三枝壽勝の乱文乱筆


定年短文: 東外大ニュース(1000字)

2003.2


30近くで独学、40過ぎて助手で初任給。普通ならまだ40代後半までの仕事を終ったとこだ。いまだにアマチュアで未練の愛着のと言うほどじゃない。生活のため京都・大阪・千里と一日中走り回りまわっていた。帰るのは夜中、明け方5時に出るのじゃ時間がない。電車のなかで辞書をひろげて勉強した。京都と大阪の中間に屋根裏部屋を借りて立ち寄り書斎にした。トタン屋根の真下で夏はヤカンをぶらさげればお茶が沸いた。文法も終らぬうちに古い読み物を大声をだして読んだ。不審がられて見張りに尾行で、おまけにそれを愚弄してかなり憎まれた。いまだに要注意が解除にならぬ。何も知らずにソウルに渡った。作家や作品や本の題名を頭にギッシリつめこんで行った。アルバイト用の日本語教育の参考書と教科書はあまりに多すぎてオバーチャージとられそうになった。新聞もテレビもなしだったから伊丹を離陸する二三日まえ某重大事件で軽率な日本人が巻きぞえくって捕まったことも知らなかった。韓国の新聞には何も載ってなかった。ついた日の夕方から古本屋回りとアルバイト探しだった。古本屋ではしょっぱなから北に行った作家のものを挙げ相手を怯えさせた。そこで総連系の有名人が韓国情報部の護衛つきでこっそりやってきているのを知った。あいつら信用できねえなって感じだった。バスの乗り方もしらず20分で行けるはずのところを半日かかった。大学で日本語を教えていたら入管から呼び出された。強制退去だといわれた。捕まった例の日本人の後釜じゃ無理もなかった。おかげで早々に始末書の書き方を学んだ。韓国でもその筋には目明しタイプで寄り目の人間がいるのを知って感動した。帰国して非常勤に行ったら村山七郎先生にであった。いきなり語源の話をされアルタイ語に関するロシア語テキストの演習に出さされて慌てた。中期語の研究会にも出ていたが、台湾にでも逃げ出そうと手続きの最中に九大から声がかかり、そのあと東外大から話が来た。どちらも一面識もなかった。月給って歩合と違って気楽なものだと感じた。大学や学会ってのは研究をするところだと錯覚していた。世間知らず! 大学は外で名を売るための看板。あわよくば人を陥れようっていう人間が蠢いているなど思いもしなかった。たしかに誰も学問にたいする疑問など抱いてなどいなかった。定年ですって言うと、外大やめれていいですねって言われた。朝鮮関係は厭な人間ばかり、自分は朝鮮を専攻しなくて本当に幸せだったとも言われた。なるほどね、今までそんな世界にいたんだ。色々勉強になりました。さあ脱出、再び生きるための奔走開始。皆さんこの次はあの世にて。