三枝壽勝の乱文乱筆


書評: 『東南アジア文学への招待宇戸清治・川口健一編, 段々社, 2001.11.20, 350頁

『総合文化研究』 5号、東京外国語大学総合文化研究所、2002.3月
三枝壽勝/厳基珠


 岡田知子氏の 『現代カンボジア短篇集』に続いて、東南アジアの文学をはば広く解説し、作品を翻訳して紹介した本もでた。とてもいいことだと思う。大きな地域として、フィリッピンが抜けてるのはちょっと寂しいけど、将来の楽しみにしようと思う。この本の内容は次のようになっている。
東南アジア文学へのいざない (押川典昭)
タイ文学 (宇戸清治)
ビルマ文学 (南田みどり)
ベトナム文学 (川口健一)
インドネシア文学 (森山幹弘)
マレーシア文学 (桝谷鋭)
シンガポール文学 (幸節みゆき)
日本語で読める東南アジア文学作品リスト
あとがき
 日本語でよめるリストがついているのはいいことだと思う。紹介できる作品がこんなにたくさんあって翻訳されていたということは、とてもうらやましい気もする。どの地域の文学の紹介も短くて読みやすくなっているが、紹介されている作品も短くて読みやすい。短い作品がこんなに沢山あるのもびっくりするけど、さまざまな傾向があることもよくわかる。三五〇ページもあるこの本の値段が三五〇〇円というのも面白いことだと思う。一ページ読めば十円分読んだことになるし、電話の通話時間のことを考えながら読めるのもいいことだと思うし、国際電話の料金と競争すればあっという間に読めてしまうのも面白いことだと思う。
 この本を読んであらためて感じるのは、言語の多様性じゃないかと思う。東南アジアの国はどこでも、たくさんの言語があって複雑なのに、その複雑なそれぞれの言語で文学が営まれているのはどうしてだろう。たぶんこれは決してあたりまえじゃないと思う。日本だって、韓国だって、普通には読まれる言語が一つだということを誰もおかしく思っていない。在日韓国・朝鮮人だって、ほとんどの人の母語は日本語で、韓国語や朝鮮語は習わなきゃいけない。そしていくら一生懸命勉強しても、母国では一人前には見てくれないし、日本じゃ日本語以外で読んでくれる人はほとんどいない。日本で出ている日本語以外の新聞なら英語が一番多いだろうし、次は中国語かもしれない。でもそこに小説はなかったと思う。中国大陸ではどうなってるのだろう。漢族以外にも少数民族がたくさんいて、その言葉で新聞や本がでているらしい。だけど朝鮮族が朝鮮語で書いている小説はそんなに多くないし、内容が充実してないと思う。漢族だって北京語のほかに広東語だとか福建語だとかあって、お互いにすぐ通じないほど違っているのに、小説はどれも普通話の北京語で書かれたものしか目につかないのはどうしたことだろう。だから、ある国の言語が多様だから、その国の文学の言語が多様だということはあたりまえのことじゃないと思う。
 この本で扱われている地域が、あの 『想像の共同体』の発想を生み出したところなのを考えると、この地域での言語と文学はきっと、現代のこの地域のそれぞれの国家の存立基盤と深く関わっているのだと思う。だけどあんまりこのことに触れていないのはどうしてだろう。よく分らないけど、インドネシアではインドネシア語というものを正面に出して、インドネシア文学を主張してるし、マレーシアでは同じ言語なのにマレー語としてマレーシア文学を押し出しているのは、文学が国家を成立させる権力と重要な関係があるからだと思う。シンガポールの英語文学のところではそのことははっきり書いてあって、英語は 「政治性を帯びた特権的な言語」だと書いてある。だけど、それなのにそれぞれの地域で、それ以外の少数民族がそれぞれの言葉で出版もし、文学も営んでいるとすれば、それぞれの地域での政治をめぐる権力構造がまだまだとても複雑で不安定なことを意味しているのかしらとも思う。文学という制度がそれほど政治的な意味を帯びていることが、現在のアジアでは外の地域より東南アジアではっきりと見えているように感じる。そうやってみると、今の中国は日本と同じように、かなり政治権力の統制がゆきとどいているところかもしれないという気もする。
