三枝壽勝の上海通信


上海だより 2004. 6月 (2004/06/11)

 もう夏になったらしい。5月18日には蚊が現れた。そういえば市場のごみの臭気も強度を増してきたが、昨年ほど気にならない。必ずしも慣れたせいというわけでもない。一年の間に周辺の様子はかなり変化しきれいになった。いつも掘り返してばかりいた歩道はレンガがきれいにはめ込まれて 車道との間は植え込みになり 街路樹が植えられ 街灯が設置された。一ブロック 高架道路のあるところまで歩くと、いつの間にか地下鉄の駅ができている。おそらく秋にも開通するのだろう。そのため近くのアパートが値上がりしているらしい。アパート住まいの留学生が安いところに引越しをしていた。市場のなかも ほんの少しだが売り場が整理された。といってもこちらは相変わらず。売り場の間の狭い通路で手鼻をかむ人、売り場の向こうで痰を吐く売り手、野菜の売台の前で女の子におしっこさせている女性、私はそのそばを何事もなく通りすぎる。たしかにだいぶ順応はしてきたらしい。

 この薄暗い市場にきて ふと上を見あげた。何ヶ月も毎日行き来しているのに気づかなかったが、市場の売り場を囲んで 上から見下ろすように住宅が並んでいた。市場の人はここで生活をしていたのだ。新聞売りのおばさんもここに住んでいるらしい。一年中休みなしに同じ売り場に立っていて、時々食事などのとき交代するだけなのを見ると、彼女の活動範囲は一年を通じて50メートル程度の範囲を越えないことになるのだが。

 市場やスーパーに果物が豊富になった。イチゴはもう時期をすぎたが、マンゴーや火炎果はいまでもある。そのほか竜眼、茘枝、さくらんぼう、山竹(グァヴァ)、すもも、蟠桃(扁桃)、マクワ瓜、スイカ、人参果、桑の実、枇杷、楊梅(ヤマモモ)、楊桃(ゴレンシ 五歛子)などなどつぎつぎに登場している。楊桃は横に切ると星の形の切り口になる変わった形だ、普通どうやって皮をむくのだろう。そのまま食べるのだろうか。果肉はトイレにある脱臭剤のような香りがする。私は火炎果というのがわりと気に入っている。お不動さんの後ろにある火炎のような格好の果実を割ると 中は白い果肉の中に芥子粒のような種が一面に散らばっている。思わず昔理科の本で読んだトムソンの原子模型ってこんなのだったのかなと思ってしまう。あまり甘くないのがよい。桑の実は道端で売っている。

 国籍の違う留学生の男女がいつのまにか親しくなる、あるときふと女が相手の雰囲気を漂わせ 大人っぽい落ち着きをみせているのに気づく。そしてしばらくして二人が遠ざかる。私は相変わらずである。依然として上海の繁華街もしらない。パンダは日本でもここでも見たことがない。各地に旅行した人の話を聞くと、彼らが一週間で使った金で私は本代も含めて二ヶ月は生活できる。金が無いのを苦痛に思ったこともなく、大量の本を買うので少し贅沢だと感じるほどなのに、若い学生たちよりも貧しい暮らしをしていることになるのだろうか。本だけは相変わらずである。外出は朝と夕方の買い物以外は、土曜の午前中に本屋に行くだけだから本を買うのも一週間に一度ということになる。一週間後に同じ場所で同じ本を見つける保障がないので 気になったものは即座に買うので すぐに量が増えてしまう。系統的に買っているわけではなく 店頭で題名が変わっているものを選ぶだけだが、それでもかなりの量になる。前回紹介した 『上帝の陶杯』 のように日本では見たことのない本に出会うのは悪くない。

 そういえば雨模様でバスに乗って市内に出たとき、バスの車掌と乗客が口論を始めた。かなり激しい。何から喧嘩が始まったのかわからないが、そのうちエアコンを動かしてないのに二元とるのはけしからん、一元でいいはずだと言っているらしいのが聞こえた。ここのバスは エアコン設置のものは乗車賃が二元、それがついていないのは一元だ。本格的な暑さになるまではエアコンを止めているから 二元でなく一元でいいというのは理屈にかなっている。しかしいくら中国でもエアコンのあるなしにかかわらず二元の運賃で採算が取れるはずはないし、一元でエアコン稼動費用が捻出できるはずもない。公共の交通機関は公的な補助があるから維持できているのだ。

 五月の半ば杭州と烏鎮を一泊で駆け抜けるように回った。費用がすべてこみで100元だから安かった。杭州は西湖で知られたところで 白蛇伝にまつわる雷峰塔があるところだ。さほど感じるところもなかった。とくに雷峰塔は遠くから見ただけだが 1924年に崩壊したものを最近再建したものだけに 趣きはなさそうだった。見物したのは 六和塔と昔の町並みを修復再現した清河坊だが 悪くはなかった。そして翌日は水の町 烏鎮を短時間で見物した。ここは唐の時代から要地だったところで、自然の川を交通路にして広がった町で 建物はほとんどそのまま昔の姿が保存されていてなかなかよかった。文学に関係するところでは 茅盾の生家と 彼の作品のモデルとなった林家舗子があるが、文学者やそのモデルに何の意味も感じなくなっているこのごろ、虚しさを感じるだけだった。しかしここは一つの町がそのまま昔の姿で保存されているところだけに 観光客でにぎわう一帯を抜けてその周辺も歩くなら 色々発見できる所なのかもしれない。上海に戻ったとたん、なんとここは乱雑で秩序のないところかという印象が強くした。

