三枝壽勝の上海通信


上海だより 2004. 3月 (2004/03/12)

前とその前と二回、報告を休んでしまった。最初は病気のため、その次のときはまだ日本にいたので報告が意味をなさないと思ったからである。そのかわり久しぶりに研究会に出て発表させてもらった。二ヶ月も間があいてしまうとどう書いてよいのか要領もつかめなくなってしまった。前回の報告の続きから書くことになる。
こちらでの生活は相変わらず毎日同じことの繰り返しでほとんど休息する余裕もなしだった。一月に一度のこの便りはたった半日の時間をかけるだけだが、その隙間のない繰り返しのなかに割り込んで書くのでかなり無理をしていたことに気がついた。その翌日の生活のリズムが狂ってしまうのである。
前回の便りを送ったあと、体の調子がおかしくなりだし 歯が痛み出した。歯茎の炎症が悪化したのかと思っていると耳の方まで痛みだした。中耳炎を併発したらしいと思い抗生物質と銷炎剤を服用したが症状は悪くなる一方。ついに病院に行くことにした。言葉が不自由なので昨年 SARS のとき領事館でくれたパンフレットを参考に日本語が使えるところに連絡をとり 診察をうけることにした。こざっぱりとした病院で 若い医者の横で看護婦らしい若い女性がたどたどしい日本語を使いながら通訳をしてくれた。診察早々、症状がどうかというより歯がお話にならぬ状態だ、本来なら抜いてしまわなきゃいけない歯ばかりだといわれた。本人の気にしている弱みを突かれてしょげているところへ、この症状が何かわからないが、もし他の病院に行く気がないのなら抗生剤を処方しよう。しかし、できれば総合病院で診察したほうがいい、といわれる。総合病院といわれてもさっぱりわからないので紹介を頼むことにした。さっそくそこから電話で予約をとってもらいタクシーでかけつけたのが、上海広慈医院という外国との合作で経営されている病院だった。瑞金医院という大きな総合病院の一角にあった。問診に入るやいなや、あなたの病気は抗生物質など効きませんよ病毒(ヴィールス)ですからね、と言いながら帯状疱疹と漢字で書いてくれた。入院するつもりがあるかと聞かれたが、頭に浮んだのが入院費用のこと。とりあえず自宅療養にし、うまくいかないときには入院することにした。注射のあと藥を三種類処方してもらった。
これが昨年 12月 18日のこと。医者が、一切の仕事をするな、ひたすら休養せよと言った。年明けまで毎日何もせずに過ごすことにしたが、自炊生活だったので忽ち食糧が尽きて買い出しに苦労した。疱疹が顔の右半分一面にでて怪奇映画の主人公みたいになってしまったので、市場には朝夕の薄暗いころを狙ってマスクをして出かけることにした。それでもおばさん達にどうしたんだと聞かれて答に窮した。感染する病気でなかったのが幸だった。病気自体には何の関心もなかったが、何日かたってやっと自分の病気が好く知られた病気だったということを知った。医者が一目で診断したのもそのせいかもしれない。二、三週間で収まるということだったが、私の場合はすこし手当てが遅れたのか顔に痕跡が残ってしまったが、慣れないところでの病気だから仕方ないと思っている。それにしても こちらの病院もまんざらじゃないと感心している。もちろん私が行った二つの病院とも一般の人からみればすこし高級なのかもしれないが保険なしでの治療費もそれほど高くはなかった。

