっとも今でも洋の東西を問わずエスペランチストの多くはエスペラントの文法を 「論理」 と錯覚しているらしい) .学校での英語の授業では英文法の途中までしか進んでいなかった勘定だが,わたくしの 「文法」 についての認識は英語よりも先にエスペラントを通して行われており,後はエスペラント文法の知識を英語に応用するだけだった.

 わたくしのエスペラント気狂いぶりは,その頃出た 伊東三郎,『エスペラントの父ザメンホフ 』,岩波新書,1950年,236+5+3ページ を読むに到り,頂点に達した.戦後はもういないと思われたエスペランチストというのがこの世にまだいることを知り,思い切って日本エスペラント学会 ( Japana Esperanto-Instituto,略称 JEI ) を訪れた (当時は2階建ての木造家屋で,本郷にあった) .親切に応対してくださったのは学会の事務やら機関誌 “La Revuo Orienta” の編集やらをしておられた故三宅史平氏だった.氏はドーデの 『水車小屋便り 』 をフランス語からエスペラント訳している.エスペラントは本で覚えただけなので実際の発音が聞きたいと来訪の目的を告げると,氏は一冊のエスペラントの本を取り出し,ではあなたがこれを読んでみなさいと言われる.適当にアクセントを付けて読むと,その発音で充分なのですと言われる.こんなに嬉しいことはなかった.そして水曜日に Merkreda kunsido (水曜会とでも訳し得るか?) というのがあるから来ないかと誘ってくださった.それに出てみると,上品な紳士たちがエスペラントだけで会話をしている.しかもその会話が面白いことにかなりわたくしに分かるではないか? 中学2年生の少年が学校の先生以外に接した初めてのインテリたちだった.
 今にして思えば日本のエスペラント界の重鎮たちがそこにいた.常連の故 小坂狷二先生 (東大工学部卒,国鉄勤務,後に神奈川大学教授,鉄道工学専攻,日本エスペラント学会会長,1888年 (明治21年)生,1965年 (昭和40年) 没),医者の石黒彰彦氏夫妻 (夫人はエスペラントで話す時は決まってどもった) ,アメリカ人宝石商ブラット氏夫妻 (夫人は,文法を学ばずに自然に覚えたエスペラントとかで,そのエスペラントは文法的にはめちゃくちゃだった) 等々のほかに故 伊東三郎氏 (大阪外大フランス語卒,中央労働学院講師,元日本共産党中央委員,1902年 (明治35年)生 − 1969年 (昭和44年) 没),故 殷武巌氏 (ウン・ムアム,朝鮮人,かつてプロレタリア・エスペラント運動に参加,1927年 (昭和2年) 戦前デンマーク公使館勤務,戦後在日本朝鮮人連盟結成に参加,得意の英語力で GHQ (総司令部) との交渉にあたる.朝鮮語学会の初期の会員でもあり,その会報に彼の文章が載っている.1907年 (隆熙元年,明治40年) 生,1998年 (平成10年) 没)) 等々がおられた.
 多くの方々は英語,ドイツ語,フランス語が堪能であり,小坂先生はさらにロシア語もご存知だった (わたくしは小坂先生がロシア語になるザメンホフの 『エスペラント第一書 』,ワルシャワ,1887(明治20年) をお読みになるに際し означает/oznachaet を 「オズナチャーイェト」 と発音なさったのを記憶している).みんなエスペラント書きの手書きの原稿を持ち寄り,それを綴じて雑誌を作り,回覧していた.近松門左衛門の戯曲や詩のエスペラント訳などかなり高度のエスペラントで,その会にはいつも気品というものが漂っていた.わたくしは金田一京助の樺太アイヌ語についての文章をエスペラント訳したが,これは全面が真っ赤になるほど小坂先生の手で添削された.エスペラントは錚錚たる人々以外は必ずしも上手ではなかったが,エスペラント文法だけでなく一般に西洋語の文法については専門外であるにもかかわらずみなの造詣はかなり深かった.小坂先生などはご専門が鉄道工学であることなどおくびにも出されず,その文学,文化に至るまで広い知識と楽天的な理想主義でわれわれを魅了なさった.
 わたくしは,学識のあるエスペランチストとは違って英語しか知らないくせに英語が世界語だなどとぬかし,わが偉大なる小坂先生を小ばかにした英語教師が尊敬できず (しかも小坂先生が 「子音」 を 「しおん」 と発音したと言って.「しおん」 でどこが悪いんだ!),以後あまりに英語の勉強に熱が入らなくなった.英語の勉強をないがしろにしたわたくしを苦々しく思っていた母とは違って,父はわたくしの通う日本エスペラント学会の学会をキョーカイ ( = 教会) と勘違いし,邪教でないキリスト教なら大いに結構と,交通費や本代を母に内緒でわたくしに手渡してくれた.
 今日本のエスペランチストは当時とは違って自由に外国にも行き,エスペラントの能力もたいしたものだが,わたくしにはどうも当時のエスペランチストたちのナイーヴさも学識も,また理想主義のかけらも彼らに見ることは非常に難しいという気がしている.

 わたくしは最年少のエスペランチストとして特に小坂先生にかわいがっていただき,洗足の先生のお宅を何度も訪れ,先生のエスペラントの蔵書 (これは今日本エスペラント学会に所蔵されていると聞く) やタイプライターの打ちかけの原稿も見せていただいた.わたくしはエスペラント気狂いが高じてやがて中学校で一人でエスペラント展覧会をするまでになったが,この時も小坂先生は快く蔵書をお貸しくださり,わざわざわたくしの展覧会を見に来てくださった.また確か 1949年 (昭和24年) 12月の東京のザメンホフ祭では小坂先生がわたくしにエスペラントで挨拶するようにと仰ってくださった.わたくしはエスペラントでスイス,ドイツ,チェコスロヴァキアのエスペランチストと文通を始めた.この頃のわたくしは英語の読解も作文も難しいものとほとんどあきらめていたが,エスペラントならば貧弱な語彙を駆使してほとんど自由に即座に,自分でも面白いぐらいに,口をついて出た (ただし恐らくそのエスペラントなるものは細部では誤りの多いブロークンなものではなかったかと思う) .中央区の社会科や理科の合同研究発表会で 月島第三中学校代表で国際語についての発表もやった.
 京橋図書館にあったドレーゼン著,高木弘訳, 『世界語の歴史 』,日本エスペラント学会,昭和9年(1934),464ページ はわたくしのノートにしっかりと手写された (訳者の高木弘とは大島義夫氏のペンネームである) .わたくしは数年前にやっと古本屋でかつての愛読書を購入した.ドレーゼンはソヴェトを代表するエスペランチストで,1938年ごろ銃殺刑に処せられた.ソヴェト大百科初版の 「エスペラント」 の項目はドレーゼンの手になる.ドレーゼンはボリシェヴィキではなくエス・エルだったらしい.

 わたくしはエスペラント辞典 (『新撰エス和辞典 』,日本エスペラント学会,大正15年(1926); 『新撰和エス辞典 』,日本エスペラント学会,昭和10年(1935)) を編集した熱血漢 岡本好次氏 (東大言語学科卒,1956年 (昭和31年) 没),秋田雨雀氏らの姿をエスペラントの集会で垣間見たことがある.岡本好次氏を偲ぶ集会での小坂先生のお話を記憶している.ある集会でエスペラントを批難した有名な英語学者 岡倉吉三郎氏に 岡本氏が 「岡倉,待て!」 と叫んだこと,岡本氏は子どもを作らないでエスペラントに生涯を捧げようと決意したが,夫人は子どもがほしくて実はコンドームに孔をあけておいたことである.こうして生まれたご子息もエスペランチストになった.多羅尾一郎氏 (都立日本橋高校英語教師) のお宅には何度もお邪魔させていただいた.高校生の時 奈良で野島安太郎氏 (大阪学芸大学) にお会いしたことがある.

 わたくしは今までのエスペラントとの曖昧な関係を清算すべく,数年前に友人たちに非エスペランチスト宣言をしたが,エスペラントのわたくしに与えた影響は大きく,わたくしの社会言語学的関心の原点となっている.わたくしにとりエスペラントこそは英語帝国主義を排除する多文化主義の一環として位置付けられなければならないのである.


朝鮮語との出合い

 わたくしのエスペランチストとのつきあいはわたくしの高校入学とともにほとんど中断され,だんだんと疎遠にならざるを得なかった.
 わたくしは中学校の DS先生の勧めで講談社の入社試験を受けた.何次もの試験を経て最後の2人の段階まで達したが,そこで落ちた (定員はただの一人.もっとも 奇遇にも九段高校夜間部に入学してみると,わたくしのかわりに合格した人が同じ高校にいることを知った).そこで急遽大和證券という会社に入ることとなり,兜町というまるで別世界を知ることとなった.大和證券は日本の四大証券の一つで証券界では大会社だが,当時アメリカの占領軍によって進められた証券民主化から信用取引の復活等に現れるように早くも戦前の状態への復帰がなされ始めていた.そして折りしも起こった朝鮮戦争は,アメリカ占領軍の作った私的独占禁止法をも 頻繁な旧財閥の社名への復帰,工場ごとに細分化された旧財閥系の諸会社の復活によって変質させつつあった.まさに敗戦によって壊滅的な打撃を被った日本経済は朝鮮戦争での朝鮮人の苦しみを代償として立ち直りつつあった.

 エスペランチストとの接触は Merkreda kunsido に通えないためほとんど絶たれたが,依然として外国のエスペランチストとの文通は続き,エスペラントへの情熱は保たれたが,しかしわたくしの朝鮮語との出合いはそれを薄めさせることとなる.

