三枝壽勝の上海通信


上海だより 12月 (2003/12/13)

12月に入って上海の平均気温が 10度を切ったということで冬になったと発表があった。気温から言えば ここの冬は東京や大阪とさほど変わらないはずだが 日本より寒いという人が多い。湿気が高いせいだろうか。ソウルから来た学生が東京は寒いと言っていたから、寒さは気温だけで決まるわけではなさそうだ。みな寒そうに厚着で出歩いているのに 相変わらず半袖で廊下を歩き回っている。そういう私は奇妙な存在なのかもしれないが、手足がつめたくなってもなんとも感じないし平気なのが不思議である。

とにかく相変わらずの毎日だが 寒くなってお湯が沸くのに時間がかかって食事のための時間が増えて ますます切羽詰ったように忙しく過ごしている。電動自転車のおかげで買い物は楽になったが、一ヶ所で買い物を済まそうと遠方の巨大スーパーに行くことが多くなって 時間の短縮にはつながっていない。毎日 自転車の列にまぎれこんで ここの人と一緒に走っているがなかなか順応しない。とにかく秩序がないと感じる。自転車に乗って走っている人達で後ろや左右を確認している人を見たことがない。みさかいなく右折、左折や逆進そしていきなり止まったりする。二人三人で横並びに話をしながら走る、横向いて通りの見物をしながら走る、赤信号で女性は自転車から降りて立っている人が多い。たいていが左右にふらふらしながら走っているので 追い抜くのがなかなか難しい。四人並んで走れるだけの幅でも 二人並んでふらふらしながら道路を占領してしまう。先日は業をにやして間をすり抜けようとしたら両側の自転車の幅が縮まってきた、しまったと思ったらハンドルに両側の自転車を引っ掛けてしまった。一台がひっくり返って大声で怒鳴る、一瞬謝ろうとした瞬間、なんども見た事故の場面が頭をかすめた。ここで時間をとって長引かせてはめんどうだ、えいやっとこちらも何か喚いたような素振りで走り去った。今日も一台引っ掛けそうになって相手の自転車がふらついた。こういう点ではいつの間にかこちらの雰囲気に順応できるようになっているのだが。スーパーでも山積みのリンゴの上に買い物籠を載せて選んでいたら リンゴが傷むじゃないかと店員が怒鳴りながら飛んできた。選んだ野菜や果物などは計りにかけて値段をつけねばならない。ここでも順番に並べと注意された。
この音も無く静かに走る上品な電動自転車だが、どれほど持続して走れるのかためしに市内に出てみた。二時間あまりでのろのろし始める。こうなると重たい自転車と変わらなくなる。それもそのはず 50キロ持続して走れるというのだから時速 20キロで走れば2時間半しか持たないわけだ。遠乗りには向かないしろものであった。

11月の下旬に ここの大学の主催で安徽省の黄山に登山をしに行った。有名な山なのだそうだ。1800mあまりでさほど高いとはいえないが 全山岩でかなり険しい。上海からバスで北に向かって 12時間あまりのところだ。このころは毎日天候がすぐれず雨模様の日が多かったので 果たして上れるのか危ぶまれる状態だった。案の定 上海を出発してからは一日中雨で 最初の晩は見物どころではなかった。二日目の晩は日の出を見るとかで山の頂上近くに宿をとったが その頃まで天候は優れなかった。暗くなりかけてから雨がようやく上がりかけた。山は雨の名残で一面の霧で、強くなりだした風に吹かれて峰から峰へと激しく動いている。気温が急に下がりだした。気づくと上から細かい氷の粒が落ちてくる。目の前の木の枝が見る見るうちに白くなりだした。樹氷だった。空気中の水蒸気があっというまに凍りついて落ちてしまったせいか、明け方の山頂ではすばらしい日の出を見ることができた。山頂から岩だらけの階段の下山はかなりハードだった。二度ほど貧血をおこして階段を転げ落ちそうになった。一時間半から二時間の予定時間を 私だけ二時間半かけて下りた。たしかに中国の自然のすばらしさは さすがである。規模も大きい。おそらく多くの人がかなり語っていて語りつくされているのだろう。私自身についていえば、こういう機会だからついては行ったが 自分から進んで旅行したりあちこち観光しようという気にはあまりならない。