 新聞やテレビも系統なしに見ている。よくもこんなにいろいろなことがあるものだと感心する。それでも ここにいると北京がどうなっているかはさっぱりわからない。6月7日から三日大学入試、上海では10万人の受験生、全国ではどうなっているのだろうか。40万? その上海では大学進学率は 75.2%に達し 7.67万人が大学に進学するのだそうだ。したがって問題は大学に入るかどうかではなく どの大学を目指すかが関心事であるという。高校入学率のほうは 53%となっているから 若者のうち 40%ほどが大学に進学していることになる。そのことと関係するだろうが 学生の近視率は 60%で世界第二だそうだ。第一はどこだ? 上海での乗用車所有率は4%で、北京 11%、広州5%に次ぐ。云々といった事項を並べることにどんな意味があるのだろうか。中国人にとっては 現在の自分たちの社会や生活の状態がどのように変化しつつあるかを知ることでなんらかの思いを抱くだろうが、外国人にとっては? 中国に対する何らかのイメージが確認されるか、意外さを感じることになるか。

 意外さといえば、ここに来て約一年、やっと中国での都市と農村の住民の間には身分差があるのだということに気づいた。中国での戸籍制度の問題で 1958年に制定された法律の規定により、農村の人間は一生農村の人間としての身分を抜け出すことができないらしい。ということは彼らには農作を営む義務があるということである。都会にでても正式に会社に就職することもできず、臨時雇いの仕事しかできない。それがいわゆる民工 (農民工) の問題の根本をなしていたのだ。いまだに身分制度があったということは 衝撃的な発見だった。中国の農村には極端に貧しい地域がある。いまだに電気冷蔵庫がどんなものか知らないし見たこともない人間がいるという。いかに私が中国について知らないかがわかった。

 ほかにも意外なものはいくらでもある。新聞で死刑執行の車というものの写真を見た。流動刑場というべきものだ。ライトバンのような車で車体に “刑車” と書いてある。四川省では 5月の 19日に始めて導入され 最初の女囚が刑を執行された。自動車に乗って数分後に死亡が確認されたという。どういう方法で殺したのだろうか。ガス? 薬品? 中国では死刑の執行はこうした車が出張して行なうことが多いのだろうか? 死刑の出前?

 意外といえば、ローマ字の発音も予想外だった。S, M の発音が ais, aim のように聞こえる、ai が e に変わる現象はあるが、中国語のように e が ai に変わるのは初めてだ。そういえば中国語では ai が完全な短母音 e にはならないが、このことと関係あるだろうか。ただしこれは北京など北方での発音らしい。そういえば上海では菜刀をチェットのように発音していたから ai が e に変わっているわけだ。また最近書店で翻訳書をみていて 固有名詞が実際の発音とは関係なく慣用的な表記をしているのに気づいた。Mary でも Marie でもとにかく だし,Jhonは となっている。言葉といえば 「漢語的開放」 (『南方周末』 6.3) という記事で 中国語が閉鎖的で文化想像力が貧弱だということを論じていた。比較されているのが 例によって英語などの表音文字を使用する言語だが、単に表記ではなく、その言語がたえず異質な言語を受け入れ吸収し言語の内容を豊富にしていることが述べられていた。意外だったのは そうした言語に日本語も入っていたことである。特に日本語が漢字のほかにカナ表記を併用して 随意に外来の語彙を日本語の中に取り入れていることがあげられていた。私たちはかつて漢字、平かな、カタカナの混用の結果について日本語の混乱とか弊害を述べることが多かったが こうして比較するとかなり積極的な意義があり評価しうるものを持っているともいえるのか。ただしこの筆者はまだ言語の実態について誤解があるようだ。少なくとも現在の中国語の現状が閉鎖的で現実における必要性に対応していないということだろう。

 先月アメリカ軍による捕虜虐待の話題に触れたが、この一月の間 事態はめまぐるしく変動した。この事件自体についていえば、国連の委員会で戦争犯罪と指摘されたので、問題が一段落したように見えるが もちろん何かが解決する保障はどこにもない。かつて私たちの同胞の行った戦争が敗戦に終わったときには 700人を超す同胞が戦争犯罪で死刑になった。それは東京での極東裁判のはるか以前だ。捕虜にゴボウを食わせたことが捕虜虐待とされた。アメリカ軍の行為がいくら戦争犯罪だと認定されても 彼らの中から死刑にされるものが出る可能性はない。

