三枝壽勝 / 現代文学 読書案内


九○年代、どこまできたか韓国文学

三枝壽勝
「90年代どこまできたか韓国文学」、『月刊韓国文化』253号(2000.12)


 激動の 80年代をしめくくる 87年からの民主化は、すくなくとも外からみるかぎり画期的な変革であった。日本をふくめた東アジアで自主的な民主化を行いえたのは、台湾と韓国だけである。日本はそのような変革を未だ経験してない。それにもかかわらず、韓国でこの民主化を評価する声を聞くのは難しい。それは民主化以後の最初の政権にたいする失望もあっただろうが、それと同時に激動の時代の緊張が突然消滅したことからくる虚脱感もあったのではなかろうか。政治改革の目標を失った虚脱感は挫折感や罪悪感までともなっていた。90年代の文学というのはこうした状況を反映していた。韓国の文学がこの新しい時代を迎えどのような可能性をもって現れたかについてはすでに扱ったことがある。(本誌1996年11月号特集:韓国の現代文学「韓国の小説は変わりうるか」参照
 当然のことだが、この時期に現われた作品には 80年代の事件を扱ったものが登場した。それらの作品に見られる特色に、その過ぎ去った時代にたいする負担感とでもいうものがあった。80年代は確かに対立の激しい時代であった。しかし過ぎ去ってみるとその結果は単に敵対者と戦って勝利したという単純なものではなかった。その時代を生きた誰しも傷を負ったと感じさせる重みを感じさせ、彼らの心のなかで決して決着のつかぬしこりとなって残されたらしく思われる。パク・ワンソ 「ティータイムの母娘」、チェ・ユン 「灰色の雪だるま」、コン・ジヨン 「夢」、キム・インスク 「あなた」などはそうしたことを感じさせるものであった。とくに若い作家にとっては青春時代が激動の時代と重なっているだけにその後遺症は大きかったかもしれない。
 この虚脱感の由来には韓国の文学の伝統が関連しているかもしれない。社会的な題材をとりあげることが文学の使命となっていた伝統である。政治的な目標の存在にささえられた文学は対象を失えば当然みずからの存在に危機を感じるであろうし、書けないことに悩まざるをえない。作品の書けない作家をあつかった作品も多く登場した。すでに登場した「夢」もそうであるし、シン・ギョンスク 「深い息をするたびに」、「集まっている火の光」もそうである。後者の作品をみると単に政治的なことではなく、社会そのものが従来のような小説の書き方では対応できない変化をしていることをうかがわれる。どうやら韓国でも作家にとってなぜ小説を書くかが問われだしたということだが、そのことは文学に従事することが直ちに社会的に意義があった時代が過ぎ去ったことを示唆している。作家と作品と社会の関わり如何が価値を生み出すようになったのである。
 もちろん、従来と同様作品の内容と無関係に作品の商品価値が創り出される例は存在した。さほどの出来でもない マ・ガンス 『楽しいサラ』は裁判にかけられ話題になったが、作品が裁判で断罪されることの是非は論じられねばならぬことがらであったにせよ、それは作品の価値とは無関係であったはずだ。ソン・ギョンア 『性交が二人の人間の関係に及ぼす影響に関する文学的考察中事例研究部分引用』という長ったらしくセンセイショナルな題名の本も現れたが、中身は単に退屈な少女の手記といったものである。彼女の作品ならその後の 「本」のほうがまだましであった。これらはスキャンダルが作品を宣伝するのに利用される現象ということであろう。若い男女のセックスと暴力なら キム・インハの 「非常口」がなかなかよく書けている。女の股間を剃る描写もママゴト遊びのようであどけない感じだ。犯罪を起こしながらも登場人物が純真な印象を与え後味も悪くない。
