三枝壽勝の上海通信


上海だより 2004. 7月 (2004/07/09)

 上海にきて初めて中国大陸での生活を始めて 一年以上が過ぎた。相変わらず人付き合いから縁の遠い生活をしているにもかかわらず、それでもどうやらここの環境に順応してきているらしい。なんとなく愛着のようなものを感じてきそうな予感がしてきた。これは危険な兆候である。私は別に中国について何か専門家になるためにここにいるわけではない。これ以上ここに滞在していると情がわいてきて離れ難くなったり、上海や中国についてますます色々なことを知り 深みにはまりこむ恐れがある。そろそろ見知らぬところに移り、最初から出直しをしなければならないのではなかろうか。昨年の4月の初めここに来たときは 1万円が人民元で約 690 元だったが、最近は 760 元ぐらいだ。かなりレートは有利になった。それだけ生活しやすくなっているかもしれないのだが。

 私が人付き合いをしないのは もともとの性格が社交的でないからだ。そのうえ自然や遺跡を見て歩くことにあまり興味をおぼえないせいもあって、出歩くこともないので 人と話をする機会がますます少なくなるのだろう。それに加えて 今の私のような原始的な食事をしていては、他の人と一緒に食事などできない。豚の餌などといえば豚の叱責をかいそうだが、それでも三度三度 ほとんど同じようなものを 毎日毎日 一年中食べているのだから 動物園の動物の餌と似たようなものだ。それなのに どういうわけか一向に飽きを感じないうえ、味にもさして不満を感じない。健康状態も特別なことがなければ問題ない。

 ただ 机に向かって本を読んだり書いたりすると かなり苦痛を覚える。私は昔から 机に向かって長時間読書をしたり、書き物をするのが苦手である。と言うと、疑う人がいるかもしれないが、私は机に向かっているときでも、たいていは気楽な姿勢で本を読んでいる。一番理想的なのは寝台に寝転んで読む姿勢かもしれない。ただしそれでも 一時間以上続けて読むことはめったにない。パソコンはそれとはすこし違っている。腕を机において机にもたれかかるようにしているので、寝台にうつぶせになっているのと変わりない だらしない姿勢が可能だからだ。妙な食事をしているせいで 人とつきあって一緒に話をする機会がなくなっているが、また夕方6時以後 外にでることがめったにないことも 人と付き合うのをますます困難にしているようだ。それならどこにいたって同じようなものだが、なぜか上海は妄想をさかんに刺激するという気がする。それは上海の風土のせいなのか、それとも日常的な生活から遠ざかっていることが影響しているのだろうか。

 上海では6月の 14日に梅雨に入り 二日連続雨が降ったが、それ以後は天気の日も多い。ただ雨の降っているかぎり 温度が上がらないのでしのぎやすい。7月に入ってからは天気もよくなり 35 度を越して暑くなったが それでも突然あたりが暗くなり 猛烈な夕立が降る日もある。その入梅の翌日、ここに来て初めて映画館に入った。映画は The Day after Tomorrow (中国名は “後天” つまり “あさって”) という ニューヨークが氷河に覆われる SF で、わざわざここで見る必要もないものだが、只で見たのだから文句もいえない。十五、六人の団体で行ったが、観客は私たち以外には男女のペアが一組だけ、その二人も映画が目的ではなかったのか途中で消えていった。また会場に入る扉が閉めてないので 廊下で従業員の喋る大きな声も聞こえてきて、もし内容が聞き取れればかなり気が散ったかもしれない。

 6月 17日に 以前にちょっと触れたことのある 同級生を殺した馬加爵に死刑が確定し 直ちに刑が執行された。刑が確定すると裁判長がただちに死刑執行の命令を下し、外で待っている “刑車” に運ばれるのだ。これで “刑車” の役割がやっと分かった。死刑場というのが特別に設けられてあるわけではないのだ。法廷を出るときの馬加爵は 麻痺したように無表情で両足が動かなくなり 法廷警吏に抱えられて出ていったという。ただ本人はすでに死刑の判決に対して上訴を放棄しているので、本人にとって最終審の判決は意外な結果ではなかったはずだが、それでも判決確定直後に死刑執行というのは 精神的にはかなり衝撃だったのではなかろうか。彼が殺人を犯したのは2月 13日、3月 15日に捕まり、4月 24日には昆明の中級人民法院で一審死刑の判決、そこで上訴しなかったので、雲南の高等法院でその判決に対する審査がおこなわれ、その結果が上に述べた死刑確定の宣告となったのである。犯行から死刑まで四ヶ月あまりである。ここでの死刑の判決は こうしていったん判決が下されたあと、その結果に対する検討 (復核という) が上級の人民法院でおこなわれ 最終宣告がなされるらしい。それにしても 死刑の確定宣告直後に刑の執行というのが かなり強烈な印象を与える。しかし中国の映画をみると、昔も死刑の執行がかなり迅速に行われていたらしいので これも伝統に属する ことがらかもしれない。ただ 時間の経過したあと誤審だとわかっても すでに本人はあの世で救われないこともあるのではないかと感じる。命の虚しさを実感させられるところだ。また新聞によれば、被害者の家族がこれで気が晴れたとかいうような感想を述べたりしているのも あまりに率直過ぎて奇妙な感じを受けた。そういえば中国では 獄中にいる人間に報道機関がインタビューすることができる。馬加爵の場合も 彼とのインタビューだったか手記だったかが報道された。台湾でも同じだし 韓国も日本ほど厳しくないような気がする。日本の場合、いったん捕まるとブラックボックスに入ったようなもので 何が起こっているのかさっぱりわからないあの世の人間になってしまう。そしてうっかり獄中の人間に手紙などだすと あとで取り調べを受けたりしてかなりやっかいなことになるのだという。

 6月 18日には 路上でキリギリスの籠を積んで並んで走る二台の自転車を見た。そして6月22日は農暦 (旧暦) の五月五日端午の節句。市場で菖蒲の葉と蓬の葉が かなり大量に売られていた。どちらも日本のものよりかなり長く 1メートル以上もある。特に蓬は葉が大きく 日本で見かけるのとは様子が違い最初は菊かと思った。といってもヨモギも菊科だから似ていて当たり前なのだが。市場のおばさんに薦められて二束買い 部屋の入り口の両側に架けた。1束1元だったが、本当は5角で買えたのかもしれない。市場では値段がかなりいい加減だ。トマトが一斤1元5角だというので買っているそのそばで、他のお客には1元3角だと言っている。値段が違うじゃないかと言っても 笑っているだけだ。菖蒲はどちら向けに飾ってもいいといったので 逆さにして吊るす格好にしたが、テレビで紹介されているのを見ると正月の門松のように自然の向きに飾っていた。またこの日はチマキ (粽) を食べることになっているということで真似事をしたが、街では高級な粽が贈り物用に出回り 数個で 80元もするとかニュースで紹介されていた。あまりにも常識はずれだと社会問題になっていたが、それでもかなり需要があるらしい。あたかも 中秋のときの月餅の雰囲気にちょっと似てないこともない。