 ところで中国では5月11日 最高人民検察院が、収監されている人間にたいする人権侵害の点検を指示した。具体的には職権を利用した不法監禁、不法捜査、拷問による供述強要などの5項目である。この措置がイラクの虐待報道と関連あるかどうかわからぬ。ただし あたかもアメリカの捕虜虐待が話題になっている折に出されたことから無関係ともいいきれない。もしそれが 外部で起こっている事件を見て自己を振り返るという態度ならば、悪くないという思いがする。ただし だからといって中国を見習えという必要はない。中国が実際どういう意図から何をどのように実行しようとしたのかは不明である。もしこのことから学ぶことがあるとすれば、私たちもまた他を見て自己を振り返ることきっかけとすることができるのだと気づくことであろう。私たちはアメリカ軍の捕虜虐待について彼らを非難し攻撃することはできるが、はたしてそのことにどれだけの意味があるだろうか。非難し攻撃したからといって事態が変化するはずもない。悪者であるアメリカ軍をダシにして発言者の鬱憤をはらすだけだ。だからといって本当のことを言うのにどこが悪いという声が聞こえそうだ。真実ならアメリカだって語っていた。イラクの指導者が国民を抑圧していると。本当のことをいったからといって発言者が信じられるわけでもない。単に正しいことを述べているだけなら、発言者自身を信頼する必要はどこにもないのである。どんな善意や悪意にもかかわらず 正しいことを根拠として発言はできるのである。もし発言者の発言が自己に向けられた反省を基にしてなされるなら、その発言は真実性を帯びる、そうでないときは信じられぬ。だからといって反省を売り物にして発言するのはさらに噴飯ものである。総じて自己の反省を宣伝する人は信用できぬとみてよい。日本の過去を反省するのだと言って中国や韓国に関する発言をする人を 信用する必要はないわけである。反省をするとすれば それは韓国や中国に関する分野でなく自国のことについて、それも直接戦争や侵略に関することとは別の事柄についてでなければならぬのでは?

 ここいると世界の状況がかなりよくわかるような気がするが、日本では違っていたような気がする。私の感じでは、日本では世の中の出来事は、すべていったんアニメの画面に加工されたものを眺めているという思いがする。日本人はアニメの画面が投影されるスクリーン越しに世界を眺めているのであって、世界の実態をじかに見ることをしていないのではないかという思いである。前回もアメリカ軍の虐待に対する報道機関のあり方について触れたが、だからといってアメリカの報道機関がすべて正義だといったわけではない。日本にはあのような告発が皆無だといった。日本のマスコミはそれどころか、虐待の加担者であり加害者であるという思いがしないではない。とくに何か事件が起きるたびに犯罪者をののしる過剰な言辞を見るとそういう思いがする。あたかも昔 犯罪人をさらし者にしたのと同じ光景を大規模にしているような気がする。

 すでに事件は一段落しているのであまり触れたくないが、あとの話の枕としていくらか述べておく。新聞で 9.11 直後に大統領のブッシュが児童向けにテレビでおこなった放送の内容を読んだ。そのなかに 「何々は邪悪だ。何々は光明だ。」 「テロリストはなぜ我々を攻撃するのか、それはサタンは総じて天使を憎悪するからだ」 「テロリストはアメリカの自由と繁栄を嫉妬し アメリカを憎悪する」 (週刊新民 517-523号)とあった。ほんとうに彼はこんなことを言ったのだろうか。かれはこんなに低級なことを平気で言える人間なのだろうか。だとすれば 世界がその程度の人間によって恐慌に陥ることが何を意味するのかを考えねばならぬのでは。そのブッシュを風刺した映画 『華氏 9・11』 がカンヌの映画祭で金棕櫚大奨を獲得したとか(晨報 0524)。そしてアメリカではディズニーが その映画の上映を禁止した。もし上映されたならブッシュは大統領選挙で落選するだろうと 監督が言っていた。そういえば以前にも チャップリンの 『ニューヨークの王様』 がアメリカで上映禁止になった。アメリカは昔もそういうことがあった。日本人では話術の大家だった徳川無声が入国を拒否された。今に始まったことではない。といって 『華氏 9・11』 が 『ニューヨークの王様』 のように後世に残るような傑作なのかどうか。一部をテレビでみたが政治風刺のかなり強いものらしい。

 それにしても アメリカ軍などの行為はこれまでも何度か問題にはなったが、これだけまとまって大きく取り上げられたのは画期的な出来事なのかもしれない。こちらの新聞によれば、往年の日本軍国主義の野蛮な軍隊は憚ることなく中国の婦女子を蹂躙し、往年のドイツのナチは残酷無情にユダヤ人を迫害した。物質文明の最も発達した国家の軍人は往年の日本鬼子、ドイツのファシストに比して勝るとも劣らぬ、とあった (週刊新民 517-523号)。こうした残虐な事件に対して 日本が比較の基準とされるのを見ると気恥ずかしい思いがする。日本はこうした残虐行為にたいし 国際社会において比較の標準という名誉ある役割を果たしているのだ。ただしドイツ人は過去の戦争に対してさほど責任を感じていないという話がある。過去の戦争と残虐行為はヒットラーとかれの率いるナチが行ったことであり、ナチに対してはドイツは現在も厳しい態度をとっている。しかしヒットラーはドイツ人ではなくオストリーの人間であり、ドイツ人はその犠牲者にすぎないのだというのだ。どこか 朝鮮人と台湾の人間は日本人でないから過去の被害にたいして日本人とおなじ保障を受ける資格はないというのと似た論理を感じる。ところで最近のノルマンジー上陸 60周年記念の記事のなかで、ドイツは自己の不名誉な歴史を能く直視し不断の反省によりその他の欧州とともに平和と繁栄努力し賞賛を勝ちえたとあった (晨報 0605)。その記事によれば ドイツは同様に侵略戦争を行った日本に対し啓発している。日本はまじめに歴史に面しないだけでなく真実を覆い隠し隣国の感情を害している。現在の首相が登場してから右翼の勢力を助長し 右翼政治団体は 900に達し全国各地に広がっているとあった。右翼といえば、フジモリが日本の黒社会の保護を受けているという記事も見た (『参考消息』 5月17日)。曽野綾子や筱川などの名前がでていたが筱川というのは笹川のことだろうか? そうした右翼によって天皇が擁護されているということにかねてから奇妙な思いがしていたが、こちらでは皇太子に関する記事が続けて載った。欧州訪問の際の発言と最近の皇室改革の声明である (晨報 6月10日)。今の日本にはこうした人しか勇気ある発言をする人はいないのだろうか。

