『総合文化研究』 5号、東京外国語大学総合文化研究所、2002.3月 |
三枝壽勝/厳基珠 |
東南アジア文学へのいざない (押川典昭)日本語でよめるリストがついているのはいいことだと思う。紹介できる作品がこんなにたくさんあって翻訳されていたということは、とてもうらやましい気もする。どの地域の文学の紹介も短くて読みやすくなっているが、紹介されている作品も短くて読みやすい。短い作品がこんなに沢山あるのもびっくりするけど、さまざまな傾向があることもよくわかる。三五〇ページもあるこの本の値段が三五〇〇円というのも面白いことだと思う。一ページ読めば十円分読んだことになるし、電話の通話時間のことを考えながら読めるのもいいことだと思うし、国際電話の料金と競争すればあっという間に読めてしまうのも面白いことだと思う。
タイ文学 (宇戸清治)
ビルマ文学 (南田みどり)
ベトナム文学 (川口健一)
インドネシア文学 (森山幹弘)
マレーシア文学 (桝谷鋭)
シンガポール文学 (幸節みゆき)
日本語で読める東南アジア文学作品リスト
あとがき
さて、我々は文学とは読むことによってのみ鑑賞することができる言語芸術であると観念している傾向にあるが、インドネシアにおける 「文学」とは単に読むことによってのみ鑑賞するものではなく、もっと広くとらえておく方が良いのかもしれない。インドネシアでは読書が個人的な営為であると定義づけるのには注意が必要である。黙読される読書と、音読もしくは朗唱、吟詠され、その回りで人々が耳を傾ける語りの伝統とが並存しているようなのである。今なお、詩だけでなく、時には短篇小説さえも朗読され、演じられることがあり、日本人の文学の受容の仕方とは異なる側面をもっている。 (一八二〜三ページ)ほかにも、そのすぐ後に 「近代文学を代表するジャンルである小説 (ロマン)のなかにも、その口承性はことば使いのリズム、読者を取り込もうとするかのような地語り、繰り返される常套表現などに見え隠れする」とか 「10セントで買える小説と呼ばれ」る 「大衆小説 (ロマン・ピチサン)」とか書いてある。こうしたことは近代文学以前の遅れた段階の現象だと考える人もいるかもしれないけど、ほんとはとても大事なことを言ってるのじゃないかと思う。中国だって今でも愛読者がたくさんいる 『啼笑因縁』という大衆小説は語り物としても人気があって、その台本はもとの小説と同じぐらいの長さがあったと思う。日本でも人気のある小説が映画や演劇で上演されたり、マンガになったりすることはたくさんあったと思う。ロマン・ピチサンという安物の本と似たものは、韓国でも近代文学の発生のときに問題になってるし、たしか 『金色夜叉』のネタ本といわれたのも、アメリカで出ていた同じような本だったと思う。