 6月 26日には大学入試の点数発表があった。受験生にはすべて結果が郵送されるらしいが、電話サービスもあって 受験番号を言うとすぐに結果がアナウンスされるという。郵送というのが少し不安だが、案の定、昨年の清華大学の合格通知が郵便受けではなく牛乳配達の箱に入れられていて 一年後に発見されたがもちろん時効で合格は取り消し、本人はすでに他の大学に通学しているという記事がでていた。

 イスラエルが新型のレーダーを開発したとか。超音波を使うもので、壁があってもその向こう側 20メートルまでは3次元の追跡が可能だという (週刊新民 7月5日〜11日号)。こういう記事を読むと、では壁の厚さが 20メートルあったらどうなるのかと考えてしまう。もし十分なエネルギーをつぎ込むなら その壁のさらに20メートル先まで追跡することができるのかもしれない。でも あまりエネルギーを高めると壁そのものが破壊されてしまって、丸見えになってレーダーで追跡する面白みがなくなるかも。しかし私の感じでは 建物の中や壁の向こう側を探索するレーダーはすでにさまざまな様式のものが開発されていて 盛んに使われているはずだ。おそらく私の推測では 中国でも日本でも超音波を使ったものはかなり前から実際に使われていて、しかもこれは拷問にも使える機能も備えているのではないかと想像している。いまでは密室に閉じ込めずとも自在に人間を虐待することが可能になっているはずだ。現代は家庭にいて拷問のサービスが受けられる 進歩した時代になったんなだと感慨を覚える。健康を云々する正義の人たちが 電波障害や低周波音波そしてレーザー光線のことを話題しながら、おそらくかなりはびこっているだろうこうした武器についていっこうに関心を示さない理由はどこにあるのだろう。そういえば 前にも書いたレーザー光線を使った銃のことがまた新聞に載っていた。

 6月 29日から 7月14日まで北京で 『厠所』 という演劇をやっている。そのものずばり 北京の 1970年代から 90年代までの便所をテーマにしたものだ。以前は 「茶館」 というものがあって 人々はそこに行ってお茶を飲みながら話をした。南のほうにはまだ残っているが 北京ではその茶館がなくなったらしい。その代わり 厠所が社交の場所となった。厠所のなかにテーブルがあって 竈があって 饅頭を温め 粥を煮て 麺をゆでたり、まな板を用意し 野菜を刻みながら トイレの使用料を徴収する。その傍では煎餅 (チェンピン) を売る屋台が店をだす。北京ではトイレの前で食べ物を売るのにもあまり抵抗を感じないのかもしれない。この演劇の紹介記事には色々と書いてある。トイレは無限の可能性をもって人間の真実の状態を表現する空間だ。アメリカの大統領も便器に座ってイラク戦争の決意をしたかもしれない。普通の人間は人生の選択をおそらく小便をしながら行う。しかし多くの人は排泄のあと排泄物がどのように処理されるか知らない。北京 1000万人口の糞便処理は恐るべき量だ。むかし故宮には便所がなかった。便器の排泄物は天安門までいって捨てた。皇帝の周辺はきわめて清潔だが宮殿の周辺は臭気紛々だったとか。そして劇の最後に出てくるスローガンは 「共に排便できる民族こそ偉大な民族だ。共に排便するのは団結、単独で排便するのは文明、団結か文明か、よく考えましょう。」 などなど( 『南方周末』 2004.7.8)。そういえば最近オナラをテーマにした翻訳書も出ていた。現在の中国の一面かもしれない。とかなんとか書いてきてやっと気がついた。なんだ、自分も同じことやってるじゃないか。毎日洗面所にまな板を持ち込んで 便器の上に野菜を積んで食事の支度をしている自分のことをすっかり忘れて 中国人のことばかり気にしていた。人間なんて勝手なものだ。

 そしてイラクではアメリカは6月 30日に予定していた権力移行をひそかに繰り上げて出し抜けに行い 世界をペテンにかけた。アメリカが最初に戦争をしかけた理由のうち 主要な項目はすでに根拠のないものだと明らかになっているからには、従来ならこの戦争は理由のない戦争、侵略戦争ということになるのだろうが、あいかわらずアメリカ主導で進行している。戦争が始まったころ アメリカはイラクに世界最大の情報部の支部を設置するといわれていたが、その計画が変更されたという報道もない。このまま進行すれば アメリカは 旧東欧圏とアラブそしてアフガニスタンという重要な拠点をすべて支配下に置くことに成功したことになる。

 そして7月7日は中国では国恥記念日、つまり 1937年に日本が中国と正式に戦争を開始した日の 67周年記念日である。テレビのニュースでは日本にたいして “道歉” と “補償” を要求する集会のことを伝えていた。過去の記録映像を使った特集番組も放映された。その一方で中国を訪れる日本人は、相変わらずどこの何がおいしいとか 中国人はまだ公衆道徳にかけているとか何とか昔とまったく同じことを喋っているらしい。



 というわけで、前回と前々回続けて書いた続きを今度も続ける。がしかし この話は今回で終わりにしたい。もしこれまで読んできた人なら感じているかもしれないが、私はアメリカのイラク戦争について批判をしていたわけではない。現在のイラクの戦争がアメリカの現職大統領の個人的な意向やアメリカという国の意向によって引き起こされているというのは言いやすいことだが、私はそういった次元のことに関心があったのではない。もし たとえ将来の世界がアメリカによって支配されるようになったとしても、それに反対するとか抗議すると意思表明をするつもりで書いていたのでもない。もちろんそうしたい人がいたとしても それに異議をとなえるつもりもない。私はこうした事態の進行が何を意味するかについて考えていたのだ。日本でも翻訳されているらしい 歴史学者の黄仁宇の言い方を借りれば、歴史は決して個人の願望などによって動いているわけではない。歴史は 個人の伝記や通俗講談とは違うということである。したがってアメリカの現行の大統領の個人的な意向がいかに強く反映されているように見えても、事態の進行の最終的な行く先は 決して彼の個人的な意向によって決定されているわけではない。その背後にある論理は 個人的な願望や思想を超えたところにある。黄仁宇によれば トルストイが 『戦争と平和』 で同様のことを述べているという。私には記憶がかすかで思い出せないが、ありそうなことだと思う。なぜ歴史の論理は個人の意向や意図、願望を超えたところにあるのだろうか。その論理というのはすでに明らかになっているのだろうか。おそらく まだこんなことが言われているということは、歴史の論理というのが明らかにされてないのかもしれない。その論理があったとすれば それはどこで決まるのか。私にはその論理の由来がうすうす感じられるが、そのことをはっきり言うのがためらわれる。前回は時間がなかったので話を途中で打ち切ったが、あの時も実はその先を書くことにためらいを覚えたこともあって その先が書けなかったのだ。

