三枝壽勝の上海通信


上海だより 7月 (2003/07/11)

こちらに来てからすでに三ヶ月が過ぎた。あいかわらず毎朝市場に野菜を買いだしに行き自炊をしている。毎食トマトを含めて大量の野菜と農薬を摂取している。おかげで体内の細菌も寄生虫も全て絶滅したのではなかろうか。昔、隅田川は汚染でばい菌も住めないと言う冗談があったが。ただ中国の北方の乾燥している地域では トイレから舞い上がった寄生虫の卵が風で撒き散らされ蔓延するそうだから それよりはましだろう。到着した日に読売の記者伊藤氏に夕食をよばれたのを含めて 外食は五六回しかしていない。あとは部屋の洗面所を厨房にして食事の支度をしている。食い物が名物で、ほかに観光名物といっては旧租界以外にさほどない上海で自炊するなど まったく意味のない生活をしているものだと思う。それも仕方がないとあきらめている。近くの店に買い物に出る以外 ほとんどどこにも行ってない。唯一の例外が本屋だが 成果はほとんどない。いかに単純な生活をしているのかと最近つくづく感じる。来た時は桜が咲いていたが とっくに夏の盛りだ。通りにでると生ごみの腐敗した臭いがただよってくる。市場の入り口では その生ごみの山から流れだした液体が歩道に流れだしている。6月の半ばすぎ梅雨に入ったと聞いたが 二週間ほどで終わったのかと思わせるほど晴れた日が続いたが 最近また雨が降り出した。雨は春先の方がよく降ったと思う。それでも梅雨の期間から以後は時々激しい夕立が降る。雷も鳴った。一度 朝市場行った帰りに夕立に降られ全身ずぶぬれになった。

市場では竜眼や茄枝もサクランボウも盛りをすぎた。どこへいってもスイカであふれている。葡萄や桃も出まわっている。妙なのはペチャンコにつぶれたような桃だ。これは蟠桃というものだ。仙人になれるあの有名な果実と同じ名前だが いかにもみっともない格好だ。味は普通の桃と同じで 種は小さくて梅干ほどの大きさだ。通りでは 自転車の後ろに小さな虫かごを鈴なりにぶら下げて走っているのに出会う。虫売りだ。一つの籠に一匹ずつ入れてあり それらが競うように鳴く声がすさまじい。そばに近寄って覗き込むと緑色のバッタ、どうやらキリギリスだ。豫園の屋台でも同じものを売っていたが たしかそこでは <蜩虫> と書いてあったように記憶する。しかしこの漢字はセミのことだ。わからなくなった。それにしてもキリギリスを籠にいれて鳴かして楽しむという風習が残っているのには感慨を覚える。昔角田なんとかという人が日本人の脳の使い方が世界でも特別だということを言っていて、日本人だけが虫の鳴き声をめでることができると言っていたが、はたしてそうだろうか。だとしたら今の中国人の風習は日本の影響をうけたとでも言うのだろうか。しかし明の時代にすでにキリギリスや蝉など虫の写生画があるのだ。虫に関心がなかったとは言えない。日本人はなにかというと自分たちだけが特別だと言いたがる。そして日本が中国に影響をあたえたと言いたがる。剪紙 (切り絵) 、雑技 (サーカス) 、相声 (漫才) には日本の影響があるのだと。それがどうしたというのだ。問題はそれを自分たちのものとして発展させたことではないのか。

鳴き声にもどろう。最近はセミも鳴いている。市の中心の人民広場の近くでも鳴いていた。ときどき耳鳴りと勘違いする、ニイニイゼミのような声だ。そういえば小鳥を鳴かすのもかなり盛んだ。元来北方の風習だというが上海でもかなり盛んだ。朝公園で鳴かしていることは前にも書いたが、昼間でも鳥かごを提げて歩いている人を見かける。バスでも鳥かごを持って乗っている人を見た。気を付けて見ていると、道路でのんびり椅子にもたれている人や将棋を指している人の頭上の並木に鳥かごがぶら下がっている。なるほど路上の人々のすこし上方に視線を向けると さまざまなものがぶら下がっている。ふとプラタナスの並木を見上げると 長いモップが枝に干してある。なぜだか枝にかけてぶらさげないで横向きに挿すようして置いてある。ほかでも同じように干してあるのを見たことがあるから習慣なのだろうか。最初みたとき、なぜあんな高い所にモップが置いてあるのか奇妙に思った、誰かがいたずらで放り投げたのが枝にひっかかったのかとも思った。そういえばアパートの窓からはそんなふうに干し物竿が水平に道路に向かって突き出ている。狭い路地では両側の家の壁のあいだに干し物竿が渡されている。別に住宅地でなくとも干し物はいたるところでみられる。並木の高い枝にも干し物がかかっている。電柱から家に引き込む電線にも、電話線にも、工場の囲いの金網にも、門の鉄格子にもいたるところに干し物がかかっている。このゴミゴミした街中であんなふうに干したのではかえって埃だらけになりそうに思われるのだが。

