三枝壽勝の乱文乱筆



『濁流』の翻訳の後書き 全文

『濁流』翻訳の話が持ちこまれたとき出版社の人には念を押した。いいんですか、いろいろ問題になる内容の小説ですよって。そうしたらできるだけ原文を尊重するように協力するといってくれた。それなのに出版間際になって不適切表現があるので削除するか表現を変えてくれといってきた。表現を変えるにも代わりの言葉がないものがある。それに不適切だといってその前後を削除するというのもおだやかでない。すったもんだの末、それならあとがきでそのこと書かせてもらいますいって書いたものである。結局関係者をあまり困らせないでくださいと泣きつかれてこの後書きも削除訂正を余儀なくされた。

濁流の翻訳によせて(検閲まえ第一稿)

もしかするとこれは何かの間違いなのだ.いや誤解なのかもしれない.『濁流』を翻訳すると決めたのは.どだいこの作品を翻訳しようなどという話をそんなに気軽に発想できるはずがないないのだ.それは私が翻訳を担当することになったことでもわかる.そもそも誰もが翻訳したがる作品なら私のところに話がくるはずがないのだ.本来は翻訳などしないほうがよかったのかもしれないのである.とはいってもたしかに濁流の翻訳を決めたのは画期的なことだった.ただし画期的という意味はいささか複雑な内容をこめて言っているわけであるが.
そもそもこの作品の翻訳がどうやって決まったかといういきさつそのものが謎なのだ.問い合わせても,どうやって決まったか知ってる人がいないというのだ.おそらくそんなことになっているのだろう.つまりこの作品を翻訳すると決定した事実はあっても,その決定に関して責任をとる人は誰もいないということらしい.しかし,おおよその推測はつく.韓国と日本の双方の文化に明るい人が参加していたらこんなことは起こらなかったのだ.おそらく,日本の文化事情を知らない韓国の文学関係者か,韓国の文学のことにあやふやな知識しかない日本の文学関係の人たちが絡んでいると推察されるのである.
なにやら推理小説めいた出だしになったが,朝鮮の文学研究に携わっている者なら濁流が翻訳されるという話を聞けば意外な気持ちを抱くはずなのである.少なくとも私はそうだった.それより前に翻訳してもよさそうな作品はいくらでもあると思われるのだから.日本の事情を知ってる韓国の人ならどうやって翻訳ができるか危ぶむだろうし,朝鮮文学に詳しい日本の人なら一体そんなことが可能だろうかといぶかしがったはずなのだ.とにかく原作を知っている日本の人ならこの作品の翻訳などという発想に二の足を踏むと思われるのだ.
この作品の出版がいよいよ本決まりという事を聞いて私は次のような文を書いた.
 蔡萬植の『濁流』が翻訳支援の対象になったって聞いたとき,「む,なかなかやるな」って思いましたね.もちろん,すぐに「だいじょうぶかな.どうやって訳すんだろ」って気にはなりましたけど.私だって,この仕事が回ってこなかったら,「ごくろうさまですね」と同情かたがた他人事ですましたんです.まさか自分が訳すなんて.誰も引き受けたがらないことぐらいは分かってました.だから「さあ大変」この作品の翻訳が無謀な仕事だというのは読んだ人ならすぐわかりますからね.
 と言って,蔡萬植の作品がとるに足らぬって言ってるんじゃないです.九六年度の韓国の高校の検定教科書一一種のうち『濁流』が載っているのが三種類,ほかに『太平天下』「田んぼの話」を合わせると,彼の作品の載ってない教科書などないんですから.作者だって作品だって有名どころか,知らなきゃ非国民なんですよ.卒業論文でも上位人気作家.ま,それだけ韓国で愛され読まれているということ.だから困るんですね.翻訳できないってんじゃないです.訳せるんでしょうがね,ただ,ちょっと困ることが多いってことなんです.
 作家の紹介もせず話をしちゃわかんないですね.蔡萬植は一九〇二年生れで一九五〇年に亡くなってるからかなり前の作家です.生れは全羅北道沃溝郡臨陂面.ソウルで勉強したあと日本に渡ると関東大震災で帰国してしまい学歴は中退のまま.以後,新聞社や雑誌社に勤めながら小説を書き始めますが生活は苦しかったらしい.高等教育を受けたけど,職はなし,乞食にも劣る,子供には絶対教育なんか受けさせぬ,といったインテリの愚痴とひがみを扱った 「レディーメイド人生」「インテリとお好み焼き」とか 「明日」などの作品を書いた.当時の朝鮮を風刺した作品ということになっている.ちょっと皮肉っぽい社会批判や風刺的な作風が彼の特徴とされてます.風刺の切れ味は一九四五年以後の作品ではいっそう冴えわたり,一〇〇ほどの彼の短篇の中ではかなりの傑作がこの時期に多い.解放後のどさくさの中,殺人犯が警察官になり,仕返しを怖れた元警官が逃げ出す 「孟巡査」とか,大陸放浪の無知な流れ者が覚えた英語で米軍の通訳官になり羽振りをきかせる 「ミスター方」などは,かなり読ませます.「田んぼの話」は,奪われた土地が戻ってくるかと思ってたのにすべて合法的に処分されていて望みはなく,解放されたって何も変わらぬじゃないかいう話.それから日本に協力した文人の苦悩を扱った「民族の罪人」などがあります.
