三枝壽勝の上海通信


上海だより 2004. 5月 (2004/05/07)

春になってから天候が定まらず、気温の上がり下がりと天候の変動が激しい。誰かがもうすっかり夏だといったので 冬物をすっかり洗濯したら、翌日はまた冷え込み 冬物に再登場してもらった。台北の春は雨ばかりという印象だったが、上海もよく雨が降るという感じだ。それでも5月1日からの連休は夏らしい天候で 前半は雨が降ったが、後半は快晴にめぐまれた。私にとって上海はかなり生活に有利な条件を備えているような気がする。一年を通して気温はほぼ東京と変わらず、南方のせいか雨が多いが それだけ空気はきれいになると思われるし、昔から野菜が豊富らしいというのがよい。例によって周辺に山がなく平地がどこまでもひろがっているので、この都会はまだまだ発展の余地があるようにみえる。あいかわらず毎日 朝は市場に行っては野菜を一斤 (500グラム) 単位で買い込んでいる。時々おっくうになり、なぜ人間は毎日食わねば生きられぬのかと疑問を感じることもある。買ってきた野菜に虫がついていて動いているのをみると、ああこんな生き物もひたすら生きるのに専念しているのかなと 哀れな思いもせぬではない。虫をみつけた途端に処分をしてしまい、しまったと自責の念にかられることもある。昔々少年時代に 畑の野菜にたかっている青虫を家に持って帰ったら、いつの間にか逃げ出して、部屋のあちこちで蛹になっていて 春に孵ってモンシロチョウがでてきたことを思い出した。もういちどかれらと親しくつきあうことはできないのだろうか。

連休直前には大きな事件が連続して 世の中の穏やかならぬ様子が感じられた。日本にいるときよりも 新聞で世界の様子がよく見えるような気がする。日本からみると中国は国内の政治に問題があるということになるのだろうが どうなのだろう。よく指摘される人権問題でも 中国がまったく否定しているわけではない。世界のニュースはすぐ分かるから、中国が槍玉にあがっていることは周知の事柄だし、それを全面的に否定はしていないようだ。すこしずつ人権の問題もよくなっているというような言い方をしている。すくなくとも、人権問題というなら、お前のとこだって問題があるではないか、と喧嘩を売るような言い方はしていないようだ。とくに地域的な問題なら、常時視聴者からの通報で調査をする番組や記事が テレビや新聞に もうけられている。日本のように業者の名前を伏せたりはしていない。そういえば社会問題を扱う番組のひとつ、中央テレビの 『焦点訪談』 が放映10年を迎え話題になっているが、そのなかに 最近は 「大砲でただ蝿を撃つだけで虎を撃っていない」 という批判があり、それにたいして担当者が 「蝿は庶民の利益に直接害を与えるが、虎は山奥にいて庶民から離れたところにいる」 とか弁明して 再度批判されていた。もちろん どこの社会でも公然と論じがたい問題があるのは確かだろうが、それは日本だってアメリカだって同じだろう。ただここでは 論じがたい問題があるということは意識しているようだ。天安門事件がなかったなどと思っている人はいないようだ。そうはいっても テレビや新聞の記事は なんだ、国内の指導者や外国の政治家の訪問記事ばかりではないかというかもしれない。たしかに一面はそうだ。しかし新聞は後ろからしか見ないという人がいる。多くの読者は真実のニュース報道を好んで読むからだという (王躍文 『有人騙』)。公式の官製記事はここでも歓迎はされてないのだ。ここの知識人 (知識分子という) は 文化大革命のときの傷跡をいまも引きずっているようにみえる。文革とナチを同列におきながら、ナチと違って同族同士の虐待であっただけに簡単に治癒しないという見方は すでに紹介した気がする。もう故人となった 『黄金時代』 の作者王小波は 知識分子の問題について多くの文章を書いている。中国の読書人は社会的責任が強すぎるのだという。そのことに関して彼は一つの寓話を紹介している。花刺子模という国では よい消息をもたらした使者は待遇され昇進するが、悪い消息をもたらした者は虎の餌にされてしまうという。使者は王を喜ばせるか虎を喜ばせるかの選択をせまられるわけである。王小波によれば 中国の現代の学者のなかには、よい知らせをもたらす使者が多い、とくに文学者はそうだという (「花刺子模信使問題」)。私から見れば 中国だけが特に多いようには思えないのだが。私たちの周辺でも 読者やある範囲の人間に歓迎されるようにしか文を書けない人間を除いたら どれだけの人間が残るのだろうか。