 90年代初期で話題となったことではやはり女性作家の活躍があげられよう。確かに話題となった作家に女性が多かったのは事実であった。もちろん男性作家がまったく振るわなかったわけでも、新人作家が全て女性であったわけでもない。イ・ムンニョルは相変わらずの活躍で大作 『辺境』を 98年に完結させている。ただ 63年生まれのコン・ジヨン、キム・インスク、シン・ギョンスクがトリオとして話題になったように、女性が注目を浴びたのはたしかであった。シン・ギョンスクの「オルガンのあった所」はその語り手の異性にたいする心の描写が女性特有の繊細な文体により表現されているとして評価されたところを見ると、それまで男性中心の作家たちの作品とは異質な世界を描きだしことが注目されたようにも思われる。ただしかしその際、女性特有の繊細な文体という言い方の評価は相変わらずの旧式でしかも狭い見方でしかなかろう。それよりも過去の韓国文学の特色だった物語性、とくに社会的話題を語る作品とは異質な作品が登場したということであろう。
 もちろんこの作品も韓国の文学の伝統とのかかわりの中で考察することができるのである。シン・ギョンスクの 「オルガンのあった所」はある既婚男性にたいする恋愛心理を手紙の形で綴ったものである。その手紙の中では語り手が幼い頃の、父親とある女性の話が中心を占める。この語り方の新しさが評価されたわけであるが、しかしこの幼いころの話は、どこかしらあの有名な 朱耀燮(チュ・ヨソプ)の 「舎廊の客とお母さん」に通じるものを感じさせるのである。朱耀燮の小説では、父をうしなった語り手である娘の母と、そこに下宿している父の友人との恋心を扱っている。それに対してシン・ギョンスクの小説は語り手の女の子の父親とある女性の関係である。男性と女性を入れ替えると、子供のある既婚者と独身の異性とのついに実らぬ関係という点では同じ構造を持っている。さらに朱耀燮の小説では、母親が心の葛藤に直面するたびにオルガンを弾くことになっているが、シン・ギョンスクの小説ではこの女性は歯ブラシで歯を磨くのである。この奇妙な行動も、オルガンの鍵盤と並んだ歯の視覚的イメージが似ていることで納得できそうなのである。とんでもない発想なのかもしれぬが、すくなくともこうやって両者を関連づけることにより、韓国文学 100年の歴史の伝統を感じとることができるのである。
 こうした伝統を考慮することによって、また新しさも見えてくるような気がする。ウン・ヒギョンのデビュー作である長編 『鳥の贈り物』は、60年代の地方都市を舞台にした物語である。伝統を考慮すると、30年代の 朴泰遠 『川辺の風景』や 80年代 ヤン・ギジャ 『遠美洞の人々』と同じように、ある時代を生きる人々の生活を描くいわゆる世態小説の系統に属するといえる。それだけでもこの小説はかなり興味深い。この小説は少女を語り手とする連作形式の長編で、冒頭に序として不倫の朝、ホテルのレストランで食事をする大人の語り手が登場する。ビフテキを食べながらふと視線を外に向けると、木の上をうごめくネズミを発見する。そのネズミは語り手に、昔見た汲み取り便所の汚物の上を走りまわっていたネズミを思い出させる。ホテルで食事しながら汚物の上を走りまわるネズミを連想するという悪趣味な奇抜さが、この長編の性格を象徴している。かわいらしく頭のよい語り手はすでに大人の世界の裏側を覗きみて、人生にしらけきった態度である。自分に思いをよせる同学年の男の子を便所の糞つぼに落とすようしむけたり、生徒をいじめる女の先生の股間の毛に火をつけ燃やす空想をする。ウン・ヒギョンは従来なかった性格の作品を生み出すのに成功している。それはユーモアというよりアイロニーの活用とでもいうべきもので、韓国では従来無視されてきたものである。男性と一夜を過ごしたあと男に金を渡しながら、「売春ということにしよう」と言うのを聞いて躊躇する相手を見て、「じゃあ性暴行ということにでもしな」と冷ややかに言いきる女性の登場(「埃の中の蝶」)とか、円形脱毛症になやむ女性の登場(「抒情時代」)などに彼女の作風がうかがえる。彼女の登場はすがすがしいものであった。
