三枝壽勝の乱文乱筆


朝鮮文学など読まなくてもいいわけ − ゾンビどもの世界での対話 −

『総合文化研究』 2号、東京外国語大学総合文化研究所、1999.3.25
先生、しかめっつらしい顔してどうしたんですか?.
− いやね、さっき学生が来て卒論書きたいって話をしてたんだ。
それがどうかしたの。
− 学生が言うには、韓国の文学に残っている日本の植民地時代の影響を調べてみたいってんだ。日本の支配が彼らの文学にどんな傷跡を残したか自分たちの反省をこめて扱ってみたいってんだね。
なかなか感心じゃないですか。いまどき珍しいんじゃありません。
− 何が感心なものか。またかってうんざりしてるんだ。
なぜですの。過去の日本がアジアの人々に何をしたかを反省するのはいいことじゃないんですか。
− そうかね。おれは朝鮮文学を外国文学として研究しようと思ってはいるけど、日本人救済のためだとは思ったこたないね。
どういうことですの?
− いやさ、過去の日本人が何をしたか反省するってのは、日本人が悪いことをしたと思ってるから言うんだろ。そしてそれを韓国の文学を通して知るってのは、自分たちの犠牲者にどんな傷跡を残したかを知るってことだし、それを通して自分たちが現在どんなにそのことを反省してるかを知らせることになるのじゃないか。つまりその作業を通じて救われるのは自分たち日本人のほうだということさ。殺人犯が自分の殺した死体や傷つけた被害者の様子を見に行きたくなると同じ心理じゃないかってことさ。
それ違うんじゃありません?その学生がいったのは、自分たちがその犠牲者たちにどんなことをしたかを知ることで、彼らのことをよりよく理解しようとして言ったんじゃないんですか?
− 彼らのことを理解する?だったら外にもいくらだってやり方はあるだろ。だいたい、彼らがいう犠牲者をそうやって理解したらその犠牲が償われるとでもいうのかね?彼らの失われた時と損害が取り戻せるとでもいうのかね。いつだってそうなんだ。アジアがどうのこうのというと、過去の日本のことが出てきて、それでこれから将来自分達がどう行動するかを言うのかと思うと違うんだ。いつでも口先だけなんだ。反省を高らかに唱える日本人だけがいい子になってその人だけが救われるんだ。本当に犠牲者のことを思ってるんだったら、もちっとまじめに考えてもらいたいって気がするんだ。自分のほうが犠牲になろうって気はこれっぽっちもありゃしない。いったい自分の人生犠牲にしてでもやる気があるんかね。
それ、ちょっと言いすぎじゃありません。
− とにかくだ、いつでも自分たち日本人の痕跡にしか関心がないということさ。どこまでも自分たちの事にしか関心がなく、相手の方にちっとも近づこうとしないってことさ。日本人のやったこと、日本人の残したこと、そんなことにしか関心ない。そして、自分だけは大勢の日本人から抜け出た特別で感心な日本人に成りすますんだ。ほんとに反省してるんだったら静かにしてりゃいいのさ。戦時下のアメリカの政策やソ連の収容所のことに抗議するんだったら、大陸や植民地で日本人のやったことがそれとは比較にならぬぐらいどんなに酷いものだったか考えたらいいんだ。
それで?
