三枝壽勝の乱文乱筆



韓国人が最も羨ましかったある日の話

以下の文章は韓国でチョ・ヤンウク氏が発行していた刊行物に書いたものの翻訳である。文中にあるように私はある国際シンポジウムに招請されて発表した。自分から申請して参加したのではないので、通常通り発表講演料も原稿料が貰えると思っていた。たしかに韓国人の発表者には手当てが支給されていた。私は厚かましくも主催者にそのことを話したが結局拒否されたので、腹立ちまぎれに旅館で一気に以下の文章を書いて投稿すると同時に、「朝鮮日報」社に連絡をとってもらいこのことを記事にしてもらうことにした。担当の記者はソウル大のキム・ユンシク教授にも取材し、私のことを調べ記事を書いたが、発表の前になって新聞社の上層部から差し止められてしまった。その理由は、ここで問題になっている大学院長というのは韓国の反体制民主化運動の知識人としてかなり名声のある人間であり、新聞社とも関係を持っており、その人の名誉を傷つけることは好ましくないということであった。なおホテルにその大学院長の著書を持ってきた教授というのはその人の娘にあたる人で、やはりこのシンポジウムで発表者になっていた。どうやら財政的にはなんらかの問題があるどころか、かなり余裕があったとも聞いた。反体制の有名人の正体というのはどこでも同じだということを改めて実感するとともに、後援者をうまく獲得することによりこういう国際会議が主催者にとってかなりの利益をもたらすことを目撃した結果になった。
 今年の五月だった。韓国のある大学から招請状が来た。その学校の大学院長が委員長となっている国際学術シンポジュウムに参加して発表してくれとのことだった。題目もすでに決められていた。原稿はあらかじめ提出するようになっていたが締めきりが六月末だった。資料調査など準備作業を考えると時間的にとても無理な日程だった。その上つねに仕事の多い私の学校の事情から見て、どんなに早くても七月末にならなければ作業を始められそうになかった。しかし私はどんな犠牲を払ってでもその依頼を受けることにした。なぜならその招請は私が尊敬する著名な文人が推薦してくれてなされたものだったからである。
 七月の末、山のようにたまった仕事は相変わらずだったが、講義がなくなったことだけをたのみに準備を始めた。国際電話で最終的な締めきりが八月末だというのを知り、その時まで原稿を書くことに決めた。あらかじめ論文の内容の方向も決められず資料を読んで行きながら主題を探す作業だった。入学試験問題作成の準備、すでに終っていなければならない翻訳の原稿、韓国大使館で発行する雑誌の原稿など、まずしなければならぬ仕事はあまりに多かったが、その担当者には頼みこんで延ばしながら資料を読んでいった。なかなかアイデアが浮かんでこなかった。八月もあと一週間しか残されていなくなったころ、やっと感覚がつかめ2日で原稿を書き送ることができた。その日は学校に出す報告書、翻訳原稿、韓国語の参考書の再版の校正などなど締めきりが重なって、朝六時から始めた仕事は夜十時にやっと終えることができた。その間に体重は三キロ減っていた。
 そして九月、新学期が始まった。シンポジュウムのある期間は学校の事務も多かった。あらかじめ私の代わり報告する人を頼んでおき、色々な会議の欠席許可も得て、韓国に来ることができた。月給日の前なので金の準備も出来なかったが、それはいつもの通り学会で受け取る謝礼、原稿料などを当てにして、最低限の交通費だけ持って出発した。担当の大学の総長とシンポジウムの準備委員長である大学院長の挨拶で始まった開会式に続いて、分野別の発表が進行した。次ぎの日、私が担当する発表もさほど大きな問題もなく終った。韓国に留学して来ている私の大学の学生たちと、私の学校に留学して来ていた韓国の大学院生たちが沢山来てくれた。夕方これらの学生たちと酒の席を共にすることになった。
 ところが困ったことが一つ生じた。シンポジウム2日目なのに、まだ発表者にくれる参加費などをもらっていないことだった。これまで韓国で何回かシンポジウムに参加した経験からそうした謝礼が出るはずだとは思っていたが、今度はそれがいつ受け取れるのか一切言及がなかった。結局その日の酒代をふくめた全ての費用は学生達の割り勘に頼るほかなかった。せっかく訪ねてきてくれた学生達にすまない気持ちがした。ホテルに戻り同じ部屋を使っている日本人の教授にその話をしたら、自分たちはあらかじめ招請状にいくらくれると書いてあったため必ずお金が出ると信じているが、いつ出るのかはっきりしないと言いながら、あなたは原稿も提出し主題発表もしたからきっと自分たちよりはるかに沢山もらえるはずだと付け加えた。