 『濁流』『太平天下』とならんで彼の長編の代表作です.おちぶれたのにまじめに働く気もなく穀物投機にしか関心のない丁主事の長女初鳳の悲劇です.両親の欲の犠牲で不正使い込みの銀行員と結婚させられますが,夫は浮気者,それがもとで夫が殺されるわ,騒動のさなか夫の仲間の亨甫に犯されるわ,家出すると以前の雇い主の馬面男につかまって囲われ者とされて女の子を出産.馬面男がそろそろ別れようかと思いだした頃,折りしも亨甫が登場,おれの女を返せとつめよるや,これ幸いと引渡し交渉が成立.初鳳は亨甫ものに.しかし意にそまぬ生活と忍耐もついに限界,爆発.亨甫を蹴り殺して囚われの身というのが粗筋.話がいささか荒唐無稽なうえ悪役の亨甫は身体不具者,叙述がおだやかでない.翻訳に二の足を踏みたくなるのは無理もないわけです.それでも前半は能無しの丁主事のぐうたらとだらしなさがけっこうユーモラスで当時の世態の描写としてもなかなかだと評価は高いが,後半の初鳳の話にはいささか風当たりが強いのではないかしら.
 だけど?ちょっと待って.そんなもの何で韓国でそんなに読まれてるの?その程度の水準で文学が通用してるの?さよう,日本人なら当然そうなるんですね.その秘密は文体.もっとはっきりいって日常の俗な会話をそのまま生かした語り口なんです.短篇も含めて彼の作品の特色と言われるのはその独特の語り口にあるというわけなんです.作者の出身地の方言を生かした語りと言えば,韓国語を知ってる人「ああ,あのパンソリと言われる語り物の話体か」って思うかもしれませんね.そうあのお喋り好きの饒舌体がふんだんに生かされている文学の伝統に属してるんです.だから,困るわけです.たしかに原文ではその特色は他の作品と比べれば一目瞭然ですけど,こんなのどう翻訳するんですかね.心配になりますよ.品のよい日本語になおすという常套手段をとったって,この場合は筋が筋だけにうまくはいかぬし,かれらのお喋りは日本人のお喋りとはちがってるし,結局ほかの作品とはうんと違ってるんだぞ,ということをあらわすために,ちょっと日本語らしくないごつごつした翻訳でもしようかなってことになってしまいそうなんですけど,みなさん許してくれるかどうかとっても心配です.でも洗練されてない日本語のかげにそんな原文のおもかげでも察してくださいと祈る思いでいます.でないと永久にあちら独特の雰囲気は日本に絶対に紹介されないことになってしまいますものね.
『日韓文化交流基金』no.5 1997 autumm(1997.11..28)
どうやらこの作品は翻訳にはかなり不向だということなのだ.理由はこの作品が語りの文体であって,それを生かす訳はかなり困難であること,そして筋だけとりだしても中途半端であまり出来のよくない女の悲劇にしかならぬだろうことだった.この作品は原文で読みたい人が読めばよいのであって,わざわざ翻訳するというのは何か特別な目的がある場合に限ると言ってよいかもしれない.といっても原文で読んでも蔡萬植の作品はちっとも面白くないという日本人がいるから,もしかすると日本人には近づきにくい作家なのかもしれないのである.やはり一九三○年代の作家である金裕貞も似たところがある.この二人の作家の作品を原文で読んで自然に受け入れられるか否かが朝鮮文学の世界にどれだけ親しんでいるかの指標になるといってもよい.少なくとも韓国で金裕貞の作品が嫌いだという人に会うのは至難のわざである.私が会って話した人はすべて金裕貞の作品が好きだった.蔡萬植も似たところがある.つまりこの二人の作品には現在のところ韓国人の感情にぴったり合う何かがあるのである.
もちろん彼らの作品を読んで,作品としてよく出来ていて優れているとか,いやそうでないとかいうことは言える.日本人にはそういうことを言いたいらしい人が多いし,作品の評価がそこでとまってしまうことも多い.その先に進めば,将来のことは分からぬが少なくとも現在のところ,なぜ韓国の人が彼らの作品を読んで共感できるのかが気になってくるはずだと思うのだが,そんなことに関心のない人もいるのは確かだから仕方がない.しかし蔡萬植や金裕貞の作品がなぜかの地の読者にさほど抵抗なく自然にとけ込み受け入れられているのか,そのことを理解し,さらには外国人として同じように感じることが可能だろうかと疑問を抱くことは,さほどよけいごととは思われない.少なくとも彼らの作品を読んでその読者たちの好みが無理なく納得できるようになって始めて外国文学としての朝鮮の文学の世界に近づいたことになるという気がするのである.たんに蔡萬植や金裕貞の作品のうちあるものはいいけど他の作品はだめだ,とか言っているうちは趣味や知識としての世界に留まっているのであって,読者を含めた彼らの心の世界には達してはいないと言えそうである.