− 要するにだ、過去の日本の行動を反省するとかいってるけど、その実、自分たちが持ち出した犠牲者のことだって、ただ自分たち自身のことを論じる手段でしかないってことさ。自分たちの犠牲者を利用して反省してる自分たちを主張する手段にしてるんだ。植民地支配の傷痕?その痕跡が朝鮮の文学にいかに残っているかだと?冗談じゃない。要するに、おお懐かしのわが植民地時代よ!、じゃないか。相手の文学や文化を徹底して知ろうとするより先に相手の中にある自分自身の刻印だけを探そうとするんだ。相手の歴史と文化の中にある自分自身にしか関心を示さぬってのは傲慢さと偏狭さの表われじゃないか。
かなり極端ですね。
− そうかね。だって、ほんとに反省してるんだったら、原爆が落ちたのは当然の報いじゃないか、って言ってるアジアからの発言になんで不愉快になるんかね。私たちは世界の平和のために尽くすことにしました、か。自分勝手にアジアを荒らしまわって、こんどはその当人が反省してるから、この自分たちの反省を認めよ、ってまた押しつけるんかね。そういや、むかし、朝鮮の三・一独立運動のとき、日本人が教会を焼き討ちして虐殺したことがあったけど、そいつを反省した教会の関係者が韓国に渡って記念碑を建てたことがあったっけ。いい気なもんだ。要するにいつでも自分にしか関心がないんだ。そして自分だけは、ほかの情けない日本人から抜け出したと思ってるんだ。
でもそれもうだいぶ前のことでしょ。わたしたちそんなにこだわりを持ってませんわ。
− だからどうなんかね。もう過去の日本のことなんか言う必要はないってこと?そういや。こういう日本人が関心をもつもう一つの話題があったっけ。独立運動や社会運動にかかわった朝鮮人のことに対する関心。だから過去の詩人でも尹東柱や李陸史、現代なら金芝河のような人にしか焦点が当たらないんだね。彼らならファンはけっこういるみたいなんだ。とはいっても最近の韓国でも尹東柱はもっとも好きな詩人で特に「序詩」が一番人気あるってから無理もないけど。でも同じ受けとめかたしてるんかな。それと、年配の人の傾向としてはプロレタリア文学の担い手だった作家に対する関心だ。そうした人たちを弾圧して彼らの節を曲げさせたのがわれわれ日本人であり、そのことに関心を示す自分達は一般の日本人より水準が高いとでも思ったんかね。それに最近じゃ在日朝鮮人問題ね。時代の波に便乗はしてるが何十年前とおんなじ水準でむしかえしてるうさんくさい幽霊みたいな思想屋さんって感じだね。人が黙ってるのは理由があってのことだということに気づかず誰も言わない隙をついてしゃしゃり出るんだね。
先生はいったい日本人が嫌いなんですか。
− 先生ってことばは嫌だな。先生、先生って呼ばれるほど馬鹿じゃなし、って言ったっけ。おれは好きでも嫌いでもないね。
じゃ朝鮮は、少なくとも朝鮮文学は好きでやってるんでしょ?
− やっぱり、好きでも嫌いでもないね。おれは朝鮮の文学が日本人にとってぜひ知らなきゃならぬ大切なものだと言ったこともなければ、人に勧めたこともないね。そりゃ日本文学だって同じで、文学が特別で、そこに関わることが特別な価値があるって宣伝する気になったこともないよ。気持ち悪いじゃないか。
じゃ、何のためにやってるんです?何だかとってもひにくれてるみたい。
− 最近どうも面白くないんだね。この研究者とか学者とかの世界もね。昔、誰かが言ったっけ。人間は完全な休息のうちで情念も仕事も気晴らしも集中することもなしにいることに堪えられないって。だからってたえず騒がしくしなきゃなんないんかね。だけどそれじゃ元来の発言のパロディにもならないんだよ。経験した人はすぐ分かるけど、確かにおれたちの精神は考えることも含めて何もしないことに堪えれるほど頑丈じゃない。だけど考えるってことだってとっても恐ろしいことなんだ。同じ人が言ってるように、無限と虚無の深淵を前にして何とも言えないほどの恐怖に堪えられる人間なんていそうにないからね。あの永劫回帰だって、正しいの正しくないのって賑やかに語るのは勝手だけど、少なくともあの発想そのものだけは人を恐怖に慄かせる要素をはらんでるじゃないのかね。昔、熱力学でエルゴード定理がどうのこうのと聞かされたけど、どうも無限がからんだある種の分野は人を生きることも死ぬことも選び得ない恐怖に陥らせるんじゃないかな。カントールやエーレンフェストはその犠牲者だったけどニーチェは幸いと数学に素人だったせいか狂人になるだけですんだんだ。