それよりも私にとっては 上海から目的地に行くまでのバスがかなり印象的であった。全員で百人を超す外国人の団体だったから 旅行の計画もかなり綿密でなければならないと考えるのは日本人だけなのだろうか。まず驚いたのは、長距離バスが途中でトイレ休憩をしないということ。昼食のため停まるときは別だが、特別な理由がないかぎり途中で休憩なしに走るのだ。そういえば高速道路には休憩所がなかった。トイレはガソリンスタンドで借りることになっているらしい。そして中国のトイレだから 例によって公開の原則によって用足しをする。長時間こらえていたとはいえ 女性にはなかなか勇気と決断を要する試練であったらしい。といっても そのあとの行く先々が ことごとく同じようなものだから 結局は強制的に順応せざるをえないが。中国式の教育にはあまり時間がかからない。二日ほどで全員順応させられた。それでも男女のトイレが形式的に別れているだけの程度のところでは男性のしゃがんでいる姿を見るのがまぶしいのか 順番待ちの女性が離れたところでたむろしていた。外国人にはちょっとした話題のトイレだが、これも地方によって少しづつ様子がちがうのかもしれない。上海の町中ではあまりそうした話題のトイレを見かけない。北京のほうがまだ根強く残っているのかもしれない。それはそうとして、どうして中国の長距離バスは途中に休憩がないのだろう。彼らはそうした必要を感じていないのだろうか。そういえば引率の中国人は一度もそうしたそぶりをみせてなかった。一行のうちでこらえきれぬ者が途中でバスを止めさせた時は ある農家に入っていったが、農家にはトイレはなかった。裏の畑まで抜けてそこで用足しをさせた。ガソリンスタンド以外には施設がなく、そのガソリンスタンドもたまにしかないとなると、途中にこうした施設はほかには皆無だと考えざるをえないのだが。どうやら中国の高速道路周辺の草むらに入る時には気を付けろというのは このことと無関係ではないらしい。美しい草原は遠くで眺めるもの、まちがってもその中に入りこんだり、ましてやそこに横たわるなどという無謀なことは 夢にも考えてはならないのである。おそらく事情を知らない外国人が中国人の団体と一緒にバスで旅行するのはまだ難しいのかもしれない。外国人の団体旅行はそうした事情を考慮した専門の業者でないとまだ担当できないかもしれない。戻ってからスーパーにいったら老人用のオムツがあるのに気づいた。バスに乗る時こんなのも使っているのだろうか。

上海の中国人の中にも 同じ中国人なのにこうしたトイレ事情がとても耐えられないという人がいる。はたして上海は中国のなかでも特別なのだろうか。たしかに上海は中国の他の地域と違うらしいということは感じられる。家庭ではパソコンがかなり普及していると聞いた。昨年末の発表では上海の平均寿命は八十歳だとかである。その八十歳以上が上海では十六%を占めるという。ちなみに平均寿命の全国平均は七十一歳である。上海はかなり先進的な地域ではありそうだ。そういえば中国の有名な作家 巴金が先日百歳の誕生日を迎えた。現在は病院にいるらしいが、ひところ書斎で本を読んでいる写真が新聞にでていた。彼の主宰する雑誌 『収穫』 も順調に最新号を出した。
長生きといえば有名な張学良も台湾で長生きをした。かれは張作霖とともに日本では評判が悪いが、この大陸では尊敬されているのを知った。彼はかつて東北大学の総長をしていて、一九九三年に東北大学が昔の姿で再出発をするとき総長再任の要請をうけている。そのためにわざわざ大陸から台湾に関係者が出向い張学良に会っているが彼はその要請を辞退したそうだ。

さて上海だが、そうは言っても上海は上海 やはり香港や台湾とは違って現在の中国の体制を支える重要な都市の一つであることには変わりない。最近の新聞に上海の高校生の共産党員が二万八千人で高校生の約十%が党員だとあった。こういう世界は相変わらず変わりなさそうだ。先日ある教官が急病で大学の診療所に駆け込んだ。ところが医療関係者は全員会議中で診察はできないと言われた。毎日その時間には全員で会議なのだそうだ。

そういえば今度の旅行のときある日本人が、旅行の計画や途中でのかなりのんびりした対応を見ながら、しかしここの党員はまったく違っていると言った。彼らは 私たちが街でであうのんびりした人たちとは違って 全てのことがらに対してよく気がつくし てきぱきとした処理能力を備えていると言っていた。そういう人たちでないと党員になれないし 実務を担当し指導をするのをまかせられないというのだ。そうかもしれない。どこでもなげやりな対応しかしないこの世界で どうやらそれらしき人たちは実に細かなところまで気配りがきくのは 今度の旅行でも感じた。が、逆な面もあるような気もする。彼らだけが責任のある行動を許されているのかもしれないと。たとえば帰りのバスのガソリンが切れて補充するのにかなり手間取った。ガソリンが切れたらスタンドで満タンにすればよさそうなものだが、そう簡単でないのかもしれない。そもそも旅行の行程があらかじめわかっているのなら どれぐらいガソリンが要るのか、あらかじめ補充しなければならないかどうかぐらいわかりそうなものだと思うのだが、そうも行かないのかもしれない。運転手はその事情は簡単にわかるかもしれないが、彼にはそのことで行動する権限も進言する権限もないのかもしれない。見ていると一人一人の責任がかなりはっきりしない。というより何かあったときの最終決定権は上級の一人にしかないらしい。旅行の計画書はあるが何か事故があったときに全員で相談するとかいうことは見られなかった。