 この本ではそういったことは正面から扱ってはいないけど、もしかすると、この本の執筆者のほとんどの人が使っている 「純文学」という言葉は、そのことと関係あるのかもしれないと思う。この本では主に近代文学が扱われていて、それは 「文学を大事にする西欧文化」の産物だと書いてある。そしてその近代文学の中心は 「純文学」で、これは恋愛小説や探偵小説などの大衆小説または娯楽小説と対立するみたいに書かれている。そして、その純文学は近代的自我を扱ったり、実験的な手法で書いたりもするけど、とくに社会参加の文学といわれるものに、この地域の特色があるのだとも書いてある。面白いと思うのは、日本でだけ使われると思っていた、純文学という言葉が東南アジアの文学でも使われていたことだと思う。これは日本文学を見るときにもとても参考になりそうだ。純文学という言葉が意外に政治的な意味を持った言葉だということが少し見えてきたように思う。日本で文学にたずさわっている人たちは、もしかしたらひそかに政治的な権力構造に関係していた人たちだったのかもしれないという気もする。韓国ではもっとはっきりしていて、文学にたずさわるということは、社会的に認められ尊敬される行為であることを、ほとんどの人が認めていると思う。ついでだけど、この本では日本だけで使われると思ってた言葉として、ほかに 「戦後」という言葉も使われているけど、東南アジアで日本と同じような意味に使えるのはどうしたわけなのだろう。韓国では戦後といえば朝鮮戦争の後のことだし、中国ではこの言葉を使っても特別な時期を指すことはないと思う。
 文学のことに戻るけど、この本を読んで印象的なのは、純文学と対立することになっている娯楽小説とか大衆小説などの根強さだと思う。インドネシア文学の解説には次のような文がある。
さて、我々は文学とは読むことによってのみ鑑賞することができる言語芸術であると観念している傾向にあるが、インドネシアにおける 「文学」とは単に読むことによってのみ鑑賞するものではなく、もっと広くとらえておく方が良いのかもしれない。インドネシアでは読書が個人的な営為であると定義づけるのには注意が必要である。黙読される読書と、音読もしくは朗唱、吟詠され、その回りで人々が耳を傾ける語りの伝統とが並存しているようなのである。今なお、詩だけでなく、時には短篇小説さえも朗読され、演じられることがあり、日本人の文学の受容の仕方とは異なる側面をもっている。 (一八二〜三ページ)
 ほかにも、そのすぐ後に 「近代文学を代表するジャンルである小説 (ロマン)のなかにも、その口承性はことば使いのリズム、読者を取り込もうとするかのような地語り、繰り返される常套表現などに見え隠れする」とか 「10セントで買える小説と呼ばれ」る 「大衆小説 (ロマン・ピチサン)」とか書いてある。こうしたことは近代文学以前の遅れた段階の現象だと考える人もいるかもしれないけど、ほんとはとても大事なことを言ってるのじゃないかと思う。中国だって今でも愛読者がたくさんいる 『啼笑因縁』という大衆小説は語り物としても人気があって、その台本はもとの小説と同じぐらいの長さがあったと思う。日本でも人気のある小説が映画や演劇で上演されたり、マンガになったりすることはたくさんあったと思う。ロマン・ピチサンという安物の本と似たものは、韓国でも近代文学の発生のときに問題になってるし、たしか 『金色夜叉』のネタ本といわれたのも、アメリカで出ていた同じような本だったと思う。