せんせ、何だかちっともわかんない。で、何がいやだっての。
− うん、つまんないことにもこだわるようになっちゃった、ってことか。いつぞやもある人が論文見てくれってんで手伝ってやったんだけど、それって、ある先生の還暦の記念論文集に載せるやつなんだ。おれは弟子でもないし色々あって書かなかったけど、その人、いざ投稿する時になって言ったんだ。自分が投稿するその論文集の還暦の先生は何の専門の方ですかって。その分野の専門家が日本に何十人もいるならともかくだよ、たった一人か二人もいない分野なんだぜ。だのに専攻が何かも知らないんだ。しかもそのくせ自分の名前はちゃっかりそこに載せようってんだ。後でそのこと知ったその当人の先生は怒りもせず、若い時にはそんなこともあるだろうねって言ってたけど愉快な話じゃないね。またこんなこともあったっけ。同僚とうまくいってなかったところで昇任の審査があって、自分は昇任できたが相手が保留になったと聞いて、私が勝ったって言ったんだ。うんざりだよ。つくづくいやになっちゃうじゃないか。
じゃ、つき合わなきゃいいじゃありませんの。
− うん、そういうこと。だけどそういう人のほうが世間的には社交家で人格円満だからな。うっかり注意なんかするとおれだけが評判悪くなって皮肉れ者で悪者にされるってこと。円満な社交家たって悪いやつっているよな。倫理学の先生がレイプやんないとか刑事が強盗殺人やんないって保証はどこにもないもんな。ただ人格とか職業がカモフラージュして疑われにくくしてるだけじゃないんかな。凶悪犯罪で歓喜に震えてる新聞の見出しを見てると、あいつらの正義の怒りってのは自分のやりたいこと出し抜かれた悔しさじゃないかって気がしてしょうがないな。
しょうがないじゃありません、当然なんだから。大学のせんせだって世間じゃ信用されてる部類ですよ。それにせんせ、話がだいぶそれたみたいよ。朝鮮文学の話はどこにいっちゃったの。
− あれっ、何話せばよかったんだっけ。
卒論がどうの、反省がどうのって言ってたくせに。
− あ、何のために朝鮮文学なんかやってるかってことかな。
それでもいいですけど。
− 去年おととしと総合文化研究所の主催で外国文学と翻訳の連続講演やったけど、あれよかったよ。
またぁ、ごまかして。
− そうじゃないよ。あれ聞いてて、ああ、みんなおんなじような問題かかえてるなってことも分かったし、外国文学への関わり方にも色々あるってことが分かって為になったよ。
内輪の話はやめにして。
− 外国文学に関わるとその国または地域または民族またはその言葉を使ってる人たちのことが分かってくるかどうかってことね。たしかに文学にそういった人々の文化や歴史が反映してるのは確かだろうけどね。だけど一概には言えないみたいだよ。だいたい関わりかたがそれぞれ違うじゃないか。
たとえば?
− 自分の分野でいうと日本で翻訳がちょっと話題になったとするね。ところがその話題のされ方がどうも本国とは違うんだ。本国でさほどなのに日本で話題になったりするし、本国で圧倒的な人気のあるものは日本ではほとんど受け入れられないというのが一般じゃないかな。また日本で評判になるのは本国の読者というより本国の評論家が話題にしたものが多いし、その評論家と結びついた日本の文学ブローカー達によって紹介されることが多いみたいだし。また翻訳を読むとびっくりするほど日本文学とよく似た雰囲気なのに原文はやっぱり韓国のものだというのがあるね。こいつは翻訳した人が意識的に文体を日本文学に変えたんだね。こうなると原作を伝えているのかどうか怪しいんじゃないかな。原文さえなければすばらしい翻訳ってことになるかもしれないけどね。でも新聞の書評って原文なんか問題にもしてないんだろうな。
でも、自然ですばらしい日本語になっていればそれはそれで立派な翻訳じゃないんですか?
