三枝壽勝の乱文乱筆


外国語教育の未来を考えるために ― 現状は問題だらけで未来も暗い

三枝壽勝
藤原書店 『環』 vol.9 (2002 Spring) 2002.4.30
特集◎21世紀・日本のグランドデザイン


なぜ外国語を学ぶのか?

 外国語教育ってどんなことを言うのか判らないけど、英語なんかを自由自在に喋れて、お友達がすぐできて、会社なんかでは出世しやすくてなことを目指すんだろうか。でもそれは個人的なことで何も大勢で騒ぐことはない。それぞれ好きなようにやるだけで、他人のことに干渉する必要はないと思う。どうしてそんなことが問題になるんだろうか。私は外国語のほんの一つの朝鮮語を教えてきたことはあるけど、それは外国語を教えるというより、その外国語にまつわる文化を学び理解すること、そして日本との関係をより深く考えるためだった。日本と朝鮮だけとってもそれは朝鮮語だけ勉強して済むことなんかではないことぐらいすぐわかる。いつの間にか、朝鮮語あるいは韓国語を勉強することに意義があるような風潮が出来上がっている。ひまをもてあまして始めるお稽古ごとの外国語の勉強を非難する必要はないけど、それはそれだけのもので、それ以上そこにさほど深淵な意味があるとは思えない。お互いに友達になってつきあえば理解が進み、お互いの摩擦も減って仲良くなり、様々な問題が解決するんだったら、外国語教育などと大げさなことを言う必要もない。そうではなくて本格的にこのことを考える必要があるというのだったら、なぜ必要なのか、どうしなければいけないか考えなきゃならない。でも、そんなことを考えだすとどこもかしこもお先真っ暗、未来は闇だという思いがする。
 すでに別のところでちょっとふざけた文章を書いたが、あんまり人目に触れるものではないので、その一部を蒸し返すことにしたい。それは、大抵の人は皆知ってるのに、どうしたわけか話したがらず、タブーとして避けてきた朝鮮語にまつわる話題である。

日本における朝鮮語辞典の実態

 まず第一は辞書に関して。ちょうどこの原稿を書きかけたとき、韓国から電話があった。ある人がわざわざ古本を探してある有名な朝鮮語の辞書を買ったのに、いったいこの辞書の内容は何だ、自分はだまされた、と抗議されたという内容である。またか、である。北朝鮮で出ている朝鮮語大辞典を推薦したのに、どう間違えたのか日本の K書店で出版された大辞典を買ってしまったのである。もう十五年ほど前になるだろうか。長い年月をかけ、苦労を重ねて制作をしてきた辞書が、終に完成ということで大変話題になった。政府の補助金を何度かもらい、最初は S堂で出版の予定だったが、資金を要す辞書の出版ということで出版社が倒産してしまい、新たな出版社に引き継がれてようやく日の目を見たというイワクつきだった。だがこの辞書を手にした多くの人は唖然とした。あの大げさな宣伝は何だったのだろう。たしかに編者が朝鮮語のことを勉強した痕跡は、説明文や補足に書いてあることでわかる。だが辞書の中心であるはずの語義や例文はどうだったのか。やたらに長い例文が、編者の訳したある少年の手記と、日本文学の翻訳というのはどうしたわけだったのか。しかも並んでいる例文が文法的に同じ内容のものというのが理解に苦しむばかりであった。これじゃ本国の辞書を単純に翻訳したほうがずっとましだったのではなかったろうか。でもこの辞書も今は絶版だ。古書でしか買えないのでさほど影響力があるわけではない。
日本人の編纂したものではその後 『コスモス朝和辞典』という小型のものが出た。これは収録語彙があまり多くないわりに、本国のものにもないさまざまな工夫がなされたものであった。ただ説明の日本語と例文のぎごちなさが抵抗感を与えたのが難だったが、水準は低くなかった。次が、現在かなり売れているらしい S舘の辞書である。見栄えもよく現代的な感覚にあう感じがする。私自身は対訳辞典を使わないので細かいところは判らないが、この辞書の存在はかなり印象に強く残っている。というのは、学生だけでなく専門に翻訳している人なんかの、変な解釈に出会うたびに、その根拠を尋ねると、決まってこのS舘の辞書だったからである。ある先生が 『お笑い韓日辞典』と呼んでいることでわかるように、とにかく語義の説明から例文そして文法説明までかなり珍妙で楽しめるのである。これほどの間違いがなぜ起こったのか信じられないほどの見事な出来なのである。ある西欧語の言語の専門の人に言わせると、辞書なんてどれも間違いだらけですよと言う。だがこれほど傑作なのは外にないのじゃなかろうか。うちの学生でも、習い出してから二年目になると、どうやらうさんくさいと感じるのか、この辞書を疑いの目で見るようになってくる。これが外の商品ならどうだろう。自動車ならリコールで欠陥商品を新しいのと取り替えてくれるか、代金を返してくれる。ところが日本で朝鮮語の専門家といわれる人でこの辞書のことを問題にする人がどこにもいない。皆で談合しあって口をつぐんで隠しあっている。それどころか大学で教えている専門の人で、この辞書を使っている人までいる。どうしてだろう。どうやらこの人たちは朝鮮語の表現を日本語に翻訳しなければ理解できないらしいのだ。だからこういう人は、ネイティヴに原文は日本語でどう言うのかしつこく尋ねないと気がすまない。ネイティヴに日本語で説明させること自体が相手をみくびってることに気がついていない。互いの言葉を翻訳することが語学であり、翻訳できなければ判った気がしないなど、漢訳仏典の時代かと錯覚を起しそうである。