その新聞だが 4月23日の朝刊では 日本の右翼が中国の大阪領事館を襲撃した記事と 朝鮮での列車爆発事故が同時に載っており (『晨報』)、『青年報』 ではそれにくわえて イラクで人質になっていた三人の日本人の様子が大きく掲載されていた。三人の人質に対する日本の対応には、その後フランスで批判が出たように記憶している。人道を看板にする日本の態度の矛盾と、こういう冒険をする若者の存在が必要なのだとかいう主張が書いてあった。私からすればこの三人の人質に対する日本での対応は、戦争の当事者としては かつての日本のやり方を失わずそのまま保っている点では見事だなという感嘆の念を新たにした次第なのだが。現在日本が敵対している敵国の捕虜となり お国の恥さらしを演じて国に迷惑をかけたのだ、「生きて捕虜の辱めを受けず」 という精神にのっとれば自害して当然なのだ、という精神がいまでも見事に生きているわけである。中国でも7人の人質がとらえられ、一時そのなかには不法出国していた蛇頭も含まれているという話も出たようだが、帰国してからはたいそう静かである。そしてその翌々日の 『晨報』 にはさらに 「不堪忍受皇室生活巨大圧力 日太子妃“躱”回娘家」 という記事が大きく出た。そして太子妃が “娘家” すなわち実家に帰るというのは史上初めてのことであるとあった。この記事をみたある日本人は、それだけの覚悟をして行ったはずなのに耐えられないとはだらしがないと批判をした。つづけざまに日本に関する大きな記事が続いたせいか、日本に関するこれらの三つのニュースが一連のつながりがあるように感じられたのも妙だった。右翼の襲撃を公然と支持する人がいるとはおもわれないが、上層の責任者が遺憾の意を表明しても、どこかイスラエルの行動をたしなめるアメリカの為政者と似ているなとしか見えないのだった。

そのアメリカに関して、5月1日には捕虜虐待のニュースが報道された。意外ではなかったが衝撃的だった。意外でなかったというのは、すでに釈放された捕虜がそのことに言及していて、人間扱いをされないのはともかく、少なくとも動物としての扱いを望むと発言していたからだ。すでにアフガニスタンの戦争で 捕虜を 「教育」 しているとかいう写真が以前 新聞に載ったが、その写真はそうした虐待の存在を語っていた。衝撃的だったことの一つは 一般の媒体にポルノ虐待映画そっくりの画面が公開されたこと、そしてその捕虜虐待に若い 「美女」 が加わっていたということだろう。裸の捕虜を団子のように積み重ねて性交の姿勢をとらせたり、陰部を指してからかったり、両手に電極をつないで 目隠しで箱の上に立たせ 落ちると感電死するようにするという場面の写真が 新聞に載った。そのほか陰部を針金でしばるとか、犬に襲わせるとか さまざま紹介されていた。今日のテレビでは 犬のように首に紐をつないで引っ張ってい写真も紹介されていた。一つ一つが虐待であり衝撃的であることは確かだが、だからといってアメリカの兵士だけが残虐であるわけではなかろう。この記事の翌日、今度はイギリスの兵士が捕虜のからだに小便をしている写真が公開された。戦場ではこういう異常な行為が異常でなくなるらしい。私たちの日本についてはうんざりするほど指摘されているが、他国を侵略したことがない平和な国だといっていた韓国がベトナムで行った残虐さもすさまじいもので 世界に名を馳せたものだった。私はベトナム参戦の将校の語る武勇談をかつて間接的に聞いたことがある。

