三枝壽勝の上海通信


上海から (2003/04/11)

退職にあたっては皆さんにお世話になりました。ばたばたしながらも無事到着しました。まだ来て一週間で報告することはさほどありません。日本での疲れもまだ回復してないので簡単にします。

4月3日に日本を発った。出がけにメイルをチェックしようとしたら、前の晩ディジタルカメラからの取り込みを失敗したのが原因なのかパソコンがモデム故障とでて作動しない。フロッピーの資料をハードディスクに移して行こうと思ったらそのフロッピーがみつからない。そしてニュースでは小田急が珍しく人身事故で不通だと告げる。踏んだりけったりだった。あわてて京王線の駅にかけつけた。パソコンは成田空港までのスカイライナーのなかで正常らしいと判ったが、一時はどうなるかと焦った。フロッピーについても、その後もとの同僚が研究室の机の引き出しから置き忘れたのを見つけてくれたという。

上海空港の入国審査はあっけないほど簡単。荷物の検査などない。ただし人民元の持ち出しが厳しく禁止されていて出国のとき捕まることがあるという。空港のリムジンバスの横に <巴士> と書いてあって台湾と同じだということを知り感慨にふける。卒業生が会社の車で出迎えてくれ空港から市内までやってきて大学の宿舎まで来た。雨模様の夕方でどこがどこだかわからない。途中の印象では古いものと新しいものが混然と同居している感じだった。台湾では市内を除いてそれほど新しく進んでいる感じはなかったが ここでは市内にはいっても近代的な建物の横にスラム街を思わせる建物が並んでいる。古いアパートの窓からつき出ている干し物用の竿が印象的だ。かなり高い窓にもついている。

最初は何もわからないのでコンビニや食堂を使って食事をしたが不味い。そこで外食は2回で打ち切り自炊にきりかえる。近くにスーパーや市場が数箇所ある。中国の炊飯器は蒸し器にもなるので便利。安物を買ったが頭のなかで日本円に換算していたら、うっかり値段の 10倍も金をだしてしまって店の人や客が大騒ぎした。しばらく自分の間違いに気づかなかった。米は市場で黒竜江産のものだというものを3キロ 11元で買った。スーパーで売ってる米が5キロ 12元程度だからかなり高級だ。炊きたてはかなりうまいが、保温にするとたちまち味が落ちる。ただし弾力があって 炊き方を工夫すれば食べられそうだ。まな板は白頭山の木でつくったとかいうもの、包丁は中華料理屋の調理場で使っているすさまじく幅の広い勇壮なもの、うっかり落とすと足首から切り取られそうな感じ。はでな音をさせてまな板をたたくようにして使うとストレスが解消する。共同施設で冷蔵庫も炊事場もさほど便利ではないので 毎日買い物は一日分だけを市場で仕入れる。並べてあるものを手にとってはかりにかけて値段をはらう。野菜はやたらに豊富。最初の日は値段も聞き取れずにとまどったが最近はまけてくれるようにもなった。と言っても もともとかなり安い。しかも金を出し間違えると返してくれる。よく騙されるという話をきいていたが大分様子が違う。市場のおばさんたちはやはり陽気だ。スーパーが日本にくらべてかなり安いが、市場で買うともっと安い。肉も含めて一日の食費は300円にならない。さすが魚はほとんどが生きて動いているものなので まだ買う勇気はない。こちらでまだ見てないのは牛肉と料理用のアルミホイル そして固形のヨーグルト。肉は鶏肉と豚肉と羊だ。毎日一日分の買いだしをしてきてから不便な環境で自炊をしてるので、ほとんどの時間がそのために消えてしまう。早朝 市場の入り口にある屋台で薄く焼いたピンデトックのようなものを並んで買ったり、包子を買って食べることもある。

