三枝壽勝の上海通信


上海だより 2004. 8月 (2004/08/15)
番外編

 そろそろ上海での生活も切り上げたいと前回書いたが、そのとき次の行く先が完全に確定していたわけではない。それなのに早々と宿舎を引き払ってしまったので、引越し荷物が宙ぶらりんとなってしまった。行く先不定で現在倉庫に眠っている。どうしてこんなことになったのか。はっきりした経緯は私にも判らないが、当初予定していたところでの受け入れが認めらなかったのが発端である。どうも妙な具合で、はたしてそれが単なる事務的なことによるのか、別に背景があるのか事情がつかめずに一月ほど経ってしまった。この先どのように決着するのか見通しもたたず中途で帰国したので ますます連絡がうまく取れず 中途半端な状態が続いている。いつもは夏休みでこの報告も休みのはずだが、この先がどうなるかわからないので とりあえず番外編として書いておくことにした。内容がさほどあるわけでもなく場外乱闘というほど興味深いものでもないので、無視してもらってもかまわないと思っている。

 中国では学校関係の一年は春学期で終了、9月からの秋学期は新学期となるので 7月には寮から学生達が一斉に出て行く。トランクだけではなく大きなダンボールに詰めた荷物や寝具などをトラックに積んでいるのを見ると、共同で荷物を運び出しているらしい。駅まで運ぶのか、それとも帰省先まで自動的に運ばれるのかはわからないが、家族らしい人達の出迎えもちらほら見える。いまでは生活のしかたもその水準も変わったが、これまで高校 (高中という) や大学は全員寮制だったので 大学には大規模な学生や教員の宿舎が必ずある。留学生たちも原則では同じ扱いだから すくなくとも宿舎についてはまず心配はいらないわけである。ただ留学生の場合、寄宿舎でなく外部のアパートに住むことも可能かもしれない。

 今年の夏は世界的に異常気候ということだったが、ここも同様、いつ明けるのか見当のつかない梅雨の天気が続いた。7月12日には朝9時に 37度ということで悲鳴を上げていたが、翌日は夕方猛烈な突風と雷雨が一時間ほど荒れ狂った。翌日の新聞によれば死者7名と出ていた。簡易施設の倒壊などが原因らしい。ただその前日だっかには北京でもやはり大雨が長時間降り続き、市内が腰までつかる大水になったのに比べると 被害はたいしたものではない。東京では 39度だとか連日 35度だとか言っていたから、上海の夏は東京に比べるとかなりしのぎやすいという感じだ。

 当初8月には上海に残って引越しをするつもりでいたが、急遽引き揚げることにしたので 荷物をあわてて整理し荷造りできるもの以外は捨てることにした。電動自転車も別人に引き渡すことにしたが、そのあと売ってくれという人が現れて ちょっと気の毒な思いをした。いざ上海を離れるとなるとさすがに名残惜しくなり、今まであまり出歩いていないのであちこち回ろうかとも思ったが 結局時間がなくてどこも回れなかった。動物園にも行かなかったのでついにパンダをと思ったが これも見なかった。日本でも見たことないが、いまどき本物のパンダを見たことがない人は珍しいらしい。これまであまり関心のなかった不法 DVD もどんなものが出回っているのか見ておきたかったが、これまた時間がなく 宿舎の近くにある店でしか見ることができなかった。こういう店はいまでは取締りが厳しいので表立って店を構えることができず、通りすがりの人間にはどこに店があるか分らない。私の行った店も あるアパート街の角にあって、外からみると単なる廃屋か物置だ。よく見ると人が出入りしているので 何かあることは分るが、何を扱っているかは 薄暗い屋内に入るまでわからない。ほとんどは中古の VCD か DVD だが、新しい物もある。封切りの洋画は封切りとほとんど同時に発売されている。The Load of the Rings もそうだった。いまではセットものが何種類かある。日本のものでは 「魔女の宅急便」 から 「千と千尋」 まで14作品をおさめたセット物の宮崎駿作品集が 日本円にして二千円もしないで買える。ほかに北野武全集などというものもあったし、日本のアニメはかなり沢山出ている。こんなの見てしまうと、日本で一枚二、三千円もするものなど買う気が起こらなくなってしまいそうだ。

 最後に観光地の豫園に行ったが、豫園には入らず周辺の路地を一回りしただけで戻ってきた。豫園の北側の壁に沿って人通りの少ない狭い路地を入っていくと、突然そこに入場券売り場と入り口が現れたのは意外だった。こんなところから入場する人がいるのだろうか。もしかすると平日でなければこの路地にも人が大勢入り込んでくるのだろうか。この路地は小さな家の立て込んだ住宅地に面している。そこに倉庫のような造りに入り口が一つ。上に 「牙」 とペンキで書いてある。看板は 「牙医」。歯医者だ。こんなところで入れ歯を作るのだろうか。そういえばこの看板は 以前文廟にゆく路地でもみた。そこでは路地に面した薄暗い穴倉のような住処の中にベッドが一つ見え 誰かが一人腰掛けていたようにも見えた。こういうところの医者は免許を持っているのだろうか。

 一年前に見た風物がまた現れた。キリギリスについてはすでに書いたが、新聞にも写真が紹介されていた。その説明には "" とあったから やはりキリギリスだった。また 路上で 白い小さなつぼみのような花に糸を通して売っているので何だろうと思っていたら、これも同じ新聞に紹介されていたので分った。ブローチだった。白蘭花ということだが茉莉花も使うらしい。一日しか もたないが、ほのかな香りを楽しむらしい。一つ5角だとかだ。街では腕輪のように編んだものも見た。