そういった意味で蔡萬植や金裕貞の作品を読んでどの程度感じ取れるかが外国人として朝鮮の文学にどれだけ近づいたかを測る指標だといったのである.かの地において理屈を抜きにして多くの読者に好んで受け入れられている作品を読んで,やはり同様に理屈ぬきに自然に受け入れられるようになったとき外国文学としての接し方がある段階を越えたと言っていいだろう.もちろん個人としての好みは別個にあってもよい.ただその個人的な好き嫌いをもって異質な発想と感情を持った世界を測る絶対的な尺度としないようにしたいということなのである.ここで言っているのはあくまで外国文学を通してその文学を支えている作者と読者たちの世界にはいり込めるか否かの問題なのである.そして『濁流』の翻訳に際して私が問題にしたいのはまさにこのことである.文学を通して異質な世界の人々を理解すること,異質な発想を理解すること,または異質な世界の感情を感じ取ることの問題である.
金裕貞はさておくとしよう.蔡萬植の作品を読んですぐ感じられることは,彼の文章の饒舌性である.彼の文章は洗練された文章語というものからは程遠いように見える.この文体の特色が作品に彼独特の雰囲気をかもし出している.その饒舌体は彼の出身地が全羅道であることを聞くと,ああ,あれか,と言い出す人もいるかもしれない.あの春香伝や沈清伝で知られている,そして映画になった李清俊の小説 「西便制」でおなじみの,パンソリの故郷がまさに全羅道である.パンソリというのは一種の語り物であるが,その語りにはいかにも饒舌そのものといった要素がある.したがって蔡萬植が全羅道出身で,その作品が饒舌体とでもいうものであると言えば,すぐにパンソリを結び付けたくなる人が出てくるのは当然なのかもしれない.たしかに全羅道はパンソリの本場だけあって,その地方の人のパンソリに対する愛着は特別なものがあるようだ.蔡萬植の作品の長編 「太平天下」に出てくるけちな主人公もパンソリといえば何はさておき聞き逃すまいとラジオの番組を楽しみにし,公演があると聞けばいかにして金を使わず入場するかの算段に頭をめぐらす.おそらくパンソリを生み出した風土とそこの出身作家の作品がパンソリと何らかの関係を持っていることはありそうだ.しかしその関係というのを単純な同質関係や影響関係と考えないほうがよいだろう.ましてやパンソリを持ち出したことで全てが説明できたと思いこむのは論外である.これでは説明の言葉をおきかえただけである.
たとえば現代の作品でパンソリを連想させるものと言えば金芝河の風刺的な長詩があるが,あれだってパンソリそのものではない.たしかに金芝河の 「五賊」を読めばすぐにパンソリの語りのリズムになってしまいそうになるのは事実である.しかしあの詩はあくまでパンソリを連想させる近代の風刺の詩なのであって,あの詩をそのままパンソリのリズムに合わせるのだといって朗読したらとても単調で聞いていられないものになってしまう.パンソリ調というふれこみの実際の公演で 「五賊」を聞いた人ならすぐわかるように,あの詩をパンソリ調で語るためには,もとの詩を適宜にアレンジし取捨選択しながら即興の語りを随所に折りこまねばうまくゆかぬのである.そうやって印刷された行儀のよい整った文章の体裁を崩すところにパンソリの独特の特色があるといえるのである.このことは文体の特色といえるだけでなく作品全体の性格にも関連してくるのである.
『濁流』をもしパンソリと結びつけるのなら,こうした破格的な構造をもったところで見たほうがよいかもしれない.原文で読むとすぐ分かるのだが,この作品は必要以上にくだけた俗な文体で書かれているという印象を受ける.単に物語を進行させるのだったら,もうすこし文章体として整った書き方をしたってよさそうなものなのに,かなり荒っぽく俗な書き方をしているようにみえる.まるで文章など書いたことなかった人間がふだんしゃべっている語り口そのままに写し取ったようなところがあるのだ.したがってこの小説の文体がそのままパンソリではないことは確かだが,語りの口調を写していると言う点,そしてその語りがかなり俗っぽいという点ではパンソリと共通だということはいえるかもしれない.
パンソリだって今では古典芸能として扱われてはいるし,そのテキストの中身はかなり衒学的な難しい言葉の羅列が多いのは事実だが,一方では非常に俗で,かなり品の良くないところが多いのも事実である.悲しい場面なのに場違いで卑猥な冗談が飛び出したりとか,とにかくちぐはぐな構成がなんとも言えない雰囲気を作り出しているのである.パンソリが古典芸能となって人間国宝の語り手が伝承の台本にそって公演するようになった現代でも,かなりの公演ではふんだんに即興的な要素を織り込みながら語られることが多いから,昔からの伝承の過程ではかなり色々な異なった内容が生じえただろうと思われる.もちろん昔も今と変わらず道徳的な君子はいたもので,日本で翻訳されている申在孝の編纂した台本などはそのうちでもかなり上品なものに思われる.だから翻訳で読んでちっとも面白くないのは当然である.台本そのものが元来の語りを完全に写しとっていないところへもってきて,品のないところを修正してあるわけだから,それを翻訳したものは元来の生きたものからかなり遠ざかっていることになる.もちろんそういう内容だから伝承の古典として教室でも扱えるわけで,今のポルノ映画や小説だってちょっと修正を加えて古典にしてしまえば将来は安心して老教授がまじめくさった顔をして教える教材になろうというものである.