 いずれにもせよ アメリカがかつての日本やドイツと同じ戦争犯罪の前科国となったことで仲間が増え 心強いかぎりである。しかもアメリカの軍事力は世界中を相手にしても十分対抗できるだけの圧倒的な力量を持っている。日本としても頼もしい限りである。とにかくアメリカの武器の開発は桁違いにスケールが大きい。旅行にでたとき杭州で買った新聞に 最近開発され実験に成功したというレーザー光線によるミサイル攻撃砲の記事と写真が載っていた (『都市快報』 5月21日)。これはすさまじい成果である。昔の冒険物語にあった殺人光線などというものなど比較にならない。光の速さですさまじいエネルギーを瞬時に送りこみ 目標を破壊することができるわけである。命中率は抜群に向上するし 費用もこれまでの 300分の1で済むという。同じ原理で懐中電灯ほどの小型のものは世界各地ですでに使われているらしい。これは相手の人間を失明や死亡はさせないが 瞬間的に気絶させるものだという。つまり人道的な武器なのだ。ということはその中間の能力の武器がいくらでも開発できるということである。レーザー光線は位相がそろった光線なので普通の光と違って発散することがなく 月に向かって発射しても広がらずにそのまま相手に命中させることができる。つまり月まで逃げたとしても地球から攻撃して破壊することができるということである。これからの戦争でどんなことがおきるのか、いやすでに起こっているのか素人には想像もできないが、すくなくともそれほど人道的にはならないだろうということはいえそうだ。

 長々と書いているが、私が述べようとしていたのは決してアメリカ軍の虐待行為のことではなかったのだ。これまで過去の歴史でも常にそうだが、こうした事件が起こるたびに当事者に対する非難が沸き起こり、そして二度とこうしたことが繰り返されないための提案がなされてきた。人間の歴史はそうしたことの繰り返しだったという思いがする。なぜそうしたことがいつまでも繰り返されるのだろうか。人間の本質がそうだから仕方がないというのが一番本当なのかもしれない。おそらくこれまでのさまざまな提案にある欠陥は こうした事件が起こるたびに、それが本来の人間にとってあってはならない、特別な事態であり、それは取り除かねばならぬということばかりに気をとられていたのかもしれない。といって人間の本質なんてそんなものだから仕方がないさという回答は回答になっていない。問題を回避しているだけだ。今回の事件においてはアメリカ軍の CIA の非人道的行為に焦点があたっているが、アメリカがそうした面ばかりで成立しているわけでないのは当然である。前回紹介した 『上帝の陶杯』 によれば アメリカの国内における重大な問題は人種差別と囚人差別だそうだが、他方では学問的研究や科学技術では世界最高の水準を有し、豊かな生活水準を有していることも事実である。世界から理想的な生活や研究条件を求めてやってくるだけの根拠があるのである。普通はこの両面、アメリカの影の面と明るい表の面とを切り離しているが、これらが同時にアメリカの両面であるということが何を意味するか考えるとどうなるであろうか? つまりアメリカの文明の高さはすばらしいが、人種差別や監獄での虐待は問題であり それらがなければアメリカは理想的な国家になれるのだという言い方をやめることが 何を意味するかである。その両者を一体のものとしてとらえる見方をすることである。

 私にはこれ以上そこから積極的な結論を出す自信はないが、ヒントはやはり 『上帝の陶杯』 にあった相補性である。相補性というのは、ある同一の対象にたいして、同時には成立せずしかも矛盾する現象を ともにその対象の本質として認定することである。極端に高度な文明が 極端に非人間的制度と切り離せぬ一体のものという必然性がはたしてあるのかどうか 断定はできない。ただ仮説としては必然的な一体のものとして認めるとすれば どういう結論を導きだすことができるかである。その際、なぜその両者が一体のものとして切り離せないのかということの根拠を探る必要はない。モデルとなった物理の場合でもそのことは保留してある。それよりも もう少し理論的に実用的な態度をとることが必要だろう。

 こうしたとらえ方が果たして妥当かどうかは考えておいてもよい。何と何が相補的な現象として採用されなければならないかも考えなければならない。極度に高度な文明のというのはあまりにもあいまいかもしれない。アメリカには矛盾する現象がいくらでもある。貧富の極端な格差。学問水準の極度の高さと一般人の常識のなさ。2002年の地理学会の調査では青年の3分の1が太平洋がどこにあるか知らなかったなど (『上帝の陶杯』 p.258)。しかしそのどれを対としてとらえるかは決まらぬにせよ、そうした矛盾した現象が一体となって豊かなアメリカを構成しているということがいえるとよいわけである。

 過去の歴史でもこうした例が見つかるかもしれない。古代文化の代表的存在であるアテネの文化は 基盤にある奴隷制度によって支えられていた。アメリカも新しい形態の奴隷社会であるかもしれない。ただしその身分制度が世襲でなく流動性をそなえているということが異なるが。かつて科学の水準の高さを誇ったソ連は 2000万ともいわれる粛清の犠牲者を出す社会であった。もしこうした矛盾する現象が一体のもので切り離せないものとして結びついているということになれば、一方を残し他方を消滅させることは不可能だということになる。こうした見方で人間の文化や社会のありかたをとらえると 何が変わってくるだろうか。少なくとも良いところを残しマイナスの面をなくそうとする道徳的な試みは無効になることだろう。ある意味では道徳は有効でも 本質的には無意味だということになる。それはあたかも面の裏と表のように 一方を他方から切り離すことが意味をなさぬような関係にあるものを切り離そうとする試みに似たものとなるからである。