 日本に帰るとき空港の売店をみると、いつか紹介した呉思の 『隠蔽的秩序 − 拆解歴史奕局』 があった。彼の本は通俗的な読み物と同じように売れているのだろうか。たしかにこの本は市内の本屋でも店頭に積まれていたから話題になっているのかもしれないが、空港でも売っていたのは意外だった。成田の空港で赤川次郎の隣に学術書が並ぶことなど考えられない。もしかすると呉思の本だけは例外なのかもしれない。暇つぶしにも読める学術書なんて悪い感じはしない。

 最近の本についてあまり詳しい報告はできないが、これまで見た本のなかからいくつか紹介してみよう。中国にかんするさまざまなことについて 簡単に知るには百科事典などによればよいのだろうが、雑多な知識を手軽に調べるためのものとしては、『中国文化知識精華』 湖北人民出版社の新版が6年ぶりに出た。文化・地理・歴史のみならずさまざまな事柄がつまっている。たとえば魯迅の名前はなぜ魯迅なのかとか、白菜の故郷とかいったぐあいだ。旧版には図版がなかったが今回は巻頭にカラーで12ページ追加された。同じように雑多な話題だが もう少し学術上の話題を選んで専門家(?)に解説させたものとしては 『千古之謎 − 中国文化 1000疑案(甲編・乙編)』 中州戸籍出版社の新版も昨年出ている。表題どおり 1000の話題を扱っていて 活字がぎっしり詰まっている感じだ。各項目とも2ページ程度なので てっとりばやく調べたい時には役に立つのかもしれない。

 中国の歴史や文化に関する本は最近ではカラー図版のシリーズものがかなり沢山出版されていて とても全部追跡しきれない。印刷も装丁も二、三十年前までなら考えられなかったほどの贅沢さだ。 『中華文明之旅』 四川出版集団・四川人民出版社というカラー写真によるグラフ誌のような全12冊のシリーズは 古代の信仰に関するものからシルクロードに関するものまで発掘資料を使って構成したものだが、そのなかの一冊 『解字説文 − 中国文字的起源』 は中国以外の地域の文字まで含めて文字の歴史を扱っている。また同じシリーズの 『中国表情 − 文物所見古代中国人的表情』 というのは 発掘資料や美術資料を材料に中国人の表情の表現がどのように変遷して来たかを扱ったもので、かなりユニークな感じだ。もしかするとこういう本は外の文化圏でも流行っているのだろうか。

 最近めだつのは中国以外の地域との文化交流に関するものだが、あまりていねいに見ていないのでどういう分野でどのようなものが出ているかはっきりとは判らない。目についたものを挙げると 王介 『中外文化交流史』 書海出版社、鐘叔河 『從東方到西方』 岳麓書社、王暁路 『西方漢学界的中国文論研究』 巴蜀書社、張哲俊 『中国古代文学中的日本形象研究』 北京大学出版社 などであるが、おそらく現在の中国ではこうした外の文化圏や国の文化に関する研究がかなり盛んになってきているのだろうと感じる。そうした傾向と関係すると思われるものを最後に一つ。黄禄善 『美国通俗小説史』 訳林出版社は昨年の出版だが、さすが独特な通俗文学という分野が存在する中国ならではの出版だと感じた。いま手元に実物がないので確かではないが、中国での通俗文学の分類に対応して アメリカの通俗文学を整理した分厚い本だったと記憶する。この分野の研究について知識がないので判らないが、もしかするとこういう研究は中国以外でも盛んなのだろうか。少なくとも日本や韓国では目にしたことがない。中国ではおそらくこうした研究の流れがあるのではないだろうか。以前に 黄永林 『中西通俗小説比較研究』 という本の台湾版を読んだことがある。

 日本に戻ってみると、やはり相変わらずだという思いがする。中国に関して個々の事柄に関しては以前よりは情報が増えているのかもしれないが、基本的なところで変わらないように感じる。北京で日本と中国によるアジアサッカーの決勝戦が行われたあと、中国人の民度の低さとかマナーの悪さとかが盛んに報じられた。その原因の一つとして中国における民族意識の教育のことが挙げられていた。また現在の中国の共産党の統制力の弱体化とその背景についても触れられていた。そして韓国でも日本と同じように中国にたいする批判が起こっているとも報じられた。どれもそれ自体としては根拠のある報道なのだろう。国と国の政治が背景にあるときにはそうした論じ方しかないのかもしれない。そして現在のマスコミは日本の国家を背負って活動しているのだから それ以外の態度をとることができないのかもしれない。それならそれで仕方ないことだ。しかし妙な論理もあるものだと感じるものもある。愛国心教育がどういう結果をもたらすか日本は過去に経験があるから現在の中国に対してもその経験をもとにして忠告することが出来る といった類のものである。かつての日本の愛国心がどういう結果をもたらしたのか具体的に述べるとどうなるのだろうか。途中は抜かしてかつて愛国心が弊害をもたらしたが それにもかかわらず現在はすばらしい国になったということだろうか。どちらにもせよ現在眼前での中国人の行為に対して有効な論理になりうるのだろうか。もちろん私自身は 互いに理解しあうためはどうしたらよいのか提案する気は一つもない。私がもし提案するとすれば どんな事柄であれ、そこから何が学びえるのかを探り出すことでしかない。それは先方にたいする要求ではなく当方における反省しかありえないのではなかろうか。その際常に前提になるのは、先方にあるものは、きっと当方にもあると省みることから始まることではないだろうか。ただし政治の世界の論理には無関係なことかもしれないが。