戦場だけではないだろう。古くはナチが有名で、たしか ブルーノ・アービッツ 『裸で狼の群れのなかに』 だったかには 上の感電死させるのと同じ発想の虐待の場面があったような記憶がある。韓国では 陰部に電極をつなぐ電気拷問の跡を撮った写真をみた覚えがある。日本でも敗戦後 アメリカ軍の占領時代には かなりさまざまな事件があったという。あるアメリカの機関員は200人もの共産党員を焼き殺したと言ったとかいう記事が 週刊誌にも載ったように記憶している。鹿治亘(?)だったかがアメリカの特務機関に監禁拷問されスパイを強要されたが脱出に成功し、その経緯を本にして出したことがあるような覚えもある。特に有名だったのはキャノン機関で 敗戦後の日本で起こった多くの大事件はこの機関の仕組んだ謀略だという説もあった。後に NHK がおこなったインタビュー番組では キャノンは一切過去のことについての発言を拒否し 何も語らなかった。肯定もせず否定もせず一切無口であった。結局これらの大事件は謎のまま残されてしまったわけである。

確かにこういった虐待自体が衝撃的でないとはいえないが、もう一つ衝撃的なことは、これらが記録されていたということ、そしてその記録を報道し公開し告発する媒体が存在していたということではないだろうか。戦場での虐殺行為のあとの記念撮影なら われわれの先輩同胞もやっていて、たしか スノウの 『アジアの戦争』 だかに掲載されていたような気がするから、これもアメリカやイギリスの独占的行為とはいえない。しかしこういう資料を公開し告発するマスコミの存在というのは日本には無縁だし、こうした発想自体が日本人には無縁であるような気がする。こういう点では日本は韓国や台湾には及ばないのかもしれない。もし日本でこういうことをしたらどうなるだろうか。おそらく問題になるのは、これらの資料をどうやって持ち出したか、その責任追及と処罰のことがまず最初に話題になるような気がする。以上のことから 戦争の仕方もそうだがそれ以外にもアメリカのすごさを語っているとあらためて感じさせられた次第である。

といってこの事件そのものがすっかり理解できたというわけでもない。この捕虜虐待に加わっている女性の いかにも無邪気そうな笑顔はなんだろうか。不思議な感じがしないでもない。これらの捕虜はすべて裸だが、ただ頭だけはすっぽり袋をかぶせて目隠しをしてある。これは捕虜が自分の意思で行動する自由を奪う意味をあるが、それよりこうして人格の表現である顔を覆うことで 捕虜を単なる物として扱える条件を作りだしているように思われる。あの無邪気そうに微笑んでいる女性だって、捕虜が両目を開けてにらんでいたなら あのように無邪気そうな態度をとることはできなかっただろう。頭をすっぽりと覆うことで相手にはこちらが見えなくなったのだから、あとで仕返しされる恐れもない。それよりも頭をすっぽり覆うことで捕虜は たんなる物としての肉体に変わっている。単なる物としての肉体なら、動物虐待よりも簡単なことになる。それにしても、と思うかもしれない。こうした若い女性が虐待に加わることができるのだろうかと。もちろんサドのジュリエットのような架空の女性を持ち出すまでもなく 歴史上女性による猟奇事件には事欠かない。しかし こうした残虐行為が異常な性格の持ち主によってだけ行われると考えるのは当っていないと思う。捕虜虐待から一般の拷問にいたるまで その担当者を一般人とは異なる人間だときめつけるのは偏見である。ヨーロッパのあの身の毛のよだつような死刑の執行人でさえ 安部謹也氏の本を読むと一般に考えられているような残虐な人格者でもなく 意外にインテリだったという印象をうけるのである。こうした行為に携わる人間は意外に理知的であるだけではなく 知的な面をそなえていたということだ。魯迅が 刑罰の執行者が人間の体の構造によく通じているのは医者と同じだというようなことを どこかで書いていたように思うが、実際このことは韓国の拷問技術者が 「東医宝鑑」 の解説書を書いていたことで一時話題になったことがあるので、事実であることはほぼ確かである。もちろん 末端の執行者が凶暴でむやみに残虐行為をするということもありうるが、意外に冷静でもありうるのである。ジャン・アメリーの 『自死について』 だったかに、著者自身が かつてナチの収容所でうけた拷問について、それがかなりひややかで事務的なものであったと書いていたように憶えている。つまり異常な凶暴性にかられた拷問ではなく、かなり冷静な事務的な虐待があるということである。ということは行為者が特別 異常性格の持ち主である必要はないということである。