いまごろになって気がついたが空気はかなり悪い。いちど公安に行く事があって 自転車でいったら喉が痛くなって 三日は痛みがとれないどころか鼻の粘膜までおかしくなった。からだの調子がモムサルのごとくかなり悪くなった。バスやオートバイの排気ガスを散々浴びて吸い込んだからやられたと思っていたが、どうやら空気がかなり汚染されていたらしい。ある人が ここの人は毎日太極拳で体を鍛えているけど、空気が悪いから長生きなどできないさ、と言っていた。しかし街を歩けばいたるところで見るのは年配の人だ。若者は受験勉強で忙しいのかもしれない。たしかにここは老人天国だ。バスで携帯を長々とかけているのも年配のおばさんだ。春先にそれほど気にならなかったのは雨が降るか風が吹いて空気が比較的ましだったからだろうか。たしかに私が喉を痛めた日は、その前しばらく雨も降らず 風もない日が続いたあとの絶好の天気だった。こういう時に外出してはいけなかったのだ。外出は雨が降った直後か 風の吹いている日に限るのである。まるで幽霊だ。春きた時には よく雨が降るから 空がいつも曇っているのだと思っていたが、そうではなかった。あれはスモッグだったのだ。汚れ方がひどい。喘息だったら直ぐに死ねたかもしれない。青空に太陽がさんさんと照りつけるという南国のイメージとはほど遠い。そういえば台北でもほとんど青空を見なかったが、あそこではほんとうに曇りで雨ばかり降っていた。これほど空気が汚れてしかも暑い街路では、店番の人がデッキチェアにもたれて裸で寝そべったり将棋をさしたりしている。トランプもかなり盛んだ。客の来ない美容院のなかでも店員が二人でトランプをやっていた。そしてさすが中国だと感心するのが、道路でマージャンをやってる人がけっこういることだ。いせいのよさそうなおばちゃんが路上でマージャンやってるのを見ると、ここの女性には絶対勝てないなと感じる。まだ碁を打っている人は見たことない。それでも花札一色だった韓国に比べると多様だ。そういえば彼らの頭上で鳴いている小鳥はガス探知のためなのかもしれない。有毒ガスは上空から地上に降りてくるのだ。そういえば非典 SARSに関する笑い話に 「SARSのビールスは地上60センチ以上でしか生息できないから皆地上を這って歩くようにWHOが指示を出した」 と言うのがあった。

外に出てこのごろ妙に感じるのは、来た当時目にとまったものが最近は見えなくなり、最初気にならなかったものが見えたりすることだ。見えるものと見えないものなんて言うと著名な哲学者の遺稿集の題名みたいで気が引けるがあんな深遠な話ではない。来た時このくすんだ都市にはあまりきれいな女性がいないなと思っていたが最近はけっこう美人が多いじゃないかと感じるようになってきた。はたして同じ人を見ても感じ方が違って美しく感じるようになったのか、美人が出没する地域も歩くようになったからなのか判らない。前者だとかなり危険だ。どんなものでも慣れると美しく感じるというのでは悲劇だ、人生が寂しくなる。だが人の心はみかけの美しさとはずれがあるものだから、ここの人の心が感じられるようになったとも思いたいものだ。最初ここの女性はスカートをはかないでみなスラックスばかりだなと思っていた。今見るとけっこうスカートの女性が多い。私が今いる中心からはずれたこのあたりでもけっこうスカートの女性が多い。タイトもある。韓国ではタイトをみたことがない、マキシかミニだった。なぜ最初は感じ方が違っていたのだろうか。上海の街並みのごみごみとしてくすんだ色彩に圧倒されていたのだろうか。みえるものとみえないものには先入観が作用しているのだろうか。