 題材として舞台を外国に舞台にした作品も多くなった。それだけ海外経験が豊富になったということか。しかし単に舞台が外国であることにとどまらぬ新しさを見ることのできるものもある。ユン・フミョンはすでに 80年代 に「敦煌の愛」などを発表している既成作家であるが、この時期かれは旧東欧圏を舞台とする作品を発表する。ロシアの同胞を訪ねる 「白い船」は文学賞をとった話題作であるが、その後に発表されたペテルブルグ郊外に狐狩りに行く話を書いた 「狐狩り」はそれ以上の問題作ではなかろうか。ロシアに住む友人を訪ねて行ったところ、彼と二人のロシア人とペテルブルグはるか郊外に狐狩りに行くことになる。行けども行けども目的地につかず延々と自動車を走らせる間に起こる不安感、もしやこのロシア人たちに殺されるのではないかという恐れは、90年代初期のロシアの雰囲気をかなりよく再現している。未知の地で未知の異民族との出会いの不安をこれほど生き生きと描いた作品は、これまでなかったのではなかろうか。そもそも韓国の文学に異民族との出会いを扱った小説はほとんどみられなかった。その点でも新鮮であるが、結末近く、夜着いた荒野の一軒家で偶然発見したプーシュキンの詩集が一行の心を一つにするという結末の暖かさも印象的である。
 こうしてみると、確かに 90年代にはこれまで見られなかった新しい性格の作品が生み出されているのである。それが新しい世紀にどのように引き継がれていくかは、まだ未知数である。この世紀を終るこの時期に、当事者たちはどう見ているのであろうか。評論家によれば現代の韓国の文学はまさに方向を見失った混乱状態である。なぜだろうか。一つには、先にも述べた政治の時代を過ぎて、積極的に訴える材料を失った目標喪失感があるのだろう。かつて文学は真摯な現実批判が役目と思われていた。文学に従事するものは常に社会的使命感を意識するものと思われていた。訴えるものを失った文学は存在意義が疑われている。残るのは単なる商品価値だけで売られる作品である。彼らをとりまくのはインターネットでありビデオなど映像文化であり、大衆文化としてのマンガ、推理小説、SF、武侠小説である。そしてその周辺にある社会問題として生態系の破壊、環境問題、医学の発達と生命に対する価値観の変化である。現在みられるのは情報社会の商業主義と大衆化と画一化でしかない。などなどという発言が目につく。
 いかにも危機意識の表れた論調である。確かに韓国は日本以上にパソコンの普及率が高い。日常生活にそれほどコンピューターが入り込んでいるのかもしれない。もはや文学などかえりみられていないのかもしれない。それならそれでしかたないことだろう。しかしこの危機意識は何だろうか。現代の社会の変化がいかにも否定的なものに満ちていて、そのため文学がだめになったとでもいうような言い方である。しかし文学が積極的な生き延びようと思っているならば、こうした社会や文化の変化をもどんどん取りこむことしかないであろう。利用できるものは積極的に取りこみ、新しい表現と内容で読者を獲得していくことである。政治や社会問題に素人談義を繰り返して時代を批判するなどという役割が不用になったことを知るべきであろう。本気なら文学以外の領域で素人として発言し泣き言を言うのではなく、堂々とその専門で勝負すべきだろう。
 興味深いのは、文学に関わる者がそれまでばかにしていたマンガや推理小説、武侠小説などの存在を意識し始めたことである。80年代から注目され出したマンガもかなり社会的に認められるようになった。たとえば大手新聞『朝鮮日報』連載のカラーの 「光洙の思い」の登場はかなり画期的であった。月に到着したアポロの搭乗員の替わりにウサギが地球に戻ってきたので月にはウサギがいなくなった。かわりに搭乗員のアームストロングは今でも月に残されたままなのだ、とか、検便を忘れた我が子の為に母性愛を発揮して自分のウンコを届けようとする母親。ところが大事そうに運ぶ様子を見て勘違いした強盗が襲ってそれを奪ってしまうなど、大新聞とは思えない破廉恥でこぎみよいナンセンスの登場は、文学を脅かすのに十分なのかもしれない。武侠小説にしてもそうだ。『三国志演義』や 『水滸伝』を愛好する伝統は、膨大な武侠小説の読者を生み出してきた。日本ではまだ完全に翻訳の揃ってない中国の金庸の武侠小説を、いち早く全て翻訳したのも韓国である。いまさらこれらの存在に気づいても遅いのだ。武侠小説は従来でも万部単位で売れていた。