じっさい この点については E・アロンソンの 『ソーシャル アニマルズ』 に有名な実験が紹介されている。学生を任意に二組に分けて 一方には看守の役を、他方は囚人の役をあたえ数日間の模擬体験をさせたのである。ところがどちら側の学生も完全にその役になりきってしまい、囚人虐待の状態が過度にエスカレートして この実験は中断せざるを得なかったというものである。どちらの役も偶然任意に与えられたのであるから、その行為は学生の個人的性格や資質とはまったく関係がない。結果は与えらた役割に忠実であったことだけによるのである。このことから私たちは、こうした行為にかかわる人間に対する偏見を正すことができるだろう。戦場や監獄以外にも 日常社会で人に精神的・肉体的な苦痛を与えるたぐいの公的な仕事に従事している人たちがいる。一見すると非常に健康そうな青年だったり、学校の先生かと思わせるインテリ風の中年の婦人だったりするので、いったいこういう人が日常どうして人を苦しめる仕事に平然と従事できるのか理解に苦しむことがある。もしこういう仕事を離れたら町内で子供たちを集めてサッカーの指導をしたり、家庭ではよい父親であり母親であり おじさん おばさんだろう。まさかこうした身内の間で 自分の従事している仕事の具体的な内容を語ることはあるまい。すると この人たちはまったく何の考えもなくこうした仕事をしているのだろうか。おそらくそうではあるまい。自分の仕事にたいする自覚があれば、やはりそこには何らかの、行為を裏付ける合理化があるはずである。国のため、社会のため、犯罪を防ぐためなどなど。ではそのためにはどんな人間が自分たちの犠牲者になってかまわないのだろうか。ここでも行為の正当化はありそうだ。
アメリカ 9・11 事件のあと アメリカではビザの審査が厳しくなった。一時帰国した中国人で戻れなくなった人が多いという。おそらく彼らがテロにかかわる可能性があって入国を拒否されたのではなかろう。ただし、アメリカにとっては、こうして審査を厳しくすることにより アメリカが警戒する本当の要警戒者の入国が阻止できればよいのである。つまり無関係の犠牲者がいくら大勢いたとしても、結果としてアメリカが無事であればよいわけである。この発想法がいたるところで適用されているようである。当人がいくら犯罪に関係なさそうであっても それは関係ないのである。どんな人間でも 一見それらしい疑惑の対象にすることはいくらでも可能である。金融関係でいったん要注意のリストに登録されてしまうと それがどんな間違いによるものであれ その後それを訂正するのは困難で、信用カードも使えなくなってしまうという。ましてや、本人が絶対に知り得ないところで作成されたブラックリストなど永久に訂正の可能性はない。あとは当人が疑わしいというだけでよいのである。監視がいくら無駄な結果に終わろうとも それは関係ない。事件が起こらなかったことが何よりの有効性とみなされる。そういえば歌舞伎の 「勧進帳」 でも 富樫のせりふに同じようなことが語られていた。義経一行が山伏姿にやつして逃れたということで 関所では怪しげな山伏を磔にしていると。なんの罪もない山伏がいくら犠牲になって殺されてもそれは関係ないことで、そうするうちに肝心の義経も捕まることになればそれでよいわけである。おそらくこうした仕事に従事している人たちは そうした犠牲者にたいしてはあまり関心がないのかもしれない。天下国家の大儀を背景にすると、疑わしい人間を虐待することも正義の行動とみなされる可能性がある。才能があり有能な人間が官につくと自分以外の者に対する思いやりがなくなるので危害はますます大になるといったようなことが 清末の 『老残游記』 に書かれていたと思う。