 1951年 (昭和26年) 5月1日のメーデーは宮城前広場 (当時左翼はそれを 「人民広場」 と呼んでいた) での労働者と警官隊との衝突で始まった.この日法政大学の学生一人と高橋正夫という一人の青年が警官のピストルにより殺されたが,この高橋氏こそはわたくしの中学校の社会科の教師だった (その後退職) .高橋先生はとても正義感の強い先生で,マルクス主義経済学の正しさは実証済みである; 自分は戦時中学徒動員で工場に勤務していたが,その工場が給料も払わず,いろいろな点で不信の念を抱き,ある時仲間といっしょにサボタージュをしたら,憲兵隊がやってきて首謀者ということで自分が徹底的に調べられ,おまえのやったような行為がいわゆる 「赤」 のやり方そっくりだと聞かされ,それならその 「赤」 とは何だろうと好奇心を持ち,戦後それを一生懸命勉強した結果 「赤」 を信じるに到ったと語った.高橋正夫氏が死んだ時,そのポケットに日本民主青年団 (元の日本共産青年同盟,その後日本民主青年同盟.日本共産党の外郭的組織.略称:民青) への入団申込書が入っていたので,民青では正夫賞なるものを作っていた.
 戦後の政治的激変振りは子供の目から見てもはっきりと分かった.連日のようにどこかでストライキが起き,国鉄を含めて交通が一切ストップし,遠くまでしばしば徒歩で行かざるを得なかった.わたくしたちの住んでいた今の中央区月島の江東区よりの新佃島から芝あたりまでの距離なら何度も歩いた記憶がある.今までわれわれを騙していた日本軍国主義の悪者どもが逮捕され,18年間獄中で頑張った日本共産党の指導者が今日出てくると小学校の女教師が公然とわれわれに教えたりした.配給が途絶え,腹をすかせたわれわれも,林檎箱の上に立って日本の為政者を糾弾する軍服姿のままの男性やカーキ色の国民服姿の女性の演説などを聞いたものである.日本共産党の故野坂参三氏がわれわれのこの町の街頭で演説し,是非共産党に入党していただきたいと訴えると続々と若者が列を作る光景をわたくしも目撃したことがある.弟や妹たちは街頭での共産党の工作隊の教えた日本の政治を皮肉る替え歌を面白がって歌っていた.
 ここ労働者の町には連日のように赤旗の隊列と労働歌が氾濫した.隊列の先頭に立つのはいつも朝鮮人だった.子供の目からみても左翼色が強かった反面,朝鮮人を追放せよと公然と演説する右翼やヤクザもいた.戦前 『無産者新聞 』 を読んでいたらしい父は (わたくしはこのことを 家の壁紙の張替えの時 壁一面に張られたその新聞と 父が聞きに行ったという演説会についての話で知った) はじめ熱心な共産党支持者だったが,1949年 (昭和24年) 共産党の議会での大躍進に次ぐ武装闘争で共産党が 1952年 (昭和27年) 大衆の支持を失い,選挙で大敗北を喫した後,まるで政治には関心を失った.

 われわれの労働者の町には小学校のどのクラス (当時は組と言った) にも1,2名の朝鮮人がいるほど朝鮮人は多かった.姓名とも日本名なのでだれが朝鮮人か分からないものなのだが,不思議に誰かがそれをかぎつけ,そして何の理由もなしにただ朝鮮人だというだけでからかい,そしていじめた.わたくしはそれに加担こそしなかったが,しかしいじめをやめさせるという勇気も持ち合わせなかった.このことは常に,そして後までも心の重みとなって残ったが,後にわたくしだけでなく,わたくしの世代でそういう人がけっこういることを知った.ある時学校の先生に,図司君が最近学校に来ないが,様子を見に言ってきてくれと言われ,かれのうちを訪ねると,長屋の隣の人が,図司さんなら朝鮮に帰りましたよと言った.わたくしはその時かれが朝鮮人だということをはじめて知った.

 それにもかかわらずわたくしの朝鮮語への関心は純粋に語学上のものだった.中学校で教わったあの文章のお陰である.
 わたくしは高校生になってから神保町の本屋で買った朝鮮語の入門書 (戦前に日本人の著したもの.山本正誠,『朝鮮語研究 』,大阪屋号書店,1922年,305ページ) で少しずつ勉強していたが,疑問だらけだった.
 ちょうどその頃 Lee Eun, R. H. Blythによる英文の朝鮮語入門書 (Lee Eun and R. H. Blyth,“A First Book of Korean”,1-st ed., Tokyo, 1953, 114 pp; 2-nd ed., Tokyo, 1955, 120 pp.) が出,これによってもぼちぼち勉強を進めていたが,これはローマ字書きだから,朝鮮文字による綴りが分からなかった (なおこの Lee Eun とは本来なら朝鮮王朝の最後の純宗皇帝の次に王位を継ぐべき李 【り・ぎん.イ・ウン】殿下そのもので,伊藤博文によって日本に連れてこられた人である.夫人は梨本宮方子.R. H. Blyth は 京城帝大英文科の外国人教師,後に学習院大にいた) .李 殿下はわたくしの留学中,確か 1970年代初にやっと生前の念願がかない,意識不明のまま日本から飛行機でソウルに運ばれ,そこで亡くなり,葬儀がソウルで行われたのをソウルのニュース映画で見た.
 なおすでに Samuel E. Martin,“Korean in a Hurry ”, Charles E. Tuttle Company, Tokyo, 1954, 137 pp. が出ていた.当時のわたくしには知る由もなかったが,これは小柄ながらヨーロッパ人向きには実によく出来た本である.ここでは不思議なことに 'iss'e'io (います/あります), 'ebSe'io (いません/ありません), - -ss'e'io (・・・しました), - -Geiss'e'io (・・・します/するでしょう) を isse yo, pse yo, -sse yo, -kesse/-gesse yo と表記しているのである (原文にはハングルなし). わたくしは遂にこの発音を,1980年代初に江原道江陵の船橋荘を訪れた時その当主の夫人 (当時江東大学教授.服飾史専攻.ソウル出身) の口から聞いたから,ソウルにそういう形が間違いなくあったのである.
 折りしも区役所の出張所に在日本の朝鮮人に外国人登録証を持たせるという通告が日本文と朝鮮文で張り出されたが,わたくしはその朝鮮文を写し取ったものである.しかしまったく読むことは出来なかった.

 わたくしは 1951年 (昭和26年) メーデーの後の日曜日に 江東区枝川町にある東京都立第2朝鮮人小学校を訪れた.職員室には代用教員として十条の東京都立朝鮮人中高等学校の生徒が一人いただけだった.【朝鮮人学校は朝鮮人が自主的に作った学校だが,1948年 (昭和23年) 文部省は民族学校を認めないとの方針を通達し,東京の朝鮮人学校に閉鎖を命じた.そこで1950年 (昭和25年) 末頃から数年間それらを都立学校としたことがあり,日本人と朝鮮人の教員が教えたことがある.後にそれらはすべて学校法人朝鮮学園に移管された.】 メーデーで校長以下教員が皆逮捕されたのだという.わたくしはこの生徒から 日朝協会から日本人の書いた朝鮮語入門書が出ていると聞き,是非それを入手したいと言った.(わたくしは九州の折尾にある九州朝鮮人中高級学校の教師となったこの時の生徒とは後日会うこととなった.)
 わたくしはわたくしの手元にある二つの入門書を駆使して朝鮮文をでっち上げ,まだ見ぬ校長に宛てて葉書を出した.意外にも早く校長から朝鮮文の返事が来た.正直言ってわたくしの貧弱な語彙と文法では到底読めなかった.しかも終声字 (音節末の子音字) が bs のように二つもあるのがあるし,初声字 (音節の頭の子音字) も gg, bbのような見慣れないものがあった (そのかわり sg, sbのような文字がなかった).
 わたくしはこの葉書を持って再び枝川町を訪れ,道行く人を止めてこの葉書を読んでほしいと請うた.その人は自分は日本人だから,あそこへ行けと指示してくれた.行った先は十条の朝鮮人中高等学校の先生の家だった.その先生は葉書の内容を日本語訳してくれた後,あなたの本籍はどこですかと尋ねた.東京だと言うと,首をかしげて,ほら慶尚南道とか北道とかいうのがあるではないですかと言う. − おかしいな,わたくしの父は兵隊として満洲へ行く時に朝鮮を通過したことがあるだけだが (後に記録で知ったことだが,父は横浜港 − 大連港の経路で満洲に渡っているから,朝鮮を通過したことはなかった) . − あなたの朝鮮名は何ですか?  − いや菅野を朝鮮語でなんと読むかは知りません. − あなたのお母さんの姓は何ですか?  − 松本といったそうです.その先生はあきれたようにわたくしの顔をまじまじと見ていたが,やおらこう尋ねた. − ではあなたは日本人なのですか?  − 勿論そうです.だから朝鮮語が読めないのです.わたくしはこの時まで朝鮮人なら当然朝鮮語はみな読み書きできるものとばかり思い込んでいたが,この先生自身が 自分は日本敗戦のその日 父親に実はおまえは朝鮮人だと言われるまで,自分が朝鮮人だなどと考えたこともなく,それから発奮して朝鮮語を学習したのだということ,かつての自分のように朝鮮人の子供たちは母国語も知らず,朝鮮語を知っている世代は文字を知らない者が大部分であるということを話してくれた.

 3度目に枝川町を訪れた時,校長先生はあそこにいると言って教えられたのが枝川町の朝鮮人の集会所だった.そこには朝鮮人の男女がすしずめで,ムンムンした雰囲気が漂っており,一人の眼鏡をかけた学究肌の感じの朝鮮人が歯切れのよい早口の朝鮮語でまくし立てていた.後で知ったのだが,この集会は外国人登録証を持たせようという日本政府の方針に反対するためのものらしかった.集会が終ってからその人にわたくしの名前を告げると,上手な日本語でよく来ましたと言ってわたくしの手を握った.都立朝鮮人第2小学校の RT校長 (1921年 (大正10年) 生) だった.枝川町は長屋のような家の集合体のような感じのところで,各々の家というよりは大きな家のこの部屋は朝鮮人,あの部屋は日本人というように入り混じって住んでいた.校長と一緒にある部屋に行くと,白衣の老婆がずらっと朝鮮式に片足を立てて並んで座っていた.恐らくはこれがわたくしの目撃した最初の朝鮮ではなかったかと思う.校長は朝鮮語でかれらと会話を交わした.それから校長の部屋に行ったら,酒臭い朝鮮人青年が入ってきて若干の日本語を交えつつ朝鮮語でなにやら訴えている様子だった.校長は根気よく彼の話を聞いてから彼を帰した.インテリの少ない朝鮮人社会では何かといろいろの相談を全部自分のところに持ち込むのだと校長は語った.

 朝鮮語を勉強したいというわたくしの意思を伝えると,RT校長はたいそう喜び,それなら毎日曜日に家に来れば教えてやると言う.こんなわけで日曜日に自転車で枝川町に通うこととなった.RT先生の部屋にはエスペラントの入門書も置いてあった.朝鮮語の発音はかなり厳しく直された.わたくしはこの時初めて戦前と戦後 (これを朝鮮人の立場からは解放前と解放後ということも知った) とでは朝鮮語の正書法が変わったのだということ,わたくしの学んだ初声字と終声字が校長のそれと違うのは正にそのためだということを知った.RT先生は当時朝鮮人学校で使っていた教科書を数冊わたくしに下さったが,それは手書きのものを印刷したものであり,後で辞書で読んでみると方言丸出しであった.わたくしの記憶では 「たんぽぽ」 は標準語の MinDyrRei ミンドゥルレではなく Mi'ymDyrRei ミウムドゥルレとなっていたように思う.わたくしが大切に保存していた教科書は,引越しを繰り返しても,東京外大のわたくしの書架には確かにあったのだが,いつの間にか失われた.
 このように楽しい朝鮮語の個人レッスンが3回ほど続いた頃,母はいぶかしげにわたくしに一体どこに行くのかと問い詰めた.枝川町の朝鮮人部落だと言うと,あんな赤の巣窟には絶対に行ってはいけないと言う.
 こんなわけで朝鮮語のレッスンは中止され,わたくしは校長の学校で入手した謄写版刷りの 『朝鮮語入門 』,日朝協会,油印,1952年,190ページ で独学することとなった.この本こそは恐らく戦後日本人の著した最初の朝鮮語入門書ではなかろうかと思う.著者は十条の都立朝鮮人中高等学校の理科の教師 故 梶井陟氏である (氏はこの学校が学校法人朝鮮学園に移管されるや巣鴨の中学校に移り,さらに後に 1979年 (昭和54年) 富山大学人文学部に朝鮮語のコースが出来るとそこの教授に就任した).この入門書はそれまでわたくしの学んだどの朝鮮語入門書よりもよく出来ていた (勿論後で見れば不満のところは多々ある) .わたくしはこれのお陰でかなり朝鮮語がわかるようになったものと思う.わたくしは今でもこの入門書を保存している.