 まだまだ先が長いし、まとまるような見通しもないので今回はここで打ち切り、これまで読んだ本の紹介をすることにする。ほとんど本としか関係のない毎日だが、それでも本を読む時間は一日2時間もない。読みたい本は山ほどあるから到底読みきれない。前回ちょっとふれた残雪の 『愛情魔方 (愛情のキューブ)』 や 金庸の 『侠客行』 などはまどろっこしく感じる。たしかに小説をよむにはかなりの暇と余裕がいるようだ。ただ残雪については一般には話題になるだけの水準なのかもしれないが、私にはあまり向かない。あまり縁のない作家だという感じがする。この一月かなりいろいろな本に目を通したが、意外にも中国以外の本の翻訳書が多い。面白そうだと思うものを買っているとそんなことになるのかもしれない。

 前回ちょっと触れた 『ニールス・ボーア哲学論文集』 (戈革訳、商務印書館、1999)を買った。前回、商務印館に行ったときはなかったのに、次にいったときにはどっさり入荷していた。倉庫から出してきたらしい。他にも何を探しているのかと聞いてきた。親切になったものだ。 『上帝の陶杯』 に使われていた 「人類知識の統一性」 はさほどの内容ではなかったが、翻訳者の序文がよかった。この訳書にはボーアが出した三冊の本の翻訳が納められているが、もともとは三十年以上も前に出版したものだという。ということは中国の文化大革命のころということになる。文革がなくとも 観念的だとか言われて評判はあまりよくなかっただろうと思うが、そういう時代と環境の中で翻訳を出そうという翻訳者の態度はなみなみならなぬものが感じられる。訳者のボーアの思想にたいする思い入れは序文から十分に読み取れる。

 ボーアの相補性の考えが画期的であっただけに、彼とその思想に関する研究は世界的におこなわれているらしいが、それらの研究論文に対する訳者の意見が興味深い。訳者によればボーアの相補性を十分理解していない、なさけない研究者が多い。あるものはあたかも “中国の(偽)学者” と同様に荒唐的だという。よくあるのは相補性哲学の先駆的思想を発掘し探り出すたぐいの研究だという。訳者は自分と同様な考えの研究者の批判の文を引用している。 “芸術についていっこう無知な人間はバロック、ロココそして古典派を区別するのは困難だ。同様に哲学についてほとんど知らない人間は 至る所に相補性を発見する。” 要するにボーアの相補性は誰それの影響を受けているとか、昔の哲学者や思想家に先駆的な考え、似た思想が発見されるといった類の影響関係、系統研究である。肝心の研究対象である思想を追求することをせず、こうした形式的で無意味なことばかりやっている研究者の言っていることは “極悪な文化的なごみ!” であるとまで言い切る。痛快な言である。えてして研究者にはこうした類が多いのかもしれない。文学でも、作品そのものを理解する能力はないくせに、影響関係を論じたり、作品を解説したり “文化的なごみ” の生産者はけっこう多い。私からすれば作品にたいするこうした研究は一切意味がなく、作品から受けた刺激や感動から自分が新たな思想を生み出すことしか意味のある仕事はないことを自覚することが必要だという気がする。

 この訳者はさらに、ボーアの相補性といういかにもとらえどころのない思想を ややもすれば東洋思想を持ち出して説明することに対しても批判的である。“中国人の頭脳の中の陰や陽は絶対に相補的ではない。” これは外国に行って中国思想を売り物にする中国人の態度とはまったく違う。彼は 外国人から、あなたがたの中国的な陰陽の符号云々と太極図のことを言われると大変気まずい思いがするという。説明するのもたいへんなのであいまいに応対せざるをえないと。

 それにしてもボーアの論文をこんなに早く翻訳して紹介していたことにはびっくりした。日本ではどうなのだろう。断片的なものではなく、まとまったものとしては山本義孝の編纂したものが岩波文庫にあるが これは近年のものでかなり新しい。そういえば、現在刊行中のアインシュタイン全集も中国語の翻訳が出ていた。日本では大昔 石原純の編纂したもののほか1970年代にでた選集があるが、中国のものはもともとの全集の全訳である。

 前回紹介した 『上帝の陶杯』 もかなりおもしろかったが、呉思 『血酬定律 − 中国歴史中的生存遊戯』 (中国工人出版社、2003) もやたらおもしろい本である。これは歴史学の本らしい。いや歴史学の論文集だ。私は副題に魅かれて買い、序文を読んでたちまち取り付かれたが、文章が難しいし引用文が古いもので かなり読みにくいので かなり時間がかかった。呉思は中国の歴史上のさまざまな現象から法則を探り出そうとしているらしいが、それが独特のやりかたなのでとてもおもしろい。何がそんなにおもしろいのかというと、彼は外国をふくめて既成の理論を適用するというやりかたをほとんど採用せず、過去の実例そのものからある法則を導き出すのだが、とにかく著者の造語らしい見慣れない用語がやたらに出てくるのと、適用される実例がはるか何百年も前のことから現代の事柄まで巧妙に結び付いてしまうところである。