それなら こうした事態を広く訴えればよいではないかという人がいるかもしれない。こんどのイラクの捕虜の事件のように。しかしこの事件は かなり特殊な条件があった話題になったことはすでに述べた。国家が絡んでいる事件では、個人の犠牲者の救済の見込みみはほとんどないどころか、犠牲者に圧倒的に不利なのである。従軍慰安婦の問題自体について述べるつもりはないが、この問題が提起されたときも、まずこの犠牲者にたいする反発を感じた人がかなりあったことを思い出す。国家的な背景によって引き起こされた事件の犠牲者には 同情より反発が多いのも実情である。すでに述べたジャン・アメリーも、自分がナチの収容所でうけた拷問の話をするのを人は嫌悪すると書いている。またか、もうそういう話はうんざりだ、というわけである。世の中にはこうした犠牲者は数え切れないほどいるわけだから、実際はうんざりするどころではないわけだが。それどころか人間は本来他人の不幸には同情などしないのではないかと疑われるふしもある。『水滸伝』 では 李逵が梁山泊からおりて母親を迎え山に連れてくる途中で 虎に母親を食われてしまうという悲惨な目にあう。梁山泊に戻ってそのことを宋江に報告すると 宋江は大笑いしたという。金聖嘆の 70回本ではこの部分を李逵は大いに哭した、と直してあるという。たしかに訂正したほうが私たちには受け入れやすいが、他人の悲惨な不幸を見て大笑いするというのが 私たちの心の底にある真実である可能性だって否定できない。恐ろしいことだが。

では 私たちの社会には救済の可能性がないのかということになりそうだ。アメリカは人間の心理の研究や人間改造でかなり先進的なところだが、最近も人間の性格というのは生まれたあと変えるのは不可能だという発表があったという。以前の研究では 犯罪を起こす可能性のある人間は生まれたときにすでに決まっているというのもあった。とすると こういう人間は生まれたあとすぐに処分をしてしまえということになる。もちろん現在はまだできないことであるが、そのかわりそういう人間は脳の手術を施すべきだという意見があったように思う。この論でいくと 過去に侵略をし残虐な行為で名をはせた民族や国家は 永久にその本質は変わりえないという結論だって出せないことはない。ただし民族や国家の内容は通俗的なとらえ方のままにしておくが。これでは人間も社会も救われようがないではないか。そうかと思うと一方では、これもアメリカの差別問題の本につぎのようなことが書いてあった。差別意識には感情がからんでいる。人間の感情を変えることは非常に難しいことだ。したがって、せめてそうした差別意識がさらに大きな問題を引き起こさぬような制度など 形式的な方法での対策が必要なのではないかということである。これは、悲観的な前提から実際的な対策をひきだすひとつの考え方のように思われる。現在の国際的な事件にこうした考え方が適用されないものだろうか。

それに関連して、最近読んだ奇妙な本を紹介しておく。奇妙というのは 私が内容を誤解して買ったからなのかもしれないが、それにしても類似した本を日本で見たことがないので 紹介するだけの意義があるような気もする。結論からいうとこの本は、これからの中国のあり方および世界のあり方にたいする提案を述べたものである。だからこれは国際政治の本なのかもしれないと思うが、自信がない。私はこの本を自然科学、それも遺伝子、ゲノム理論の売り場で買ったのである! 今日 (5月7日) の新聞に出ていたが イタリアでクローン人間が3人誕生したという。最近の遺伝子工学の発展はめまぐるしいほどだ。とくに人間の遺伝子の総体ゲノムの解読がほぼ終わって間もないというのに この分野での動きはますます加速されている。この分野での最近の話題を知ろうと 生物学の本の売り場で解説書らしきものを3冊買った。もちろんあまりに専門的なものは読んでも分からないから 啓蒙的なものを求めた。すなわち 範冬萍、張華夏編 『基因与倫理性 − 来自人類自身的挑戦』、童増 『最後一道防線 − 中国人基因流失憂思録』、それと問題の 欧陽志 『 「上帝」 的陶杯 − 文化多様性与生物多様性』 である。最初の本は最近の遺伝子研究と倫理問題に焦点を当てた論文集で かなりまじめなもの。二番目はまだ読んでないが 1998年の国際会議のおり 欧米の研究者が中国人の血液を採取して歩いているのを知り危機感を覚え憂慮していたら、案の定 SARS が発生した。これは生化学兵器の一種であり、中国人を対象にしたものである。その証拠に世界で SARS の患者の大部分は中国人でそれ以外の者に患者はでていないではないか。といった内容で、昨年一度公式には否定された内容をあらためて提起したものである。最後の本がなぜ生物学の売り場にあり、私が買うことになったのだろうか。この本の副題 「文化多様性与生物多様性」 に惹かれたことはたしかである。だから決して誤解して買ったわけでもない。