− ふん。その話はまたあとですることにしようか。
じゃあ翻訳の前に外国文学そのものってことですね。
− うん、翻訳とも関係あるけど、翻訳の仕方にも色々あるように外国文学への関わり方にも色々あるんだろうね。研究とは関係ないところから始めると、まず第一に、好きならいいじゃん、それ以上何があるの、っていうマニア型ってのがあるかな。これは原作がどうの、作品の背景がどうのとか理屈をあんまり言いたがらない愛好家のタイプかな。自分が好きなら好いという点ではひとりよがり型とも言えるけど、その態度を他人にまで要求するようになるとおしかけ女房型でもあるし、うっかり文学のすばらしさなんかお説教やりだすと小さな親切大きなお世話の補導委員型でもありうるな。でもこういうのは文学愛好家だから本来の研究とは関係ないかもしれないな。
でもそれは大事なことじゃないんですか。
− そうか、そいつが大切だと言いたがるところに補導委員の役目があるからね。研究と関係ないと言っちゃ言い過ぎか。
その次は?
− うん。第二番目がこの百年日本で主流だったやつだ。というより日本で表面的に一番目立ったものじゃないかな。外国の文学を日本に紹介したり、それを利用して仕事をするタイプ。すなわち輸入業者型だ。これにも紹介して儲かりゃいいじゃないのという興行師すなわち呼び屋型と、自分が輸入したものを材料にして自分の仕事を作り出す加工業者型ってのに分かれるかな。ひたすらある作家の紹介や翻訳に打ち込むのが前者で、ある作家をネタにして解説書いたり自分の言いたいことを言っちまうってのが後者かな。とにかくいずれも自分の住んでる地域の読者の間で売れるかどうかが商売の主たる関心という点では共通してるんじゃないかな。比較的おだやかな部類にこの地域の人々の習慣はこうですよとかそれにはこんな意味がありますよってな知識を売り歩いている行商人型や骨董屋型があるかもね。
ちょっと酷い言い方にも思えますけど…。
− 別にけなして言ってるんじゃないよ。自分も含めてどんな様子かって分類しただけだからね。その次の三番目が相手の国や地域や民族や言語に取り込まれてしまったやつ。さっきとの対照でいえば相手側が主たる関心の対象となってるものね。うっかりその地域の文学と関わってしまったおかげでそこから抜け出せなくなってしまったという点では、情にほだされ若気の過ち一生ずるずる同棲型とでもいうか。
それって一番目とどう違うんですか?
− 一番目のマニア型ってのは例えばある作家のファンになって会いにいったりするんじゃないかな。私は誰かのサインを貰いましたってなこと言ったりしてね。要するに自分が好きだという気分が中心なんだ。そして翻訳するときには相手の意向にお構いなしに自分なりの雰囲気で訳したり言葉を変えてしまうのに疑問を感じないかもしれないね。ところが三番目の方は好きとか嫌いとかを通り越してるんじゃないの。日本じゃとうてい歓迎もされない作品だって本国で人気があればいっしょになって読み、彼らが感動したと聞けば行ってともに感動を感じ取ろうとし、悲しんでいると聞けば行ってともにその悲しみも感じ取ろうとし、つねにもとの読者たちが何を感じているかひたすら感じ取ろうということになるんじゃないかしら。
ふうぅん。だからせんせは韓国のものが好きでも嫌いでもないって言ったんかしら。でも向こうのものは何読んでも面白いっておっしゃったことあったでしょ。
− うん。向こうで出てるものはとにかく向こうの人たちに読まれているわけだから、いっしょになって読む習慣がついちまえば理屈なしにひとりでに順応できちゃうってわけかな。とにかく水準がどうのとか、最先端がどうかなんてちっとも気にならなくなってくるのね。そして日本人としてはそれらの読み物が日本で翻訳したって売れないこともすぐ分かるんだ。
それは韓国人と日本人とで感受性が違うってことなのかしら。でも日本で売れてる村上春樹は韓国でもベストセラーでしょ?