 ほとんどの本を一たん日本に送ることにしたので 中国語の本を見るのも当分おあずけになった。ということで久しぶりに中国語以外の本を読みあさった。といっても金錢上の問題もあるので日本で新たに本を買う気にはならず、手元にあるものを手当たり次第と言いたいところだが、結局かなり限られた話題のものばかりになってしまった。毎日本を読んでいるわけでもないし、本を読むといっても例によって寝転んで一度に一、二時間読むのが精一杯というところだから それほど集中して読んでいるわけではない。この二、三週間で読んだものをざっと挙げると、ジェイムス 『プラグマティズム』 「哲学の根本問題」 「The Perception of Time」; 中島義道 『時間と自由』、『時間論』、『カントの時間論』; 大森荘藏 『時間と自我』、『時は流れず』; 中村秀吉 『時間のパラドックス』; 滝浦静雄 『時間』; 砂田利一 『バナッハ・タルスキーのパラドックス』; 瀬山士郎 『数学者シャーロック・ホームズ』; シュペングラー 『西欧の没落』; McTaggart 『The Nature of Existence』、「The Unreality of Time」; S.W.Hawking 「A Brief History of Time」; トルストイ 『懺悔』; ラッセル 『数理哲学序説』; ムーア 『無限』; 永井均 『私のメタフィジックス』; 立川武蔵 『「空」 の構造』; 竜樹 『中論』 などなど。もちろん全部通読したわけではなく 拾い読みしただけのものも含まれている。こうしてみるとなんのことはない、この間書いたことの延長上にあるものばかりである。ようするに 日常的なことがらからすこし先に進んだところに現れるパラドックスに関したものが多いようだ。

 なぜこんな話題について関心があるのかと言われても答えようがないが、少なくとも以前ならさほど周りの人からも訝られずに済んだかもしれないという気もする。というのは こうやって何冊かの本を見ていると、宇宙についてとか数学についてとかいう話題は、以前なら分野に関係なくさまざまな研究者が関心をよせていた話題であったらしいからである。たとえば 『プラグマティズム』 の最初のほうにチェスタトンの文章が引用されている。 「およそ一個人の人間に関して最も実際的で重大なことは なんといってもその人の抱いている宇宙観である、という考えをもっているものが世間には幾人かいるが、私もその一人である。…… おもうに問題は、宇宙に関する理論がものごとに影響を与えるか否かということではなくて、つづまるところ それ以外にものごとに影響を及ぼすようなものが果して存在するかどうかということなのである。」 ジェイムスはこの意見に同意する。かれは 「哲学の根本問題」 ではショーペンハウエルの存在論的問題に関する文章を引用したあと、自分自身でも次のように述べる。 「突拍子もないことをいうようだが、暗室にひとりでとじこもって、自分がそこに存在するという事実、真っ暗闇のなかにうずくまる自分の奇妙なからだのかっこう、自分の異様な特徴等について考えはじめてみよう。そうすれば、いつしか存在の普遍的事実ばかりでなく、その細部にまでも驚異の念がしのびよるであろうし、また、そうした驚異の念をにぶらせるのはただ馴れだけだ、ということを知ることができるだろう、何ものかが存在すべきだというのならまだしも、まさにこのものが存在すべきだというのは不思議なことだ。哲学は、この不可解な問題に思いをこらしはするが、何ら道理を尽した解決を与えてはくれない。なぜなら、無と存在とのあいだには論理的なつながりはないからだ。」

 なぜジェイムスなど読む気になったのかというと、以前かれの書いたものをよんで、意識を反省して見るとそれは最初から私というものに結びついているわけではなく、ただ何かが意識しているということだけが確実なこととして分るだけだ、というような件があったような記憶があって、もう少し詳しく彼の考えを知りたいという気がしたからだ。今となるとはたして以前読んだものの中にそんな件があったのかどうかさえも定かではない。確かめてみようと探したが それらしきものとしては、「Does "Consciousness" Exist?」 という文章にあった 「Consciousness as such is entirely impersonal − 'self' and its activities belongs to the content. To say that I am self-conscious, or conscious of putting forth volition, means only that certain contents, for which 'self' and 'effort of will' are the names, are not without witness as they occur. 」 てなところが見つかった程度だった。人の記憶なんて その程度あてにならないものかもしれない。それでも私が記憶していたジェイムスの言葉は、この私という意識の確実さを出発点にしてそれ以外の全ての存在の確実さを導き出そうという試みに胡散臭さを感じていた私にとっては、いささかのバックアップを与えてくれるように思われたのだった。ただし今回彼のものを読んでみて 彼の言っていることが意外に通俗的というか軽い感じがして期待はずれだった。前にはかなり深みのあることを書いているのかと思っていたがそれは誤解で それほどでもなかったということなのだろうか。それでも 彼が様々な理論の論争に対してプラグマティストとして主張する態度は 常識的だが悪くない。それらの理論を実際上の事柄に適用してみて事実上何も変わりがなければ、どちらかを選択する理由はないなどということだが、日常生活上ではかなり有効だという気はする。