『 「上帝」 的陶杯 − 文化多様性与生物多様性』 という本の最初に簡単な題名の解説がある。

“アメリカの Digger Indians の箴言に 「はじまるや、すぐ上帝は各々の民族に陶杯を与え、その杯より人々は彼らの生活を飲み込んだ」 とある。大自然は異なる構造、異なる姿の環境を異なる民族に与え、多様な環境は多様な生態系統を繁殖させ、多様な生態系統は多様な文化を育んだ。多様な生態系統の相互の補い合いは生気溢れる地球の生物圏を育て、生物多様性の擁護はすなわち人類自身の擁護である; 同じ道理で、社会調和、国際理解は文化多様性の尊重を要求する、従って文化多様性は人類が環境方面に対して累積した経験の蓄積において、それらが共存と繁栄が可能になることを含む。ここに言う 「上帝」 とはすなわち人類を育てる大自然である。”

読み終わってから分かったが、この最初の文がこの本全体の基調を語っている。すなわち地球上での人類の社会は 自然とともに多様性を尊重することにより維持できるということである。あまり体系だってまとめて報告する余裕もないので まず全体の内容を簡単に紹介し、そのあと思いついたことを付け加えることにする。全体は四つの章に分かれている。

「“一”的災難」 と名づけられた最初の章は、まず F.Fukuyama の 『歴史の終焉』 と S. P. Hutington の 『文明の衝突』 の紹介と批判から始まる。両者ともすでに日本で紹介ずみだから あまり詳しく述べる必要はないだろう。批判は 理論と最近の世界の状況の両面からなされる。その際に文明と文化の差異についても触れられている。そしてこれらの理論は結局 西側の文化の中心的な地位を擁護することを狙ってる、すなわち文化の全地球化であり、その本質は資本主義生産の全地球的な拡張である。この結果として地球上には貧富の格差が拡大し、環境破壊は加速され、戦争の危険性が増加する。と現状における全世界の単一化へ向けての傾向を批判する。

したがって次の章が 「“多”的必要」 となるのも当然である。批判された単一性への傾向にたいして、文化の多様性が必要であると提起されるのだが、その多様性は自然界における全生物の多様性と関連させられる。ここではダーウィンがかなり使われるが しかし人間社会における適者生存の淘汰理論は批判される。その論拠は最近の分子生物学、そこには遺伝子考古学などが含まれるのだろうが、現代の人類の発生が最近 10万年ほどにすぎず、現代の人類の差異はほとんどないこと、外見上の差異は環境のせいであることが上げられている。つまり生物学上における かなり新しい学説がかなり参照されている。たとえばアジアには数十万年前に人類の存在が確かめられているが、しかし現存する人間に関するかぎり 10万年前にアフリカから北上した祖先を共通にする人間以外は存在しないという、調査の結果も参照されている。進化論に関しては進化の中立理論にも触れられているので、単にあるドグマを固執してそれ以外を排除するという態度でないことは確かである。

次の第三章は 「互補方法」 となっているが 日本で使われている用語では 「相補性(原理)の方法」 とでもなるのだろう。この章は まったくこの本の面目がここに現れているといった感じの独特の内容である。私はこれまで こうした分野の本で こういう内容に触れられているものを知らない。つまりこの章は、19世紀末から二十世紀にかけての現代物理、とくにアインシュタインの相対性原理とボーア、シュレディンガー、ハイゼンベルクなどに始まる量子力学の解説なのである。なぜこうした話題がここで登場するかは はっきりしている。相補性という概念は 初期の量子力学形成期の理論でかなり重要な概念で論争の焦点でもあったからであり、その相補性という概念を 著者は将来の地球のあり方の原理として採用しようとしているからである。ただし結論はかなり単純である。初期の量子力学で相補性というのは ある同一の粒子がある条件では個別性を備えた粒子として振舞うが、別の条件では粒子としての性格とはまったく相容れない波動としての振る舞いを示すというパラドックスを解決する解釈の仕方であった。つまり電子や陽子などは粒子と波動という相容れない二つの性格を同時に備えているという解釈であり、これは日常の経験からは理解しにくいが、微視の世界ではこれが物質の基本的な性質であると考えるわけである。ボーアはその後 この概念を物理学の対象だけではなく広く人間世界の現象にも適用していったらしく、この本の著者が採用しているのは ボーアのそうした哲学的な著作らしい。私は引用されているボーアの本を探したが 数年前の出版ですでに絶版らしく手に入らなかった。とにかく相補性原理というのは 互いに相容れない矛盾した現象に対して、一段と高い次元から見ることによりその矛盾を互いに補いあう要素として共存させようという原理とみなせば、異なる文化背景をもった民族間の相互理解の原理として採用できるということらしい。結果は非常に単純だが、この章のほとんどは現代物理の発展史の解説のようで、私にとっては非常に興味深かった。とくにアインシュタインが最後まで量子力学の確率論的解釈を受け入れることができず さまざまな反論を提出したこと、有名な EPR パラドックスや Bell の不等式まで解説されていたのにはびっくりした。それもそのはず、どうやら著者はかつて量子力学の観測問題で修士論文を書いているらしい。