 もう一度繰り返すが、アメリカ軍の捕虜虐待事件から始まり、人間の本性について語り、残虐性について語ってはきたが、だからといって別に人間のありかたについて何かを語ろうとしたのではない。人間のあり方、さらには人類の歴史について語ろうとしたのでもない。しいて言うとすれば、そうした人間のあり方、歴史のあり方自体が意味のない次元での話をしていたことになる。これまでの人類の歴史には進歩などなかったという人がいる。それでも人類の歴史を語っているかぎり人間のあり方について語っているのである。私はそういった人間を語る次元とは別の次元を語っていたらしいのである。前々回、話の最初である人の書いた本を紹介しながら 相補性の原理について触れた。その原理をきっかけに人間の本性や文化の矛盾した側面に触れた。そうした矛盾した現象の意味するものが何かを考えようとした。そうした矛盾した現象を同時に本質的な事柄として承認することから、論理的にどんな結論がでるかと考えた。いまその論理を体系立てて語る力はわたしにはない。ただそのことを考えることから ふとある発想が浮かんできた。その発想はやはり最近読んでいた本から刺激をうけて出てきたものである。といって、私が読んだ本を片っ端から調べて調査したら私がどうしてそんな発想にいたったかがわかるだろうなどと考えても、それはうまくゆかないだろう。ある思想が先人の業績に影響をうけて成立したということがあっても、その両者の関係は必然的なつながりをもっているとは限らない。ある発想や考えの成立は偶然の要素のほうが大きいのだ。同じ本を読んでも読み方は人によって違うし、どの読み方が正しいなどと強制すべき性格のことがらでもない。

 私はなぜ、くどくどとこんなことを述べているのか。この先を書くのをまだ躊躇しているらしい。なぜか、その結論が私にとって恐ろしいと感じられるからかもしれない。恐ろしいというのは結論の恐ろしさではない。発想自体の恐ろしさである。あることを考えるということに恐怖を覚えたことがあるだろうか。真理は常に恐ろしいものであると読んだことがある。私の書くことは別に真理でもなんでもない。ただ私が恐ろしさを感じたとすれば、それを語ることによってほかの人がまた恐ろしさを感じるきっかけになるかもしれない。もしその人がその恐ろしさに耐えられなかったら? 私にはその責任をとるだけの覚悟はない。したがってあらかじめお断りをしておく。もし私の文章を読んで生きる希望を失ったり精神に異常をきたしそうな予感がしたら、直ちに読むのをやめてほしい。面白くないと思った場合も同様である。私はできるだけ散漫に書くつもりである。読み終わってから、なぁんだくだらないと感じてもらえるようにしたい。恐ろしい恐ろしいと予告ばかりしているが、実は恐ろしいといってもそれを感じることのできる人がほとんどいないということを望みたい。おそらく普通にはそうなるだろうと思う。だから一般の人はほとんど心配はいらないはずだが、万一の場合ということを考えたのである。

 どんなことが考えるだけでも恐ろしいことなのだろうか。たとえば 『ツァラツウストラはこう語った』 の作者が考えた永劫回帰もその一つである。ただし彼の発想は非常に単純なことから発している。有限個の物を並べ替えるやりかたは有限個しかないということである。分数を少数に書き直すと、割り切れない場合にはかならず循環小数になるというのと同じ原理である。この宇宙を構成している物質が有限個なら、さまざまな可能な歴史のありかたも有限個しかない。といっても この歴史というのはこの地球上の歴史ではない。宇宙の発生から消滅までを一回の過程とみなして、そのあり方の可能性を考えるのである。そうすればこの宇宙が発生して消滅したあと、また最初から発生と消滅を新たに繰り返すとしても、いつかはまた同じ状態から発して同じ進化と消滅のしかたが再度繰り返されることになる。一見しただけで、こうした発想が非常にばかばかしいと感じる人は幸いである。またこの思想を歪曲して 世の中にはさまざまな可能性があるのだと感じる人も幸いである。論理的に考えて永劫回帰が成立する根拠がないと証明して納得できる人も幸いである。救われないのはこうした論理を超えて、この発想のしかた自体にとらわれてしまう人である。これは論理では理解できない次元である。

 もうひとつ、仏教を引き合いに出すと、仏教では真理が二重である。ふつう語られるのは一般向けの世俗諦すなわち方便であるが、そのほかに専門家すなわち僧侶の学ぶ本当の真理つまり第一義諦というのがある。西方浄土も輪廻も因果応報も地獄も すべて方便の世界で語られることである。本当の真理の世界では 涅槃というのは完全に何もなくなった状態である。そのあとに輪廻も因果応報もない。その考えの背景に この世には根拠などどこにもないという考えがあるらしく思われる。よく考えると これも恐ろしい発想のように思われる。仏典では真理をみだりに語るな、聞く人がそれに耐えられないから、といった件があったように思う。中国で作られた偽経典の 『円覚経』 では この世は夢のようだと美しい言葉で語られている。一見もとの経典と同じ発想のようにみえるが、これはやはり中国的な歪曲で 一種の人生論に近い雰囲気である。仏典特有の深遠さとか薄気味の悪さというものは感じられない。だからこういう経典なら鑑賞するものとしては悪くないかもしれない。あたかも荘子の胡蝶の夢の比喩のように。この程度なら虚しいだけでどこにも恐ろしさはない。

 以上の二つは どちらも私たちの存在の根拠に関する発想である。これらからある種の恐ろしさを感じることがあるとすれば、それ私たち自身が私たちの存在の根拠を探り出すことが不可能だということに由来するのかもしれない。いまの自然科学では 現在の宇宙はビッグバンによって成立したという話をする。その話ではビッグバン後の宇宙の進化については語られるが、ビッグバン以前について語ることは意味がない。なぜなら時間も空間もビックバンを前提にして成立しているので、それ “以前” つまりビッグバンを前提にしていない “状態” において宇宙がどうなっていたかを問うのは無意味であるからである。しかし こういう言い方も意味をなさない。私たちの言葉は時間や空間、そしてその関係性の上に成立している運動の概念を越えた事態を語ることができない。時間も空間も宇宙の成立を前提にして初めて意味をなすとすれば、時間も空間も 意味のない状態から時間や空間が意味をなす状態への “移行” を意味する “成立” とか “発生” という言い方でさえ時間の概念を必要としているので 本当は宇宙の “成立” ということさえ意味をなさないのである。私たちは時間と空間を前提にした世界において “いつ” “どこ” ということができるが、それが意味をなさない世界では “いつ” も “どこ” も問うことはできないのである。したがって宇宙がどこにあるかという問いも意味をなさない。存在の根拠となる時間の不可解さについては 1500年も前のアウグスティヌスの言葉がかなり有名である。それに比べると 聖書にあるような神がこの世を創造したとか 最後の審判とかというのは、仏教での方便に該当する表現に当たるような気がする。信仰の問題について口出して物議をかもしだすのは望ましくないので、この言い方に固執するつもりはないが。もしかすると将来はこの宇宙がどのように成り立っているかを探求するのではなく、なぜ私たちはこの宇宙を知ることができないかについて探求をするようになるのかもしれない。おそらくその答えは今でもある程度可能である。現在のところ一般にはそのことについて語るとき、この宇宙がどのようであるかではなくこの宇宙が “なぜ無なのではなく存在するのか” という言い方でしか問われていないが。そういえば李光洙は輪廻の思想と無数回の宇宙の消滅とを結びつけて語っていたようだ。