文体と関連しているはずの内容においても日本ではなかなか受け入れにくいだろうという話しをしておこう.私も最初に蔡萬植の作品に接したのは彼の代表作と言われる 「レディーメイド人生」とか 「痴叔」などの作品だったと思うが,いわれるほどその風刺とかユーモアというものにはひかれなかった.私にとって非常に印象に残った彼の作品は解放後に書かれた 「民族の罪人」であった.
この作品は親日問題を扱った作品である.親日というのは植民地時代の対日協力のことである.朝鮮では解放後における民族共同体樹立にあたって過去の対日協力の清算が思想的にも政治的にも大きな問題となっていた.ちょうど敗戦後の日本における戦争責任や転向問題のようなものであった.しかしながら三十八度線以南では親日行為を行った者に対する断罪が政治の実権を握った李承晩らによってうやむやにされ,そのことが現在までも未解決の問題として尾をひいている.この点でも日本の戦争責任問題とどこか似たところがある.
そして日本の戦争責任問題でも同様だったが,この親日問題に関してもその断罪の対象となる当事者の発言というのはきわめて稀であった.その稀な例として蔡萬植の作品 「民族の罪人」が挙げられるのである.私が最初この作品を読んだ時,対日協力の当事者が自分自身の思想問題を扱った作品としては他に類を見ない唯一のものだったので非常に印象づけられたのであった.蔡萬植は当初作家として登場したころはプロレタリア文学の同伴者的位置にいて作品を書いていたのに,植民地末期には 「女人戦記」という作品を書いたり,日本の戦争に協力する講演をしたことがあって,このことが作家自身にとって非常な心の重荷となっていたらしい.対日協力としてはさほど悪辣だとか悪質だとは言えぬにせよ,彼にとってはこのことがかなり心にこだわりを残しており,この過去に対する決着をつける必要からこの作品を書いたと思われるのである.
作品は作者をモデルとした語り手の人物とその友人,そして新聞記者だったが植民地末期には故郷にこもって一切対日協力を行なわなかった人物という三人の間の会話が中心となっている.とくに語り手の友人と新聞記者の間の激しい議論がこの作品の要となっている.元新聞記者が,解放後も世の中が依然として対日協力した人間たちによって牛耳られているどころか,彼らがあたかも民族のため戦ってきた愛国者然として振舞っているのが気に食わぬといって非難を浴びせかけたのに対して,この友人がたしなめるところから議論が熱を帯びてくる.友人の言うには,新聞記者が対日協力せずにすんだのは,彼が筆を折って田舎にこもったからだが,彼が田舎にこもることができたのは父親に財産があって生活が保証されていたからだ,というのであった.親の財産で非常時に何の苦労も知らず暮せた人間が,対日協力のため筆をとらなかったのは確かだが,しかしその当人が果たしていざという場面で抵抗を貫きとおすだけの強固な節操を持っていたかどうかなど一度も確かめられてはいないではないか.只もうけした潔癖を売り物にしてやたらに自慢をして他人を馬鹿にするものではない,といった議論を交わすのである.詳細は省くが私にはこのやり取りが非常に緊張感を帯びており印象的であった.
この作品を書いたことで自分の対日協力に対する整理をした作家はこうして解放後における作家としての再出発を果たすことができたらしい.この作業と解放後の世相に対するかなり辛らつで鋭い皮肉を込めた 「ミスター方」とか 「田んぼの話」「孟巡査」などの短編とは密接に関連しているようだ.これらの作品も彼の作品の特色である風刺的な性格が現れているが,それにしても植民地時代の 「レディーメイド人生」「痴叔」に比べると自分自身を含めた世界にたいする風刺の鋭さと深さは増しているように思われる.少なくとも最初読んだとき私には解放後のこれらの作品の方が作品として質が高いと思われたのであった. そしてこれらの作品発表で作家としての再出発を可能にしたその中心にある 「民族の罪人」執筆が蔡萬植にとって重要な出来事だと思われたのであった.
しかしこの 「民族の罪人」が作家にとって非常に重要な作品であるということには異存ないものの,質の高い文学作品と認めるには躊躇せざるを得ず,したがって小説としても評価しにくい作品だという印象は捨てられなかった.その理由は作品の結末の部分にある.この作品の語り手は友人と元新聞記者の激論を聞いたあと頭が混乱して家に戻ってから寝込んでしまう.彼がふたたび民族の一員として再出発できるよう勇気づけてくれたのは彼の妻だった.彼は妻の慰めと激励をうけてやっと解放後において自分の存在意義を認めうるようになったのであった.ところがこの作品にはさらに,一見すると蛇足とも言える話が続いているのである.こうやって解放後の再出発に対する意欲を取り戻したところに,彼の甥が訪ねてくる.学校があるはずなのになぜやって来たかと問うと,学校では同盟休校していて勉強できないので,その間勉強するためやってきたのだという.そこで語り手は,同級生たちが民族の将来を考えて同盟休校しているのに自分だけ抜け出して勉強するなどはもってのほかだと諭して甥を帰らす.そして語り手が心の安らぎを感じるところで作品は終わる.対日協力で少なくとも民族の罪人という意識を持った人間が他人に民族の将来を説くというのが最初に読んだときからかなり違和感を感じさせたのであった.