私はできるだけ色々とそのままの姿を受け入れようと思っていたが 先入観や習慣的な感じ方が作用していたのだろうか。といっても自分と違っている行動をするからといって反感をおぼえたことはない。自分と関係ない事まで見て腹を立てる人がいるがそれはない。いまのところ、いろいろな摩擦はさまざまなことを学ぶことに繋がると興味深く感じられる。おそらく自分の行動が抑制されたり妨害されたりしたとき反発を覚えるようになるかもしれないが、いまのとこそういうこともない。まだそこまで慣れていない。路上で痰や唾を吐くのも気にならなくなったというより、ほとんど見えなくなった。気をつけて見ればけっこう唾を吐き散らす人は多い。最近はそのしぶきをかぶっても気にならなくなったのだろうか。そういえば自転車で狭い路地を通り抜けているとき上から水が降ってきた。どこかの二階の窓からコップの水を捨てたらしい。意識して狙ったのではないから偶然だろう。ほかにも歩道を通っている時 店のひとがうがいの水を吐いたのが額にかかったこともある。本人はきょとんとした顔をしていたからやはり偶然だろう。他人を気にせず水を吐いても大抵めったに人にかかる事はない、偶然そこに人がいることのほうが少ないにきまっている、たまにしか起こらないことだ。上から冷蔵庫やゴミ袋が落ちてきたわけじゃないし、いいじゃないか、算了。慣れというのは結構あるものだ。いまでは歩道に自動車が入ってきてもおどろかないし、反対向きに自転車やスクーターがやってきてもなにも感じなくなった。しかし彼ら同士で必ずしも問題がないというわけでもないらしい。路線をはみだした自転車にタクシーが側面からぶつかってきて跳ね返しているのをみた。自転車が反動で転びそうになった。あぶないことだ。

かわりに見えてきたものはなんだろう。そういえば暑くなったから着ているものが軽装になったのは当然だが、どうみてもパジャマかネグリジェにしか見えないものを着ている人が目立つ。男性でも女性でも近所の市場に来る人の中にはけっこうそんな服装が多いので、普段着なのかと思っていた。ある人によれば、中心の繁華街や観光地の外灘でもあのかっこうで歩いているという。なぜあんなにパジャマそっくりな服を着ているのだろうかと思っていた。しかし実は、そっくりなのではなく本当に寝巻きなんだそうだ。寝てた時のままのかっこうでそのまま外出するのだという。彼らは寝ている時着ていたものを着替えずに外に出る事をさほど気にしていないのかもしれない。ということは逆に昼間着ていたものを脱がずに寝ることもあるということなのだろうか。私はむかしそんな生活を長く続けていたのでさほど違和感がないが、大量の人間がそんな生活をするというと妙に感じる。だがしかし、そういえば昔日本でもまだ和服がはばをきかせていた頃は浴衣で外にでたが、あれは寝巻きにもなった。浴衣はいいがパジャマやネグリジェでは違和感を覚えるということだろうか。そういえばこれも昔のはなし、修学旅行の女子学生が温泉地でネグリジェ姿で歩き回っていると新聞で非難されたことがあった。こういう非難の風土がなかったらいまでもネグリジェやパジャマ姿で近所を歩き回る姿がみられたのだろうか。明治政府発足の当初お召し馬車の御者の制服を決めたとき 最初の案ではパジャマだったという話が伝わっている。けっこうモダンでスマートに感じたのかもしれない。日本ではいつの間にか家の中でだけ着るものと外でも着られるものが別れてしまったのか。

中国での習慣で日本人が違和感を覚えるものには 他に朝食を外食で済ますとか、皆が見ている路上で食事することがあるが、ここではどうなっているのか判らない。ただ朝仕事に出る人が歩きながらパオズをほおばっているのにはよく出会う。台北では朝パオズやチェンピンの店に家族で食事しに来ていた。ほかにかなり抵抗を覚えるのは互いに姿の見える便所。ここでの有料公衆便所は個室になっていたようだが、それでもドアは別なのに入ると同じというのがあった。しかし便所といってもかなり多様だ。座りかたひとつでも 小学校などにあったような横並びに低い塀に腰掛けるようにして用足しするタイプもあるそうだ。年とってからでは絶対あんなのに慣れるのは難しそうだ。いつごろから日本と中国がこれほど違ってきたのだろう。