最後の章は結論部分で 「互補之道」、つまり相補性の原理を採用した今後の世界のあり方に対する提言である。この章はかなり興味深い記述が多いと感じた。まず結論としては、文化の多様性は生物の多様性と密接な関連性があること、この二分野の多様性はさらに消費観念、政治思想、言語文字などの方面にも現れるのであり、もし文化の多様性が消滅すれば生物の多様性も保ち難い。第二次大戦以後 “発展” というのが世界の潮流となっているが、そこに落し穴がある、熱狂的な成長競争は貧富の差を不断に拡大するだけでなく 地球のエントロピーを猛烈に増加させる。こうした生態危機に対しては、遅れた民族の生存方式が真面目に参照されるべきだ。遅れた民族の知識や伝統、習慣は環境管理や生存方式の改善に有効であろう。もし発展した国がこの点に気がつけば 将来文化の相補的な理性の力を増すことができるだろう。すなわち、現状で先進国が自分たちの環境を維持するために発展途上国に自分たちの生活方式を押し付け、産業を押し付け、廃棄物を押し付け、環境破壊を押し付けるというやり方をあらため、すくなくとも現実にある多様な生活、習慣の方式を認めあうことができれば 人類社会は円満に持続発展を続けることができるであろうということである。

私は この最後のおだやかな結論が意外でもあったが、しかしこのおだやかさには、かえって大変共感を覚えた。というのは最初読み始めたときから、この本の結論がどこに向かっているのか たびたび戸惑いを覚えたからである。それほど この本では扱われていることが多様な分野にわたり めまいを覚えるほどの快感を感じたのである。ほかの人がどう感じるかわからない。しかし私にとっては非常に興味深く、しかもいろいろなことが勉強できた。最初、マルクスやエンゲルスそしてダーウィンが出てきたとき、また例によって弁証法がなんとか、史的唯物論がなんとかで、最後に現在の西欧の資本主義社会を攻撃するのかなという予感もした。要するに昔よくあった、なんでもかんでも放り込んで現状分析とやらをでっちあげ、従って、と結論をだす政治パンフレットである。もちろんマルクスやエンゲルスがしばしば登場するし 弁証法も唯物論も登場する。しかし引用されているマルクスは 「経済学哲学手稿」 が目立ってよく使われるし、この本で初めて知ったのだが よくマルクスの言葉として使われる 「アジア的生産様式」 という概念は 後にマルクス自身によって否定されている仮の概念なのだそうだ。1999年、すなわちベルリンの壁崩壊 10周年の年に BBC がおこなった 100年間で最も偉大な人物選定では 一位がマルクスで そのあとにアインシュタイン、ニュートンやダーウィンが続いたのだそうだ。イギリスはマルクス主義の盛んなとこだからなのか、日本以外ではさほど不思議ではない現象なのか、一瞬あっけにとられた。