 造語ではまず題名の “血酬” という言葉からしてそうだ。血酬とは何か、それは暴力に対する報酬である。それはあたかも賃金が労働に対する報酬であり、利息が資本に対する報酬であるようなものである。すなわち命をかけた破壊的行為に対する報酬なのである。かなり衝撃的な出だしであるが、彼が唯一外国のものからヒントを得たという “元規則 (原語はmeta-rules)” が 暴力の一番強いものが最終的決定権を有するというのも面白い。彼の使っている用語にはまた “合法傷害権” というのもある。彼は中国の歴史を考察しているのだが、だんだん読んでいるうち これはもっと普遍性をもっていてかなり広い範囲に適用できるかもしれないという気もしてくる。ただしそんなことをして世界や日本の歴史に適用することしか考えない人間は “偽学者” となるのが落ちだろう。

 血酬の実例では、匪賊が中心として扱われているが、彼らが襲う人間を皆殺しにしないで共存を採用する基準はどこにあるかとか、人質の値段は何できまるかとか、人間の命の値段の算定の仕方も面白いし、実例が実にさまざまなのも面白い、たとえば 1932年に東北の遼河辺でイギリス人が匪賊に誘拐された。匪賊の要求する身代金が莫大なので さらわれたイギリス人がそんな金は出せないというと、匪賊は国が支払うだろうという。本国政府が一介の個人のため莫大な身代金を出すはずがないというと、匪賊はいや絶対に出すと断言する。はたして身代金は支払われたが、支払った国が日本であったというのが傑作である。匪賊は イギリスが公民の安全を口実に軍事介入するのを一番恐れているのが日本であることを 読んでいたというのである。

 とにかく彼の造語の多さはすさまじいもので、特にかれが以前に出した 『潜規則 − 中国歴史中的真実遊戯』 の題名にある “潜規則” という言葉は、かなりあちこちで採用されている。この言葉もさまざまな含みをもっているが、ようするに中国の社会で正式の制度として規定されていない 制度外の背後で運用される規則である。こういう概念が有用性をもつところに中国社会の特色があるということもできるし、この国と取引をしたことのある人なら納得できることが多いのかもしれない。

 ただしこの概念でとらえられる現象は 必ずしも否定的とは限らない。昔から清廉潔白で正義感のある官吏が地方に赴任するや 不正腐敗をただすための政策をとることがあるが、その結果が本来目指していたこととは食い違い かえって民衆を虐待する結果になるのがなぜかと考えると 事柄はさほど単純ではない。たとえば地方には正規の定員以外にその何倍かの人員がいて 各種の権力を振るっていることが扱われる。さしずめ日本なら外郭団体や公団などがそれらに該当するのかもしれない。ここでも著者は “黒” という既成の言葉のほかに “白員” とか “灰吏” など色を使った用語を盛んにこしらえ論じているが さすが中国語の世界は違うなと感じる。

 私は歴史学のことについてはわからないので、ただ出てくる実例を楽しんでいるだけだが、小説を読むより面白いと感じる。たとえば “灰牢” というのがある。これも正式の監獄とは違って正式には認められていないが、実質的には牢獄として機能している施設のことだ。日本の代理監獄とか アメリカが各地に設置した秘密の収容所などもこれに相当するのだろうか。著者の挙げている例が 新しいところでは 1990年代とか 2000年代であるのを見たとき意外に思ったが、さすが中国というのは悠久な歴史を持っていて本質的には変化がないのかなという気もした。こういう施設での犠牲者が現代でもあるということだ。実際に使われている名前も色々だ。現代では “学習班” とか “小黒屋” と呼ばれ 昔は “班房” などの外さまざまな名称が使われていたというが、正規のものでないだけに表向きの名前はそれらしい用語がいくつも使われていたということだろう。こうした “灰牢” における “灰色の処刑” は 合法的な処刑の数十倍におよぶのが通例だという。そして現代の “学習班”、この創設者が延安における毛沢東だったというのも傑作だ。1942年、彼は自分に従わない人間を集めて会議を開き 延々88日の間 相手が転向しないかぎり解散させなかったという。 “合法的傷害権” というのはこういうところに適応されるものらしい。

 呉思の文章が読みにくいのは、読み手の問題なのか、もとの文章に問題があるのかはわからないが、論旨を自然にたどれるようなものでないように感じる。ただ扱われている事柄がかなりおもしろい。この本は昨年出版されてからすでに版を重ねているらしく かなり人気があるらしい。最近その前の本 『潜規則 − 中国歴史中的真実遊戯』 とあわせて主要な部分を合本にした本が出たので 興味のある人は新しく出た 『隠蔽的秩序 − 拆解歴史奕局』 (海南出版社、2004) がお買い得ということになる。この新刊書には末尾に著者独特の用語の解説集がついている。