 私たちにとって不可思議な事柄といえば そのほかに自我の問題がある。そしてこちらの問題は 今回で打ち切るといったアメリカのイラク侵略に始まる例の話題と関係があるのである。これは時間空間の問題やこの世の存在根拠に関するものとはかなり様子が違っている。ある程度その問題の周辺については語ることができる。それは先ほどの時間や空間の不可解さとは異なって、私たち自体を超えたところではなく、私たち自身に関係していてかなり接近しやすいということがある。しかしこのことは自我の問題がわかりやすいとか、理解しやすいということを意味してはいない。私自身にとって具体的なこの私の存在が私自身に固有のもので、私という具体的な存在の範囲に限定されていることが、またかなりの不思議さと不可解さをもたらす可能性がある。日常生活において、私たちはこの私以外にも似たような他の存在、つまり他人の存在について疑いを抱いてはいない。しかし私にとって私の存在が疑いをいれないような具合には 他人の存在、すなわち他我の存在は確実な根拠をもたないように感じる。つまり私にとっての私の存在の意識は私自身の範囲に限定されたところでのみ確実性を持つように思われるのであるが、それと同じ程度には 他我は確実性を持たないように感じられる。日常生活ではそうである。そのことが不思議さを感じさせる。なぜ私は私でしかありえないのかと。私とは何なのかと。私の意識とは何を意味しているのかと。

 実はその私というのがさほど確実でもないのだ。まず私の身体、この体を構成している物質自体が私そのものであるということはできない。私たちの体は常に新陳代謝で物質の入れ替えを行っている。物質という点から見れば 現在の私は一年前の私と同じではない。このことは大昔の人が語った比喩がある。海に浮かんでいる船が傷んで 甲板などの板を新しいものと取り替え修理をする。長年の間そうやって修理を繰り返すと その船を構成している部品は最初のものとすっかり入れ替わってしまう。それでもその船は以前の船と同じだと言うのかと。人間の場合はさらに成長をする。どのように成長しようとも、構成している物質がすっかり入れ替わっても、ある個人は一貫して同一の人物とみなされ、“本人” もそう感じている。過去の自分と現在の自分は同じ私であるという。なぜだろうか。さしあたっては そのことに答えられなくとも何もさしつかえはない。少なくとも 私というのが構成している物質の同一性に基づいて成立しているわけではないことだけを承認しておけばよい。昔から、特にイギリスでは、私という存在の同一性を論じるのに物質的な話題を材料にして論じることがよくあった。二人の人間が手術で組織の入れ替えを行ったり、脳の入れ替えを行ったとき、もとの人間と同じだといえるのはどちらのほうか、といったような問題だ。物質的なことがらを話題にすればいくらでも妙な事態は考えうる。交通事故で車に乗っていた何人かの人間が原型をとどめないほどぐちゃぐちゃになってしまったが、発達した医学のおかげで全員助かった。と思ったら、再生した人間の数がもとの事故にあった人間の数より一人増えていた。いったい余分の人間はどこからきたのかと。たしかレムの SF だったかにあった話だ。人間でなければ、昔、たしか玉バエだかの幼虫だったと思うが、1匹の幼虫が後に7匹の幼虫に変わって出てくるというのを読んで かなり奇妙な感じがした覚えがある。そんなことを言いだせばきりがない。昆虫が幼虫から蛹になって体がすっかり溶解してしまってから成虫になったとき、元の幼虫としての意識はあるのかないのかといったようなことだ。最近ではクローン人間の問題がある。まったく遺伝子が同一で組織の構成が同一の固体では 私というのはどうなってくるのかと。これらの話題は実は見かけほど深遠な問題ではない。おそらくこれからはさほど問題にはされなくなるだろう。事実のほうが先行して実際上解決されてしまうものも含まれているからである。が、ちょっと考えるだけでも 以上のべたこれらの問題がさほど困難な難問でないことはわかる。とりあえずここでは最低限、私にとっての私の存在は決して私を構成している物質自体が何かだけで決定されるのではないことだけを理解することができればよいのだ。

 ということは、私の本質は脳にあるとか、内臓にあるとかいう、ある特定の器官や場所を論じること自体には意味がないということである。実は私にとって私の存在は私の身体に限定されていて その範囲がかなり明確に思っているが、この空間的な限定というのもかなりあいまいなのである。そのことはさまざまな分野での実験で明らかになっているが、日常生活でもある程度確かめることができる。使い慣れた機器では私自身の身体はあたかも機器の先端まで延長され感覚されるように思われることがある。特殊な実験では目の前の机を叩くことで痛みを感じることさえ可能である。実は私自身の身体に限定したとしても 感覚というのはかなりあいまいである。両手を合わせると、両方の手が触れ合っているという感じは確かにあるが、右手が左手に触れている感覚と 左手が右手に触れている感覚を別個に感じ取っているといえるのだろうか。手のひらを冷たい壁にぴったり密着させたとき、手が冷たいと感じるがその冷たさの範囲が手のひらの形になって感じられているだろうか。痛みやかゆみがある特定の部位に特定されず かなりぼやけた輪郭しかあたえないことがあるのはどうしてだろう。もちろん場所が特定できる場合もある。足を怪我したときその場所に痛みを感じる。しかし痛みを感じているのは私であって、怪我をした足のその部位の筋肉や細胞そのものではない。それなのに足のその特定の場所に傷みがあると感じている、考えるとそれほど当たり前のことではない。その場所の筋肉や細胞がどう反応しているのかは 私には分からないのである。結局私自身にとって私自身の存在が かなり確実なように感じているわりには、その私というのは かなり周辺の輪郭があいまいなものだということになるのではないだろうか。そのことは私たちの外部に対しても同じであり、私たちはなぜ外部の世界を外部にあるものとしてとらえうるのかという問いに捉えられた人もいた。この問題も身体感覚の問題と同類の問題である。しかしこの問題については今回のところ保留しておく。