社会,そして左翼

 わたくしの学校都立九段高校 (旧東京市立第一中学) 第2部はすばらしい教師がいた.YH先生 (英語,東大言語学科卒,後都立工専教授,魚津短大教授,アイスキュロス専攻),故 NY先生 (漢文,東大中文卒,後にいくつかの高校の校長を勤める),故 KS先生 (国語,東京教育大学卒,岸田劉生の娘と結婚,白樺派の信奉者),故 OK先生 (社会,京大西洋史卒,退職して創元社へ),TT先生 (社会,東京教育大史学卒,アメリカ史専攻),ほかに印象に残った先生として非常勤の今村与志雄先生 (英語,東大中文卒,都立大学中文科勤務,安保闘争の時退職.安保闘争の時国会前のデモの隊列で偶然に先生と出会った.朝鮮の 『熱河日記 』 (朴趾源) の日本語訳 (平凡社刊),注釈あり) がおられた.体育の教師も後に日本体育大学の教授になった.

 YH先生にはずいぶんお世話になった.お宅にはよく酒を飲みに行った.お宅に行くと,先生は風呂敷包みをもって,君はここで待っていなさいと言って,どうやら質屋に行ったらしく,わたくしのところに手ぶらで戻り,それから酒屋に行った.今思うに,なんと失礼なことをしたことかと恥じ入り,悔やまれもする.先生は愚痴一つこぼされなかった.関門海峡を越えると九州を感じる; 実に八幡製鉄所の労働者あっての八幡であると感ずると言っておられた.先生こそが九州男児というのだろう.ずっと後でわたくしは福岡に2年間住むことになるが,先生のような九州男児にはとうとうお目にかかれなかった.先生は大連の工業系の学校に入るため,鉄道で朝鮮経由,鴨緑江を渡る時,日本の特高 (特別高等警察) に,君は例えばドストイェフスキーなどという不穏な本は持っていないだろうねと尋ねられたという.先生は東大では野球にばかり熱中した様子で,高津春繁先生が自分を卒業させてくれたと,高津先生を尊敬しておられた.アイスキュロスだけは読んだつもりで,アイスキュロスは実在の人物ではないという説もあるが,自分にはかれの実在が信じられると語った.

 夜間部だから生徒の年齢差は大きかったが,全体として経済的事情で夜間部に通っていた者がほとんどで,生徒たちは優秀な者が多かった.わたくしは皆の精神年齢の高さに圧倒された.教師の方はそのような生徒を相手にやぼなことを言う者はおらず,生徒がタバコを吸っても火事にならないように気をつけろと言うだけであり,校外ではわれわれはけっこう教師に酒をご馳走になった.HK校長は,疲れても学校にだけは来て,机で寝ていなさいというような人物だった.当時の高校の生徒と教師は今の大学 (国立,私立の別を問わず) の学生と教員よりもはるかに優秀だった.惜しいことに当時の生徒の大部分は大学に進学していないが,大学に来るべきでないような学生に満ちている今の大学とは雲泥の差だった.

 一方わたくしの職場である大和證券株式会社兜町営業部 − そしてこれが事実上わたくしにとってはじめて接する 「社会」 だったが − は資本主義の心臓部とは名ばかりで,実はまことに封建的,かつ俗物的だった.証券会社,すなわち株屋の用語はほとんど江戸時代の吉原の遊郭の術語そのものであり,株屋の従業員とはすなわち丁稚小僧上がりのことであり,証券市場,すなわち場 (ば) で働く者,すなわち場立 (ばだち) の仲間入りをしたわたくしは 毎日 閑な時に先輩たちのする卑猥な話に,ここは長くいるべきところではないと早々と心に決めた.上場銘柄のすべてとその屋号の記号 (後で知ったのだが,中国と日本はこの記号が発達していたが,朝鮮の商店には記号が本来なかった.わたくしの記憶では韓国では高度成長期 − 1970年代 − に会社は屋号のような記号を持つようになった) とか 書く時の記号 (似たものが中国にある) − これがわれわれの覚えるべき基本的なものであり,後は伝票の指示通りに動けばよいのである.手による数字の記号を相手側に見せれば売り,手前に向ければ買いであり,相手側と手を合わせれば売買成立である.われわれの仕事はこれだけのことで,売買が成立した後の膨大な仕事は別のところで行われるのである.われわれはロボットに徹すればよいわけであり,実際に証券界を動かしているのは大証券会社の東大その他の有力大学出身者である.このロボットたちは時折欲を張って伝票を操作して金をもうける者が出てくる.禁じられているこの行為のために配置換えになったり,首を切られたりする者は後を絶たず,事実われわれ子供が仕えるべきお兄さんたち (だいたい大会社では年上の場立と年少の場立のペアを組ませた) はしばしばこのようにして入れ替わった.仕事をちょっとでも間違えようものならたいへんな額の損失を会社に与えることになる.場立某の会社に与えたマイナスはいくら,プラスはいくら (プラスは要求されないが,会社のためにプラスを作る者もいた) というリストが廻ってくるのだが,わたくしは仕事の覚えは悪く,常にマイナスが溜まっており,それの穴埋めをしようとして更にマイナスを増大させた.先輩たちにはおまえは何もしなくてよいからそれ以上赤字を増やさなければよいと言われた.会社の人事課は頭のよい者を最先端の場所に据えるという方針のようだったが,わたくしは中学校の成績は少しよかったか知れないが,そのことと場立に要求される機敏さとは対応せず,人事課の決定は間違いだった (小証券会社では場立になることがたいへん名誉なことだった).
 わたくしは数年後場立を外され,兜町営業部の店頭で東京証券取引所から電話で入る株価を大声で繰り返しながら紙に記入する仕事に移された.そろばんも出来ず,何かにつけて鈍いわたくしには適当な仕事もなく,たいへんあきれられた存在だったし,わたくしもわたくしで積極的に仕事を覚えようともしなかった.わたくしは株屋にいながら株の恐ろしさをよく知っていたから (だいたい世間知らずの学校教師が退職時に貰う大金を株屋の外交員の口車に乗せられて株につぎ込んで焼けどを負っている姿をよく見たものである),わたくし自身は会社がほとんど強制的に買わせた株を数時間保有したことがあるだけであり (この株は形式上どこかに転売したから,わたくし自身は何もしていない),株に手を出したことは一度もなかった.

 高校1年生の少年は初めて見る 「社会」 におびえつつ,中学校の先生が説明してくれた 「社会」 の内容と基準に照らし合わせて,一人一人新たに接する大人たちを 「善」 と 「悪」 に分類していった.わたくしの分類表によれば概して大学出は 「善」 が多く,たたき上げの丁稚上がりはわたくしの住んでいた下町の下卑た雰囲気と共通のものがあった (よく何も知らない 「上品」 な人たちが さも分かったように下町の 「人情」 について語るが,その人情の世界に住む者にとっては人情の裏に耐えがたく厭なもの,汚いもの,下品なものがあるのである.ある日 佃島の高級マンションに住むジャーナリスト TS氏がテレビで 佃島の人たちは人情味があり,文化水準が高いと言っているのを聞いて,知らない人はこういうことを平気で言えるものだと思った.もっとも高度成長につれて下品だった人々が少し上品になった可能性はある.わたくしの知っている佃島の人々とは概して度量が狭く排他的だった) .いずれにせよ少年の頭には善と悪の二分法しかなかった.こういう中でもとてもまじめな人がおり,大学の夜学に通う人もいた.

 やがてわたくしの会社 − 学校という昼と夜との二つの異なる世界の使い分けは (わたくしにとって学校は厭な会社から唯一逃れ得る場だった),1950年 (昭和25年) 朝鮮戦争による好景気,それに伴う株価の暴騰,そして極端な仕事の量によって打ち破られた.
 1953年 (昭和28年) スターリンの死による株価の全面的な急落 − この時東京証券取引所はウィーンという不気味な騒音に包まれた − ,同年朝鮮戦争終結に伴う株価の鎮静化をわたくしは身を持って体験した (なおいわゆるスターリン暴落でさえ日共はスターリンの死によるものではないと嘘を言った).一日の株式出来高が1千万株を越えると手作業ではどうしても仕事が夜遅くまでかかった (なんと現今では一日の出来高が1億株を越えることさえあるが,すべてコンピューターで処理している.日本の経済がいかに肥大化したかが分かる) .朝家を出て,旅館に泊り込みで,土曜日の夜家に帰れるという生活が続いた.学校に行くどころではなかった.こうしてわたくしの欠席は続き,わたくしは勉強の遅れについて焦燥感に駆られた.会社の労働組合に訴えたこともあるが,ダラ幹どもは何もしてくれなかった.一度労働組合の大会で思い切って発言したら,会社の非常時になんということを言うのかとダラ幹と会社の幹部ともども激怒していたという話も聞いた.会社の社長に直訴状を出したこともあり (こういう大会社では社長というのは遠い存在で,そんなことをする者はいなかった),社長らが職場を視察に来たこともある.とうとう労働基準監督局に年少労働者を不当に長時間働かせていると訴えもした.役人が来た時だけわれわれを早く帰らせた.すべては何も変わらなかった.数多い証券会社の年少の従業員の中にはこうして高校に通うのをやめた者も少なくないのを目撃したわたくしは,明日はわが身かも知れないと思うといても立ってもいられなかった.

 同じ職場に S (都立九段高校) と T (都立両国高校) という友人がおり,われわれはよく3人で行動を共にしたから,三羽烏と言われた.Sは早熟な少年で,日本共産党にいかれていた.彼の友人 (都立九段高校) は日共党員で,九段高校細胞というのを作っているらしかった.わたくしは学校にいけない不満をいつも彼らと分かち合っていたが,わたくしもだんだんと彼等の主張に共鳴していった.Sがどこからかある証券会社の Mという人を知って連絡を取った.M氏は更に 他の証券会社の K氏その他の人々を集め,こうしてわれわれは兜町のある集会場でささやかな会を発足させた.「兜町職場を明るくする会」 の誕生である.M氏と K氏は明らかに日共党員であり,これが当時の日共の大衆活動の一環であることは明らかだった.M氏はシベリア帰りで,粗雑ではあるが,人なつこく,頼り甲斐がある感じだが,K氏はずっと知的な感じがした.いずれにせよ前近代的な兜町にあってこの会はいわばわれわれのオアシスだった.時折 M氏と K氏が口論となったが,ずっと後で知ったのだが,これは日共が国際派と書簡派とに分裂していた時の後遺症のようだった.わたくしはこの会の熱心なメンバーとなった.つまり朝鮮戦争がわたくしを左翼に仕立てたのである.