しかし最近ではこの作品に対する私の見方もかなり変わってきた.蛇足で作品を台無しにすると思われたこの部分があるからこそこの作品を読んでほっとするという韓国の読者がいたからである.もちろんこの読者の読み方を文学作品の読み方の質として問題にすることはできる.しかしそのことよりこういう読み方が存在することが,これまで多くの作品において日本の読者に違和感をいだかせ躓きのもととなってきた多くの点にたいする解決の手がかりを与えてくれるような気がしてきたのである.少なくとも日本の読者が日本の文学作品と同じ対し方をもって朝鮮の作品に接していては理解できぬことがあるということである.朝鮮の作品はその作品と読者の世界の論理をもって読むことによって理解され読者に伝わってくるということである.この結果は味気ないほど単純であたりまえであるが,この単純さほどに実感をもって体得することはさほど簡単でなかったということである.作品『濁流』においてもこのことは変わりはないと思う.ここにも少なくとも現在のところまだ生きているかの地の文学を支えている伝統がひそんでいるのだ.

結局蔡萬植の『濁流』においても文体と作品の構造とはかなり密接な関係をたもっているのだ.文体を無視すれば荒唐無稽なあらすじしか残らぬのはあたりまえである.その文体をできるだけ生かすことが翻訳によってこの作品を再現するのに重要なわけである.どうすれば原文を生かせるのか.原則は,原文においてさまざまな表現のしかたがあるのにそのうちのある表現が選ばれているなら,その採用されなかった表現との対比において,採用された表現を再現することであろう.その際,原文の饒舌な語りを日本語における饒舌な語りをあてはめるやりかたが考えられるが,今回はその方法をとらなかった.採用しようとしたのは原文にある文の要素をいちいち訳文に反映させるというやりかたである.いわゆる直訳といわれ評判のよくないやり方に近いかもしれない.私はこのやりかたで意識的に出来るかぎりぎごちない日本語の表現を提示しようとした.こうして日本語のなかに異質さをもちこみ,日本語の体系を乱すような試みをしてはどうかと考えたのである.一見悪趣味な試みだが,この作品の場合,それ以外の翻訳では何が残るのだろうか.とりとめのない筋だけを残してもさほど意味がないとすれば,こうしたぎごちない日本語を提示することで読者に違和感を感じさせ立ち止まらせようとしたのである.このことがその背後にあることがらに思いを馳せるきっかけを与えるかもしれないと思ったのである.

ところが,翻訳の過程で以上のことがらとは別個の問題が生じてしまった.なにせこんなふうな書き方であるわけだから,かなり奔放な言葉遣いをしているのは当然であろう.そこで使われている単語や表現に不穏当な部分があるので考慮してくれという要求を受けたわけである.不穏当というのはいわゆる不適切な表現というものである.一つは残虐な場面であり,もう一つは身体的・社会的な弱者に関するものである.
この作品では前者で問題になったのはさほど多くないが,それでも該当部分の前後を削除して欲しいとなるとおだやかでない.たしかに現在の日本では,たとえばテレビではたとえ事実を伝えるはずのニュースであっても血なまぐさい場面が放映されることは皆無である.というより日本のテレビのニュースというのはあたりさわりのない希薄な解説を流す番組になってしまった.その理由というのがお茶の間で見るのにふさわしくないからであるということらしい.ニュースというのは何を伝えるかと同時に何を伝えないかがかなり重要な要素になっているはずだが,日本で後者が問題にされ取り上げられることはほとんどない.日本の放送の感覚からすると西欧ではかなりどぎつい場面を放映していることになる.そんな遠くに行かずとも近くの国で言えば,韓国でもかなり生々しい場面が映される.北の工作員が侵入した事件では,捜索のため行なわれた山狩の際に射撃戦で飛び散った死体が何度も登場した.さすがの韓国でも行き過ぎだという声が上がったと伝えられるが,それでも放映はされたのだ.台湾などもっと凄まじいように思う.毎日のように焼け焦げた死体やら血だらけの死体が写される.首を切って血まみれになって自殺する場面が写し出されたこともある.画面の中にいる現場の見物人は顔をそむけているのに,テレビを見ている方はそれを見ながら食事をしてたりする.実は私もそうやって夕食の肉をほおばりながら血まみれの人間を眺めていた.
どうやら問題は別にお茶の間の思想なんて高級なものでなく,単なる習慣の問題なのかもしれない.確かに日本と違って韓国や台湾の精肉店ではばらした牛や豚の肉のかたまりがそのまま繁華街でも目の前に並んでいるのであり,目の悪い私は遠くから色とりどりな女物の服を売っている店と間違えたことさえある.市場に行けば鶏をつぶして羽を毟ったり骨付きの肉をたたいているそばで食べ物を食べている.韓国の市場では豚の頭や,時には牛の頭と対面することは珍しくなく,犬だってその手の市場に行けば各種さまざまな形をした死骸が恨めしげに並んでいる.そういえば日本では家を建てるとき神主を呼んでお払いをするが,韓国では何かというと腹を裂いた丸ごとの豚か,でなければ豚の頭を供えて告祀という儀式をするのである.学生運動だってかつては学年初めにデモの出陣式とかいって豚の頭をそなえて告祀を行っていたではないか.それに比べると日本では極端に分業が進み過ぎてしまったのだろうか.こうした職業は一般人に関係ない世界の出来事として排除されてしまったのであろうか.この分でいくとそのうち,カマボコのみならずハム・ソーセージ・刺身の切り身まで,木に生っていると思い込む人間が現れないとも限らない.
