三枝壽勝の上海通信


上海だより 2004. 4月 (2004/04/09)

上海はすっかり春になっているはずなのに毎日天候の変化がはげしい。晴れたとおもえば雨がふり、27、8 度と夏のように気温が上がったかと思うと翌日は最高気温が 10度も下がる。北方では砂嵐の荒れる日があって 行方不明者がでる。以前テレビ連続劇の水滸伝で、武大が外から戻ると 藩金蓮が大きなハタキのようなもので体の砂を払う場面を見て、中国ってたいへんなところだなと感じた記憶があるが、北方ではさほど不思議な光景ではないのだろうか。

そしてイラクでの戦争は泥沼に落ち込んでいる。最近日本に帰って来た人の話では こちらの方が日本より消息がよく分るという。そうかもしれない。日本は戦争の当事者だから報道に制約があるかもしれない。この戦争を見ていると、かつて私達の同胞が同じように泥沼の戦争に落ち込んでいったことを思いだす。自己の安全を主張しながら虚偽の情報と事件まででっちあげながら突進していったところは似ている。あの戦争の末期、中国での日本兵はインドあたりから飛んできたアメリカの飛行機の連隊に猛烈な爆弾攻撃にみまわれ 絶望感に襲われたはずだ。最近のアフガニスタンやイラクでおこなわれたと同じアメリカの物量攻撃を 日本はすでにあのときすでに経験しているのだ。あのときとの違いは、今のアメリカは世界の軍事費の半数を投入しており 世界中を相手にしても戦えるだけの戦力を有しているということだろう。かつての日本のように外部からの攻撃で簡単に敗れることはないだろう。といっても将来もアメリカがそう簡単に反省するなどということもないだろうということは 現在の日本をみていればほぼ確実だと思われる。いまや日本は 国際紛争に積極的に介入して軍隊を派遣する 一人前のりっぱな国家である。いまさら憲法の精神云々と唱えるのも虚しい。そうはいっても、殺人がなくならないからといって殺人が犯罪であるとする法律が無効になるのではないという言い方があるというかもしれない。しかし憲法に違反したからといって罰則はない。そもそも自衛隊が違憲ではないと最初に堂々と公言した日本の代表者は自民党の人間ではなく、かつての社会党の党首であった首相ではなかったのか。

こちらの最近の記事では週刊誌に載った 「私の目撃したイラク」 という探訪記がよかった。イラク人にとっても見慣れぬ都市と変貌したバクダッド、そこの小学校の様子、大学の様子、廃品のならぶ市場、官吏の話などが紹介され、そしてイラクで記者として取材する筆者のありかたなどが書かれていた。イラクでは男性が減り どこでも女性が多いという。こちらではイラクへの出兵をやむをえないというような記事はないが、アメリカがそれでも得るところがあるとすればなにかといった分析はある。アメリカにとっても日本にとっても利権が絡んでおり、それはイラクの人間の人権など問題にならぬ重要性があるのかもしれない。現在のところ中国はこの戦争にほとんどかかわらぬ唯一の大国だ。しかしかつての冷戦時代、もしかするとこれと同じ光景を中国で見る可能性がなかったとはいえない。世界に革命を煽動し秩序を破壊する張本者としてアメリカの膺懲(古めかしい言葉だ)を受けたかもしれないのだ。実際には朝鮮半島での戦争だけで終わったが。そしてそうした可能性に対しては いまでもかなり警戒心を緩めていない。日本海でのアメリカの新たな戦略基地の可能性や NATOの加盟国拡大にかなり神経を使っているように見える。もしかするとアメリカにとってはたえず敵が存在しないと存在を維持できないのかもしれない。アメリカ人にとっては敵との戦いが存在証明になっている可能性がある。