まだ遠出をしてないので中心街の様子はまったくわからない。大学には書店がない。本は食品にくらべるとかなり高い。野菜を一塊買っても3元なのに本は 20元とか 50元とか値段がついてるので 一般の人が本を買って読むのはかなりの余裕がないとだめという気がする。安物のぞっき本でも7元とか8元からだから本はぜいたく品なのだろう。ただし物価の全体がわからないのでなんともいえぬ。スーパーで売ってるものを見る限りではかなり高い感じもする。しかし中国とくに上海は貧富の差がかなりあるということなので、ここの人の平均的な生活というのは意味がないかもしれない。まだ往復歩いて一時間程度の外出しかしてないが、道路はでこぼこ。歩行者が信号を守ることはない。大きな交差点でも平気でわたる。渡るときも走らない、悠々と歩く。物乞いの人がかなり多い。たいてい年配の人だ。それでも特にのんびりしているというのでもないし、かといってせかせかしてるようでもない。通りを歩いている男性の頭をみると風呂など縁がないし洗髪などしたことないようにみえる。道路を走っているのはバスやタクシー以外はやはり自転車が多い。北京ほどではないようだが、それでも赤でとまると数十台にはなる。自転車の後ろにリヤカーをつけたような荷車はかなり多い。廃品回収の車は鈴を鳴らしているが その鈴の形がいろいろだ。スクーターは少ない。この点ではスクーターで溢れかえっている台北とは違う。そのかわり自転車に発動機を付けたような車がある。テレビのニュースによれば警察用に改良したものもあるらしいが、それには前に買い物籠がついていた。警察が集団で買いだしに行くわけないから 単なる荷台なのか。昔なつかしいサイドカーにも出会った。警察か軍専用らしいが、そこに座っているのが年配の女性の上官というのが中国らしい。自転車の後ろの荷台をすっかり囲って子供用の座席をつけたのも見た。女性といえば、歩道をこちらに向かって歩いてくる背広姿の年配の婦人が手鼻をかんだあと、かなり はでな手振りで撒き散らすような動作をしたので思わず歩道を降りて車道に避けた。その歩道の舗装をしている労働者は しゃがんでレンガを並べたり木槌で叩いてはめている。そういえば広大な空き地に塀をたてるのに同じように しゃがんでレンガを積み上げていた。おそらくここの人たちの生活からみれば今かなり変化が起きているのかもしれない。中国全体で一日平均 700人の自殺者がいることから精神的にもストレスが多いと聞いた。しかし人口当たりの平均にして日本より多いのか少ないのかはわからない。もしかすると特に多いわけでもないかもしれない。

ここに来て回りの様子をみていると文学なんぞ一体なんの意味があるのかと言った気になってくる。魯迅が昔なげいたとかいうことだが、そんなモダニズムの姿勢も果たして意味があったのかどうか。言葉でいえば上海は方言特別だというが、中国じゃ どこだって地方ごとに言葉が違って互いに通じないとか、漢語といわれる普通語は全国共通だが、その口調から出身地が推測できるという。普通語というのは中国が近代国家として成立するための必須の道具だ。統一された言語が近代国家の存在条件であることはここでも例外ではないが、それがかくべつ如実に感じられる。そんな様子を見ながら方言と普通語、方言と標準語という言い方にも疑問を感じてきた。方言というのは地方ごとの言葉という地域の概念を含んでいる。そしてそれに対して中央語の存在が暗黙のうちに前提されているかのような言い方だ。だが中央語などどこにも存在しないし、標準語または普通語がすなわち中央語だという考え自体が近代的でないような気がする。一見各地方ごとに個別に存在する方言という言葉も考え直したほうがよいのではなかろうか。なぜかというと台湾でもここでも 日常ここの人たちが使っているのはその方言、地方語と呼ばれるものだが、それは普通語または標準語を単に翻訳したものとは明らかに違っている。なにが違っているかというとその機能である。方言といわれるものは生活の言語だ。標準語または普通語が近代国家を維持するための機能を担っているとすれば、方言は日々の生活をささえる言語なのであり、そもそもその機能が違っている。だから普通語を使うか方言を使うかというのは二者選択の問題なのではなく機能の違いを語っているのだ。たとえば小説をみても中国では普通語が基準になっていて 方言でのものはすくなくとも特別な目的をもったもの以外では採用されてない。たいていは登場人物の会話に使われるのだ。だから普通語または標準語というのは言い換えれば政治語または文化語であり、方言は生活語ということではなかろうか。将来も方言だけで書かれた小説が登場しないだろうという予感はそれを裏付けているし、もしそうした方言だけで書かれた小説が登場するとすれば すでにその方言と言われるものが方言でなく政治語または文化語としての機能を担い始めた背景があるはずである。単に表記の手段があるとかないとかいう形式的な問題ではないだろう。

頭を使う習慣が薄れてしまっているので今回はこれまで。

2003.04.11夜
三枝壽勝