 それにしても 私がある限定された範囲を超えられないという感じを持っているのは確かではある。ただしそれが将来も現在と同様に かなり限定されたままでいるのかは不明ではあるが。そしてその私を構成している物質の固有性自体が私そのものと無関係ではないにせよ、それだけが私自身を完全に決定しているわけではないことも確かである。では私にとっての私の意識はどこからやってくるのだろうか。私の存在というのは何によって根拠づけられているのだろうか。これはかなり古めかしい問いである。いまでもこうした古典的な話題が意味を持っているのかどうか 私にはわからない。哲学がこうした課題に関係あるなどということも オクテの私は大学を卒業するころになってやっと知った。今ではこんなことはわかりきったことで、いまさら誰も問題にしていないのかもしれない。それでもよい。問題が解決されていたとしても それが日常生活にとっての常識になっているわけでもなさそうだから。私にとってはその話題自体ではなく、そのことから導きだされることに関心があるのである。

 謎が解けたわけではないが、私にとっては この私に固有と思われる私という存在に関する意識の由来するところはほぼ明らかである。私が私自身を構成している物質そのものから完全に規定されるのではないにせよ、その物質とは無関係ではないということ。そしてその無関係ではない物質そのものが私そのものではないとすれば、残るのはその構成物質の構造、それらの物質同士の互いの関係にしか私の発生する根拠はない。つまり細胞や組織などの全体の関係性の中から 私の意識が発生してくるのである。といっても依然として私にとって私の存在が奇妙さをともなって感じられるのは確かではあるが。いったんこの関係性に思いいたれば、私が私という、ある輪郭のあいまいさはあっても限定された範囲の限界を持っていることが本質的であることも納得できるという気がする。この関係性というのは特定の一部ではなくて関係性全体なのだから。さらに先に進むと、私にとっての私という意識は こうした関係の織り成す私の身体の内部だけで完全に規定されているのでないことも また確かだと気がつく。たとえば仮にこの世の中に私以外に何者も存在しないとすれば、私の存在などということは問題にもなりえない。私が私でありうるのは 私以外の何かとの関係性の中においてしかない。つまり私という意識は私以外の何かとのかかわりにおいてしか発生しえないのだということである。

 結局私という存在の根拠というは、私の身体を構成している内部組織の全体と、私以外の存在との両者の間の関係性であるということである。私の身体を構成している組織の複雑さに応じて、私以外の存在に対する受容の様相も変化しうるし、その変化に応じて私の意識の内容も変化しうる。こうして私という得体の知れぬ存在の根拠の本質が関係性だと考えると、私の身体意識の変化、周辺領域のあいまいさも理解できるようになる。私というのは外部世界とまったく切り離された独立した存在として純粋に成立しうるのでもないし、そうした存在領域に限定され凝縮しているわけでもない。複雑な構造をもった全体と外部との関係の中に成立しているだけに、それに応じて私という存在の境界がそれに応じてあいまいさを帯びてくるのである。そして私の身体の構造がある程度の複雑さを持たねば意識というのが成立しないということも納得できそうだ。普通は 生物の進化で単細胞から多細胞へ 多細胞から組織の発生へ、そしてさらに神経の発生とそれに伴った脳の形成の段階に至って自我の意識が成立するのだといわれているようだ。となるとこの具体的な私のありかというのは かなり漠然とした範囲に広がっていることはほぼ確かである。脳自体が私であるのでもなく、心臓自体が私であるのでもなく、さらにそれらを合わせた身体そのものが私なのでもなく、それらの織り成す関係性が それ以外のものとの関係においてさらに織り成す、その関係性全体が私なのである。進化の段階で身体がある程度の複雑な構造をもった段階での外界との関係が自我意識の基盤となっているのだから それは当然だともいえる。

 こういったことを言ったからといって、私にとって私という存在の不思議さが消えてなくなるわけではない。依然として 私 意識がこの私に限定され私に固有なものであるという事実は かなり奇妙で不思議なことである。しかし私の意識は 以上述べたような関係性が織り成すものであるとすれば、自我がまさにその特殊な関係性のそれぞれに固有のものであることは避けられない事柄である。賢治の言葉を借りれば “私という現象” なのである。普通は意識されていないが 考えだすと奇妙でなくもない事柄はまだほかにもある。それは単細胞から多細胞へ、そして組織の発生と進化してくる過程を考える。もとの単細胞というのはそれ自体で単独の独立した個体だったはずだ。その次の多細胞生物程度なら その独立した単細胞生物の共同体とでも理解できる。しかしその先に組織の形成から機能の分化に至ると、その前の段階での独立した個体としての独立性はどうなったのかと考えてしまう。これは妄想である。もとは独立した個体がその独立性を失って道具としての存在に変わってしまうというのは 『家畜人ヤプー』 の世界だ。人間の組織を構成している細胞や組織が意識を持っているなどと考えるのは妄想だし、これまで述べてきた私という意識の発生の話でわかるように そのことを考える必要などまったくないと言ってよい。だが意識を持った存在としてではなくとも、独立した存在としての細胞や組織を考えるのがまったく無意味なのかどうか、簡単に断定できぬことがらではなかろうか。

 ところで個人としての人間が互いに連携をたもちながら全体として新しい統一体を作りだすという可能性が提起されている。 『地球脳』 (The Global Brain Awakens: Our Next Evolutionary Leap by Peter Russel)という本によれば、現在人類は進化の過程で岐路にさしかかっているという。すなわちコンピューター、人工衛星、さまざまな通信施設とメディアなどのテクノロジーの発達が人間を互いに結びつけ この地球上の人類全体が一体となるように進んでいるという。しかもその人類はいまや人口100億に達しようとしている。この数字は人間の脳細胞の数に相当するのだという。すなわち複雑なネットワークで結びついた人間は あたかも神経網によってたがいに連絡しあっている脳細胞と同様な機能を発揮する方向に進みつつあるのだというのだ。この著者はこの話に人間の超能力や瞑想能力などの開発も含め これから人間の能力はこれまでとは異なる発達を遂げる可能性を示唆する。その主なものに テレパシーの能力により互いがより緊密に通じ合いつながりあい、現在起こっている地球上のさまざまな危機的状況を乗り越える可能性に向かって進んで行こうというものだ。後半は一種の宗教運動のような様相を示しているが、出だしの人類のネットワークと脳のアナロジーは私にはかなり刺激的話題に思われる。