やはり上海は中国の中でもとくに進んでいることもあるがかなり安心感というか頼りがいがある。昨年の SARS のときも上海市では発病者が皆無だった。乗用車の普及率は深市 (Shenzhen市) に次いで二番目だというが、深は工業都市として特別に開発された都市だから例外とすれば 実質的に上海が一番ということになる。といっても普及率は 5% ぐらいとか。それでもドイツやフランス、スエーデンから自費で上海の会社の研修にやってくる大学生が 3000人にも達すると言う。彼等は卒業後中国関係の仕事につき 上海にやってくるのだという。さらに男女が共に働くのが普通の中国でも 上海はとくに女性の力が男性を上回るところだとみなされているらしい。北京にくらべると女性の社会的な力にはかなり差があるという。もしかするとこれは教育の普及率とも関係するかもしれない。上海はかなり教育にたいする感心の高いところであるが、高学歴者の比率もかなり高いかもしれない。例によって 『外灘画報』 だが 最近号に 「上海精英婚姻調査」 という記事があった。これによれば上海で結婚する人の数は 1989年 18万組、1990年 12万組、1997年 10万組と次第に減っている。これは晩婚の傾向を示している。おそらく男女交際の団体らしい 世紀佳縁とかいうサイトが 今年の二月に 976人の単身者を対象におこなった調査によれば、単身者の年齢は 28歳をピークに二十台後半から三十台前半が中心であり、学歴は修士が最も多く次に学士と博士が続く。男女の比はほぼ同じで 女性がほんのすこし多い。上海でも高学歴の女性は男性にとっては相手にしにくい存在なのかもしれない。
老人社会化についてはすでに述べたことがあるが、それに加えて高学歴知識労働者の結婚難が中国にもやってきていることになる。とはいえ今度の人民大会のおり 都市と農村の生活水準の格差について問題が出たように 平均でも三倍の差があるという。まだまだ過渡期の問題を抱えながらも共通の問題も発生しつづけるように見える。私有財産が公式に認められ、これからは住宅もかなり自由に選べるようになるだろうが、一方で再開発により強制的に移転をせまられ自殺者をだすという悲劇を生み出しているようだ。立ち退きにともなう保証金の算定が移転を可能にするほど十分ではないことが問題らしいが、暴力的な強制執行は日本での地上げ屋を思い出させる。立ち退きに応じない家の壁に取り壊しを意味する “拆” の字を大きくペンキで書いて圧力をかけておいたあと、ある日突然シャベルカーでやってきて取り壊しをするといったことをやるらしい。しかしこういったことは かつての日本や韓国でも公権力によって行われていた。特別中国的というわけでもなく 過渡期にともなう、似たような現象とも見える。

中国独特の面白いことについていえば、ここ中国は人間について考えられる可能性のあることが すべてどこかで発見されるということではないだろうか。最近の新聞には 20歳の大学生が父親と市内に出たあと、父親に はぐれて 自分の家に戻れなくなったという記事が出ていた。一人っ子政策による過保護で 一人で外出する習慣がなかったらしい。去年の記事では 一度寝ると数ヶ月寝たまま起きないという 61歳の冬眠人間が紹介されていた。一番新しい冬眠は 2002年農暦 9月から 2003年 4月までだったという。冬眠から覚めると顔は蒼白、頭髪は白くなっていたとかで、頭にクモの巣がかかったような写真まで載っていた。ただしこの記事はちょっとあやしげな新聞にのっていたので真偽は保障できない。

とにかく、前述したように突然の発病と言うわけで早めに帰国して休養することにしたが、公安での再入国の手続きを申請するのが遅れたので年明けの帰国となった。元旦は上海でむかえたが、大晦日に中心街に群集があつまり花火を上げたりはするが、元旦は平日と何も変わらない。霧の深く、地上一メートルほどのところに淀むように漂っている風景が印象的だった。市場は普段と なにも変わらなかった。それもそのはず、本当の正月は旧暦 (こちらでは農暦という) だから、今年は 1月 22日だ。新暦の正月の期間は、ちょうど学期末試験の期間にあたり、それが終わると休みに入る。そして旧暦の正月つまり春節をむかえ 15日の元宵節が過ぎて新しい年が始まる。この点では台湾も大陸も変わりないようだ。ただしここでの新学年は 9月からだから まだ学年の途中ではある。こういった行事が旧暦で きまるので 新暦の暦からみると毎年休み明けの時期がかなり違っている。去年とくらべると正月あけが一月も早くなっている。