 シュペングラーを見る気になったのは、最近人類の歴史についてちょっと触れたことと、もう一つ彼の本の冒頭に 「数の意味について」 という章があるの思い出して、なぜ歴史の本にそんな話題が登場するか気になったからだ。読んでみて感じたのは、たしかに彼の論じ方のうち 類似による歴史の反復を論じた部分にはあまり動かされなかったが、彼の各文明にたいする洞察のしかたに独特のものがあるということだ。とくに数または数学に対するとらえかたを軸にして文明の特質を論じるなど なかなか面白く思われる。やはり一時代前にはそうした独特の思想をもった知識人がいたということなのだろうか。数のとらえかた、そして時間に対するとらえかただけでも文化の差が歴然と現れるのというのは すごいことではないだろうか。たとえばエジプトや中国では歴代の王の系譜や年代の克明に記録を残しているが、ギリシャにはそういう意味での歴史はないのだ。その背景には天体の観測などの技術も含まれている。ギリシャ・ローマの文化が西欧の文明の発祥のように考えがちだが、ギリシャ・ローマと西欧の文明の間には歴然とした差があるということだ。この本の主題と関係が無いのかもしれないが あらためて中国の文化の独自性に気づかされた。そして克明な年代を記述するという時間意識と 時制のない言語の関係などということに妄想を走らせてもみるのだった。そんなことを考えたのも あとでも述べるように、時間のとらえかたには自然科学や年代記にあるような数直線状に時間を刻むやりかたと、それとは異質な過去・今現在・未来というとらえかたがあるのだが、人間にとって原初的で自然なのは後者だろうから、年代記を発達させた文明との関係がどういうものだったか気がかりになったわけである。言語の研究者でこういうことを具体的に教えてくれる人はいるのかしら。

 自我の問題いわゆるコギト・エルゴ・スムの問題がこの世の把握に確実な基盤を与えてくれるかなどということはあまり重要なことではないのかもしれないが 前回ちょっと触れてしまったのでまた補足を繰り返すことにする。私にとって言えば、私にとっての私意識は 言われるほどこの私という存在の確実な根拠となるものとは思われない。前回もちょっと触れたが、この世の中に私だけしか存在していなかったとすれば私意識など問題になりえなかっただろうから、私が話題になっていること自体がこの私以外の何かとの関わりを示唆していることになるわけである。だからせいぜい言えることは、私の存在の確実さは私以外の存在の確実さと同じぐらいでしかないということである。逆に言いなおせば、その程度には私も私以外の存在も同等の確からしさをもって確実だと言えるわけである。従来のやりかたの問題点は、何かある確実な一つの根拠を手がかりにして全ての事柄を導き出そうとするところにあったようである。どうやらそうしたやりかたは有効性を持たないだろうということは言えそうだ。つまり 何かある確実な根拠に基づいて全てを導き出そうとする発想の仕方自体が問題だと思われる。この私の意識を確実なよりどころとして、私以外のこの世のすべてを根拠づけるという試みはどうやら妥当性を欠いているらしいのであるが、そのかわりに絶対に確実だということは主張できないにはせよ、この私の存在は私以外の存在と同程度には確からしいことが導かれるので、せいぜいその程度にしか確実だとはいえないにせよ、この私の存在の確からしさが 私以外の存在と相関性をもって根拠づけられるいうことが見えてくるのではないだろうか。

 いったんこういうことに思いいたると、至るところで同様の問題が浮かび上がってくる。たとえば前世紀フッサールが生涯をかけて追求した他我の存在についての問題である。といっても 今ではデカルトに始まるこうした問題の考察は専門家のあいだではあまり評判がよくないらしいから、ほんとうは大した問題ではないのかもしれない。それならそれでよい。ただ専門家の間で決着が着こうが着くまいが、この私にとってこうした問題が奇妙につきまとって不思議さを感じさせるとすれば、それはそれで問題にしうるということだからかまわないと思う。他我問題といわれるものもやはりこうした不思議さをともなっているために執拗に追求されてきたのだと思う。問題はさきほどと同様である。ただ今度は、この私の確実さからどのように出発してみても、この私以外に存在する他人の存在に対して、それが私と同様に意識を備えた人格として確実に感じ取ることができないところに問題が発生する。この私は私の前にいる他人の心を感じ取ることはできないし 彼に関するすべてを体験することができない。はたしてこの私以外にも この私と同じように考え、感じる他人の存在が確実だといえるのだろうかと疑問が生じる。その問題を解決しようと考え出されたことの一つに 類推によるものがあったという。私は他人がこの私と同様な存在であることを、その他人の挙動から推し量るというのだ。その他人が苦痛を感じていること、悲しんでいることを、その身体的な動作から類推する。類推の根拠はこの私の身体的な動作だという。この私が苦痛を感じたとき、悲しみを感じた時にとる挙動と同じ動作を他人に発見したとき、その背後にこの私と同様な精神の存在を類推するというのだ。これはかなり評判の悪いものであるらしい。もちろんそうだろう。だがなぜこの類推が妥当なものでないことになるのだろう。他人については依然として動作の背後に精神が存在することを確実に結論することができないからだという。はたしてこのやり方のだめなところはこんなところにあるのだろうか。どうもそうではなさそうだ。私の感じでは 類推による他我の存在の導き出し方が妥当でない理由は、その類推の方向が反対だということだ。私以外の他人の表情をみて、私が悲しんでいる時の表情と同じだから、彼が悲しんでいるのだろうと推測すると言うが、私が悲しんでいるときの表情を私はどうやって知ったのだろう。足に怪我をして激痛を感じたときの私の身体的動作を 私はどうやって見たのだろう。鏡やカメラが日常生活に入りこんできたのは人類の歴史ではつい最近のことだ。大昔の人間が自分の表情や身振りを知るのにそういう手段を使うことなどありえない。どうやら問題は逆なのだ。私が悲しい時、苦痛である時の私の身振りや表情は、実は他人の身振りや表情から学び取ったものに他ならないのだ。この私が私の身振りや表情だと信じているものは すべて私以外の他人の身振りや表情を根拠にして類推したものに他ならず、類推の方向が逆なのだ。だから夢では自分の姿が見えたり、臨死体験で自分の姿を見るとはいうが、それは知覚などとは関係のない意識の上別の体験である理由もそこにあるのだ。そういえばどこかでも述べた臨死体験と夢が同じものであることは 『時間と自我』 でも言及されていた。結局 他我問題でも同じように 他我の確実性は自我の確実性と同じ程度の確からしさだということが言えそうだ。ただしこの場合は他我の確実性については この私はそれを自覚せず実際上で実行しているという程度のことになるが。