 だけど問題は、こういう伝統的な習慣や芸能とつながっている文学が、純文学といわれている近代文学より質が低いとか遅れているということじゃないと思う。もし文学というものが成り立つとするなら、それはいつもそこに暮している人たちの生活や習慣とは切り離せないはずだし、伝統的な習慣だけでなく新しい風俗などとも、常に関係を持ってるはずだと思う。低くて遅れている段階から進んで高い段階に進んでいくという単純なものじゃなくて、いつも回りのさまざまな芸能や習慣、そして新しい流行などとも関わりながら、それらをまた文学の中にとりこんでいくはずだという気がする。そういう意味でこの本で扱われている文学の話しは興味深いことが多いと思う。だけど翻訳で紹介されているのはそうしたものではなく、とても洗練されたものが中心になってて、もともとの伝統と関係ある文学の実体がほんとはどうなってるのか、あまり分らない気がする。
 このことと関係するのかもしれないけど、東南アジアの文学では、女性が書くほうでも読むほうでもとても重要な役割を果たしてると感じる。でもその役割の意味はちょっと複雑なのじゃないかと思う。今でも地球上の人類の半分は女性のはずだから、女性だけを特別扱いする必要はないと思うけど、実際にはこの世での女性の社会的な役割や地位が男性と同じでないから、女性がどういう役割を果たしているかは、その社会のありさまと無関係でないと思う。タイでは 「近代文学が登場しはじめた二〇年代以降、小説の創作と受けての主流にいたのは女性たちだった」そうだし、政治的な激動期でもつねに大衆の人気を集めてきたのは女性作家たちだったという。ビルマでは一九七〇年から八〇年代半ばまで女性作家時代で彼女らによって娯楽長編が書かれたのだそうだ。しかもビルマで、とても面白いのは、これらの女性作家の大部分はシャドーと呼ばれる男性の覆面作家だったことと、その傾向はその後も引き継がれているということだと思う。検閲の厳しい状況でこの 「事前検閲に、擬似作家たちの娯楽作品は難なく通過した」とあるが、これは同じ作品でも女性が書けば検閲を逃れることが出来たということじゃないと思う。女性を装うということは、そうすれば本来の姿では書けない作品を書けるということじゃないかと思う。おそらくそうやって女性の名前で書いている作品は、本来の男性作家としては恥かしくて発表できないのじゃないかしら。だから、ここには女性作家の問題が政治に関係していることがあからさまに出てると同時に、その社会での女性の社会的な位置づけもうかがうことができると思う。韓国でも九〇年代に入って女性の作家が活躍する時代になったけど、これはそれまで文学にたずさわっていた男性が外の分野に移り、文学で女性作家の役割が大きくなったと言われた。ほんとかどうかはわからないけど、それでも文学で果たす女性の役割が社会的な変化を反映してるとは言える思う。
 最後にこの本で紹介されている作品のことにも触れておこうと思う。一部には抄訳もあるけど作品はどれも短くて負担にならない。その中でもタイ文学の 「放火犯」はとてもおもしろいと思う。解説では 「オー・ヘンリー風のドンデン返しの結末を楽しむ軽い小説」で 「 「小説は面白くなければならない」という文学の原点に立ち戻った」ウィンという作家の作品と書いてある。この短篇は、語り手と警官、そしてこの社会に不満を持っているチュポンという三人の友人の話しである。チュポンが社会に対する不満を晴らすため連続放火をし、自首して拘束された。私は、真犯人は彼ではないことを示すため、彼が拘束されている間、自分でも放火をして歩くが、それを警官である友人に発見される。私は、友人の警官に、自分が犯人だから逮捕して、チュポンを釈放しろと言う。ところが警官は、私を逮捕できないと言う。なぜなら彼もチュポンを助けるため放火をしたからだ。この意外な結末も面白いけど、その面白さにタイ文学の特色の何かが含まれていると思う。どうしてかというと、最近同じようなテーマを扱った韓国の小説 「山火事」(尹興吉) を読んだけど、こちらのほうは、とても重苦しくて、誰が犯人かということより、そういう放火を誘発する社会と、それを批判する知識人のことが延々と書かれていたからで、やっぱり小説というのは、そこにその地域に暮らす人々の感じ方や考え方の特徴がよく現われるのだと思う。