 1953年 (昭和28年) のメーデーにはわれわれ三羽烏は会社を休んで参加した.メーデーというものに加わったのは後にも先にもこれ一回きりである.翌 5月 2日 われわれ3人は別々に会社の車に乗せられて,本社の人事部長のところに連れて行かれ,尋問を受けた.休暇を使うのだから,どこに行こうとも自由ではないかと言うと,君らの主義というのはたいそう難しいそうだが,一つ分かりやすく教えてくれないかね,という穏やかな切り出し方だった.なんと答えたかは全く記憶がない.いずれにせよこのことは会社中に知れ渡り,われわれはだれからも敬遠された.わたくしは社会主義,経済,労働組合に関するいろいろな本を読み出したが,つけで買う本が同じ店頭の菅野という外交員 (父と同じ福島県の出身) のところに間違って配達され,かれがある時まじめな顔で,君は最近よくない本を読んでいるようだが,菅野姓の者にそういう者がいるのは耐えがたいとわたくしに忠告したものだった.

 こうしてわたくしは 1954年 (昭和29年) 九段高校に新たに出来た日本民主青年団 (略称:民青) 東京中部地区九段高校第2班 (第1班は昼間部) に参加し,同志松本の組織名を貰った.われわれは早速自治会やクラブ活動,学園祭その他の問題に大々的に取り組み,勢力を拡大した.Sがこちらに加わらなかったのは,多分かれが党の組織に属していたからだろう.間もなく彼は担任の教師の策動で高校にいられなくなり,都立新宿高校に転校していった (Sを転校に追いやったその 「反動」 教師は後に熱心に組合活動をするようになったと聞いた).
 ある時上からの指示で 「再軍備反対」 というビラを街路に貼ることとなり,夜の九段坂の石の壁に 「再」, 「軍」, 「備」, 「反」 までの文字を貼り付けた時,パトロール中の警官に襲われ,仲間一人が捕まった.早速国鉄飯田橋駅で日共の機関紙 『アカハタ 』 (現在の 『赤旗 』 の前身) を売っていた党員の山下さん (朝鮮人と結婚し,北朝鮮に渡った) に応援を頼んだが,直ちに近くの法政大学の学生自治会に援助を依頼した.すぐさま法学部の頼もしい学生が来て警察に掛け合ってくれたが,埒があかず,仲間の一人が自分の着ていたオーバーを警官に渡し,逮捕された者に渡してほしいと頼んだ.人のよさそうな年配の警官は確かに渡すと約束してくれた.翌日青柳という日共の区会議員 (後に日共中央委員) のところに頼みに行ったら,青柳氏の奥さんが麹町警察署からいとも簡単に仲間を連れだしてくれた.さほどに当時は知らない者どうしでもよく 「連帯」 したものだった.

 われわれはいろいろなことで教師と衝突した.今にして思えば生意気なわれわれの背後に当然日共の陰を嗅ぎ取っていたはずの教師が比較的われわれに寛大だったのは,時代の流ればかりともいえず,かれらの器の大きさを意味したのだと思う.われわれは今でも当時やりあった教師たちとの触れあいを持っている.
 われわれに下される民青中央の通達はかなりきつかった.まともにそれを実践しようとすると体がいくつあっても足りないほどだった.それでも生来単純ですぐ熱中するくせのある同志松本は 一生懸命それをこなそうと努力し,遂に班長になった.一回は班の決定に従って生徒会長をも務めた.とまれ同志松本は決定には常に忠実であろうとした.民青あるいは党指定の学習文献は非合法のものも含めてよく読んだ.文献は 『共産党宣言 』 に始まり,マルクス,エンゲルス,レーニン,スターリン,毛沢東に及んだが,ただしその読み方たるやまことに粗雑なもので 主として精神主義的であり,ひとかけらも理論性などなかった.時に上から指導にやってくる学習の工作員の理論的な質も決して高いものとは思えなかった.例えば北方四島はソ連の領土だという日共の見解に倣って,現在北方四島に住む人たちの意思を尊重するのが民族自決権の論理だなどとこじつけを弄する類の幼稚な論しか 民青中央も持ち合わせていなかった.故 山辺健太郎氏 (かつて日共中央委員) を飯田橋の読書会に呼んだことがあるが,その氏でさえ実践を重ねている共産党員 (例えば中国の艾思奇 [アイ・スーチ] ) の書いた哲学書なら読んでもよいが,そうでないものは信用できないというような,今から見れば無茶苦茶なことを言っていた.更に無茶苦茶なのはわざわざ読書会に来てくれた山辺氏に謝礼の必要なしと決議してしまう特に中国帰りの党員たちのそのデタラメぶりだった.
 全体にこういう雰囲気が横行していた.ひたすら上には忠実でなければならず,上は常に正しいという風に根から自らを鍛えなおしたのだと思う.一度地区委員の一人がどういう理由か知らないが一方的に解任され,機関紙でその委員に対する総攻撃が浴びせられると,今までその委員と親しかった者まで手のひらを返したように批難声明を出すというように 常に中央に忠実なものだった.現実もさほどに厳しかった.それに若者にありがちな一定の優越感と,そして幾分かの危険なスリルを楽しむ気持ちも手伝っていたと思う.全般に同志間で 「当局」 に関して猜疑心が強くなっていた.有楽町にある民青本部に行くと,うっかりその書類はその引き出しにあるはずだと言おうものなら,当局のスパイと疑られかねなかった.
 実際に世間ではレッド・パージの嵐が吹き荒れており,わたくしのような者にまで警察の目は及んだ.ある時学校から帰宅する途中大手町の暗がりで警官の尋問に合い,根掘り葉掘り尋ねられ,更に党の非合法出版物の入ったポケットをさぐられた.そして母が PTA から帰ってくるなり不愉快そうに怒鳴ったのは,警察から学校側に退校処分を要求した者のリストにわたくしの名前が入っているからだった.
 会社の故 H人事課長から呼び出しがあり,警察がわたくしの名前を示して首にしろと言ってきたが,自分が握りつぶすから気をつけろと言ってくれた.H氏は植村正久を信奉するクリスチャンだが,氏の家にも呼ばれたり,長い間付き合いをさせていただいた.わたくしが大学に入った時,お祝いに文世栄の 『修正増補朝鮮語辞典 』 の日本製影印本 永昌書館,ソウル,1940年; 在日本朝鮮人聯盟中央総本部,東京,1946,1854+26+22ページ を買うための四千円をくれたのも H氏だった.なおこの辞典は韓国ではあまり知られていないが,日本では在日本朝鮮人連盟が戦後これを影印したので,朝鮮人学校で利用され,大いに影響を与えた.この辞典の由来については韓国でも論議を呼んでいる.
 今にして思えばあの時首になったらどれほど生活に困っただろう.それを助けてくれた方々にはなんとも御礼のしようもない.

 当時のことは,石原という医師が作ったという日本語の五十音図をいわばローマ字のように横並びにした改良音節文字で 多くの暗号とともに 日記その他に記した.当局の厳しい監視の目を逃れて やたらに緊張して行動したこと以外は記憶がない.このような無理がいつまでも続くはずがなく,やがて脱落者が仲間から出始めた.それでも脱落の原因はあくまでも自分にあるのだと信じきっていたのが 当時の一般的傾向だった.脱落はまず病気になった者から始まった.Sは結核にかかり,遅れて高校を卒業したはずである.病気から回復した Sは太宰治の愛読者に変質し,根本的にマルクス主義に疑いを持つまでになっていた.その時 Sにわれわれは変質者のレッテルを貼り,さらにはスパイの疑いさえかけた.同じ班の Yはとうとう高校を中退していった.理由は しかとは言わなかったが,もともと読書好きでいろいろの哲学書をも読んでいた彼は 当時の粗雑なマルクス主義などで満足できるはずもなかっただろう.Mはやはり結核にかかり,結核病棟での思索の末 隊列から離れた.彼は運動の悪口を決して言わなかったが,当然さまざまな批判を持っていただろう.このような例が明日の我々自身であろうことを悟るには われわれはあまりに幼稚でありすぎた.

 一方兜町では風雲急を告げていた.1954年 (昭和29年) 大阪証券取引所の従業員が明治以来の旧弊に楔を打つべく ひそかに労働組合を結成したのに続き,その波は東京,札幌というように全国に波及し,大中証券会社に軒並み労働組合が出来,さらには東京証券取引所でストライキをやるまでになった.卑猥な言葉を吐いていた職員がいまや真剣な顔つきで鉢巻姿でピケを張る姿は感動的だった.東京証券取引所のストライキの日、通常より早く出勤するようにとの本社からの通達は わたくしにだけは伏された.このような事態を受けてわたくしは新たに民青 兜町班を作るべく,他の班から移籍した数人でそれを構成した.むしろわたくしは正直言えば,班を替える事でほっとしたかったかも知れなかった.前近代的な雰囲気と警察の厳しさは 活動を一層困難にした.兜町の街の電柱にビラを貼ることさえ困難だった.更に同じ団員にしても 純粋な高校生とは違って社会人はいろいろと複雑で,ある面では自分の悩みをすぐ出すなど率直だった.当時は歌声運動というものが盛んで,われわれも会社から疑いの目で見られながらも ロシアや中国の歌などを歌うサークルを作ったりした.三井三池炭鉱を首になったという いかにも労働者然とした人力車夫が本社にいて われわれに加わったが (小学校しか出ていないという彼のポケットにはマルクスの 『資本論 』 がいつも忍ばせてあった),その彼も予告なしに消えた.

 夜間部の高校は昼間部とは違って4年制だが,なんとか出席日数をごまかしてやるから進級しろという OK先生のありがたいお言葉に逆らって わたくしは自発的に 「落第」 した.OK先生の言葉通りに 1年違うとクラスの雰囲気も質も雲泥の差だった.もとのクラスとは違って まるで面白い人間がおらず,わたくしは退屈もし,後悔もした.今も同窓会は前のクラスのものにだけ出ることにしている.