現在では、それがファンタジー文学と衣替えをして読者を獲得している。ファンタジー文学賞まで出来た。第一回受賞は イム・ジョンジャン 『シャバラ戦記』という仮想空間の人間を進化させ戦争に備える話だ。他にもイ・ギョンヨン 『イノセント』、ソン・ユソン 『浄霊騎士』、キム・コウン 『天殺伝記』などどれも大河小説の分量である。どうやら韓国であまり読まれなかったSFが、武侠小説の伝統を下地にして、アニメや映画そして何よりもコンピューターゲームと結びついて登場しだしたのである。著者の若さにもあきれる。『浄霊騎士』の著者など1985年生まれだ。
 では、従来の文学はどうなってしまったのだろうか。今年の文学賞受賞の作品やアンソロジーを読んでみると、小説が出口を探し出せずさ迷っているという気がしないでもない。ちょっとしたモティーフやイメージを核にして、独りよがりの独白体の日記といった作品が目立つ。これを、語りが中心だった韓国の小説が描写に力点を置きだしたなどと言ったらかいかぶりだ。単なるマンネリの生産である。いくら繊細、精密ではあっても、今更文体だけで文学が成立する時代でもあるまいしという感じがする。身体障害者を扱った作品も多かったが、時事的話題を越えてその設定の必然性に疑問が感じられるものもあった。どうやら他者理解や他者との意思疎通はさほどうまく言ってないように感じられる。もしかすると、こうした希薄さが現代の韓国の雰囲気をどこかで反映しているのかもしれない。
 いくつか紹介しておこう。クォン・ヒョンスク 「開かれた戸」は、死んだら自分の遺体を寄贈することにしているひとり暮しの老人が、死んだ後すぐ発見され遺体が有効に使われるように戸をいつも開けておく話を扱っている。現代的とも言える題材で感情を排除した書き方がテーマと調和している。また キム・イソ 「外出」は、いつも仕事で出張の多い夫の後をアマチュアカメラマンの妻が追跡して不倫の現場を写す。それが展示会で傑作として話題になるというそれだけの話だが、読み終わってほっとした感じは残る。ハ・ソンナン 「カビの花」は、アパートの住人の正体を知るため捨てられたゴミ袋を自分の部屋に持ち込んで調べる話。ゴミ袋にこそ真実があるという。こうした小説に何の意味があるのかは分からぬが、文章だけはよくできている。たしかにどの小説も文章は洗練されているのである。みな技巧だけで小説を書いているという感じがする。
 だがしかし、まだ従来の語りの手法が無くなったわけではない。ユン・フンギルは相変わらずの呪術的なテーマで 「墓地付近」を書いている。いまさらという感じがせぬでもないが、それでも感情を押さえた冷ややかな文章の多い中で方言の登場する作品に出会うと暖かさを感じる。それは パク・ポムシン 「その年最も長かった一日」でも同じである。
 物語性をそなえてこぎみ良い作品に コン・ソノク 「ひとりものカアチャン」がある。離婚して子供と共に田舎の廃校に暮らす決心をした主人公が、田舎の慣習と衝突してばかりして騒動をおこし嫌われるありさまが、威勢の良いせりふとともに描かれていて心地よい。解説によれば、これは依然として残っている封建制と男性主義に対する告発になっているらしい。過去の作者の傾向からするとそうなるのかもしれない。だがたとえ作者がそう思って書いたにもせよ、この作品の意義はそこにはない。伝統と慣習というものの根強さというものを無視してきた都会の人間が、ようやくこうした根強い掟の存在に着目しだした記録ということで注目すべき作品なのだと思われる。
 物語性という点では今年の受賞作品 イ・インハ 「詩人の星」が光っている。この作者は、長編 『永遠の帝国』で架空の文書を登場させることで歴史上の謎解きを扱ったことがある。読み物としてもかなりよく出来た作品だったが、「詩人の星」も同様の手法で架空の文書発見をてがかりに、高麗時代の人物の生涯を語る。舞台はモンゴルにまでおよぶ。ひたすら文献の世界から物語を作り出す手法は、年齢のわりに大成した感じを与える。まだまだ韓国の文学に可能性がいくらでもあることを感じさせるのである。