せっかくの旧正月の春節を上海で過ごせなかったのは残念だったが 衛星テレビでほんの少し雰囲気をかいま見た。興味深かったのは、首相の温家宝だったかが農村をおとずれ 正月の準備で餃子を作っている人達と坐って話をしながら 一緒に餃子を作っている風景だった。手つきをみるとかなり堂に入っている、さすが中国人だと思ったが、それにしても国家の中心人物がこういう庶民的な行動をするところに 新中国の理念がまだ健在だという思いを新たにした。正月の談話でもこの世界から戦争をなくさなければならないと はっきり語ったのもさすがだった。日本で中国を語るのを見ると人権問題だとか政治の問題点をあげつらうのが目立つが、外部からみると日本がどのように見えるかについても思いをはせたほうがよいのではないだろうか。外から見れば欠点などすぐに目につくに決まっている。それを克服するのは当事者本人の課題である。おせっかいに外から指導をしたり忠告をしたりして痛快がるのは あまりみばえのよいものではない。といっても、外国のことをやたらほめたり高く評価して 提灯持ちをする必要はもちろんない。要は自己以外の文化からいかにして学ぶか、という姿勢が肝心なのではあるまいか。といっても、よくある 外国の良い所からは学ぶ必要があるという言い方があるが、これはまやかしの発言である。自分以外から学ぶのに好し悪しなど関係ない。要するに学ぼうという態度が肝心なのであり、学ぼうとすれば、先方が良いとか悪とか評価する必要などどこにもなく、何からでも学びうるのではないか。つまり自分が向上しようとするきっかけを外をみることで見つければよいのである。

休養がすこし長引いたのと、ひょんないきさつから論文を書かせてもらうことになり、ほとんど外に出ず手元にある資料を読んだりしていて こちらに戻るのが遅れた。休養もあまりできず だった。こちらに戻った当初は もうすっかり、きたばっかりの外国人という雰囲気を漂わせていたらしい。空港からのタクシーに遠回りされた。といっても新しく開通した蘆浦大橋を通らず昔の楊浦大橋を渡る道を通っただけだが、いつもなら 140元前後のはずが 150元を越してしまった。向かっている橋が違うと気づいて抗議したが どうも言葉がでない。何度かやりとりしたあと着いてから領収書をださせたぐらいに終わった。翌日も中心街の本屋に出かけた帰りに乗ったタクシーに遠回りされた。市内だから大した額ではないが あきらかに回り道である。なんども抗議したあげく 告発する姿勢をみせながら領収書を要求したところ、先方がびびって料金のうち5元を返しくれたので結局 15元になったが、それでもいつもだと 11元程度の距離だからそれでも高かった。

といったわけで一週間に一度、二、三時間書店にでかけるのが唯一の外出といえる上海の生活を再開した。あいかわらずの日常生活の合間に新聞や本のひろい読みである。まとまった時間がないのでゆっくり本を読むことができない。このままでは時間の都合がつかないので、例の論文を書くめどもつかない。またすこし無理をして やりくりしなければならぬはめになりそうだ。