 わたくしの落第以前の高校には団員,非団員問わず,すばらしい人々がいた.
 佐藤文夫氏 (法政大学卒,元岩崎美術社 代表取締役,詩人,著書 『詩と民謡と和太鼓と 』,筑波書房,2001,230ページ),SG氏 (東京教育大学卒,元県立栃木高校教師),故 堀田弘司氏 (著名な登山家.著書『山への挑戦 登山用具は語る 』,岩波書店,1990,220ページ),YK氏 (九段高校中退,元遠山記念館勤務),IY氏 (早稲田大学卒業,元岩波書店取締役) その他,堀田君と一緒に図書館で受験勉強もし,酒も飲み歩いたが,彼は 2001年登山中 不測の事態で亡くなった.OK2氏は文学青年,千葉大工学部卒,父親の大工の仕事を引き継ぎ,御茶ノ水職業訓練所の諸先生を知っており,朝鮮の木工家具に関心を持っているので,一度韓国の両班 (ヤンバン) の家々を一緒に見学に行こうといっていたのに,2001年 病で亡くなった.
 さらに1年上には金海秀男氏 (朝鮮名:金秉斗【キム・ビョンドゥ】) がいた.氏はたいへん文学好きの秀才で,東大入学を目指していたが,結核を患って断念,後に在日本朝鮮人総連合会 (略称:総連) 系の朝鮮時報社記者,南北赤十字会談では北朝鮮代表団に随行して平壌経由でソウルに行ったが,その後総連から退いた.わたくしの記憶では彼は高校在学中 朝鮮戦争終了後 1953年 (昭和28年) アメリカのスパイの烙印を押されて殺された朴憲永 (パク・ホニョン) のことで金日成を批判していた.わたくしは 1995年 (平成7年) 彼との再会を果たしたが,彼は北朝鮮の現政権は嫌いだが,さりとて韓国支持でもないから国籍は変更しないと言っていた.今は朝鮮籍を韓国籍に替えることが流行りだが,自分は一宿一飯の恩義もあるからそうはしないとも言っていた.もっとも彼は総連での生活で判断したであろう,言語学をやる者の政治的判断の極度の低さ故に,わたくしに向かっておまえは言語をやる者の中ではましな方だというようなことを言うので,正直言って彼にはあまり好感は持てなかった.
 下級生には MM君というとても誠意のある,立派な人がいたが,惜しくも病気になり,中退した (現在は小さな企業の社長) .また HH氏も中退したが,高校での資格を取ったと聞いた.労働組合の仕事をしていた.
 3年下には ST氏 (東京外大ヒンディー科卒,拓大教授) がいた.皆すばらしい人たちだった.
 はっきり言って,わたくしはその後大学や大学院での学生時代と大学での教員生活を通じて彼らのような人間的にすばらしい人にはとうとう一人も会えなかった.わたくしは九段高校を中退した人々に対しては,がむしゃらに民青の活動をすることによって彼らを中退に追いこんだ理由の一端をわたくし自身が担っているのではないかという罪悪感が いつも付きまとっていた.
 ある同窓会の席上 YH先生は 「おまえたちのようなクラスを作ろうとしたら,日本がもう一度戦争でもして負けなければだめかも知れない.」 と仰ったことがある.また NY先生は 「しかしおまえたちのような暖かい者の世代がだらしない世代とも言える.次の世代の教育がなっていないからだ.」 とも仰った.それぞれたいへん含蓄のある言葉だと思う.

 落第した後のクラスには,後楽園部落 (実はここには上級生の金海秀男氏が住んでいた) へのカンパを九段高校第2部で行った時,集まった金額を見て 「なんだ,たったこれだけか?」 と叫んだ不届きな Uもいた.Uは後に社会党の T市会議員となったが,いかにも政治家然とした凡庸な人間だった.単なる点取り虫でしかなかった I は H大学進学後左翼でもないくせに学生運動をし,後に某大新聞社に入社,特派員生活もし,その新聞社の幹部として病死した.その新聞社にはたまたまその後知り合う機会を得た人が数人いたが,あんな風にしてまで出世したくはないものだと皆で話したのだそうだ.いずれにせよわれわれのすばらしい同志らとは比ぶべくもなかった.

 こうして夜間部に5年間いたわたくしは昼間部に進んだ人に遅れること2年,1955年 (昭和30年) 高校を卒業した.

 そしていつの頃か分からないのだが,わたくしは民青をやめた.ただし自分は民青についていく自信がないからという,あくまで問題が自分にだけあるとした上でのことだった.当時はどうせ学生など青白きインテリはチャランポラン階層であり,魂がなっていないからついていけないのさという言われ方もしたものである.もっともわたくしは今でも インテリのチャランポラン性については当たっているのではないかとは思っている.実はこのことが後々まで尾を引いた.本来ならば すでに民青をやめた人々をも含めてこうならざるを得ない原因を徹底的に追求しなければならなかったはずである.民青の上から下まで,いや実は日共の上から下に至るまで,きちんとそれを点検することを怠っていたのである.というより そういうことが分かるような繊細な人は組織にはいなかったと言ってよいかも知れない.組織というものは所詮は,日共,反日共を問わず,非人間的なものだったのだろう.

 原因が自分にだけあるという発想は いたずらに自己を悶々とさせるだけである.いずれにしてもはっきりしていることは 到底元通りにがむしゃらに動き回る気がまるで起こらないことだった.どのあたりが正直な自分なのかを 見つめなおすしかなかった.わたくしは手当たり次第に文学作品を読んだ.恥ずかしいことながら 小林多喜二の全集だとか,当時お決まりのオストロフスキーの 『鋼鉄はいかに鍛えられたか 』 とかゴーリキーの 『 』 の類しか読んだことのない歪んだ傾向のわたくしに KK先生は洗脳よろしくご自分の傾倒していた武者小路実篤のものを貸してくださったので,それは全部読んだが,この派の甘っちょろさには到底共鳴することは出来ず,わたくしは実は武者小路をたいそう馬鹿にすることになった.当時 病床に伏すと太宰治を読むことが一種の流行となっており,そうやって太宰に取りこまれた人の中には太宰を禁書にするべきだという者までいたので,わたくしは意図的に太宰は読まなかった.ただただ怖かっただけで,太宰を読む勇気さえなかった.

 何もかも自信を失い,ただ目的のない毎日を送っていた.YH先生は東大を受験しろと仰ってくださったが,そんなことはまるで考えられなくなっていた.夜間部からも東大,一橋大,東京教育大など合格する者がまだ出る時代だったが,わたくしは何につけ自信を失っていた.日曜日など自転車に乗って江戸川あたりまで行き,誰もいないところでワーッと怒鳴って憂さを晴らしたりもした.Sには手紙を出して,かれをスパイ扱いにしたことの非を心からわびた.かれはわざわざわたくしのうちまで訪ねてき,喜んでくれた.彼との友情は旧に復した.

 わたくしにとって一番ショックだったのは 1956年 (昭和31年) ソ連共産党第20回大会でのフルシチョフによるスターリン批判だった.マスコミにこれが報道された時わが目を疑って 『アカハタ 』 に載ったフルシチョフ報告の全文をむさぼり読んだ.そしてこれに続く日本共産党第6回全国協議会 (いわゆる六全協) 決定が加わった.信仰そのものと言えた今までの伝説とタブーが 音を立てて崩れていくのを感じた.もはや全国学生自治会連合会 (全学連) の委員長のなり手さえ現れず,新聞の報道によっても運動の悩みによる自殺者が特に大学生の間で続出した.これに対して日共の指導者たちはまるでなすすべを知らぬようだった.日本共産党は自己の独自の見解を出すことなく 中国共産党の 『人民日報 』 の論説を紹介するばかりだった.われわれがあれほど信頼していて,涙まで流して死を哀悼したことのあるスターリンが先例のない殺人鬼だったことを知って 心から憎むに至るには,多くの共産主義者たち同様,まだまだ時間を要した.
 わたくしが今でもスターリン,ベリヤ,ジェルジンスキー,毛沢東,金日成,金正日等々 殺人鬼たちを腹の底から憎み,かつ彼らは人類の名において処刑するべきだったし,これからも処刑するべきだと信ずるのは,最も人間的だと言っていた社会主義それ自体への裏切りであるとの単純な判断によるものだが,同時にそういうものに取り込まれたことのある 自分自身に対する一種の報復でもあろう.いまや左翼の世界でも,政治的駆け引きとずるさに満ちた資本主義世界同様,いやに物分りのよい論調が流行りだが,われわれが単純だった頃の純粋さのひとかけらもないファッションとしての旧左翼や それの延長としての現代 「左翼」 − 依然としてこういう連中がしたり顔して はびこっている − は,日共,反日共を問わず,根本から信じ得ない.

 ソ連をめぐる情勢はますます悪化し,その後間もなくポーランドのポズナニで暴動が起きた.こういうことはわたくしにとってひとごとではなく,極力その手の集会に行ってみた.明治大学の集会に呼ばれた堀江邑一氏は社会主義社会では反ソ暴動など起きるはずはないなどと この期に及んでもたわごとを繰り返していたが,次に登壇した山辺健太郎氏はわが方にも御用学者はいるもので,それはまさしく堀江邑一君であると前置きしてから,見事にソ連の問題点を暴いた.日共はどうやらソ連批判を通じて後に中国に傾斜し,そしてさらには中国共産党との不和に至り,反日共は逆に中国寄りになってみたり,日本の与党よろしく主体性のない日本の左翼も,日共,反日共の別なく,ソ連と中国の間を揺れ動くという実に愚かな行動を繰り返したが (その中には金日成になどいかれる者まで出る体たらくである),とりもなおさず国際性の乏しい日本人全体が試練に立たされていたのかも知れないし,実は今もその継続なのだとも言える.


さらに言語の深みへ

 わたくしは高校生だった5年間に閑を見ては朝鮮語を勉強していた.出版されたものはすべて買って目を通したが,たいした数ではなかった.わたくしにとって絶対的に必要なのは朝日辞典だったが,そういうものはなく,古本屋に出た Yu Hyong-Ki,“New Life Korean-English Dictionary ”, Seoul, 1947; (American Edition) , Washington,1952 を利用するしかなかった.朝鮮総督府の 『朝鮮語辞典 』, 1955年,東京影印,朝鮮語研究会,3+4+15+17+983ページ が市場に出回っていたが,それは古い正書法で書かれているだけでなく,語彙が貧弱でほとんど使い物にならなかった.そんなわけでわたくしの朝鮮語はありあわせの入門書の単語を全部覚え,それを駆使するという域を出ることは出来ず,時折お会いした RT先生からは 「菅野ドンム (トンム DongMu は朝鮮語で 「友達」 を意味し,北朝鮮では 「同志」 あるいは 「・・・さん」 の意味で使われる) はいつまでも朝鮮語が上手にならないね.」 といわれたが,これは致し方なかった.

 宋枝学,梶井陟, 『新しい朝鮮語の学習 』,学友書房,1954年,378ページ; 宋枝学, 『基礎朝鮮語 』,大学書林,1957,165ページ; 宋枝学, 『朝鮮語小辞典 』,大学書林,昭和35年 (1960),400ページ の著者 宋枝学 (ソン・ジハク) 氏と梶井陟氏を十条の東京朝鮮人中高等学校に訪ねたことがある.梶井氏とは後にも会うこととなる.わたくしはこの時 宋枝学氏を真の言語学者ではないと感じた.氏は北朝鮮の書物を多く日本語訳した.氏は 1960年 (昭和35年) 頃いわゆる帰国船で帰国運動 (韓国では 「北送」 と呼ぶ) の初期に北朝鮮に行ったが,やがて消息不明となった.ずっと後にわたくしは韓国で彼は北朝鮮で処刑されたらしいと聞いた.ハワイ大学の姜希雄 (カン・ヒウン) 教授 (高麗史専攻.慶尚南道出身) から聞いた話だが,どうも彼は姜教授とは小学校で同級だったらしいという.