 たしかに 人類がこれほど繁殖したのはつい最近のことだ。約 10万年まえに現代人の祖先がアフリカから北上してきたという。そのときの人間の数は 200人ほどだといわれている。この 200人がいまや 100億という数に膨れ上がったのだ。現在 民族だ、人種だと摩擦と殺戮を繰り返しているが、もとをただせばその 200人の半人か一人分にもならない集団同士が殺し合いを行っているのだ。ところで もし人類の人口の増加率が一年当たり平均2%だったら 35年で人口は2倍になるので 最初の200人は 1000年も経たずに 100億を突破してしまう。逆に 10万年たってやっと 100億になるのだとすれば 平均人口増加率は1年あたり 0.002% ほどでなければならないはずだ。つまり過去の人類はかなり人口の増加が緩慢だったということである。それは自然の条件もあるだろうし 戦争などの原因も考えられる。人間は簡単に死んでいったのだ。それに寿命も短かった。人類が人口爆発を起こしたのはやっと 20世紀になってからである。したがって先ほどの 『地球脳』 にあるような 100億の人口という条件はつい最近になって実現されようとしているのだ。この数字は別に 100億であろうと 50億であろうとさほど違いはないだろう。その人口爆発の時期に人類の文明は他方で すさまじいテクノロジーの発達を実現し、さまざまなメディアとネットワークによる人類の連絡網を実現しているのである。技術の発達によるネットワークの成立と それによって結合される人間の数の増加の両方の条件が重なったことが 人類にとって画期的でもあり 人類にとって決定的な段階に直面させることになったのだといえるのだ。つまり地球上の人間全体があたかも脳細胞のようにつながりあい全体として脳のような機能を発揮するというのである。

 『地球脳』 の著者は この画期的段階におけるこの状況をうまく利用して人類がよりよい時代を迎える契機にしようと考えているらしい。しかし私の感じでは この画期的な状況のとらえ方はまったく別でなければならない。この著者も この画期的な時期を進化論と結び付けて語っている。進化論に基づいて 著者はこの現在の状況を積極的に利用し個々の人間の新たな能力を開発し新しい時代を創っていこうと主張する。しかしこれは進化論の誤解でしかない。これまでの進化の過程をみれば 生物の進化が人間で終わるなどという保障はどこにもない。そしてその人間の能力がさらに発達するのが進化の過程であるなどということはありえない。もちろん改造人間を作るなら別だが、それは生物の進化とは異なる。現在知られている進化の過程は、無機物から有機物へ、有機物から単細胞生物へ、単細胞生物から多細胞生物、組織の発生、神経の発生という具合に複雑な構造へと発達してきた。現在の人間は動物のなかでも哺乳類の一員が進化をとげたものである。現存の生物はそれぞれ、それぞれなりの進化を遂げた結果である。しかし現存の生物がこれからも 現在の種の特色を保ちながら進化して能力をさらに高めるということが考えられるだろうか。より高度な能力をそなえた大腸菌やミミズや犬や猫などというように。もし進化があるとすればそれは現在の種とは別の種へと変化していくはずだし、単細胞から現在の複雑な構造をもった生物までの過程を考えれば 現在の種の個体が将来は個体としての独立性を喪失する可能性まで含めて考えなければならないのではないか。現在の人類を進化の最終形態として その人類を中心にした発想は 進化論とは別の宗教にしかならざるを得ないだろう。一種の人間中心教というものだが、しかし これまでの人間の考えてきた思想はほとんどすべてこの人間中心教の枠内に納まっているので この著者だけが特別なわけではないのでそれを責めるわけにはゆかない。

 『地球脳』 の著者が指摘した 100億の人類とそれを結びつけるネットワークの成立は この著者の意図とは違った意味で まさに新たな進化の方向への可能性を示唆しているのではないのか。彼は地球全体が人間の脳のように機能するモデルを考えているようだが、100億という数字に固執しなければ、モデルは一個の個体としての人間でもよいはずだ。つまり地球上で縦横に張り巡らされたネットワークで繋がれた人間は 全体として有機的機能を備えた個体の構成員となるのである。比喩的にいえば 個々の人間は組織の一部を構成する細胞に当たるとでもいえようか。このアイディアはかつての国家有機体説に似ていなくもない。しかし国家有機体説は比喩の使い方も目的も違うので ここでは無視することにする。 『地球脳』 の発想から導きだされる新たな有機体のアイディアは 強いて有機体という必要もないかもしれないが、しかし地球上における生物の進化の過程をさらに延長したところに現れるあらたな進化の産物を名づける適当な用語が見つからぬかぎり 当面は便宜的な名づけを使わざるを得ない。

 いずれにもせよ、この発想はかなり有効であると感じる。現在の人類の抱えている問題の由来が 無理なくかなり理解しやすくなるのだ。すでに述べたように これまでの人類の歴史において歴史の論理は、その中で動く個人の思想や団体の思想とは異なるということが指摘されてきた。それは 人類全体が進んで行く方向が必ずしも個々の構成員や集団の意図とは一致しないことに現れてきた。そこでこれまでの言い方では、人類はまだまだ理想的な社会のありかた、人間の在り方を獲得していないのだ、これから先 さらに人間の考え方が変わり社会のあり方が変わる方向を目指して努力が必要だと語られてきたわけだ。これまで人間の考え出した思想は そうした人類のありかたに関して数え切れぬほど語られてきた。しかしどうすれば人類は理想的な社会において理想的な生活を営むことができるようになるのだろうか。それは依然として不明である。現実には 地球上における人類のありさまは 文明の発達にともなって向上する方向に向かっているようにも見えない。逆に人類全体が 平和でより快適な生活を営める方向からますます遠ざかっていくように見える。戦争だけではない。環境破壊だけでもない。エイズの感染率は日本で 0.1% だがアメリカはその二、三倍だ。ところがアフリカ南部はたしか約7%だったか信じられない数値である。果たして彼らの将来はどうなるのだろうか。人類の発祥の地の人間は消滅の運命にあるのだろうか。

 といっても 現代の戦争が昔の戦争に比べて悲惨さが増したと断定するわけにも行かない。現在の大量殺戮はすさまじいものだが、しかし人口比からすると昔のほうが激しかったはずだ。だからといって現代の戦争が人道的などということはできない。少なくとも殺し方が人道的になったなどとは言えない。はたして現在の戦争状態が将来は消滅してゆくと言えるのだろうか。戦争や残虐行為が消滅したとき 人類にとって理想的な社会になっているのだろうか。同類に対する虐待はどうなっているのだろう。以前、極めて文明が発達した社会に極めて極端な貧富の差があるとか 民族差別や監獄での虐待など 矛盾した現象があることを書いたような気がする。現在世界でもっとも豊かな生活を享受していて、学術研究などが最も活発で文明の最も発達したアメリカが、一方では国内で民族差別と囚人虐待の問題をかかえ、他方では世界中に軍隊を派遣して内政干渉と戦争をおこなっている。それは アメリカにとっては自国の自衛のためである。この両者がどのように両立しうるのかというのが話の出発点であった。