 実はこの著者については 昨年の上海便りで報告するつもりでいた記事ですでに接していたことを 最近やっと気づいた (「呉思・我説透了歴史」 『南方周末』 2003.10.23)。彼は以前に 『陳永貴沈浮中南海 − 改造中国的試練』 という中国共産党の幹部を扱った本を出していたが、後に 『北京青年報』 という新聞がそれを 『陳永貴 − 毛沢東的農民』 として連載したところ 遺族から名誉毀損で訴えられ、一審有罪となった。理由はその本の中に、陳永貴が日本の興亜会となどの団体に属していて民族を裏切ったことが書かれてあったからである。彼はこの本を書くため 党の資料などかなり根本的な文献を大量に利用している。そのために一審では勝訴を信じて弁護士もつけなかった。しかしこの予想は裏切らた。このインタビューで彼は やがて行われる再審についての予想を勝訴の見込みはないと語っている。そしてその再審が 12月29日に開かれ 最終判決で有罪が確定した。どうしてこんなことになるのか門外漢の私にはわからないが、判決文の中に “非権威文献記載” というくだりがあったそうである。この意味は権威のない文献に掲載したということを意味するのだろうか。とにかくまだまだこの社会は難しい問題を抱えている。歴史上の事柄について大胆な分析をおこなってきた著者ではあるが “潜規則” を実地に自ら体験するのはあまりよい気持ちではないだろう。

 つぎに紹介するのは房龍 『寛容』 (秦立彦・馮士新訳、広西師範大学出版社、2001)。原著は Tolerance by H. W. Van Loon で 1925年に執筆されている。あとで気づいたが 彼の本はかなり色々と翻訳されていて、 『寛容』 には何種類もの訳本があり、彼の伝記も出ていた。私のは対訳である。なぜ中国で彼の本がこんなに出ているのかわからない。以前に日本でも翻訳書をみた覚えがあるので 昔は日本でも読まれたのだろう。例によってこの本も題名にひかれて買った。最近の世界を見ていて なぜこうした残虐行為や戦争がなくならないのかと疑問になり、過去に出たこういう題名の本をみると 過去に提案された平和論や道徳論の欠陥というか限界が見えてくるかもしれないと期待したのである。この期待は完全にはずれた。この本は西欧を中心にした歴史の読み物になっているが、読んでも読んでも過去の歴史が非寛容と残虐の歴史、皆殺しの歴史であることしか出てこない。かつては虐待された宗教が次には他を虐待する側にまわり 同じことをくりかえす。こうした話を繰り返し読んでいると 現在のアメリカやイスラエルの行っていることがさほど特別なことに思えなくなってくる。単に過去からの連続に過ぎないのである。当初は奇妙に思ったが 末尾のくだりを読んで著者の考えが少し見えてきたような感じがした。やはり著者はそれほど単純な教訓を語っているのではなさそうだ。かなり深い絶望感も感じ取られる。私はかなり沈鬱な気分になったが、人によっては人類の将来に対する希望を感じ取ることができるのだろうか。それでも私にはかなり勉強になった。これ以上解説するのはやめにして原文を二箇所ほど紹介しておく。かなり古めかしいので年配の人には懐かしい雰囲気の文章なのかもしれない。

 And so it goes throughout the ages until life, which might be a glorious adventure, is turned into a horrible experience and all this happens because human existence so far has been entirely dominated by fear.
 For fear, I repeat it, is at the bottom of all intolerance.
 No matter what form or shape a persecution may take, it is caused by fear and its very vehemence is indicative of the degree of anguish experienced by those who erect the gallows or throw fresh logs upon the funeral pyre.
 Once we recognize this fact, the solution of the difficulty immediately presents itself.
 Man, when not under the influence of fear, is strongly inclined to be righteous and just.
 Thus far he has had very few opportunities to practice there two virtues.
 But I cannot for the life of me see that this matters overmuch. It is part of the necessary development of the human race. And that race is young, hopelessly, almost ridiculously young. To ask that a certain form of mammal, which began its independent career only a few thousand years ago should already have acquired those virtues which go only with age and experience, seems both unreasonable and unfair.(pp. 411-412)

 To speak of Golden Ages and Modern Eras and Progress in sheer waste of time as long as this world is dominated by fear.
 To ask for tolerance, as long as intolerance must of need be an integral part of our law of self preservation, is little short of a crime.
 The day will come when tolerance shall be the rule, when intolerance shall be a myth like the slaughter of innocent captives, the burning of widows, the blind worship of a printed page.
 It may take ten thousand years, it may take a hundred thousand.
 But it will come, and it will follow close upon the first true victory of which history shall have any record, the triumph of man over his own fear.(p. 413)

 次はまた中国のものに戻る。範冬萍・張華夏主編 『基印与倫理 − 来自人類自身的挑戦』 (羊城晩報出版社、2003)。 “基因” というのは遺伝子のことで、クローンをはじめゲノムの解析など現在の遺伝子にまつわる問題を扱った専門家による論文集である。内容はしたがってかなり多様だが、この中でクローンに関する問題の文章のなかに興味深いくだりがあった。人体に関するクローンの実験は各国で禁止してはいるが、実際にはその禁止は政府機関以外や、禁止をしていない国では無効だから、研究や実験が行われるのは確実である。したがって人間のクローンを完全に禁止はできない。これは実際特別なことを言っているわけではない。最近イタリアだかで三人のクローンが生まれたとかいう記事が出たような気がする。いずれにせよクローン人間が登場するのは時間の問題である。20世紀に物理や化学の分野で画期的な発展を遂げたとすれば、21世紀は生物学の上でとてつもない発展を遂げる時代になるのは確実である。おそらく私たちが現在想像もできない事態が発生するに違いない。人間の本能を操ったり、人間を改造する研究なら何十年も前からおこなわれている。したがってこれから何が起こるかは素人の限られた知識で予想などできるはずがない。ただ表面上のことでいくつかの問題を考えることは可能だろう。