 柿の木坂にあるエスペランチストの殷武巌氏の家にも遊びに行ったことがある.氏は在日本朝鮮人連盟 (略称:朝連) の外交部次長でいたこと,当時文世栄 (ムン・セヨン) の 『朝鮮語辞典 』 の影印本の刊行,アリラン,トラジ等朝鮮民謡のレコードの製作等にも氏がかかわりを持ったらしかった (なおレコード盤には rekordo とエスペラントで書かれていたが,これは disko とするべきだと言っていたことを覚えている) .わたくしは朝鮮語で殷武巌氏に葉書を送ったが,それは写真入りで 『解放新聞 』 (在日本朝鮮民主統一戦線 (略称:民戦) − マッカーサーによって解散を命じられた朝連の後身 − 機関紙) の 「 'irBon SoNien'i 'uRi MarRo PienJi (日本少年が朝鮮語で手紙)」 という表題で紹介されたことがある.この後 殷武巌氏とは何かの機会のたびに出会うこととなる.なお殷武巌氏の朝連時代の外交部長は趙承福 (チョ・スンボク) 氏で,氏は満洲国間島省 (現吉林省) 延吉 (当時 局子街と言ったらしい) 出身,満洲国留学生として来日 (東大に在学,言語学科に知人がいる),戦後朝連解散後にアメリカ,フランスを経てスウェーデンに渡り,カールグレン (Karlgren.有名な中国語学者) にかわいがられ,そこの大学で日本語を教えたという.夫人はフランス人である.語学の達人で,ヨーロッパの多くの言語を解する.ただし朝鮮語は案外下手で,日本語の方が上手と思われる.河野六郎先生も彼を知っておられた.わたくしも会ったことがある.ヨーロッパ人朝鮮研究者たちは彼を何故か嫌っていた.彼の分厚い著書 Seung-Bog Cho,“A Phonological Study of Korean. With a Historical Analysis ”, Upsla, 1967, 418 pp. を読んでみたが,駄作であり,彼は学者としてはたいしたことはないと思う.

 国鉄飯田橋駅で 『アカハタ 』 売りをしていた山下さんが咸鏡道出身の朝鮮人男性と結婚することになり,結婚式でわたくしは覚えたての朝鮮語で挨拶したら,大好評だった.わたくしは彼等の家にも遊びに行き, 「トンチャン」 でもてなされた.結婚式では北朝鮮の 「愛国歌」 が歌われた.この時の荘厳な曲調が忘れられない.特に 「 ...CanRanHan MunHwaRo JaRaNan ....チャルランハン・ムンファロ・チャラナン... (燦爛たる文化もて育ちし...) 」 という朗々たる部分に酔いしれた.出席していた威厳ある朝鮮人たちは誰もが新国家建設の夢に燃えているようであり,魅力溢れる雰囲気だった.山下さんはご主人と共にいわゆる帰国船で新潟を発ち,それ以後一切音沙汰がない.

 多分高校を卒業した年 (1955年 (昭和30年)) と思うが,在日本朝鮮人民主愛国青年同盟 (略称:民愛青) 主催の朝鮮語講習会があり,わたくしは唯一の日本人として参加した.当時北朝鮮系の朝鮮人はとても鷹揚で,われわれ日本人が朝鮮語の本を買うにしてもとても親切だった.やがてこれは 1960年代の北朝鮮での 「主体思想」 運動の強化と共に様変わりし,極度の閉鎖性に座を譲る.学友書房 (当時国鉄飯田橋駅の西側にあった) に本を買いに行くと,どこの支部かと尋ねられ,日本人だと言うと,やがて売ってくれなくなった.
 講習会の講師は故 朴正文 (パク・チョンムン) 氏 (済州島出身,朝鮮語学専攻,朝鮮大学教員) で,氏はとても真面目だが,その朝鮮語音声学の講義は難しすぎ,わたくし以外はだれも分からなかったと思われる.この後 朴正文氏とはその死まで断続的につながりを持つことになる.いずれにせよ語学の勉強にはならなかった.
 ここに参加したのは普通の在日朝鮮人の青年たちで,特別に左翼色はなかった.つまり彼等の社会では朝鮮語を教える組織といえば,すべて北朝鮮支持のものばかりであり,特に女性は結婚前に母国語を覚える必要があるので,こういうものに参加するのだった.われわれはここで 「金日成将軍の歌」 を教わった.またこの時教わった 「襄陽八景歌」 という新民謡は今でも覚えているが,後にわたくしが江原道の襄陽 (日本海寄り) に行った時,地もとの人にこの歌を知っているかと尋ねると,そんな歌があったっけと,朝鮮戦争以前の北朝鮮統治下の時の記憶を探り出していた.

 朝鮮戦争の最中 朝鮮エスペラント運動の先駆者 石宙明 (ソク・チュミョン) 氏がなくなったとの報が入り,日本エスペラント学会でみんなで黙祷を捧げた.ずっと後にわたくしは石宙明氏が優れた済州島研究者だということを知り,ソウルの古本屋で何冊かその著書を買った.日本の古本屋で買った韓国文のエスペラント入門の小冊子についていたのはまぎれもない石宙明氏の署名だと思うが,ある日本人エスペランチストに貸したきり,返ってこない.なお石宙明氏は殺されたのだと言う.なお韓国服飾史研究者 石宙善 (ソク・チュソン) 氏 (女性,檀国大学教授だった) は石宙明氏とはきょうだいの間である.

 エスペラントで知り合った野村という東大の学生に会いに 東大の駒場を訪ねたことがある.その時紹介してくれたのが宮島達夫氏 (後に国立国語研究所員,大阪府立大教授) だった.彼らは元気いっぱいの意欲的な青年で,東大エスペラント会のほかに東大ローマ字会というのも作っているらしかった.戦後アメリカの庇護の下に行われたローマ字教育で,特に分かち書きについて東大方式というものが田丸方式に替わりつつあったが,東大方式は彼らが中心になって作ったものらしかった.彼らは 「国語」 を専攻するつもりだと言ったが,次に本郷での五月祭で会った時には国文科にいた.時枝誠記氏 (東大文学部国文科教授) とはどうやらこの後衝突して破門されるらしいのである.更にその次に彼らに会うのは言語学研究会においてであった.

 わたくしはカナモジカイの会員となり (当時カナモジカイの事務所は東洋文庫の近くにあった.山下芳太郎,『国字改良論 』,カナモジカイ,大正9年(1920),88ページ; マツサカ タダノリ, 『カナヅカイの理論 』,カナモジカイ,昭和22年 (1947),115ページ; マツサカ タダノリ,『ワカチガキノ ケンキュゥ 』,シロガネ社,昭和18年 (1943),175ページ; マツサカ タダノリ,『カナモジ ヒッキタイ キホン ジタイ ノ マキ 』,カナモジカイ [刊年未詳;ページ付けなし] ),その会合にも出席したことがあるが,カナモジカイは選挙で下村海南氏を推すといったように保守色が強く,会合にも資本家が多かった.伊藤忠兵衛を代表とするところの 機械化に熱心だった進歩的資本家の団体という感じだった.下村氏は元台湾総督府の役人.氏が台湾の打狗 (タカウ) という地名を分かりやすく高雄と変えたが,これは今でも台湾人に受け入れられているという言葉は間違いだとは当時のわたくしにもすぐ分かった.中国音の漢字を日本音の,しかも訓読みの漢字に変えることが台湾人にとって何の意味もあるはずがなく,台湾人は日本人の改名した地名を中国音で読んでいるだけなのである.
 わたくしは程なくカナモジカイには見切りをつけ,野村,宮島両氏の説得もあり,ローマ字に傾斜していき,日本ローマ字会の会員になった (田丸卓郎,『ローマ字国字論 』,ローマ字教育会,大正3年 (1914),405ページ; 日本ローマ字会,『ローマ字教育講座 上巻 』,星書房,昭和22年 (1947),122ページ) .日記をローマ字でつけたりもしたが,やがてこの経験からも 日本語のローマ字書きに根本から疑問を持つに至った.
 わたくしは現在 カナモジ論も ローマ字論も支持せず,コンピューターの出現をもってそれらは基盤を完全に失ったものと思っている.
 わたくしはたいへん恥ずかしいことだが,イェスペルセンばりの言語進化論に基づく タカクラ・テル (『ニッポン語 』,世界画報社,昭和22年 (1947年),180ページ; 『新ニッポン語 』,理論社,1952年,206ページ),クロタキ・チカラ (『進むニッポン語 − 新しいコトバと文章の科学 』,大学書林,昭和24年 (1949),180ページ),大島義夫氏 (エスペランチスト,戦前プロレタリア・エスペラント運動に従事.高木弘は彼のペンネームだった.わたくしはずっと後に言語学研究会の人たちにくっついてその自宅を訪れたことがあるが,その時はもうすっかりエネルギーを使い果たした後のようだった) らの s.n.r. (新日本ローマ字.スヌル) 運動なる単純なものに 当時はいかれていた.また彼等の表記 (棒引きかなづかいに似たもの) で書いたりもした.これもずっと後で知ったことだが,彼等のローマ字に大文字がないのは,1920年代のソ連で作られた少数民族のためのローマ字に大文字がないのを真似したものらしい.何でも単純でありさえすれば 「弁証法的」 だという無茶な論である.

 岩波全書の 時枝誠記, 『日本文法 口語篇 』,岩波書店,1950年,291+13ページ; 『日本文法 文語篇 』,岩波書店,1951年,378+8ページ はぱらぱらめくってみたが,よく分からなかったし,またあまり賛成する気にもならなかった.何故ならそのよって立つところの理論はともあれ 現実の文法体系は旧来のものと根本的な違いがあるわけではないからである.似たようなことは言語学研究会の人たちも言っていた.
 フェルヂナン・ド・ソシュールの 『言語学原論(改訳再版),岩波書店,昭和40年 (1915),12+332ページ (小林英夫訳) も 時枝誠記,『国語学原論 』,岩波書店,昭和16年 (1941),550+4+8ページ も買いはしたが,わたくしの理解を越えた.ただ岩波全書の 服部四郎,『音声学 』,岩波書店,1951,271ページ は難しいながらも何度も何度も繰り返して読んだ.わたくしにとってこれは言語学の面白さを感じさせてくれた最初の本だった.よく分からないながらもがむしゃらに次の本を読むというより目を通した.東條操, 『国語学新講 』,筑摩書房,昭和26年 (1951),327+23ページ; 有坂秀世, 『音韻論 』,三省堂,昭和22年 (1947),333ページ; 小林英夫, 『言語学の基礎概念 』,大村書店,1952,280+9ページ; 服部四郎,『音韻論と正書法 』,研究社,昭和26年 (1951),282ページ.最後のものはわたくしにとりまことに有益だった.
 他にも法政大学での日本語についての連続講演会にも行ってみたが,故亀井孝先生の話は廻りくどくて,神経質で,素人相手に 故 服部教授批判をするなど,学者というものはこういうものなのだなと,強い印象を与えられた.スターリンの言語学論文 『マルクス主義と言語学の諸問題 』,1950(昭和25年) を解説した民主主義科学者協会 (略称:民科) 言語科学部会監修, 『言語問題と民族問題 』, 『季刊理論 』,別冊 II (別冊学習版・第 II 集),理論社,1952 (昭和27年) も読んだが,原著をより難しくした感じのもので,あまり頭のよさを感じさせなかった (後で知ったのだが,スターリン論文の解説者のグルジア人言語学者チコバヴァ Chikobava を女性と勘違いするような間違いを平気で犯す人がいた) .ところで宮島達夫氏らの言語学研究会は この民科言語部会を受け継いだものである.民科は日共系の外郭団体だが,わたくしが後に大学入学後顔を出した民科言語部会には 故奥田靖雄氏のほかに大久保忠利氏 (東京都立大国文科) などもいたように記憶している.