本といえば、昨年 『』 という本を見つけ買った。
題名は “ (雨が降るぞ、店じまいだ、おっさん会議だ、大頭の仮面が踊る)” という上海語の童謡の一節からとったもので、中身は上海の子供の遊びを絵で紹介したものだ。それぞれ遊びの絵のほかに 路地の写真や関連した絵を付けて かなり色彩ゆたかでほのぼのとする内容だ。朝鮮のチェギと同じ足を使って蹴る Jianz という遊びも 二通りの遊び方で紹介されている。玩具としては羽つきの羽に似たものを売っているが、これは台湾のものとおなじだ。さほど厚くもない色刷りの美しいこの本を見て、むかし韓国でこういった類の本を探したがまったく見つからなかったことを思いだした。韓国では 子供だけでなく 普通の庶民の生活もふくめて記録したものがほとんどみつからない。今でもそうだがそういったことに全く関心がないように見える。
』 といっしょに董 (DongQi) の 『太平歓楽圖』 というのを買ったが、これは清代の風俗画で物売りの姿を描いている。しかしこんな特別の資料を持ち出さなくとも、とにかくこうした庶民の姿を画いた絵画というのが 中国には昔からやたらに多い。たとえば最近買った 15枚組セットの DVD 『中国文明五千年』 は 新石器時代から夏・商(殷)・周にはじまり清朝までを扱っているが、各時代ごと実にさまざまなものが残されているのには感心する。わたしは秦の兵馬俑坑のことしか知らなかったが、同様のものが漢代にも北魏でも 同様のものが残されていることも知った。それぞれの時代によって顔の表情が違っているのも興味深い。そして各時代ごとに庶民の生活 とくに商人達の姿が絵画に残されているのには感心した。王室に焦点を当てて歴史をみれば戦争と権力闘争の連続にすぎないかもしれないが、どのように過酷な政権に見えても それなりに商業は栄えているのだ。都の人口が 100万人を越したのは一度や二度ではないことでも、都市生活の繁栄の規模を推測できる。政権を取った王も かなり知的な好奇心が旺盛で 文化に関心あったことがわかる。こういった印象は編纂のしかたに影響されたものなのだろうか。たしかに今日の視点から編纂されている感じはする。ナレーションに古代の異民族の王朝が民族融合に努力したという評価がしばしば登場するのは 今日の中国の国づくりの要請を反映しているのだろう。しかし製作スタッフに日本人の名前が多いのはどうしてだろう。もしかすると日本で作った物を翻訳したのだろうか。といっても 15枚の CDのうち 3枚はこちらの研究者たちの座談となっているが、そこだけこちらで作ったのだろうか。

それにしても西欧や中東をふくめて自分達以外の文化を旺盛に吸収して自分達のものにしてしまうというところに 中国の文化の特色を見る気がする。逆にいえば西欧にあるような理念による追求の徹底さの欠如とか、その応用のしかたの制約を感じさせるものなのかもしれないが、すくなくとも よそのものを取入れたちまち自分達の生活のしかたに溶け込ましてしまう消化力の旺盛さと 実用的な応用の才能は独特だと感じる。もちろん仏教をみても自然科学の取り入れ方をみても、厳密さからいえば元来の在り方や精神にたいする忠実さという点ではかなり問題があるかもしれない。だが近代科学の発展の歴史を見てもわかるが、原典に忠実な訓古学的な態度が新たなものを生み出したことなどないのが、大すじの流れからいえることだ。たいていは とんでもない誤解や解釈がつぎの時代のあたらしい学問を切り開く原動力になっているではないか。過去にしか目をむけず、原典の解釈が誤っているといった批判しかできぬ学者はあまり創造性のある研究をしなかったのではなかろうか。自分達の研究に真に必要なことが何かに思いをはせることができ、大胆な発想のできる人間には 過去の研究の正統さなど問題になるとは思えない。方法であれ思想であれ、必要があればそのまま取入れてもよいだろうし、歪曲してとりいれる必要があれば積極的に歪曲もするということだろう。といっても浅はかでちゃちな規模で何をやっても許されるということではないだろうが。