 アメリカだけではなく 過去に文明が栄えた地域は人為的にはどういう環境条件を備えていたのだろうか。もちろん専門家でもなく知識もないから 実際のことについて具体的に書くことはできない。単にどういう条件が必要だったろうかと推測を述べるに過ぎない。おそらく共通した条件としては、外部または新たに登場した異質な物事に対して大幅に寛容であり 包容力をそなえ 許容する力を備えていたのではなかろうか。ある場合には そうした異質な要素に対する貪欲な獲得欲となって作用しているかもしれない。よく知られているように 自然科学をはじめとして学問的な研究は既成の枠にとらわれない自由な発想の有無が大きく働く。現在のアメリカの研究者は大多数が国外からやってきた人間だという話がある。人的な要素も含めて異質なもの、外来のものに対する極端な寛容さが 成果の巨大さにつながっている可能性がある。産業などそれ以外の分野においても 同様な傾向が見られたのではなかったかと思う。結果はその地域、国家の発展にとって大きく寄与するが、研究など各分野で個々の仕事に従事する人間にとっては、思う存分 何でもおこなえる自由さというのが大きな魅力になっている。すなわち個人の能力を最大に発揮させる環境は 人間にとって欲望を充実させる強力な機会を提供しているのであり、よりよい生き方を実現させうる可能性に より人々をひきつけているわけである。そうした条件は必ずしも国家でなくともよい、財政的に政治的に強力な便宜を与えうるパトロンの存在さえあればよいわけである。現在の英語が外来語の導入も含めてたえず新たな語彙を導入しているということは 結果としてそのことを反映しているのかもしれない。

 もちろん どんなことでも行える自由というのに制約がないわけではない。無条件でそういう環境が維持できないとすれば その環境、条件を持続的に可能にするための装置が別個に存在するのだ。過去における階級差別や 奴隷の存在や 植民地の存在などは そのことと関連するのかもしれない。そしてその周辺に体制の存在を脅かす異質なものに対する徹底した非寛容が登場する。内部における徹底した寛容と 外部に対する徹底した非寛容は一見すると矛盾である。おそらくその区分は 自己および自己をとりまく内部をどうとらえるかで決まるのだろう。アメリカの人種差別と囚人虐待は それらの対象を自分たちの仲間ではない外部として捉えようとする傾向が存在することを示している。異教徒、非国民、犯罪者、反社会的人間などという名前だけで そういう反応を引き起こすのに充分だということは、こうした反応が事実に基づいたものではなく、ある種の感情的反応あるいは本能的な欲求に関連している可能性がある。つまり 外部の異質な要素に対する排他的感情は人間の持っている本質的で基本的な本能の表れである可能性である。したがってこういう反応が実際の行動に現れたとき 極端な残虐さとなって現れるのも理由のないことでもないことになる。戦争における虐殺、捕虜や犯罪者に対する虐待というのは 人間の基本的な本能を最大限発揮させ もっとも効率的に目的を達する方法なのだ。こうした残虐がある条件のもとでしか発揮されないとしても、おそらくどんな普通の人間でもそうした行動をとることが可能であるということは、人間にはこうした要素が基本的に備わっていることを認めざるをえないのではないか。

 ところがこうした残虐な事実に接すると 私たちは否定的な感情を起こすのはなぜだろうか。なぜ 人間には最大限能力を発揮して文明の発達に結びつくと考える活動と それとは性格の異なる極端に残虐な行動が矛盾すると感じるのだろうか。こんなことは考えなくとも当然のことに思われるかもしれない。しかし この両者の活動が共に人間にとって基本的で切り離せないものだということになればどうなるだろうか。矛盾するので一方を無くそうというわけには行かなくなるのではないだろうか。人間がよりよい生存の条件を求めて努力することと、異質な他者には残虐に対応することが 共に人間にとって必然的で避けられない生き方だとすればどうなるのだろうか。もちろん私たちが人類の一員として 人間の歴史はすべての人間が幸福に生きられることを目標にして進んでゆかねばならぬと考えるなら、その一方は否定されねばならない。人類は全ての人間の生活が向上するように努力をしてゆかねばならない。それは一種の宗教的な願望である。しかしその願望が実現する保障はどこにあるのだろうか。人類の歴史は個々の人間の意図で左右されうるのだろうか? もちろんある程度の試みは可能である。一部の国で考えられているように 人間にとっての否定的行動を左右する要素を医学的、生物学的手段によって消去する方法だって考えられる。現代の医学の技術はそのことを可能にするかもしれない。しかしその結果がどうあらわれるか不明である。現在否定的と判断された要素を消滅させることが、人間としての本質を失わせる可能性だってあるのだ。

 これまでの人間の歴史は こうした問題に対する提言に満ち溢れている。さまざまな宗教、さまざまな社会制度に対する理論、そして道徳の提唱。しかしそのどれも、すべての人間がひとしく豊かな生活をいとなみ幸せに暮らせることを保障するものはない。あるのは漠然とした期待にすぎない。前にも紹介したヴァン・ルーンのように、それでも人類はこれから先 何万年も努力してそうした理想を達成するまで努力しなければならないというのだろうか。現代人が登場して 10万年というのは長いのか短いのかわからないが、この 10万年の間に人類がこの課題で達成した成果はほとんどない。にもかかわらず現実は急速度で進んでいるのである。環境破壊や資源の問題、アメリカを中心として世界中で引き起こされている戦争と破壊は このまま進行すればただ事で済まないのは予測されるが、もしこの状態が治まったとしても 人類が理想的な社会に向かって進むという見通しは一向に見えてこないのではないだろうか。人類は自分たちの破滅、そこまで行かずとも、少なくともすべての人間が平等に向上した生活を営む可能性を放棄する可能性に対して無力なのだろうか。

 といったような危機感を私が感じているわけではない。私は単にこの異常に思われる現状をもう少し冷静に考えたらどれだけのことが出てくるかを考えていただけである。その一つの可能性としてすでに紹介した 『地球脳』 の発想を出発点としようとしたのである。現在の地球上で起こっている異常事態は すべて私たち人間を中心にして考えると危機状態にほかならない。しかしこの現状を この地球上で起こる必然的な事態と考えるとどうなるのか。その根拠が現在の人口爆発とその人間を結びつける情報ネットワークの存在である。あたかも現在の技術の発達が可能にした情報ネットワークは高等生物の神経の役割を果たしているというアイディアから この地球について何が言えるかということだった。もしこの発想が有効だとすれば 地球は人類全体をその要素とする巨大な自己意識を備えたあらたな有機体になりかけているのである。つまり人類も含めて地球上に存在するすべてのものからなる構造が織り成す関係性が 新たな次元での自我の発生を促しているのである。地球脳の比喩と同様な比喩をつかえば 地球は自我をそなえた “超人” となって登場しかけているのである。この新たな “超人” の存在根拠は 莫大な有機的関係性の集積である。内部においては人類をはじめとするすべての存在物、外部にたいしては天体を始め宇宙に存在するすべての存在物との関係性の存在である。そうするとアメリカがその “超人” の脳になろうとしているということはありそうなことである。しかしそれでもアメリカが望んでそうなったというわけにも行かないのだ。