実際、最初の計画では 途中にある世界文化遺産の一つになっているある村を見学することになっていたのに なぜか直前になって中止になった。全員が案内人に導かれて入場しようとしたとき クレームがついた。理由は分からないが問題が生じたらしい。結局そこで一時間たらず待機したすえ そのままバスに乗って引き返してしまった。全員あっけにとられていたが、途中トラブルがかなり表面化して争っている場面からすると バスが接触事故を起こしたらしい。ただしそのこと自体はさほど大きな事故でなかったらしいのは 運転手は終始運転席にいて我関せずといった感じだったから。どうも接触した相手が公安関係であったこと、そしてその際にこちら側の責任者がなにやら問題を複雑にする発言をしたのかもしれない。というのはバスが引き返すとき彼は人質になって残されていたから。これらのことについては その時もその後も一切の説明はなかった。見学が中止になったということさえも告げられなかった。ただバスがあるところに着いて一時間ほど待機して引き返したという事実だけが残った。人質になった責任者はあとから自動車でかけつけて合流した。示談がうまくいったのかもしれない。同行の日本人によれば それぞれの上部機関に連絡をつけて上層の党の幹部同士の話し合いになったのではないかという。つまり今度の旅行でも 責任者というのは旅行について万事について唯一の決定権をもっているだけではなく こうした非常事態に対応して緊急の対策をたてうるだけの実権を持っている人間ではないかというのである。私にはどれもこれも耳新しいことで 中国での実情をどれほどとらえている話なのかはわからぬが、話をしてくれた日本人は二十年以上も中国と関係がある人だからあんがい当っているのかもしれない。といっても、だから中国はどうだからという気もしない。責任をまかされると生き生きしてくる人が多いらしいから、これは党員になる人柄の問題であるとともに、多くの人が責任を分担できぬ現状を反映しているのはありそうなことではあるが。だがいつものことだが 私はこの国の政治を批判する気は一つも起こらない。というより政治のことに関心をもつ気がない。自分が批判をしても、それに責任をとれる権限と実行が伴わないかぎり 批判などたんなる不満にすぎないだろうという話は以前にもしたような気がするが、それよりも政治の批判をすることの次元の低さを感じているからである。

色々なことからそのことを感じている。前回のべた 宇宙飛行の成功の背景を考えても 政治の世界とは無関係ではないにせよ、違った頭脳所有者の世界を垣間見ることができたように感じた。ちなみに世界の自然科学の有名な著作や論文を啓蒙的に解説した 『閲読大師 自然科学巻』 には 114人の 158著作が解説されており、例によって李時珍のような昔の人も登場しているが、現代の呉健雄、楊振寧、李政道、丁肇中、朱棣文 (以上物理)、張ト哲 (天文学)、李四光 (地球科学)、袁隆平 (生物学)などの業績も紹介されている。私からみれば楊振寧などかなり高度な内容だと思うのだが 通俗的な解説書にでているというのはまんざらでないという気がする。とにかくこの本の各項目にある関連文献を見ると かなり大量の自然科学の文献が翻訳されていることがわかる。別の分野の本では、まだ全部読んではいないが 偶然ぞっき本の店で 『民族主義與転形期中国的命運』 などの 「知識分子立場」 というシリーズを買った。中身は既存の論文を選んで集めたものである。題名に引かれて買っただけで中身には期待をしていなかったのに、なかなかの内容で感心した。漢字圏では民族や国家などの用語の使い方がどうなっているかかなり気になることだが、ここの研究者がかなり 2000年以後のものも含めて西欧の文献などをよく見ていることがわかった。もちろん中にはアメリカ在住の中国人学者のものも入っているので当然かもしれないが 中国在住の研究者でも変わりない。レーニンやスターリンもでてくるが、スターリンは独創的な内容はないがレーニンなどの説を簡潔にまとめてあるとかいうくだりが面白かった。いずれにもせよ政治の世界で中華民族とか中華民族五千年の文化などという言葉をよく目にするが 研究者がそういう軽率な使い方にはまったく組していないのは当然とはいえ この国でも研究者はそれなりに着実に研究をしていることを感じた。
それにしても 韓国ではこういう文献に一向お目にかからなかったのはなぜだろうか。私が知っている民族をテーマにしたものは 大抵が通俗的な用語の使い方に基づいたものばかりだったような気がする。もしかすると 最近の韓国ではもう少し着実な研究書がでているのだろうか。それにしても 韓国では文学の研究者でもかなり政治の世界と近いような発想だったような気がする。研究がいつでも政治などの現実の世界から離れられないようでは独自の研究の世界を開拓できないという気がするがどうだろうか。