− うん。文学というより読み物に対する感じ方が違うということは確かにありそうなんだ。ただベストセラーってのは別だろう。要するに流行だろう。流行してるってことが感じ方に非常に大きく影響するのは確かじゃないか。流行しているものを手に入れることによって同時代の人々との心の繋がりを感じることもでき、その結果その本を読んで感動することもできるから流行は馬鹿になんないよ。ただしだよ、韓国で流行っているからって日本人がそういう感じを持とうという気は起こんないけど、日本で流行っていると韓国人が読みたくなるってことがあるのさ。それはこれまで百年間日本で西欧の思想や文学にどう対応してきたかを見ればなんとなく分かるじゃないか。そしておれのように朝鮮の小説なんかばかり読んでるとあっちの人が面白がることが少しずつ感じられてくるけど、それが日本で読まれないだろうことも感じられてくるってことなんだ。輸入屋の文学ブローカーにはわかんないかもしれないけどね。
でも、そうやってあっちのものを読んで面白いんだったらそれでいいじゃないの。
− それだったら第一番目のマニア型なんだ。そうなれぬとこが三番目の同棲型の深刻さなのさ。
いったい何が深刻ってこと?
− 要するに若気の過ちずるずる同棲ってのは今さら好きだの嫌いだの言う段階はとっくに過ぎてしまったけど、おかげで自分達とは違った文化の背景を持った人達をどうやったら理解できるかって問題にぶつかっちまったんだね。つまり文学を通して異なる文化をどう理解するかという問題さ。
そんなこととっくに誰かが言ってることじゃないんですか?
− だったらいいけどね。なら翻訳のことだって簡単に結論が出そうなもんだけどね。相変わらず古めかしい言い方が今でもあるからね。
やっと翻訳に戻ったんですね。その古めかしいって何のことです?
− ほら、翻訳というのはまず日本語として自然に読めるものでなけりゃならないってこと。日本語としてなってない翻訳は翻訳として認められないってこと。
そんなこと当たり前でしょ。
− うん。でもその日本語としてなっている翻訳ってのは日本語として立派な標準的なもの、または美しい日本語っていう意味も入ってるみたいなんだね。
そりゃそうでしょ。日本語としておかしな文章が翻訳として通じるわけないと思うけど。
− そうかね。じゃ、日本語で書かれた小説はみな全て標準的な日本語で同じ文体なのかね。漱石も鴎外も村上春樹も吉本ばななも皆同じ文体なんだろうかね。日本語の小説で破格の文体というのはなかったのかい。日本語を破壊するような試みはなかったとでも言うのかね。デビュー当時日本語を破壊するとか日本語としてなってないって非難された作家がいたように記憶してるけどね。
そりゃ必ずしもそうとは。
− じゃあ、翻訳する前の原文だって同じだろ。全ての小説が同じ文体で書かれているわけないし、その中には上品なものもあれば卑俗なものもあるだろうし標準的な語法からはずれたものもあろうじゃないか。それらがみんな同じ日本語に置き換えられるってこたちょっと考えられないだろう。
そう言われればそうだけど。
− だとすりゃ、翻訳の文体もそれに応じたものでなけりゃならないってことになるじゃないか。
じゃあ、どういう方針で翻訳すればよいってことになりますの?
− だから、今翻訳しようとしている原文の文体がその原文を生み出した言語的背景の内でどんな位置を占めるかが分からなきゃならないってこと。それは共時的に言えば総体的な言語体系のなかで占めるその作品の位置を考慮することであり、通時的にいえばその言語の歴史のなかでの位置を考慮することだろう。総体的な言語体系って言ったのは個々の言語使用者の頭の中にある言語体系はそれぞれ異なっていてぴったり重なることはありえないのだからそれらの和集合を考えたまでのことで、当面翻訳の対象となってる作品がその和集合のなかで占める位置を考えようということ。どうせこうした和集合においては共通部分の積集合を考えたって、何らかの意味での平均を考えたってあんまり意味はなさそうだしね。また各言語使用者が実際に使う言語体系と頭の中に持っている標準的な規範としての言語体系も抽象としてはありえてもとうてい一致しそうにないしな。通時的な位置といったのはそりゃみな同じ時代の作品なのに古臭いのもあればモダンなのもあって一概にいえないからさ。要するにそれぞれの作品がもとの言語環境で占めている位置を考慮して、できるだけそれに応じた日本語の体系に置きかえる努力をしようということ。
それあたりまえの話に聞こえますけど。
− そうかね。ものわかりがよくてすぐ納得するってのは自慢にならんのだぜ。とにかく実際にはそう簡単にはいかんさ。たとえば方言はどうなんだ。原文にある方言は日本語のある方言に置き換えりゃすむんかな。そう簡単にはいかんということはわかるよな。でもここまでなら目新しくもないか。
じゃ、まだ先がありますの?