金素雲の翻訳が露わにするもの

 次の話題は、そろそろタブーが薄れかかっている。こちらのほうは大手の出版社と大学が関係していため以前はかなり怖がられていた。有名な金素雲の業績のことである。彼個人については近親者の回想記なども出てかなり神聖さは薄れている。だが彼の朝鮮近代詩の日本語訳については今でも信奉者がいる。なぜそれほど評価されたのだろうか。それは彼の翻訳が見事な日本語の詩になっているからだという。朝鮮にもこれほどすばらしい日本語に置換え得る詩が存在していたということが驚きだった。西欧の詩の場合とは逆である。西欧の場合、多くの人が翻訳は見事な日本語でなければならないと思っている。だが朝鮮の場合は見事な日本語になること自体が驚きである。どちらの場合も原文のことは問題にされない。金素雲の翻訳は、多少原文が読める人なら原文とはかなり雰囲気が違っていることは直ちに感じ取れる。だがそれは、訳者が原文の味わいを最大限に生かすため配慮したからだと言われてきた。じつは彼の翻訳の基本は、原文の中にあるいくつかの単語や句をとりだし繋ぎ合わせ、元の詩の文脈とは無関係にあらたに叙情的な詩らしきものを作り上げることにあった。したがって彼の翻訳というのは、もとの朝鮮語の詩とはあまり関係はない。そうやって出来上がった叙情的な雰囲気が、いかにも日本人の要求していた朝鮮的というイメージにぴったりだった可能性がある。だとすると問題は金素雲にあるのではない。叙情的な雰囲気さえ整えれば詩だと認定されてしまう日本の近代詩の問題であり、そうやって朝鮮語の作品でさえも日本語にしなければ評価しようとしない日本人の側の問題になる。 

自らのイメージに沿ってしか相手をみていない

二つの例は、いずれも朝鮮語という言葉に関わるときの、日本人の態度の問題である。言葉を通じて異質な文化を理解する場面においても、依然として、日本語にしなければ相手を理解しない、する気はないという態度がよく現われていると思う。いまだに植民地支配者の意識を引きずっているのかもしれない。日本人の側から異質な文化に向って積極的に近づいていくことはせず、言葉は日本語に置き換え、文学作品も日本語に置き換えなければ注目の対象にならないだけでなく、その日本語の出来具合によってしか作品の出来具合が判断されないということである。常に日本人の考えの枠組みを通してでなければ、相手を理解しようとせぬということになる。金素雲の翻訳のことを考えると、どうやら朝鮮人というその相手に対しても、日本人があらかじめ持っているイメージに沿ってしか、相手の役割を認めていないのかもしれない。
たとえば、今でも過去の日本の歴史を話題にするとき、朝鮮人を呼んできて日本を批判させるのはどうしてなのだろう。まるで朝鮮人には朝鮮人としての人格と役割しかないかのごとく。文学の専門でもないのにもかかわらず、朝鮮人だという理由一つで、朝鮮文学の話しをさせる。じつに見ていてもやりきれない光景である。彼らはなぜそんな席に出てきて喋らねばならないのだろう。朝鮮人にも彼ら自身の問題と課題があるはずである。彼らだって自分たちの過去についての反省があってよいはずである。もし彼らを単に日本人を批判する役割でしか認めないということになれば、歴史の主体は日本人にしかないことになってしまうのではないのだろうか。それでいいのだろうか。昔の有名な詩にあった「日本プロレタリアートの後ろだて前だて」という一節を思い出す。かつて日本人は虐げられている人々の解放への、独立への欲求さえも自分たち日本人の運動に利用した。今でも互いの関係は同じだとでもいうのだろうか。日本の過去を批判するのに、かつての犠牲者を引きずり出して運動の前面に押し出すばかりでよいのだろうか。かつて日本に利用された犠牲者を、再度日本人が利用するということでよいのだろうか。

外国語を学ぶとは?

 外国語教育の話題から大分それたろうか。外国語を学ぶのにどうすればよいって? 朝鮮語に関していえば関係者は直ちに『お笑い韓日辞典』の実体に気付くだけの見識を備えること。朝鮮人に朝鮮人としての役割しか認めず、朝鮮に関することに引っ張り出し利用することをやめること。朝鮮の文化を理解することは、言葉をふくめて異質な文化から学ぶことであることに気付くこと。言葉を学ぶのであれば、翻訳してから理解するという態度を捨てること。この程度の単純なことを言うまでもないと感じることではないだろうか。