世界の言語についても触れられていて その一部に次のような くだりがある。世界の 6800種の言語のうち、半数以上が使用者 2500人に満たない、90パーセントの言語の存在が危機に瀕している。ある言語が次の世代に伝えられるためには少なくとも使用者が10万人なければならいということになれば、21世紀には 50%から 90%の言語は消滅することになる。現在 E-mail で使われている言語の 80%を英語が占めている。とにかく様々なことがよく出てくると感心する。しかし言語についてはその後の記述が重要だと感じた。英語の発達史を述べたあと、現在の英語の簡単な文では 15%が外来の語彙である、複雑な文では 50%以上が外来の語彙であり、現在も毎年数百の語彙が英語に入り込み通用している。したがって、その他の言語がなければ英語も存在しない、しかし、これは英語がその他の言語の替わりをすることとは別のことである。一種類の言語が消滅することは、その言語に含まれている世界観もともに消滅することである。各種のそれぞれ多様な世界観はかなりの程度世界の多様性を反映しているのである。だから多くの、はなはだしくは殆どすべての言語が消滅するときには、英語の輝きも消え去るのである。これは文化の多様性の立場に立つとき当然出てくる結論といえばそれまでだが、多様性を単に多くのものが並列存在している多数とみなさず、互いに相互作用をする関係の中でとらえられているのが印象的である。

とにかく 350ページにしかならない小さな本であるが、随所にちりばめられているさまざまな事柄があまりに多いのでめまぐるしい感じがするが、全体の筋はかなり単純であり、論調はかなり穏やかである。私にとっては 多様な分野での研究の現状がわかっただけでも勉強になった。著者についてまったく知らないので この本がなぜ書かれたのかいきさつはわからないが、おそらく現在の中国の政策とも無関係ではないのだろう。現在の中国の指導者に精華大学とか交通大学などの理科系出身が多いと聞いていたが、それが本当なら現在の中国はかなりこうしたテクノクラートによって指導されていることになる。昔唱えられていた聖人政治が実現したという感じだ。それからみると 日本はかなり原始的な形態を保っているのかもしれない。中国は現在、改革開放政策で必死に努力している。しかしそれが必ずしも楽観できるとは思っていないようだ。この本の中でも東欧の崩壊、旧ソ連の抱えていた問題点などかなり具体的に触れられているから、社会主義体制を維持するという姿勢だけで将来がうまくいくとは思っていないようだ。ただ、現在の状況で先進国に追いつこうと、同じことを目指しても決して追いつかぬことも よく見えているのではないかと思う。この本の中で、1995年に開かれた国際会議で 全世界の一体化と21世紀に向かってどう人々を導いていくか議論がなされたとあった。その会議では 将来の世界では全世界の 20%が積極的に生活を楽しむ権利を有し、残りの 80%はそこに参与できないと認めたとか。本当かどうかはともかくとして、世界中が現在の先進国の生活水準に達することなどありえないことは明らかだ。もしそういうことが起こりえたとしたら、地球上の資源はたちまち枯渇してしまい、自然は完全に破壊されてしまう。ということになれば、先進国が自分たちの環境だけは最善の状態に保ち、それを維持するために、廃棄物を発展途上国におしつけたり、環境破壊を押し付けるということは十分に考えうることである。この著者には、中国や旧ソ連圏は決して先進国の仲間入りをさせてもらえないということが よく見えているようだ。すると、もし互いが破壊的な戦争を行い一方が他方を消滅させるという政策をとるのでないかぎり、共存政策しかありえないことになる。ここまでだと、昔からよくあった主張にしかならない。この著者の新しさは共存というのは単に並列して並ぶことではなく、互いに相互作用をし、互いにそれぞれの文化を発展させる積極的な意義を持っていることを提起したことだろう。それを著者は相補性の原理の採用とみているのだ。

もう時間もなくなったので打ち切ることにするが、最後に最近のアメリカのイラク攻撃に対して中国が一貫して沈黙を保っている背景も すこし見えてきたような気がする。この本には東欧の崩壊のあとの ユーゴースラビアのことがかなり扱われているが、ほかの まったく別の著者の本にも コソボのことが書かれていたので 最初は不思議だった。しかしここ中国ではイラク問題、その前のアフガニスタン、湾岸戦争、ユーゴースラビアの内乱、東欧の崩壊、ソ連の解体は一連の出来事らしいと気がついた。あらためてイラクの問題だけで発言する必要を認めていないのかもしれない。

私が読んでいるのはこの本一冊だけではない。残雪の近作 『愛情魔方』、金庸 『侠客剣』 などなどで、特に昨年夏 出た 呉思 『血酬定律 − 中国歴史中的生存遊戯』 がめっぽう面白そうなのだが、これらについてはまた機会があったら報告することにしよう。