といってどこか他に理想的な政治思想をかかげた国家があるわけではないから、単にある国を批判するだけでは何も出てこない。私にはこうした世界の構造がさっぱり分らぬが、他の国を見ることによって自分の国のことも想像できるような気もしてくる。他にあるものが自分のところだけないなどということはないだろうという気がしてくる。彼等の戦争の仕方や他者認識が、私達同胞のものとはまったく違っているとも思えない。自分の国のことについてはなかなか見えないが、他の国のことはよく見える。外から見れば 日本人は自分達の侵略戦争については目をつむり 原爆の被害者であることだけを主張する虫の良い欺瞞に満ちた民族ということなのだろう。こちらにいる若い日本人が、日本に死刑がある、それも絞首刑であることに驚いていた。別に秘密事項でないことだってこの程度である。また日本には民族差別はないと言い切る人もいた。だが制度として民族差別があると公言している国家などあるのだろうか。しかも 差別は理屈の問題ではなく感情の次元がからんでくるのでそう簡単に無関係だと言い切ることなどできないだろうと思うが。根拠のないことに自信を持つことの危うさを感じる。こちらで中国語を学んでいる日本人で 中国に関する本または中国の現代または古典を読んだことのある人がほとんどいないことに 驚くほうがおかしいというのが現状である。

そういえば春節のコメディで 警備員の持っている警棒で戯けていて感電して気絶する場面があった。中国では ああいった武器はあまり珍しくないのだろうか。当初あの警棒をアメリカから輸入して使い出したころ、人民軍と警官の争いに使われて騒動になったとかいう記事を昔読んだ記憶がある。こんなものが 私は日本にあるのかないのか知らないが、しか中国にあるものが日本にないはずはないと考えるのが自然だと思っている。こんな玩具ではなく本格的な物だって 日本だけが例外で潔癖さを誇っているはずがあるわけはないと感じている。あまり自分だけ特別だと思うのは見苦しい気がする。

最近新聞などを見て面白い記事を探すということに あまり意義を感じなくなってきている。といっても新聞も本も手当たり次第にみているものはかなり多い。しかしそれは中国を知ろうとか、中国について調べてやろうというのとはかなりちがう。私は相変わらず観光街はほとんど知らず、有名な繁華街もしらない。日本でも中国でも一度もパンダをみたことがない。いったい何をしているのか。ここの人が言っていた。上海の動物園など一生に一度いくかどうかだし、南京街とか豫園は外国人のいくところだ、と。中華料理などおいしいと思ったことはない、家で作る料理が一番おいしい、と。そりゃそうかもしれない。魯迅先生もどこかだかで中国人は中華料理など食べてはいないと書いていたように記憶する。毎日、市場との間を往復して食事をし洗濯をし同じことの繰り返しをしているのは、なんのことはない普通の日常生活をしている中国人と同じリズムで生活をしているわけである。中国を、中国人を観察して調べて分析するということとはかなり違っているなと感じる。いってみれば彼等と横並びで 同じ方向に歩いているようなものかもしれない。ただ こちらは彼等の生活習慣もしらず文化にも入り込めない外来者にしかすぎないのに同じ行動をとっているわけだから あまり成果などありそうにない。同じことを韓国でもやってきたなと感じる。私の扱ったのは全て公開された作品ばかりである。作家自身についてではなく、彼等が公開して自由に論じることを前提にしたものばかりだったから、やっていることは韓国人とさほど変わったやり方をしてきたわけではない。ようするに 自分が特別の立場に立って上から観察するということを あまり前面にださないやりかただったとおもっている。

ほんとうは日本だけが特別でないのと同様、中国だって同じなのである。歴史や文化が違うので、また現在の環境が違うからもちろん人間の行動や考えに違いがあるのは当然だ。さがせば奇妙に感じる現象はいくらでも見つかる。しかもある中国人が嘆いていたように、5000年もの歴史があると大抵のことは中国で見つかってしまうのである。しかも、これだけ規模が大きいと 大抵どこかで変わった事柄はいくらでもみつかりそうなのである。しかし私達と同じものだって いくらでも見つかる。ようするに何でもあるのである。