− うん。さっきの日本語として自然に読めなきゃならないってのにひっかかっててね。おそらくこの発想はこの百年ぐらいの日本における西欧文化移植の遺物じゃないかとも感じてるんだ。西欧文学の翻訳はみな読みやすく美しい日本語の作品に置き換えねばならぬなんてったら変だと思わないか?原文だって色々あろうに。だのにそんな発想が生じたのは、さっきの第一番目のマニア的人間ならしかたないけど、そうでなけりゃ西欧のものごとがすべて日本のものより優れているという奴隷根性の発想としか思えないね。もともと上品なものは上品に、品の悪いものはやはり品のない日本語で訳さなきゃならんだろ。
そこまではさっきも同意したじゃありませんの。
− そうか。そこでだ。うん。自分の経験で言おうか。たとえばおれが日本語と朝鮮語の両方で同じ内容の文章を書くとする。ところでそのどちらか例えば朝鮮語を先に書いておいてからそれを日本語に翻訳した場合と、初めから別々に文章を書いた時では結果が違ってくるんだ。初めっから別々に書いたときは話は簡単だ。とにかくそれぞれの言語環境に合わせて発想もそれに応じて書きゃいいんだから。ところが先に朝鮮語で書いてからそれを日本語に直すとなると元の原文の朝鮮語にある独特の言いまわしにひきずられかなり妙な日本語になる可能性があるんだ。よくいう直訳ってのはこれに近いかな。ところで小説の翻訳ってのはこのどちらがいいんかね。元々の原文の言いまわしに引きずられてやや不自然な日本語でもよいのか、本来作者が日本人だったら書いただろう自然な日本語にすべきなのかってことさ。
さっきの話だったら、後のほうの自然な日本語のほうになるんでしょ。
− どうもそう簡単に言いきれないってことなんだ。
どうしてそんなことになるのかしら。
− そりゃ、なんでおれたちが外国文学なんかに関わってるかってことなんだ。好きだ嫌いだを越えて外国の文学に関わっていると、どうしてもその文学の背後にある発想法にまで行き着いちまうじゃないか。おれたちが無理を承知で日本語の本なんかほとんど読まずに毎日原文ばかり読んで過ごしてるってのはその異質な発想法の世界にどっぷりつかって暮らそうとしてるからじゃないかな。とするとかなり単純な置き換えがきく慣用句までもそのまま訳したくなってしまう訳さ。
でもそれも程度問題じゃないかしら。
− うん。実際にはそうだろうね。だけどここに決定的なことが含まれてるような気がするんだね。つまり外国の文学を通して異質な文化やそこにおける発想法や感情全てを知ろうとし、理解しようとする態度を持ち続けるかぎり、もし翻訳するんだったらそうした原文にある異質な発想法や言いまわしをできるだけ伝えたくなってくるんだ。つまり異質な文化の存在を日本人が翻訳を通して知る可能性がそこに生まれるってわけ。だっていつでも自然な日本語でしか外国の文学を読まないんだったら、そもそも異質な文化圏の異質な発想法の存在に気がつきもしないだろうし、世界中どこでも自分達と同じに考えてるんだという誤解さえ抱きかねないじゃないか。つまり人間はみな同じで世界中が自分と同じ発想をするはずだという傲慢な日本人の再生産さ。
何だか変な気もするけど、まいいか。
− つまりだ。異質な文化圏が存在するんだぞっていうことを強調するために原文にある異質な発想法や語法をできるだけ日本語に移し、翻訳を読んだときに違和感を感じさせ読者に注意を喚起させる必要があるんじゃないかってこと。よく言う翻訳調と言われる文体も西欧の文の翻訳から来たんじゃなかったっけ。こいつをもっと大規模にしてそれぞれの文化圏ごとに異質で違った文体を多様にどんどん取り入れようってこと。つまりもっともっと乱れた日本語の翻訳がもっとあってもいいんじゃないかってことさ。もちろんこれはどこまでも異質な文化圏の存在を意識させるのが目的で日本語の可能性を広めるなんて殊勝な考えで言ってるんじゃないけどね。
まあ、話としては面白いけど。そんなにきばって言わなきゃいけない問題なのかしら。
− そうかちょっと力みすぎたかな。
そうよ、なんかおおげさみたいよ。それに自分の変な翻訳の言い訳にも聞こえるわ。
− ま、とにかく日本で外国文学の研究にたずさわるってのは何だろって考えさせられるんだ。翻訳だってその外国文学への関心の持ち方のめりこみ方によって変わるってことだよね。作品を生み出してる言語やその背景にある文化の特色をできるだけ再現するってのはどういうことかってことに対する姿勢の違いかな。日本語としての自然さとか不自然さとかいう見かけ上の結果もその姿勢の違いの反映じゃないのかな。古典に関わってる人はあんまりこんなこと感じないのかもしれないな。生きている作品の担い手が目の前にいないから相手側のこと気にしないですみそうだもんな。だから比較的マニア型でやってゆけるかもね。
そんな問題も将来外国文学の紹介がもっともっと増えてくると自然に解決して行くんじゃありません?