 今回の乱読では時間に関するものがかなり多いが、これもこれまでの行きがかりによる。どこかで一度触れたような気がするが、マクタガートの時間論のことがまた気になったので そのついでに他の本も見ることになったともいえるし、この私という意識にまつわりつく奇妙さが時間の問題にまで及んだともいえる。そういえば いつか触れたゼノンのパラドックスもこれに関連してまたまた話題として登場しうる。とにかく 現在では時間に関しては自然科学の領域でかなり盛んに論じられていて、それに応じて話が門外漢に近づきがたくなったせいか、哲学が語らなくなったとかホーキンスだかに述べてあった。たしかにこの話題は 前世紀の自然科学が猛烈な発達をとげて以後は素人が簡単に理解できる領域ではなくなったように思われる。しかしそれはそうだとしても、時間についても自我の問題と同じように、そのことを考え出すと この私にとってつきまとって離れぬ奇妙さが感じられることは確かであり、それをどうやって納得させるかを考え出すと どうにも抜け出せぬ悪循環に陥るのは見えている。しかも最新の自然科学の成果を使ってもそのジレンマが解消するなどとはとうてい言えないことも明らかだ。したがって ここでもやはり依然として原始的で初歩的な課題は依然として残されたままなのだ。ひところ売れっ子だったホーキンスの 「時間の簡単な歴史」 でも 時間についてそれほど楽観的に考えているようでもないようだ。そういえば彼の専門領域である宇宙に関する統一理論について面白い記述がある。 「Now, if you believe that the universe is not arbitrary, but is governed by definite laws, you ultimately have to combine the partial theories into a complete unified theory that will describe everything in the universe. But there is a fundamental paradox in the search for such a complete unified theory. The ideas about scientific theories outlined above assume we are rational beings who are free to observe the universe as we want and to draw logical deductions from what we see. In such a scheme it is reasonable to suppose that we might progress ever closer toward the laws that govern our universe. Yet if there really is a complete unified theory, it would also presumably determine our actions. And so the theory itself would determine the outcome of our search for it! And why should it determine that we come to the right conclusions from the evidence? Might it not equally well determine that we draw the wrong conclusion? Or no conclusion at all?」 またしてもパラドックスだ。本人が冗談で言っている可能性もあるから本気で受け取る必要はないのかもしれないし、もちろん究極の意味での統一理論など人類が存在している間に到達できるなどとは考えられないが、もし本気で考えたら希望などどこにもなくなってしまいそうな気のめいる発言だ。なんだか 前回で私の言った全地球の超人の意思に翻弄される人間の状況に似たところがなくもない。ま、こういった話は当分の間は縁がない。当面はもっと古典的な話題だ。

 その点で今回読んで面白かったのは 中島義道の時間に関するものだった。どれも文庫本だ。著者は哲学の専門家でカントの時間論で学位をとった人らしいが、カントの解説ではなく、カントを材料にしながら独自の時間論を提起しているというのが面白く また好感がもてた。彼の 『時間と自由』 のあとがきには次のような件がある。「私は四十六歳になった。カントがやっとケーニスベルク大学のポストを得た歳であり、芭蕉が奥の細道に旅立った歳である。多くの天才たちはすでに死んでしまっており、まもなく漱石が死んだ歳を迎え、スタンダールが朝焼けに染まるローマで 「私は五十歳になった!」 と感嘆した歳にすべってゆく。哲学の才能はないようであるが、ほかの才能があるわけでもないという厳しい現実を知って、さて残りの人生をどのように生きたらよいのか、といまいましく呟いている歳である。あとは死ぬことしかない人生の坂をこのままズルズル下って行くのも恐ろしいが、これからじつは何もないのにあたかも何かがあるかのように残りの人生を送るのはもっと恐ろしい。カント研究のために日本の哲学のために貢献して、何ほどかのご褒美を受けて満足して死ぬのだけは避けたいと日々思っている。」 こんなことを書ける人が羨ましくもあり、贅沢なことを言ってるなという気もしないではないが、それでもこんなこと書ける人の本を読めるというのは悪いことではない。このあとがきの前の方にある文章もかなり情熱を感じさせるものだ。 「哲学理論の価値、その重みは 「正しいか否か」 ではない。哲学史を繙(ひもと)けば、そこは好き放題のことを語っているまさに 「阿呆の画廊」 である。どんな自信に溢れた議論でもその正反対の議論を見つけることはごく簡単である。といって、すべてが相対的であると涼しい顔で居直ることのできる人は、 −  はっきり言っておく −  哲学とは無縁の人種である。では、「正しさ」 でないのだとしたら、何がある哲学理論の真価を決めるのであろうか。それは、ひとことで言えば 「実感」 に基づいた力強くかつ精緻な言語表現ではないだろうか。 「これだけは言わねば」 という悲壮なまでの決意が感じられしかも論理的に緻密な言語のみが、哲学の言語として価値をもつのだ。」 文学にもこういう言い方があるのだろうか。