最近こちらの国内を騒がせた事件に、ある南方の大学の寮で友人の学生を 4 人殺して一月ほど逃げていた学生が捕まった。現在の中国では普通なら死刑に決まっている。ところが逮捕された直後から様々な記事が出だした。この裁判で犯人の弁護を自主的に引き受けると名乗り出た弁護士が現れた。かれらは この事件が単純な殺人事件ではないこと、貧しい農村出身の優秀な学生が殺人にまでいたった背景を考慮しなければならぬことを訴え、けっして売名ではないと断っている。それと歩調をあわせて 指名手配に使われた写真が いかにも凶悪な容貌であったことが先入観を植えつけると疑問を呈した記事もあった。また犯人を発見し通報して多額の賞金を手にした通報者を公開した報道にも プライバシー擁護の観点から疑問が呈された。その後 各大学における学生のカウンセリングの必要についても様々な動きが起こった。ようするに 考えられるさまざまな事柄が一通り全て登場するのである。中国は決して特別な考えの人間が独特の行動をしている特別な地域ではないのである。ここでの自殺者が一年に 100万人だと聞くとかなり多いようだが、これは日本なら年間 8万人から 9万人の間くらいの自殺者に相当する。極端に多いのかどうか。中国では自殺は、全体の死亡原因は事故死に次いで第五位である。ただし 15歳から 34歳の年齢では自殺は死亡原因の首位である。現在若者にかなり精神的な負担のかかっている社会であることは言えるのかもしれない。

若者といえば、この国の若者の性行動に関する報告書がかなり話題になっている。さまざまな本がでているが、とくに 13歳の中学生の性行動をインタビュー調査した 「蔵在書包里的瑰」 というのが北京に続いて上海でも話題になっている。どの報告書でも同じだが、これまで言われていたよりも かなり事実が先に進んでいて 衝撃だということなのだろうか。どこまで経験したものがどれだけの割合いるかとかいう紹介記事もある。私はそうしたことを一々追ってゆく興味はない。どこだって同じじゃないかという気がするのである。同じだというのは、ある条件のもとではということである。中国は閉ざされた世界ではないし、現在激しい変動のさなかにある。

と言いながら最近こちらのニュースを見る量はかなり増えた。日刊紙、週刊誌と様々 買って見ている。全国の様々な記事を見たいのなら とても便利な新聞があることを知った。週刊だが 全国各地の新聞に載った記事から選んで まとめて掲載する転載専用の新聞である。私は 「良友」 というのを主に見ているが、似たような名前や 「朋友」 だとか 「健康なんとか」 とかさまざまである。折込の広告がかなり怪しげなので新聞も怪しげで信用できないのかと思ったら、決してそうではない。他の新聞で読んだ記事がそのまま転載されているのもある。しかも各ページごとに同じ分野の記事をまとめてあるので便利である。たとえば科学の欄では、最近の世界での科学の話題をかなり豊富に載せていた。日本で専門誌を見るより早いのではないかという気もする。それはそうかもしれない。中国のどこかの新聞に載ったものを探し集めれば大抵の記事が見つかるかもしれないのだから。韓国関係では 60年代だったか北に送り込む特務隊員を訓練していた島の兵士が反乱を起し 上官を殺し上陸したあと バスを襲い乗っ取りソウルまで行こうとした 「実尾島事件」 についての記事もあった。昨年新しい大統領になってから真相の発表がなされたものだと思う。私が 70年代ソウルにいたころ、作家達はこの事件や 二回も日本海を漂流して捕まった少年の話などをどうにかして小説に書きたいと言っていたのを思い出す。そのほか韓国関係では 韓国の女性と結婚した男性が日本と韓国の習慣のギャップを語った記事もでていた。

この新聞で面白いことを発見した。「亜洲人長寿之謎」 という記事で、紹介されているのは沖縄とアフガン、韓国の長寿村で、なぜこれらの地域では長寿の人間が多いのか、様々な研究の結果を紹介したものである。ところでこの記事に登場する固有名詞がローマ字表記であるのが珍しい。もともと 「北京晩報」 に載ったものだから、特別な学術誌でもない一般の新聞の記事にローマ字が使われていたということになる。例えば、Yukiehi Chuganji、 Kamalo Hongo、 Hide Nakamatu、 Makoto Suzuki 博士、 Hunza 山谷、 Khwaja Khan 、Willcox、 Sunchang 県、 soju、 makgoli などなどである。ローマ字なら、もとの言葉を知っている人には大体分ってしまう。これらが漢字の中に入って一緒に使われている。よくあるように漢字による音訳をしていない。一般の新聞でこうした表記が使われていたのは意外だった。ピンインもあまり普及していないほどローマ字が使われていないということで 外国の固有名詞にローマ字を使うのはさらにありえないことかと思っていた、がそうでもないらしい。学術誌ではなく一般の新聞に使われているということは、将来こうした試みが広がってゆくことを意味するのだろうか。中国が外の世界の事物を大量に消化してゆこうとするなら このやりかたは カナによる外来語表記より簡単で便利そうだ。さほど違和感を感じさせなかったが、一般の書物ではそうではないのだろうか。たしかに他の記事や本では 外国の固有名詞にローマ字表記を使う場合でも漢字による音訳が必ずついている。

