三枝壽勝の上海通信


上海だより 9月 (2003/09/12)

例年になく今年の上海は暑かったという。例年なら暑い日が数日続けば雨が降ったのに今年は一月以上も暑い日の連続という感じだったらしい。八月の末タクシーの運転手が「今日は三十六度で涼しい」となどと言っていた。

昨日、九月十一日は旧暦の八月十五日、中秋だった。今年は特別に見事な 本当に月齢が満月に近い月が見えるはずだったのに、あいにく上海は曇りで月を見ることはできなかった。中秋といえばさすが中国、この時期になるとどこも月餅であふれかえるといった感じだった。すでに八月からスーパーでは ばら売りの月餅が登場していたが これは安物で小さなもの。街にでると一個十元も二十元もする高級品が置いてある。中秋の直前には 老舗のお菓子屋の前には月餅を買うために予約券をもった人が 炎天下に長蛇の列で歩道がぎっしり人で埋まってしまう。整理のため 入り口と出口を別々にして人をさばいていた。何のため月餅ごときものにこれほど熱意を燃やすのか 理解しがたい気もしないではない。もしかしたら この時期里帰りする人が故郷へのお土産に買って行くのかも知れないと思ったが、中秋は休みにならないので里帰りするわけにもいかない。中秋に休めるのは韓国だけだ。だから単なる贈答用なのかもしれない。お中元みたいな習慣があるのだろうか。そういえば 車道も買い物にやってくる車が駐車しているので狭くなっていた。里帰りはしないが、中秋は一家団欒の日だという。家から遠くに離れている人は電話で安否を確かめるのだと言う。中秋から一日過ぎたにすぎないのに 夕方の風が秋らしく感じられるのは妙である。

八月の二十二日ソウルで記念論文集の出版記念会があった。私は関係ないから出席しないつもりでいたが、再三の督促で 結局主張を通しきれず出席することになった。式が終わったあと ソウルから上海に戻った。今年の夏は歯の調子が悪く、その上 二十年 たまったゴミと本の整理で力を使いすぎ 腕を痛めていたので、気乗りのしないソウル行きだったが、行って見て こんなことでも一生懸命に努力してくれた人たちの気持ちと苦労を見ると なんとも申し訳ない気持ちにもなった。式はこじんまりとした規模だったといえるかもしれないが、それでも過去の東京外大留学生と外国人教師の人たちが集まってくれ かなりの雰囲気だった。久しぶりの韓国でしかもこんな席に出席したわけだが、やはりもともと付合いぎらいの私には あまりふさわしくない催しだったのかもしれない。韓国に行ってすぐ感じたのが、すでに かなりの韓国語がとっさに出なくなっていたこと、記念会では人の名前を度忘れして 自分でも当惑した。遠くで見ているとああ、誰々さんも来てくれたなあと思っていながら、そばにくると誰だったか名前が出てこなかった。妙な体験だった。いろいろ努力してくれた人には申し訳なかったが、この日以外は特別席を一緒にすることもなく、酒も一切のまず、食堂での外食もせず、もっぱらホテルの客室で三食をとった。もちろん自炊はできないので 外に出てめぼしいものを探しまわった。そこであらためて気づいたのは 旧ソウルの中心街にはスーパーマーッケットがないことだった。コンビニエンス・ストアはあるが スーパーがないのだ。仕方なく 毎日 ロッテ・デパートの地下に買出しに出かけた。以前は鍾路二街にあった農協のスーパーも消えていたのだ。その代わり 古い旧式の八百屋や果物屋などの店が残っていたが、それとくらべるとコンビニは同じものが一倍半も高かった。ソウルは金が有り余っているのだろうか。それにしても 上海の 私が今いるところはスーパーや市場 そしてコンビニなどあまりにも多いという気がする。一つの道路から次の道路までいくブロック一つごとに スーパーと市場が一つずつあり コンビニがまたその何倍もある。スーパーごとに置いてあるものに差があるので 歩き回ればかなり多様な買い物ができるわけだ。以前にも書いたが 食料品は確かに安い。野菜などの食料品は 東京の十分の一から百分の一の値段だろう。大量の野菜を買いこんでも十元(1元=14円)ほどだ。といっても こちらの生活と東京での生活を比較するわけにはいかない。生活するのに必要なものや 使うものの比率が違うからだ。たしかに基本的な食料品が安いのは確かだが、こちらで すべてのものがその比率で安いわけでもない。もしかすると こちらの都会での生活では 基本的な食料品は生活費の考慮の対象になっていないかも知れないという気もしてきた。本屋で買い物をする人をみると スーパーと同じようなショッピングカートやバスケットを使う人も多い。いちどに何百元の本を買うところを見ると 決して生活がつつましいとも思えない。やはり外部から見ていただけでは 生活のことは判らないという気がする。もちろんこれは都会での話。中国でも僻地の農村地帯では一学期の小学校の授業料50元が払えず就学できない子供が大量にいるという。