− 冗談じゃないよ。西欧のものはもちろん朝鮮語だって翻訳の歴史はすでに百年はとっくに過ぎてるからね。百年たっても変わらないものは将来も変わんないと考えたほうがいいんじゃないかね。どこの国だって外国の言葉や文化に対して関心を持つのは戦争するとか植民地を経営するとかしたときじゃないのかね。その点じゃ日本で朝鮮語が外国語教育の対象として成立してるのはかなり特殊な事例かもしれないけど、中国語や朝鮮語は近い地域でしかも交流のあるとこの言葉だからな。ラジオやテレビでもやってるし大学でも教えてるってな、かなりのことだと思うよ。だのにその朝鮮に対する関心というのは一向に深まってないという感じがしてならないんだね。
わたしの感じてるのと反対みたいね。映画や音楽の分野ではほとんど同時代的な繋がりができているような気がしますけど。
− そりゃ、最先端の分野はみなそうさ。音楽なんぞではもう香港も台湾も韓国もほとんど垣根なしに往来してるよ。だのに根本的な文化の深いところでは一向に理解が進んでないという気がしてならないんだよ。最先端のことしか関心しめさない新しがりやのやつにこんな泥臭い話わかりゃしないもんな。
なんだかさっきから繰り返しばかりみたい。だったらさっきの音楽や映画と同じに将来交流がもっと進めば自然とそんな問題も解決されてくると考えられないんですか。
− その可能性は排除できないな。でもそうやって互いの交流が盛んになって自然に問題が解決するんだったら、おれたちが研究だの学問だのいってることは一切必要ないっていう結論になるな。ほっといても状況次第で自然に問題が解決するんだったら困難で根気を要する思想的な営みなんぞ無力で何の役にも立たなかったことが証明されちまうじゃないか。
そうよ、あんまり訳のわからないことばかり言わないほうがいいかもよ。もっともっと韓国の文化や文学を積極的に紹介する仕事をしていけば自然に解決するんじゃありませんの。
− おっと、おれは少なくともマニア型じゃないからな。自分の方から韓国の作品でいいものを日本人に紹介しようなんてことに一生懸命にゃなれんよ。おれがやってる翻訳なんてどうせみんな他のやつがやりたくないとかできねえって放り出した残り物ばかりじゃないか。これからも変わんないよ。
なんか理解しにくいみたい。なぜ韓国のものをもっともっと紹介する必要があるって思わないのかしら。
− だって、おれがさっきからいってるのは異質な文化圏の異質な発想法や感情に入り込むことだっていっただろ。そしてそれは日本人がそうした異質な文化に対する理解を深めることにつながっていけばいいってことさ。
だからますますわかんないの。どんどんたくさんのことを紹介すればいいじゃないの。
− そうか。知識のこといってんのか。おれはだから行商も出来ねえ部類なんだな。交流が盛んになったり知識が増えるってのは互いの理解を深めるってことを必ずしも保証しないんだぜ。かえって知れば知るほど嫌いになるってやつがあるじゃないか。ほらスカートの何とかって本あっただろ。おりゃ読んじゃねえけど、あの本読んだやつって韓国人ってこんなにだめなんだって嬉嬉として話してくれるじゃん。あの本は韓国人の悪口言いたがっていた人にうってつけの材料を提供する本かなって気がしちゃったの。その手の本て多いんじゃない。いったん偏見さえ出来ていりゃあとは知識が増えりゃ増えるほど悪口と偏見を助長することだってありうるんだぜ。知識が増えりゃ理解がまして心が通うんだったら凶悪犯罪人の担当検事はみんな無罪宣告することになるじゃんか。人間なんてもともと似たようなもんだろ。やったことがいくら極悪非道だからってどっか人間として通じるところがあるかもしんないしな。