 おかげで非常に初歩的なことも含めて勉強になった。時間意識という意味で原初的なものは過去、今現在、未来という系列であり、前後関係を基本として数直線上に時刻を記入されうる系列とは本質的に異なっている。現在は後者が 自然科学や歴史のみならず日常生活でも主たるものとなっているように見えるが、この数直線上で記述される時間というのは私達が最初に感じる時間とはかなり違った様相を示すものなのだ。たとえば1914年に最初の世界大戦が勃発し1939年に二次大戦が勃発したが、この二つの事件の前後関係はいつの時点で見ても変わりはない。一度起こってしまった事柄に関して言えば あとはどんなに時間が経っても事柄は不変なのだ。それ以上何も起こり得ない。時間軸上のある時点での事柄はどんな時刻からみても何も変化がないということは、この世界では全ては単に時間軸にそって並列して並んでいるだけである。形式的に時間軸の原点を今として扱い そこを境として未来と過去を決めたとしても その今も、過去も未来も、原初的な時間意識とは何のつながりもない。この世界ではどの時点も今でありうるが、それは本来的な今とは異なっている。またこの系列では因果関係はたんに出来事が時間を変数とする関数であることをいうに過ぎない。ということで 時間意識にとっては過去、今現在、未来という系列に着目しなければいけないことになるのだが、ではその中でももっとも基本的なものは何だろうか。普通は現在がもっとも基本的で、現在からみて まだ実現していない時間を未来、現在において既になくなってしまっている時間を過去と考えるのが自然に思われる。ところがこの著者によれば もっとも原初的なのは過去であるという。ここのところどうもうまく伝えられないので 直接この著者の本で確かめてもらいたいが、とにかく大変新しい発見をしたような新鮮な思いをした。たしかに今、今、今といつまで呟いたとしてもその今が何か、時間が何かは出てこない。もちろん今は今でないものとの関係の中で今とされるのだが、私たちがもし 「こうした考察を重ねて反省してみるに、<私>が原初的に知っている時間とは過去時間のみであり、しかもこの過去時間の了解は<私>が想起という作用によって<今>直接過去を捉えること以外には帰着しないことが判明する。もし<私>が<今>直接過去捉えることができるのでなければ、<私>は<今>と過去との関係を空間とは異なる時間関係として了解することはできないであろう。もし<私>に記憶力並びに想起能力がないのだとすれば、<私>はいかなる意味でも空間とは異なる時間の性格を了解できず、現在・過去・未来という時間特有の構造を空間上の相互関係以上のものとして了解することはできないであろう。<私>が想起によって<今>直接過去を捉えるということがあらゆる時間了解の根底に存するのであり、<私>はこうした原初的な了解に基づいて、<今>とはそのときにおける未来であったことも了解するのである。」 「時間とは、知覚的に与えられているあり方(現在)において、そこに知覚的に与えられていないものを、まったく別のあり方(過去)として了解することなのだから。知覚として与えられていない 「不在」 を、それにもかかわらず別の確固とした 「存在」 として了解することなのだから。 「ある」 という意味で不在であるものを、「あった」 という意味で存在するものとして了解することなのだから。」 というようなことなのである。

 過去の想起というのは、過去の出来事のある意味での再現を知覚することではない、ということは大森荘藏も何ども繰り返し述べている。想起はかつての現在の再現でもなく再経験でもない。想起されるのはかつての現在であるのは確かだが、それは決してかつての現在経験が再登場するのではないということである。したがって想起は知覚とは全く別の経験のあり方である。想起において想起された内容が過去の出来事ではあるが それは、薄れて変質した過去の出来事を知覚するといったことではない。夢の経験でもこれと同じことが言えるので、夢を夢の中で何かを知覚したと思うのは錯覚であり 夢体験は決して知覚経験などとは言えずそれとは全く別種の体験である。このことはすでに述べたとおりである。どうやらこの話は 時間了解の問題が他者了解の問題とどこかでつながっていることを暗示するように思われる。そういえば中島義道の本にこんなことばもあった。 「なお時間観念の形成のためには複数の運動が必要である。空間中をさまざまな速度でさまざまな軌道を描いて運動する物体を観察しながら、われわれはそこに 「一定の」 時間の経過を了解する。仮に、世界に唯一の物体の運動しか生起していないとしてみよう。世界にいかなる運動も生起していないとき時間という観念が生じえないように、この場合時間という観念は生じえないであろう。この物体の運動が世界における唯一の運動なのであるから、 −  たとえこれを一定の速度で運動するものと承認したとしても  −  われわれはこの運動と独立にこの運動を測定する尺度を設定しえないのである。」 まるで この私の確実性からこの世界に存在するものの確実さを導き出そうとしたときに起こったと同じ事態が ここでも生じているのだ。時間でさえもやはり、存在するものの互いの関係性によって成立しているのだ。

 時間についてはさらに今現在に関する考察も印象的だ。今が過去と未来の境をしめす長さのない点であるという通念にたいして、じつは今というのはそんなものではないという。読んでしまえば当たり前だと感じてしまうが最初は印象的だ。「私はまず現在を端的に直感的に了解して、次に過去を 「もはや現在ではない時」 として了解するのではない。<いま>を了解するとは、すでに適当に幅のある一つの区切られた時を了解することであり、それはとりもなおさずその前の<いま>を了解することである。 「今日」 という<いま>の一つ前の<いま>はその外に押し出される 「昨日」 という時であり、「今月」 という<いま>の一つ前の<いま>はその外に押し出される 「先月」 という<いま>である。」 「 「いま」 という言葉は、じつは t1 や t2 のように特定の時点を指す言葉ではない。それはあくまでも関係を意味する言葉なのだ。そのことは日常的な 「いま」 の使い方を調べてみればよくわかる。」 とある。またまた関係性の登場である。