 高校卒業と同時に わたくしは NHKのラジオ講座でドイツ語,フランス語,スペイン語,中国語をいっぺんに勉強した.一言語 15分ずつだったが,当時のラジオ講座は質が高かった.大学入学後も出来るだけ聞いたが,わたくしは前田陽一氏のフランス語,関口存男氏のドイツ語,笠井鎮夫氏のスペイン語,倉石武四郎氏の中国語というすばらしい講義を聞いたことになる.
 前田陽一氏のものはかなりの数の歌や詩も教えるほど盛りだくさんだったが,わたくしはまだその時のフランス語の歌を覚えている.
 関口存男氏はドイツに行ったことがないということだったが,語頭の [z] を有声音と無声音の中間のように発音するなど,元気な声で講義していた.氏が 「人間は忘れるのではなく思い出さないだけだから,忘れることを恐れず とにかく なんでもかんでも覚えれば,きっとものになる.」 といったのを記憶している.
 特に倉石武四郎先生の呼びかけで神田の東方学会の建物の中で開かれた NHK中国語講座を聞く人の集まりに出てみた.当時 テキストの売れ具合から見てただの百名しかいない全国の聴取者のうち この日集まったのは約50名で,これは多分東京の聴取者のほぼ全員が集まったことになろうとは NHKの担当者の弁だった.毎日ただの 15分だが,これが1年分でたったの 24時間分,つまり1日分にしかならない.一日中勉強するよりも それを分けて繰り返し繰り返し勉強すると効果があるとは名言だった.倉石先生のような大先生が自ら聴取者の質問に答えてくださった.わたくしも先生直筆のお葉書を何通もいただいた.倉石先生は かつてソ連や延安で使った拉丁 (ラテン) 化新文字で発音を示された.新中国でまだ漢字の 音の方式が統一される以前のことだった.倉石先生の 『漢字の運命(岩波新書) ,岩波書店,1952,200ページ は実に名著だった.
 ロシア語講座は NHKではまだ始めておらず,日本短波放送がわずかにそれを始めたので,わたくしも普通のラジオに鉱石の装置をつけて聞いたことがあるが,たいした内容ではなかった.あまり人は知らないが,NHKはこの時どういうわけか3個月か半年だけ OG氏 (東京外大) のイタリア語講座を開設し,わたくしも聞いたが,これは他の講座よりも説明の質が落ちた.ひとえに講師の言語学的訓練の貧困によるものに違いなかった.言語学的トレーニングのなさといえば KN氏 (東京外大) の中国語も同じで,中国語の助辞 「了」 についての氏の説明がおかしいことは倉石先生も指摘しておられた.前田陽一,倉石武四郎の諸氏のように言語学の専門家でもないのに言語に造詣が深いという資質は 今の文学研究者には見られないものである (この点はエスペランチストも同じ) .

 わたくしは朝鮮語への関心が強まるに比例して エスペラントへの関心は薄れた.エスペラントを自由に操ることが既に出来なくなっている自分に気づいた.エスペラントによる外国人との文通も途絶えた.エスペラントがわたくしにいわば論理 (と言ってもこれはヨーロッパ語の論理でしかないが) を教えてくれたとするならば,朝鮮語こそは日本語のような構造の言語が決して非論理的なのではなく,それはそれなりにきちんとした論理を持っているということを教えてくれる格好の材料を提供してくれた.
 わたくしが朝鮮語を勉強する中で決定的にわたくしに衝撃を与えたのは 市河三喜,服部四郎編,『世界言語概説 』,上下2巻,研究社の下巻,1955,1336ページ の中の 河野六郎,「朝鮮語」,359−439ページ だった.わたくしはこれを見た時,いろいろな入門書を見ても なおかつ もやもやしていたものが いっぺんに吹き飛んだ感じがした.河野先生のこれに比べたら,今までのものはどれもほとんど消し飛んでしまいそうな内容だった.特に 語基 という概念には目を覚ませられた思いだった.まさに目からうろこが落ちるとはこういうことを言うのだろう.わたくしは生意気にも河野先生に質問状を送った.きれいな字で丁寧な返事が返ってきた.こうして手紙による問答が数回繰り返されたが,ある時は 「それは難しい質問です.」 という返事しかなかった.どうして大学者ともあろう人が そうやたらに難しがるのだろうかとも思った.それが河野先生特有の慎重さの現れだということは ずっと後で知った.

 わたくしは愚かなことには 北京大学,金日成綜合大学,モスクワ大学,ワルシャワ大学の学長あてになんとか留学したいという内容の手紙を送った (何語で書いたのかは記憶にない).すべて日本と国交のない国ばかりで,返事はまるで当てにしていなかったのに,北京大学の校長弁公室長から筆書きの中国文で 馬寅初校長 ( = 総長.この人は後に産児制限論で毛沢東と意見が異なり,職を追われた) の指示で手紙を書くと前置きして,歓迎したいところだが,残念ながら国交がないため無理であるとの内容の返事が来た.ワルシャワ大学からは英文で,国交がないが,ポーランドまでたどり着けばなんとか出来るであろうというような内容の手紙とともに ワルシャワ大学の要覧 (ポーランド文) を送ってきた.大切に保管しておいたこの要覧も いつの間にかわたくしの書架から消えた.

 もはやわたくしには 民青などのことでぐだぐだと悩み,時を浪費する余裕はなかった.はっきりと進路を決めなければならなかった.
 わたくしは 1957年 (昭和32年) 春当時 福岡県の折尾に出来た九州朝鮮人中高級学校の副校長として赴任した RT先生に電報を打ち,夜行汽車で折尾に向かった.わたくしのほとんど始めての汽車による長旅だった.朝 折尾に着いたわたくしは 先生の下宿で寝て疲れを取り,それから先生に将来朝鮮語を勉強したいと相談した.先生はたいそう喜び,朝鮮研究者なら日本人でも良心的なはずだから,よく調べなさい; 親の生きているうちに恩は返せずともかまわないから,自分が目標を立てたら親の期待を裏切りなさい,と言ってくださった.わたくしは期待通りの返事が貰えて意を強うした.先生はまた,自分が出来ない夢を一族の中の誰かに託してみんなでその人を応援することもあり得ると仰ったが (これが朝鮮人的発想であることは後で知った),日本人のわたくしの場合は事情がまるで違っていた.わたくしは奇しくも 九州朝鮮人中高級学校では 枝川町の朝鮮人小学校でたまたま会った代用教員だった人に会うことになった.
 折尾には丸一日とはいずに,すぐさま汽車で今度は大阪に向かい,天理大学を訪れた.朝鮮語研究室を訪れると斉藤辰雄先生がおられた.かまぼこ兵舎での朝鮮語の授業を見学させていただいた.内容はわたくしにとってさほど難しいものではなかった.天理ではアルバイトはほとんど出来ず,授業料は私大としてはさほど高くはないようだが,生活費がわたくしにはまるでないから,東京の国立大学以外には進路はないとまず決めた.

 次に問題となるのは入試の難易度と専攻の決め方だった.どのみち朝鮮語学科は国立大学にはないのだから,それに近いところを選んで,朝鮮語は独学するしかない.わたくしはなにせ自信を完全になくしているから 東大も東京教育大もまず無理である.それならばと選んだのが 東京外国語大学 蒙古語学科だった.どのみち同じアルタイ系の言語も勉強しなければならないから モンゴル語はうってつけだった.そして 意を決して外国語の入試科目としてロシア語を選ぶこととした.

 わたくしの退職についてはしぶる母親に,わたくしは一家の犠牲にはなりたくないと,一方的に宣言した.そして会社の人事課長 H 氏に相談し,一身上の都合と辞表を書けばよいと教わった.こうしてわたくしは 1957年 (昭和32年) 7月大和證券を退職した.ここには7年3個月あまりいたことになる.
 わたくしは会社に辞表を提出したその足で,河野先生に電話し,東京教育大学の先生の研究室を訪れた.これが河野先生にお目にかかった最初だった.先生は わたくしがもっと年寄りだと思ったと仰った.将来 朝鮮語学をやりたいこと,たった今会社を辞めてきたことを申し上げると,では東京教育大に入りなさいと仰る.それは無理なので,とりあえず東京外大に入るつもりだと申し上げた.

 わたくしは是が非でも翌年には大学に合格しなければならない.そしてその間失業保険を丸々貰うつもりである.ところが失業保険というものは,働く意思があり,しかも働けるように充分健康であるにもかかわらず,職がない場合にのみ支給されるのだという.そのためには定期的に御茶ノ水職業安定所に通い,積極的に職を探す努力をしなければならないというのである.実際明らかに病弱な老人が 係員に 「あなたは病気だから保険金は支払えません.」 と宣言されて倒れてしまい,救急車で運ばれていくところを目撃した.まず最初の日 退職した理由を尋ねられ,職種が不適性であると答えたら,今時この就職難の時に大会社にいて恵まれていたのに何を今更不適性だなどと贅沢が言えるのかと たいそう怒られた.係員は今ブロック建築というのが流行っているから,こういうところはどうかと言うのである.一二度は係員の紹介したところに行って,なるべく採用されないようにわざとへまをしなければなるまいと思っていた矢先,御茶ノ水職業補導所 (後に職業訓練所と名称変更) に謄写印刷科というのがあって,毎日半日通えばその間は保険金は支払われるというので,ここに入ることにした.たいへん易しい試験にパスしてこの科に入ってみると,老若男女がいっぱいおり,しかも実はわたくしのように保険金目当てという人がかなり多いことを知った.特に若い女性の大部分は,結婚したのだが保険金はきちんともらいたいという人たちだった.
 謄写印刷はもともと好きだったが,いざ正規に習ってみると 今までいかに自己流だったかが分かった.上手な素人よりも下手な玄人の方がやはり上手なのだということを知らされた.その後,かつてのわたくしのように,下手なくせに上手と思い込む人たちはすぐ見破った.ずっと後で分かったことだが,韓国で韓国人の謄写の専門家の書くハングルも われわれ日本人が守るものと全く同じ基本に準拠しているのだと知った.ここの先生は みな文学者たらんとしてなりそこなった人たちで,常に自分を落伍者として位置付けており,遊び人の風格を備え,人間的に鷹揚でたいそう面白い人たちだった.わたくしは毎日半日をけっこう楽しく過ごし,また腕も決して悪くなかった.特にゴチックその他の装飾的な文字はわたくしの最も得意とするところだった.漢字一字一字の黄金分割を,活字を拡大鏡で詳しく観察することによって,研究するのは実に楽しいことだった.
 この後わたくしは謄写印刷をしばしばアルバイトとして活用した.もっとも 学生自治会やサークルのために無償奉仕をしたことも多い.こっちが精魂込めてすばらしいものを作りあげても それを評価する人は少なかった.評価し得る人は,お世辞ではなくて,やはり感覚の優れた人たちだった.謄写印刷は,エジソンによる発明を日本人 堀江が大成したものである.和紙で作った原紙から 埼玉県の川口の小さな工場で作らせた鋼板 (これをヤスリという) に到るまで 堀江の苦労のたまものでないものはなく,以前水道橋にあった堀江謄写堂という店も,コピー機の発達による謄写印刷の消滅とともに消えた.謄写印刷は 凸版,凹版,平版と並んで孔版と呼ばれる印刷技術の一種だが,日本は世界の印刷史の中に謄写印刷による文化のページを書き込んだわけである.後に朝鮮や中国の謄写印刷が 日本から入ったことを知る.今はなき謄写印刷文化は,貧しかった日本が日本の底辺のありあわせの技術を駆使して高みに迫ろうとした 失敗だらけの先人たちの血と汗そのものなのである.贅沢なコピー機の陰に隠れた謄写印刷の鎮魂をわれわれは行う義務がある.