だから何をしようとしてるのか理解できないのよ。
− うん。だからだ。おれがやるこた当分変わらんさ。だっておれは国家公務員の研究者だからな。昔でいや公奴婢ってやつだ。お上に仕えて事務もこなし会議にも出るし授業もこなしそのほかに論文書くから研究者だって。それで給料もらってるのさ。論文だけ書いてて月給もらえるんだったらおれたちの原稿料は流行作家よりはるかに高いよな。そういうすばらしい人もいるかもね。それにうちの学生の払う金は卒業まで二百十五万千八百円だ。百二十六単位ぎりぎりで卒業する学生だったら一単位あたり一万七千円とちょっと。授業は四単位だからその四倍か。別のやり方で計算すりゃ授業が一年に三十週とすりゃ学生の負担は一週あたり一万八千円ぐらい。てなことで自分の担当してる学生かその親の出してる金も預かってるしな。彼らが自分の出した金捨てるのは勝手だけど、こっちから彼らの金を捨てさせるわけにはいかんよな。ようするに仕事はこなさにゃならんてこと。そん中でおれはあいかわらず韓国・朝鮮の文学につきあっていくわけさ。好きとか嫌いなんてこた通りこしてるね。
だからそれがさっきまでの話とどうつながるのってことよ。
− だからか。ずるずる同棲型は自分の担当する地域の文学にのろわれたようにしがみついてやってかなきゃなんないってこと。そして他人には韓国の文学を押し売りはしないけど要請があればご要望にお答えしましょうってこと。そうか。だからなんで知識を増やすことに積極的でないかってこと?うん。だって日本で必要とされてる大事なことって山ほどたくさんあるじゃん。そんなこと一つ一つ勉強してたら一生かかったって吸収できないよな。差別の問題、障害者の問題、政治の問題、なんてったらきりないじゃないか。だからそれぞれが自分の仕事を追及することで他の人がわざわざ知識を得なくても問題が解決するようにせにゃならんということだろ。そうか。だからといっておれは行商人じゃないからね。要するに知識なんてなくたって問題に対処できる思考をあみだすことが求められてるんじゃないかな。異質な文化との接触のことだって、相手のことを知らなくたって摩擦が起こらず互いに心が通じるようにするにはどうすりゃいいか、これを探り出すことの方が大切じゃないんかね。それをそれぞれの文化圏に関わっている担当者が探求することじゃない?
なんか抽象的だけどわかるような気もするわ。
− だから文学作品という具体的なものを翻訳するだの読んで理解するだのってのは末端の事柄ってこと。おれは朝鮮や韓国の作品をみんなに読んでくれとか理解してくれって言うつもりなんかないってのはそういうことだったの。おれは彼らの代弁者でもないし保護者でもないしね。そんなの押し売りするつもりもないし、他人が自分のやってる分野に関心ないからって嘆く必要ないもんな。要はそんなおおげさな知識や思想をもちださなくても、人間としての思いやりがあれば解決することがまだまだいっぱいあるんじゃないかってことさ。外国文学やってるもんはその分野でそのこと考えたらいいんじゃないかなって思ったわけ。
ふううん。文学の話がぜんぜん違ったところにいったみたい。ところで、せんせ、どうして表題にゾンビどもの世界なんてつけたんですか?
− えっ、おれ一回も説明しなかったっけ。そりゃまたいつか話するよ。