本といえば、突然また分野が飛ぶが、最近でた短篇の SFのアンソロジーを買った。この解説で解ったのは 私が日本で見ていたのは 1980年代以前の傾向を反映したものだったこと、80年代前後あたらしい傾向のものが出かかり批判され中断していたが、その後 80年代後半から 94年にかけ新傾向の SFが復活し、現在はその後登場した作家を中心にして新たな段階に入っているということらしい。今回のアンソロジーで興味深いのは 15の作品のうち 畢淑敏 「教授的戒指(教授の指輪)」 、黎雲秀 「父親老 A」 の二つが女性作家によるものだということだ。前者だけを読んだが SFというより純粋な短篇で 多少ファンタジーの要素があるかという感じで悪くはない。作者は現役の医師だそうだ。一般にこの世界では女性がほとんど見られないのだがこのアンソロジーに二人も登場していることでここでの SFの世界がかなり正常な世界ではないかという思いもした。

二十世紀後半には過去の文化や学問に対する反省が大きなテーマとなって登場したにもかかわらず 世界の政治は過去の水準に逆もどりをしているような感じをあたえる。その点で上に述べたこの国での科学への関心の持ち方、民族主義研究のあり方、SFの世界の現状は示唆的だという気がする。どれも 現状の政治とは直接にはつながらない方向で仕事を進めている。ということは現実の政治に批判的な姿勢も表明していないということである。つまりどちらの方向にもせよ政治に積極的に関与する姿勢が顕著にみられないありかたのなかに 着実さと真実さが感じられるのである。それは政治に関係しないから評価しているのではない。たまたま私が興味を引かれ何かを感じたものが そういう性格だったということ、そしてそのことが意味していることを考えさせられたということである。二十世紀後半の話題でいえば ポストコロニアリズムの前に登場したフェミニズムまたはジェンダーの問題があるが、話題の流行性はともかくとして 提出した問題はそれ以前にはほとんど反省の対象とされて無かった 根本的なわれわれの考え方に対する反省のきっかけを与えてくれたという気がする。今回は SFでしか女性の話題は登場しなかったが、この話題と政治の話題をつなげてみるとどうなるだろうか。現実にどのような対策をとれば反省が生かされるのかについては簡単な結論は慎むべきだろうが、女性がほとんど関与していない世界という点では 現実にこうした反省からもっとも遠い問題をはらんでいる世界であることはいえるかもしれない。その点からみても 政治の世界はもっとも次元の低いところに位置しているといえるのではあるまいか。そこで政治の世界、特によその国の政治のあり方に不満を述べることほど次元の低いことはないという気がしている。それは話題自体が次元が低いだけでなく、関心を示す人間の次元が低さを暴露しているような気がする。私が政治嫌いでそう感じるのだろうか。

最近ますます近くの現実に関する関心が薄らいできた。この国の雰囲気がそうさせるのだろうか。たぶんそうかもしれない。この国で政治の世界をみているとますます期待が遠のいて行き、それにしたがってますます思いが遠くに飛んでゆくということなのか。といっても この国では全ての規模が大きいから その規模の大きさを超える規模も大きくなって行くのかもしれない。暴君で知れた秦の始皇帝については映画 『英雄』 がかなり深みのある人間像を提供してくれたように感じたが、現実に存在する兵馬俑坑を見れば 単なる暴君であったはずがないことは想像できる。その兵馬俑坑にも勝るという始皇帝の墓の調査が数十年がかり進行していて ほぼ位地や規模がはっきりしてきた。あれほどの有名な墓であったのに盗掘された形跡がないという。史記によれば中には水銀の江河が大海をなしているとかさまざまな仕掛けで人間が入れぬように出来ているというが、どうやら本当だったらしい。土壌に水銀の反応のある部分1万2千uが規則的な形をしているという。記録に名のあるさまざまな宝物が実際に出土する可能性がある。しかし発掘は慎重に行われるのであと二百年はかかるのだそうだ。二千二百年前の始皇帝の墓の発掘に二百年だから それほど長い時間だというわけでもなさそうだ。しかもこの程度の時間では現在とのつながりがまだ緊密すぎるという気がする。二千年程度では人間の精神世界にはほとんど変化がないのである。この変化のなさが絶望的な気分にする。私には 民族も文学も研究などということも一切ご破算にして根本から考えて見たいという誘惑があるが、どっこい そんなことを許すほど無心にはさせてくれないらしい。最近私には人類がさほどの存在には見えてこない。そこらで抱き会っている男女をみると下等動物とどこが違うのかと感じてしまう。だがそのことだけなら 何も絶望にはつながらない。大した存在でもない人類でいいじゃないかとも思う。下等動物とさほど変わり無い人類がそのことを認めながら この宇宙でどのような存在意義を有しているのかを どのように考えうるのか。てがかりがつかめないのである。