中国の文化のありかたについての評価はまだまだ先のことになりそうだという気がする。それは中国にとってもそれ以外の地域の文化圏にとっても、これからの地球上での文明のありかたに対する模索がいっこうに見通しをたてられずにいる気がするからだ。中国では今からやっと民族意識の確立へ向けた動きが始まった段階のようにも見える。この過程が一段落して、その次に進みはじめたときに、やっとこうした新しい見方の可能性が生じるように思えるが、はたしてそれが何十年後になるのか、数百年後になるのか。今のところ、こちららではまだまだ歴史を見直そうとする段階にみえる。
たとえば昨年の秋には、かなり大衆向けでしかもかなりな規模の、大部な中国の通史が出始めた。シリーズの名が 『話説中国』、“お話中国” とでもいうのだろうか。大判の分厚い本 15冊の予定で毎月一冊ずつ刊行の予定とあった。各巻ごとの執筆者が書き下ろしの形で文章を書き、それにそえられた写真と図版がぎっしり。各項目ごとにテーマや人物など番号がふられていて、はなばなしくかなり賑やかな感じだ。第一巻は 『創世在東方 200万年前至公元前 1046年的中国故事 (創世は東方にあり 200万年前から紀元前 1046年までの中国の話)』 という画期的な題名だったので つい惹かれて買った。ただし二巻目は 『詩経里的世界』 と平凡になっている。もっとも、内容が現在の学問の最先端の水準に応じているかどうかについては明確でない。大衆的な読み物として出版されたからなのかもしれないが、第一巻目の古代社会の性格についての解説を見る限り、かなり古めかしい通説に従っているようにも思える。ただこの国での学問的な定説がどうなっているのかわからないので、この本の解説がここでどの程度の位置にあるのかも判断は保留せざるをえない。私がこの企画の面白さに惹かれたことだけは確かである。ところが、最近出版社のサイトにつないで見たら、目録にこの本が出てこなかった。ある書店のサイトをみたら、この本は毎月一冊 出るとなっているのにその後 出ないではないか、どうなっているのだという顧客の質問と、書店側から現在当該書は品切れですとなっていた。はたして売れすぎてなくなったのか、それとも企画に問題があって中断したのか、さっぱりわからない。

昨年の暮れ、体調を崩す少し前に本屋で立ち読みしてちょっと風変わりで買おうかどうか迷った本を、今回戻ってから買った。劉 『我不是教詐(私はあなたを騙りを教えるのではない)』 という本だ。全本・珍藏とあって、それまでシリーズで出ていたものを合本にしたもので 500ページをこす ぶ厚い本だ。買ったときは著者については何も知らず、最近の若い教育関係の人かなぐらいに思っていたが、1949年台湾生まれで現在アメリカ在住の画家だった。中国にいる著者としてはちょっと変わってるなと思って、期待して買ったことでは、はぐらかされたが、読み物としては悪くない。最初拾い読みしたときちょっと変わってるなと感じたのは、各章ごとに、まず短い話を紹介し、そのあとに著者の解説がついているという形式だ。著者は 青少年むけに人生の真実を考えさせる本を異なった形式で書いており、この本はそのシリーズの最後の “弁証篇” にあたるのだという。そういえば この本が置いてあったのは高校生ぐらいの客が純情物や武侠物を読んでる売り場だった。形式もちょっと変わっているが、紹介された話と解説が、青少年むけにしてはすこし暗い、というか人生に対する希望を失わせかねない、または人生を悲観的に見せかねない話題が多いのだ。著者もそのことを “人間性の赤裸々な分析の文章があまりに刺激的ではないか”、“未来の社会に対して心に惧れを生じないか” と考え 出版の前に学生たちの反応を調べてみたとある。

紹介されている話は必ずしも著者の創作ではなく すでによく知られている話も含まれている。例えば内戦で台湾に移った兄弟が商売に成功して大陸に里帰りすることになった、兄は貧しい親戚の人達にもれなく与えるため 半年かかって友人のあいだを回って衣類を半年かかって集め、故郷でみなに配った。次に弟が行った。彼は何の準備もしなかった。ただ、皆を招待して食事を振舞っただけだった。その後、親戚のあいだで語り草となったのは弟のほうだった。彼等は宣伝するのだった “自分は台湾に親戚があって、外資系の飯店に招待してくれて……。” なぜ弟は兄とは比べ物にならぬほど歓迎されたのか。それは面子の問題だと。もし贈り物が役に立つようにしたければ面子が立つようにせねば逆効果になるのだと著者は語る。そしてさらに別の話を続ける。大陸で登山した老人たちが登るとき 各自 杖を一本ずつ買った。彼等が下山したとき、不要になった杖を捨てるには惜しいので土地の案内人にやった。そこで驚くべき光景が生じた。案内人達は大声をあげて道端にかけだし杖を樹林のなかに放り捨てた。まちがいはこの老人達にあったのである。もし杖を受け取ってもらいたければ彼等にこう言わねばならなかった。“我々は登山杖がいらなくなった。どこに置けば良いかわからないので教えてくれませんか。” 実用は気持ちと同じではないし、価値は重さと同じではない。