残虐というならもちろん食用の動物より同胞である人間に対するものの方が重要だと思うが,こちらも私たちのところでは表面に登場するのはステレオタイプの事件ばかりである.こんなことを言ったからといって私は別に,隠れた所で行われている残虐さを公開せよとか,秘密は明らかにせよと言っているのではない.どんなに世の中がしとやかに見えるようになったとしても,その陰で残虐な行いはあるもので,とくに合法的な残虐行為が消え去ることは当分ないだろうと思う.しかし私がここで言いたいのはそんな大げさなことで無く,外国の小説を翻訳するときまで,日本の社会の習慣や考えを押しつける必要はなかろうということである.蔡萬植の『濁流』は何も前衛的な技法でもって人を驚かすような性格の作品でもないし,極端な思想でもって社会の常識に挑戦したサドの小説とは違うのだ.すでに述べたように韓国の教科書にも採用され,高校での必読書の一つでもあるのだ.つまりこの小説は普通に一般の人が受け入れているものであるということだ.将来はいざ知らず少なくとも現在のところでは問題無く人々に受け入れられている作品である.ということは原作を生み出し支えている人々の思考や生活の習慣を知る上でさほど異常な作品ではないということである.これは何も一方の社会が進んでいるとか,遅れているとか,あるいは理想的な社会であるとか否かということを論じているのではない.単に,現にそうやって当たり前に受け入れられているということを,率直に翻訳し紹介してもよいのではないかと言うことなのだ.恐らく蔡萬植の『濁流』の翻訳を読むほどの人は自分の意思で代金を払って読むであろう.この翻訳を読む人は自分の責任において本を選択して読むわけである.自分の意思に関係なく見たくも無い場面を見せられるのは不当だといって文句をつける主体性のないお茶の間の視聴者とは無縁だと思うがいかがであろう.
ところが以上の問題より 第二の場合の方がこの作品の翻訳にとって重大な支障となった.この作品でかなり主要な役割を果たしているのが享甫である.彼は身体障害者である.それだけでなくその身体的特徴が彼の性格を特徴付けるものとして使われているところもある.この場合は先ほどの場合と違ってかなり処理に困難な問題をはらんでいる.日本でよくやるように原文で使われている言葉を他の言葉で置きかえるという手段はこの場合うまく行かない.置きかえる言葉が見つからないのである.たとえ見つかったとしても,この作品には不適切な表現があるので他の表現に置き換えました,などと平然とした態度はとりたくなかった.いかにも原文が遅れた思想をはらんでいるとでも言いたげな,または日本の習慣に合わないからという態度をとって,日本の習慣を相手に押し付けるという態度はとりたくなかった.あたかも原作者の言葉遣いが間違っているから正してやろうというような,そのほうが優れた作品にでもなるといった態度は相当に原作者をばかにしているのではなかろうか.双方の習慣が違っているというならこちら側が相手の習慣に合わせる可能性だって残されているはずである.
何度も同じ事を繰り返すようだが,異質な文化を異質なままで受け入れることをせず,自分の方に合わせて解釈することでは,結局異質な文化から同質なものを探ることにしかならぬ.私はこの作品の翻訳はあくまで異質な文化的背景の中から生み出された作品の資料紹介の性格を帯びていると思っていた.その内容がいかに日本もしくは世界の常識に逆らうものであっても,それを隠すより明らかにし知らせることに意義があると思っていた.はっきり言っておくが,私はこの作品をぜひ日本で翻訳しなければならぬと思ったことはない.ただもし翻訳するとすれば上記のような紹介の仕方をするのが意義があると思ったにすぎない.翻訳をするとき,そして翻訳を読むとき,異質な習慣に出会い違和感を感じると同時に,なぜそうした異質さが生じるかについて考えてもよいだろうと思ったに過ぎない.別に日本の方が進んでいるなどということを主張する必要はなかろう.思想のないものは身軽に時代の最先端を走ることができるものである.さほど自慢にもならぬことだ.ましてやおせっかいに他者のことを気にかけ,遅れているとみなす他者に遅れていることを指摘し指導するなどということがあっては,その精神においてかつての植民地支配者の精神となにも変わっていないことになるではないか.