 残りの半日は死に物狂いで受験勉強をした.ロシア語の入門書の類は片っ端から買って 完璧にマスターした.ソノシートの類も買って聞いた.それをし尽くすと,ソ連から出始めたアクセント符号付の学習書を全部上げた.そしてソ連の国語教科書やら文学作品やらを,日本語訳のあるものはそれをも参考にして,読解し,八杉貞利,『露和辞典 』,岩波書店,昭和10年(1935) を最初から読んだが,これはかなり勉強になった.こうしてレールモントフの 『現代の英雄 Geroj nashego vremeni 』,ドストイェフスキーの 『遅咲きの花 Cvety zapozdalye 』,レーニンの 『国家と革命 Gosudarstvo i revoljucija 』 その他の短編をかなり読んだ.毎日少しずつ旧約聖書も読んでみたが,これは日常的でない単語が多くて,あまり勉強にはならなかった.

 日ソ学院にも少し通ってみた.
 日ソ学院には 日共の地下活動から地上に這い上がってきた朝鮮人学生もいた.「お国の方々はロシア語がよくおできになります.」 と先生に言われて,その学生は 「お国と言われても,日共からはおまえは朝鮮人だからそっちに行けと言われ,朝鮮人からはおまえは日共にいたのだから,日本人のところに行けと言われるし,わたくしの お国は一体どこなんでしょうね.」 と苦笑するのだった.
 日ソ学院では 斉藤先生,三宅先生,故ブブノーヴァ先生にロシア語を教わった.
 斉藤先生は早大露文卒,日共党員,戦前日本が石油の採掘権を持っていた北サハリン (樺太) で仕事をしていたという.豪放で語学上のミスをよくやらかし,わたくしもロシア語のアクセントのミスを何度か指摘したことがあるが,憎めない先生だった.
 三宅先生は東京外語ロシア語卒,とても繊細な感じの先生だった.先生は南満洲鉄道勤務,ハルピン (哈爾濱) でロシア人の家に下宿なさった.ハルピンでソ連との鉄道交渉の通訳に当たったが,緊張のあまり交渉終了後 倒れてしまったとのことだった.満洲里駅の駅長を勤め,1945年 (昭和20年) 出張から戻り,近くの丘で 先生の妻子を含む日本人全員がソ連軍により惨殺されているのを見て はらわたが煮え繰り返った (わたくしは 1995年(平成7年) ハイラル (海拉爾)− ハルピンを夜行列車で,2000年(平和12年) ハイラル − 満洲里を昼間の汽車で行き,中露 (当時のソ満) 国境を見た.その丘は分からなかった).やがて捕虜としてシベリアに送られたが,ロシア人と話をするうち,彼らも戦争の犠牲者なのだということが分かったのだという.日ソ学院の先生方は,三宅先生を除き,全員が日共党員だったらしい.三宅先生はソ連の核実験は,他の先生とは違って,絶対に容認できないが,日ソ友好運動は他の先生方とも一緒にやるのだと語っておられた.当時としては異色の先生だった.
 ヴァルヴァーラ・ブブノーヴァ Varvara Bubnova 先生は 小柄で声の小さい,非常に品のよいロシア女性で,聞くところによるとサンクト・ペテルブルグの名門貴族の出で,家ではドイツ語も話していたという.なんでも彼女の祖父の家の庭の描写が プーシュキンの 『イェヴゲーニー・オネーギン 』 の中に出てくるというのである.先生は 革命後のモスクワは道に釘が一本落ちていても市民がそれを拾うほど物資が欠乏していたと話されたことがある.先生自身は 自分が反革命で日本に来たと言われるのがいやのようで,決してソ連を批判することはなかったが,またほめることもなかった.先生は他のヨーロッパ人同様 戦争中は軽井沢に収容されていたらしい (なおこのことについてはベアテ・シロタ・ゴードン,平岡磨紀子 『1954年のクリスマス 』,柏書房,83ページ,123ページ を参照).先生の教養はまことにたいしたもので,プーシュキンはこう言っている,トルストイはこうだと 即座にロシア語の語句が口をついて出た.これに比べるとAという日本人の奥さんらしい,下品で無知なロシア女は文法の説明が出来ず,これは sojuz (接続詞) だで終わるといった有様で,上級のクラスでは S というよく出来る生徒 (といってもどこかの大学の先生らしかった) が 彼女とK (東大教授,ソヴェト教育学専攻) を首にして,ブブノーヴァ先生に替えてくれと要求したことがある.ブブノーヴァ先生には 当時のロシア語学徒は皆お世話になったはずで,ブブノーヴァ先生の日本のロシア語教育への貢献は計り知れないものがある.先生は絵が専門家並みで,個展も開かれたことがある.晩年ソ連に帰られ (とはいってもサンクト・ペテルブルグではなくカフカス (コーカサス) だったらしい),そこで没した.日ソ学院からの帰り,先生と一緒に代々木駅で乗った国電が四谷駅を過ぎた時,先生が "Sledujushchaja stancija moja." (次の駅で降ります.直訳すれば 「次の駅が私のものです.」) とおっしゃったのを今でも鮮明に覚えている.わたくしはブブノーヴァ先生にちょっとでも教わったという記憶があるだけでもたいへんな幸せものである.

 当時の教材たるやギリシャ語やらラテン語やらの入門書と同じく男性名詞,中性名詞の語尾変化が終ると女性名詞のそれに移るといったもので,今から思うと,頭の悪い労働者などに分かるはずもなかった.すべてが精神主義の時代だから,それでも3個月の学習で 『プラウダ 』 (ソ連共産党中央委員会機関紙) が読めるようになったという労働者の英雄の話を聞いて発奮するのだった.わたくしも一度熱心な労働者という人の下宿に行って見たら,机,壁,天井,ありとあらゆる場所をロシア語のパラダイム (語尾変化表) と単語を書いた紙で埋め尽くし,横になっても縦になってもロシア語しか眼に入らない空間を作り出していた.後にわたくしはポーランド語を独学した時にこの方式を取り入れたが,見事に失敗した.
 ロシア語は難しい言語だから話せないのは当然と考えられていた時代,事実先生方とブブノーヴァ先生の会話を側で聞くと,先生方の話し方は非常にたどたどしかった.ブブノーヴァ先生の話だと,日本人でロシア語を正しく話せたり書ける人はまずおらず,除村吉太郎氏 (わたくしはこの人をちらっと見かけたことがある) でも間違えると言っておられた.
 当時は初級の文法を終えると,いきなりソ連の国語教科書に入った.友人から聞いた話だが,そこに出てきた 「資本主義」 とか 「ブルジョワ」 とかいうロシア語の単語を絶対に読まずに飛ばす先生がいたという.
 ほどなくソ連から 英文になるポタポーヴァの入門書が出,主格,属格,与格というような横並びの方式に変わった.除村吉太郎氏の入門書 ( 『ロシア語第一歩 』,白水社,昭和11年(1936),116ページ; 『露文解釈から和文露訳へ 』,白水社,昭22年(1947),607ページ) は原典からの引用だけで構成されており, 「アルコールは気晴らしではなく害毒である (Alkogol' ne zabava, a jad アルカゴーリ・ニェ・ザバーヴァ・ア・ヤート)」, 「酒飲み追放 (Daloj p'janstvo ダローイ・ピヤーンストヴァ)」, 「沈黙は承認のしるしである (Molchanie znak soglasija マルチャーニイェ・ズナーク・サグラーシヤ)」, 「ズテーテン地方の割譲」 ...などのソ連の標語や時事的なもので満ちており,印象に残る.
 もう一つ乾輝夫氏 (東京外語卒らしい) の 『英独仏露四国語対照文法 』,富山房,昭和10年 (1935),572ページ という本が面白かった.後で読んだ尾崎秀実氏 (ゾルゲ事件で死刑) の 『愛情はふる星のごとく (獄中通信) 』,世界評論社,昭和21年(1946) の中で氏がこの本を差し入れさせて読んでいることを知った.

 レーニンの 『国家と革命 』 のロシア語読書会というのにも出たが,それは東大,一橋大等を卒業して日銀とか野村證券とか大会社の幹部社員となった人たちのもので,彼らはいかに会社で自らをカムフラージュするか,そのためには引き出しにわざとエロ雑誌を入れておくに限るなどと話していた.

 1957年 (昭和32年) だったか日ソ学院で第1回のロシア語検定試験が行われ,わたくしが一番よい成績を得たと記憶している.

 日ソ学院といえば,ある日 代々木で日ソ学院の生徒と山辺健太郎氏が話しているのを側で聞いた.山辺氏は鬚ぼうぼうで,下駄履きであり,いかにも不潔だった.聞くところによれば日共の中央委員会から,汚すぎるからせめて1週間に1回は風呂に入れといわれたこともあるらしい.山辺氏はシャツのポケットから小さな蛇を取り出し,蛇の講釈を長々としていた.それから君は食事はどうしているかと尋ね,君,コッペパンにしたまえ,あれなら火鉢に火をおこす必要もないし,時間が節約出来ると言っていた.山辺氏は読書会のコンパで 大正時代の労働歌を十何番まで空で覚えていた.家は殺人事件があったとかで借り手のつかなかった家を 安く借りているとのことだった.どこまでが本当の話か知らないが,伝説が多いほど変わった勉強家だった.

 とまれこうして 1958年 (昭和33年) 東京外国語大学 蒙古語学科に入学した.


菅野裕臣の I 終り