こう紹介するとなんだか道徳の読本みたいに思われるかもしれないが ちょっと違う。もう一つ。会社で自分の上司が みなの前で社長をくそみそにこき下ろしている。この上司は、社長が自分の叔父だということに気づいていない。その後、二度とこんな悪口を言ったら叔父に言いつけてやるぞと思う一方で、上司に対する態度もよそよそしくなってきた。ある日、突然社長が自分を呼び出し叱りつけた。お前は社長との関係を理由にして 上司にたいして生意気な態度をとっているらしいがよくないことだ。以後またお前の上司が何か言ったときに反対するのはゆるされないぞと。彼が上司との対立で負けてしまったのはどこでだろうか。もちろん上司は社長の悪口をいったあと、彼と社長の関係に気づいたはずだ。とすれば 保身のため先手を打って社長に彼の勤務態度の悪さを告げたはずだ。とすれば 彼は上司が社長の悪口を言ったあとどうすればよかったのか。相手が批判を始めたとき即座に社長との関係を暗示すべきだった、いったん言ってしまったあとでは様々な副作用が生じる云々と。

では次のような話は? 監房にいる二人が密に穴を掘って脱獄しようとしていた。隣の監房にいる二人の囚人がおかしいと訴えたので調べられたが発見されなかった。しかしついに隣の監房との関係が悪化して両監房の四人全員が懲罰房にいれられた。懲罰房から解放され四人がもとの監房に戻されるとき、看守は二人ずつの組み合わせを入れかえて もとの監房に戻した。脱獄を計っていた二人は別れ別れになった。脱獄の準備が進んでいた監房では 新たな相棒と組んで脱獄計画が進められていった。ついに抜け道が完成し、二人が穴から監獄の外に出た時、その出口には警備の獄吏が待っていた。そして隣の監房の二人は密告をしたことで表彰された。著者曰く、互いの利益は互いの害に変わりうる。もとの敵対は対話に変わる。利益でつながるなら敵は友人に変わりうる。学校の悪ガキだって風紀委員にさせるとたちまち大人しくなりもとの仲間を取り締まるようになる。彼の位置がそうさせるのだ。だから戦争のあとの懲罰で 前面で殺人をした兵士ではなく、背後の指導者が処罰されるのだ。
と、ここまでくると著者は単なる人生論や道徳の範囲に限定して語っているのではなく かなり広い範囲をカバーしているようにみえる。国際関係まで登場している。孫文は革命を遂行する過程で “駆除韃虜” を唱え “満人” を敵と見なしていたが、いったん革命が成功すると “五族共和” を唱えている。“駆除韃虜” というスローガンは立場であり きっぱり敵と一線を画す二分法であるが、それは “満族の人間” が皆許しがたい悪人だからというのではない。それほど深遠なことを言っているわけではないかもしれない。この本はいずれにせよ青少年向けの読み物なのである。しかし著者は 若者に対して 人生を悲観的に見よといっているのでもないし、世渡りをうまくやれといっているのでもない。やはり中国人らしい発想があちこちに見えるような気がする。私がこの歳になってもこんな本を読んでいて悪い気がしないのはどうしてだろう。もしかすると自分が若いときこんな本を読んでいたら、自分の人生はもっとましなものになっていたかもしれないという思いがするからなのかもしれない。