いったいこうした不適切な表現と言われるものの問題点はどこにあるのだろうか.私は決して不適切な表現,差別的な表現などいくら使ってもかまわぬと主張しているのではない.こうした表現で傷つく者が生じることはあってはならないと思っている.それは単に社会的に問題となる言葉だけに限られない.たとえ個人的なものであっても,ことさら無意味に個人を不愉快にし傷つける表現は避けるべきだと思う.もしそういう表現が可能な場合があるとすればそれはそれなりのいきさつと背景があってこそ生じるものと思っている.一般によく問題とされるのは身体または職業を表わす言葉が否定的な表現として使われる場合であろう.そしてその表現がその当人の存在に対する否定的評価に結びつく場合である.この作品で訳者に考慮を要求されたのもそうした表現についてであった.しかし,それではその否定的な表現に使われる言葉を他の表現に置き換えたら問題は解決するのであろうか.誰しも感じるように決してこうしたことでは問題は解決しない.もちろん置き換えなどせず元のままでよいなどと主張することでも問題は一向に進展せぬのである.私はそんなことを主張しているわけではない.私はこの翻訳で表現の自由を主張しているわけでもないし,そのことに命をかけようとしているのでもない.私にはそれほど確固とした主張があるわけではない.したがって以下ではこの問題に関連して翻訳に際して何を感じたか,そして翻訳でどのような対策をとったかを述べるに留めておきたい.
身体的な特徴に関する言葉がなぜ問題になるのか.もちろんそれはその言葉に否定的な意味がこめられているからである.健常者という言葉がある.妙な言葉だが明らかに身体的に欠陥がなく正常であるという肯定的な意味を持っている.この言葉が生きている限りそれに対比される言葉は否定的意味合いを帯びる.そしてある言葉が否定的な意味を持っているということは,その言葉の指す対象が否定的に評価されているということである.言葉をいくら変えてもその言葉によって指し示される対象が否定的に評価されている限り,社会における関係は一向に変わらないのはあたりまえである.誰でも人間は平等なのだとか,頭の良し悪しなど関係無いのだとか,またはそれぞれの能力に応じて生きて行けばいいのだと主張しながら,一方陰では自分の子供だけは一流大学進学させようと必死になるなどという欺瞞が生じるのは,表現をいくら変えても事実としての評価が変わらぬと本質的な解決が得られぬことを暗示している.口では頭の良し悪しによる差別は良くないと言いながら,事実として頭の良いことに肯定的評価を抱いている限り事態は変わらないのは当然である.身体的な特徴に対する表現をいくら変えても健常者という言葉が存在する限り,健常者でないものに対する表現はそれにたいする欠損を表現してしまう.言葉の言い換えで問題は解決せぬというのはその点では一理あるのである.健常者という言葉を肯定的に使い,そうでない身体を欠陥があるという意味で否定的にとらえる思考態度は,病気の場合でも性格の場合でもさまざまな場面で同様に起こりうる.
要するに問題は人間の職業,身体,性格,健康状態,社会的態度などに対して,垂直的な評価基準の序列体系を設けたときに始まる.そして本来は単なる事実としての評価基準であったものを人間の存在価値としての肯定的,否定的な評価として比喩的に使うことから波紋が生じる.これには社会的な要素がかなり大きそうである.どうやら私たちの社会は通常ではないとみなした事物を差別し排除する構造をもっているらしい.私にはどうしたらこうした構造を変化させ問題を解決させることになるかを述べる力はない.ただこうした問題が解決したときにはどういうことが起きるか想像してみることはできるかもしれない.すなわちそのときには言葉ではなく,その言葉の遣い方が変わっているのではないだろうか.ある言葉が否定的な価値判断の比喩と結びつかなくなった状態というのは,現在行なわれているようにその言葉を抹消することを意味しなくなっているだろう.言葉ではなく価値判断とその比喩の仕方が変わっているのではないだろうか.言いかえると本来の評価基準は存在しながら,価値判断としての言葉の遣い方はそれに対して多様になった状態である.つまり評価基準のどの段階も肯定にも否定にも使われうる社会における言葉の世界である.
たとえば,健常者のように卑劣な人間とか,正直で悪辣な人とか,明るく人付き合いのよい偽善者とかいった表現が可能である社会を想像できるとしたならどうだろうか.かなり思考が柔軟になっていると同時に,発言者が価値判断に責任をとる社会を想像できないだろうか.しかしながら一人一人が自分の責任で自分なりの価値判断をするということは社会を維持する立場からすると望ましいことでないのかもしれない.それどころかこんな主張は妄想どころか誤解をまねきかねない.うっかり 正義と秩序の味方である犯罪者などと言おうものならかなり危険な思想と疑われかねないのである.
結局おおげさなことを述べたかもしれないが,当面のところ翻訳の仕方としては気の抜けた妥協策しかないのかも知れない.今回の場合翻訳者に要求されたのは,不適切な表現のある文または文節を抹消するか他の言葉で置きかえるようにできないかということであった.それに対して訳者はそのどちらも原則として望ましくないという考えであった.それは先にものべた作者蔡萬植の文体をできるだけ考慮する翻訳をするということと同じ理由であった.しかし文体のときには問題を引き起こしても訳者の責任で済むが,こんどの場合そうはいかない.訳者は現在の日本の社会でもしかすると起こりうる社会的波紋に対処できるほど確固とした主張を持っているわけではない.しかも出版社をこういう問題に巻き込み迷惑をかけることも避けたいと思った.社会的な波紋に個人や一出版社の力で対抗できることなどしれているのだ.