路上といえば前にも物乞いが多い事を書いた覚えがある。そのことで奇妙なことに気づいた。近くでよく出会う少年は足が使えず、車のついた板に寝て移動するか這って動いている。彼の右足は後ろに折り曲げられ、かかとが肩にかかっている。股の間接をはずして足をうしろに回して担いでいるみたいに、背中にぴったりくっつけている格好だ。はじめかなり不自由な体だと思った。それでもかなり広範囲を動いている。と思っていたらどうも一人ではなさそうだ。おなじ格好をした人はどうやら一人ではなかった。というのは市の中心の繁華街では同じ格好をした少女をみたからだ。これは何を意味しているのだろうか。どうやら人為的に何かの処置をしたのではないだろうか。と思ったらちょっと妙な気分になった。私はこうした人たちの世界を知らないから 何かの機関がどこかで関与しているのか それとも別のなにか理由があるのか分からないが、このことに気づいてからかなり残酷さを感じた。

いつまでたっても慣れないのがここの人の言葉だ。中国には多くの方言があるから上海語はその一つにすぎないはずだが実際はどうもそれだけではなさそうだ。上海語のことを書いた本を覗いて見た。もちろん言語学の本ではないし、文法の本でもない。上海語の実例を材料にしながら書かれた随筆のようなもの (らしい) 。その最初の方に、どこの地方にもそれぞれの特色があってどこどこの七不思議のように言われるが、上海でそれにあたるのは上海方言だ。上海人はどこへいっても上海語を捨てない。ほかの地方の人間は北京では言葉の上ですぐ同化するのに 上海人はどこまでも自分たち同士の言葉で生活するといったようなことである。海外でも同郷とわかるとどんな見知らぬ人、身分の違う人でもたちまち心が通じ合ってしまう。各地方の郷土気質を書いた別の本には、北京の人は政治好き、上海人は打算的というとあった。そういえば食べ物でも北京が麺やパオズ中心で料理が塩辛いとすると、上海は米中心で料理は甘いという。たしかにスーパーでの食品に甘いものが多い。粽 (ちまき) を買って食べたら肉が入っていると思ったのにアンコでうんざりしたことがある。八宝飯もアンコいりだ。この対照はまるで東京人と大阪人みたいだ。どうしてこういう傾向になるのだろう。そういえば上海には関西から来た人が多いのもこうした気質的なことも関係しているのだろうか。といっても彼らが特別自尊心が強いというわけでもなさそうだ。みな気の好い感じだ。

私はまだ普通語もしゃべれないので買い物でもたいてい無口だが、それでも買い物の金額の数字はほとんど指文字ですますことができるので問題ない。特に韓国語を知ってるものは一と二をよく混同するので 確認のいる時がある。しかしこちらがいくら無口でも、彼らは一生懸命まくしたててくる。一体何を喋っているのだろうか。一度はレジのあんちゃんが若かったので、普通語で私の買った肉が一つは普通のハム、もう一つは辛いものでそろってないがいいのかと注意してくれた。かなりおせっかいで親切みたいだから、皆買ったものについて何か言っているような気がする。自転車を押して歩道を歩いていると しきりに後ろから何か言ってくる男がいた。何か自転車について言ってるらしい。こちらがきょとんとしてると 盛んに何か確認を要求しているような身振りでもある。外国人で言葉が聞き取れないというと途端に 外国人か、台湾か? 香港か? と聞いてきた。まるで70年代の韓国みたいだ。あのときは日本人というと途端に日本人か、故郷はどこだ、慶尚道か? 全羅道か? と聞かれた。やはり上海語は特別なのだ。なぜ上海語を喋る人たちが独特の気質を発揮するのだろうか。これは彼らの言葉を習得して彼らの生活のことがわからないと理解できないのかもしれない。といって、わかったからといって 何か特別なことが発見されるわけでもないのかもしれない。大阪人の言うことが判ったからといって 彼らが特別なにか貴重な思想を持った集団というわけでもなさそうだ。ただ東京からみると大阪はあつかましくて自己主張が強すぎるということになるのだろう。そして互いに折り合わないという結果が落ちだ。これは言語の問題ではなく社会的な環境の問題だろうか。韓国でこれにあたる頑固な言語習慣を持っているのは慶尚道だ。この場合、日本との対応では高低アクセントのある言語として 関西方言と対応する。しかし彼らはこんどは北京や東京のように政治好きで自尊心が強い。どうも対応の仕方が韓国は妙にくい違ってくる。路上を歩いている限り、こんなことばかり並べ立てるのが落ちでしかない。彼らの住宅に入っていくわけではないのでその限りではほんのうわっつらのそのまた一部でしかない。