 たとえばクローン人間に対して私たちがどう対処するかという問題。すでに代理出産は現実におこなわれてから久しい。最近祖母の体を借りて出産したという記事が出ていた。この場合その祖母が出産した子は自分の子だと言い出したらどうなるのだろう。孫でもあり子でもあることになるのだろうか。クローン人間の場合はもっと深刻である。自分自身の複製を出産するのだから。果たしてそれは子なのか兄弟なのか。こうした状態が何代(?)も続いたとき結婚に対する考えがどう変わってくるのか。この論文集の一筆者の書いた文のなかに こうした事態の結果生じうることに触れている部分があった。 “指摘しておかねばならぬのは、家庭の多様化 − 未婚同棲、結婚して別居、産むが結婚せず、結婚するが生まない、結婚しない家庭、同性愛家庭 − 基本的に後戻りできない情勢である。” (p.131) 云々。中国でここまで言っているのを見てちょっと意外だった。中国の社会は表面的にはかなり保守的に見えるが、もうこういうことが当たり前に感じる人たちも一方ではいるということなのだ。

 それ以外にもクローン人間実験の道徳主義に触れたくだりに、たとえ犯罪によりすでに死刑判決を受けた女性犯でも、人間としては依然として善の意志の能力者であり彼女の人格は依然として尊重されるべきであるという記述があった。私には当然のように見えるが一般にはそうではないらしい。アメリカでは囚人を使って新薬の実験をするという話もあった。どうやら一般には犯罪人というのは普通の人間ではない、人非人なのだから虐待されて当然と信じられているのかもしれない。それは、捕虜は敵だからどのように扱おうとかまわないというのと同じ論理である。今度のイラクの問題でも捕虜の90%は一般民だといわれた。しかしいったん捕虜は敵だと断定したうえで上記の論理を適用すれば虐待が可能になる。犯罪者といわれている者に対する虐待も同様だろう。こうした論理は自分たちが本当は何をおこなっているかの反省をしないための、自己の本質を見ないための策略として使われているにすぎない。とにかくこの本についてはこれまでにしておく。

 また最近の世界情勢に関連するが、環境問題も含めて地球の将来に危惧を抱く人もいるようだ。極端に言えば地球が滅亡する、いや人類が滅亡する可能性があるのではないかと。ところが、人類が滅亡するかもしれないという話がまったく別のところから出ているのを知った。 『滅絶 − 進化与人類的終結』 (中信出版社、2003) で、やはり翻訳書で原題は Extinction − Evolution and the End of Human by Michael Boulter。著者は古生物学の研究者だというが、過去の化石などの統計的分析などにより進化の研究をおこなってきたようである。過去に恐竜が絶滅したのはよく知られていることだが、その原因についてはよくわからず色々な説がある。とにかく巨大恐竜の絶滅から爬虫類の時代が終わり、そのころとるにたらぬ存在だった哺乳類の時代になり、人類の発生につながる。ところが現在はその哺乳類が絶滅する段階にあるのだという。それは何千年も前に始まり何千年かの先に哺乳類が絶滅する可能性がある。しかし現代の環境破壊はその絶滅の時期をかなり早める可能性があるということだ。すでに多くの動物が滅びていった。これからも巨大な哺乳類から順に滅亡してゆき人類もやがて滅亡するだろうという。すでにネアンデルタール人や北京原人などの系統を異にする人類は滅びて久しいが、約 10万年前にアフリカ大陸から北上してきた現在の人類が確実に滅びると言われると かなり身の引き締まる思いがする。哺乳類の大部分が絶滅? 人類が絶滅? それから? もし地球が滅びていなければ、現在はとるにたらぬ生物のうちから、またあらたな主力の生物がこの地球上にはびこるのである。この理論は現在存在する資料の統計的処理によって出てくるものだから、将来 別のデーターや根拠によって変わる可能性があるのだろうが、なかなか深刻でさわやかな絶望感を味わわせてくれた。

 今回は翻訳ものがかなり多かったが、ここでまだ読んでいないが面白そうなものをもう一つ紹介しておく。周寧 編著 『中国形象: 西方的学説与伝説 (Western Images of China)』 (学苑出版社、2004) という 8巻(9冊) の本で、内容は中国について西欧人が過去どのように記述してきたかをテーマ別に文献を収録し 各巻ごとに解説をつけたもので、古くはマルコポーロの旅行記から 新しいものでは 1990年以後の中国について書かれたものが納められている。これだけの叢書をまとめた編著者は 1961年生まれだからまだ若い。5年かけて一人でこれだけの業績をまとめたという。序の中の一説に これまでの西欧人の中国に対する記述はすべて誤解にもとづいているとかいう内容の記述があった。この結論はかなり注目に値するとおもう。極端に単純化していえば、このことは、これまで西欧人は中国を研究はしてきたが理解をしようとはしなかったということになるからである。まだ読んでいないのであまり先走ったことは言えないが、異文化を研究するということに対して示唆的な指摘がなされているような気がする。私たちは人間の営みの表現である文化現象を研究するとはいうが、その主体である人間を無視してきた可能性がある。私の言い方から言えば、異質な文化から何を学ぼうとするのかを考えず、異質な文化をひたすら研究する態度に対する反省が必要だということにつながるという気がするのである。異文化を研究する、学ぶことは、異文化を理解することを保障しないのである。異文化から何をどのように学ぶかが問題にならねばならぬ。