結局私たちは次のような妥協策をとることにした.問題になりうる可能性のある個所はかなりあるが,できるだけ原文を生かすことを認めてもらうこととし,それがうまく行かぬ少数の場合には多少離れた訳も認めることにした.しかし置き換えの認められぬ場合にはその部分の原文にそった翻訳を断念した.そのかわりその部分は一律に 「例の」という日本語を挟み,その部分が翻訳に際して問題になった個所であることが分かるようにした.元来の翻訳で 「例の」という訳文を使ったところはない.したがって原文の分かる人はその部分に対応するもとの文を確認することができるはずである.
これらのことも結局は社会的習慣の問題なのかもしれない.たとえばこの作品と同じ問題を引き起こしそうなものに韓国の民族芸能の一つであるコプチュノリというものがある.これは背中をまるめてまさにその身体的特徴を強調しながら観客を笑わせる野外の踊りである.身体的欠陥を笑いの材料にするなど持ってのほかだという声が起こりそうだ.おそらくこの踊りの名手孔玉鎮(コン・オクチン)は日本公演においてかなり非難されたのではなかったろうか.韓国ではどうなのか.この踊りで傷つく者がいる可能性は否定できない.しかしそれが民族芸能として認められているのも事実である.こうした踊りが存在している背景はさまざま考えうるのだ.私たちはこの現実にたいして,彼らの社会が遅れているとか,考えを改めよと抗議せねばならぬのだろうか.否定的な表現が侮辱感を与えるか否かも状況に左右される可能性もある.どんな場合にも侮辱感を感じなければならないと啓蒙しなければならないのだろうか.そういえばむかし 「猿の惑星」という映画があった.原作者のことを考えるとどうやらモデルは日本人かもしれないのだが,この映画を見て侮辱されたと感じた日本人はいなかったと記憶する.大部分の日本人は楽しんで鑑賞していたようであるが,これに対して日本人に対する侮辱だと注意を喚起すべきだったのだろうか.
以上この作品の翻訳を読む者のとっては煩わしいほど内輪の話を延々と述べてしまったかもしれない.しかしこうしたことは頻繁に繰り返して言っておかねばならないと思う.未だに朝鮮語の文学作品の翻訳の仕方は百年前とほとんど変わっていないからである.いまでも日本には朝鮮語の翻訳を外国文学の翻訳として本格的に手がける者がほとんどいないのである.相変わらず百年前と同様に,朝鮮人が訳した訳文を日本人が手直しして整った日本語にするか,日本人が練習問題として訳した翻訳を朝鮮人が訂正するといったパターンの組み合わせから抜け出ていない.どんなに拙くとも日本の訳者が努力して翻訳はいかにあるべきかを意識しながら朝鮮語の翻訳の伝統を作り出すことから始めなければならないと思うのだが一向にこういった動きが見えてこないのである.あつかましく恥もかえりみずおおげさなことを書いたのはこの分野でもうすこし真剣な試みが起こってほしいと思ったからである.

この翻訳が始まったのは確か一九九五年の初めではなかったろうか.日韓交流基金の年度内の事業ということで年度内に終わらせてほしいという話であった.本来なら数年かかる内容で普通なら不可能な仕事だったうえ,本務のあいまに作業を進めるというのでかなり無理な突貫作業をおこないその年の十二月に最初の翻訳原稿を渡した.それでも一人では手におえず最初の訳では十五章以下を岸井さんに協力してもらった.時間的に切迫した作業の上,上記のような文体上の問題をかかえていたので,語彙集を作成しながら出来るだけ前後で食い違いのないようにとこころがけた.しかし,やはり無理な仕事であったことには変わりなく,結局当初の計画の通りの翻訳作業は出来ずじまいになってしまった.初出の『朝鮮日報』のマイクロフィルムや解放後の単行本も一部では使用したが全面的な対照は行ないえなかった.そうして最初の翻訳を渡したあと出版の計画が中断していたのでそのままになっていたところ,今年になっていよいよ出版ということになったので,最初に訳してあったものを再検討することになったが,いかんせん時間があまりに経ちすぎて仕事に一貫性を持たせることが出来なかった上,時間の工面がつかず十分な検討ができなかった.最初の翻訳原稿が出来たあと,韓国では蔡萬植の作品の語彙集や初出の形の単行本化もなされ出版されたが,これらを十分に利用する余裕もなかった.未解決の語彙の調査も行えずじまいになってしまった.したがって先にはかなり大げさなことを述べたが,実際の結果は最初の原稿に出版者側からの語句訂正の要求と今回の訂正もあわせてかなり複雑な内容の翻訳になった.しかも私が最後の段階で日本を離れてしまったので,最終原稿の検討と校正などはすべて岸井さんにお願いした.本来ならとうてい出版する勇気のでぬものであるが彼女が目を通してくれたことで多少とも一貫性のある内容になっていることを願うのみである.
なおこの翻訳の初出と翻訳の底本としたのは次のものである.
『濁流』 初出『朝鮮日報』 1930+ 不詳
『蔡萬植全集』第二巻(創作と批評社,一九八七年)
「濁流の桂鳳」初出、書名、出版時期不詳
『蔡萬植全集』第十巻(創作と批評社,一九八七年)
一九九九年春 台北にて 三枝壽勝