ところで実は、私はむかし上海の労働者の家に一度行った事がある。今から30年以上も前のことだ。もう亡くなられた九大の越智先生などと一緒に敦煌に行ったことがある。その行き帰りに上海に立ち寄った。上海の見物をするほど長時間いたわけではない。確か行きに寄ったときだったか、夜宿舎を一人出てみた。あとで添乗員に怒られたのではないかという記憶もある。様子もわからぬ夜の上海だったが、不安は何も感じなかった。本当は気を付けねばならなかったのかもしれないが、当時の私には自分の身の安全を考えるなどという気持ちは一つもなかった。当時はどこも三交代労働をしていた時代で街が完全に活動を止める時はなかったから、夜中でも市電が走っていた。といっても宿舎の近くは何もなかった。真っ暗というわけでもなかったが それでも店も何もない暗い街に一人で出て行った。路上を歩いていると ふと出会った若者に話しかけられた。日本語だった。何を話しかけられたか記憶にもない。話をしているうちに彼の家に行こうということになった。当時は中国人が外国人と接触するのが許されていなかった時代のなごりが残っていた。彼は日本語を3ヶ月習ったというが、かなりよく喋れた。途中党員のアパートだという所を過ぎる時には様子を窺い、誰も見ている人がいないことを確かめてから路地に入った。彼の家といってもアパートのようなところは、さほど広くなく 壁際に椅子がいくつかあった。それ以外は記憶にない。かれの母親だか祖母だかが居た。全部で9人家族だという。こんな狭いところにと驚くと、彼は頭上を指差した。天井はなく吹き抜けで壁に寝台が取り付けてあった。まるで空中に浮いているような感じだ。それでも9人分には足りないじゃないかというと3交代で働いているから全員が同時に寝ることはないのだと言った。スイカの種を食べて戻ってきた。翌朝彼は奥さんと赤ん坊をつれてわれわれの一行を見送ってくれた。いまではその赤ん坊も三十台半ばのはずである。まるで夢の中か物語の断片のような記憶である。その時は暗澹とした感じを受けたが、はたしてどうだったのだろう。彼らは彼らなりに希望を抱きながら生活していたのだろうか。

その後の非典についてはおそらく御存知だろう。こちらでは 「隔離病棟」 という挿絵入りの小説が出た。一段落したということだろう。そして笑い話を集めた本でも非典特集が出ている。題して 「笑対 SARS ― 戦勝 “非典” ユーモア手帳」。ただし全冊特集ではなく非典に関する笑い話は350ページほどのうち初めの方の50ページだけだ。さすが中国だと思うのは古典や歴史上の人物をもじったものがかなりあることだ。 「白蛇伝」 「梁山泊と祝英台」 「覇王別姫」 「西廂記」 「曹操」 「蘇東坡」 など。たとえば 「白蛇伝」 は書生許仙と白蛇の精 白素貞との愛情物語で、白素貞は効き目のある薬を提供して許仙を助けていたが、僧 法海に見破られ法力で雷峰塔に閉じ込められてしまう話だ。これを記者 許仙と薬剤師 白素貞そして製薬会社の幹部 法海と変え、白の薬の独占販売を拒否された法海が恨みで白素貞を隔離してしまうが、許仙は非典の感染が怖いので黙認してしまう。小青に助け出された白は許と離婚し 白衣の天使として活躍するというお話にしてしまった。そのほか映画 「英雄」 の一部のせりふをそのまま使ってパロディにしているのもなかなかよく出来ていると思うが、もとの映画を知らないと面白くないだろう。 「英雄」 は一回みただけではストーリーがわからないほど難しく思われるが、かなり良く出来た映画だ。物語は秦の始皇帝とそれを狙う4人の刺客の話で、出身を偽り始皇帝に近づき暗殺を企てるが、結局はたせず殺される 「無名」 が物語の中心である。中国では解説書もいくつか出ているように、関心が高い。幻想的な画面と武侠映画の手法をとりいれたスケールの大きな作品でかなり楽しめる。パロディは、無名が秦の始皇帝に近づいて咳で始皇帝に非典を移す。始皇帝は死ななかったが後遺症が残ったというお話にしている。