ソウルでは街の中心にある大型本屋で 中国語関係の本をのぞいてみた。すさまじい量だ。中国語の本の翻訳が大半といった印象だが それにしても量が多い。中国の原書も少し置いてあったが やはり日本より中国に近いという印象をうけた。ほんの少しの本だったが 置いてある本の選び方が違うのだ。あとから聞いたところでは 成均館大学の近くには大きな中国関係の本屋が二軒もあって かなり大量の本が置いてあるという。そして、もちろんだが値段が日本よりかなり安いという。なぜだか日本の中国関係の本の値段は高すぎる。かつて、パリの東洋関係の本屋のほうが日本より中国語の本の値段が安いと報告されたことがある。そして日本では 中国語の専門店には 原則としてヨーロッパやアメリカで発行されている本は置いてない。これらは 別個に洋書専門店でないと入手できない。日本では中国や朝鮮・韓国の研究者は 国際関係を除いて 西欧の研究を無視する風潮が根強いようだ。韓国はどうなのだろう。日本よりも中国に近いところで大型の本格的な専門店まで出来ているのなら 将来かなりの水準に達することも考えられるのだが。

たしかに韓国人の中国留学熱はすごいらしい。聞くところによれば 2002年度 中国にいる外国人留学生は 175カ国からきた 85,829人に達していて、そのうち韓国人が 36,093人、日本人 16,084人、アメリカ人 7,359人だそうだ。日本人は韓国人の半分にも及ばない。また正式の課程への留学生の内訳では 学部生が 16,309人、修士課程が 2,858人、博士課程が 1,389人だそうだ。受け入れ大学では、北京語言文化大学、北京大学、復旦大学の順に学生が多いという。韓国人が多いのは中国との経済的関係によるものだろうが、しかし将来の中国研究にまったく関係ないともいえないだろう。韓国語文の研究者で 中国と交流する人がかなり多いとも聞いている。学生でも 国文科の学生が中国語学習のためにやってきている。ただ 大多数の韓国人が何のため中国に来ているのか 本当のところはよくわからない。私はこれまで異質な文化を理解することに関係付けて語ってきたが、こういう言いかたをする人が どこにもさほど多いとはいえないような気もする。

それらを受け入れる 中国側はどうなっているのだろう。私にはさっぱり判らない。というより研究者の世界に対する関心がまったく薄れてしまっているし、とくに何か特別な分野の成果を知りたいとも思わなくなっているせいかも知れない。やはり人間関係が一番重要な世界なのだろうか。それにしても 残された文化的遺産は圧倒的な量に達するし、世界の人口の五分の一を占める国だけに どんなことでも可能だろうなという思いもする。最近大陸でも 台湾の長期連載マンガ 王澤作 「老夫子」 の百冊の全集が出版された。マンガの本が割高のこの国で どれほどの読者がいるのか判らないが、それでもすでに映画化もされたマンガだけに 話題であることにはかわりない。大陸で面白いマンガは たいてい台湾か香港のもので、この傾向は武侠小説の場合と変わりが無い。ところがこのマンガ 「老夫子」 が一種の剽窃で偽者だという主張がある。「老夫子」 の題名からアイデアだけでなくキャラクターにいたるまで、そっくり一九四十年代に天津で活躍していた漫画家 朋弟のマンガそのままだという告発である。さらに最近 その朋弟の作品がシリーズで復刻出版された。たしかに朋弟の作品をみると 王澤が剽窃したと訴えられるのも無理はないというほどそっくりである。長年台湾で人気のあったマンガが大陸で知られるようになるや、たちまち原作が暴き出される、というこのことだけからでも、さすが大陸のマンガ愛好家の層の厚さを感じるのだがどうだろうか。しかも何が起こっても一つも不思議でないところにこの国の不思議さがある。

実は 八月からこの上海だよりも当分休みにさせてもらいたいと言っていたのだが、どうも そうもいかないと言われてしまった。あらためて退屈なものを書くなら すでにあるものを使ってもらうことにして、上に述べた出版記念会のことを書いた新聞掲載用の文章を紹介するつもりの序文が こんなに長くなってしまった。新聞掲載用というのは、ソウルで ある新聞社から これまでのことを振り返って なにか文を書いてくれと言われて書いたものだからである。タイミングの問題もあるので 急いで書いてくれと言ったので、出版記念会の翌日の八月二十三日にホテルで打って すぐメイルで送ったものである。ところが 新聞社のサーバーの関係でメイルが受け取られず 何度かやりとりした結果、八月二十六日に先方では受け取る事ができたそうである。その後 いつまでたっても掲載された様子がないので問い合わせをした結果、内容に問題があって 掲載は取りやめになったという回答が来た。この新聞社では 以前にも 私に関係のある記事と 私の文が 上部の検閲に引っ掛かって取り消しになったことがある。今回は そういった内部事情があるかどうかはわからない。どうせ辞書もなしに一気に書いたあと推敲もしていないので 自分でもさほど大した内容だなどと主張する気はない。ただ出版記念会の直後のものだけに その雰囲気がすこしでも関係者に伝わればという気持ちがある。この文の中には、ある人から 複雑でよけいな問題を起こさぬよう削除したらどうかといわれた部分もあるが、そのままにした。私がさほど円満でない人物であり 人に嫌われる発言をするのは いまさらことわるほどのこともなく 周知のことだから、それがどんな風に生じるのか見てもらうのも良かろうという気もする。将来私が円満な人格者になったとき、昔はあんなに違っていたのだといわれるのも悪くないとも思うのだが。
三十年を振り返って (筆者自身による日本語訳)
原文 ) (韓国 Web上での通常のハングル)
原文 ) (上の原文が読めない場合)