 以上時間について中島義道と大森荘藏の試みをかいまみたわけだが、こういう考察が一見なるほどと思わせるほどには最初の提唱者にとっては容易い営みではなかったらしいことが 大森の 『時間と自我』 のはしがきを読むとうかがわれる。 「主題の一つである時間についていうならば、これまで無数に続けられてきた時間論議の方向を急角度に一転する目的から、現代公認の時間である物理学の線型時間の批判を試みた。というのは、時間にまつわる疑問や難問のほとんどすべてがこの線型時間に起因している様に思われたからである。その端緒として物理学の時間から欠落している過去現在未来のいわゆる時間様相、なかんずく過去の意味を探求することから始めた。ところが、過去という意味のすべてが埋められている想起の体験について常識が決定的な誤解をしているのに気付くことになり、その誤解を訂正することから突然開いた洞穴をたどることになった。しかし、この洞穴の奥には一つの恐ろしい奈落が見えてきた。過去とは文字通りの夢物語ではないか、したがってこのアナーキーの過去には何の条理もなく限りなく無意味に近い制作物ではあるまいか、こうした恐怖を感じさせる奈落に面しては立ちすくむ以外にはない。」 どうやら常識的な考え、公認された考えからはずれた新たな思考の可能性に気づくと こうした大家でも恐ろしさを、恐怖を感じることがあるらしい。なぜ恐怖を覚えてまでそうした思考を受け入れねばならぬのだろうか。もちろんそれが偽りのない自分自身の実感にもとづいた考えから発生しているからに違いない。もしかすると新たな思想というのはこうした恐ろしさに堪えることによってでしか支えられないものなのかもしれない。

 べつに時間や自我についての哲学を解説したり紹介しようとしていたわけではない。非常に限定された領域についてのほんのわずかな量を読んだだけなのに、そこにモティーフとして繰り返されるものが見えることに興味を覚えたと同時に、そのことが何を意味するのか気になったとでもいったらよいだろうか。自我の問題や時間の問題に関して関係とか関係性とかについて何度か触れた。考えてみれば、こうした課題に関して関係性が登場するのはさほど不可解なことではなく かえって自然なことだと思われるのだが、こうした話題を扱った本でことさらこの言葉が強調されているということは、従来はあまりこうしたとらえかたがなされていなかったということである。それは前世紀までの哲学をふくめた学問のありかたとも関係しているのかもしれない。ものごとを関係性によってとらえることと、そうでないのとではどこがどのように違ってくるのだろうか。それはいまここで問題にしている関係性の内容ともかかわる。ここで言う関係性というのは単にある事柄と別の事柄が関係しているという意味ではない。ある事柄、現象に対してそれを説明する際、さらに根本的な根拠となる事柄から説明することが不可能な事態に関して使われているのだ。たとえば自我の問題では、自我意識を根拠として世界の全ての存在物や他我を導き出すことも説明することもできず、自我はそれらのものとの関係の中で成立しているという言い方だ。その言い方には この世界の様々な現象を説明する根本的な何かある根拠があるということが否定されている。自我はそれ以外の存在との関係の中で成立しているということは、自我の存在の確実さはそれ以外の存在の確実さと同等程度でしかない、また言い換えればその程度には確実であるということである。逆に言えば、自我をそれ以外の根拠を使って確実に説明することもできないということである。こういう言い方は従来の学問のあり方からいうと 非常に落ち着きのわるい 気持ちのすっきりしない態度のとりかたである。従来の考え方によれば ある事柄に対して何か根本になる原理を見つけそれを使って説明することになる。その原理となる根本的な事柄が少なければ少ないほど、そうしてその原理によって導きだせ説明できる事柄が多ければ多いほど、その原理は普遍的で確実だと認められたのである。しかし少なくとも自我の問題に関してはそうはいかないということである。絶対に確実だとみなされる根本となる根拠は存在せず、すべてが同等程度に確実だということは、全てがその程度に不確実であいまいだということであり、そのことを認めようとするとそのあいまいさに堪える忍耐力が要求されることになるのである。

 おそらく そうしたあいまいさに堪えることは 一般には非常に困難なのだろうと思う。精神衛生上もっとも理想的なのは ある確実な根拠をもとにしてすべてが根拠づけられすっきりと説明されることだろう。どうやら これまでの人間の知的な営みのうちには、すべての事柄を最も基本的で確実な根拠からすっきり導き出そうとする欲求があったようにも思われる。時間の問題でも同じことで 根本的な時間とは数直線状で表現されるような前後関係を基本としたものなのか、過去・現在・未来というとらえ方によるものなのか、そしてさらに後者においては そのうちで最も基本となるのは現在なのかどうかという問題の建て方もそこに由来している。ところがこの二系列の時間を本格的に論じたことで有名なマクタガートの書いたものでは その結末において非常に面白い結論となっている。まず彼は前後関係による時間系列では事柄の変化を説明することができないから根本的時間系列とはないえないので、過去・現在・未来という系列が時間としてより根本的なものであることを述べる。その次、もし根本的な時間が存在するとすればこの過去・現在・未来の系列でなければならないはずであるのに、この時間系列では過去・現在・未来のそれぞれの概念に矛盾が生じるなどのことから、この系列自体も時間としては現実のものではない。結局時間というのは unreal であるという結論を導きだしてしまうのである。私にはこの部分の論理があまり納得できないが 今は置いておく。彼は最後に現実の時間を成立させるために 結局さらにもう一つ別の系列を導入することになるのだが、ここで注目したいのは彼が時間とは何かを追求した結果 かえって時間が非現実であるという結論を導きだしてしまったという点である。ここでもどうやら 時間というものまたは現象(?)を何かある確実な根拠から確実性をもって導き出そうとしたが、その試みを遂行することが却って時間を不確実つまり非現実とみなすことにしかならなかったことで、そうした試み自体の不可能性を示唆しているように思われる。