 結局何の連絡もないまま学術会議の最後の日になった。ホテルの部屋に一人でいると、ある韓国人の教授が訪ねてきた。大学院長が私に寄贈する著書を持って来たのだった。孔子と孟子の思想と行政学とに関する本だった。大学院長が直接私に本をくれるなどとは相当に感動した。申し訳無い気持ちだった。ところがその本を渡した教授が、その本を日本で翻訳して出すことができないか調べてくれといった。私は日本の出版事情から見てもまた自分自身のさほどでない実力から見ても相当に難しいことが分かっていたが、ここまで誠意を示してくれた方に力になるよう出来るだけ努力しようと答えた。
 その日の午後、最後の発表が進行しているとき会場で、シンポジウム準備委員長である大学院長に偶然会うことができた。私はさきほど貰った本に対する感謝の意を表すと同時に、日本の出版事情などを申し上げた。そうすると彼は、その本の翻訳のこともあるが、自分が一度日本のどこかの大学で講義できるといいのだがとおっしゃった。孔子や孟子の思想は、このごろのように道徳的礼儀が崩れたこの時代では意義があるかもしれない。私は十月初め日本で会議があるからその方面の研究者とあって相談してみると申し上げた。
 ああ、それなのに私はなんと未練がましく恥知らずな人間だったろうか。このように高尚な対話を交わしている場で、ふと例の謝礼とか発表講演料、原稿料のことを思い出し、おずおずとそして用心深く申し上げたのである。それも、私が現在お金がなくなってしまったということまで付け加えながら。相手の方にはどんなに無礼なことだったろうか。ところが大学院長は「外国から来た人には一切お金を支払わないことになっています。特にロシアとか中国と違って先進国から来た方には」と答えた。そしてさらにおっしゃった。「で、空港まで行くお金もないんですか?」と言った。
 これはどんなに気分を害したから出てきた言葉だろうか。私は自分自身の察しの悪さを反省しなければならなかった。その瞬間、私は大学教授ではなく、一人の使い走りの学生にされてしまっていたのだ。恥ずかしかった。同時に、あえてそのような質問をした私も問題だが、他国の教授をあっという間に使い走りの人間に変えてしまうこの方がたいした人物だという思いがした。
 そのまますぐにホテルに戻ると、同じ部屋の大学教授が弟子の韓国人学生といっしょにいた。私がお金を貰えそうにないと言うと、その教授がかなり興奮した様子を見せた。原稿や研究のオリジナリティに対しては、それ相当の報酬をうけるのが世界的な常識だというのだ。そばにいた弟子は堪えられないような表情だった。それを見てあわてたのは、却ってこちらの側だった。言わなくてもいいことを言ってしまったなと思った。私は絶対に韓国人の悪口を言おうなどというつもりはなかった。
 このままだとその教授の韓国人に対する考えを台無しにしてしまう恐れが感じられた。私はすぐさま、これまでこんなことは一度もなかったし、こんどのことは決して一般的な話にはならないこと、そして今度は普通の国際会議とは違って海外から例外的に多くの発表者を呼んだので財政的にも困難だったろうと説明をしながら、その教授をなだめた。それでもその教授は、旅費や宿泊費を自分の負担で参加する学会はあっても原稿料や発表に対する報酬がない学会はありえないと主張した。私は即席で韓国の文化や日本の文化に関するさまざまな話しをもちだしながらその場をつくろい、そのホテルを引き払ってしまった。
 自分自身が滑稽だった。自分自身の察しの悪さ、軽率、未練がましさを考えた。私は日本では大学教授だが、ここでは何者でもない存在だった。そんなことも知らず一生懸命原稿を書くのに没頭していて、迷惑をかけた多くの人にすまない思いがした。そのため約束を破ったことも多かった。
 思えば何年もの間この国のあちこちの学術会議というところに出入りする間に、時代もかなり変わってしまっていたのだ。昔は韓国人が外国人にかなりの待遇をしたと思われる。しかし今では外国人の前でも堂々とした姿勢で対する時代になったのかも知れない。たんに外国人だという理由のみで無条件に待遇すべき何の理由もないのかも知れない。したがって国際会議に外国人を招請しても来る人は自分で好んで来るのであって、特別に待遇する必要がないのかも知れない。したがって同じ外国人発表者でも後進国と主催者が認定したロシアとか中国人には彼等が貧乏だから補助をしてやるにしても、ほかの費用は韓国人発表者だけのために使うという考えも一理があるかもしれない。
 これこそは韓国人の主体性確立を意味するのかも知れない。しかし本人とは何の関係もなく先進国の国民だと認定することたとえ彼等に対する優遇だといえたとしても、後進国と認定されたロシアとか中国の学者はその待遇をどんな気持ちで受け取ったことだろうか。韓国側から見れば彼等が物乞いする人間と見えたのかどうかが気になる。ともかくもいまでは外国人をそのように待遇することができるようになった韓国人が羨ましい。
『木槿通信』第26号(1996年10月10日)ソウル