 いまや眠れる “超人” がまさに目覚めようとしているのである。もし “超人” が完全に目覚めたとするなら 人類の歴史はどうなるであろうか。私たちはこの “超人” が何を考えているのか理解することができるであろうか。それは絶対に不可能である。私たちは自分自身の自我意識についても 私自身の意識を超えて他の自我に入り込むことができない。ましてやそれら無数の、100億の人間の織り成す関係性をとらえることは決して出来ないであろう。その意識がいったいどのような性格なのかは 人間には想像もつかぬものであるからである。人類は相変わらず人間中心として考えてゆかざるをえない。人間を中心にして この世界でいかにすれば私たちの生活が向上するかということを考え、理想の社会のあり方を考えるといった風にしか生存してゆけないであろう。しかしその人類の行動は決して 人間が自分で思っているような自分の願望に従った行動をとることができるとは限らないであろう。理由のない不合理な殺戮や虐殺は これからも持続するであろう。それは “超人” の自己保存の本能から来るものであり、人間の自己保存とは別の論理が働いているからである。実際、モデルとなった人間の身体において すでにこうした細胞の殺戮は実際に存在している。細胞からいえば理由のない抹殺であるが 私たちの身体の保存からいえば合理的な処置なのである。その残虐さこそ もっとも目的達成を確実にそして効率的に行う条件なのである。となると この地球上でこれからも残虐な殺戮、囚人虐待などが継続したとしても不思議はない。それはそういった行動をとる人間の個人的な意図とは別の次元から要請され発生しているのであるから。

 こう考えると これまでの歴史も 現在の世界の現状も 実はかなり整合性をもって理解できるのではないかということである。ほんとうは眠れる “超人” がいつ頃から目覚め始めたのかもわからない。しかし人類の歴史がこの “超人” の “存在” によって決定されるのであれば、歴史は決して人間を中心にした理想の未来を目指した方向には進まないであろう。それなら、その歴史を冷静に観察すれば “超人” の論理が理解できるようになるであろうか。それも絶対に不可能である。もしこの人類の総体が織り成す関係性が作り出す “超人” の自我が “正常な精神状態” であれば 長時間かけてその論理を探り出す可能性がないとはいえないかもしれない。しかしこの “超人” が常に “理性的” である保証はどこにもない。“彼” の気まぐれや精神異常がどのように起こるかは 人間の想像を絶した事柄である。

 結局 私たち人類にとって歴史は終わったと言っているのかもしれない。しかしこの言い方も正確でない。人類に歴史など最初からなかったのである。これは進化論から考えても合理的である。現在の地球上の生物の発達が人類で終わるなどという結論は どこにもなかったからである。それなのに これまではこの地球上でさらに新たな種がどのように発生するかということに関心が向けられていたようにおもう。人類がどこまで発展するか、人類が滅亡すれば現在のどの動物が地球の主人となるか、といったような発想である。こうした考えには 無生物から有機物へ、そして最後には組織や神経をそなえた高等動物への進化の過程をあまりに単純に扱いすぎてきた気味がある。地球上の生物の進化には、個体が独立性を失いあらたな生物の構成部分として取り入れられてゆくという過程もあった。とすれば 現在は独立した個体が新たな “生物” の一部として機能する段階を考えてもよかったわけである。そうすれば 人類の歴史というのはこの地球上における未完の進化の過程の一部に過ぎなかったということが理解できるであろう。人類が進化の最終段階だというのは あまりにも浅はかな考えに過ぎなかったかもしれないのである。

 この考えをさらに推し進めてゆけば、人類の進化は地球上におけるすべての進化の一部分に過ぎないだけでなく、宇宙におけるすべての進化の過程の一部に過ぎないということになるであろう。“超人” の意識は地球を越えた宇宙の存在物と関わりを持つようになるであろう。それは人間から見ると、人類の宇宙征服という形をとるかもしれないが、“超人” からすれば “超他者” との関わりの一部である。“超人” の外部世界との関係はどこまで及ぶであろうか。可能性を考えればこの世のすべて、つまり宇宙全体に及ぶであろう。“彼ら” のコミュニケーションの手段が何であり どのように行うのか本当のところはわからない。何億光年という時間が単位となるのかもしれない。そして最後にはまた新たな関係性のネットワークがあらたな意識の発生を促す? そのとき宇宙は?

 以上が全くの妄想であればよい。もし妄想でなかったとすれば? これまでの人間は物については多くのことを語ってきたが、関係性が実在として現象することに関しては抽象的にのみ語るだけで、あまり深刻に受け取ってこなかった可能性がある。そこで以上のような事態の可能性を実際に検証する必要があるかもしれない。いったい関係性のどの程度の複雑さが意識を生み出すのかといったことである。さしあたっては、現在の生物学の実験において とりあえずは有機物をさまざまに合成して組織や神経系も備え外部との反応も備えた擬似的な生物を作ってみることである。もしその擬似生物に意識があることを示唆する反応があれば以上の話はかなり信憑性を帯びてくる。つぎには この擬似生物の一部を有機体ではなく人工的なものと置き換えてみる。現在の人工心臓のように。置き換えをどこまで行えばこうした反応がなくなるのか、またどのように置き換えれば意識は持続するのかを調べることである。さらに進んで完全にコンピューターのような人工的な機器で自己保存とネットワークによる関係性を持ったものが可能かどうかを調べることもできれば完璧である。ここまでくれば、私たちはこの世における私たちの存在意識がまったく関係性によって成立していること、私たちの存在が物質的なあるもののどこかにあるのではないことが完全に明らかになり理解できるようになるであろう。

 こうして 人類には明るい未来も理想もありえない。だからといって絶望だともいえない。希望も絶望も超えたところに人類は存在している。だからといってこの世に存在する限り、この世界で関係性のネットワークを維持しているかぎり、理想に向かって努力することを否定する理由はどこにもない。これからも人類は理想に向かって邁進し、宇宙に向かって旅立ちといった活動はこれからも続くかもしれない。しかしそれは、もしかすると “超人” の意思の発動かもしれないのだ。私たちに 本来の意味での自由も理想もありえないのだ。そのことを認めながら、虚しさに堪えながらひたすら生存を続けるほかに私たちの存在する意義はないのかもしれないのだ。