 以上は自我、この私にとっての意識に与えられた事柄を疑いえない確実な根拠として それ以外の事柄を根拠づけようとする試みであった。どうやらそうした試みはうまく行かないのである。それにもかかわらず 長い年月人間はその試みを放棄せずに考え続けてきたらしい。私はここに人間のあさはかさの一端を見るような気がしてしまう。どうやら人間はああでもない、こうでもないというところで留まらざるを得ないという結論には落ち着けないらしい。前世紀にエポケーという言葉で一種の判断停止という概念を提唱したフッサールでさえ、他我や時間の問題に関して死ぬまで絶望的な悪戦苦闘をしている。私にすれば エポケーという言葉は単純な判断停止などというところでは使えないのであり、必然的に判断停止せざるをえない場合にのみ使用することにすればよいと思われるのだが。そうすればある事柄を疑いえない確実な根拠から導き出すことが不可能で、ある関係性より先に進めないことになれば、そこでとどまるということを積極的に主張できたのではないかとも思う。もしかすると縁起とか相依という言葉を使っていた仏教では こうした相互依存の関係性の重要さに気づいていたのかもしれないが 中論を見てもさほどはっきりせず、そうだったと断定するほどの自信はない。そうでなくともよい。どうせ誰がどこで最初にいったとか優先権を論じているわけなのではないから。前に 『寛容』 という本について触れたが、いまでも敵だ味方だという論じ方ははっきりしていて受け入れやすいが、敵でもない味方でもないなどと淡々とした言い方は歓迎されないのかもしれない。

 もしかすると人間には物事を徹底して突き詰めることについては限界があるのかもしれない。時間や自我について触れた本には 例のゼノンのパラドックスについて触れた部分もあった。いつかも言及したことがある 飛んでいる矢のパラドックスについては、私と同様に運動の概念を使ってパラドックスを解消する試みが既にあったことを知った。同じ内容を言い換えると、幅のないある時点で動いているとか止まっているとか論ずることは意味がないということにもなる。その言い方をした途端に 幅のない時間ということに対する議論も発生してくる。歴史が長いだけにゼノンのパラドックスに関してはすさまじい量の文献があるとかいう。面白いのは 同じ問題でも記述の仕方を変えるだけで非常に気分の落ち着かず居心地の悪いものに変わるということだ。たとえば、秒速 10メートルのアキレスが 100メートル先のゴールを目指して走り出したとする。かれはまず出発点とゴールの中点、ゴールの手前 50メートルの地点に到達しなければならない。つぎにそことゴールの中点の地点、ゴールから 25メートルの地点に到達しなければならない。さらにそことゴールの中点に……と次々に進んでいくと無限の過程をたどらないとアキレスはゴールに到達できない。しかしこのパラドックスに対して、それぞれの地点に到達するまでの時間を計算して加えてやると 5+2.5+1.25+…… = 5×(1+1/2+1/4+1/8+……) = 5×2 = 10秒となるので彼は 10秒後には 100メートルの地点すなわちゴールに到達することが出てくる。はたしてこのやりかたがパラドックスの解消になっているのかどうかは ひとまず置いておく。もしかするとこれは元来の問題にたいする反則なのかもしれないのだ。ところでこの問題を 内容の方は変えずに書き換えてみよう。アキレスがゴールに到達するためにはその中点の出発点から 50メートルの地点にまず到達しなければならない。50メートルの地点に到達するためには その前にその地点と出発点の中点の出発点から 25メートルの地点に到達していなければならない。その地点に到達するためには そこと出発点の中点の 12.5メートルの地点に到達していなければならない。こうして次々に後退して次第に出発点に近づいてゆくと どうなるのだろうか。アキレスはそもそもスタートを切ることができるのだろうか。問題は妙に気分の悪い形になっている。

 この場合のパラドックスにはどうやら無限がからんでいるらしい。無限がからんでいるものでは 今回読んだバナッハ・タルスキーのパラドックスがおもしろかった。といってもこれはれっきとした数学上の定理だから パラドックスというのは語弊があるかもしれない。この定理の言っていることは簡単だ。ある球体を有限個数に切り分けたあとそれをまた繋ぎ合わせて大きさの違った球体を作ることができる、というものだ。この結果は日常の世界では奇妙なものだ。リンゴぐらいの大きさの球を変形して地球と同じ大きさの球にできるというのだから。この結果は様々な形に変形できる。一つの球を切り分けて またつなぎあわせて幾つもの球を作ることができる。証明はそう簡単ではないが ある高校生向けの参考書に載っているというから その程度で理解できる内容でもある。面白いのは この証明の結果のうちには、ではどのように切り分ければよいのかを具体的に示すこともできないことも出てくることだ。あまりくわしく紹介する自信もないので今回はここまでとしておく。

 報告が中途半端で申し訳無い。次回の報告がどうなるか私にもまだ予測はつかない。