中国がこれからも原則としては漢字を固執し続け 漢字ローマ字交じりの表記を公式には採用しないのかどうか なんともいえない。だいたいこういうことを議論してもあまり実りのある結論がでるとも思えない。たしかにこちらで出ている中国の文化や中国人に関する本をみると 漢字のことが必ず登場するようである。そしてその有利不利についても論じられているようであるが、それがどの程度の考察を経ているのか、私にはその根拠が怪しげにおもわれる。たとえば、中国語にとって漢字表記が絶対に欠かせないという議論のなかで、趙元任の言ったとかいう話が引用されているのを見た。彼は /shi/ という同じ音で四声の異なる漢字だけを使って短文を作った。もし漢字を廃止してローマ字だけにしたらどうなるのか、たんに同音 shi shi shi と同じ記号の連続になってしまい意味など出てこなくなるではないか、といったようなことだったと思う。趙元任のような天才的な言語学者が言った事となると 反論することなどできなくなってしまいそうだ。だがほんとうに こういうことを冗談ではなく主張したのだろうか。だとするとこれは実在の言語とその表記についてかなり歪曲された主張のように思われる。たしかに既存の中国語とその漢字使用について言えばその主張のとおりであろう。だからそれは変えられないというなら それは同一のことの反復にすぎない。ある言語についてその表記法が変わるというのは、表記法だけが変わってもとの言語の様々な側面が全て不変で保たれるということを意味してはいない。表記法が変われば それは言語の様々な面に跳ね返って変化をもたらすことが考えられるのである。かつて漢字を意識しなければ シンジクに近い発音だった地名も 教育が普及し漢字の 新宿 を意識するようになると シンジュクと発音するようになる、どころかそれが本来の正しい発音と意識されるようになる。科学と化学のまぎらわしさも、もし漢字表記を廃止すれば カガクと バケガクというのが正式な名称になる可能性は十分にあるのだ。言語とその表記がそれぞれ不変の固定したものという見方は 実際の言語のあり方を十分にとらえていないという気がする。

私は言語そのものの研究には距離が遠いせいかもしれないが、最近様々な言語の現象そのものについてあまり関心がなくなってきた。といって、かつて主張されたように言語は人間にとって普遍的な能力であり、深層の言語から現実の様々な現象を導きだせるとも感じていない。どちらも言語という人間の発揮する能力の捕らえ方では 同じことを言っている様な気がする。つまり各々異なる言語現象を調べると そこに人間の能力として普遍的な共通なものが導きだされるというわけである。最近感じていることは、これとはまったく正反対のことである。言語現象など人間の根本的な能力の深層に直結するものではないのではないか、ということである。世界にある、あった、さまざまな言語現象は人間の根本的な能力からみれば偶然の産物にしかすぎないのではないか。あるていど共通な要素があったとしても、それ以外の異なる事柄についてさほど深刻に考える必要はないのではないかということである。世界には実に様々な言語がありうる。それはたんに確率で決まるほどの偶然の産物であってよい。ただそれがある程度の実用に耐えうるものなら どんな言語だって存在しうるのであるということだ。問題は、その偶然の産物であってもよい道具の言語がいったん成立してしまえば 人間の活動はその言語との相互関係によって互いに影響しながらそれぞれ変化しうるし、精神的な文化的な成果を生み出しうるのではないかということである。だから現実に存在する言語の形態自体にはさほど意味はなく、その具体的な言語とのかかわりでその言語使用者がどのような文化を生み出しているか、生み出してきたかということではないのか。そこではその具体的な言語の構造は問題になるであろうが、ただし言語自体が重要なわけではないということである。現象としての言語など 人間の精神的な活動の表皮的な現象にすぎないのではないかということである。私には関係性という視点を抜かしては文化の理解はできないという気がしている。